披露宴会場に新郎新婦が入ってくる。大勢のゲストが祝福の拍手を送る中、俺もお祝いの気持ちを込めて拍手をしようとした。だが、ウェディングドレスをまとった新婦の顔を見た瞬間、俺の手は固まってしまった。
嘘だろ。なんで彼女がここにいるんだ。
幸せそうな笑顔で新郎の腕に手を絡めて歩く彼女を、俺は血の気の引いた顔で見つめていた。隣に立っていた上司の国見課長が、大丈夫かと小声で話しかけてくる。俺はうまく返事ができず、絞り出すように一言だけ言った。
「あの新婦、俺の元彼女です」
「え、お前が金を持ち逃げされたっていう、あの彼女か」
取引先の専務の結婚式に参列したことで、俺と元彼女の運命がこんなにも大きく変わるとは、その時は思ってもみなかった。
—
「リナ、誕生日おめでとう」
「ありがとう、かず」
恋人のリナの誕生日。互いの予定を合わせて、ささやかながらお祝いをした。ロウソクの刺さったケーキ。ちょっと奮発して買ってきたデパ地下のオードブル。淡いピンク色のシャンパン。そして俺はこの日のために用意した小さな箱を取り出した。黄色いリボンのかかったプレゼントボックスだ。
「これ、誕生日プレゼント。気に入ってくれるといいんだけど」
「本当に嬉しい。開けていい?」
「もちろん」
俺だったらビリビリに破いて開けてしまうところだが、リナは丁寧な手つきでラッピングを破かないように慎重に開けている。こういうところに性格って出るよな。リナの手元を見ながらそんなことを思った。
「わあ、可愛い」
俺が送ったのは、リナの誕生石である8月のペリドットが一つついた、華奢なデザインのブレスレットだった。優しい緑色の石が、穏やかなリナに合っていると思って選んだものだ。気に入ってくれるか心配だったが、彼女の笑顔を見て安心した。
「あまり高いものじゃなくてごめんな」
俺が謝ると、リナはブンブンと首を振った。
「値段じゃないよ。かずがお祝いしてくれる、その気持ちがすごく嬉しい」
そう言って微笑んでくれる。付き合い始めの頃から、リナは俺がプレゼントしたものは何でも喜んでくれた。値段なんかに関わらずだ。まだ社会人になりたての頃にプレゼントした、プチプラというにも程があるようなアクセサリーも、今でも大事にしてくれている。俺にはもったいない彼女だと常々思っていた。
「かず、どうかな? 似合う?」
そう言ってブレスレットをつけた左腕を、少し恥ずかしそうに俺に見せてくれた。ゴールドのチェーンに緑色の石がキラキラと輝いて、リナにとても似合っていた。その時の光景を、今でも思い出す。
本当に幸せだった。その幸せがずっと続くと思っていたのに。
—
今、俺の隣にリナはいない。俺の名前は西中かず。中堅どころの広告代理店で働いている。毎日仕事をして家に帰るだけの日々。それが今の俺の生活だ。
「西な、今週末、看護師さんとの合コンだぞ。天使さんたちとお友達になれるチャンスだ」
昼休憩に入っていた俺に、同僚たちが声をかけてくる。合コンか。話を聞いても、同僚たちのように心が踊らない。
「うん。俺はパスするよ」
苦笑混じりに断ると、同僚たちは残念がりながらも、いつものように軽口を叩いて去っていった。
「かずがそんなに消極的でどうする?」
上司の国見課長が、からかうような調子で声をかけてきた。
「課長、見てたんですか?」
「俺が西くらいの時は、どんな用事を差し置いてでも参加してたぞ。それであんなに素敵な奥様と知り合ったんだからな」
「そうだったんですね。出会いはどこにあるか分からないものですね」
俺がそう返すと、課長はウインクをして見せた。さすがだなと思う反面、心の中は重いままだ。すると課長は、視線を真っ直ぐにして言った。
「どうした? 過去の恋愛が忘れられないとか」
「さすがですね。見抜かれてしまいました」
「まあ、気持ちは分からなくもないが、ちゃんとけりをつけた方がいいぞ」
国見課長の言葉に、リナとの思い出が蘇ってくる。
リナとは友人を介して知り合った。同年代の女性たちとは少し雰囲気が違って、控えめで奥ゆかしい感じのする子だった。服装も清潔感があって好感が持てたし、派手に騒ぐようなタイプではなかったので、付き合うまでにそう時間はかからなかった。
その頃に、リナの家庭が複雑だということを聞いた。父子家庭なのだという。生活が苦しいとまでは行かなくても、お金の使い方に気を使っている場面を何度か目にしていた俺は、それが父との生活の中で身についた術なのだということに気づいた。俺は両親が揃っているし、祖父母も元気だ。お金に困るような場面をあまり経験したことはなかったが、父と娘だけの生活は色々と苦労も多かっただろうと想像できた。
