金子株式会社の営業部長である俺、新藤明は、デスクの前で電話の向こうの声に耳を傾けていた。相手は大口取引先であるKY株式会社の営業部長、高野秀。俺たちの会社の命運を握る男だ。
「今さ、有名企業様とコンペ中なんだよね。だから下受けは6時間待っててくれる? それが嫌なら契約は中止で。」
俺は一瞬、言葉を失った。だが、すぐに核心を突く質問を返した。
「え、契約を中止してよろしいのですか? 」
「いいよ、いいよ。別にオタクの部品なくたって海外から安いの取り寄せればいいだけだしね。でもあれでしょ? オタクはうちからの発注がないと会社が存続できないって感じでしょ。」
いや、切ってくれるならそれでいいのだが。俺はそう思ったが、もちろん口にはしなかった。なぜなら、俺たちには別の大口取引先が現れていたからだ。
俺の名前は新藤明、35歳。株式会社金子という小さな部品メーカーで営業部長を務めている。部長と言っても、営業部は俺と後輩のあ田恵子の二人だけ。それぞれが外回りをしながら契約を取り、既存顧客へのフォローをこなしている。最近はKY株式会社との契約更新を控え、特に忙しい日々を送っていた。KYの営業部長である高野の当たりはとにかく厳しく、俺もあ田も泣きたくなるような思いをしていた。
株式会社金子は吹けば飛ぶような零細企業だ。しかし作る部品の質は良く、ECサイト経由で買ってくれる顧客はそこそこいる。だが、ECサイトで買うのは個人客が多く、儲けは薄い。対法人顧客との取引がなければ、会社は成り立たないのが現状だった。
今日は契約更新の前日。俺とあ田は外回りには出ず、KYからの連絡を待っていた。だが、夕方になっても高野からは何の音沙汰もない。
「高野部長からメール来てたりする?

」
あ田に尋ねると、彼女は首を横に振った。
「思い切って電話してみませんか? 」
「電話するんだったら新藤部長がしてくださいよね。私、女だからって見下されてるし。」
「俺だって嫌だよ。何かにつけて『今時の若者は』って見下されてるよ。」
二人で押し付け合っていると、唐突に俺の電話が鳴った。知らない番号だ。営業社員はどんな電話にも出るべきだ。新規取引への扉が開くかもしれないのだから。
「はい、営業の新藤でございます。」
「こちらウェルカム株式会社営業の柊と申します。」
俺はその場に立ち上がった。ウェルカム株式会社。東証一部上場企業であり、年商は桁が多すぎていくらなのか分からない。あの業界最大手の会社だと? 何かの間違いではないかと思ったが、相手の口調は丁寧で、はっきりと「取引がしたい」と申し出てきた。
俺はあ田を連れて慌てて社長室へ飛び込んだ。室内では社長の金子松尾が、のろのろとした手つきでパソコンを操作していた。
「どうしたんだね。KYさんとの契約で何かトラブルでもあったのかね。」
「社長、ついさっきウェルカム株式会社の営業部長から、我が社と取引をしたいという電話がありました。」
金子はかけていた老眼鏡を外し、深い皺の浮かぶ顔で何度も頷いた。
そして翌日、KYとの契約更新日を迎えた。今日は絶対に失敗できない。俺はあ田を外回りに行かせ、自分は契約のため車内で待機している。だがおかしい。今日が契約更新日だというのに、高野から電話はおろかメールすら届いていない。迷惑メールフォルダを確認しても、それらしきものはない。
仕方なく、俺は会社の携帯で高野の番号を呼び出した。だが、なかなか出てくれない。10コール鳴らすと留守番電話に切り替わってしまう。仕方がないので、出るまで何度もかけ直すことにした。こういうのを鬼電と言うのだろうなと思いながら、虚しく響くコール音を聞き続ける。
しばらくして、ようやく相手が折れて電話に出た。
「何? おたくの嫌がらせなの?
