人生の終わりというのは、たいてい静かに、何の予告もなく封筒一枚で訪れる。黒田竜平がその封筒を見つけたのは、夜間警備の仕事から戻った朝のことだった。玄関の郵便受けに、赤いスタンプを押された縦長の封筒が挟まっていた。差出人は、三十年の主である小坂不動産。建物の老朽化に伴う取り壊しのため、三ヶ月以内に退去してほしいという内容だった。二枚目の書類には、退去後の現状回復費用として、およそ二十万円から三十万円が見込まれると書かれていた。
竜平は六十九歳。東京の外れにある廃品回収業者の敷地内で、夜間警備員として働いていた。夕方五時から翌朝六時まで、事務所の隅に置かれたパイプ椅子に座り、監視カメラのモニターを眺め、時折り懐中電灯を持って敷地内を一周する。それだけの仕事だった。給料は月に十三万円ほど。社会保険料と所得税を引かれると、手取りは十一万円に届かない。
この部屋に越してきたのは、竜平が三十九歳の時だった。家賃は当時から五万二千円で、一度も値上がりしていない。それが小坂不動産の唯一の美点だった。三十平方に満たない間取りで、押入れに布団を納め、テレビは十五年前に買った小さなブラウン管のもの。窓は北向きで日当たりは望めず、冬は結露がひどく、夏は風が通らない。それでも三十年、竜平はここを住処にしてきた。
竜平には弟が一人いた。五つ下の黒田大輔。今は六十五歳のはずだった。竜平が印刷工場に就職したのは中学を出てすぐのこと。父親は竜平が小学生のうちに死に、母親がパートで二人の子供を育てた。高校の学費は出なかった。竜平は何も言わずに働き始め、自分の分の生活費と弟の学費の足しになる額を毎月家に入れながら、工場の寮に住んだ。大輔は高校を出て地方の私立大学に進み、学費の大半は竜平が出した。竜平はそれを誰かに言ったことはない。言うつもりもなかった。
大輔が就職し、結婚して千葉に家を買った時、竜平に届いたのは家族写真が印刷されたはがき一枚だけだった。「おかげ様でマイホームを取得いたしました」と書かれた、まるで年賀状のような文面だった。その後、大輔から電話がかかってきたことがあった。「兄貴みたいに賃貸住まいじゃ老後が不安だろう。うちは持ち家だから安心だけど、兄貴のことが心配だよ」と言った。声のどこかに、比べることを楽しんでいるような響きがあった。それが最後の会話だった。
台所のテーブルの上で、退去通知の封筒が動かない。竜平は通帳を開いた。残高は五百三十二万円。長い時間をかけて積み上げてきた金だった。外食もせず、酒も煙草もやらず、スーパーで半額になった食材を夜に買い、翌朝の残りを昼に食べる。それで三十年かけて積んだ金が五百三十二万円だった。
退去費用に、新しい住まいの敷金と礼金。家賃が今より高くなれば、月々の支出も増える。六十九歳という年齢で新しい賃貸を探すのは容易ではない。高齢者を入居させたがらない大家は多い。保証人もいない。三ヶ月という期限は短かった。
その日の午後、竜平は市の窓口に出かけた。サービス付き高齢者向け住宅は毎月十五万円から二十万円ほどかかる。都営住宅は申し込んでから入居まで平均で三年以上かかる。パンフレットは帰り道の途中で、コンビニの前にあるゴミ箱に捨てた。捨てながら、特に何も感じなかった。
その夜の警備の仕事では、いつもより余計なことを考えた。これまでどうして今の状況になったのかを、時系列に沿って考え直した。工場に就職したこと。弟の学費を出したこと。結婚しなかったこと。持ち家を持たなかったこと。どこで何を間違えたのか、はっきりとは分からない。あるいは間違えたのではなく、単純にそういう時代に、そういう場所で、そういう選択をしてきた結果が今なのかもしれない。
部屋に戻り、布団を敷いて横になった。天井の染みを眺めながら、竜平はしばらく誰とも話していないということに気づいた。それが特別に不満なわけではなかった。ただ気がついたというだけのことだ。目を閉じると、すぐに弟の声が頭の中に出てきた。「兄貴みたいに賃貸住まいじゃ老後が不安だろう」。あの声の質感、わずかに上がった声のどこかにあった余裕の匂い。あれから何年が経つのか数えてみたが、はっきりしなかった。
その夜、携帯電話が鳴った。竜平が使っているのは折りたたみ式の古い機種で、もう十年以上使っている。画面に表示された番号は見覚えのないものだった。市外局番が千葉のものだった。「もしもし」。しばらく間があった。「兄貴、俺だ。大輔だ」。声は枯れていた。かつての電話の時とはまるで別の声だった。余裕のあったあの頃の声とは、まったく違う。「兄貴、頼む。俺はもう命が日数で数えられるような状況なんだ」。それは病気の知らせかと思った。だが、次の言葉を聞いて、その想像は即座に修正された。「借金なんだ。取り立てが来てる。もう限界なんだよ兄貴」。
竜平は自分でも驚くほど平然とした声で言った。「どこで会える」。大輔は少し黙ってから、東京に出てこられるかと聞いた。千葉から電車で来るのは体がきついと言いながら、声が詰まった。竜平は「分かった」と言って電話を切った。