そのこともあってか、俺はすぐにリナとの結婚を意識した。この子となら、穏やかで温かな家庭が築けるんじゃないか。これまで苦労した分、俺がリナを幸せにしたい。一緒に過ごす時間が多くなればなるほど、その思いは強くなっていった。
しかし、転機が訪れた。リナの誕生日にブレスレットを送ったあの日から一ヶ月後、カフェへと呼び出された俺は、深刻そうな顔のリナの様子に胸騒ぎを覚えた。
「お父さんが倒れて、実家に帰ることになったの」
「お父さん、大丈夫なのか? それにリナ――」
「うん、私もお父さんも大丈夫よ。ゆっくりすれば回復するって言ってたから」
「もし手伝いが必要だったら、俺も休みの日に――」
「近所の人も助けてくれるし。かずは仕事が忙しいでしょ。私は大丈夫だから」
俺はリナのことが心配だった。しかし、何を言ってもリナは大丈夫と言い続け、俺が提案した見送りも手伝いも、全て拒否した。その様子に違和感を感じながらも、俺はリナの言葉を信じることしかできなかった。そしてリナはあっという間に実家へ帰ってしまった。
無事に着いたか心配だったのと、声を聞きたいこともあって電話をかけたが出てはくれなかった。しかしメッセージが返ってきて、「電話だとお父さんを起こしてしまうから、連絡はメールやメッセージにしてほしい」と書いてあった。休んでいるお父さんに迷惑をかけてはいけないと思い、それからはメッセージでリナとやり取りをしていた。
そしてリナが帰って数日後、お金を貸して欲しいと連絡が入った。突然のことに驚いたが、普段そんな頼み事をしてこないリナがそういうくらいなのだからと、俺は了承し、すぐに教えてもらった口座へとお金を振り込んだ。少しでもリナの役に立てたと嬉しくなったのを覚えている。
それから半年間、お金を貸して欲しいという連絡は続いた。なかなか回復の気配がないお父さんの体が心配で、俺はその間も手伝いに行くと申し出たのだが、ことごとく断られた。しかし、金の無心の連絡だけは途切れずに入る。最初の頃は怪しむこともなく振り込んでいたが、三ヶ月もすると、お礼の連絡どころか、普段の様子を知らせる連絡すらなくなった。さすがにおかしいと思った俺は、半年間続けていた振り込みを止めた。そうすれば電話がかかってくるかもと期待したのだ。
しかし来たのは、「別れましょう」というあまりにもそっけないメッセージだけだった。直接会って話がしたいと返したが返事はなく、数日後には電話をしても繋がらなくなった。こうしてその日以降、俺はリナと連絡が取れなくなってしまった。
俺は騙されていたのか。それともリナの身に何かあったのか。確かめようにも、俺はリナの連絡先以外何ひとつ知らない。その連絡先ももう繋がらない以上、俺にリナの現状を確かめる術は何もなかった。
—
国見課長に誘われ、飲みに行った先で、俺はリナの話を打ち明けていた。
「西な、お前には酷な話かもしれないが、お前はそのリナって子に騙された可能性が高い」
「ああ……俺もその可能性を考えていないわけではなかったんです」
リナはこちらの住まいやスマホの番号などは明かしてくれていたが、実家や家族に関すること、友人関係などの詳細は教えてはくれなかった。最初から俺を騙すつもりで、恋に隠していたのかもしれない。
「でも、俺は彼女の笑顔が嘘だったって信じられないんです。プレゼントの時だけじゃない。普段の何気ない瞬間に見せてくれたリナの笑顔は、今でも鮮明に思い出せる」
俺の言葉に国見課長は黙っていたが、やがて静かに告げた。
「お前の素直さは美徳だと思うが、現に今、その子からの連絡はないんだ。もう忘れた方がいい。このままだとお前が辛くなるばかりだ。前に進むことを考えていいと思うぞ」
課長は俺のことを考えて言ってくれたのだと分かっている。でも俺はまだ、リナのことを待ち続けていた。ちゃんとした別れを迎えていないからこその未練というやつなのかもしれない。俺はそれだけリナのことが好きだったんだ。
—
いつもよりリナのことが胸に迫る日々を過ごしていたある日、俺は国見課長から呼び出された。
「桜木ハウジングの田島専務、覚えているよな」
「もちろんです。先日も新規エリアに向けた広告プランをお話ししてきました」
