「この荷物、どこに送るの? 早くこれに書いて」——息子が差し出した伝票を前に、夫は青ざめた顔で俺を見ていた。あの夜、酔って帰ってきた夫が「お前、主婦だろ?…

「この荷物、どこに送るの? 早くこれに書いて」——息子が差し出した伝票を前に、夫は青ざめた顔で俺を見ていた。あの夜、酔って帰ってきた夫が「お前、主婦だろ?...

母さん、苦労ばかりかけて本当にごめんね。そう言われたのは、母の車椅子を押して散歩をしていたときだった。私は七美、四十五歳のパート主婦だ。夫の浩太とは結婚して二十年以上になる。長男は大学生、次男は高校生の四人暮らしだったのに、今は一人増えて五人になった。母が足を骨折し、治りが悪く要介護認定を受けたのは半年前。そのまま一人暮らしをさせるわけにもいかず、うちは五年ほど前に建て替えた時にバリアフリーを考えて設計してもらっていたから、母には同居してもらうことにした。

最初は嫌がっていた子供たちも、実際に一緒に暮らしてみればそれほど気にしていないようだった。もともと母の実家にはよく行っていたし、なんだかんだで祖母に懐いているところもある。問題と言えば、裁縫が得意な母が長男のダメージジーンズを補修してしまった事件くらいのものだ。それ以外はうまくやっていた。

しかし、事件は突然起こった。ある日、夜遅くに帰ってきた夫が酔っ払って私に突っかかってきた。

「なあ、俺の着替え、畳んでないんだけど」

そういえば、今日は母の病院に付き添っていたから、夫の洗濯物は取り込むだけで部屋に置いたままにしてしまっていた。謝ると、夫は突然激怒した。

「お前、主婦だろ? そのくらいちゃんとやれよ。誰のおかげで生活できてると思ってるんだ」

「そんな言い方ないでしょ。お母さんの病院だって、あなたは一度も付き添ったことないじゃない。誰の親なのよ」

「はあ? お前は俺のところに嫁に来たんだよ。そんなの長男の嫁の仕事だろう」

私も頭に来ていたが、これ以上言い合っても時間の無駄だ。夫の着替えを投げつけて、部屋を出た。

翌朝、いつも通りに朝食の準備をしていると、夫が起きてきて、目も合わせずに着替えて出ていってしまった。声をかけたが、返事もなく、玄関の閉まる音だけが響いた。リビングに戻ると、起きてきた母が心配そうにこちらを見ている。

「おはようございます。ちょっと昨日、色々あって……」

言葉を濁していると、母が言った。

「昨日の声、少し聞こえていたのよ。あの子、どうしてあんなになっちゃったのかしらね」

確かに、私が結婚した頃の夫はもっと余裕があったし、怒ることなんてほとんどなかった。お酒で失敗したこともなかったし、私にそんなことを言う人ではなかった。夫が変わったのは、子供たちが小学生、中学生になった頃だった気がする。同僚たちは昇進していくのに、夫だけは取り残されて、焦れば焦るほど仕事がうまくいかないようだった。それでも夫の給料で生活はできていたし、子供たちもここまで育った。生活できているのは確かに夫のおかげだけれど、夫は仕事ばかりで、最近では平日はほとんど家にいない。休日も寝ているか、どこかに出かけている。家事なんて一切やったことがない。昔は手伝ってくれたし、育児にも協力的だったのに。

転職を進めたこともあった。けれど、その時、夫に初めて大声で怒鳴られた。

「お前に何が分かるんだ」

それ以来、夫との中はあまり良くない。仮面夫婦とまではいかないけれど、二人でどこかへ出かけたり、二人で何かをすることはなくなってしまった。寂しさを感じなかったと言えば嘘になるけれど、今は母が話し相手になってくれているし、病院の付き添いで忙しい日もある。夫に対して何かを思うことは、いつの間にかなくなっていた。そういう意味では、母と同居して良かったのかもしれない。

その日、夫は帰ってこなかった。夜中に帰ってくることはあっても、帰ってこないのは初めてだった。一応連絡してみるが、返ってきたのは「放っておいてくれ」の一言だけ。母もため息をついていた。

「あのバカ息子はどうしちゃったのかしらね。そのうち帰ってきますかね」

私は言われた通りに、夫を放っておくことにした。食事も作らない。そうして週末がやってきて、母とリビングでテレビを見ていると、玄関の開く音がした。母と顔を見合わせてそちらを見ると、不機嫌そうな夫の姿があった。

「やっと帰ってきたのね。七美さんに謝りなさいよ」

母がそう言うと、夫は返事もせず、何かをテーブルの上に置いた。

「これ、書いて」

それは離婚届だった。

「はあ?」

突然の出来事に、私は間抜けな声が出てしまった。

「俺、もう帰らないわ。女のところに行くから」

「はあ?」

私は事態が飲み込めず、同じ反応を繰り返すしかなかった。随分と上から目線なのは、きっと私が離婚なんてしないと思っているからだろう。以前、「パートなんだから、離婚されたら生活できなくて困るだろ」なんて笑いながら言われたのを、この時に思い出した。