翌日の昼過ぎ、竜平は最寄り駅近くの路地にある定食屋に大輔を呼んだ。いつもの店ではなく、初めて入る店を選んだ。大輔は約束の時間より十分ほど遅れて現れた。竜平は入口から入ってきた男を見て、一瞬誰だか分からなかった。それほど変わっていた。大輔は六十五歳のはずだが、七十を超えているように見えた。頬は落ち込み、目の下に深い影がある。髪はほぼ白く、歩き方は両足を少し引きずるように慎重だった。
向かいの席に座った弟の顔を、竜平はまっすぐに見た。大輔は目を合わせず、テーブルの端の方に視線を落としたまま「すみません」と小さく言った。しばらく二人とも何も言わなかった。それは気まずい沈黙というより、互いに準備をしている時間のような沈黙だった。
話し始めたのは大輔の方だった。妻が一昨年の夏に脳梗塞で倒れ、左半身に麻痺が残って、今は寝たきりに近い状態だと言った。最初は自宅で介護していたが、費用が重なって蓄えが底を突き始めた。会社は六十二歳で定年退職し、退職金は住宅ローンの残りと子供の学費の立替えでほとんど消えた。年金は月二十四万円ほど。妻の介護施設の費用が月に十一万円かかる。そういうことが重なって消費者金融から借り始めた。最初は三十万円だった。それが気がついたら、三社で合計百八十万円になっていた。「利息だけで毎月四万円近く払っている。元金は減らない。先月から特の電話が毎日来るようになった。もうどこにも逃げ場がない」。
竜平は大輔の話を聞きながら、弟の手を見ていた。テーブルの上に置かれた大輔の手は、両手とも指先が小刻みに震えていた。本人は気づいていないのか、あるいは気づいていて止められないのか。「いくら必要なんだ」と竜平は聞いた。大輔は水を一口飲んでから「三百万円」と言った。声は小さかったが、はっきりと聞こえた。
竜平は頭の中で計算した。自分の通帳の残高が五百三十二万円。三百万を渡せば、残りは二百三十二万円になる。退去費用と引っ越しで五十万円ほど消える。新しい部屋の敷金・礼金でさらに五十万円。残高は百三十万円になる計算だった。そこから先は計算するのをやめた。
「兄貴しかいないんだよ。俺には頼める人間が兄貴しかいない。恥ずかしいのは分かってる。十年以上何も連絡しなかったのに、こんなことで電話するのは虫がいいのは分かってる。でももう本当にどうにもならないんだ」。竜平は聞きながら、弟の言葉の中にある計算ではないものを探していた。大輔の震える手を見ていると、「演技」という言葉は当てはまらなかった。あれは長い間かかって体に蓄積された疲労の震えだった。
竜平は箸を置いた。「母さんが死ぬ前に言ってたことを覚えているか。病院の廊下で俺に言ったんだ。『大輔のことを頼む』と。それだけのことだったが、忘れていない」。大輔は何も言わなかった。唇が少し動いたが、声にはならなかった。竜平はしばらく考えて、残った飯を食べた。それから「三百万が上限だ」と言った。「今俺は住む場所を探さなければならない。追い出されることになった。退去費用と引っ越しで五十万は使う。それを除いた手持ちから三百万を渡すと、残りが百万を切る。それでは老後を乗り切れない。だから渡せるとしたら、三百万が限界だ」。竜平はそう言いながら、自分が何かに流されていると感じていた。母親の言葉を持ち出したのは感傷ではなく、自分の中の何かに理由を与えるためだったのかもしれない。それとも単純に、弟の震える手を見て断れなかっただけかもしれない。
大輔は「ありがとう」と言った。声が湿っていた。「本当にありがとう。必ず返す。千葉の妻の実家に土地がある。妻が回復したらその土地を売って返す。それまで少し待ってくれ」。竜平は頷かなかった。土地のことは当てにしていなかった。
店を出る時、大輔は会計を払おうとした。竜平は止めた。二人分の千二百円を払って店を出た。駅の方へ歩きながら、大輔は何度もありがとうを言った。改札の前で大輔は立ち止まり、「体に気をつけてくれ」と言って改札を通っていった。竜平は改札の外に立ったまま、大輔の後ろ姿が人混みの中に消えるのを見ていた。背中が丸くなっていた。
次の日の朝、竜平は銀行の窓口に出向いた。振り込み依頼書に金額と大輔の口座番号を書いた。三百万円。窓口の女性が「こちらでよろしいですか」と聞いた。竜平は「はい」と答えた。手続きが終わって通帳を受け取った。残高の欄を見た。五百三十二万円が二百三十二万円になっていた。竜平はその数字を一秒ほど見つめてから、通帳を閉じて鞄にしまった。
銀行を出ると外は晴れていた。後悔はなかった。後悔するには、何かを期待していなければならない。竜平は大輔に何も期待していなかった。返してくれればそれに越したことはないが、帰ってこない可能性の方が高いということも分かっていた。分かった上で渡した。それが竜平なりの、母親の言葉への答えだった。
