お雑煮の椀が床に落ちて割れた瞬間、リビングの空気が凍りついた。義母が立ち上がって怒鳴り、親戚たちの冷たい視線が私に突き刺さる。そして夫が私の髪を乱暴に掴んだ。「お前のせいで恥をかいたんだぞ」その一言で、五年間の全てが崩れ落ちた。私はこの家で完璧な嫁を演じてきた。夫の夢を信じ、実家の資産を切り崩しながら一千八百万円を注ぎ込んだ。でも返ってきたのは蔑みと侮辱だけ。あの時、頭の中で何かが完全に切れ…

お雑煮の椀が床に落ちて割れた瞬間、リビングの空気が凍りついた。義母が立ち上がって怒鳴り、親戚たちの冷たい視線が私に突き刺さる。そして夫が私の髪を乱暴に掴んだ。「お前のせいで恥をかいたんだぞ」その一言で、五年間の全てが崩れ落ちた。私はこの家で完璧な嫁を演じてきた。夫の夢を信じ、実家の資産を切り崩しながら一千八百万円を注ぎ込んだ。でも返ってきたのは蔑みと侮辱だけ。あの時、頭の中で何かが完全に切れ...

ケ二の手が乱暴に髪を掴んだ瞬間、リビングは凍りついた。お雑煮の椀が床に転がり、汁が白いテーブルクロスに沁み広がった。親戚たちの目は一斉にしおりへ向いた。義母の佳代は顔を真っ赤にして立ち上がり、怒声を張り上げた。しかし、その時しおりの頭の中では、五年間の全てが静かに崩れ落ちていた。もう戻れない場所まで来てしまったのだと、彼女はようやく悟った。

三十五歳のしおりは、この家で五年間、完璧な嫁を演じてきた。台所に立ち続け、親戚の機嫌を取り、夫の健二の夢を誰よりも応援してきた。結婚前、彼女は中堅企業の財務部で課長を務めるキャリアウーマンだった。数字に強く、契約書の文言を一つ一つ分析する能力で、周囲の信頼を得ていた。しかし今、彼女の手に握られているのは報告書ではなく包丁であり、分析する対象は契約書ではなく義母の機嫌だった。

健二が会社を辞めて専業投資家になりたいと言い出したのは、結婚して三ヶ月目のことだった。しおりは最初、冗談だと思った。しかし夫の目は真剣だった。それ以上に、切実だった。

君のお父さんから譲り受けたビルの賃貸収入があるじゃないか。あれで十分やっていけるんだ。俺を信じてくれ那時のしおりは気づくべきだった。夫の目に映っていたのは自分自身ではなく、自分が背負っている実家の資産だったのだと。しかし、恋に落ちた人間は、見たいものしか見ない。しおりは会社を辞め、夫の夢を支えるために、実家の資金を無心で引き出し続けた。

五年が経ち、健二の投資は全て失敗した。実家から受け取った資金は底を突こうとしていた。しかし、健二は焦る様子を一切見せなかった。ただ繰り返し言うだけだった。もうすぐ大当たりが出る、と。しおりはようやく悟った。夫にとって自分は投資家ではなく、ただ無限にお金を引き出せるATMだったのだと

外から義母の声が響いてきた。鈴木佳代、六十代半ばのこの女は、自分がメ下の出身であるという事実を決して忘れない。実際は没落した旧家の出だが、彼女の口からはいつも「家柄が違う」という言葉が出てきた。玄関が開くと、佳代の声が家中に響き渡った。挨拶もなしに、第一声が投げつけられた。「まあ、なんて寒々しい家なの。暖房の温度くらい上げておきなさいよ」しおりはエプロンで手を拭きながら、リビングへ向かった。義姉のあ子も隣に立っていた。四十歳で実家の母親の日陰で生きる自称実業家は、実態は夫の給料で生活している身の上だった

しおりが頭を下げて挨拶すると、佳代はソファにどっかりと腰を下ろし、彼女を上から下まで値踏みするように見つめた。「お正月に皆さんがいらっしゃるのは分かっているでしょう。その格好は何?最近自分に構っていないんじゃないのをうちの健二に恥をかかせないでちょうだい」しおりの口から、自動的に謝罪の言葉が流れ出た。五年間で学習させられた反応だった。

あ子が高価なハンドバッグをソファに放り投げながら、口を挟んだ。「お母さん、この子は元々そういうことに無頓着なのよ。お金の使い方も知らないんだから」実に国形な言葉だった。しおりの実家が、麻布にビルを三棟も持つ資産家であることは、義理の家族が誰よりもよく知っているはずだった。しおりがお金を使わないのではない。義理の家族のためにお金を使い、自分に使う余裕がないのだ

佳代がテーブルの上に置かれた保険の書類を手に取った。「あら、この保険満期になったのね。ああ、この金額なら相当貯蓄になるんじゃないかしら」その目が輝いた。しおりは、その目をよく知っていた。実家の資産状況を把握しようとする、巧妙な試みの目だった。佳代はいつもこの調子だった。保険が満期になれば金額を尋ね、株を買ったと聞けば銘柄を探り、果ては実家の父の健康状態まで尋ね、もしもの時の相続計画は立てているのかと骨まで聞き出そうとした

質問は続いた。しおりの手は、知らず知らずのうちに拳を握りしめていた。しかし、すぐに力を抜いた。怒ったところで、何も変わりはしないのだから。その時、しおりの脳裏に父の顔が浮かんだ。結婚前夜、父はしおりに、古びた封筒を一つ渡した。「しおり、これは私にとっての保険だ。いや、お前を守るための盾だ」当時はその言葉の意味を理解できなかった。ただの父の過剰な心配だとしか思っていなかった。しかし今は、違う。あの契約書が、もしかしたら本当に自分を守ってくれる何かかもしれない

午前十時になると、家はさらに慌ただしくなった。親戚たちが一人、また一人と集まり始めたのだ。しおりは台所とリビングを休む間もなく往復した。煮物を作り、和え物を作り、お雑煮の出汁を取る。手は動き続けていたが、頭の中は複雑だった

食事が始まった。しおりが心を込めて準備したおせち料理が、食卓にずらりと並んだ。しかし佳代は箸を取るなり、ため息をついた。「味がしょっぱいわね。こんなに醤油を使ってどうするの?」あ子が便乗した。「お母さん、今に始まったことじゃないんだから、理解してあげなさいよ。この子はお正月の料理の作り方なんて、実家でちゃんと習ったことがないのよ」しおりの手が震えた。箸を握る手に力がこもった。隣に座る夫をちらりと見た。自分を庇ってくれることを、無意識に期待していた。しかし健二は、ただ黙々と食事を続けていた。いや、正確には、顔を背けてしおりから目をそらしていた

「あなた」しおりが小さな声で呼んだ。健二は苛立った表情で顔を向けた。「何だよ。今飯食ってるだろうが。姉さんの言う通りじゃないか」その一言が、しおりの最後の理性の糸を断ち切った。五年間、積もり積もった全ての感情が、一瞬にして込み上げてきた。こらえていた涙が目頭を熱くした。しおりは震える手で箸を置いた。その時だった。ガチャンと、お雑煮の椀が食卓から滑り落ちた

リビングが一瞬にして静まり返った。全ての視線がしおりに注がれた。その視線の中で、彼女はようやく悟った。この人々にとって、自分は人間ではない。ただお金を運んでくる道具であり、お正月に料理を作る機会であり、存在を否定して良い嫁でしかなかったのだと

佳代が怒鳴り声をあげた。「なんてことをするの?お正月のめでたい席で」しかししおりは答えなかった。彼女の目からは、すでに涙が溢れていた。その時、夫の健二が席から勢いよく立ち上がった。彼の足音が床を鳴らした。しおりに近づいてくるその足音は、まるで心臓の鼓動のようだった。健二の手が、しおりの髪を掴んだ。瞬間、頭皮が引き裂かれるような痛みが走り、目の前が真っ白になった

「おい、しおり!少しはしっかりしろ!」健二が髪を掴んだまま、揺さぶりながら叫んだ。周囲の親戚たちが息を飲む音が聞こえた。しかし誰も止めに入らなかった。義姉のあ子は、むしろ腕を組んで見物を決め込んでいた。「お前のせいで、なんて恥ずかしい思いをさせられるんだ」三十七歳の男の手に捉えられたしおりは、操り人形のように揺れた。痛かった。しかし、肉体的な苦痛よりもっと痛いものがあった。しおりの目に、親戚たちの顔が映った。彼らは皆、冷たい目でしおりを見ていた。同調するものは一人もいない。むしろ、「あんな嫁をもらったから、健次も苦労するだろう」という表情だった

健二の手が、しおりの髪をさらに強く引き寄せた。首が折れんばかりに後ろにのけぞった。その瞬間、しおりの頭の中に、五年間の記憶が走馬灯のように駆け巡った。結婚一年目、夫が実家の父に投資資金を要求した日、三百万円が必要だと言った。しおりは父を説得し、父は娘を信じてお金を出してくれた。結果は全額損失だった。結婚二年目、佳代が膝の手術を受けると言って病院代が必要だと言った。二百万円、しおりは自分の定期預金を解約した。しかし後で知ったことだが、佳代はそのお金であ子の事業資金を援助していたのだ。結婚三年目、健二が再び投資のチャンスが来たと手を差し伸べてきた。今度は五百万円。しおりは実家のビルの賃貸収入から、そのお金を捻出した。やはり失敗だった。そして四年目、五年目、お金は出続けた。実家の資産は底を見せ始めていた。しかし義理の家族は、さらに多くのものを要求した

「その手を話しなさい」しおりの口から、冷たい声が漏れた。健二の手が一瞬ためらった。しかし依然として、髪は掴んだままだっ た。「何だ?」「手を離せと言っているの」しおりの声は震えていなかった。。むしろ恐ろしいほど平然としていた。健二は呆れたように嗤った。「今、俺がお前の言うことを聞くと思うか?」「聞くべきよ。これが最後のチャンスだから」しおりはゆっくりと健二の手首を掴んだ。そして力いっぱい、引き剥がした。健二は驚いて手を離した。しおりの髪の毛が、彼の指の間に数本、残っていた

