病室のドアを開けた瞬間、夫の第一声は「遅いぞ。何してたんだ」だった。数時間前、交通事故の知らせを受けて血の気が引く思いで駆けつけた私を待っていたのは、心配の言葉でも安堵の表情でもなく、あまりにも身勝手な命令だった。「さっさと来い。俺の面倒を見ろ」。結婚して二十年。最近の彼は冷たく、家に帰らない日も増えていた。それでも、ギプスで固めた足を投げ出し、私を睨みつけるその態度には、言葉を失った。だが…

病室のドアを開けた瞬間、夫の第一声は「遅いぞ。何してたんだ」だった。数時間前、交通事故の知らせを受けて血の気が引く思いで駆けつけた私を待っていたのは、心配の言葉でも安堵の表情でもなく、あまりにも身勝手な命令だった。「さっさと来い。俺の面倒を見ろ」。結婚して二十年。最近の彼は冷たく、家に帰らない日も増えていた。それでも、ギプスで固めた足を投げ出し、私を睨みつけるその態度には、言葉を失った。だが...

病院の廊下に響く夫の怒鳴り声を聞いた瞬間、私の心臓は氷水に浸かったように冷たくなった。たった数時間前、警察から交通事故の知らせを受け、血の気が引く思いで駆けつけた私を待っていたのは、心配の言葉でも安堵の表情でもなく、あまりにも身勝手な命令だった。

「おい、美咲。さっさと来い。俺の面倒を見ろ」

電話越しの拓也の態度は、まるで当然の権利を主張する王様のように傲慢だった。病室の扉を開けると、ギプスで固められた右足を投げ出した夫が、睨みつけるように私を見た。

「遅いぞ。何してたんだ」
「ごめんなさい。病院の受付で手続きがあって…それより体は大丈夫なの?」

私が心配の言葉を口にすると、拓也は鼻で笑った。

「ふん。大したことない。それより腹が減った。何か買ってこい。それと週刊誌もな」

結婚して二十年。確かに最近の拓也は私に冷たく、家に帰ってこない日も増えていた。だが、これほどまでに侮辱されるのは初めてだった。私の沈黙が気に食わなかったのだろう。拓也はさらに語気を強めた。

「なんだその目は?俺は被害者なんだぞ。お前が普段俺の健康管理をきちんとしないからこんなことになったんだ」

理不尽な責任転嫁に言葉を失ったその時、拓也の枕元に置かれたスマートフォンが鳴った。画面に映っていたのは、私ではない若い派手な女性と寄り添って微笑む拓也の姿だった。すべての歯車が噛み合った。彼の冷たさも、帰ってこなかった夜も、今のこの傲慢な態度も、すべてはこの女性の存在に繋がっていたのだ。

私が唇を噛みしめ、何か言い返そうとしたその瞬間だった。

「失礼します。旦那様のことで奥様に重要なお話が」

医師が深刻な表情で病室に入ってきた。その顔を見た瞬間、背筋に冷たいものが走った。

「実は事故の際、拓也さんの車にはもう一人同乗者がいらっしゃいまして…」

その言葉が私の頭の中で何度もこだました。拓也の視線が明らかに泳ぎ始めた。医師はためらうように息を吸い込むと、淡々と事実を告げ始めた。

「助手席に乗っておられた倉田リサさんですが、彼女もまた事故の衝撃で脊髄に大きな損傷を負われました。下半身が麻痺し、自力で歩くことは極めて困難になるでしょう」

あの待ち受け画面の女だ。私ではない若い女と二人きりでドライブ中に事故に遭い、二人揃って歩けなくなるかもしれない。この非現実的な状況は私の理解をはるかに超えていた。

「今後は少なくとも半年、あるいはそれ以上かかるものとお考えください。その間、食事や排泄、入浴など日常生活の全てにおいてご家族のサポートが不可欠となります」

医師が去った後、気まずい沈黙だけが残された。その沈黙を破ったのは、ベッドの上から私を見下ろす拓也だった。

「ああ、そういうことだ。聞こえただろう」

まるで他人事のような悪びれない口ぶりに、私は自分の耳を疑った。

「倉田さんって一体誰なのよ?」
「いちいちうるさい女だな。お前には関係のないことだ。それより医者の話を聞いてなかったのか。お前は俺の妻なんだから、俺の面倒を見るのが当然の義務だろうが」

義務。その二文字が冷たい刃物のように私の胸をえぐった。

「当たり前だろ。お前は今まで俺が稼いだ金で楽な生活をしてきたんだ。これからはお前が身を粉にして俺に尽くす番だ。家の貯金は全部俺の治療費に使え。パートなんてくだらない仕事は今すぐやめて、毎日ここに通え。わかったな」

