本家の就任式に妻と一緒に来ただけなのに、突然、見知らぬ幹部の男に「お前みたいな下っ端の席はねえんだよ。帰れ」と吐き捨てられた。しかも、その直前に俺は顔面を殴られ、唇から血を流していた。大切な祝いの席だからと必死に耐えていたが、隣にいた妻・早苗の目に怒りの色が浮かんだ瞬間、空気が凍りついた。彼女は男を睨みつけ、「一番偉い人を呼んでくれない?あなたの組の組長さんを」と冷たく言い放った。その言葉を…

本家の就任式に妻と一緒に来ただけなのに、突然、見知らぬ幹部の男に「お前みたいな下っ端の席はねえんだよ。帰れ」と吐き捨てられた。しかも、その直前に俺は顔面を殴られ、唇から血を流していた。大切な祝いの席だからと必死に耐えていたが、隣にいた妻・早苗の目に怒りの色が浮かんだ瞬間、空気が凍りついた。彼女は男を睨みつけ、「一番偉い人を呼んでくれない?あなたの組の組長さんを」と冷たく言い放った。その言葉を...

あの幹部という男が「お前みたいな下っ端の席はねえんだよ。帰れ」と吐き捨てた瞬間、隣に立つ早苗の周りの空気が凍りついたように感じた。俺が恐る恐る彼女の顔を覗き込むと、その瞳にははっきりと怒りの色が滲んでいた。

早苗は男を睨みつけながら一歩前に進み出て、冷たい声で言い放った。

「一番偉い人を呼んでくれない?あなたの組の組長さんを」

男が鼻で笑いながら返そうとしたその時、騒ぎを聞きつけたのか組の組長が慌ててやってきた。組長は早苗の姿を見た瞬間、顔面蒼白になり、ガタガタと全身を震わせ始めたかと思うと、次の瞬間には土下座して床に頭を擦りつけていた。

「お許しください!」

この後、幹部の男は自分がとんでもない相手に喧嘩を売ってしまったことを、深く後悔することになる。

俺の名前は本達也。四十五歳。妻の早苗と二人暮らしで、子どもはいない。

俺は早苗と知り合う前は普通の会社員だったが、会社が倒産して職を失ってしまった。高卒で入社し、特に資格も持っていなかった俺は、なかなか次の仕事が見つからずにいた。そんな時、とある人物と知り合い、やがてヤクザの世界に足を踏み入れることになった。

ヤクザになってから一年ほど経った頃、早苗と知り合い、交際を経て去年結婚した。早苗は俺より五つ年下だが、お互い初婚で、今もまだ新婚気分を満喫している。

今日はそんな早苗と一緒に、本家で行われる就任式に来ていた。俺をヤクザの世界に誘ってくれた人物が、本家の組長に就任することを祝う席だ。参加している組の一員である俺と早苗は、正式な招待を受けてこの場にいる。

なかなか本家を訪れる機会がない俺はかなり緊張していたのだが、早苗はまったく緊張している様子がない。

「達也さん、何をそんなに緊張してるのよ」

「いや、本家なんてほとんど来たことないから、知らない人ばかりだしな」

「ちゃんと招待されて来てるんだから、もっと堂々としてればいいのよ」

「早苗みたいに心臓が強いわけじゃないんだよ、俺は」

「あなたは本当にヤクザらしくないヤクザよね。そんなところが好きなんだけど」

「おお、こんなところでやめてくれよ。照れるじゃないか」

早苗と話しているうちに俺の緊張はだいぶほぐれた。就任式の開始時刻が近づいてきたので、俺と早苗は式が行われる大広間へと向かった。

大広間の前に着くと、早苗が「お手洗いを済ませてくる」と言って離れていった。俺は中に入らずに、その場で待つことにした。

本家の幹部や他の組の組長たちが前を通り過ぎるたびに頭を下げながら待っていると、前から見慣れない男が近づいてきた。

「おい、お前、そこで何してやがるんだ」

俺より少し若く見えるその人物は、俺を睨みつけながら言った。本家の幹部や参加している組の組長たちの顔は頭に入っているが、この男には見覚えがない。ここにいるということは、きっと本家の人間なのだろう。