しおりは席から立ち上がった。乱れた髪を書き上げながら、リビングを見渡した。佳代、あ子、そして十五人を超える親戚たち、全員がしおりを見つめていた。「私の髪を掴む資格は、もうあなたにはない」しおりの言葉に、健二の顔が強張った。佳代が勢いよく立ち上がって割って入った。「しおりさん、今、何を言っているの?お正月のめでたい席で、なんてことを?」

「義母様、私たち離婚します」リビングが再び静寂に包まれた。しおりの言葉が、空気中に、はっきりと響き渡った。健二の口が、ぽかんと開いた。「な…んだって?離婚しましょうと言っているのか?」「健二さん」しおりは夫の名前を、はっきりと呼んだ。結婚して五年、初めて呼ぶ名前だった。健二の顔が青ざめた。しかし、それも束の間、すぐに赤くなったり青くなったりと変わり、再び怒鳴り声をあげた。「お前、木でも狂ったのか?本当に狂ったんだが!」健二がしおりに詰め寄った。しかし、今度はしおりが一歩下がった。健二の手が、空を切った

「お正月のストレスで頭がおかしくなったのね。かわいそうに」義姉のあ子が、ソファに座ったまま足を組んで、言葉を続けた。「しおりさん、落ち着いて。ストレスが溜まっているのは分かるけど、そんなことをしたら、あなただけが損をするわよ」しおりはあ子を見つめた。四十歳の義姉は、依然として余裕のある表情だった。まるで、しおりの離婚宣言など、真剣に受け止める価値もないとでも言うように。「そうでしょう。あなた家を出て行ったら、どこで暮らすつもり?仕事もないじゃない」佳代が頷き、口調が高圧的に変わった。「そうよ。しおりさん、うちの健二が少しかっとなったのは悪かったけど、あなたにも火はあるでしょう?お正月にお雑煮の椀をひっくり返すなんて。これは嫁としてあるまじき行為よ」しかししおりは知っていた。その穏やかさの裏に隠された計算を。佳代は今、表向きは嫁を宥めるふりをしているが、実際には金蔓が切れることを恐れているのだ

「まずは落ち着いて、私たちでゆっくり話し合いましょう。ねえ」佳代がしおりに手を差し伸べた。しかししおりは、その手を掴まなかった。代わりに、さらに一歩後ろに下がった。「義母様、私がこの五年間、この家にどれだけのお金を使ったか、ご存知ですか?」しおりの問いに、佳代の笑顔が固まった。しおりは言葉を続けた。「千八百三十万円です。正確には、千八百三十万円」リビングが再び静まり返った。親戚たちがざわめき始めた。しおりは彼らの反応など気に留めなかった。「夫の投資資金、義母様の入院費、義姉様の事業資金、全部、私の実家のお金です。でも私が受け取ったものは、何でしたか?」健二は唇を噛みしめた。彼の拳が、ぶるぶると震えていた。しかし反論はできなかった。。しおりの言葉は、全て事実だったからだ。「ありがとうの一言もありませんでした。。代わりに、お正月の度に料理がまずいと言われ、服装が野暮ったいと避難されました。。そして今日、私の髪を掴まれました」しおりの目から涙がこぼれ落ちた。。しかし声は震えていなかった。「もう、結構です。本当にもう、終わりです」しおりは、玄関の方へ歩き出した

健二が慌てて後を追った。「おい、しおり!このまま出て行ったら、本当に終わりだからな」しおりは靴を履きながら振り返りった。そして冷たく、微かに笑った。「終わり?本当の終わりがどんなものか、私が見せてあげる」玄関のドアが開き、外の寒さが肌を刺した。。しかししおりは、寒さを感じなかった。。むしろ、五年ぶりに初めて、息がつけるような気がした

エレベーターの中で、しおりは鏡に映った自分の姿を見た。。乱れた髪、赤くなった目、そして固く結ばれた唇。。しかし、その目だけは、もう揺らいでいなかった。。しおりの手が、ポケットの中のスマートフォンを握りしめた。。電話をかけるべき人がいた。。兄、弁護士の兄に

エレベーターが一階に到着した。。ドアが開くと、冷たい風が顔を撫でた。。しおりは深呼吸をした。。そして夜空を見上げ、小さくつぶやいた。「これからが、始まりね」彼女の口元に浮かんだのは、温かい笑みではない。。復讐を決意した女の、冷たく、そして硬い笑みだった

タクシーの中で、しおりは震える手でスマートフォンを取り出した。。時間は夜の十時四十分。。電話をかけるには遅い時間だったが、今すぐ話さなければならない相手がいた。「お兄ちゃん」電話に出た強兵の声は、驚くほどはっきりとしていた。。三十八歳でパートナー弁護士を務める兄は、いつもこの時間でも仕事をしていた。「しおりか?どうしたんだ?声がおかしいぞ」「お兄ちゃん、私、今、家を出てきたの。。離婚する」電話の向こうで、沈黙が流れた。。そして、強兵の落ち着いた声が聞こえた。「今どこだ?俺が行く」

四十分後、しおりは高層ビルが建ち並ぶ法律事務所の前に立っていた。。エレベーターのドアが開くと、強兵が廊下で待っていた。「しおり」兄の声を聞いた瞬間、しおりの目から涙が吹き出した。。必死に堪えていた感情が、一気に溢れ出した。。強兵は妹を事務所へと導き、ドアを閉めると、しおりはソファに崩れ落ちるようにして泣きじゃくった。「あいつが…私の髪を掴んだのよ…」しおりの話を全て聞き終えた強兵の声は、冷たく冷え切っていた。。彼の手が机の角を強く握りしめ、手の甲に血管が浮き出ていた。「しおり、今から俺の言うことをよく聞け」強兵はしおりの手を握った。。温かい体温が伝わってきた。「感情は法廷では、何の力にもならない。。お前がどんなに悔しくて腹が立っても、証拠がなければ意味がないんだ」「じゃあ…どうすればいいの?」

「冷静に、証拠を集めるんだ。。体型的に。そして、抜け目なく」強兵はノートパソコンを開き、画面に「離婚訴訟戦略」というタイトルの文書を表示させた。「まずは財産分与しよう。。お前が義理の家に渡した金は、いくらだと言ったな?」「千八百三十万円。証拠は、口座の振り込み履歴とメッセージのやり取りは、全部あるわ」強兵の口元に、笑が浮かんだ。。しかし、それは温かい笑ではなかった。。狩人が獲物を見つけた時に浮かべるような、そんな笑だった

「よし、じゃあ次は、慰謝料を請求しないとならないが、そのためには有責自由が必要だ。。有責自由、不倫や暴力、そういうものだ。。髪を掴まれたのも、家庭暴力に該当するが、証拠が弱い。。目撃者が全員、義理の家族だからな」強兵は顎に手を当て、考え込んだ。。しおりは兄のその表情をよく知っていた。。何か計画を立てている時にする表情だっ た。「しおり、健二が浮気している可能性はないか?」しおりは数秒、考え込んだ。。確信はないが、何か怪しいとは感じていた。。夜遅く出かけることが頻繁になり、スマートフォンを見るたびに画面を隠すようになった。「確信はないけど…何か怪しいとは思う」「確認してみる必要があるな」強兵はスマートフォンを取り出し、電話をかけた。。夜の十一時を過ぎた時間だったが、相手はすぐに出た。「順夜か?俺だ。。強兵だ。。今、時間あるか?急ぎの用事ができたんだ」通話は三分ほど続き、強兵は電話を切ってしおりを見つめた。「大学の同期で、今はIT分野の専門家だ。。明日、必要な機材をいくつか受け取ってこよう。。証拠収集のためだ。。合法的なものだから、心配するな」

翌日の午後二時、しおりは強兵と共に渋谷のカフェで、順夜という男に会った。。三十代半ばに見えるその男は、静かな隅の席に座っていた。。簡単な挨拶の後、順夜は鞄から小さな箱を取り出した。。箱を開けると、中には様々な機材が入っていた。「これが腕時計型の録音機です。。見た目は普通の時計ですが、横にあるこのボタンを押すと録音が始まります。。一度充電すれば、二十四時間連続録音が可能です」順夜は時計をしおりに手渡した。。本当に普通の女性用腕時計のように見えた。。重さも、普通の時計と同じだった。「そしてこれが、万年筆型のカメラ。。胸ポケットに差しておけば、前方を撮影できます。。レンズは、ここのクリップ部分に隠されています」順夜の説明は続いた。。小さなボタン型のマイク、証拠資料を保管するための暗号化メモリまで、全てが日用品のように偽装された機材だった。「これ、違法じゃないんですか?」しおりが心配そうに尋ねた。。強兵は首を振った。「本人が直接会話に参加しながら録音するのは合法だ。。家族間の会話の録音も、後で訴訟の証拠として使える」「兄さんの言う通りです。。注意して使っていただければ、大丈夫です」順夜の言葉に、しおりは頷いた。。機材を一つ一つ触ってみると、不思議な気持ちになった。。こんなに小さなものが、自分を守ってくれるという