この男は自分が犯した裏切りの重さを全く理解していない。私の表情から抵抗を読み取ったのだろう。拓也はさらに追い打ちをかけた。

「なんだその反抗的な目は?まさかこの俺を見捨てるなんて言わないだろうな。俺たちは夫婦なんだぞ」

「あなたの面倒は、その愛人さんとやらに見てもらえばいいんじゃない」

私の予想外の反撃に拓也の顔が怒りで歪んだ。彼が何かを怒鳴り返そうとした、まさにその時だった。病室のドアが静かに開き、若い看護師が立っていた。

「あの、別の病棟に入院されている倉田さんが目を覚まされまして…どうしても拓也さんの奥様と直接お話をしたいとおっしゃっているんです」

愛人が私と話をしたい?一体何を企んでいるというのだろう。

「わかりました。お会いします」

拓也が焦ったような声をあげたが、私はそれを無視した。案内されたのは拓也と同じ窓際の個室だった。中から女性のか細い嗚咽が聞こえてくる。

ベッドの上で上半身を起こした若い女が、涙で濡れた瞳で私を睨みつけていた。年の頃は二十代後半といったところか。私の息子である健太とそう変わらない年齢に見えた。

「あんたのせいよ。全部あんたが拓也さんをちゃんと管理しないからこんなことになったんじゃない」

あまりにも理不尽な罵倒に、私は呆れて言葉も出なかった。しかし、彼女はさらに続けた。

「拓也さんは言ってたわよ。あんたとはもうとっくに愛情なんてなくて、ただの同居人だって。食事もまずいし、夜の相手も御無沙汰だって」

次から次へと繰り出される悪意に満ちた言葉の数々。そして、彼女は最後にこう言い放った。

「あんたさえいなければ私と拓也さんは幸せになれたのよ。慰謝料よ。私のこの足の責任、あんたが取るのが筋ってもんでしょう」

「あなたが、リサさんね」

私がゆっくりと口を開いた。その声は自分でも驚くほど落ち着いていた。

「ええ、そうよ。だから、さっさと慰謝料を…」

「あなた、本当にそれでいいのね」

その瞬間、病室のドアが勢いよく開け放たれた。

「リサ!なんてことを言うんだ!」

そこに立っていたのは車椅子に乗った拓也だった。看護師に頼んでここまで連れてきてもらったらしい。その額には脂汗がびっしりと浮かんでいる。彼の愛人が放った言葉は、私に最後の決意をさせるには十分すぎるほどの威力を持っていた。

「わかりました。そういうことでしたら、私にも考えがあります」

その私の言葉の意味を、この愚かな二人組はまだ理解できずにいた。

数日後、私は病院の一角にある薄暗い家族会議室に呼び出されていた。長いテーブルの向こう側には車椅子に乗った拓也とリサ、さらに拓也の両親、そしてリサの母親が、まるで私を断罪するかのように陣取っていた。

「あんたという女は本当に疫病神が見えるわ」

唇を開いたのは拓也の母、里子だった。

「あんたが気の利かない不出来な嫁だから、拓也は外に癒しを求めるしかなかったんじゃない。全部あんたのせいよ」

「そうよ!息子さんが無理やりうちの娘を連れ回した挙げ句、こんな体にしたのよ!娘の将来はどうしてくれるの!慰謝料として一億円は払ってもらうわよ!」

拓也は勝ち誇ったような薄ら笑いを浮かべ、テーブルの上に一枚の紙を放り投げた。

「さあ、これにサインしろ。お前が俺たちの治療費と生活費を全額負担し、俺とリサの面倒を一生見るという誓約書だ。お前みたいな中卒の底辺女が、この俺の妻でいられただけでも奇跡なんだぞ。その恩を返す時が来たんだよ」

中卒。その言葉が私の心の最後の砦を打ち砕いた。高校を卒業してすぐに拓也と出会い結婚した。家計を助けるために大学進学を諦めた過去。そのことを拓也は誰よりもよく知っているはずだった。

私はゆっくりと息を吸い込み、冷徹な目で誓約書を見つめた。

「面倒を見てくれですって?あなたたちの面倒なんて絶対に見ないわ。愛人に頼めばいいんじゃない」

その瞬間だった。会議室の重いドアが乱暴に開かれ、一台のストレッチャーが運び込まれてきたのだ。

「なんだ?誰だ?お前らは!」

拓也の父親が怒鳴り声をあげる。しかし、私はそのストレッチャーの上に横たわる人物の顔を見た瞬間、全身の血の気が引いていくのを感じた。

「大文字さん!」

そこに横たわっていたのは、拓也が務める大進建設の代表取締役社長だった。ストレッチャーを押していたスーツ姿の男たち。その中に、見覚えのある鋭い目つきの男がいた。私が調査を依頼していた探偵、神崎だった。

「美咲会長、誠に申し訳ございません。大文字社長は今回の件でどうしても直接会長に謝罪をしなければと、無理を押して病院を抜け出そうとされたのです」

「会長?」

拓也が間の抜けた声を出した。

「おい、神崎とか言ったか。人違いしてるんじゃないのか。こいつは俺の妻の美咲だぞ。ただのパート主婦で、頭の悪い中卒の女だ。会長なんて呼ばれるような人間じゃない」

私は深く静かな沈黙で答えた。今までのように下を向いて震えることはない。

「拓也さん、あなた私のことを何も知らなかったのね」

静寂を破る私の声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。

「確かに私は中卒よ。高校に行かずに、両親を養うために朝から晩まで必死に働いたわ。でもね、ただ働いていたわけじゃないの。仕事をしながら独学で経済と投資を猛勉強して、二十代で起業したの。今では複数の企業を束ねるM・Kホールディングスの代表取締役会長。それが私の本当の姿よ」

神崎が追い打ちをかけるように口を開いた。

「無知とは恐ろしいものだな。M・Kホールディングスはお前が務める大進建設の筆頭株主であり、事実上の親会社だ。五年前、お前の会社が倒産寸前だった時、多額の資金援助を行って救済したのが、目の前にいる美咲会長なのだよ」

拓也の顔から一瞬にして血の気が引いた。義両親は口をパクパクとさせ、リサは事態を理解できずにただ呆然としている。

「嘘だ。そんなの嘘に決まってる!こいつは毎日近所のスーパーでレジ打ちのパートをしてただろうが!」

「ええ、スーパーのパートはしていたわ。あのスーパーの経営者から現場の視察を頼まれていたのよ。それに、ずっと家にいるより外の空気を吸う方が気分転換になったから。私の本当の仕事は、あなたが寝静まった夜中に、自宅のパソコン一つで世界中と取引して終わらせていたわ」

