俺は伊藤安明。三十代前半まで大学病院で医師として働いていた。そこで知り合った妻と結婚し、娘の雪を授かった。仕事は忙しかったが、家族三人で絵に描いたような幸せな日々を過ごしていた。妻は専業主婦として家を守り、娘の育児も、俺のことも献身的に支えてくれた。我が家の太陽のような存在だった。
ところが、俺が三十代後半に差しかかった頃、妻が体調の不良を訴えた。すぐに大学病院で診察を受け、大病が発覚した。医師である俺は、その病気が何を意味するのか、誰よりも早く理解してしまった。妻の命が長くないという現実を突きつけられたのだ。
医師として、そして何より夫として、妻に付き添った。日に日に細くなっていく手を毎日握りしめ、励まし続けた。しかし、妻は最後にこう言った。
「安明さん、今まで本当にありがとう。雪をお願いね」
一筋の涙を流し、二度とあの優しい笑顔を見せることはなかった。
俺は途方に暮れた。覚悟はしていたはずだった。それでも、心の中にぽっかりと穴が開いたような虚無感が広がった。その穴を埋めようと、雪を両親に預け、仕事に打ち込んだ。だが、心の穴は埋まらなかった。それどころか、高齢の両親に大切な娘を預けている現状に悩んだ。
毎日帰宅する頃には雪はもう寝ており、会話を交わすこともなくなっていた。眠っている娘の頭を撫でながら声をかける。
「パパだよ。ただいま」
愛おしい娘の存在に癒される。しかし、そんな雪の寝言に胸を締めつけられた。
「ママ……ママ」
辛い思いをしているのは俺だけではない。雪にも寂しい思いをさせてしまっていた。妻の最期の言葉を思い出す。
「雪をお願いね」
俺は声を殺して泣いた。妻が亡くなってから、あれほど泣いたことはなかっただろうというくらい、涙が止めどなく溢れてきた。
それから俺は、妻との約束を守りたい思いと、雪に寂しい思いをさせまいと、忙しすぎる大学病院を辞めた。退職後は実家近くの小さな病院で週二日だけ働く非常勤医師になった。さらに、開いた時間に絵を描くことを再開した。実は俺には、医師になる夢ともう一つ、画家になる夢があったのだ。
収入はかなり厳しくなったが、両親の支えもあり、大切な雪との幸せな時間を取り戻すことができた。雪も素直で優しい子に育ってくれた。月日は流れ、非常勤で働きながら描き続けた俺の絵は、数々の賞を受けるほどの実力をつけ、画家としての収入も得られるようになった。
収入が安定したことで、勉強ができた雪を自由に大学へ進学させることができた。そして娘が社会に出てから数年が過ぎた頃、年頃になった娘を見て、ふと気になることができた。
「雪もいい年になってきたけど、結婚とか、まだ考えていないんだろうな」
娘がいない両親との食卓で、ぽつりと漏らした俺の不安に、両親は目を丸くした。
「なんだよ。まさか……」
「あら、雪ったらパパには内緒だったのかしらね」
母は慌てる俺を見て、くすくす笑いながら言った。
「安明は高校の時の同級生の村井君って覚えてない?」
どうやら雪は、両親には彼氏がいることを話していたらしい。俺だけが知らされていなかったのだ。
「知らないぞ。なんだよ。知らなかったのは俺だけか? 父さんも知ってたのか?」
「ああ、俺も知ってたぞ」
父は自慢げに言う。娘に彼氏がいるという現実に、俺はしょんぼりしてしまった。
「どこのお嬢さんも彼氏ができた報告はパパが最後よ」
母が慰めてくれる。
「村井君も結婚を意識しているみたいなんだけど、何でも村井君のご両親は偏見が強い人らしくてね。雪のことを心配して、結婚に踏み切れないみたいよ」
結婚の話まで母から聞かされ、驚きと動揺を隠せなかった。だが、雪も結婚を考える年になっている。親として、選ぶ相手を信じるしかない。
「分かった。俺も雪と話してみる」
その夜はなかなか寝つけなかった。あんなに小さかった雪が、結婚を考える年になったのだ。複雑な心境だった。
それから俺は早速行動に移した。雪と食事に行く約束をして、二人で話す時間を設けた。
「雪、おじいちゃんとおばあちゃんから聞いたぞ。いい人がいるってな」
俺は恐る恐る話を切り出す。
「やだ。おじいちゃんたち、私が言う前に言っちゃったのね」
雪は驚いたように笑う。
「俺が雪も結婚とか考えていないのかって話を始めたのがきっかけで、彼氏のことを聞いたんだ。知らないのは俺だけだったけどな」
わざといじけたそぶりを見せると、雪は慌てて言った。
「パパ、そんなんじゃないの。パパにも話そうと思ってたのよ。本当よ」
「冗談だよ。おばあちゃんも言ってたよ。この手の報告は父親が最後ってな」
「それより、心配事があるんじゃないか」
話を聞くと、雪は眉を寄せて苦笑いを浮かべた。