俺今めっちゃ忙しいんだけど。」
「高野部長、株式会社金子の新藤です。聞こえますか? 」
電話の向こうからは、拍手と歓声が聞こえてくる。何かを祝っているのだろうか。
「分かってるよ。金子さんとこの営業の新藤さんでしょ。てか俺今忙しいっての。」
「高野さん、今日は弊社と貴社の契約更新の日ですよ。分かってるんですか? 」
「ああ、なんかそんな話があったようななかったような。てかさ、あれ契約自動更新しようよ。面倒くさいし。」
「それは困るんです。あの金額でまた契約なんてなったら、弊社の利益がなくなってしまいます。」
そう、実はKYは金子の足元を見て、部品を安く買い叩いているのだ。ゆえに毎年金子の決算は赤字と黒字を行ったり来たりで、全く安定していない。この状況を打破すべく、金額アップの契約書を提示し、強く交渉してほしいと社長から言われていた。
「え、交渉? 」
俺がそう言うと、高野は意外そうな声を出した。
「あのさ、なんで俺が契約のこと忘れてると思う?
」
そんなことはこっちが聞きたいと俺は思ったが、ここは黙って相手の出方を待つ。
「ちっちゃい契約だからだよ。ほら、KYって大企業じゃん。どこの町工場との契約か知らないけど、吹けば飛んじゃいそうな規模じゃないの。」
この高野という男、さすが営業だけあって喋らせると長い。途中で口を挟もうものなら容赦なく攻めてくることを俺は知っている。だから、荒方喋らせてからこちらの話を聞かせようという作戦だ。
「今さ、有名企業様とコンペ中なんだよね。だから下受けは6時間待っててくれる? それが嫌なら契約は中止で。」
「え、契約を中止してよろしいのですか? 」
「いいよ、いいよ。別にオタクの部品なくたって海外から安いの取り寄せればいいだけだしね。でもあれでしょ? オタクはうちからの発注がないと会社が存続できないって感じでしょう。」
いや、切ってくれるならそれでいいのだが。俺はそう思ったが、もちろん口にはしなかった。この瞬間、俺たちの勝負は既に決していたのだ。
電話を切ると、ちょうどメールの受信音が鳴った。ウェルカム株式会社の調査報告書。早いな。先ほど社長の金子が超特急で取り寄せた資料が届いたのだ。
俺はメールを金子に転送すると、すぐに社長室へ向かった。社長は資料を開き、しばらく沈黙した後、こう言った。
「うん。いい会社だね。もしうちが取引できるようになったら、これ以上望ましいことはないよ。」
俺は外回りに行かせているあ田に電話を入れた。
「あ田さん、そっちはどうだ?
」
「こっちは社長の王へ取れたぞ。今ウェルカムの本社ビルにいるんですけど、柊部長が会議中でまだお会いできていないんです。」
「俺の方はKYの高野部長と連絡が取れた。6時間待てないなら契約中止でいいそうだ。」
「本当ですか? 私たちようやくKYの圧から解放されるんですね。」
それはそうなのだが、すべてはウェルカム次第だ。どうして今日という日に新規取引など持ちかけてきたのかは分からないが、ウェルカムとの取引が成立しないことには、KYとの契約を切ることはできない。リミットはあと5時間。そのうちにウェルカムとの契約について何とか進展させてきてくれ。
「分かりました。」
電話が勢いよく切れると、俺も新規契約のための見積書作りに取りかかった。
それから1時間ほど経った頃、あ田から電話が入った。
「柊部長の会議が終わりました。これから金子に向かいます。」
「うちに? うちがお邪魔する立場なんじゃ。」
「いえ、それがどうしてもうちに行きたいと柊部長がおっしゃって。」
「分かった。」
俺は金子に柊部長が来る旨を知らせ、自分もネクタイを締め直して待った。あ田が柊を連れて戻ってきたのは30分後のことだった。少し遅い到着だったので、道が混んでいたのかと尋ねると、柊はこう言った。
「急にお話を持ちかけてすみません。これ、つまらないものですが、お菓子を皆さんにと、有名な菓子舗に立ち寄っていたので遅くなりました。」