その時、ストレッチャーの上で大文字社長が意識を取り戻し、酸素マスク越しに私を見た。

「美咲会長…不甲斐ない…申し訳ありません。私の監督不行き届きであのような男に、大切な会社の金を…」

その言葉に拓也がビクンと体を震わせた。

「おい、待て。会社の金ってどういうことだ?」

私は冷たい笑みを浮かべ、神崎が持ってきた分厚いファイルの束をテーブルの上に叩きつけた。

「拓也さん、あなたが会社から横領したお金。その総額は三億円。どうやらあなたは、若い愛人に貢ぐために、会社の金を盗んでいたようね」

「な、何を言ってるんだ!俺はそんなこと…」

「あなたは役職と権限を悪用し、架空の取引先を複数作り上げ、会社の資金を巧妙に横領し続けてきました。その期間およそ三年。そして、その三億円の使い道。それがそこの車椅子に乗っている倉田リサさんへの貢ぎ物だった」

神崎は次々と証拠の写真をテーブルの上に並べていく。高級タワーマンションの賃貸契約書、数千万円もする外国産スポーツカーの購入履歴、リサがSNSにアップしていたブランド品や海外リゾートでの写真。

「それに、ご両親。あなた方は半年前、実家を立派な邸宅にフルリフォームされましたね。その費用も全て、拓也が会社から横領したお金から支払われています」

義両親は顔を見合わせ、言葉を失った。自分たちが自慢に住んでいた新居が、犯罪で盗んだ金で建てられたものだったと知り、血の気が引いていくのがわかった。

しかし、ここで空気を読まないのがリサの母親だった。

「ちょっと待ってよ!横領だかなんだか知らないけど、うちの娘は被害者なのよ!足が動かなくなった娘の将来はどうなるの?拓也さんが犯罪者になって払えないなら、やっぱりあんたが払いなさいよ」

「そうよ!私はただ彼がお金持ちだと思って付き合ってただけよ。泥棒なんて知らなかった。騙されてたのよ!」

手のひらを返して切り捨てるリサ。神崎は冷たい手付きで、黒いファイルからICレコーダーを取り出した。

「騙されていたですか?では、ご自身の耳で確かめていただこう」

神崎が再生ボタンを押す。一瞬のノイズの後、会議室に響き渡ったのは、余裕しゃくしゃくとしたリサの声だった。

「あはは。拓也って本当にバカなんだから。私がちょっと泣きまねして『新しいお店を出す資金が足りないの』って言えば、会社の金庫からいくらでも引っ張ってくるのよ。自分と結婚できるって本気で信じてるんだから。滑稽だわ」

拓也の体がビクンと大きく跳ねた。

「あんな冴えないさえない中年男。誰が本気で相手にするもんですか?適当に機嫌を取って、搾り取れるだけ搾り取ったらポイ捨てして、ハワイにでも逃げちゃおうね」

続いて聞こえてきたのは、若い男の低く笑う声だった。

「違いない。でもあのポンコツ営業部長のおかげで俺たちのダミー会社はボロ儲けだぜ。せいぜい最後まで働いてもらおうや」

会議室は死に絶えたような静寂に包まれた。

「リサ…今のは…」

拓也は信じられないものを見るような目で、隣の車椅子に乗るリサを見つめた。神崎は容赦なく事実を突きつける。

「拓也が横領した三億円の大部分は、実態のないコンサルタント会社に振り込まれていました。そのダミー会社の代表取締役は倉田リサ。そして、共同代表として名を連ねているのが、先ほどの音声の男、リサの本命の婚約者です」

「婚約者だって!?」

拓也が悲鳴のような声をあげた。

「俺だけだって!俺と結婚したいから、今の妻とは離婚してくれって、そう言ってただろうが!」

追い詰められたリサは、ついに隠していた本性をむき出しにした。

「うるさいわね。誰があんたみたいな、つまらなくてケチな中年男を本気で愛するもんですか?あんたはただのATMよ。私と彼が幸せになるための、ただの踏み台だったのよ。さっさと奥さんに慰謝料払わせて、私のこの足の賠償金も全額出させなさいよ」

リサのあまりにも身勝手で残酷な言葉に、拓也は完全に打ちのめされた。彼は自分がすべてを支配していると錯覚し、私は役立たずの中卒と見下し、若い愛人を侍らせている自分に酔いしれていた。しかし現実は、愛人に良いように利用され、会社を裏切り犯罪者にまで身を落とした、ただのピエロだったのだ。

「美咲!違うんだ!俺は騙されていたんだ!この悪女に洗脳されて、つい手を出しただけで!」

拓也は車椅子から身を乗り出し、私に向かって必死に手を伸ばしてくる。

「お前は俺の妻だろう!会社の会長なんだろう!助けてくれ!会社に全額弁済して、俺を助けてくれ!俺はお前を愛してる!やり直そう!」

「だから言ったでしょう。愛人に頼めばいいって」

私の残酷な拒絶に、拓也は絶望の涙を流して泣き崩れた。

「ふん。泣いたって無駄よ」リサが勝ち誇ったように鼻で笑った。「私は騙されたふりをして慰謝料をもらって、彼と逃げるわ。このダミー会社のお金はもう全部海外の口座に移してあるんだから。あんたら親子でせいぜい地獄を見なさいよ」

しかし、神崎はそんな彼女を見て、ふっと嘲るような笑みを漏らした。

「随分と自信満々ですが、倉田さん。あなたのその完璧な計画には、一つだけ決定的な欠陥がありましたよ。あなたの言う『彼』、その婚約者ですが、私がこの証拠を突きつけ、警察に横領の共犯として通報すると伝えたところ、あっさりと自白しましてね。すべてはこの女が勝手にやったことだ、自分は関係ないと。全額の返還と引き換えに自己保身に走りましたよ」

「嘘よ!彼が私を裏切るわけないじゃない!」

神崎が会議室のドアに向かって顎で合図した。ドアの外で待機していた男が重い扉を開け放つ。

「どうぞ。中へ」

おずおずと会議室の中に足を踏み入れてきた若い男。派手なブランド物のスーツを着こなしたその男の顔を見た瞬間、リサは「ヒッ」と叫んで固まった。しかし、さらに信じられないほどの驚愕の声を上げた人物がいた。

