数年の歳月をかけて積み上げてきた中東の巨大案件。その最終プレゼンを目前に控えた朝、俺の前に役員の藤堂明と、その息子で新人のハルトが現れた。
「その案件、ハルトにやらせてやってくれ」
何を言っているのか、すぐには理解できなかった。思わず「無理です」と言いかけた瞬間、常明の目が鋭く細まった。
「命令に逆らうなら、部下の将来がどうなるかな」
ハルトは勝ち誇ったように笑い、俺の資料を覗き込むと吐き捨てた。
「契約もらいますよ。努力とか、そんなの自分センスで決まるっすから」
俺が何年もかけて築いてきたものは、コネと傲慢によって一瞬で潰された。
俺の名前は九鬼。生まれ育ったのは中東の砂漠地帯だった。親の仕事の関係で高校卒業までを現地で過ごし、アラビア語と英語が飛び交う生活の中で自然と語学が身についた。異文化への理解力も、そこで鍛えられた。大学入学と同時に日本へ帰国したが、最初は言葉や習慣の違いに戸惑った。それでも次第に、外から見た日本の姿に気づき、それが自分の価値になると信じて努力を重ねてきた。
卒業後は今の会社に新卒で入社し、営業部に配属された。最初は飛び込み営業に明け暮れる毎日だった。誰も見向きもしない海外市場の資料ばかりを読んでいたせいで、周囲からは「使えない」と影口を叩かれることもあった。それでも俺は地道に実績を重ねた。外資系企業との交渉や海外展示会での商談などで少しずつ信頼を積み上げ、今では営業部長として部をまとめる立場になった。
肩書きが変わろうと、俺のスタンスは昔と変わらない。現場に出ることを何より大切にし、どんな案件でも必ず自分の足で取引先と向き合う。机の上だけで契約が取れるほど、営業の世界は甘くない。
そんな俺が数年かけて築き上げたのが、中東の巨大インフラ企業とのパートナーシップだった。現地企業の文化や人脈、語学力を総動員して掴んだこの案件は、契約が決まれば数年分の売上が見込める。まさに社運を左右するビッグプロジェクトだった。社内でも一目置かれ、役員への昇格の話も出始めていた。
そんな中、厄介な存在が現れた。藤堂ハルト。今年の春に入社したばかりの新入社員だ。
だが、実力も意欲もまるで感じられなかった。出社初日からタメ口で、電話にも出ない。資料作成も人任せで、平気でこんなことを言ってくる。
「自分あるんで。努力って凡人がやることっすよね」
口を開けば尊大なセリフばかり。なぜこんな人間が採用されたのか不思議だったが、すぐに理由が分かった。ハルトの父親は役員の藤堂常明。つまり、コネ入社だった。
ある日、常明が営業部にやってきてこう言った。
「ハルトを営業部に置いてほしい。いい経験になるからね」
もちろん俺は難色を示した。営業部は遊び場じゃない。だが常明は声を潜めてこう続けた。
「今後の部下の処遇に響くかもしれないな」
脅しだった。俺だけでなく、部下の未来まで人事を握られている。それを思えば、強くは出られなかった。そうして配属されたハルトは、案の定まるで成長せず、周囲の士気を下げるばかりだった。
そして、よりによってあの中東案件にハルトが絡んでくるとは、夢にも思っていなかった。
その日の午後、営業部の執務室には緊張した空気が漂っていた。俺はデスクに座り、中東案件の最終プレゼン資料を調整していた。この数年積み上げてきたもの全てを注ぎ込んだ案件だ。絶対に失敗は許されない。
その時だった。営業部の入り口が開き、重い足音が響く。顔を上げると、常明とハルトが並んでこちらへ向かってくるのが見えた。部内がざわつき、同僚たちがさりげなく様子を伺い始めた。ハルトはポケットに手を突っ込んだまま、いつもの薄笑いを浮かべている。常明は腕を組み、俺のデスクの前に立った。
「九鬼、今少しいいか?」
声に静かな圧がこもっていた。俺が立ち上がるより先に、常明は本題を切り出した。
「その中東の案件をハルトに担当させてくれ。彼にも経験を積ませたいんだ」
俺は思わず資料を握る手に力が入った。何年もかけて築いてきた信頼を、突然現れた新卒に丸ごと渡せというのか。
「申し訳ありません。それはできません。この案件は言語も文化も信頼も積み上げた上でようやくここまで来たものです。そう簡単に引き継げるものではありません」
静かに、だがはっきりと伝えたつもりだった。だが常明は微笑みを崩さぬまま、低く言った。