そう思った俺は、頭を下げて挨拶することにした。

「お疲れ様です。自分は松橋組の者で、今回の本家組長の就任式に参加するために参りました」

「式に来たのなんて、見りゃ分かるんだよ。お前、俺のことバカにしてんのか?」

「いえ、決してそんなことは」

「俺が聞いてるのは、なんで参加の一組員が偉そうに出てきてるんだってことだ」

男は最初から不機嫌な様子で俺に絡んできて、俺は困惑してしまった。一体、何かしてしまったのだろうか。

「今日はな、本家の新しい組長の大事な就任式なんだよ。下っ端の参加なんて、お呼びじゃねえんだ」

「すみません。でも俺は今日、招待されたので参加しに来たんです」

「はあ?何バレバレの嘘ついてんだ。お前みたいな奴を招待するわけねえだろ。大方、新しい組長に取り入ろうと考えて押しかけてきたんだろ。俺にはお見通しなんだよ」

「違います。本当に自分は招待されていて」

「いつまでもごちゃごちゃうるせえんだよ。組の幹部の俺に盾突くとは、いい度胸してんじゃねえか」

「え、組の幹部の方なんですか?」

組といえば、本家のすぐ下に位置する、参加の中で一番大きな組だ。俺のいる松橋組は小さな組で、組とは人数も組織力もまったく違う。

「そうだよ。俺は昨日、最年少で幹部に昇格したばかりだから、知らなくても当然かもしれないがな」

「そうだったんですね。それは失礼いたしました。昇格おめでとうございます」

「なんだ、今度は俺に媚び売るつもりか。本当に参加の下っ端は欲深くて嫌になるぜ」

男はやれやれと言った感じで首を振った。俺はなぜ初対面の男にここまで馬鹿にされなければならないのか、少しイラついたが、大切な祝いの席で揉め事を起こすわけにはいかない。だが、俺が何も言わないのをいいことに、男はさらに絡んできた。

