夕食の支度をしていたら、夫が私の通帳をライターで燃やし始めた。「俺より稼ぐと思って調子に乗りやがって」——三十二歳の私、ルミは上場企業で働き、夫のタヤは中小企業の平社員。給料が彼を二万円だけ超えた日から、彼は别人のように変わった。私がブラック企業でボロボロだった頃、「結婚すればいい」と何度も言ってくれた優しい人だったのに。今では「お前は勝手に働いてるんだから、家事に手を抜くな」と上から目線で…

夕食の支度をしていたら、夫が私の通帳をライターで燃やし始めた。「俺より稼ぐと思って調子に乗りやがって」——三十二歳の私、ルミは上場企業で働き、夫のタヤは中小企業の平社員。給料が彼を二万円だけ超えた日から、彼は别人のように変わった。私がブラック企業でボロボロだった頃、「結婚すればいい」と何度も言ってくれた優しい人だったのに。今では「お前は勝手に働いてるんだから、家事に手を抜くな」と上から目線で...

私はルミ。フルタイムで働く三十二歳のいわゆるバリキャリ女性だ。新卒で小さな会社に拾ってもらったのだが、その会社が五年前に上場企業へ吸収合併されてから、私の社会人人生は一変した。それまでのブラックな環境からほぼ残業なしのクリーンな環境へ移り、給料も上場企業の水準に合わせて改定された。何の努力もしていないのに、収入だけが勝手に上がっていったのだ。

それを自分のことのように喜んでくれたのが、三歳年上の恋人だったタヤだ。タヤは私が低賃金のブラック企業で残業代も休日手当てもなくボロボロになっていたのをよく知っていた。何度も「そんな会社やめろ。俺と結婚すればいいじゃないか」と言ってくれていたが、私が辞めれば他の人にしわ寄せがいくと思うと、なかなか決心がつかなかった。そんな折の吸収合併で職場環境も給料も上がったのだから、彼もほっとしたのだろう。合併後すぐに私たちは結婚した。

私はタヤに「せっかく大企業で働けるのだから、しばらく仕事を続けたい」と伝えた。彼はアパート暮らしに不満があり、できるだけ早くマンションを購入したいと考えていたから、私の申し出に賛成してくれた。

しかし、給料が上がってホワイト企業で働けてラッキーなんて浮かれていたのは最初だけだった。

元々その大手企業で働く人たちは、難しい試験を突破して入社した人ばかり。頭の出来が私とは比べ物にならない。最初は慣れていないからと温かい目で見てくれていたものの、一ヶ月もすると私の能力不足が部署の全員に知れ渡り、雑用しか任されなくなってしまった。楽でいいと思うかもしれないが、大量の書類をシュレッダーにかけるだけ。何年も前にできたほこりをかぶった書類を倉庫に運ぶだけ。そんな日々が続き、私は自分の無能ぶりが情けなくなった。

そこで毎日始業時間前に行われる部署の朝礼の際、全員の前で頭を下げた。

「私、これまで皆さんに甘えていました。今日から気合を入れ直して頑張りますので、お仕事のご指導よろしくお願いいたします」

部署の人たちは厳しくも優しい人ばかりだった。その日から業務を一から教えてくれるようになり、私も必死に覚えた。すると徐々に仕事を任せてもらえるようになり、小さなプロジェクトから、やがて大きなものにも参加させてもらえるようになった。給料やボーナスも上がっていき、本当に嬉しかった。

しかし、タヤは私が徐々に成功していくのが面白くなかったようだ。私が仕事を頑張るようになってから、定時で帰宅しても頭が仕事のことでいっぱいで、夕食を作って食べ、シャワーを浴びたら倒れるように寝てしまう毎日だった。彼は自分がないがしろにされていると感じたのかもしれない。もちろんそんなつもりはなく、週末はできるだけ二人の時間を作るようにしていたのだが。

私の収入がタヤを超えてしまったあたりから、彼は露骨に不快感を見せるようになった。

「ちょっと超えたって言っても、ちょっとだよ。それに給料が上がった分、来年は住民税も上がるし、九月から社会保険料もアップするから」

そう言って彼の怒りを抑えようとしたが、「ルミの方が多くもらってるって自慢かよ」「簡単にちょっとだなんてよく言えるよな。俺は中小企業の平社員だからな。そのちょっとがでかいんだよ」と、何を言っても悪い方に取られてしまう。挙げ句の果てには、私が話しかけても「お忙しいルミ様は、俺のことなんか無視して仕事の勉強に励んでください」と、自室にこもってしまうようになった。