桜木ハウジングはうちの会社としても大口の取引先で、国見課長が長年担当している。田島専務とも何度か打ち合わせで顔を合わせていて、俺のことを気に入ってくれているようで、何かとよくしてもらっている。穏やかで気さくな人だが、実はかなりのやり手らしいという噂も聞いている。
「その専務がこの度結婚されるそうでな、俺も招待されているんだが、西も是非一緒にと打診されているんだ。都合はつきそうか?」
「そうなんですか。それはおめでたいですね。是非ご一緒させてください」
俺は二つ返事で了承した。
「結婚式は出会いの場でもあるからな。西も専務の幸せを分けてもらってこい」
国見課長は爽やかな笑顔で笑っていた。出会いは別にいいんだけどな、と心では思いながら、俺も笑うことでその場を濁した。
—
俺は国見課長と共に、専務の結婚を祝うべく市内の高級ホテルへと赴いていた。不動産業界だけでなく様々な業種の人たちが参列していて、専務の人脈の広さに関心してしまう。談笑しているうちに披露宴は始まり、司会の女性が場内へ向けてアナウンスする。
「皆様、新郎新婦の準備が整ったようです。お二人のお顔が見えましたら、どうぞ大きな拍手でお迎えください。新郎新婦のご入場です」
入口のドアに一斉に注目が集まる。その中を、幸せに満ちた笑顔の二人がお辞儀をして入ってきた。会場内に祝福の拍手が響く。俺も田島さんと奥様へお祝いの気持ちを込めて大きな拍手を送る。
しかし、並んで歩く新婦の顔が見えた時、俺は拍手の手を止めた。あまりの衝撃に体が固まったのだ。
なんで、こんなところに。
「おい、西な、どうした?」
俺の様子に気づいた国見課長が小声で訪ねてくる。俺は静かに答えを返した。
「隣にいる人、この前お話ししたリナです。俺の彼女だった人です」
「西な、混乱するのも無理はないが披露宴の真っただ中だ。今は形だけでもいい。拍手して二人を迎えるんだ」
課長はそう言って、だらんと下がった俺の手を持ち上げた。課長の言葉を過ろじで理解した俺は、力の入らない手で拍手を再開した。
その後も披露宴は滞りなく進んだ。新郎挨拶、来賓の祝辞、ケーキ入刀と、主役の二人はもちろん、参列客の誰もが祝福モードで、場内は幸せな空気で満ちていた。俺一人を除いて。
途中で帰れるものなら今すぐ帰りたい気分だったが、さすがにそんな礼儀知らずな真似はできない。国見課長に励まされながら、なんとか今日一日を乗り切ろうと気持ちを奮い立たせた。
食事が始まり、歓談の時間がスタートした。俺はさすがに食事をする気分にもなれず、国見課長にトイレに行くと伝えて席を立った。課長は「一人で大丈夫か」と声をかけてくれたが、子供のようについてきてもらうわけにもいかない。課長には食事を楽しんでくださいと返し、俺はふらつきそうになる足に力を入れて会場を出た。
トイレを済ませたものの、足取りは重い。もう少し時間を潰そうとフラフラ歩いていた時だった。
「え……かず?」
後ろから聞こえた声。この声は、久しぶりに聞くリナの声だった。俺は振り返った。そこには、純白のドレスを身にまとった美しいリナの姿があった。
「リナ……久しぶり」
待ち望んだ再会が、ウェディングドレス姿で、俺じゃない人との結婚披露宴だなんて。笑ってしまうし、文句の一つでも言いたくなる。でも、元気そうなリナの姿を見た瞬間、俺の心に浮かんだのは安堵だった。元気そうでよかった。少し痩せたように見えるけど、それはきっと今日の日のための努力の結果だろう。とても綺麗だった。
俺がぼーっとうろついている間にお色直しの時間になっていたのだろう。リナの隣には親族らしき女性が付き添っていた。俺はその人にも軽く会釈をして、リナに言葉をかけた。
「今日はおめでとう。リナもリナのお父さんも、元気そうでよかったよ」
俺の言葉に、リナはキュッと唇を噛んだ。
「……元気そうね。私と別れて正解だったでしょ。良かったわ」
そう言うリナの顔は、何というか、悲しそうというか、苦しそうにも見えた。先ほど会場で見た幸せそうな笑顔から一転したリナの様子に、俺は心配になった。元彼とこんなところで再会したのだ。リナもきっと混乱しているのだろう。俺と同じように。
付き添いの女性もそんな様子を気にして、リナに「大丈夫?」と声をかけている。時計もチラッと見ていたので、時間のことも気にしているのだろう。俺はこれ以上引き止めるべきではないと判断して、その場を去ろうとした。
その時、怒鳴り声が響いた。
「おい、何をグズグズしているんだ。専務様を待たせるんじゃない」
リナが歩いてきたであろう方向から、モーニング姿の痩せた男性がやってきた。リナも付き添いの女性も、ビクッと肩を震わせる。