帰り道、竜平は不動産屋の前に立ち止まった。窓ガラスに物件情報が張り出されている。ワンルームで四万五千円から六万円台のものが多い。今の家賃は五万二千円だった。同じ程度の物件を探すとして、敷金で家賃の三ヶ月分とすると十五万円以上かかる計算になる。二百三十二万円から、そういう費用が積み重なっていく。竜平は「今日は見るだけでいい」と自分に言い聞かせながら、駅への道を歩いた。
三週間が経った。大輔からの連絡は一度もなかった。金を渡した時、大輔は必ず報告すると言っていたが、その連絡が来ない。竜平は気にしていないふりをしながら、夜勤の椅子に座るたびに折りたたみ電話の画面を確認する癖がついた。着信履歴は電力会社と大家からの折り返し確認の電話だけだった。竜平は自分から電話をかけることをしなかった。かけたい気持ちがなかったわけではない。ただ、かけることで何が帰ってくるかを考えた時、動けなくなった。もし大輔が電話に出なければ、それはそれで一つの答えになる。その答えをまだ受け取りたくなかった。
退去まであと二ヶ月と少し。竜平は休みの日に近隣の不動産屋を二箇所回った。一軒目は駅前の小さな店で、四十年代の男性が対応した。竜平が年齢を告げると、相手の表情がわずかに変わった。「保証人はいますか」。いないと答えると、「それだと通りにくい場合がありますね」と言われた。二軒目は少し離れた場所にあるもっと小さな店だった。老眼鏡をかけた六十代の男性が一人で座っていた。竜平の話を聞いて、「高齢者向けに空き待ちをしている物件もあるから、希望条件を書いてもらえれば連絡する」と言ってメモ用紙を差し出した。
それから一週間が経った平日の昼前、竜平は夜勤明けで少し眠って目が覚めた時、自分でも理由の分からない焦りを感じていた。何か確認しなければならないことがあるという感覚だけが残っていた。竜平は折りたたみ電話を手に取り、大輔の番号を呼び出した。呼び出し音が四回なった。五回目がなり始めた時、電話が繋がった。しかし出たのは大輔ではなかった。「はい」という若い声。二十代か三十代ぐらいの声だった。「黒田大輔さんの御宅ですか」。しばらく間があって、「そうですけど」と返事が来た。竜平が「兄の竜平です」と言うと、また間があった。今度は長い間だった。「ああ」と言ったのは、竜平の甥の直樹だった。最後に会ったのは、直樹がまだ幼稚園に入る前だったはずだ。「おじさん、ちょっと待ってください」と直樹は言った。しばらくして大輔が電話に出た。「兄貴」。声は先日より少しだけ落ち着いているように聞こえた。「借金の件はどうなった」。大輔は「おかげ様で三社のうち二社は返済できた。残り一社はまだ交渉中だけど、特は止まった。義兄の方への取り立てもひとまず止まった。ありがとう兄貴。本当に助かった」と言った。
電話を切った後、竜平はしばらく電話を手の中で持ったまま座っていた。借金が二社は返済できた。それは竜平が渡した三百万円が、少なくとも一部は言った通りの使われ方をしたということだ。全部かどうかは分からない。ただ、最悪の想像よりは少しだけマシな現実だった。そう思うことにした。
その日の夕方、竜平は仕事に向かう前に近くの銭湯に寄った。湯船に浸かると、体の芯から温まっていく感覚があった。大輔の電話のことを考えた。直樹の声を思い出した。「ちょっと待ってください」という一言に含まれていた何か。警戒か、面倒臭そうな気配か。三十五歳の男の声だった。どんな顔をしているか、竜平には想像ができなかった。
深夜の一時頃、竜平が事務所の外に出た時、携帯が鳴った。大輔の番号だった。「兄貴、ちょっといいか」。声は昼間の電話よりも沈んでいた。「実はな、直樹のことなんだが、言いにくいんだが正直に話す。さっき直樹と話をした。仕事の話をしようとしたら口論になった。それで直樹がぼろっと言いやがった。兄貴が渡してくれた三百万のうち、百万は直樹の借金の返済に使ってしまった。消費者金融じゃなくて、別のちょっと素性の良くない筋への借金だ。そっちを先に片付けないと直樹の体に何かあるかもしれなかったから、俺が判断した。事後報告になって申し訳ない」。
竜平は何も言わなかった。頭の中でいくつかのことが同時に動いた。百万円が直樹の借金に使われた。消費者金融への返済と言っていたのに、実際は別の用途に流れていた。大輔はそれを知っていて、今まで言わなかった。怒りが来た。ただし瞬間的な怒りではなく、体の底の方からゆっくりと上がってくる種類の怒りだった。「分かった」と竜平は言った。「分かった」と繰り返した。それ以上は何も言わなかった。大輔がまた「すまない。返す。必ず返す。信じてくれ」と言った。竜平は「分かった」と三度目に言って、電話を切った。