カフェを出た後、強兵としおりは近くの公園を歩いた。。三月初旬の風はまだ冷たかったが、日差しは温かかった。「しおり、今はどこに泊まっているんだ?」「実家よ。。健二からは連絡が、今朝から二十回は来てるわ。。電話も全部、無視してる」「何て言ってた?」「ごめん。。帰ってきてくれって。。佳代さんがショックで、薬を飲んで寝込んでいるとか」強兵の眼光が鋭くなった。「やはりな」強兵は顎を撫でながら、深刻な表情で言った。「しおり、俺の予想では、義理の家は近々、何か大きなイベントを仕掛けてくるぞ」「イベント?」「ああ、お前を再び家に連れ戻すための、芝居のようなものだ。。多分、佳代さんが倒れたとか、健二が何か事故にあったとか」強兵の言葉に、しおりの目が大きくなった。。しかし、よく考えてみれば、十分にあり得る話だった。。佳代は、そういうことをやってのける人間だった。「なぜ、そんなことを?」「お前の財産のためだ。。お前が本気で離婚すれば、財産分与で最低でも三千万円以上は出ていくだろう。。それに慰謝料まで加われば、五千万円を超える可能性もある。。義理の家にとっては、絶対に手放せない金だ」強兵の説明に、しおりは歯が鳴るほどの怒りを覚えた。。結局、最後まで自分を人間としてではなく、金としてしか見ていなかったのだから

「じゃあ、私はどうすればいいの?」「その芝居に乗るんだ」強兵はしおりの肩に手を置いた。。「家に戻って、良い嫁の演技をするんだ。。そうしながら、証拠を集める。。録音でも何でもだ。。奴らが俺たちの前で本性を現すまで」「そんなこと、できるかしら?」「できる。。お前は五年間、その演技をしてきたじゃないか。。もう少しだけ続ければいい」強兵の目は断固としていた。。しおりも頷いた。。兄の言う通りだった。。今、感情に任せて飛びかかれば、負けるしかない。。冷静に、戦略的に動かなければならない。「分かったわ。。お兄ちゃん、やってみる」「ああ。。そして、しおり、心に留めておけ。。これは復讐じゃない。。正当な権利を取り戻すことだ。。自分がやられた分を、取り返すだけだ」強兵の言葉に、しおりの胸が熱くなった。。そうだ。。これは復讐ではない。。五年間奪われたものを取り戻すための戦いなのだ

その夜、しおりのスマートフォンが鳴った。。健二からだった。。しおりは深呼吸をして、電話に出た。「もしもし」「大変だ。。母さんが、倒れたんだ」予想通りだった。。しおりの口元に、冷たい笑が浮かんだ。。芝居が始まったのだ。。ならば、自分もその舞台に上がらなければならない。「え…。今、どこにいらっしゃるの?」しおりの声は、完璧に慌てた嫁の声だった。。五年間の演技が、体に染みついていた

病院の救急待合室の前に到着したのは、夜の十一時を過ぎた頃だった。。しおりは息を整えながら、自動ドアを押した。。手首の腕時計型録音機が、わずかに重みを感じさせた。。健二が救急待合室から駆け寄ってきた。。彼の顔は青白く、目元は赤くなっていた。。演技にしては、なかなかの迫真性だった。。「義母様は?義母様はどこに?」「集中治療室だ。。先生が今、検査中だって」健二の声が震えていた。。しおりの手を握る彼の手も、湿っていた。。本当に心配しているのか、演技なのか、分からなかった。。いや、分かっていた。。この男は、常に自分の利益のためにしか動かない人間だから

一時間ほど経っただろうか。。医師が出てきた。。五十代半ばに見えるその医師は、落ち着いた声で説明した。「心臓に負担がかかっているのは事実です。。ただ、命に別状があるほどではありません。。十分に安静にすれば、良くなるでしょう」しおりは医師の表情を注意深く観察した。。特に緊迫した様子はない。。むしろ、過労による一時的な症状程度に見ているようだった。。兄の強兵の予想通りだった。。これは芝居だった。「では、入院はどのくらい必要でしょうか?」健二が尋ねた。。医師はカルテを見ながら答えた。。「一週間ほどで十分でしょう。。特別な処置が必要なわけではなく、ただゆっくり休んでいただければ大丈夫です」一週間。。しおりの頭が、素早く回転した。。一週間あれば、十分だった。。証拠を集めるには、ちょうど良い時間だ

集中治療室から一般病室に移された佳代は、ベッドに横たわっていた。。酸素マスクをつけた姿は、なかなかの迫真性だった。。しかししおりは気づいた。。佳代の目が、あまりにもはっきりとしていたことに。。本当に心臓に問題を抱えて倒れた人間の目ではなかった。。「義母様」しおりがベッドのそばに近づきながら呼びかけた。。佳代がゆっくりと顔を向けた。。彼女の口元に、かすかな笑みが浮かんだ。。ほんの一瞬だったが、しおりは見逃さなかった。「しおりさん、ごめんなさいね。。あなたが出ていったのが、あまりにもショックで」佳代の声は、か細く震えていた。。六十代半ばの女性の演技は、ベテラン女優にも劣らないものだった。。しかししおりも、五年間この家で演技を学んできたのだ。「義母様、私が悪かったんです。。私があまりにも、子供じみていました」しおりは佳代の手を握った。。佳代の手は、温かった。。倒れた人間の手にしては、あまりにも温かすぎた。。しおりは確信した。。これは、完璧な芝居だと

翌日から、しおりは完璧な嫁になった。。朝早く病院に来ては佳代の食事の世話をし、体を拭いた。。義姉のあ子が来ればコーヒーを入れ、健二が来れば、服の埃を払ってやるほどだった。。「あなた、本当に反省したみたいね」あ子が皮肉っぽく言った。。しかししおりはただ、微かに笑って答えた。「私が子供だったんです。。もう、目が覚めました」

三日目、佳代は退院することになった。。医師は十分に回復したと言い、家で安静にするよう指示した。。しおりは義理の実家へと一緒に戻った。。その夜から、しおりの本当の任務が始まった

深夜二時、しおりは静かにベッドから起き上がった。。健二は、いびきをかいて寝ていた。。しおりは鞄から小さな機材を取り出した。。最初の目標は、リビングのトイレだった。。佳代とあ子が、頻繁に使う場所だった。。しおりはトイレのドアをそっと開け、中に入った。。便器の後ろの配管に手を伸ばした。。配管と壁の間に、狭い隙間があった。。そこに、丸型の録音機を押し込んだ。。外からは、全く見えなかった。二つ目は、リビングだった。。ソファの下の空間は、かなり広かった。。しおりは膝をつき、ソファの下を覗き込んだ。。手を伸ばし、隅の方に、もう一つの録音機を設置した。。そこは、佳代が良く座って話をする場所だった。。三つ目は、最も危険な場所だった。。夫の健二の書斎。。しおりは書斎のドアを開けながら、息を殺した。。ドアが軋む音がしないか、ひやひやした。。幸い、静かだった。。中は、闇に包まれていた。。しおりはスマートフォンのライトをつけ、机に近づいた。。机の後ろには、分厚い専門書が並んでいた。。しおりは本の間に、指ほどの大きさのカメラを隠した。。レンズが机の方を向くように、角度を合わせた。。健二が書斎で電話をしたり、パソコンを使ったりする時、全てが録画されるはずだった

それから四日が経った。。しおりは完璧な嫁の演技を続けた。。朝早く起きては佳代の世話をし、家中の埃まで掃除した。。佳代は、しおりの献身ぶりに満足しているようだった。「うちの嫁は、本当に変わったわね」佳代が満足そうに言った。。しおりは頭を下げながら答えた。「義母様の健康が一番大事ですから」しかし、しおりの本当の関心は、別のところにあった。。健二の行動だった。。ここ数日、夫の動きが怪しかった。。夜十時になると、健二は書斎に入った。。そしてドアに鍵をかけ、一時間以上出てこなかった。。しおりがノックをすると、「仕事中だ」「トイレだ」って答えた。。しかし、しおりは知っていた。。書斎に設置したカメラが、全てを録画していることを

ある夜、健二がまた書斎に入った。。しおりは寝室でイヤホンをつけ、スマートフォンでリアルタイムの映像を確認した。。カメラの画質は、鮮明だった。。健二がスマートフォンを取り出し、通話を始めた。。彼の顔に、笑みが浮かんだ。。しおりが一度も見たことのない表情だった。。優しく、そして愛情のこもった、その表情。「うん。。俺だよ。。会いたいな」健二の声が、甘く蕩けた。。しおりの手が震えた。。音声の品質が良く、全ての言葉がはっきりと聞こえた。「今週はちょっと難しいな。。嫁が家にいるからさ。。来週には、ああ、しおり、と」

しおりの胸に、ナイフが突き刺さるようだった。。五年間共に暮らした夫が、他の女に自分のことを「嫁」と呼んでいるのだから。「心配するな。。もうすぐ整理するから。。そうしたら、俺たち思う存分会えるよ」整理。。その言葉が何を意味するのか、しおりには分かった。。自分との離婚を意味するのだ。。しかし、その前に財産をできるだけ横取りするという計画なのでしょう。。しおりはイヤホンを外し、深呼吸をした。。怒りが込み上げてきたが、堪えた。。今は、感情に流される時ではない。。冷静に、もっと多くの証拠を集めなければならない

翌朝、しおりはいつも通り笑顔で、健二に朝食を出した。。健二は何事もなかったかのように、食事をしながら新聞を読んでいた。。しおりはその姿を見ながら思った。。この男は、本物の役者だと。昼間は夫のふりをし、夜は別の女に愛を囁く。。そんな完璧な二重生活を送っていたのだ。。しおりの腕時計が、静かに全てを録音していた。。証拠は、着々と積み上がっていた。。あともう少し、あともう少しだけ、耐えれば良かった

一週間が経った。。しおりが義理の実家に戻ってきてから、ちょうど一週間だった。。その間、設置した録音機とカメラは、休むことなく作動し続けた。。毎晩、しおりは録音ファイルを確認した。。ほとんどは、取るに足らない日常会話だった。。しかし昨夜は、違った