「役員命令に従えないということか。そうなると、営業部全体に責任を取ってもらうことになる。部下の昇進、査定、配置替え、色々検討せざるを得ないな」
「うわ、マジっすか。部長さんのせいで皆さんとばっちりって感じすね」
くすくすと笑いながら、ハルトが俺の肩を軽く叩いてきた。
「さ、パパより役職の人が文句言うのおかしくない?もうさ、さっさと渡しちゃえばいいじゃん」
周囲の空気が凍りついていく。部下たちは誰も声を出せないまま固まってこちらを見ている。俺は言葉を失った。怒りは込み上げたが、それ以上に悔しかった。俺が抵抗すれば、巻き添えを食らうのは何の罪もない部下たちだ。
「分かりました」
「え、マジでやった」
ハルトは俺のデスクから資料を抜き取り、勝ち誇ったように掲げた。
「契約いただきますね。あ、恨むならパパより役職低い自分を恨んでください」
常明は満足そうに頷き、何も言わずに背を向けて歩き出す。ハルトもそれに続いて、ドヤ顔のまま営業部を後にした。背後で椅子が立つ音がいくつか聞こえた。部下たちが駆け寄ってくる。
「部長、本当に渡してよかったんですか?僕たちのせいですみません」
俺は小さく首を振った。
「気にするな。これは俺が判断したことだ」
そう言いながら、ゆっくりと天井の隅を見上げる。そこには営業部の防犯カメラが静かに回っていた。常明の圧力も、ハルトの暴言も、全て証拠として残っている。
「絶対に取り戻す。もう手は打ってある」
部下たちは驚いた顔で俺を見つめていた。だがそれ以上は何も言わず、俺は資料の残骸をそっと片付け始めた。
翌朝、営業部には早くから緊張感が漂っていた。今日は中東企業との最終プレゼンの日。会場は社内の会議スペース。担当はハルト。その横には、案件をねじ込んだ張本人の常明がいた。常明は腕を組み、ハルトに何やら耳打ちしていた。完全に勝った人間の態度だった。
ハルトは落ち着きなくネクタイを直し、スーツのボタンすら止めていなかった。プレゼンに臨む覚悟も準備もないのが見て取れた。俺は離れた席からその様子を見ていた。すでに担当を外され、何も言える立場にはない。
やがて会議が始まった。ハルトがプレゼン画面を共有し、緊張の色を浮かべながら挨拶する。常明は立ち上がり、腕を組んだまま見下ろしていた。
開始直後、ハルトの顔が固まった。
「あれ、これ全部アラビア語じゃん」
焦って資料をめくるが、内容が全く理解できていない。
「マジで読めねえ。これどこから話せばいいんだよ」
この資料は俺が戦略的に作り上げた完全アラビア語のものだった。文化や表現、用語選びに至るまで、数年かけて練り上げた傑作だ。常明が促す。
「何をしてる?進めろ」
「無理だって。意味わかんないよ」
その瞬間、取引先の声が怒気を帯びて響いた。
「どういうことだ?なぜ説明ができない?言葉が通じぬ者と交渉する気はない。最初の担当者を出せ」
ハルトは動けなくなり、こちらに視線を送ってきた。
「九鬼さん、助けてください。マジで無理っす」
俺は無言で立ち上がった。常明が何か言いたげに口を開いたが、それを無視して前に出た。画面越しに代表がこちらを見つめている。俺は静かに一礼し、口を開いた。
「この度は説明不足のまま進行してしまい、申し訳ありません」
そこからアラビア語に切り替え、経緯と今後の提案を丁寧に説明する。文化的背景に配慮し、誠実に簡潔に伝えた。代表が言う。
「やはり君だったか。言葉が通じるというのは信頼の基本だ」
幹部も頷いた。
「この案件を進めるなら、君以外にはいない」
俺は資料を一から再共有し、プレゼンを再開した。物流計画、コスト配分、現地対応。短時間で全体像をまとめて伝えた。プレゼンを終えた俺は、画面越しに深く頭を下げた。相手企業の代表はしばらく黙ったまま画面を見つめていたが、やがて短く言った。
「今回の件、非常に残念だった。だが、あなたの説明には誠意を感じた。改めて社内で協議する予定だ。前向きに考えよう」
その言葉に、ハルトと常明はほっとした表情を浮かべた。だが俺は油断していなかった。一度失った信頼は、そう簡単には取り戻せない。相手の態度がやや軟化したとはいえ、契約が確定したわけではない。案件はようやく破談を免がれただけ。その危機感を、目の前の二人が全く理解していないことに、俺は嫌な予感を覚えていた。
プレゼンが終わると、ハルトはうれしそうに軽い足取りで俺のそばに近づいてきた。あの一言で多少は反省したかと思いきや、口を開いた瞬間、その期待はもろくも崩れた。