「お父さん……ごめんなさい」
リナがその男性に謝っている。この人がリナのお父さんか。随分と威圧的な人だな。優しくて穏やかなリナの父だからと勝手に予想していた人物像とは違い、俺は少し面食らった。しかし、半年前に倒れたというのにここまで声を張り上げられるのだから、体調はすっかり良くなったんだなと安心した。
俺はリナの父親に声をかけた。
「リナのお父さんですよね。倒れられたと聞いた時は驚きましたが、回復されたようで何よりです」
「はあ? お前は……ああ、あの時の」
軽蔑したような顔をしていたが、何かに思い当たったようで、男はニヤリと笑みを浮かべた。
「あの時はどうも。バカなお前が金をくれたおかげで、少し贅沢ができたよ。ちなみに俺はこの通りピンピンしてる。あんな嘘を信じてホイホイ金を出してくれるから、便利だったぜ」
「え……は?」
衝撃的な言葉に、俺は一瞬理解が追いつかなかった。
「しかし、リナからそこそこの会社に勤めてるって聞いたのに、たったの半年しか持たないなんてな。持ってるだけぶん取ろうと思ってたのに。飛んだ期待外れだったぜ」
完全に固まっている俺を見て、リナの父親は笑っていた。
「いや、リナのふりをしてお前にメッセージ送るの、めんどくさかったんだぞ。電話はダメだって言ってんのにかけてくるし、会いたいって気持ち悪いことばっか送ってくるし。毎回笑い転げながら送る俺の身にもなって欲しかったぜ」
リナからの連絡も、金の無心も、全部リナじゃなくてリナの父親が仕組んだことだって言うのか。信じられない事実に、俺は呆然とする以外できなかった。
「かず、ごめん! ごめんなさい! あの時のお金は私が絶対に返すから! 本当にごめんなさい!」
リナが俺に向かって叫んでいる。付き添いの女性も初めて知ったのだろう、驚きのあまり顔が青白くなっていた。
「何言ってるんだ。あの金はあいつがくれたんだ。返す必要なんかない」
「お父さん、いい加減にして! お金だけは私が必ず返すから!」
「リナ、お前、口答えするんじゃねえ。専務様が待ってるんだ。さっさと行くぞ」
そう言うと、リナの右腕を力任せに引っ張り、強引に控室へと連れて行こうとする。だがリナも必死に抵抗していた。その抵抗に、父親がさらに力づくで連れて行こうと力を込めたのだろう、リナが痛がる様子を見せた。俺がたまらず父親の暴挙を止めようとした時だった。
「リナさん、お父さん、どうかされましたか?」
田島専務がリナたちの元へと駆け寄ってきた。時間がかかりすぎていると心配して、様子を見に来たようだった。
「リナさん、大丈夫かい? 腕、赤くなってる。どうしたんだい?」
「ああ、いや、田島さん。リナが転びそうになったので、とっさに私が掴んだんですが、思わず力が入りすぎたようで」
「そうですか。少し冷やした方がいいかもしれないね。すみません、スタッフの方に何か冷やすものをお願いしてきてくれませんか?」
田島はリナの赤くなった右腕を心配して、付き添いの女性に頼んでいた。
「すみません。小さな頃からどんくさくて。これからの生活が父として心配ですよ」
リナの父親は、先ほどまでの威圧的な態度はどこへやら、猫なで声で田島に愛想を振りまいている。その白々しさに、俺は背筋が寒くなった。リナは何も言わず俯いている。田島も何か様子がおかしいことには気づいているようだったが、この状況だけでは先ほどの出来事を推察することは不可能だろう。
「リナさん、もし気分が悪いようなら少し休もう。皆さんには私が説明するから」
「そんな、娘は大丈夫ですよ! そんなことをしたらお客様にも田島さんにもご迷惑をおかけしてしまいます。それでこの結婚が駄目になんてなったら――」
ほら、もう大丈夫だよな、と娘に頭を下げながら、何とかして歩かせようとしている。しかしリナはその場から一歩も動こうとしなかった。
「行くぞ、専務」
そんなリナの様子も、先ほどのリナに対する父親の態度も何も知らない田島を放ってはおけず、俺は声をかけた。
「田島専務」
「おや、君は西中君か。来てくれたんだね。ありがとう」
田島とリナの父親が同時に声をあげる。
「お父さん、西中君と知り合いなのですか?」
「ああ、いや、その……」
田島の疑問に、リナの父親は言葉に詰まっている。
「お父さんとは今日が初対面ですが、リナさんとは知り合いなんです。あの、専務、無礼を承知でお願いしたいことがあります。リナさんと二人きりで話をさせてはもらえませんか?」