しおりはイヤホンをつけ、録音ファイルを再生した。。リビングのソファの下に設置した録音機から収集されたファイルだった。。佳代と、あ子の声が、はっきりと聞こえた。「お母さん、しおりって、最近すごく大人しくなったと思わない?」あ子の声だった。。しおりはボリュームを上げた。「そうね。。すっかり改心したみたいだわ。。まあ、良いことじゃない」佳代の声が続いた。。彼女の口調には、満足感がにじみ出ていた。「でも、お母さん、本当に離婚はさせないの?」「当たり前でしょう。。あのお父さんが麻布の超一等地の契約書のことを知らないのになんで離婚させる必要があるのよ」しおりの手が、震えた。。麻布の超一等地の契約書。。それは何を意味するのでしょうか?録音は続いた。「でも、その契約書って何なの?」「ああ、あれね。。しおさんのお父様が十年くらい前に買ったっていう。。麻布の商業ビルのことよ。。その時、私がこっそり調べたら、最低でも五十億円は超えるわ」五十億円。。しおりの心臓が、激しく鼓動した。。父がそんなものを買っていたなんて、初耳だった。「うわあ、すごいわね。。でも、しおりがそれを知らないなんて。。どうして?」「しおりさんのお父様が、娘の名義で買っておいたらしいの。。でも、しおりさんにはまだ教えていないみたい」「ああ、相続対策か何かでしょうね」「じゃあ、お母さんはどうして知ってるの?」「昔、しおさんのお父様が酔っ払って、うっかり口を滑らせたのよ。。その時、私がしっかり覚えておいたの」佳代の笑い声が聞こえた。。しおりの手が、拳を握りしめた。。全身に鳥肌が立った

「それで、健二に投資の話をさせたのね?」「ええ、健二、あんた事業資金はちゃんと確保したの?」「ええ、先月三千万円もらったわ。。おかげで借金が少し返せたのよ」三千万円。。しおりは思い出した。。一ヶ月前、あ子が緊急で事業資金が必要だと言って、検事を通じてお金を借りたのだ。。しおりは実家の定期預金を解約して、そのお金を作ってあげたのだ

録音は続いていた。「それにしても、しおりがあんなに大人しくなってくれて、助かったわ。。このまま大人しくしていてくれれば、財産も楽になるし」「そうね。。健二も最近、しおりに優しくするふりをしているみたいだし」「そうしなくちゃ。。まずはしおりを安心させないと。。そうしておいて、後でこっそり離婚して、慰謝料は少なく、財産は私たちがいただくのよ」佳代の言葉に、あ子がくすくすと嗤った。。しおりはイヤホンを外し、深呼吸をした。。手が、ぶるぶると震えていた。。怒りのせいではなかった。。裏切りに対する、絶望感のせいだった。。五年間。。五年間。。この人々は、自分をATMとしか見ていなかったのだ。。愛も家族も、全てが嘘だった。。最初から最後まで、お金のためだったのだ

しおりは別の録音ファイルを開いた。。今回は、健二の書斎で録音されたファイルだった。。数日前に録音されたものだった。「母さん、俺だよ」健二の声が聞こえた。。佳代と電話しているようだった。「ああ、しおりはすっかり大人しくなったよ。。心配いらない」しばらく沈黙が流れた後、健二が再び口を開いた。。「正直言って、しおりにあるのは金だけじゃないか。。容ほど魅力的でもないし」容。。しおりの胸に、またナイフが突き刺さった。。容。。その名前は、数日前からずっと聞こえていた。。健二が通話する時、よく呼ぶ名前だった。。「でも、もう少しだけ我慢するしかないな。。容にもそう言ったんだ。。金の問題が片付いたら、すぐに離婚して、容と一緒に暮らすって」健二の声は、冷たく、そして計算高いものだった。。しおりは目を閉じた。。涙が、頬を伝わり落ちた。。悲しみのせいではなかった。。この全てがあまりにも、お粗末だったからだ

しおりはノートパソコンを開き、「容」という名前を検索した。。兄の強兵が教えてくれた方法で、ソーシャルメディアを調べた。。すぐに、一人の女性のアカウントが見つかった。。川容。。三十歳のその女性は、ピラトゥススタジオのオーナーだと自己紹介していた。。アカウントには、華やかな写真が満載だった。。高級レストランで撮った写真、ブランド物のバッグを持った写真、会社の前で撮った写真。。全てが、ここ半年以内にアップロードされたものだった。。しおりは写真を拡大してみた。。そして発見した。。ある写真の背景に写った男の後ろ姿、健二だった。。しおりは、その後ろ姿をよく知っていた

次の録音ファイルを開いた。。今回は、一週間前のファイルだった。「ねえ、今月のカードの請求額、ちょっと多くなっちゃった」容の声だった。。媚びるような口調だった。「いくら?」「八十万円くらいかな?スタジオの内装を、少し変えたの」容少し使いすぎじゃないか?」「でも、私のこと愛してるって言ったじゃない。。これくらい、してくれるでしょう?」健二がため息をつく音が聞こえた。。そして答えた。。「分かったよ。。来週、振り込んでやる」「ありがとう、あなた。。愛してる」通話が切れた。。しおりは電卓を弾いた。。八十万円。。先月も、似たような通話があった。。その時は、七十万円だった。。その前の月は、九十万円。。健二が容に使った金だけで、半年間で五百万円を超えていた。。その金は、どこから出たのだろうか?当然、しおりの実家のお金だった

しおりはノートパソコンを閉じ、窓の外を見つめた。。夜空に星が輝いていた。。美しい夜だったが、しおりの心は、闇に満ちていた。。ふと、しおりの脳裏に何かがひらめいた。。父が結婚前夜に渡してくれた、古びた契約書。。それが何だったのか、今こそ確認する時が来たようだった。。しおりは鞄を探り、古びた封筒を取り出した。。封筒を開けると、黄ばんだ書類が出てきた。。しおりは書類を広げた。。契約書のタイトルは、「名菓子不動産管理委託契約書」だった。。しおりは内容を読み始めた。。最初は、どういう意味かよく分からなかった。。しかし、読み進めるうちに、目が大きくなった。。契約書には、佳代の名前があった。。彼女名義の、麻布の商業ビルが明記されていた。。しかし、実際の資金の出所は、しおりの父だった。。十五年前、佳代が脱税のためにしおりの父の助けを借りて、名義を借りて建物を購入したのだ。。そして、契約書の最後の条項には、このような内容が書かれていた。。「契約に反した場合、当該不動産の全ての権益は、しおりの父に帰属する」佳代が署名した日付は、二零一零年三月十五日だった。。しおりの手が震えた。。これが、父が言っていた盾だったのだ。。義理の家の不正を握る、決定的な証拠だった

しおりはスマートフォンを手に取り、強兵に電話をかけた。。夜中の十二時を過ぎた時間だったが、急ぎだった。「お兄ちゃん」「しおりか?どうしたんだ?」「お兄ちゃん、とんでもないものを見つけたの。。お父さんが残してくれた契約書のことなんだけど」しおりは契約書の内容を説明した。。電話の向こうで、強兵が口笛を吹いた。。「しおり、これはとんでもないお宝だぞ」「ええ、これが何か分かるか?これは佳代さんの隠し資産の証拠だ。。名義貸しの不動産は、違法なんだ。。それに脱税目的であれば、刑事罰の対象にもなる。。これを国税庁に通報すれば…」強兵の言葉は続いた。。しおりは兄の説明を聞きながら、ゆっくりと頷いた。。パズルのピースが、はまっていった。。「そうすれば、佳代は完全に終わりだ。。不動産は差し押さえられ、罰金を重ね、悪ければ懲役刑になる可能性もある。。それに、俺たちがその建物に対する権利を主張することもできる」しおりの口元に、笑が浮かんだ。。初めて、本当の笑いが出た。。これで、絵が完成しつつあった。「お兄ちゃん、私、もう準備はほとんどできたと思う」「よし、じゃあ、あとはタイミングだけだな。。義理の家族が全員集まる日を狙おう」

二日後、強兵がしおりに会おうと言ってきた。。場所は、渋谷の静かなカフェだった。。しおりが到着した時、強兵はすでに座っていた。。彼の前には、書類の束が置かれていた。。「しおり、これを見ろ」強兵が書類を差し出した。。しおりは内容を読み始めた。。目が、だんだん大きくなった。。「これ…」「ああ、健二の同僚の証言だ。。俺が人を送ったんだ」書類には、健二の同僚が作成した陳述書が入っていた。。内容は、衝撃的だった。。健二が飲み会で酔っ払って言った言葉が、記されていた。。「しおりは歩くATMだよ。。金さえくれればいい女さ。。結婚したのも、愛してたからじゃない。。義父の財産のためだよ。。容の方がずっと良い。。しおりは顔もいまいだし、面白みもない」しおりの手が震えた。。文字が、滲んで見えた。。涙のせいだった。。「お兄ちゃん、この人、本当に私のこと、一度でも愛してくれたことがあったのかしら」「しおり」強兵が妹の手を握った。。温かい体温が伝わってきた。。「そんなことは、どうでもいい。。大事なのは、お前がこの地獄から抜け出すことだ」しおりは、頷いた。。強兵が、別の書類を取り出した。。「そして、これも見ろ。。佳代さんの銀行取引履歴だ。。どうやってこれを?俺の人脈を少し使ったんだ。。合法的な方法だから、心配するな」しおりは取引履歴に目を通した。。ここ二ヶ月の間、佳代は資産を現金化し続けていた。。株を売り、定期預金を解約し、さらには保険まで解約していた。。「これ、何のためにいい?」「財産隠しだ。。後で、お前が離婚で財産分与を請求してきた時に、渡す金はないと言い張るつもりだろう。。金を、どこかに移してるんだ」しおりの口から、乾いた笑いが漏れた。。最後まで、終始だった。。しおりの財産を食い物にしながら、自分たちの財産は守ろうとしていたのだ