まさか給料が二万円ほど高くなっただけで、ここまで人が変わるなんて。

私は無邪気にタヤへ給料明細を見せたことを後悔した。それと同時に、彼がこんなに小さな男だったことに驚いた。それとも男性ってみんなそうなのか。思わずスマホで検索すると、出るわ出るわ。夫より給料が高くなった途端、辛く当たられたり、暴力を振るわれたり、夫が仕事を辞めてしまったり、浪費するようになったりといった体験談がごろごろ出てきた。中には離婚された、あるいは自分から離婚を切り出したというものもあった。

「うわ、やばい」

そう思いながらさらに調べると、妻の能力が社会で認められていることを誇りに思う、家計が安定するのでありがたい、好きな仕事でしっかり稼いでいる妻は素晴らしいといった意見を持つ男性も結構いることが分かった。ある調査では、妻の方が給料が高いと嫌だと答えた男性は三割に満たなかったという。

私は実家に顔を出した時、父にも聞いてみた。

「お前の夫はなんて情けないやつなんだ。あいつはお前が毎日努力していたことを知ってるんだろう。自分は努力もしないで、その言い草は何だ? そんなやつとは離婚してしまえ」

父は激怒した。やっぱりタヤは小さな男だったんだ。そう思うと、大恋愛の末に結婚したはずなのに、彼に対する愛情が冷えていくのが分かった。とはいえ結婚してまだ四年だ。以前私がブラック企業に勤めていた時に支えてくれた優しい彼のことは忘れられなかった。それに二年前に購入したマンションのローンもある。どうしたらいいんだろう。

そう悩んでいると、久しぶりに自室から出てきたタヤが、突然上から目線で言ってきた。

「お前は勝手に働いてるんだから、家事に手を抜くな。飯も掃除も洗濯も満足にしないくせに、高給取りアピールしてんじゃねえよ」

カチンと来たが、確かに手抜き部分があったのも事実だ。スーパーのタイムサービスで買ったお総菜なんかをよく出していたし、掃除も洗濯も週末にまとめてやっていて、家の中は決して清潔とは言えなかった。

そこで私は週末、タヤがゴロゴロしたりパチンコに行ったりしている間に、一週間分の夕食の下ごしらえをするようにした。掃除はお掃除ロボットを私のお金で購入。洗濯は乾燥までできるドラム式洗濯機を、これも自前で買った。

しかし、これがまたタヤの嫌みを増幅させた。

「自分は週末も頑張ってますアピールか。すごいね、立派立派。お金があり余ってる人はいいね。自分じゃ何もやらずに、機械にやってもらえるんだから。もういいよ、勝手にしろ」

私も夫に言い返すのが面倒になり、一時的に別居してお互い冷静になった方がいいと思った。それで関係が修復しないようなら、残念ながら別れるしかないだろう。

すぐに会社の近くのワンルームマンションを借り、タヤにそれを伝えた。すると彼は「俺より稼ぐと思って調子に乗りやがって」と、私の机の中に入っていた私名義の通帳を取り出すと、目の前でライターで火をつけて燃やし始めたのだ。

鼻の穴を広げ、ドヤ顔で私を見下ろすタヤを見て、正直この男はバカかと思った。

「その通帳、もう使ってないんだけど。今はウェブ通帳にしてるから」

それを聞いたタヤは顔を真っ赤にすると、半分焼けた通帳を私に投げ捨て、また自室にこもってしまった。

ああ、だめだ。昔の優しい思い出が、今すべて消えちゃった。父の言う通り、タヤは自分では何もしないくせに、プライドが傷つくと暴言を吐く最低の男になり下がってしまったのだ。

そう思いながら、私はマンションを後にした。

一人暮らしは本当に快適だった。職場に近いから朝はゆっくり寝ていられるし、たまに残業を頼まれても喜んで受けることができる。それにタヤというストレスが身近から消えたことで仕事に集中できるようになり、三十二歳にして主任という肩書きをいただけるまでになった。残業代はつかなくなるが、元々一ヶ月数時間程度だったし、役職手当がどんとついたから、タヤの一・五倍は稼げるようになった。

一年も経たないうちに、もう離婚でいいかなと思うようになった。タヤに何度も連絡したのだが、ブロックでもされているのか一向に応答も返信もない。仕方なく直接話し合おうと、週末、あのマンションに帰った。