「お前みたいなのはお呼びじゃねえんだよ。さっさと消えな」

「いえ、招待されているので、帰るわけには」

「だから、そんな嘘は通用しねえんだよ。いつまでもごねてると、痛い目見ることになるぞ」

「どう言われましても……」

俺の話を信じようとしない男に、どうしたら分かってもらえるのか。言葉を濁らせたその時、男はニヤリと笑って、唐突に俺の顔面を殴りつけてきた。

「痛っ!何するんですか、急に」

「お前がいつまでも消えないのが悪いんだろうが。もっと痛めつけないと分からないか?」

俺が痛みに顔を歪めながら反論しようと口を開きかけた時、お手洗いから早苗が戻ってきた。早苗は唇から血を流す俺を見て、驚いたように目を丸くして駆け寄ってきた。

「達也さん、一体どうしたの?」

「ああ?誰だ、お前」

急に現れた早苗を見た男は、居ぶかしげに口を開く。

「早苗は自分の妻です。今回一緒に式に招待されていまして」

「妻だ?お前バカかよ。自分の妻まで式に連れてくるとかありえねえだろ」

「何なの、この失礼な人。達也さんが怪我をしたのは、あなたのせい?」

早苗が男をギッと睨みつけたが、男は不貞腐れた態度のまま、俺たちに怒鳴ってきた。

「下っ端の女が組の幹部である俺に睨みつけてんじゃねえよ。お前は自分の女の躾もまともにできねえのかよ。本当に下っ端は使えねえな」

「妻は何も悪くありません。本当に自分たちは招待されて、この場にいるんです」

「いい加減、その嘘は聞き飽きたんだよ」

「達也さん、この人があなたのことを殴ったの?」

「うん。俺たちが招待されてきたんだって言っても信じてくれなくて、帰ろうとしない俺を殴ってきたんだ」

「信じられないわ。あんた、本当に幹部なの?大切なお祝いの場で、そんなことするなんて」

「ババアは引っ込んでろよ。あんまり調子に乗ってると、次はお前の番だぞ」

男は早苗に向かって怒鳴ると、明らかに俺のことを見下したような笑みを浮かべて言い放った。

「じじいの席はないぞ。帰れ」

その瞬間、隣にいる早苗を包む空気が一気に冷たくなった。俺が恐る恐る彼女の顔を覗き込むと、その目には怒りが滲んでいた。

早苗は男を睨みつけながら近づくと、冷たく言い放った。

「一番偉い人を呼んでくれる?あなたの組の組長さんを」

「はあ?お前、自分が何言ってんのか分かってんのか?」

「もちろんよ。早く組の組長を呼んできなさいよ」

「なんでお前みたいなババアのために、組長を呼ばなきゃなんねえんだよ」

「呼べないの?あなた、本当は幹部じゃないんじゃないの?」

「ふざけんな。俺は歴とした幹部だ」

入口で言い合う二人を、周りにいた人たちが何事かといった様子で見ている。そのうちの一人が呼んできたのか、組の組長が慌てた様子でやってきた。

「板橋、一体何の騒ぎだ?もう式が始まるというのに」

「あ、組長。この松橋組の下っ端とその女が、式に招待されたとか言って帰ろうとしないんで、ちょっとばかり痛い目に合わせてやってたところっす」

組長は早苗を見た瞬間、顔面蒼白になり、ガタガタと震え出し、その場に土下座した。

「さ、早苗様……お許しください」

「え、組長、何してんすか?急に」

「お前もさっさと頭を下げるんだ!」

「どうしたってんすか、組長。こんな下っ端の女ごときに」

「この方は本家の組長に就任する片桐さんの娘さんだ!」

「え、組長の娘ですか?こいつが……」

男は一瞬ポカンとした表情を浮かべたが、組長の怯えた顔を見て嘘ではないと悟ったのか、どんどん顔が青ざめていき、脂汗をダラダラと流し始めた。

早苗こそ、今回の就任式の主役である本家の新組長、片桐洋司さんの娘なのだ。ちなみに片桐さんは、仕事を失い路頭に迷っていた俺をヤクザの世界に誘ってくれた恩人でもある。ヤクザとしての経験がない俺に、片桐さんはまず小さな組で基礎を学んでこいと言って、松橋組に入れてくれた。

そして、片桐さんから近況報告のために家に呼び出された時、たまたま顔を合わせたのが早苗だった。その日の夕食に招かれた俺は、早苗と話すうちに、屈託のない笑顔や自分の意見をしっかり持っているところに惹かれていった。片桐さんに了解を得て連絡先を交換し、その後交際に発展したのだ。

俺と早苗が結婚したことで、片桐さんは俺を本家に呼びたがったが、俺はまだヤクザとして未熟だからと言って断り、そのまま松橋組でお世話になっている。早苗のことは本家や三家の組長たちは知っているから、組長が慌てたのも無理はない。幹部の男は昇格したばかりで、まだ知らされていなかったのだろう。