さらに一週間が経った。。しおりは依然として、完璧な嫁の演技を続けていた。。ある日の夕食後、しおりは健二に話しかけた。。「あなた、義母様の体調も随分良くなられたみたいだし、私たち旅行でも行かない?」健二がテレビから目を離し、しおりを見た。。「旅行?急にどうしたんだ?」「なんとなく、私たち最近ちょっとギクシャクしてたじゃない。。旅行でも行って、やり直せたらいいなって思って」しおりの演技は、完璧だった。。健二の顔に、笑が浮かんだ。。しかし、その笑は温かいものではなかった。。計算高いものだった。。「ああ、いいな。。ところで、しおり」「うん?」「正直言って、お前がもう少し金を使ってくれたらいいと思うんだ」しおりの目が、大きくなった。。まさか、こんなに露骨に言われるとは思っても見なかった。「どういう意味?」「いや、実家があれだけ財産を持っているのに、俺たちはなんでこんなに切り詰めて暮らさなきゃいけないんだ?もう少し、余裕のある暮らしをしてもいいじゃないか」健二の声には、苛立ちが混じっていた。。しおりは手首の録音機に、そっと触れた。。もちろん、録音されていた。。「私たち、切り詰めて暮らしてる。。私が今まで、どれだけ使ってきたと思ってるの?」「それはそうだが、まだ実家の伸びしろとかもあるだろう。。それを少し、こっちに回してくれてもいいんじゃないか」しおりの胸が熱くなった。。怒りが込み上げてきた。。しかし、堪えた。。あともう少し。。あともう少しだけ、耐えれば良かった。。「分かったわ。。考えてみる」しおりは無理やり笑って答えた。。健二は満足そうな表情で、再びテレビに目を向けた

その夜、しおりは強兵にメッセージを送った。。「お兄ちゃん、私、これ以上耐えられない。。今週の土曜日に終わらせる。。義理の家族が全員集まる日に」強兵からの返信は、すぐに来た。。「分かった。。準備は全て整えておく。。お前は、いつも通りに振る舞え」しおりはスマートフォンを置き、窓の外を見つめた。。三日後には、土曜日だった。。三日だけ、耐えれば良かった。。そうすれば、全てが終わるのだ。。いや、終わりではなく、始まりだった。。しおりの新しい人生が始まるのだ。。そして、義理の家族の地獄が、始まるのだ

土曜日の午後、義理の実家のリビングには、十五人以上の人々が集まっていた。。佳代の回復を祝う家族の集まりという名目だった。。しおりが提案した場だった。。佳代は心よく同意した。。嫁がこれほど心を尽くしてくれるのだから、気分が良かったのだ。。しおりは朝から料理を準備した。。完璧な嫁の、最後の演技だった。。確かに豪華に、伊達巻き、紅白なます、食卓が料理で埋め尽くされるほどだった。。義理の親戚たちは感心した。。「しおりさん、本当に変わったわね。。うちの健二は、幸せ者だわ」親戚たちの賞賛に、佳代は満足に微笑んだ。。あ子も、満足な表情だった。。誰もが、安心していた。。しおりが完全に手懐けられたと、信じていたのだ

午後三時、しおりは台所から、タブレットとポータブルスピーカーを取り出した。。兄の強兵があらかじめセッティングしてくれた機材だった。。深呼吸をした。。手は震えていたが、心は落ち着いていた。。リビングに入り、しおりはテーブルの中央にタブレットを立て、スピーカーを接続した。。人々は、首をかしげた。。「しおり、それは何だ?」健二が訪ねた。。しおりは夫を見つめ、冷たい笑みを浮かべた。。「ご家族の皆様にお見せしたいものがありまして」しおりの声は、平然としていた。。佳代が笑いながら言った。。「何かしら?旅行の写真でも準備したの?」「似たようなものです。。ここ数週間の、記録ですよ」しおりはタブレットの画面をつけ、最初のファイルを再生した。。スピーカーから、音が流れ出した。。「お母さん、しおりって、最近すごく大人しくなったと思わない?」あ子の声だった。。リビングが、静まり返った。。あ子の顔が、青白く変わった。。「そうね。。すっかり改心したみたいだわ。。まあ、良いことじゃない」佳代の声が続いた。。佳代が勢いよく立ち上がった。。「しおりさん、これは一体?」「静かにお聞きください。。義母様、もっと面白い部分が出てきますから」しおりの声は、依然として落ち着いていた。。録音は続いていた。。「でも、その契約書って何なの?」「ああ、あれね。。しおさんのお父様が十年くらい前に買ったっていう。。麻布の商業ビルのことよ。。最低でも五十億円は超えるわ」リビングにいた親戚たちが、ざわめき始めた。。五十億円。。とてつもない金額だった。。「じゃあ、お母さんはどうして知ってるの?」「昔、しおさんのお父様が酔っ払って、うっかり口を滑らせたのよ。。あのおバカさんのしおりが知らないから、安心だわ」おバカさんのしおり。。その言葉が、スピーカーを通じて、リビングに響き渡った。。親戚たちの視線が、佳代に注がれた。。佳代の顔が、青ざめた。。「おい、今すぐそれを消せ!」佳代が叫んだ。。しかししおりは、動かなかった。。代わりに、次のファイルを再生した。。「健二、あんた事業資金はちゃんと確保したの?」「ええ、先月三千万円もらったわ」リビングが、再び騒然となった。。あ子の顔が真っ赤になり、叫んだ。。「おい、これは違法な盗聴よ!犯罪だわ!」しおりはあ子を見つめ、冷たく笑った。。「家族間の会話の録音は、証拠として認められます。。私の兄は弁護士ですから、法律のことはよく知っています」

しおりは、次のファイルを開いた。。今回は、映像だった。。画面に、健二と一人の女性が現れた。。二人は、高級レストランで、手を繋いでいた。。「あの女は、誰だ?」親戚の一人が尋ねた。。しおりが答えた。。「川容さん、三十歳、ピラティススタジオのオーナーです。。そして、私の夫の愛人です」健二が勢いよく立ち上がった。。彼の顔は、土色になっていた。。「しおり、これは誤解だ!ただの友達で…」しおりは音量を上げた。。映像で、容と健二が、キスをする場面が映し出された。。リビングから、ため息が漏れた。。親戚たちの嘲笑に、健二は言葉を失った。。しおりは、次の音声ファイルを再生した。。「ねえ、私、妊娠してるって。。もう十二週目」容の声が、リビングに響き渡った。。佳代が悲鳴をあげた。。「なんですって!」「私たちの子よ」健二の声が続いた。。「分かった。。まずは、しおりから金をできるだけ巻き上げよう」リビングは、衝撃に包まれた。。親戚たちが、健二を指差し始めた

「しおりさんを守るぞ!」健二が叫んだ。。彼はしおりに飛びかかろうとした。。しかししおりは一歩下がり、鞄から書類を取り出した。。「財産ですか?何の財産を守るというのでしょう?」しおりは書類を高く掲げた。。「これが何か、お分かりですか?義母様」佳代の目が、大きくなった。。その書類に、見覚えがあったのだ。。「そう、それは名東市不動産管理委託契約書です。。二零一零年三月十五日、義母様が私の父と結んだ契約です」しおりは書類を広げた。。親戚たちが、息を殺して聞き入った。。「義母様は、麻布の商業ビルを私の父のお金で購入されました。。脱税のために名義を借りて。。そして、この契約書には条件があります。。『契約に反した場合、全ての権利は私の父に帰属する』と」佳代が、ソファに崩れ落ちた。。顔が、乳色に変わっていた。。「ですから、義母様名義のあのビルは、もう私のものです。。正確には、私の父のものですが」

リビングが、修羅場と化した。。あ子が叫んだ。。「バカなこと言わないで!それが事実だという証拠が、どこにあるのよ!」しおりは、別の書類を取り出した。。「当時の登記簿です。。そして、銀行の送金履歴、全ての資金が私の父の口座から出ているという証拠です」しおりは、健二を見つめた。。健二は、呆然とした表情で立っていた。。「そして、あなた、健二さん」しおりは、また別の書類の束を取り出した。。「離婚届けです。。そして、慰謝料請求の訴状、五億円です」五億円。。健二の声が、震えた。。しおりは頷いた。。「不倫に対する慰謝料、家庭内暴力に対する慰謝料,詐欺結婚に対する慰謝料,全て合わせれば,五億円でも少ないくらいです」しおりは,最後の書類を取り出した。。「そして,これは,国税庁への情報提供確認書です。。佳代様の名義貸し不動産と,脱税の疑いを,申告しました。。近々,税務調査が入るはずです」佳代が,胸を抑え,倒れそうに,よろめいた。。しかし,今回は,本物ではなかった。。誰も,彼女を支えようとはしなかった。。親戚たちも,もう分かっていた。。この一家が,どれほど醜悪かを

しおりは,リビングをゆっくりと見渡した。。佳代,,あ子,,健二,,そして全ての親戚たち。。彼らの顔には,,衝撃と恐怖が,,満ちていた。。「五年間です。。五年間。。私をATMとして使いましたね。。金さえくれればいい女だと言いましたね。。面白みもなく,,魅力もないと」しおりの声が,,震えた。。しかし,,涙は出なかった。。もう,,悲しいことなど,,何もなかったからだ。。「千八百三十万円。。私がこの家に使ったお金です。。でも,,私が受け取ったものは,,何でしたか? 軽蔑と侮辱でした。。髪を掴まれるという,,屈辱でした」しおりは,,鞄を手に取った。。「これからは,,全て取り返します。。一円も残さず。。五億円の慰謝料,,財産分与,,名義貸し不動産の変換,,全て合わせれば,,」しおりは,,健二をまっすぐに見つめた。。「あなたたちの人生は,,これから,,無一物になるでしょう」しおりは,,玄関へと歩き出した。。誰も,,止められなかった。。皆,,衝撃に打ちのめされていた。。ドアを開ける前,,しおりは,,最後に振り返った。。「ああ,,それから,,川容さんにお伝えください。。養育費の請求の準備をするようにと。。私の弁護士が,,手助けしてくれるはずです」玄関のドアが,,閉まった。。しおりの足音が,,廊下に響いた。。軽やかだった。。五年間背負ってきた重荷が,,全て剥がれ落ちたようだった