俺の提案に田島は驚いていた。しかし、リナの父親の慌てぶりは田島の驚きをはるかに超えていた。
「な、何を言ってるんだ! 娘はこの田島さんと結婚するんだぞ! それなのに、お前なんかと二人になどさせられるか! 大事な時なんだ。邪魔をするんじゃない!」
田島の前だというのに本性が出てしまっている。顔を真っ赤にしながら大声で怒鳴り散らすリナの父親の様子を見て、田島は何か考えている様子だ。
「西中君、私は君のことを信用しているが、お父さんの言う通り、リナは私の妻になる人だ。それでも、今必要なことなんだね?」
田島の問いかけに、俺は真剣な顔で頷いた。
「はい。リナさんには指一本触れません。お約束します」
「田島さん、こんな奴の言うことなど信用してはいけません! リナがこいつに襲われたらどうするんですか? 傷物にでもなんてされたら、この結婚が――」
「お父さん。私は西中君の仕事ぶりも人柄も知っています。彼はそんな野蛮なことをするような人ではありません。それとも、リナさんには西中君に乱暴をされる理由があるのですか?」
田島はリナの父親を鋭い視線で見つめながら問い返す。その圧に、リナの父親はしどろもどろになっている。
「リナさんにとっても、西中君と話すことは必要なことなんだよね?」
隣にいるリナにも優しく問いかけると、リナは顔を上げて頷いた。
「なら、控室で話すといい。近くに待機しているから、何かあったら遠慮なく呼んでくれ。西中君も、リナさんの体調には気を使ってもらえると助かるよ」
「はい。もちろんです。田島さん、ありがとうございます」
俺は田島の懐の深さに心から感謝し、深々と頭を下げた。
—
控室のドアを閉めると、先ほどまで聞こえていたリナの父親の怒鳴り声も聞こえなくなった。俺はふっと息を吐き、リナを椅子に座らせる。右腕の赤みは少し引いてきてはいたが、痛々しかった。
「リナ、腕は大丈夫か? 冷やしながら話をした方がいいなら、専務に頼んで――」
「かず……本当にごめんなさい。酷いことをしてしまった。本当に、ごめんなさい」
そう言ってリナは頭を下げる。
「リナ、本当のことを話してくれないか? 今まで、リナは何に苦しんでいたのか、教えてほしい」
俺の言葉に、リナは瞳を一瞬揺らしたが、ぎゅっと目を閉じた後、俺の顔をまっすぐに見ながら真実を話してくれた。
「お父さんは昔からああいう人だったの。外ではいい顔をするけど、家族に対してはすぐに怒鳴り散らして、物に当たって暴れ回るのは日常だった。お母さんがいた頃は、守られていたからまだマシだったけど……お母さんは、ずっと働き詰めで体を壊して、あっという間に亡くなってしまった。私が高校生の頃だった」
「それからは、私がお母さんの代わりだった。高校を辞めてバイトをして、お金を入れて。こんな生活がずっと続くんだって、人生を諦めてた」
身の上話をするリナは、俺の知ってるリナじゃなかった。とても悲しそうで、苦しそうだった。
「でも、お母さんの方の親戚の人たちの好意で、大学に入れる分のお金は確保できてたの。お母さんからの遺言だったみたい。お父さんは『大学に行く金なんてもったいない』って言ってたけど、バイトをしてお金を入れるっていう条件で、なんとか大学に通えるようになった。それで、そのまま就職したの。就職してからも、お金はずっと入れ続けてた。お父さんに連れ戻されるのだけは嫌だったから」
「誰かと付き合うことも、結婚も、お父さんのことがあるから諦めてた。相手に迷惑をかけるだけだから。でも……かずと出会って、私は知ってしまった。一緒にいて安らぐという感覚を。ずっと一緒にいたい、って思いを。このままお父さんに知られなければ、かずと一緒にいられるかもしれないって。でも、甘かった」
リナの顔が苦しそうに歪んだ。
「帰省した時に、私のスマホを盗み見て、お父さんは私がかずと付き合っていることを突き止めた。そして『そいつから金をむしり取れ』って言われて。抵抗したけど……『かの悪い噂をばらまいて貶める』って脅されたの。かずにだけは迷惑をかけたくなかった。だから、今まで以上に働いてお金を稼ぐから、かずには何もしないでくださいって、必死に頭を下げた」
「家事をする人間がいなくて困っていたみたいだから、『実家に戻ってこっちで就職するなら』って条件を出されて、私はそれを飲んだの」
「だから、いきなり実家に帰るって言ったのか」
「うん。嘘をついて、ごめんなさい」
そう言って、リナはまた頭を下げた。