有名な老舗菓子舗の包装紙を見るなり、俺はこの人の爪の垢を煎じて高野に飲ませたいと思った。
「初めまして。ウェルカム株式会社の柊すずと申します。営業部長をしております。」
金子とあ田と俺が柊と名刺交換をする。全員が社長室のソファーに落ち着くと、柊は単刀直入に言った。
「率直に言いましょう。弊社とのお取引をしていただきたく思います。年間の発注計画と購入金額をまとめてきましたので、ご覧ください。」
柊はそう言うと、バッグからA4判のプレゼン資料を取り出し、テーブルの上に広げた。俺はそこに書いてある数量と金額を見て、今のままでは無理だろうと思った。今の金子のリソースのほとんどはKYに使われていると言ってもいい。KYと取引をしながら、ウェルカムの発注に応じるのは無理だ。
「数日前、貴社について調べました。KYさんとの取引に集中されているようですね。」
「ええ。うちとしては、あそこと取引をやめるわけにはいきませんのでね。」
「よろしければ、うちがKYさんの穴を埋めましょう。」
その発言に、この場にいる柊以外の全員が息を呑んだ。この人はKYの抜けた穴を埋めることができるほどの取引量を持ちかけてきているのだ。
「ああ、買い取り金額の話ですが、こんなに高値を掲げる理由は何ですかな? 」
「失礼ですが、KYさんに安く買い叩かれていたのではありませんか?
弊社の部品には、KYさんの7倍の価格を設定させていただきました。この金額に驚かれているということは、図星では? 」
本当にその通りなので、誰も何も言えない。金子も押し黙ってしまっている。
「KYは下請法をご存知ないようです。申告してみてはいかがですか? 買い叩きも立派な下請法違反ですよ。」
「知らないわけではないんです。言ったところで無駄なんで。相手の担当者が全く他人の話を聞かない人でしてね、もう積極的に関わりたくないんですよ。」
俺はため息混じりにそう言い、さっきまで作っていた見積書を柊の前に出した。取引の妥当性について判断を仰ぐためだ。
すると柊は、見積金額が低すぎると言った。
「我々は、KYさんへの金額の7倍で取引いたします。」
それからしばらく時間が経過した。多分、KYの高野が言っていたリミットはもう過ぎている。KYとの契約について思いを馳せるが、まあ今となってはどうでもいいことだ。
俺が帰ろうと立ち上がった時、突如として会社の電話が鳴り響いた。画面を見ると「高野」と表示されている。もう無視してやろうと思ったが、電話はひたすら鳴り続ける。仕方なく出ることにした。
「はい、新藤です。」
「ああ、新藤部長。今どこ? 契約書の件だけど。」
「今更契約書がどうのと言っても遅いですよ。あの契約は中止でいいです。」
「ん?
なんか聞き間違えたような気がするけど。契約が何だって? 」
「中止でいいですと言いました。」
すると高野は、これからうちの会社に来るという。一体何をしに来るのか、俺にはさっぱり分からない。
高野は荒々しい運転で車を会社の敷地内に止めると、大慌てで事務所に入り込んできた。
「はい、これ。承認済みの契約書だよ。金子さんの承認が欲しいんだけどな。」
相変わらず言いたいことだけ言う人だ。柊とは人柄が違うなと、俺は心の中で思った。
「ねえ、高野さん。実はうち社、貴社の契約を切るって決めたんですよ。」
「え、ちょい待ち。それって決定事項じゃないよね。」
「先ほど別の会社と契約を交わしました。明日から我々は貴社に納品できませんので、ご了承ください。」
事務所では、物流の女性社員たちが販売管理システムの取引先にウェルカムの情報を登録している。それぞれが送り状や経理システムへの取引先入力などに追われていた。
「いやいや、君の会社が俺に見限られたらおしまいでしょ。それと、社内での俺の立場が悪くなるじゃん。どうしてくれんの? 」
「高野さん、以前うちの会社の部品を買い叩く時、海外の部品でも仕入れて穴埋めしようかなって言ってましたよね。」