「お、お前…なんでお前がここにいるんだ!」

拓也だった。そこに立っていたのは、拓也が会社でいつも顎で使っていた営業部の直属の部下、佐々木だったのだ。

「いやあ、部長。いや、元部長ですかね。まさかこんな形でお会いするとは」

佐々木は普段ペコペコと頭を下げていた卑屈な顔とは打って変わり、口元にねっとりとした笑みを浮かべていた。

「どういうことよ!なんであんたが裏切るのよ!」

リサが金切り声をあげて佐々木を睨みつける。しかし、佐々木はかつて愛を誓ったはずのリサを、まるでゴミでも見るかのような冷たい目で見下ろした。

「うるさいな。誰が下半身不随の荷物女なんかと一緒に逃げるかよ。お前みたいな金目当ての女は、利用価値がなくなったんだから、さっさと損切りするに決まってるだろうが」

「あんた、私を愛してるって…」

「バカだな。俺が愛してたのは、お前がこのポンコツ部長から引き出してくる三億円だけだよ」

その言葉に、リサは絶望で顔を歪め、リサの母親も「あんた、うちの娘を騙したのね!」と狂ったように叫び出した。しかし、誰よりも深い絶望と屈辱を味わっていたのは拓也だった。自分がすべてをコントロールし、優越感に浸っていたつもりが、実は一番見下していた部下と愛人に、裏でいいように踊らされていたのだから。

「お前ら…ふざけるな!俺を騙したのか!」

拓也が目を血走らせて怒鳴り散らすが、佐々木は鼻で笑った。

「人生を棒に振ったのは自業自得でしょう。いつも威張ってばかりで、会社の金に手をつけるようなくずだから、俺たちに簡単に騙されるんですよ。本当に哀れなピエロでしたよ、部長は」

「さて、茶番はこれくらいでいいでしょう」佐々木はスーツの襟を正すと、神崎に向かって愛想笑いを浮かべた。「神崎さんの仰る通り、私は海外の口座に移していた三億円を全額、大進建設の指定口座に返還する手続きを済ませました。これで約束通り、私の罪は無しですよね」

「返還した、ですか?」

ずっと沈黙を守っていた私が、静かな声を発した。佐々木の愛想笑いが凍りつく。

「ええ。全額、振り込みを開始しましたよ。これで会社の資金ショートも解決するはずです」

「おかしいわね。私は手元のタブレット端末を操作し、画面を佐々木に向けた。「大進建設のメインバンクの口座履歴。あなたからの入金なんて、どこにも記録されていないけれど」

「えっ?」

佐々木は間抜けな声をあげ、タブレットの画面を覗き込んだ。そこには確かに、直近の入金履歴など一切存在していなかった。

「なぜだ!俺は確かに、神崎さんから指定された口座に三億円全額を振り込んだんだぞ!」

神崎が、まるで獲物を追い詰めた狩人のような残酷な笑みを浮かべた。

「ああ、確かに振り込まれていましたよ。ただし、大進建設の口座ではありませんがね。佐々木君、お前が三億円を振り込んだ指定口座。それが一体誰の名義だったのか、ちゃんと確認しなかったのか?」

佐々木の顔色が、一瞬にして紙のように白くなった。

「そのM・K・Hが何の略か、本当に分かっていないのか?」

「だから、あんたが用意した警察の追跡を逃れるためのダミー会社の…」

「違うわ」ずっと黙っていた私が、静かに、しかしはっきりとした声で口を挟んだ。「それは株式会社M・Kホールディングス、法務部の専用口座よ。あなたは今、親会社である私たちの法務部口座に、自らの足跡を残して三億円を送金したの。しかも、神崎さんが指示した振り込み名目は『横領被害に対する損害賠償』だったはずよ。つまり、あなた自身の手で、自分が横領の共犯であるという動かぬ自白証拠を完成させてくれたというわけね」

佐々木のスマートフォンが手から滑り落ち、床に激突した。

「騙しやがって!俺に全額返還させれば見逃してやるって言ったじゃないか!」

「私は『全額返還すれば、大進建設からの被害届けは取り下げられるかもしれない』としか言っていませんよ。そもそも私立探偵の私に、警察の捜査を止める権限などあるはずがないでしょう。今頃法務部から警察へ、あなたの送金記録という完璧な証拠が提出されているはずです」

「ふざけるな!このクソババア!中卒の成り上がりが!偉そうに俺を嵌めやがって!」

絶望の淵に立たされた佐々木は、見苦しく私に向かって罵声を浴びせた。今まで被っていた従順な部下の仮面は完全に剥がれ落ち、そこにあるのは自己保身に失敗した惨めな男の姿だけだった。佐々木が狂ったように叫び、私に掴みかかろうと一歩踏み出した。しかし、私は少しも動じることなく、ただ黙って路傍のゴミを見るかのような冷たい視線で彼を見つめ返した。神崎の背後に控えていたスーツの男たちが瞬時に佐々木の両腕を掴み、床に押さえつけた。

その時だった。今まで震えて黙っていた拓也の母、里子が、突然顔を輝かせて立ち上がったのだ。

「ああ!ということは、三億円は無事に会社に返還されたのよね?だったら、うちの拓也は許されるってことじゃない!被害はゼロになったんだから、警察沙汰にもならないわよ!」

「そうだ!会社の金は戻ったんだ!これで借金もチャラだ!」

義父も涙目で大きく頷いている。拓也までもが、すがるような目で私を見つめてくる。

「そうだよな!佐々木が全額返したんだから、俺はもう…」

「あなたたちは本当に何も分かっていないのね」

私のその低く冷たい声に、喜びに湧きかけていた義両親の顔が再び凍りついた。

「いいですか?佐々木が返還したのは、あくまでダミー会社に流れた三億円です。それは会社に対する横領という刑事事件の証拠であって、罪が消えるわけではありません。会社に甚大な損害を与え、信用を失墜させた罪は重い。私たちは拓也君と佐々木君、そして共犯の倉田さんに対して、厳重な刑事告訴と損害賠償請求を行います。断じて許すことはありません」