廃品置場の夜の空気の中に、竜平は立ったまましばらく動かなかった。百万円が直樹の借金に使われた。消費者金融への返済に二百万円。合計三百万円は金額としては合っている。嘘をついていたわけではないかもしれない。ただ、説明した使い道と実際の使い道が違った。それを黙っていた。竜平の頭に浮かんだのは、直樹の声だった。昼間電話に出た時の、「ちょっと待ってください」という声。あの警戒の音。直樹は三十五歳だった。竜平が弟の学費を出し始めた年齢より、ずっと上だった。竜平は中学を出た十五歳から働き始めて、弟のために金を入れていた。直樹は三十五歳で、親の金で解決した借金があって、今も家にいる。比べることに意味があるかどうかは別の問題だった。時代が違う。事情も違う。竜平の基準で測ることはできない。それでも何かが胸の中で固まっていく感じがあった。
次の日の夜明け前、竜平は巡回に出た。フェンスの前に立って道の先を見た。どこかへ続いているが、暗くてその先は見えない。「行こう」。竜平は心の中で決めた。電話では足りない。大輔の顔を見て、直樹の顔を見て、今の状況を自分の目で確かめる必要があった。三百五十万円という金が実際にどういう経緯でどこへ消えたのかを、自分で把握しておかなければならない。
二日後の朝、竜平は夜勤明けのまま着替えをして電車に乗った。千葉まで、乗り換えを含めて一時間半ほどかかる。大輔の家の住所は、昔のはがきに書いてあったものをメモに書き移して持っていた。三十年近く前の住所だったが、変わっていないはずだった。最寄り駅からバスに乗り、住所の近くのバス停で降りて地図を確認しながら歩いた。住宅地の中の細い道だった。大輔の家が見えてきた。竜平は足を止めた。二階建ての家だった。かつては白かったと思われる外壁が全体的に薄汚れている。庭に出すはずの植木は枯れていて、鉢が一つ倒れたまま放置されている。これが大輔が誇っていた持ち家だった。
インターホンを押すと、しばらくしてスリッパを引きずるような足音が聞こえ、扉が開いた。出てきたのは直樹だった。竜平は直樹を生まれて以来、まともに見たことがなかった。背は竜平より少し低く、体はずんぐりとしている。Tシャツに、腰の辺りがたるんだジャージ姿。顔は大輔に似ているが、大輔より丸くて油が浮いているように見えた。「おじさん」と直樹は言った。声はゆっくりしていた。それから「どうぞ」と体を横にずらして中に通した。竜平は玄関に入った。廊下の先に古びたリビングが見えた。床にゲームのコントローラーが落ちている。テーブルの上に食べかけのお菓子の袋が置かれている。人が住んでいるのに生活の匂いがない。物はあるが整っていない。
大輔が現れた。先日の定食屋で見た顔より、もう少し疲れている。「兄貴」と言った。竜平はリビングに入ったが、ソファには座らず、テーブルの傍に立ったまま大輔の顔を見た。「百万円のことを聞きに来た。昨夜電話で聞いた。直樹の借金に使ったと言った。それは事実か」。大輔は「そうだ」と言った。声は小さかったが、はっきりと言った。「それを最初から言わなかった理由は何か」。竜平は怒鳴らなかった。声を荒げなかった。ただ確認するように淡々と聞いた。大輔は少しの間黙っていた。「兄貴に頼む時、直樹の件を出したら断られると思った。消費者金融への返済と言った方が話が通りやすいと思った。直樹のことを持ち出すのが恥ずかしかったというのもある」。
竜平はそれを聞いて、長い息を吐いた。「俺が渡したのは、俺が老後に使う金だった。それをお前に渡したのは、お前が本当に困っていると思ったからだ。直樹の借金のためではなかった。渡す前に言えば、俺が判断できた」。大輔は「分かっている」と言った。声が詰まった。竜平もそれ以上は言わなかった。言い続けても何も変わらない。金は使われた。直樹の借金は返済された。それが現実だった。
少しの沈黙の後、竜平は「妻はどこにいる」と聞いた。「二階に」。竜平は「顔を見てもいいか」と聞いた。大輔は少し驚いた顔をしたが、「ああ」と言った。二人で階段を上がった。廊下の突き当たりの部屋の扉を、大輔が静かに開けた。部屋の中は薄暗かった。カーテンが閉まっていた。ベッドの上に小柄な女性が横になっていた。大輔の妻の清子。体の右側は自然に横たわっているが、左側がわずかに不自然な角度になっている。目は開いていたが、焦点がどこにあっているのか分からなかった。竜平は「体に気をつけてください」と言った。清子の目がまた動いた。何かを伝えようとしているように見えたが、竜平には分からなかった。
部屋を出て階段を降りた。大輔は何も言わなかった。竜平も何も言わなかった。玄関で靴を履きながら、竜平は直樹の姿を探した。リビングに戻っているようだった。テレビの音が聞こえた。大輔が「送る」と言った。「いい」と竜平は言った。門を出て来た道を戻った。後ろを振り返らなかった。
バス停まで歩きながら、竜平は今見てきたものを頭の中で整理した。大輔の家の状態、清子の様子、直樹の顔。リビングに散らかったもの。これが大輔が誇っていた持ち家への今の姿だった。「家があれば老後は安心だ」と言っていた男の家が、今は売れるかどうかも分からない状態で、中には病人と無職の息子がいる。竜平が住んでいた三十平方の賃貸よりも、もっと深いところに沈んでいた。