エレベーターに乗りながら,,しおりは窓の外を見つめた。。春の日差しが,,温かかった。。新しい季節が,,始まろうとしていた。。しおりの新しい人生も,,一階に到着し,,外に出た。。兄の強兵が,,車から降りて,,待っていた。。「終わったか」「うん。。お兄ちゃん,,これからが,,始まりね」しおりは笑った。。心からの笑だった。。五年ぶりに浮かべる,,本当に幸せな笑だった

一週間後,,最初の知らせが届いた。。国税庁の税務調査チームが,,佳代の家に,,押し寄せた。。朝の九時,,調査官五人が,,書類鞄を手に,,玄関のドアを叩いた。。「鈴木佳代さんですね。。国税庁です。。税務調査にご協力をお願いします」調査官たちは,,予告なしにやってきた。。しおりが通報した名義貸し不動産の件は,,緊急調査の対象だったのだ。。脱税額は,,十億円を超えると推定されていた。。佳代は,,その場に崩れ落ちた。。六十代半ばのその女は,,もはや権威的ではなかった。。ただ,,震える声で,,言い訳を繰り返すだけだった。。「わ,,私は知りませんでした。。私の名義だとは,,知っていましたが,,」しかし,,調査官たちは,,聞く耳を持たなかった。。礼儀契約書,,資金の振り込み履歴,,全ての証拠が,,明確だった。。彼らは,,書類を差し押さえ,,佳代を,,召喚調査の対象者として指定した

二日後,,二つ目の打撃が訪れた。。麻布の商業ビルが,,仮差し押さえされたのだ。。佳代の名義だったが,,実際の権利者は,,しおりの父だった。。裁判所は,,しおりの父の主張を認めた。。ビルの価値は,,六十億円。。佳代は,,一日にして,,最大の資産を失った。。それに加え,,脱税に対する加算税と,,罰金まで,,支払わなければならなかった。。推定額だけで,,二十億円を超えていた。。あ子が,,母親を尋ねた時,,佳代は,,ベッドに横たわり,,天井を見つめているだけだった。。四十歳の娘は,,母親を見ながら,,叫んだ。。「お母さん,,これ,,全部誰のせいだと思ってるの? 健二のせいじゃない! 」あ子の声は,,か細かった。。もはや,,弟を庇う様子は,,なかった。。家が傾いたのは,,全て,,健二のせいだと考えていた。。「お母さんが,,しおりにお金を出させるから,,こんなことになったんじゃない!

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これから,,私たち,,どうやって生きていけばいいのよ! 」佳代は,,答えなかった。。言うべき言葉が,,なかったのだ。。娘の言う通りだった。。自分の貪欲さが,,全てを,,台無しにしてしまったのだ

健二の状況は,,さらに悲惨だった。。しおりが請求した慰謝料,,五億円。。財産分与で,,追加の二億円。。合計,,七億円だった。。三十七歳の平凡なサラリーマンが,,到底支払える金額では,,なかった。。健二の弁護士は,,率直に言った。。「健二さん,,これでは,,どうしようもありません。。証拠があまりにも,,明確すぎます。。不倫,,家庭内暴力,,詐欺結婚の糸,,全てが,,立証されています」「じゃあ,,どうすれば? 」「自己破産するしかありません。。一生,,借金取りに追われる人生を送るか,,どちらかです」健二は,,項垂れた。。自己破産。。その言葉が,,頭の中を,,駆け巡った。。三十七歳にして,,人生が,,終わるのだ

しかし,,さらに大きな衝撃が,,別にあった。。容だった。。健二が容に会いに行った時,,彼女は,,ピラティススタジオの事務所に,,座っていた。。お腹が,,大きくなっていた。。妊娠五ヶ月目だった。。「容」健二が近づきながら,,呼びかけた。。しかし,,容は,,冷たく,,手を差し出した。。「触らないでください。。要件だけ言って,,帰ってください」「容,,そんな言い方…」「健二さん」容は,,健二の名前を,,はっきりと呼んだ。。「もはや,,あなたでは,,ありません。。この子は,,私一人で,,育てます。。あなたには,,期待しません」「どういうことだ? 俺たちの子だろう?

」「ええ,,私たちの子です。。だから,,養育費は,,いただきます」容が,,書類を,,差し出した。。養育費請求の訴状だった。。月二十万円。。子供が成人するまでの十八年間,,総額,,四千三百二十万円。。健二の目が,,大きくなった。。四千円万を超える金。。今すぐ,,五億円の慰謝料も,,支払えない身の上です。。「容,,俺には,,今,,金がないんだ。。しおりに訴えられて,,」「知っています。。聞きました」容の声は,,冷鉄だった。。もはや,,愛嬌も,,なかった。。「だから言うんです。。能力のない男と,,子供は,,育てられません。。私一人で,,育てますから。。あなたは,,養育費だけ,,きっちり送って,,ください」「容,,頼むから,,そんなこと,,言わないでくれ」健二の声が,,震えた。。目から,,涙が,,こぼれ落ちた。。しかし,,容は,,顔を背けもしなかった。。「健二さん,,私,,あなたのこと,,愛したことなんて,,ありません。。正直に言えば,,あなたのお金が,,目当てでした。。でも,,もう,,それも,,ないじゃないですか」容の言葉は,,刃のように鋭く,,健二の胸に,,突き刺さった。。「ですから,,もう,,終わりです。。養育費の訴訟は,,準備しましたから,,裁判所からの出頭通知を受けて,,お待ちください」容が,,立ち上がり,,ドアを開けた。。出ていけという,,合図だった。。健二は,,よろめきながら,,立ち上がった。。足に,,力が,,入らなかった。。スタジオを出ていく健二の後ろ姿は,,見すぼらしいものだった

三週間後,,離婚訴訟の第一回口頭弁論が,,開かれた。。健二は,,弁護士も,,まともに雇えなかった。。国選弁護人が,,割り当てられた。。一方,,しおり側には,,強兵を含め三人の弁護士が,,座っていた。。裁判は,,一方的だった。。強兵が提出した証拠の前で,,健二は,,言うべき言葉が,,なかった。。録音,,映像,,証人陳述,,銀行取引履歴,,全てが,,完璧だった。。裁判官が,,健二に尋ねた。。「被告,,これらの証拠について,,反論する内容は,,ありますか? 」健二は,,首を,,横に振った。。反論する余地など,,なかった。。全て,,事実だったからだ。。「ありません」その一言が,,健二の敗北を,,意味した。。裁判所は,,一ヶ月後に,,判決公判を,,開くことにした。。法廷を出ながら,,健二は,,廊下で,,しおりと,,すれ違った。。しおりは,,淡々とした表情で,,健二を見つめた。。もはや,,怒りも,,悲しみも,,なかった。。「しおり」健二が,,呼びかけた。。しかし,,しおりは,,答えなかった。。知らないふりをしたのでは,,ない。。健二には,,もう,,話しかける価値も,,なかったのだ

一ヶ月後,,判決が,,下された。。慰謝料,,四億円,,財産分与,,一億五千万円,,計,,五億五千万円だった。。健二が,,到底支払える金額では,,なかった。。健二は,,その日のうちに,,自己破産を,,申請した。。三十七歳にして,,信用不良者に,,なった。。会社も,,辞めた。。不倫の噂が,,会社中に広まり,,もう,,務め続けることは,,できなかったのだ。。あ子は,,母親の家で,,健二と,,顔を合わせた時,,叫んだ。。「あんたのせいで,,うちの家は,,めちゃくちゃよ! これから,,ここに来ないで! 」佳代も,,息子から,,目を背けた。。自分の財産が,,全て,,失われたのは,,健二のせいだ,,と考えていた。。家族は,,バラバラになった。。健二は,,家賃の安いワンルームに,,引っ越した。。麻布から,,江戸川区へ。三LDKのマンションから,,二十平米のワンルームへ。。転落は,,早かった。。仕事を,,探さなければ,,ならなかった。。しかし,,三十七歳の自己破産者を,,簡単に,,雇ってくれるところは,,なかった。。結局,,健二は,,代行運転と,,配達の仕事を,,始めた。。夜十時,,健二は,,バイクに乗り,,配達に,,走り回った。。寒い気候に,,手が,,かじかんだ。。一ヶ月前までは,,高級レストランで,,容と,,デートをしていた人間だった。。今では,,配達物を,,運ぶ,,配達員だった

しおりは,,その知らせを,,強兵から,,聞いた。。しかし,,嘲笑は,,しなかった。。自業自得だった。。代わりに,,しおりは,,実家の父を,,尋ねた。。六十八歳の父は,,娘を見て,,微笑んだ。。「お父さん」「ああ,,しおり,,全て終わったのか」「うん。。全て,,終わったわ」しおりは,,父の前に,,座った。。温かいお茶を,,一口,,飲んだ。。「お父さんが,,くれた契約書の,,おかげよ。。あれが,,なかったら,,ここまで,,できなかったわ」「分かっていたよ。。佳代さんが,,どういう人間かはな。。だから,,あらかじめ,,準備しておいたんだ」父が,,娘の手を,,握った。。ゴツゴツとしていたが,,温かい手だった。。「しおり,,復讐は,,終わったんだ。。これからは,,自分の人生に,,集中しろ。。過去は,,過去だ」「分かってる,,お父さん。。これから,,本当に,,新しく,,始めるわ」しおりの目から,,涙が,,こぼれた。。しかし,,悲しみの涙では,,なかった。。解放の涙だった。。五年間の束縛から,,完全に,,解き放たれたのだ。。父が,,娘を,,抱きしめた。。しおりは,,父の腕の中で,,しばらく,,泣いた。。その涙が,,全て,,流れ落ちて,,初めて,,本当の新しい人生が,,始まるのだ

しおりは,,都内の高級タワーマンションの,,二十階で,,窓の外を,,眺めていた。。外の景色が,,一望できた。。三十七歳にして,,しおりは,,全くの別人に,,なっていた。。オフィスのドアプレートには,,こう書かれていた。。「K&Sホーム財務コンサルティング」兄の強兵と共に,,設立した会社だった。。二年で,,社員十五人規模に,,成長した。。しおりの机の上には,,書類が,,生前と並べられていた。。企業の財務コンサルティング契約書,,不動産資産管理委託状,,離婚相談状,,どれも,,高額な契約だった。。「しおり,,今日のミーティングの準備は,,できたか?