ストレッチャーの上の大文字社長が深く頷いた。

「それに、義母さん。あなたが一番勘違いしている決定的な事実を教えてあげます」

私は手元のファイルから一枚の帳簿の写しを取り出し、テーブルの上に滑らせた。

「佐々木が返還したのは三億円。ですが、拓也さんが横領した総額は三億五千万円です。さあ、計算が合わないでしょう。残りの五千万円はどこに消えたのか」

義両親の顔が血の気が引いていく。私は二人をまっすぐに見据えた。

「その五千万円は、あなたたちが今、偉そうに座っている実家の邸宅のリフォーム費用として使われたんですよ。つまり、あの家は犯罪で盗まれた汚いお金で建てられたものです。当然、横領された資金の回収対象となります。大進建設の被害を補填するため、あなたたちのあの立派なご自宅は近日中に差し押さえとなります。家も土地も全て売却して、返済に当てていただきます」

「差し押さえ…そんなの嘘よ!あれは私たちの大切な家よ!」

「拓也がプレゼントしてくれた…」

「犯罪者の息子が盗んだお金で建てた家を、堂々と自分たちのものだと主張するおつもりですか」

私の冷酷な正論に、義両親はその場にへたり込み、ボロボロと涙をこぼし始めた。

「美咲!頼む!親父と母さんの家だけは勘弁してやってくれ!あいつらには何の罪もないんだ!」

「何の罪もない?中卒の疫病神と見下し、息子の不倫を私のせいにして慰謝料まで払わせようとした人たちがですか?」

私の氷のような視線に、拓也は言葉を失い、喉の奥で情けない音を立てた。

「さて、拓也さん。会社の横領とご両親の家の件はこれで終わりよう。でも、あなたはもう一つ、絶対に逃げられない大きな借金を抱えていることを忘れていないかしら?」

「借金?俺はリサに貢ぐ金も、親の家のリフォーム代も、全部会社の金から引っ張ったんだ。それ以外に借金なんてあるわけないだろう!」

その時、会議室の重いドアがノックされた。

「失礼いたします。外車ディーラーのロイヤルモーターと申します」

ダークスーツを着こなした白髪の初老の男性が入ってきた。その胸元には高級車ディーラーの社章が光っている。

「本日は、先日あなたが納車された八千万円の限定スポーツカーの件で参りました」

「八千万の車!?」

義両親が揃って悲鳴をあげた。

「おい、事故の件なら保険が降りるだろうが!車両保険に入ってたはずだぞ!」

「いいえ。保険金は一円も支払われません。警察の事故報告書と病院での血液検査の結果が出ております。あなたは基準値を大幅に超えるアルコールを摂取し、さらに制限速度を八十キロもオーバーして交差点に突入していました。重大な過失及び飲酒運転による事故。当然ながら保険は一切適用されず、全額があなたの自己負担となります」

さらに黒田は手元の書類をテーブルに置き、義両親の方を向いた。

「この車の購入時、拓也様は弊社の定型ファイナンスでローンを組まれました。その際、連帯保証人として署名なさっているのは、そちらのご両親です。当然、八千万円の一括返済義務はご両親にも発生いたします」

「そ、そんなの知らないわよ!私たち、車の保証人になんてなった覚えはない!」

「ですが、書類には間違いなくお二人の実印が押され、印鑑証明も添付されていました。息子さんに実印を預けたりしませんでしたか?」

「リフォームの手続きの時に…拓也に全部預けて…」

義父が頭を抱え、その場に崩れ落ちた。拓也は親の財産を食い物にするため、家のリフォームに紛れて実印を騙し取り、勝手に連帯保証人に仕立て上げていたのだ。

しかし、ここで義母の怒りの矛先は、なぜか私へと向かった。

「美咲!あんた、この会社の親会社の会長なんでしょう!だったらあんたが払いなさいよ!八千万なんて、会長のあんたからすれば鼻くそみたいな金額でしょうが!そもそもあんたが中卒の分際でこそこそ金を隠してるから、拓也がひねくれちゃったのよ!妻なんだから、夫と親の借金を肩代わりするのは当然の義務よ!さっさと小切手を切りなさい!」

「残念ですが、私は一円も払いませんよ。先ほども言った通り、私はすでに拓也さんとは離婚の手続きを進めています。それに、私の署名も偽造されていましたが、神崎さんに依頼して筆跡鑑定を済ませ、警察に有印私文書偽造罪で被害届けを出したところですから」

「被…被害届け…」

「ええ。つまり、その借金は拓也さんと、実印の管理を怠ったあなたたち両親で、地獄の底まで背負っていくしかないということです」

冷たい宣告に、義両親はもはや声を上げる気力もなく、床に突っ伏して泣き崩れた。拓也も虚ろな目で、完全に魂が抜けたようになっている。

しかし、この会議室にはまだ、自分たちだけは安全圏にいると勘違いしている厄介な親子がいた。

「ちょっと!あんたたちの借金なんてどうでもいいのよ!」

リサの母親がテーブルを叩いて立ち上がった。

「運転で事故を起こして、娘の下半身を不随にしたのは事実でしょう!拓也に金がないなら、やっぱり会長のあんたが責任を取って、一生娘の面倒を見るべきよ!五億円の慰謝料を払いなさい!」