バスが来た。竜平は乗り込んで窓際の席に座った。「金は戻らないかもしれない。大輔が言う妻の土地も当てにできない。でも今日来てよかった」。竜平はそう思った。見なければ、想像の中で大輔の状況はもっと不確かなままだった。今ははっきりと見えた。大輔の現実が竜平の中に像を結んだ。それは感情的な怒りを、少し別の何かに変えてくれた。怒りがなくなったわけではない。ただ、その怒りの輪郭が少し変わった。
千葉から戻った夜、竜平は飯を食わなかった。空腹ではないわけではなかったが、台所に立って何かをする気になれなかった。椅子に座って、コップに水を注いでそれだけ飲んだ。千葉で見てきたものがまだ体の中にあった。整理されないままだ。翌朝、竜平はメモ帳を引っ張り出した。退去まであと何日あるかを数えた。五十二日だった。先日メモを渡した不動産屋へ行くと、前回と同じ老眼鏡の男が座っていた。「ご希望の条件に合う物件がなかなかないんですよ。四万円台で高齢の単身者を受け入れてくれる大家さんが少なくて」。竜平は現状を説明した。「退去まで五十日ほどある。急いでいるが焦っているわけでもない。家賃の上限は引き上げることもできる。五万円台でも構わない」。男は少し考えてから「一つだけあります。ただ、いい物件ではないですよ」と前置きして資料を出してきた。木造アパートの二階、築四十二年、家賃三万八千円、駅から徒歩二十分、バストイレ別、六畳一間。築四十二年というのは、今の自分が住んでいる部屋よりさらに古い。駅から二十分というのも遠い。だが家賃は今より安い。竜平は「見に行けますか」と聞いた。
午後、不動産屋の男と合流して車で現地へ向かった。駅から離れた住宅地の中の細い道に面したアパートだった。外壁は茶色がかった古いモルタルで、所々ひびが入っている。外階段の手すりは錆びていた。二階に上がると廊下の突き当たりの部屋だった。六畳の和室に小さな台所が続いている。風呂は別の共同浴室で、トイレは廊下に出て隣にある。窓は南向きで、今の部屋より日当たりがいい。遠くに低い山の稜線が見えた。「少し考えます」と竜平は言った。帰り道、車の中で男が言った。「この物件、他にも何人か見に来ているんですよ。大家さんも高齢で、建物の管理が追いつかない部分があるのがご承知いただければという条件ですが」。竜平は「分かりました」と言った。
その夜、仕事の合間に竜平はあの部屋にすることを心の中で決めた。決断に大した根拠はなかった。他の選択肢がほとんどないということ。南向きで日当たりがいいこと。家賃が今より安いこと。それだけのことだった。翌朝、事務所を出てすぐに不動産屋に電話をした。「あの部屋でお願いしたい」。数日後、竜平は不動産屋で契約書にサインをした。入居は三週間後、退去期限の一週間前だった。契約を済ませて外に出ると、空が曇っていた。竜平はしばらく経ったまま空を見た。住む場所が決まった。それだけのことだが、何か一つが片付いた感覚があった。次の三ヶ月だけは屋根がある。三ヶ月先のことは、また三ヶ月後に考えればいい。
引っ越しの準備を始めながら、竜平の頭の一部はずっと大輔のことを考え続けていた。千葉に行った日から二週間が経っていた。大輔からの連絡はなかった。竜平からもかけなかった。押入れの奥から古いダンボール箱が出てきた。中を開けると、印刷工場時代の写真が数枚入っていた。若い竜平が仲間と並んで映っている。写真の裏に仲間の名前が書いてあった。自分で書いた字だった。工場が閉鎖されてから、一度も連絡を取っていない。今どこで何をしているか、生きているかどうかも知らない。竜平は写真をダンボールに戻した。捨てなかった。
引っ越しの前日、竜平は大輔に電話をかけた。今度は大輔が直接出た。「明日引っ越しだ」。大輔は少し黙ってから「そうか」と言った。「新しい住所を伝えておく。万が一の連絡先として伝えておく必要があると思ったからだ」と竜平は言って、住所を告げた。大輔が何かを書き取る音がした。「直樹はどうしている」。大輔は「まだ仕事は見つかっていない。ハローワークには行っているらしい」と言った。竜平は「そうか」と言って、それ以上は何も聞かなかった。「金のことは」と大輔が言った。声が低くなった。「本当に申し訳なかった。必ず返す」。竜平は「当てにはしていない」と言った。「返せる状況になったら返してくれ。返せない状況なら、それはそれだ」。大輔が「兄貴」と言った。それからまた詰まった。竜平は「じゃあな」と言って電話を切った。
翌日、引っ越しは午前中に終わった。荷物は思ったより少なかった。三十年分の生活が、ダンボール箱十一個と布団一組と小さなテレビに収まった。古い部屋を最後に確認した時、竜平は入口のところでしばらく立っていた。ガランとした六畳の空間。三十年間ここで寝て起きて飯を食った。竜平は部屋に向かって特に何も言わなかった。ただもう一度だけ見た。それだけだった。扉を閉めて鍵を返した。