「実家に帰って、朝から夜まで働き詰めの生活だったけど、これでかずに迷惑をかけなくて済むって、安心してた。でも、お父さんはそれで満足するような人じゃなかった。私のスマホを使って、かずに勝手に連絡してたの。知ったのは、実家に戻って半年が経った頃。かずがもう何回もお金を送ってて、おかしいって気づいた頃だった」
「お父さんには、やめてくださいって何度もお願いした。でも聞いてくれなかった。『金を振り込まないなら、脅し取ってやる』って言い出して。これ以上かずに手出しさせたら駄目だって思って……」
「だから、『別れましょう』って送ったの。そしてスマホを壊して、お父さんが手出しできないようにした。これが、真実だよ」
悲しい顔で、リナは笑っていた。真実を知って、俺は呆然とした。リナの境遇。彼女が家族のことを話さなかった理由。突然の音信不通。俺は、リナにかけるべき言葉が見つからなかった。
「事情を話したところで、謝って済むようなことじゃないって分かっているけど、私には誠心誠意詫びることしかできない。本当にごめんなさい。お金は必ず返します。お父さんも、絶対にかずには近づけさせないって約束する。今までかずを傷つけて、お金を騙し取って、本当に、本当にごめんなさい」
そう言って深々と頭を下げているリナの肩が、震えていることに気づいた。俺はリナを抱きしめたかった。でも、それはできない。リナはこれから田島さんと結婚して幸せになるのだ。慰める役は、俺じゃない。
「もう謝らないでいい。あの時は何がどうなっているのか分からなくて、気持ちをどこにどうぶつければいいのか分からなかったけど。今は本当のことが分かって、なんて言ったらいいのかな……すっきりした。それに、何よりリナのことが気がかりだったんだ。病気で倒れたのかとか、もしかしてお父さんが最悪なことになってしまったのかとか、色々と心配だったから。でも、元気な姿のリナが見れて、安心したんだ。それは本心だから」
あの父親がリナの近くにいることは不安でしかないが、田島さんがきっと守ってくれるはずだ。
「田島さんとは、どこで?」
「お見合いなの。お父さんが知り合いに頼み込んで、『お金持ちと結婚させよう』と画策していたみたいで」
「そうか」
「とてもいい人で、私のことを気に入ってくれたの。お父さんも、田島さん相手には強く出られないしね」
リナの父親の行動には嫌悪感しか湧かないが、出会ったのが田島さんで良かったと、俺は心から思っていた。先ほどの行動を見ても、田島がリナを大事に思っていて、守ろうとしてくれているのが分かるからだ。彼なら、きっとリナのことを幸せにしてくれると思えた。
純白のドレスに身を包んだリナをじっと見つめて、俺は最後の質問をした。
「今、リナは幸せ?」
俺の問いに、リナは一瞬息を飲んだように見えた。しかし、すぐに答えを返した。
「ええ、私は大丈夫。幸せよ」
だが、俺は聞き逃さなかった。リナが「大丈夫」と言ったこと。リナが実家に帰ると言った日、俺が何を言っても「大丈夫」しか言わなかった。その時は気づかなかったけど、リナの「大丈夫」は、相手への気遣いと精一杯の強がりなのだ。その「大丈夫」を、今リナは発した。これはリナの強がりだ。俺はそう確信していた。
だって、リナの左手首には――。
「なんで、そのブレスレットを身につけているの?」
そう。リナの左手首には、俺がリナに送ったペリドットのブレスレットがつけられていた。同じ左手には、当然だが結婚指輪が光っている。今日は晴れ舞台とも言える結婚式だ。リナが着ているドレスも、薬指の指輪も、それ以外の装飾品も、俺が見ても高級品だということが分かるくらい質のいいものだ。だけど、高級品とは言えないそのブレスレットだけが、場違いだった。
俺の言葉に、リナはそのブレスレットに触れる。
「それは……俺がプレゼントしたものだよね」
リナが何か言いかけた時だった。勢いよく部屋のドアが開く。驚いた俺が振り返ると、リナの父親が怒りの形相でリナへと駆け寄っていた。
「おい! いつまで無駄話をしているんだ? 早く式に戻れ!」
そう言うと、リナの左手を掴む。
「ちょっ、ちょっと何を――」
「お前は黙っていろ! なんでよりによって今日なんだ!」
「おい、離せ! それに、お前も余計なことを田島さんに言ってみろ。お前の人生をめちゃくちゃにしてやるからな」
俺のことを睨みつけて威嚇してくる。そして、座ったままのリナを強引に立ち上がらせようと、思いきり手首を引き上げた。その瞬間、リナの手首にあったブレスレットの留め具が切れて、床に落ちてしまった。