「彼のお父さん、昔から言葉がきついのと、片親への偏見が強いらしくて……彼が私やパパを傷つけてしまうんじゃないかと心配してて」
雪の心配そうな表情に、俺は彼氏に取られる寂しさよりも、父親としての使命感が強くなった。
「雪は俺とおじいちゃんたちが愛情をたっぷりかけて育てたいい子だよ。勉強も頑張って成績も良くて、大学まで進学していい仕事に就いた自慢の娘だ。俺は自信があるぞ。だから心配いらないよ。彼にも、ご両親にも合わせてくれないか?」
「パパ、ありがとう。心配かけてごめんね」
それから俺はケント君に会った。人当たりが良く、優しい青年だった。ケント君にも両親に会いたいことを伝え、俺たちは彼の両親と顔を合わせることになった。
雪たちが予約したホテルに、俺と雪は向かった。先に着いたのは俺たちの方だった。個室に通され、そわそわしてネクタイを直したり、窓から外を見たり、立っては座りを繰り返す俺を見て、雪が無邪気に笑う。
「パパ、落ち着いて」
「ああ、そうだな」
苦笑しながら椅子に座った時、扉が開き、ケント君とご両親が部屋に入ってきた。
「遅くなって申し訳ありません」
ケント君が謝るが、後ろから入ってきた両親は不機嫌そうな様子だ。俺はすぐに立ち上がり、深々と挨拶をした。
「どうも初めまして。娘がいつもお世話になっております。父の伊藤安明です」
「村井だ。息子に言われて来たが、俺も忙しいんだ。早く話を済まそう」
なんと失礼な人だと思ったが、ケント君の人柄を聞いていたので想定内だった。だが、そこからは俺が思う以上に斜め上を行く人格の両親だった。
「私は大手薬品会社の役員として務めている。雪さんの話は息子から聞いている。結婚となると少し考えたい。そのことを承知の上で、今日は話をしたい」
席につくなり、最初の挨拶で俺は言葉と作り笑いを失った。
「父さん、なんだよ。まだ来たばかりだろう。やめてくれよ」
ケント君が慌てて止める。この場でこんなことを言うと予想していたのだろう、父親とすでに険悪なムードになっていた。
「ケント、本当のことだ。何が悪い。伊藤さん、息子の話によると、何でも絵描きの仕事をしているそうじゃないですか」
「はい。画家として仕事をしています」
「画家。そう言うと聞こえがいいな」
父親はぼそりと言う。雪は何も言えず、不安そうな様子だ。
「絵描きが職業なんて、どうせ学校もろくに出ていない低学歴な父親なんだろう。うちの家と釣り合いますかね」
予想していたとはいえ、怒りが込み上げてきた。雪も同じ気持ちだろう。顔色が変わっていくのが分かる。
「まともに会社勤めもできない。まさか社会不適合者とかじゃないよな」
言った本人は冗談のつもりだろう。自分の言葉に嘘笑いをしている。全く面白くもない言葉だ。
「そんなことありません。父は……」
雪がそう言いかけたところで、俺は雪の手を抑えて話を止めた。
「雪さんでしたっけ? 片親ではなかなかいい教育も受けられなかったのでは? 辛い環境で育ったんだろう。うちの息子と結婚できるような人間ができているんですかね」
ケント君の母親がにたりと笑った。
「絵描きの娘では、かわいそうにいい職業にも就けていないんだろうな」
俺は怒りを抑えることができなかった。俺のことならともかく、雪のことを言われては、黙って我慢などできない。
「お言葉ですが、ケント君からは何も聞いていなかったですか? 雪は名門大学を主席で卒業して、今は医師として働いていますが」
「ああ、ケントがなんかそんな話してたなあ。なんとか俺に取り入ってもらおうと、嘘の話をでっち上げたんだろう。お前たちと示し合わせて」
父親は嗤いながら俺たちを見た。ケント君が思わず立ち上がる。
「父さん、なんて嘘をつかないといけないんだ? 本当だよ。彼女は医者だよ。言っとくけどな、会社員の俺よりも彼女の方が収入が多いし、雪の父さんも元医者だよ」
ケント君が父親相手に必死に訴える。
「ケント、お前は騙されているんだよ。医者をやめて絵描きだと? そんなことをする人間がどこにいるんだ?」
「父さん、雪のお母さんが病気で亡くなって、それから雪を育てるために大学病院を辞めないといけなかったんだよ。俺、言ったよね。なんで分からないんだよ。だから父さんには合わせたくなかったんだ」
ケント君は涙ぐみながら、俺たちに申し訳なさそうな様子だった。それでも、父親と母親は信じようとしない。
「絵描きの絵なんか、どうせガラクタのような絵に決まってるよ。ケント、帰るぞ。親の言うことをちゃんと聞け。結婚はなしだ」
ケント君に一括したのを見て、俺ももう我慢の限界だった。俺は携帯電話を取り出し、あるところに電話をかけた。
「大事な席で突然電話ですか? やはりまともな教育を受けていない証拠ですな」
罵られたが、構わず電話先に伝える。