新しいアパートに着いたのは昼前だった。荷物を部屋に入れて業者が帰った後、竜平は一人で部屋の中に立った。南向きの窓から光が入っていた。外の空気を入れようと窓を開けると、遠くに低い山が見えた。前の部屋では何も見えなかった。竜平はしばらくその景色を見た。「悪くない」と思った。それだけだった。
その夜、竜平は久しぶりに早く眠れた。翌朝目が覚めると、南の窓から光が入っていた。この部屋では朝の光が畳の上に細長い四角を描いていた。竜平はしばらくその光の四角を見た。特に考えがあったわけではない。ただそこに光があった。それだけのことだった。
午後、竜平は散歩に出た。新しい部屋の周辺の道を、特に目的もなく歩いた。公園があって、池があって、カモが一羽浮かんでいた。竜平はベンチに座ってカモを見た。カモは特に何もしていなかった。水の上に浮かんで、時々頭を水に突っ込んで、また浮かんでいる。それだけだった。
その日の夕方、竜平が部屋に戻ると携帯が鳴っていた。見知らぬ番号だった。市外局番は千葉だった。「黒田竜平さんですか」と相手は言った。女の声だった。四十代から五十代くらいの事務的な声。法律事務所と名乗り、黒田大輔さんの住宅ローンの件で、裁判所から競売開始決定が出たことを伝えられた。大輔さんとは連絡が取れているが、今後の手続きについてご親族の方にも状況を把握してもらいたいという。竜平は「分かりました。本人と話してみます」と言って電話を切った。
部屋の中に静かな空気があった。競売開始決定。裁判所が不動産の売却手続きを始める。落札されたら、そこは他人のものになる。大輔は出て行かなければならない。大輔と清子と直樹が住む場所を失う。竜平は大輔に電話をかけた。大輔はすぐに出た。「法律事務所から連絡があった。家はどうなる」。大輔は「もう仕方ない」と言った。「銀行との交渉が決裂した。落札されたら出ていくしかない」。「清子さんはどうする」と竜平は聞いた。大輔の声がそこで少し変わった。「老人ホームを当たっている。低所得者向けの施設で空きがあれば入れてもらえるかもしれない。でも金があるわけじゃない。すぐには難しい」。「お前と直樹はどこへ行く」。大輔は「それがまだ決まっていない」と言った。声に諦めた色があった。
竜平は少し考えた。考えながら、自分の部屋の南向きの窓を見た。今朝、そこに光の四角が差し込んでいた。「俺の部屋には来るな」と竜平は言った。声は静かだった。感情的ではなかった。ただはっきりと言った。「俺は六畳一間だ。三人を入れる場所がない。金もない。出せる余裕はない。それは最初から言っている。ただ清子さんの施設のことは、行政の窓口で相談すれば道があるかもしれない。直樹は自分でどこかに行ける年齢だ。お前は年齢的に、低所得者向けの公営住宅に申し込む資格があるはずだ。自分で調べて動け」。大輔は何も言わなかった。竜平は「お前が俺に頼めることはもうない」と言って、電話を切った。
部屋に静寂が戻った。竜平は自分が今言ったことを頭の中でもう一度確認した。「俺の部屋には来るな」。それは本当のことだった。嘘はない。ただ、電話を切った後の静寂の中で、竜平は自分の胸の中に何か重いものが残っていることに気づいた。怒りではなかった。後悔でもなかった。もっと言葉にしにくい、灰色のような感触のものだった。布団を敷いて横になった。天井を見た。染みのない、新しい天井だった。目を閉じた。暗闇の中で大輔の声が残っていた。諦めた色のある声。竜平はその声を追い払おうとしなかった。ただ、そこにあるものとして聞いていた。
あの電話から一ヶ月が経った。竜平は新しいアパートの生活に、少しずつ慣れていった。南向きの窓から差し込む朝の光にも、共同トイレへの廊下の冷たさにも。大輔からの連絡はその一ヶ月の間に二度あった。一度目は、千葉の家の競売入札が行われた日の夜だった。声は乾いていた。「落札された業者が勝った。退去まで二ヶ月の猶予をもらった」とそれだけ言った。竜平は「分かった」と言った。それ以上は何も聞かなかった。二度目は、それから十日ほど後だった。清子が低所得者向けの特別養護老人ホームに空きが出て、入居できることになったという。竜平は「良かった」と言った。本心だった。
十一月に入ると、竜平の仕事に変化があった。廃品置場の管理会社から、担当エリアの縮小に伴い夜間警備の人員を一名減らすという通知が届いた。勤務年数の短いものか、高齢のものを優先するとあった。竜平は七年この現場にいたが、六十九歳という年齢が理由になった。解雇ではなく、契約の更新をしないという形だった。翌月末が最終勤務だった。