」強兵が,,ドアを開けて,,入ってきた。。四十歳になる兄は,,相変わらず,,鋭い眼光を,,していた。。「うん。。お兄ちゃん,,資料は,,全部,,準備できてるわ」しおりが,,ファイルを,,渡した。。手慣れた手付きだった。。この二年間で,,しおりは,,自分の能力を,,遺憾なく,,発揮した。。大企業の財務部長出身らしく,,数字に強く,,五年間の苦痛が,,彼女を,,さらに冷静沈着に,,させていた。。「クライアントが,,うちの会社を,,選んだ理由が,,分かるか? 」強兵が,,笑いながら,,尋ねた。。しおりも,,微笑んだ。。「私の話の,,せいでしょう」その通りだった。。しおりの復讐劇は,,口コミで,,広まっていた。。五年間受けた裏切りを,,完璧な証拠で,,やり返した女,,特に,,離婚を準備している女性たちの間で,,しおりは,,伝説と,,なっていた

午後四時,,しおりは,,会議を,,終え,,オフィスを,,出た。。今日は,,早めに,,退社する日だった。。駐車場に,,止めてある車が,,太陽の光を,,受けて,,輝いていた。。高級外車,,しおりが,,自分で稼いだ金で,,買った車だった。。車に乗り込み,,エンジンを,,かけた。。エンジンの音が,,滑らかだった。。しおりは,,バックミラーで,,自分の姿を,,確認した。。整ったヘアスタイル,,控えめな化粧,,上品なスーツ。。二年前,,義理の実家で,,彩食していた姿とは,,天と地ほどの,,差があった。。しおりは,,スーパーに,,向かった。。都心にある,,大型スーパーだった。。週末の買い出しに,,行くところだった。。車を駐車場に,,止め,,カートを,,押しながら,,店内に,,入った。。スーパーの中は,,人で,,ごった返していた。。土曜日の午後だったからだ。。しおりは,,ゆったりと,,店内を,,見て回った。。新鮮な果物を,,選び,,上質な肉を,,買った。。値段は,,見なかった。。もう,,その必要が,,なかったからだ。。野菜コーナーを,,通り過ぎ,,鮮魚コーナーに,,向かった。。その時,,だった。。遠くに,,一人の男が,,見えた。。みすぼらしい作業着を,,着た,,三十代後半の男。。顔は,,やつれ,,肩は,,落ちていた。。割引コーナーで,,おにぎりを,,一つ,,一つ,,手に取っていた。。しおりの足が,,止まった。。その男に,,見覚えが,,あった。。健二だった。。二年ぶりに見る健二は,,すっかり,,変わり果てていた。。かつては,,高級スーツを,,着て,,堂々と,,歩いていた男だった。。今は,,汚れた作業着に,,薄汚れたスニーカーを,,履いていた。。健二は,,割引のおにぎりの,,値札を,,注意深く,,見ていた。。百五十円のものと,,二百円のものを,,比べ,,結局,,百五十円のものを,,選んだ。。そして,,カップ麺の,,コーナーに,,向かった。。やはり,,一番安いものを,,手に取った。。しおりは,,その姿を,,静かに,,見つめていた。。胸は,,高鳴らなかった。。怒りも,,悲しみも,,同調も,,感じなかった。。ただ,,他人だった。。道ですれ違う,,大勢の人々の中の,,一人でしか,,なかった

健二が,,顔を,,上げた。。そして,,しおりと,,目が,,合った。。健二の目が,,大きくなった。。口が,,ぽかんと,,開いた。。手に持っていた,,カップ麺を,,床に,,落とし,,そうになった。。「しおり…」健二の声は,,震えていた。。一歩,,二歩と,,しおりの方へ,,近づいてきた。。しかし,,しおりは,,動かなかった。。しおりの目は,,冷たいものだった。。健二を,,見ているようで,,実際には,,透明人間を,,見るかのように,,彼を,,通り過ぎていく,,視線だった。。「しおり,,俺だよ,,俺だ! 」健二が,,さらに近づいてきた。。しかし,,しおりは,,顔を,,背けた。。そして,,カートを,,押して,,通り過ぎた。。まるで,,そこに,,誰も,,いないかのように。。健二の手が,,空を,,切った。。しおりの服の裾を,,掴もうとしたが,,届かなかった。。しおりは,,すでに,,遠ざかっていたからだ。。「しおり! 」健二が,,叫んだ。。周りの人々が,,振り返った。。しかし,,しおりは,,振り返らなかった。。ただ,,歩き続けるだけだった

健二は,,その場に,,立ち尽くした。。手には,,百五十円のおにぎりが,,握られていた。。床には,,落としたカップ麺が,,転がっていた。。しおりの後ろ姿が,,だんだん,,小さくなっていった。。整ったスーツ姿,,まっすぐに伸びた背筋,,堂々とした歩み,,全てが,,二年前とは,,違っていた。。健二の目から,,涙が,,こぼれ落ちた。。二年間,,経験した全ての苦痛が,,一瞬にして,,押し寄せてきた。。自己破産,,離婚,,家族からの絶縁,,容の裏切り,,その全てよりも,,今この瞬間が,,何よりも,,辛かった。。しおりが,,自分を,,完全に,,消し去ってしまったのだ。。存在しない人間として,,扱ったのだ。。怒りでも,,見せてくれたなら,,まだ,,ましだった。。憎しみでも,,感じさせてくれたなら,,少なくとも,,自分が,,彼女の人生に,,痕跡を,,残したということに,,なるのですから。。しかし,,しおりの目は,,空っぽだった。。健二という存在が,,完全に,,削除された,,目だった。。それが,,健二にとっては,,最大の絶望だった

レジに向かうしおりの姿が,,見えた。。カートには,,高価な果物や,,上質な肉が,,満載だった。。レジ係が,,丁寧に,,挨拶した。。「合計で,,五万二千三百円に,,なります」しおりは,,カードを,,渡した。。ためらいのない,,動作だった。。健二は,,自分の手に,,握られた,,百五十円のおにぎりを,,見下ろした。。対比が,,あまりにも,,鮮やかだった。。しおりが,,スーパーを,,出ていった。。自動ドアが,,開き,,太陽の光が,,差し込んできた。。しおりのシルエットが,,光の中に,,消えていった

健二は,,割引コーナーに,,そのまま,,立ち尽くしていた。。周りの人々が,,通り過ぎながら,,彼を,,押しのけた。。しかし,,健二は,,動けなかった。。足に,,力が,,入らなかった。。二年前,,自分が,,しおりの髪を,,掴んだ,,瞬間が,,蘇った。。お正月の,,親戚たちの,,前で,,妻を,,侮辱した,,場面が。。その時の,,しおりの目には,,涙が,,溜まっていた。。怒りと,,悲しみと,,裏切りが,,入り混じった,,目だった。。しかし,,今日,,見た,,しおりの目には,,何も,,なかった。。健二は,,その時,,ようやく,,悟った。。本当の復讐とは,,怒りではないのだと。。相手を,,完全に,,消し去ってしまう,,無関心なのだと

健二は,,よろめきながら,,レジに,,向かった。。おにぎり一つと,,カップ麺一つ,,合計で,,二百五十円だった。。ポケットを,,探り,,小銭を,,取り出した。。手が震えて,,小銭を,,いくつか,,床に,,落とした。。「お客様,,大丈夫ですか?

」レジ係が,,心配そうに,,訪ねた。。健二は,,頷いた。。しかし,,大丈夫では,,なかった。。全く,,スーパーを,,出て,,駐車場に,,向かった。。隅に,,止めてある,,古い軽自動車が,,見えた。。十五年落ちの,,中古車だった。。車に乗り込み,,ハンドルに,,額を,,押し付けた。。遠くから,,高級車が,,走り去るのが,,見えた。。しおりの車だった。。滑らかに,,駐車場を,,出て,,道路へと,,向かって,,行った。。すぐに,,視界から,,消えた。。健二は,,その場で,,しばらく,,泣いた。。声を,,上げて,,泣くことは,,できなかった。。ただ,,静かに,,涙を,,流すだけだった。。車の中には,,健二と,,おにぎりと,,カップ麺だけが,,残された

携帯が,,鳴った。。容の弁護士事務所から,,の,,メッセージだった。。養育費の,,滞納通知だった。。今月分の,,二十万円を,,期限内に,,振り込むように,,という内容だった。。健二は,,携帯を,,置き,,再び,,ため息を,,ついた。。二十万円。。一ヶ月間,,代行運転と,,配達を,,しても,,稼ぐのが,,難しい金だった。。しおりの姿が,,何度も,,蘇った。。堂々とした歩み,,上品な服装,,そして,,何よりも,,冷たい,,目。。健二は,,その時,,ようやく,,分かった。。自分が,,負けたのでは,,ないのだと。。そもそも,,試合の,,場から,,退場させられたのだと。。しおりの人生から,,永遠に,,消されたのだと。。それが,,最大の,,敗北だった。。いや,,恐ろしいのは,,忘却だった。。しおりは,,健二を,,完全に,,忘れて,,しまったのだ。。いや,,記憶する,,価値すら,,ない,,存在に,,して,,しまったのだ。。健二は,,ビニール袋を,,開け,,おにぎりを,,取り出した。。海苔が,,破れ,,ご飯が,,こぼれた。。木と,,口かじり,,食べた。。味が,,なかった。。いや,,何の,,味も,,感じられなかった