母は慌て始めた。

「離婚して出ていくってこと? お母さんはどうするの?」

すると夫は鼻で笑った。

「介護は長男の嫁の仕事だ」

「え、ちょっと待って。じゃあ、お母さんはここに住むの? 離婚するのに」

「だから、お前は長男の嫁なんだから、責任持って介護しろよ。この家はくれてやるから」

上からの物言いに、私はどんどん苛立ってきた。

「何言ってるの? 七美さんと離婚したら、七美さんはお嫁さんじゃなくなるんだから、私と一緒に住むわけないでしょう」

母も怒っているが、夫はわけの分からない理屈を話し始めた。

「長男と結婚したんだ。だから親の介護は嫁の義務だろう。離婚したからって、その義務を放棄されたら困る。嫁なんだから、家事も介護も仕事のうちだろう」

夫の中ではそれが正論なのかもしれないが、言っていることは誰が聞いてもおかしい内容だった。もうため息しか出ない。母も同じ気持ちだったのか、ため息をついて私を見る。目が合うと、母はうなずいた。私もそれに合わせてうなずいた。

次の瞬間、車椅子に座っていた母が立ち上がった。

「さあ、始めるわよ」

それを見て、夫は声も出さずに目を丸くして驚いている。私は部屋にいる息子たちを呼んだ。体育会系の息子たちはリビングまで走ってくる。

「ばあちゃん、やっぱり今日だったな」

長男が面白そうに笑うと、母もニヤリと笑った。私もだんだんおかしくなってきて、笑いながら言った。

「よし、やっちゃおう」

息子たちはリビングと部屋に散り、夫の荷物を運び出しにかかった。母も、車椅子に座っていた人とは思えないほど普通に歩いて、小さいものを運び出す。私は離婚届の記入を始めた。

廊下には夫の荷物がきれいに並べられた。私も離婚届の記入が終わり、目を泳がせている夫に向かって言った。

「これでもう、他人ね」

どういうことかと聞きたそうな夫を放って、私は話を続ける。

「あなたの荷物は由紀さんのところに送るから、住所書いてってね。私よりも十歳も年下の由紀さんとの生活、さぞ楽しかったでしょうね。これからはどうぞ末永くお幸せに」

その名前を聞いた夫は、はっとした顔をして私を見た。

「同じ会社の由紀さんね。同じ部署内で浮気なんて、相変わらず狭い世界で生きてるのね」

私は鼻で笑い返す。

「女のところに行くって、自分で言ったよね。いいわよ、行けば。言っておくけど、あなたがいなくなったところで、生活は変わらないから」

夫はようやく、私が浮気を知っていたことを理解したようだ。さっきまでとは態度が一変して、慌て始める。

「おい、ちょっと待ってくれ。違うんだよ」

「何が違う? 浮気してたから、私と離婚して浮気相手のところに行くんでしょ? それとも、他にも別の女がいるの?」

「いや、そうじゃなくて……」

「そうじゃなくて、何? 離婚したいんでしょ。なんでいきなり態度を変えるの? まさか、私が離婚なんてしないと思って、脅すために離婚届を持ってきたわけ?」

動揺している夫を見ると、どうやら図星のようだ。

「俺がいなくなって、生活はどうするんだよ」

夫はご丁寧に、今後の私たちの生活を心配してくれている。

「ご心配なく。お金ならなんとかなるわ」

「おい、なんでだよ」

すると、しびれを切らした息子たちが夫に言った。

「この荷物、どこに送るの? 早くこれに書いて」

そう言われて、夫は渋々浮気相手の住所を書いた。それを見届けると、息子たちが夫に頭を下げる。

「これまで育ててくれて、ありがとうございました」

息子たちは笑いながら言って顔を上げると、夫は複雑そうな顔をしていたが、そのまま息子たちに玄関から追い出された。窓の外には、夫がとぼとぼと歩いていく姿が見える。その姿に、また笑いが込み上げてきた。散々人のことを見下してきて、自分から離婚と言ってきたのに、その寂しそうな背中は何なんだろう。

「七美さん、お疲れ様」

母が私の背中に手を置いた。

「ばあちゃんが立った時の顔、見た?」

次男がいたずらっぽい顔で言うと、みんなで笑い合った。実は母のリハビリは順調で、足の具合も回復していた。この間病院に行った時に、「これならそろそろ車椅子なしでも生活できるから、徐々に慣れていくように」と言われ、今ではほとんど車椅子なしで生活している。さっき車椅子に座っていたのは、テレビを見る時に高さがちょうどいいから使っていただけで、そろそろ母用の椅子を買う予定だったのだ。それに、私たちは夫の行動を予想していた。もし離婚とか出ていくとか言い出したら、みんなで荷物をまとめて追い出そうと、事前に話をしていたんだ。