最終勤務の夜、竜平は事務所の備品を確認して引き継ぎ書類を書いた。懐中電灯の電池を新しいものに変えておいた。頼まれたわけではないが、次に使う人間のためにそうした。夜明け前の最後の巡回に出た。廃品置場の中をいつものように歩いた。錆びた鉄くずの山、潰れた家電の束、積み上げられた段ボール。七年間何度も見てきた光景だった。フェンスの橋まで歩いて立ち止まった。空が少しだけ白くなり始めていた。東の方から夜の色が薄れていく。竜平はしばらくそれを眺めていた。七年間、ここで同じ夜明けを見てきた。雲の形が違う。気温が違う。風の向きが違う。でも、夜明けが来ること自体は変わらない。それだけは変わらなかった。
帰り道の電車の中で、竜平は次の仕事のことを考えた。六十九歳で新しい警備の仕事を見つけるのは難しい。仕事がなくなれば収入は年金の六万四千円だけになる。そこから家賃三万八千円を払えば、残りは二万六千円だ。貯金を取り崩していくしかない。
二ヶ月後、竜平はシルバー人材センターに登録した。最初に紹介されたのは、近くの公民館の清掃作業だった。週三回、朝八時から十一時まで。床を拭いて、トイレを掃除して、窓を拭く。報酬金は月に三万円に満たない。竜平は文句を言わなかった。黙って作業した。ある朝、廊下を拭いていると、隣で作業していた七十二歳の男が話しかけてきた。「前は何をしていたんですか」。竜平が「警備員です」と答えると、男は「私は銀行員でした。定年後に再雇用で五年いて、その後、食堂で三年。全部で四十二年務めました。それが終わったら、行くところがなくなって」と言って笑った。笑い方は特に楽しそうではなかった。「妻はもう十年前に亡くなって、子供は二人いるけどそれぞれ遠くにいて。一人でいると体が鈍るから来てるんですよ。金は関係ない。体を動かしていないと、頭もおかしくなりそうで」。竜平は頷いた。その男とはそれ以降も時折言葉を交わしたが、深い話はしなかった。それが竜平にとって、ちょうどいい種類の関わりだった。
冬になった。南向きの窓から入る日差しは、冬になると低い角度で長く部屋に差し込んでくる。ある夜、竜平は押入れの中の整理をしていて古いダンボール箱を引っ張り出した。引っ越しの時に持ってきた写真の入っていた箱だった。写真を一枚ずつ見た。工場時代の仲間と映ったもの。一番古い写真は、竜平が二十代の頃のものだった。工場の前で同僚数人と並んでいる。竜平の顔は若く、今より丸みがある。写真の裏に名前が書いてある。田村、佐々木、長谷川、黒田竜平。工場が閉鎖された時、あいつらはどこへ行ったのか。竜平は写真を元の箱に戻した。捨てなかった。捨てる理由がなかった。
年が明けた。元日の朝、竜平は特に何もしなかった。おせちも年越しそばも用意しなかった。テレビでは正月番組をやっていたが、音がうるさかったので消した。静かな元日だった。午後、竜平は近所を少し歩いた。公園のベンチに座って空を見た。冬の空は高く、青が薄かった。カモは今日もいた。水の上に浮かんで、同じように動いている。カモに正月は関係ない。竜平にもそれほど関係なかった。
ベンチに座りながら、竜平は去年一年のことを振り返った。退去通知が来た。三百万円を大輔に渡した。千葉へ行って大輔の家を見た。引っ越した。仕事を失った。シルバー人材センターに登録した。競売の連絡が来た。出来事として並べると、密度のある一年だった。だが一つ一つが過ぎていく時は、それほど大きく感じなかった。起きていることに対して、その都度できることをして次に進んだ。それだけだった。大輔は今どこにいるのだろう。竜平は知らない。知らないままでいることを、竜平は意識的に選んでいた。
二月になったある日の朝、竜平の元に手紙が届いた。封筒に差出人の名前はなかった。中に入っていたのは便箋一枚だった。字は大輔の字ではなかった。もっと下手で、力の入っていない字だった。読んでいくと、直樹からの手紙だと分かった。
「おじさんへ。父から聞きました。おじさんが三百万円を貸してくれたこと。そのうちの百万円が俺の借金の返済に使われたこと。おじさんに直接言う機会がなかったので手紙を書きます。父は今、千葉市内の安い賃貸に一人で住んでいます。俺は別のところにいます。仕事はまだ定まっていませんが、短期の仕事をいくつかやっています。おじさんの金のことは、返せるかどうか分かりません。正直に書きます。俺が借金をしたのは俺の責任です。父に迷惑をかけました。おじさんにも間接的に迷惑をかけました。それだけは言っておきたかった」。
字は途中から少し乱れていた。竜平は手紙を読み終えて、しばらくテーブルの上に置いたまま眺めた。あの油の浮いた顔のジャージ姿の男が、便箋に字を書いた。それが竜平の頭の中に像として浮かんだ。どんな場所で書いたのか、どれだけ時間をかけたのか、竜平には何も分からなかった。ただ、手紙が来た。それだけは事実だった。竜平は引き出しから便箋を取り出した。ペンを持った。返事を書かないということは、なんとなく違う気がした。「直樹へ。手紙を読んだ。金のことは、返せるようになったら返してくれ。返せない状況なら、それはそれだ。お前の父親が今どこにいるか、連絡先を教えてくれ」。それだけ書いた。署名して封筒に入れた。