「いやあ助かりましたよ。マジでナイスピンチヒッターっす。でもまあ、契約は俺の案件ってことでよろしくっすね」
心底呆れた。この後に及んで、まだ自分の手柄にしようとしている。続いて常明もやってきて、当然のように付け加えた。
「そうそう。お前はあくまで助っ人だ。肝心の契約はハルトが担当する。これまでの流れを乱すのも得策ではないからな」
部下たちが押し黙る中、ハルトは得意げに椅子へ腰を下ろした。深く座り、足を組みながら周囲を見渡してにやついている。まるでこれが勝者の余裕とでも言いたげな表情だ。
「てか、あのアラビア語の資料マジ意味不明っすよ。なんか途中で右から左になってたし」
「だが面白かったじゃないか。あれもいい経験だよ」
俺は黙ってその会話を聞いていたが、胸の奥から湧き上がる怒りを無理やり押し殺した。何もかもが茶番だ。さっきまでの緊迫したプレゼンの空気も、取引先の怒りも、彼らにとっては人ごとで済む程度のものらしい。
「そのご判断、承知しました」
俺は短く答えて、デスクに向かって内線を取った。社長室の番号を押しながら、冷静を保つよう自分に言い聞かせる。このままでは、現場を預かる者として示しがつかない。部下たちにも、取引先にも、そして何より自分自身に対しても。社内の正式な手続きを一切踏まずに担当を変更し、重大案件を危機にさらした。しかもそれを無自覚なまま冗談めかして済ませようとしている。見過ごせるはずがない。
内線が繋がると、俺は落ち着いた声で告げた。
「佐倉所長、営業部の件でご報告がございます。至急お越しいただけますか」
受話器を置くと、すぐにハルトが表情を変えた。
「え、社長?ちょっと待ってくださいよ。なんでわざわざ社長を呼ぶんですか」
常明も苛立ったように口を挟む。
「おい、九鬼、どういうつもりだ?役員である私に話を通せばいいもの。いちいち社長を巻き込むとは」
俺は二人を静かに見据え、淡々と告げた。
「理由は、社長がいらしてからご説明します。お二人にもきちんとお話ししなければなりませんので」
「な、なんだよ。なんかやばい空気なんだけど」
「どうせ言いがかりだろう。部長の立場を盾に面倒なことをするつもりか」
これでようやく潮時が合う。あとは社長の前で、全てを明らかにするだけだ。
ほどなくして社長がやってきた。俺は立ち上がり、深く一礼して席を背に受けながら、静かに社長を会議室へ案内した。冷たい空気が廊下から流れ込むと同時に、社長の姿が現れる。白が混じりのスーツ姿はいつも通りだが、その眼差しは静かに鋭い。
「で、私を呼んだ理由は?」
俺は一礼し、まっすぐに社長を見据えた。
「本日、社内で重大なインシデントが発生しました。私が数年かけて関係を築いてきた中東の大手インフラ企業との契約に関する最終プレゼンにおいて、先方を激怒させる事態が起きました」
一瞬、空気が張り詰める。俺の声に反応した部屋の空気が、わずかに重くなったのを感じる。
「プレゼン中、言語や商習慣への配慮が欠けた説明が行われ、現地担当者が苛立ち、契約そのものが破談に戻る寸前でした。先方にとっても、我々にとっても、長年の努力を水泡に返す寸前の大変な事態でした」
佐倉の目が鋭く細められた。
「この案件は、売上規模の面でも当社の今後の展開においても重要な意味を持つものであり、経営層への報告が必要と判断し、急ぎご連絡をいたした次第です」
「なるほど。確かにこれは無視できない問題だな」
佐倉は短く頷いた後、椅子に腰かけ、両手を組んで俺を見つめる。
「それで、一体なぜそんなことが起こったのか。君の言う通り、再発防止のためにも原因を明らかにしておく必要がある。説明してくれ」
俺は少し間を置き、顔を横に向けた。
「まずは、そちらのお二人にご説明いただければと思います。今回のプレゼンは、藤堂君と、役員の一人である藤堂常明さんが指導されていました」
佐倉が二人に視線を移す。だが、ハルトも常明も黙ったままだ。口を開く気配すらない。当たり前だろう。担当を奪い取ったとは、口が裂けても言えるはずがない。俺の言葉が喉元を突いたのか、視線を彷徨わせるだけで、椅子から腰を浮かせることもなかった。
「説明できないようですので、私からお話しします」
「頼む」