「片桐様、この度はうちの者がご迷惑をおかけしたようで、申し訳ございません」

「この人、私のことババアって言ったわよ。それに私の夫のことも殴ったみたいだしね」

「そ、それは本当に申し訳ございません。ほら、お前も早く謝れ!」

「で、でも俺は知らなかったんですよ。だから悪くないじゃないですか。俺はただ、この場にふさわしくない下っ端を追い出そうとしただけなんですから」

「いい加減にしろ!確認を怠って勝手に動いたお前が悪いんだ。せっかく幹部にしてやったっていうのに、俺の顔に泥を塗りやがって」

「一体何事だ?騒がしいぞ」

全く謝る気のない幹部の男を組長が怒鳴りつけた時、式の会場である大広間のふすまが開いて、眉間に深いしわを寄せた片桐さんが現れた。

「組長、お疲れ様です」

「お疲れ様です」

慌てて挨拶をした二人をちらっと見た片桐さんは、俺と早苗を見つけると、二人を無視して俺たちに話しかけてきた。

「早苗、達也君、来てくれたんだな」

「当たり前じゃない。父さんの晴れ舞台なんだから」

「お疲れ様です。この度は本当におめでとうございます」

「それで、これは一体どういうことなんだ?なんで板橋が土下座してるんだ?」

質問してきた片桐さんに、早苗は怒りを隠すことなく答えた。

「そこの組の幹部とかいう奴が、達也さんの話を嘘と決めつけて、私たちを追い返そうとしたのよ。それに達也さんのことは殴るし、私に向かってババアとか言ってきたの」

「ほお……今の話は本当か?」

片桐さんが睨みながら男に尋ねると、男は慌てて背筋をピシッと伸ばして答えた。

「はい、申し訳ございません。まさか組長の娘さんの旦那が下っ端の組員だとは知らなかったもので」

「達也君は何度も招待されたって言ったじゃないか。それを信じようともしなかったのは、あんたでしょ」

「そ、それは新しい組長に取り入るために来たことを隠すための嘘だと思ったもんで」

「それに、さっきは組長に謝ったけど、あんたは私と達也さんには一言も謝っていないわよね」

「そうだ。お前もちゃんとこの二人に謝罪するんだ」

「で、でもこんな下っ端と女に頭を下げるなんて……」

「お前はこの後に及んで、まだそんなことを」

「悪いことをしたら謝るのは当然じゃない。下っ端とか女とか関係ないと思うけど」

「くそ……この度は大変申し訳ございませんでした」

組長と早苗から怒られた男は、しぶしぶといった感じで謝罪の言葉を口にしたが、その顔は反省するどころか、悔しそうに歪んでいた。

それまで黙って聞いていた片桐さんだったが、男が反省していないことを悟り、組長に向かって声をかけた。

「板橋、こいつは全く反省していないようだが、お前のところはどういう教育してるんだ?こんな奴を幹部にするなんて、お前には失望したよ」

「申し訳ございません。自分の監督不行き届きで、大切な就任式に水を差す形になってしまいまして」

「まさか、お前これで終わりにするつもりはないよな?俺の大切な家族に狼藉を働いておいて」

「も、もちろんです。今すぐこいつを連れ帰って、組で責任を持って処分させていただきます」

「ちょ、ちょっと待ってくださいよ、組長!処分って、何なんすか?」

組長の言葉を聞いた男は慌てて口を開いたが、組長に殴られてすぐに口をつぐんだ。

「組長の家族に手を出した上に、まともに謝罪もできないような奴は、俺の組にはいらねえんだよ。お前は黙ってろ」

「板橋、処分っていうのは具体的にどうするつもりだ?」

「はい。焼きを入れた後、海の底に沈めて二度と組長やお嬢様の目に入らないようにいたします」

「そうか。それなら今すぐ連れて行け。そいつの顔を見ているだけで気分が悪い」

「ま、待ってください!俺、ちゃんと謝ったじゃないですか!本当に申し訳ないことをしたと思ってます!だから、許してください!」

「あんな言わされた感しかない謝罪なんて、謝罪のうちに入らないわよね。達也さん」

「そうだね。さすがに俺も、あれを謝罪とは受け取れなかったな」

「組長、俺、今まで組に尽くしてきたじゃないですか!なのに、こんなあっさり見捨てるんですか?」

「お前もヤクザなら、自分のケツは自分で拭く覚悟ぐらいあるだろ。次の世ではこんなバカをしないように気をつけることだな」

「そ、そんな、勘弁してくださいよ!」

男はその場に崩れ落ち、組長に泣きついたが、組長は取りつく島もない。それでもまだ組長にすがりつこうとする男にしびれを切らした片桐さんが蹴りを入れ、組長を一喝した。

「目障りだから、さっさと連れて行け。これ以上式の邪魔をするようなら、お前にも責任を取らせるぞ」

「申し訳ございません!今すぐ連れて行かせます!」

組長は慌てて片桐さんに謝ると、近くにいた組の他の幹部を呼び、泣いて暴れる男を連れて行かせた。

「悪かったな、嫌な思いをさせてしまって。達也君も、すまなかった」

「いえ、組長は何も悪くないので、謝らないでください。むしろ、俺のせいで式が始められなくなってしまって、すみませんでした」

「気にするな。どうせ皆、式の後の宴会が目当てなんだからな」

その後、予定時刻から遅れてしまったが、無事に就任式は終わり、片桐さんは正式に本家の組長になった。

あの幹部の男はと言うと、あの後、組の事務所に連れて行かれて痛めつけられた後、数人の組員によってどこかへ連れて行かれ、組長の言葉通り、夜の闇に消えることになったそうだ。

男は長く組にいたらしいが、素行が悪く、今まで上の地位に上がれずにいたらしい。しかし、人の上に立てば少しは責任感のある行動ができるようになるのではないかと、組の組長は考えて今回幹部に昇格させたのだそうだ。結局あいつは、そんな組長の意図を理解することなく、自分の身を滅ぼしてしまったわけだが、あんな男のせいで本家の組長に睨まれることになってしまった組長が気の毒でならない。

その後、俺はと言うと、変わらず参加の松橋組でヤクザについて学んでいたのだが、片桐さんからそろそろ本家に来いと催促されてしまい、早苗からも背中を押されたので、来月からは本家の人間になることが決まった。自分ではまだまだだと思っているのだが、片桐さんと早苗に言わせると、俺は自己評価が低すぎるのだそうだ。

だが、本家に行けば、俺を救ってくれた片桐さんに恩返しをしていくことができる。片桐さんに声をかけてもらっていなかったら、早苗と出会うこともなく、幸せな夫婦生活など送ることはできなかっただろう。そう考えると、俺はこれから一生かけても返しきれない恩があるのだ。

俺はこれからも早苗との幸せな生活を守りながら、大切な家族であり上司であり恩人でもある片桐さんに恩返しをするために、努力を続けていこうと思っている。

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