「そうよ!私のこの動かない足をどうしてくれるのよ!」

彼女たちのその言葉を聞いて、私は思わずふっと冷たい笑みをこぼしてしまった。

「足が動かない、ですか?」

「何よ!笑い事じゃないわよ!」

私はゆっくりと立ち上がり、車椅子に乗るリサの目の前まで歩み寄った。そして彼女の顔を覗き込み、静かに、しかしはっきりとこう告げた。

「リサさん、あなた、その悲劇のヒロインの演技、もうやめにしたらどうかしら?」

リサの顔からすっと血の気が引いた。

「何言ってるのよ!お医者さんも脊髄損傷だって…」

神崎が会議室のドアを開けた。そこに立っていた人物の顔を見た瞬間、リサは「ギッ」と短い悲鳴をあげ、車椅子の上でガタガタと震え始めた。そこに立っていたのは、事故直後に「リサさんは脊髄損傷で一生歩けない」と宣告した担当医、黒川医師だった。黒川医師はかつての毅然とした態度は見る影もなく、白衣を汗だくにして滝のような脂汗を流していた。そして私の前に引き出されると、そのまま床に膝をつき、ガクガクと震え始めた。

「し…申し訳ありませんでした…私は…彼女に頼まれて…」
「先生!一体何をおっしゃっているんですか!うちのリサは、事故のせいで一生歩けない体になった被害者じゃないですか!」

「ち、違います!倉田さんの足は全くの無傷です!彼女は普通に歩けます!彼女の怪我は軽い打撲と擦り傷だけでした。ですが、救急搬送された直後、彼女は私に千五百万円払うから『下半身不随の診断書を捏造してくれ』と持ちかけてきたんです!すべてはあなたたちから多額の慰謝料を騙し取るための狂言でした!」

「リサ…お前、自分の足が動かないって、俺の前で泣き叫んで…あれは全部演技だったのか?」

拓也が血走った目で隣の車椅子に乗る愛人を睨みつける。しかし、ここで再び空気を読まないのはリサの母親だった。

「ふざけないでよ!あんたね、金に物を言わせて医者を脅迫したんでしょう!この慈悲も涙もない悪魔!自分への慰謝料請求から逃れるために、中卒の成り上がりババアが汚いお金で医者を買収して、娘を嘘つき呼ばわりする気!警察を呼んでやるわ!」

神崎はタブレット端末を取り出し、テーブルの中央に置いた。

「これが脅迫によって言わされている嘘なのかどうか、皆さんの目で確認していただきましょう。これは倉田さんの病室に仕掛けた隠しカメラの映像です」

画面に映し出されたのは、深夜の個室病室だった。

「ああ、ずっと動けない演技も疲れるわね」

映像の中のリサは、誰もいない病室でそう呟くと、なんと車椅子からひょいと軽快に立ち上がったのだ。そして鼻歌を歌いながら屈伸運動をはじめ、冷蔵庫からジュースを取り出して美味しそうに飲み干した。さらに彼女はスマートフォンを耳に当て、佐々木と思われる相手と笑いながら会話を始めた。

「あはは、バカな奥さん。私の車椅子姿を見て完全に信じ込んでたわ。お医者さんも千五百万円で簡単に買収できたし、慰謝料を巻き上げてさっさと海外へ飛ぶだけね。あの役立たずの拓也も、一生借金まみれで苦しめばいいのよ」

神崎が映像を止めた。会議室には再び死に絶えたような静寂が訪れた。

「リサ…あんた…本当に…」

リサの母親はタブレットの画面と娘の顔を交互に見比べ、腰を抜かしてその場にへたり込んだ。

「あれは私じゃない!ディープフェイクAIで作った合成映像よ!」

「まだそんな苦しい言い訳をするの?慰謝料詐欺、保険金詐欺、そして医師法違反の強要。あなたはもう言い逃れのできない立派な犯罪者よ。さあ、もうその車椅子は必要ないでしょう。自分の足で立ちなさい」

「言いがかりよ!立てない!私は被害者なのよ!」

車椅子の肘かけに爪を立て、絶対に立とうとしないリサ。拓也は自分がすべてを捧げて信じていた愛人の醜悪な本性をまのあたりにし、言葉を失い、ただ白目を向くようにして天井を見つめていた。

「なるほど。あくまで自分は事故の被害者だと言いはるのね。でもね、リサさん。あなたが犯した罪の中で最も重く、最も恐ろしい事実は、詐欺でも横領でもないのよ」

リサの動きがぴたりと止まる。

「これは、事故を起こした拓也さんの車に搭載されていたドライブレコーダーの映像と音声の記録です。事故が起きる直前、車内で何が起きていたのか。警察が復元したデータを特別に入手しました」

「ド…ドライブレコーダー…」

その言葉を聞いた瞬間、リサの顔色から最後の一滴まで血の気が引き、彼女はガチガチと歯の根を鳴らして震え始めた。

パソコンの画面が明るくなり、深夜の薄暗い道路を走る車載カメラの映像が映し出された。画面の隅には事故当日の日付と時刻が正確に刻まれている。そして車内の音声が、会議室の静寂を切り裂くように響き渡った。

「リサ、俺はお前だけを愛してるよ。美咲みたいなバカ女は、とっとと捨ててやるからな」

呂律の回らない拓也の醜悪な声。助手席のリサが相槌を打つ。

「まあ、本当嬉しい。拓也さん大好き」

だが、次の瞬間だった。ドライブレコーダーの高性能なマイクは、拓也が大きなあくびをした隙に、リサが小声で吐き捨てた本音をはっきりと拾っていたのだ。

「臭いんだよ。このクソ親父。さっさと死んで慰謝料と保険金よこせばいいのによ」

映像の中の車は、赤信号が点滅する大きな交差点へと差しかかろうとしていた。右方向からは大型トラックが高スピードで直進してくる。

「あ?行けねえ。赤信号だ。ブレーキ踏まなきゃ」

酔った頭でトラックに気づき、慌ててブレーキを踏もうとする拓也。しかし、その直後、車内にリサの狂気に満ちた叫び声が響き渡った。

「ダメよ!ここで行くのよ!」
「えっ?おい、リサ、何すんだ?ハンドル…」
「少しぶつかれば、あんたのあの間抜けな嫁からたっぷり慰謝料を搾り取れるんだから。さあ、もっとスピード出して。このポンコツATM」