「この中東案件は、私が数年かけて、自身の中東での生活経験を糧に現地の企業と信頼関係を築いてきました。ですが、最終プレゼンを目前にして、役員の常明さんから、息子に担当を譲るようにという命令を受けました」
「それは、正式な手続きを経ていないということか」
「はい。社内の引き継ぎ手続きも一切行われず、ただ息子に経験を積ませたい、出世させたいとの理由だけです。私が拒否しようとしたところ、従わなければ部下の昇進や査定に響くかもしれないと、事実上の脅迫がありました」
「そうか」
「私は部下を守るために、やむを得ず従いました。そしてその翌日、ハルトさんは私のデスクから契約資料を無断で持ち出し、内容も理解せぬままプレゼンに臨みました」
常明が慌てて口を挟む。なんとか言い逃れしようとしてくるのが伝わってくる。
「その話、証拠はあるのか?そんなのは出たらめだ」
「営業部には防犯カメラが常時作動しています。資料を持ち出すハルトさん、私の発言を無視する様子、そして常明さんの圧力の言葉まで、全て音声と映像で記録されているはずです」
「う、嘘だろ」
「つまり、正式な合意もなく職権で案件を横取りし、その上で言語も文化も理解せずにプレゼンを強行した。その結果が、あのざまだと」
「はい。幸い、なんとかはなりましたが」
佐倉は眉を潜め、口元に手を当てたまま数秒沈黙した。そしてゆっくりと顔を上げる。
「防犯映像の証拠。そしてここでの証言。君たちの慌て方。おそらく事実なのだろうな。だったら今回の件は、偶然のミスではなく、明確な組織的妨害として見るべきだな」
「ま、待ってくれ社長。私はそんなつもりで」
「君のつもりなどどうでもいい。結果的に会社を危機にさらした、その事実が重要だ。この罪は高くつくぞ。処分を下す必要があるのだから」
常明の顔は、もはや敗北の色に染まっていた。佐倉は立ち上がり、静かに言った。
「藤堂陸。君は本日付けで懲戒解雇とする。会社の信頼を脅かす行為を堂々と起こした者に、上席の余地はない」
「やだ」
ハルトは子供のように泣き崩れ始めた。
「ちなみに、常明君も例外ではない」
常明も立ち上がり、必死に食い下がる。
「社長、お願いだ。創業期から尽くしてきた私に対して、こんな仕打ちはあんまりだ」
「その立場に甘えたのは君だ。私は会社の未来を考える。だから君には、ここで退いてもらう。役員会議と常務会、本日付けで解任する。もう我が社の関係者ではない。早急に出ていってくれ」
「ふざけるな。ふざけるな!」
社長の手の合図で、どこからか警備員が二人の元へ歩み寄る。ハルトは涙と鼻水を垂らしながら崩れ落ち、床に手をついて叫び続けた。
「やだ、まだやれるんですってば。もうしないから」
私がこんなことで、こんな終わり方だ。だが、もはや言葉は虚しく会議室に響くだけだった。
佐倉は二人を背に、静かに俺へと向き直った。
「九鬼君、君が冷静に動いてくれたおかげで、会社は救われた。本当にありがとう」
「いえ、守るべきものを守っただけです」
「今後も、現場を頼んだぞ」
俺は黙って一礼した。これでようやく、現場を脅すだけの権威は排除された。あとは本物の信頼を取り戻すため、再び前に進むだけだ。
藤堂親子はその日限りで、社から完全に姿を消した。常明の名前が役員一覧から削除され、ハルトのIDカードは出入り記録からも消えた。まるで最初から存在しなかったかのように、全てが整理されていた。
数週間後、社内に噂が流れた。
「ハルトさん、ハローワークで暴れて出禁になったらしいですよ。貯金も解かなくて、親子で公園のベンチに寝泊まりしてるって」
最初は誰も信じなかった。だが噂は次第に確信へと変わった。見下し続けた現場に何ひとつ残さず、彼らは外の世界でも居場所をなくした。頼るものを全て失った男たちの転落は、想像よりも早かった。
そんな中、俺は社長室に呼ばれた。
「君を、営業部長のまま役員に任命したい。現場を大切にする姿勢を続けて欲しいからな」
ありがたい言葉だった。俺は頭を下げて、ただ一言告げた。
「今後も、喜んで現場に立ち続けます」
営業部に戻ると、拍手が自然と広がった。
「お帰りなさい、部長」
声をかけてくれた部下の顔が眩しかった。中東の企業との契約も無事締結され、会社は安定した受注と信頼を手に入れた。少しずつだが、確実に現場は前へ進み始めていた。
俺は席に座り、最後の一枚の資料に手を伸ばした。ページを閉じる音だけが、静かなフロアに響いた。