「買い叩くとか言わないでよ。物騒だな。」
「下請法に引っかかるじゃないですか。」
「あ、下請法のこと知ってたんですね。俺、高野さんのこと申告しておいたので、何か問い合わせがあったら対応してください。俺も精一杯対応するので。」
これで話は終わりだ。俺は高野の横をすり抜けようとしたが、高野にズボンの裾を引っ張られ、転びそうになってしまった。
「ちょ、マジで考え直して。君らに契約してもらえないと困るの。主に俺が。」
「高野さん、無駄なことはやめましょう。そもそも今日は有名企業様とのコンペだったんですよね。そういう方面の仕事がお忙しいなら、うちとの契約なんてどうでもいいじゃないですか。」
「いやいやいやいや、俺が怒られるの。せっかく買い叩いてたのにって。」
やっぱりな。俺は高野を思いきり睨みつけた。買い叩かれていると疑っていたのは確かだったが、確信はできていなかった。だが高野本人の口から聞くと、ああそうだったのかと実感が湧くと同時に腹が立ってきた。
「高野部長、どこと契約したと思います? 」
「そんなことどうでもいいから、うちとの契約を頼むよ。新藤部長。」
こうして俺と高野の押し問答は夜遅くまで続いた。ちなみに高野が諦めて帰ったのは、KYの社長が高野を呼んでいるからだった。
「今日のところはこれで帰るけどさ、俺諦めないからね。」
最後はそんな言葉を吐いて、ようやく金子の事務所を去っていった。
翌日から早速、ウェルカム株式会社からのオーダーが入り始めた。最初の頃は在庫を確保したいから少し多めに発注すると言われていたので、俺たちはKYに納めるはずだった部品をそのままウェルカムに送ることにした。昨日柊が提示してきた資料を物流チームと経理財務に回し、部内の製造計画を大幅に修正した。もちろんウェルカムの年間発注予定数量はKYのそれよりも多い。近いうちに人手不足に陥るという懸念があるが、そこは社長と人事が手を組み、うまく手配するだろう。
そして俺はといえば、まだ高野にしつこくつきまとわれてほとほと困っていた。
「新藤ちゃん。あのさ、俺たちの会社との契約なんだけどさ、これまでの2倍ってことで手を打たない?
」
「海外の部品使うんじゃなかったんですか? 」
「そんな冷たいこと言わないで。俺と新藤ちゃんとの中じゃない。」
何が「新藤ちゃん」だ。今更MATERIALを提示したってもう遅い。それに気づいてもらえるのはいつになるのだろう。
その後、高野は降格したという風の噂で聞こえてきた。何でも金子との取引を継続できなかったことで、会社の仕入れ値が増加したそうだ。まあ、ウェルカムが出してきた金額がKYの7倍なのだから、俺たちはKYに7分の1の値段で売っていたことになる。そりゃ仕入れ値が増えるわけだ。高野は今、平の営業部員として現場に出ているらしい。これまで担当していた取引先からはすべて外され、新規の飛び込み営業ばかりのチームに配属され、毎日不平不満を垂れ流しているという。
もうあいつの電話番号を登録しておく必要もないか。でも、非通知でかかってくるかもしれない。だったら着信拒否にしておこう。俺はあ田とパソコンから操作して、高野の番号を着信拒否リストに登録した。
あれから半年が経過した。俺の携帯に高野からの連絡は入らなくなった。着信拒否をしているから当然なのだが、おかげで毎晩ぐっすり眠れている。ウェルカムとの契約は今のところ順調だ。
ある日、俺は金子に呼ばれ、社長室のドアを開けて入室した。
「お呼びですか、社長? 」
「ちょっと小耳に挟んだんだけれどね。」
金子はそう前置きして、こんな話を教えてくれた。何でもKYに下請法違反の疑いがあり、公正取引委員会から連絡があったそうだ。しかも、下請法違反を指摘した企業は多数あったという。
「君もその中の1人だよね。」
俺は隠すこともないので、無言で頷いた。正当な報いが下ればいい。本当にその通りだと、俺はこれまでのKYのやり口を思い出しながら思った。