息子たちは昔は夫のことが好きだったけれど、夫が変わってしまってからは、話しかけても返事はほとんどしないし、相談にも乗ってくれない。「お金を出してくれるのは助かるけど、もう世話にはなりたくない」と言って、二人とも自分のお小遣いはアルバイトをして自分で稼いでいる。夫との間にあった溝は年々深まっていて、もう修復できないところまで来ていた。

母はいつも、介護してもらうのが申し訳ないと言っていたけれど、パートを削っている分、母から大きな代価を得ていた。母は住んでいた家はもう広すぎるし、誰も住まないからと言って売りに出し、かなりのお金になった。それを生活費にし、「もしもの時はこのお金で生きていくから大丈夫」と言っていた。夫はいきなり離婚と言って、私たちを混乱させようとしたのだろうけれど、結局それに踊らされたのは夫の方だった。

その後、夫とは財産分与と慰謝料請求をして、この家の名義は私の名義になった。夫の浮気には何年も前から気づいていたから、少しずつ証拠を集めていた。今回も白を切ったら証拠を出そうと思っていたけれど、夫がすぐに認めたものだから、問い詰めずに済んだ。相手の女にも慰謝料請求をし、一括で支払ってもらった。どうやら相手の女は独身ではあったけれど、近々結婚予定で、しかもなかなかの玉の輿に乗れるところだったらしい。だが、今回の件が相手にバレて、当然のように婚約破棄された。そんな相手がいて、どうして夫と浮気なんてと思ったけれど、夫は顔だけは取り柄で、年齢の割に若く見えたし、その世代にしてはイケメンの部類だろう。風の噂で、女の婚約相手はお金は持っているけれど顔はそうでもなかったと聞いたから、まあそういうことなのだろうと納得した。私は二人から慰謝料を取れて、しばらくの生活は心配がなさそうだ。

離婚が成立して三ヶ月が経った頃、家に元夫が訪ねてきた。

「今更、何の用?」

インターホン越しに対応したけれど、ただの復縁要請だった。すると、母が玄関へ向かう。今ではすっかり普通に歩けるようになった母を見て、元夫は驚いている。

「母さん、なんでここにいるんだよ」

「今、七美さんは私のビジネスパートナーなのよ。ここは職場なの」

「ビジネスパートナー?」

いろんなことに驚いている元夫だけれど、母は多くを語らない。

「そんなことより、あなたに『母さん』なんて言われる筋合いはありません。私が車椅子になった時、同居を提案してくれたのも七美さん。介護をしてくれたのも七美さん。浩太は何にもしてくれなかったわね。それで『息子』なんて言わないでちょうだい」

私も玄関まで行って、これが最後だと思い、存分に言った。

「お金を稼いでくれたことには感謝しているけど、家事は何もやらなかったし、家には帰らないし、挙げ句に浮気までするし、そんな人とどうしてやり直したいと思うの? 離婚も成立したし、もう私たちは他人なの。息子たちに会いたければ、直接連絡してね。多分、会いたくないって言われるだけでしょうけど」

すると夫は何も言えなくなり、少し悲しそうな顔をして佇んでいたが、自分がやったことを考えれば当然のことだ。

「私たち、家族で仲良くやってるから、もう割り込んでこないで。さようなら」

そう言って玄関の扉を閉めると、元夫はとぼとぼと去っていった。

母は車椅子になってからあまり外出もできずに時間を持て余し、得意の裁縫をよくしていた。私にもエプロンや帽子を作ってくれて、とても完成度の高いものをもらった。それを気に入った私がインターネットで発信すると反響が良く、私はそこから勉強して、今では母の作ったものを販売している。母は近くにマンションを借りて住むようになったけれど、うちの一部屋を作業場としているから、週の半分以上はここで作業や打ち合わせをしている。ここにいることに何の違和感もない。元夫は何も知らないけれど、今では生活していくくらいの収入がある。母も生き生きとしていて楽しそうだ。

「七美さんが教えてくれなかったら、こんな風に売ることができるなんて知らなかったわ。新しい作品も、早速感想が来たのよ」

そんな風に喜んでくれているので、私も嬉しい。厳密に言うともう嫁と姑ではないけれど、私は今でも母と呼んで、仲良くさせてもらっている。

「ばあちゃん、今日来てるよね。これ買ってきたよ」

長男が母の好きな和菓子を片手に帰ってきた。我が家は、今までよりも笑顔に溢れている。息子たちはいずれ巣立ってしまうだろうけれど、母とはこれからも仲良くやっていけそうだ。

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