ドアを開けてすぐ目に飛び込んできたのは、リビングで女性と抱き合っているタヤの姿だった。

「な、なんだよ。勝手に入ってきやがって」

彼と女性は焦って服をかき集める。

「なんてって、ここは私の家でもあるんだから。別居してもそれは変わらないわよ」

二人の姿に一瞬驚きはしたものの、「まあ、タヤならやりそうよね」とすぐに冷静さを取り戻した。私は浮気相手に冷たく言った。

「あなたが座っているそのソファー、私が買ったものなんですけど」

慌ててソファーから立ち上がった彼女を横目で見ながら、私は夫に微笑みかけた。

「そのソファー、買い取ってもらえるわよね。けがらわしいからもう使う気もないし、捨てるのも面倒だから。それと、これに署名してくれる? すぐ役所に提出するから」

バッグから離婚届を取り出すと、夫は「待ってました」とばかりに「本当にいいんだな」とニヤニヤしながら署名した。

「ありがとう。今から役所に出しに行くわ。細かい話は?」

「そうだな。来週水曜あたり、会社帰りはどうだ」

彼はすぐに承諾した。

待ち合わせた喫茶店の席で、タヤは勝ち誇ったようにふんぞり返った。

「俺はあのマンションから出ていく気はないからな。お前が俺を侮辱したせいで離婚になったんだから、慰謝料と財産分与代わりにもらうぜ」

私が無言のまま彼の顔をじっと見ていると、彼は続けた。

「マンションの名義、お前だったよな。かわいそうにな。給料が高いばっかりに、追い出された後もローンの支払いを続けなきゃいけなくてさ。ああ、俺は給料が安くて良かった」

そう言うタヤの顔を見て、私は思わず笑い出してしまった。

「あなたって本当にバカね。婚姻期間五年の夫婦の慰謝料なんて、せいぜい百万程度よ。あのマンション、いくらしたと思ってるの? 慰謝料代わりだなんて、図々しいにも程があるわ」

さらに私はこうも伝えた。このマンションは購入時、すでに私の方が給料が高く、勤務先も私の方がはるかに規模が大きい上場企業だった。銀行側が私の名義ならローン審査を通すと言ってきたため、私名義で購入した。そしてタヤはローンマンションの管理費や修繕費を一切払ってこなかった。生活費の大半も私が払っていた。だから財産分与の対象外となるだろう、と。

自分が強気に出ればそのまま要求が通ると思っていたらしい。タヤは目を丸くした。

「それとね、私たちの離婚に関しては、父から弁護士を紹介してもらってもう相談してるの。完全にあなたに落ち度があるってことだから、慰謝料をもらうのは私の方よ」

ここまで言われると、タヤは顔を真っ赤にしてテーブルを握り拳で叩くと、喫茶店を出て行こうとした。

「どこに行くつもり?」

「帰るんだよ、あのマンションに。俺は絶対出ていかないからな」

そう言って駅に向かって歩き出そうとする彼に、私は言った。

「別にいいけど。今頃もう、私の両親の引っ越しが住んでくつろいでるところだと思うわよ」

「はあ?」

「実家がかなりボロくなってたから、あのマンションに引っ越してこないかって両親に提案したの。多分、あなたの荷物は全部外に放り出してるんじゃないかしら。父があなたのこと、ものすごく怒ってたから。私がわざわざこの日の夜に会うことを指定したのは、両親の引っ越しが月曜日だったからよ」

微笑みながらそう話すと、タヤはショックのあまり、その場に座り込んでしまった。

「どうしても行くつもりならどうぞ。でも不法侵入になるから、すぐに父が警察を呼ぶと思うけど」

そこまで言うと、タヤはがっくりと肩を落としていた。

あの後マンションに急いで帰ったタヤは、本当に自分の荷物が全てゴミ捨て場に放り出されていたことに大きなショックを受けたようだ。部屋に入ることもなく、必要最低限のものだけ持って、あの時の女性の元へ行ったらしい。むかつくことに、二人がいちゃついていたソファーは持っていかなかった。

私はその分の五十万円も合わせて、二人に慰謝料を請求してやった。その借金を背負うことになった彼らは、その後、朝から深夜まで働き詰めになったと聞いた。

一方の私は、両親との三人の生活を楽しみながら、仕事も頑張っている。これからの生活は、心穏やかに過ごせそうだ。

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