画面が激しく揺れた。リサが運転席に身を乗り出し、拓也のハンドルを強引に右へと切り、さらにブレーキを踏もうとした拓也の右足の上に自分の足を重ね、アクセルをベタ踏みさせたのだ。拓也の絶叫、トラックの轟音。そして、鼓膜を劈くような激しい衝突音と共に、フロントガラスが粉々に砕け散り、映像はプツンと途切れた。

会議室は、まるで墓場のような恐ろしい静寂に包まれた。

「あ…ああ…」

拓也は、信じられないものを見たというように、震える手で自分の顔を覆った。自分が愛し、すべてを捧げ、そのために会社のお金にまで手を出した若い愛人。彼女は自分を愛していなかったどころか、金のために自分を殺そうとしていたのだ。自らの右足を複雑骨折させたのは、他でもないリサ自身だった。

「リサ…お前…俺を殺そうとしたのか…」

「違う!違うのよ!私じゃない!」

その時、またしてもリサの母親が狂乱状態で叫び出した。

「こんな映像、いくらでも合成できるじゃない!あんた、自分が中卒の底辺女だからって、金に物を言わせてこんな卑劣な動画を作ったのね!娘を殺人未遂の犯人にして、自分だけ被害者面する気!この腹黒いババア!絶対に許さないわよ!」

「黙れ」

神崎の低く冷たい声が会議室に響いた。

「警察に突き出す?ええ、奇遇ですね。私も全く同じことを考えていました。すでにこのドライブレコーダーの原本データは、警察の交通事故捜査班と検察に提出済みです。詐欺、有印私文書偽造、虚偽告訴、そして殺人未遂。これだけの証拠が揃っていれば、言い逃れは不可能でしょう。倉田リサ。あなたには間もなく逮捕状が請求されます。もう一生、その車椅子ではなく、冷たい鉄格子の中で過ごすことになるでしょうね」

「殺人…未遂…」

その重い言葉の響きに、リサは白目を剥き、ついに車椅子から床へと転げ落ちた。そして、「嫌だ!刑務所なんて嫌よ!」と泣き叫びながら、足が動かないという嘘をすっかり忘れ、自分の両足で必死に床を掻き回して逃げ出そうとする。そのあまりにも醜悪で無様な姿に、誰も同調する者はいなかった。

「リサ…お前…お前という女は…」

拓也は、床を這い回る愛人の姿を見て、ついに己の愚かさのすべてを悟った。私という本物の価値ある妻を捨て、こんな薄汚い悪女のために人生のすべてを投げ出してしまったのだ。彼はギプスで固められた足を引きずりながら、私の足元へと這い寄ってきた。

「美咲!俺がバカだった!全部、全部俺が間違っていた!お前だけだ!俺を本当に愛してくれていたのはお前だけだったんだ!頼む!離婚だけは勘弁してくれ!俺を見捨てないでくれ!」

先ほどまで私に「面倒を見ろ」「愛人に頼めば」と返していた男が、今はプライドも何もかも投げ捨てて命乞いをしている。私はすがりつく拓也の手を、ゴミでも払うかのように冷たく振り払った。

「お前には、慈悲をかける価値もない」

その時、会議室のドアが外から勢いよく開かれた。

「すみません。ここは関係者以外立ち入り禁止で…」

看護師の制止の声と共に、一人の人物が静かに部屋の中へと足を踏み入れた。スーツ姿の若い男の顔を見た瞬間、床に這いつくばっていた拓也は「あっ」と間抜けな声を漏らし、雷に打たれたように完全に凍りついた。

「け…健太…」

静まり返った会議室に現れたのは、春から東京の大学に進学したはずの私の一人息子、健太だった。背が高く、日に焼けたスーツ姿の彼が、穏やかな笑みを浮かべながら地獄と化した室内を見渡している。

「健太!ああ、よかった!健太!」

義母が飛び起き、すがるように健太の足元へと駆け寄った。

「健太、お前の母親が狂ってしまったのよ!拓也や私たちを騙して、家を奪おうとしているの!頼むから、おばあちゃんたちを助けてちょうだい!」
「そうだ、健太!俺たちは家族じゃないか!父さんを助けてくれ!」

拓也も涙でぐちゃぐちゃになった顔を上げ、必死に息子へと手を伸ばした。彼らにとって健太は、まさに地獄に垂らされた蜘蛛の糸だったのだろう。健太は、足元にすがりつく祖母と床に這う父親を、まるで路傍のゴミでも見るかのような冷徹な目で見下ろした。その瞳の冷たさは、私とそっくりだった。

「家族?助けてくれ、ですか?お母さんを裏切り、会社の金を三億円も横領して愛人に貢ぎ、危うくその愛人に殺されかけたような、間抜けな男。誰が父だと認めるんですか?笑わせないでください」

「け、健太!お前、親に向かってなんて口の聞き方を…」

「それに、祖母さん。母さんが狂った?狂っているのはあなたたちの方でしょう。息子が犯罪で盗んだ金で建てた家に住みながら、それを当然の権利だと主張し、ずっと母さんを中卒と見下してこき使ってきた。あなたたちのその腐りきった性根には、吐き気すら覚えますよ」

「う…うう…」

「それに父さん。父さんの給料をバカを言わないでください。あなたの安月給なんて、とっくに愛人への貢ぎ物と祖父母の家のリフォーム代で消し飛んでいたじゃないですか。俺の大学の学費も生活費も、すべて母さんが自分の会社の役員報酬から出してくれていたんですよ」

「父さんは、母さんを頭の空っぽな底辺女と殿下に思い込んでいたようですが、真実は逆だ。父さんこそが母さんの稼ぎに寄生し、会社で死んでいるだけの哀れな寄生虫だったんですよ」