「ああ、社長。ところで申し訳ありません。本社のフロアに飾る予定でした絵画ですが、ガラクタのような絵を飾ってはそちらにご迷惑をおかけしますので、今回の絵の依頼はなかったことにしてください」
電話先では突然のことに慌てふためき、何があったのかと問われる。
「村井さんに、私の絵はガラクタだと言われました。一生懸命にガラクタ扱いされる社員——いや、役員さんがいらっしゃる会社にはね。では失礼します」
俺が電話を切ると、ケント君の父親はきょとんとした顔で俺を見ていた。
「村井さんがお勤めになられている製薬会社の社長から、本社フロアに飾る絵を依頼されていたのですが、お断りさせていただきました」
「ああ? うちの社長から? そんなバカな……」
その直後、父親の携帯電話が鳴った。画面を見て、父親が青ざめる。
「はい。村井でございます」
電話に出た父親は、ひどく叱責を受けているのか、さっきまでの態度の人物とは別人のように丁寧だった。電話に向かって何度も「申し訳ありません」と謝っている。
どうやら社長から、俺が元医師で現在は有名な画家として仕事をしていることを聞かされたらしい。父親はその場にひれ伏し、土下座をしてきた。
「本当に申し訳ありませんでした」
だが、その謝罪は全く心に響かなかった。
「雪、帰ろう。こんな両親の元にお前を嫁に出して、お前が幸せになるとは思えない」
そう言って帰り支度を始める。
「本当に申し訳ありません。伊藤先生、どうかお許しを。是非、うちの息子との縁談をお認めください」
足にすがりつく父親の手を振り払う。
「俺が有名画家だとか元医者だと分かったからですか? 手のひらを返したように。そんな人を見下すような人たちに、俺の大事な娘は渡せません。雪、行くぞ」
そう言い放ち、俺たちはホテルを出た。
雪は、さっきまで歯を食いしばり、ぎゅっと手を握りしめて俯いていた様子から一変して、清々しい顔をしていた。本当なら、両家の親の承諾を得て結婚に向けての話を進めるはずだった。ただ残念な思いよりも、俺のことを見下し罵倒した先方の両親の態度に、雪自身が嫌気が差したのだろう。
「パパ、結婚式はなしだね。花嫁姿を見て泣くパパを楽しみにしてたけど」
雪は俺を気遣ってか、平然を装っている。だが、あんな家に嫁いでは娘の苦労は目に見えている。間違っていない選択だったと俺は思う。しかし、雪がすぐにケント君を忘れることなどできないことも分かっていた。雪が好きだったのはケント君本人で、結婚まで決意したのだから。
帰り道、雪はそれ以上何も言わなかった。俺は何か言葉をかけようと考えたが、父親とは情けないものだ。励ます言葉が出てこない。
その後、製薬会社の社長から連絡があり、父親が役員を解任されたことを聞いた。社長は謝罪に伺いたいと言ってきたが、一度は断った。しかしどうしてもと言われ承諾すると、社長と共にケント君の父親も来た。父親は憔悴し、深く反省している様子だった。
その夜、ケント君も我が家を訪ねてきた。なんと、あの両親と絶縁してきたという。
「今回の件は申し訳ありませんでした。僕は……僕自身に自信が持てなかったんだと思います」
ケント君は頭を深く下げたまま話す。
「頭を上げなさい」
俺は彼の背中をぽんぽんと軽く叩いた。ケント君は涙ぐんでいた。
「僕は、雪のお父さんも医者である雪のことも尊敬しています。僕は会社員で、しかも親はあんな親で……なかなか結婚に踏み出せなくて」
涙が溢れてきた。
「でも、僕は雪のことを大事に思っています。だから親と縁を切り、こうして改めて結婚の申し込みに来ました」
何事かと玄関先まで駆け寄ってきた俺の両親も、驚いた様子だった。
「お父さん、僕に雪さんをください。絶対に幸せにします。本当です。お願いします」
必死な思いに、先に両親が心を打たれたのか、母に背中を押された。
「つまらない娘ですが、よろしくお願いします。是非、雪と結婚して、二人で幸せになってほしい」
心からそう思って返事をしていた。ケント君は会った時から印象が良かったし、あの日も雪を必死で守ってくれた。親との縁を断つことを決意するほど、彼は雪のことを思っているのだろう。俺はこいつなら雪を任せられると思った。
「パパが結婚式で泣く姿、もうすぐ見れるね」
祖父母と幸せそうに笑う雪の姿が印象的だった。
ケント君の両親については、まだ心に引っかかるものがある。だが、彼らが自分の間違いを認め、人を見下したり罵倒したりする態度を改めたなら、将来の二人の孫を抱かせてやってもいいと思う。そして俺も、こんな経験をして、いくら画家として有名になろうが、奢らず謙虚に努力を続けていこう。ケント君や雪、そして天国で見守ってくれている妻に、そう誓った。