翌日、竜平は大輔に電話をかけた。「今どこにいる」。大輔は「千葉市内に部屋を借りた。ワンルームだ。一人だ」と言った。「直樹は」と竜平が聞くと、「別のところにいる。連絡は取れている。仕事をしているらしい」と大輔は言った。「体はどうだ」。大輔は少し間を置いて「まあなんとかやっている。年金と少し貯金が残っていたので、当面は生きられる」と言った。清子さんの施設には行っているかと聞くと、「月に一度行っている。面会に行くと、少し目が動く」と言った。しばらく二人の間に静かな時間があった。大輔が「兄貴」と言った。「何だ」と竜平は言った。「色々とすまなかった。金のことだけじゃなくて。昔から兄貴が工場に行って俺が大学に行って。それから俺はずっと兄貴のことを下に見ていた。持ち家があって出世して、そっちの方が上だと思っていた。馬鹿だった」。
竜平はそれを聞いて、すぐには何も言わなかった。怒りにはならなかった。驚きもなかった。ただ、そういうことだったのかという確認に近い感覚があった。「お前が馬鹿だったかどうかは知らない」と竜平は言った。「ただ俺も、持ち家を持った人間のことを何も知らなかった。お前の家がどういう状況か、何十年も知らないままでいた。知ろうとしなかった。お互い様だろう」。大輔が「そんなことはない」と言いかけた。竜平は「そこで終わりにしよう」と言った。大輔が「兄貴」と言った。「また連絡してもいいか」と大輔は言った。竜平は少しの間何も言わなかった。それから「構わない」と言った。
電話を切った後、竜平は少しの間携帯電話を手の中に持っていた。「また連絡してもいいか」。大輔がそう聞いた。その言葉の中に何があったのかを竜平は考えた。謝罪の延長か、あるいはもう少し違う何かか。判断しなくていいと思った。「構わない」と言った。それだけのことだ。
春になった。公民館の清掃の仕事は続いていた。ある朝、清掃を終えた後、七十二歳の男と公民館の前で少し話した。男は最近孫が生まれたと言った。「写真を送ってきた」と言って携帯の画面を見せた。竜平は画面を見た。赤ちゃんの写真だった。「可愛いですね」と竜平は言った。男は「そうでしょう」と言って顔をほころばせた。「こういうのがあると続けられますよ。また来週も来ようという気になる」。竜平は頷いた。男が先に帰った後、竜平は公民館の前に少し立っていた。続けられる理由が人によって違う。孫の顔という人もいれば、竜平には孫はいないし、子供もいない。ではなぜ続けるのかと聞かれたら、竜平にはうまく答えられない。ただ朝が来るから起きる。仕事があるから行く。腹が減るから食べる。それだけのことが、続くことの理由になっている。
五月のある午後、竜平は部屋で窓を開けて外の空気を入れていた。春の終わりの風がカーテンを揺らした。遠くの低い山に薄い緑が乗っていた。携帯が鳴った。大輔だった。「兄貴、ちょっといいか」。要件があるのではなく、ただ電話したいというような声だった。「この前、直樹と飯を食った。千葉駅の近くの蕎麦屋で二人で食べた。あいつも少し落ち着いてきたみたいで、仕事は倉庫の仕分けをやっているらしい」。「そうか」と竜平は言った。「あいつ、兄貴に礼を言いたいと言っていたよ。手紙を出したこと、返事がなくても送ってよかったと思っていると言っていた」。竜平は少しの間何も言わなかった。「返事は書いた」と竜平は言った。「住所が分からなかったから出せなかっただけだ」。大輔が「そうだったのか。知らなかった。直樹に伝える」と言った。「伝えなくてもいい」と竜平は言った。「もう終わったことだから」。大輔はしばらく黙った。それから「兄貴は変わらないな。昔からそういう人間だった」と言った。竜平は「そうか」とだけ言った。変わらないというのが良いことなのか悪いことなのか、竜平には分からなかった。ただ大輔がそう言ったことを、竜平は否定しなかった。
電話が終わって、竜平は窓の外を見た。風がカーテンを揺らしている。遠くの山の緑が、光の中で少し明るくなった。竜平は椅子に座ったまま、しばらくその景色を見ていた。三百万円は戻っていない。仕事は変わった。住む場所も変わった。弟とは細い糸一本で繋がっている。それが切れることもなく、太くなることもなく、ただそこにある。これが老後というものなのかもしれなかった。誰かに言われていたような話とは違う。持ち家があれば安心だとか、家族がいれば大丈夫だとか、そういう話は竜平の人生の中では一つも当てはまらなかった。ただ朝が来て光が差し込んで飯を食ってまた夜になる。それが続く。
竜平は立ち上がって台所でお湯を沸かした。コーヒーを入れて、窓の前の椅子に戻った。南向きの窓から午後の光が長く伸びて、畳の上に落ちていた。竜平はコーヒーを一口飲んだ。特に何も考えていなかった。ただそこにいた。それで今日も終わっていく。