すべての希望を打ち砕く、息子からの絶縁宣言。健太はスーツの内ポケットから一通の白い封筒を取り出し、拓也の目の前に投げ捨てた。

「俺はもう、母さんの会社で働きながら大学に通っています。今回の横領の件も、母さんと神崎さんと一緒に、俺が裏で調査を進めていたんです。そして、その封筒は、あなたとの親族関係終了に向けた法的な通知書です。俺は母さんの戸籍に入り、姓も変更します。もう二度と、あなたの息子として名乗ることはありません」

「健太!美咲!俺を見捨てないでくれ!」

会議室に拓也の絶望の絶叫が響き渡る。その時だった。病院の外から、けたたましいサイレンの音が近づいてくるのが聞こえた。赤い回転灯の光が窓越しに、会議室の壁を赤く染め上げる。

「お迎えが来たようですね」

健太が静かにそう告げると、会議室のドアが開き、数名の制服警官と刑事たちがなだれ込んできた。

「倉田リサさん。大進建設への横領の共犯、及び詐欺、殺人未遂の容疑で同行を願います」
「佐々木省吾さん。大量横領の容疑で」
「そして、拓也さん。あなたもです」
「嫌だ!話せ!私は歩けないのよ!」
「ふざけるな!俺は悪くない!俺は騙されただけだ!」

喚き散らす悪人たち。しかし、警察官たちは容赦なく彼らを拘束し、次々と部屋の外へと連行していく。車椅子から引きずり下ろされ、自分の足で惨めに歩かされるリサ。手錠をかけられ、青ざめた顔で連行される佐々木。そして最後に、車椅子に乗せられた拓也が、警官に押されながらドアを出ようとした瞬間だった。彼は狂乱の涙を流しながら、必死に首だけを後ろに向けていた。

「美咲!愛してる!俺にはお前しかいないんだ!頼む!待っていてくれ!やり直そう!」

無意味に愛を乞うかつての夫。私は彼のその言葉に対して一言も返さず、ただ氷のように冷たい視線を一瞥だけ向けると、ゆっくりと背を向けた。バタンと重いドアが閉まり、彼の叫び声は完全に遮断された。会議室には、私と健太、神崎、そして大文字社長だけが残された。嵐が去った後のような、静かで穏やかな空気が部屋を満たしている。

「終わったな、母さん」

健太が少しだけ肩の力を抜いて、私に向かって優しく微笑んだ。私は長かった二十年の重荷が、すべて肩から降りていくのを感じながら、静かに目を閉じた。

「美咲会長。この度は本当に…何とお詫びを申し上げたら良いか」

ストレッチャーの上で、大文字社長が涙ながらに何度も頭を下げた。

「大文字さん。頭を上げてください。大進建設は、一部の腐敗した人間のせいで潰していい会社ではありません。再建に向けた資金援助と経営の立て直しは、私たちが全面的にバックアップします。一緒にもう一度、会社を立て直しましょう」

「ありがとうございます!ありがとうございます!」

「さて、私の仕事もこれにて完了ですね」

探偵の神崎さんが、トレンチコートの襟を正しながら優しく微笑んだ。

「神崎さん。本当にありがとうございました。あなたがいなければ、ここまで完璧に証拠を揃えることはできませんでした」

「いいえ。美咲会長の、どんな侮辱にも耐え抜く沈黙の強さがあったからこそです。では私はこれで失礼します」

神崎さんは健太の肩をポンと叩くと、夜の病院の廊下へと静かに消えていった。

残された私と健太は、連れ立って病院の外へと歩み出た。自動ドアを抜けると、冷たくも心地よい夜風が私の頬を優しく撫でていく。空を見上げると、雲の切れ間から美しい満月がこっくりと顔を出していた。

「母さん」

隣を歩く健太が立ち止まり、私に向き直った。

「今まで本当にご苦労様。父さんやあの親戚たちから、酷い言葉をたくさん投げつけられて、一人でずっと辛かったよね」

その優しさに満ちた声を聞いた瞬間、私の目から今日初めての涙が溢れ出した。それは悔し涙でも、悲しみの涙でもない。すべてを終え、ようやく心から安心できた、温かい安堵の涙だった。

「ううん。辛くなかったと言えば嘘になるけれど。でもね、母さんにはあなたがいたから。健太が真っ直ぐで優しい大人に育ってくれたから。母さんの二十年は、絶対に無駄じゃなかったわ」

涙声でそう答えると、健太は少し照れ臭そうに笑いながら、しっかりと私を抱きしめてくれた。私よりもずっと背が高く、広く、逞しくなった息子の背中。私が必死に守り抜いてきた小さな命は、いつの間にか私を守ってくれる頼もしい存在へと成長していたのだ。

「で、『頭が空っぽの底辺女』なんて言われてたけどさ」

健太は悪戯っぽく笑いながら、私の顔を覗き込んだ。

「働きながら独学で会社を大きくして、俺をここまで育て上げてくれた母さんは、世界で一番賢くてかっこいい、最高の女性だよ。俺の誇りだ」

「健太…ありがとう」

私は両手で顔を覆い、子供のように声を上げて泣いた。二十年間、本当の自分を隠し、家族のためにすべてを犠牲にしてきた日々。夫には裏切られ、最も残酷な形で結婚生活は終わりを告げた。だが、失ったものばかりではない。私にはこの手で築き上げた会社と、何よりも掛け替えのない最愛の息子という、最高の宝が残されたのだから。

「さあ帰ろう、母さん。明日からまた、忙しくなるよ」

「ええ。そうね。私たちの新しい人生の始まりだわ」

二人で並んで歩き出す帰り道。足取りは羽が生えたように軽かった。どんなに深い絶望の淵に立たされても、真実から目を背けず、凛として立ち向かえば、必ず光は差し込む。私はもう、誰かの後ろに隠れて生きる冴えない妻ではない。これからの人生は、私自身の足で、愛する息子と共に、真っ直ぐに前を向いて歩いていこう。夜空に輝く満月が、私たちの明日を祝福するかのように、いつまでも優しく、そして力強く照らし続けていた。

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