「ブレスレット!」
リナは急いで拾おうとしたが、リナの父親がそれを止める。
「こんな安物、もういらんだろ。田島さんに買ってもらえばいいんだ。もっと高くて豪華なやつをな」
「やめて!」
リナはそう叫ぶと、父親の手を振り切り、落ちたブレスレットを拾おうとした。しかし、その手をさらに力づくで掴み、父親はリナを床に押し倒した。
「何をする――」
その後のリナの父親の行動が、俺には信じられなかった。かっとなった衝動だろうか。床に座り込むリナを、自分の娘を、あろうことか蹴り飛ばそうとしたのだ。
「リナ!」
俺はリナを守ろうと、思わずリナに覆いかぶさる。鈍い痛みが背中に走った。俺の腕の中で、リナが叫ぶ。リナの父親が正気に戻ったのか、うろたえる声が聞こえる。騒ぎを聞きつけた田島やスタッフなど数名が部屋の中へと入ってくる。
「どうした? 何があったんだ!」
田島さんが俺のところへ駆け寄る。
「一体どうしたんだ? それに、これは……」
床に落ちた壊れたブレスレットと、うずくまる俺とその背中をさするリナ、そしてうろたえるリナの父親を順に見る。
「お父さん……いや、工藤さん、どうしてこの部屋にあなたがいるんですか?」
「いや、その、リナが戻るのが遅いので呼びに……。そうしたら、この男がリナを押そうとしていたので、仕方なく――」
「このブレスレットは?」
「あ、ああ。きっと、そのブレスレットを盗もうと、こいつはリナに――」
「違います!」
リナが田島さんをまっすぐに見て訴えた。
「違います! 父が急に入ってきて、私を連れ戻そうとしたんです。その時ブレスレットが切れて落ちてしまって、拾おうとした私を、父は――」
「リ、リナ! 余計なことを言うな!」
「もうやめましょう」
田島さんは静かにそう言った。
「田島さん、分かってくれましたか?」
「ええ、とてもよく分かりました」
田島さんの言葉に、自分の立場が好転したと確信し、リナの父親は安堵している。しかし、次の瞬間、田島さんは冷たい声で言い放った。
「この結婚は、やめましょう」
「え?」
部屋にいた誰もが驚きの声をあげた。
「リナさんは、私にはふさわしくない。こんな騒ぎまで起こして。そもそも、この私が十歳も年の離れた子と結婚するとでも? お遊びですよ。結婚ごっこも面白そうだと思いましたが、今日で目が覚めました」
これまで聞いたこともない田島さんの冷たい声が、部屋に響く。俺やリナ、スタッフたちは突然のことでポカンとしていたが、大慌てなのはリナの父親だ。大量の汗をかきながら、田島さんにすがっている。
「そんな! ここまで来て取りやめなんて! 田島さん、どうか考え直してくれませんか?」
「無理ですよ。そうだ。結婚をやめるんです。先日お話ししていた工藤さんへの支援の話も、当然ですが白紙にさせてもらえます」
「せ、せめてお金を! 資金援助だけは!」
「いいや」
「じゃあ! 結婚相手でなくても、娘をあなたの家の使用人として雇ってはもらえませんか? 好きにしてもらって構いませんので!」
この後に及んでも、まだリナを金のための道具にしようとするあの男が許せなかった。だが、それは田島さんも同じだったようだ。
「あなたのような人間無しが、自分の親族にならずに済んで、心からほっとしていますよ」
その言葉と共にリナの父親を軽蔑の目差しで一瞥すると、田島さんは俺たちの方を振り返ることもなく部屋から出ていった。リナの父親は青ざめながら田島さんを追いかけ、部屋から立ち去った。取り残された俺たちは、静まり返った部屋でしばらく無言のまま座り込んでいた。
その後、田島さん側の親族の人やホテルスタッフなどが来て、今日の披露宴が急遽中止になったことを告げられた。突然のことに驚く俺たちに、「今日のことは全てこちらで片付けておく。二人は何も気にせず帰宅してください」という田島さんの伝言が伝えられた。
わけも分からないうちに俺は部屋から出され、国見課長と合流した。リナは着替えのため、女性スタッフに囲まれていた。部屋のドアが閉まる直前、リナが大事そうにブレスレットを握りしめる姿が見えた。
—
後日、国見課長から田島さんとリナの結婚が白紙となったことを聞いた。あの披露宴の後に籍を入れる予定だったため、互いに婚姻歴も離婚歴もつかない形になったようだ。披露宴も途中で中止となったため、キャンセル料や迷惑料、招待客へのお詫びなどかなりの金額がかかったようだが、田島さんの「気まぐれで中止となった」ということで、全ての費用を田島さん側が受け持ったそうだ。
あの日、俺たちの間で起こったことは伏せられたため、俺自身の音沙汰もなく、桜木ハウジングとの契約も変わらず継続している。担当も、正式に国見課長から俺へと変更になった。
そして俺は今、桜木ハウジングにて田島さんを交えて打ち合わせをしている。色々と気になって気が散りそうになるが、なんとか集中して仕事を進めた。打ち合わせが終わった後、俺は田島さんを追いかけて声をかけた。
「やあ、西中君。いい仕事だったよ。君を担当にしてよかった」
そう言って、田島さんは優しく笑っている。
「国見課長から聞きました。担当を俺にするように打診したのは、田島さんだと」
「うん。だって、君の仕事ぶりを評価しているからね。それに、こんな優秀な人材をくみ君だけのものにさせるのは、悔しいからね」
そう言ってカラカラと笑う。
「そう言っていただけるのはとても光栄です。でも、俺は田島さんの結婚を台無しにした当事者です。なぜ――」
俺の言葉を、田島さんが遮る。
「あのブレスレット、西中君がプレゼントしたものなんだよね?」
「え……ブレスレット?」
「リナさんのあのブレスレットのことだろう? リナさんはね、お見合いの時からあのブレスレットをつけていたんだ。『清楚な彼女にとても似合っていて素敵ですね』って声をかけたら、彼女は微笑みながら言ったんだ。『これは、大切な幸せのお守りなんです』って」
心なしか、田島さんの表情が切なそうに見えた。
「会う時はいつもそのブレスレットをつけていた。誰からもらったとは言っていなかったが、大事にしているのが私にもすぐに分かったよ。そして、俺の方を見て微笑むんだ」
「あの後、君たち二人のことはリナさんが話してくれたよ。西中君、あの時、あの父親からリナさんを守ってくれて、ありがとう。悔しいけれど、私に勝ち目はないと分かったからね。こう見えて、引き際はいいんだ。ああ、それがビジネスでうまくやる秘訣でもあるよ。西中君、覚えておいてね」
そう言って、田島さんは茶目っ気たっぷりにウインクして笑っている。田島さんの懐の深さに、改めて俺は感銘を受けた。
「西中君、どうか彼女を幸せにしてあげてね。頼んだよ」
先ほどまでの笑顔は消え、真剣な顔でそう言うと、俺の肩をポンと叩く。その言葉に、俺の目に涙が溢れてくる。
「はい。必ず、幸せにします。ありがとうございます」
俺は涙でぐしゃぐしゃな顔のまま、田島さんへと深く頭を下げた。
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あれから、俺とリナは、これまでの時間を埋めるようにたくさん話をした。変わらず家族の話は慎重だったリナだが、これまでとは違い、母親のことだけは話してくれた。優しくて、包み込むような、節約上手な素敵な女性だったようだ。リナとそっくりだと言ったら、リナは照れたように微笑んでいた。
俺は田島さん経由で、リナの父親がどうなったのか聞いていた。控室を出た後もしつこく田島さんへと結婚を申し込むように駆け合ったが、説得できず。悔し紛れに、披露宴会場にあった金目になりそうなものを盗んで回ったらしい。それがホテルスタッフに見つかり、警察の厄介になった。
どうやらリナの父親は、リナが稼いだ生活費を元手に、日頃から投資やギャンブルに手を出し、借金を重ねていたらしい。その額も莫大な額になっていたところで考えついたのが、娘の玉の輿狙い作戦だった。見事に田島さんという有望株を引き当てたリナの父親は、結婚後は金を引き出し、借金返済、そして贅沢三昧な生活を企んでいたようだ。それも全て水の泡となり、警察の世話になったことで、それまで住んでいた町から離れざるを得なくなり、借金返済のためにどこかで働いているらしい。
リナは田島さんが紹介してくれた弁護士立ち合いのもと、今後一切リナに関わらない旨の契約書を父親と取り交わし、晴れて父親との縁を切ることにも成功した。心の憂いがなくなったリナの笑顔は、以前よりもさらに輝きが増した。
あの日、一度は切れてしまったリナとの繋がり。でも、多くの偶然と、あのブレスレットのおかげで、またこうしてリナと一緒にいることができる。今度こそ、リナを幸せにする。もう、離さない。
俺は、隣で微笑むリナの手をぎゅっと握った。その手には、壊れてしまったブレスレットから取り外したペリドットをはめた婚約指輪が、太陽の光を受けてキラキラと輝いていた。