日が,,暮れかけて,,いた。。駐車場の,,影が,,長く,,伸びていた。。健二は,,その影の,,中に,,一人,,座り,,百五十円の,,おにぎりを,,食べて,,いた。。それが,,健二の,,現実だった。。そして,,これからも,,続く,,未来だった

夜七時,,しおりは,,都心の,,景色が,,一望できる,,リビングの,,窓辺に,,立って,,いた。。四十回の,,高さから,,見下ろす,,景色は,,壮観だった。。夕焼けが,,黄金色に,,輝いて,,いた。。しおりの,,家は,,高級タワーマンションの,,最上階だった。。リビングの,,一面は,,ガラス張りに,,なっていた。。シンプルでありながら,,上品な,,インテリア,,随所に,,置かれた,,本や,,芸術品が,,しおりが,,自分で,,選び,,作り上げた,,空間だった。。ソファには,,ノートパソコンが,,開かれて,,いた。。画面には,,明日の,,会議の,,資料が,,表示されて,,いた。。海外不動産投資の,,案件だった。。兄の,,強兵と,,共に,,シンガポール進出を,,計画して,,いた。。しおりは,,コーヒーカップを,,手に,,取り,,ソファに,,座った。。温かい,,コーヒーの,,香りが,,広がった。。窓の,,外,,夜の,,街が,,静かに,,流れて,,いた。。穏やかな,,夜だった。。携帯が,,鳴った。。強兵から,,だった。。「お兄ちゃん」「しおりか。。明日の,,会議の,,資料は,,確認したか? 」「うん。。全部,,見たわ。。収益率,,良さそうね」「だろう。。シンガポール市場は,,今が,,狙い目だ。。俺の,,考えでは,,今回の,,案件は,,成功すると,,思う」強兵の,,声は,,晴れやかだった。。しおりも,,微笑んだ。。「お兄ちゃん,,私たち,,本当に,,遠くまで,,来たわね」「そうだな。。二年前には,,想像も,,できなかったな

しおりは,,窓の,,外を,,見つめた。。二年前の,,今頃,,自分は,,義理の,,実家で,,復讐を,,準備して,,いた。。毎晩,,証拠を,,集めながら,,歯を,,食い縛って,,いた。。その時の,,自分が,,今の,,この平穏を,,想像,,できた,,だろうか? 「しおり」強兵の,,声が,,静かに,,なった。。「お前は,,本当に,,すごいよ。。あの,,地獄のような,,五年間を,,耐え抜いた,,んだから。。そして,,完璧に,,勝利した」しおりの,,目頭が,,熱く,,なった。。しかし,,涙は,,流れなかった。。もう,,泣くことなど,,なかったからだ。。「お兄ちゃんの,,おかげよ。。お兄ちゃんが,,いなかったら,,できなかった,,わ」「いや,,お前の,,力だ。。俺は,,ただ,,手助けした,,だけだ」通話を,,終えた,,後,,しおりは,,ソファに,,横に,,なり,,天井を,,見つめた。。柔らかな,,照明が,,空間を,,優しく,,照らして,,いた。。ふと,,過去が,,蘇った。。正月の,,日に,,髪を,,掴まれた,,瞬間,,姑とに,,無視された,,日々,,夫型の,,女と,,キスを,,する,,映像を,,見た,,夜,,全てが,,鮮明だった。。しかし,,不思議だった。。もう,,痛くは,,なかった。。怒りも,,感じ,,なかった。。ただ,,遠い,,過去の,,出来事の,,ように,,感じられる,,だけだった。。しおりは,,悟った。。本当の,,癒しは,,復讐では,,なかったのだと。。復讐は,,単なる,,始まりに,,過ぎ,,なかった。。本当の,,癒しは,,その後に,,訪れた。。自分の,,価値を,,取り戻し,,能力を,,発揮し,,新しい,,人生を,,築いていく,,過程,,そのもの,,が,,癒しだった,,のだ

一方,,同じ時刻,,江戸川区の,,小さな,,ワンルームで,,健二は,,壁を,,見つめて,,いた。。三畳にも,,満たない,,空間。。壁紙は,,あちこちが,,破れ,,天井には,,カビが,,生えて,,いた。。健二は,,床に,,座って,,いた。。手には,,焼酎の,,ボトルが,,握られて,,いた。。一人での,,酒は,,苦い,,だけだった。。今日,,健二は,,しおりを,,見た。。スーパーで,,二年ぶりだった。。しかし,,しおりは,,健二に,,気づいて,,も,,ただ,,通り過ぎて,,いった。。まるで,,空気のように,,存在しないかのように。。その,,瞬間が,,何度も,,蘇った。。しおりの,,冷たい,,目,,堂々とした,,歩み,,上品な,,服装,,全てが,,健二には,,刃のように,,突き刺さった。。「俺は,,本当に,,狂って,,いたんだな」健二が,,つぶやいた。。声は,,枯れて,,いた。。五年,,前が,,蘇った。。しおりが,,会社を,,辞め,,自分の,,夢を,,応援する,,と言って,,くれた,,日,,その時の,,しおりの,,目は,,温かい,,ものだった。。心から,,夫を,,信じて,,いた。。しかし,,健二は,,その,,信頼を,,裏切り,,た。。しおりの,,お金を,,容に,,使い,,共に,,しおりの,,財産を,,狙い,,ました。。そして,,お正月の,,親戚たちの,,前で,,妻の,,髪を,,掴んだ。。「本当に,,狂って,,いたんだ」健二が,,再び,,つぶやいた。。今度は,,涙が,,こぼれ,,落ちた。。後悔の,,涙だった。。しかし,,何の,,意味も,,なかった。。時間を,,戻すことは,,できなかったのだ。。しおりは,,もう,,健二の,,人生から,,消えて,,しまった。。いや,,健二を,,完全に,,消し去って,,しまった,,のだ。。健二は,,スマートフォンを,,手に,,取り,,ました。。しおりの,,連絡先は,,とっくに,,ブロックされて,,いたが,,番号は,,覚えて,,いた。。しかし,,電話を,,かけることは,,できなかった。。何を,,言うという,,のでしょう? 「ごめん」と,,「許してくれ」と。。そんな,,言葉が,,何の,,意味を,,持つという,,のでしょうか。。健二は,,スマートフォンを,,投げつけた。。床に,,落ちた,,スマートフォンの,,画面が,,割れた。。しかし,,どうでも,,いいことだった。。どうせ,,電話が,,かかって,,くる,,相手も,,いない,,のですから。。窓の,,外を,,見つめた。。古い,,建物の,,間に,,仄かな,,明りが,,見えた。。狭く,,閉塞的な,,風景だった。。健二の,,人生が,,そうだった。。暗く,,狭く,,出口の,,ない,,人生

一方,,しおりの,,リビングは,,明るかった。。照明が,,温かく,,空間を,,満たして,,いた。。しおりは,,ノートパソコンを,,閉じ,,立ち上がった。。服を,,着替え,,玄関へと,,向かった。。夜の,,ドライブを,,することに,,したのだ。。一人だけの,,時間だった。。しおりは,,こういう,,時間が,,好きだった。。何も,,考えずに,,車を,,走らせ,,街を,,駆け抜ける,,のです。。地下駐車場に,,下り,,車に,,乗り込んだ。。エンジンを,,かけると,,滑らかな,,エンジン音が,,響いた。。しおりは,,ハンドルを,,握り,,微笑んだ。。車は,,首都高を,,走った。。夜風が,,心地よかった。。レインボーブリッジの,,灯りが,,輝いて,,いた。。東京の,,夜景は,,美しい,,ものだった。。しおりは,,高速道路を,,走りながら,,考えに,,耽った。。二年前の,,今日,,自分は,,何を,,して,,いた,,でしょうか?

多分,,義理の,,実家で,,皿洗いを,,して,,いた,,でしょう。。あるいは,,姑の,,小言を,,聞いて,,いた,,かもしれません。。その時の,,しおりは,,彩食して,,いた。。自分の,,価値を,,疑い,,未来を,,諦めて,,いた。。しかし,,今は,,違う。。しおりは,,自分の,,能力を,,知り,,未来を,,設計することが,,できる。。信号で,,止まった。。隣の,,車線に,,は,,若い,,カップルが,,乗った,,車が,,いた。。二人は,,笑いながら,,話して,,いた。。しおりは,,その,,姿を,,見ながら,,思った。。愛は,,再び,,訪れる,,でしょうか? 誰かを,,再び,,信じることが,,できる,,でしょうか? しおりには,,確信が,,持て,,なかった。。しかし,,それで,,よかった。。今は,,一人でも,,幸せだった,,からだ。。信号が,,変わり,,しおりは,,アクセルを,,踏んだ。。車は,,滑らかに,,発進した。。東京タワーが,,茜色に,,灯って,,いた

しおりは,,東京タワーの,,展望台の,,駐車場に,,止めた。。降りて,,手すりに,,寄りかかった。。夜景が,,足元に,,広がった。。無数の,,光が,,輝いて,,いた。。光の,,向こうに,,それぞれの,,人生が,,ある,,のでしょう。。喜びも,,悲しみも,,希望も,,挫折も。。しおりは,,呼吸を,,した。。冷たい,,空気が,,肺を,,満たした。。生きている,,という,,感覚が,,はっきりと,,した。。「私は,,自由よ」しおりは,,小さく,,つぶやいた。。風が,,その,,言葉を,,運んで,,いった。。自由。。その,,言葉が,,意味する,,ものは,,何で,,しょうか? お金が,,あること,,成功した,,こと,,復讐に,,成功した,,ことを,,違いました。。本当の,,自由は,,もはや,,過去に,,縛られない,,ことだった。。しおりは,,過去を,,許し,,ませんでした。。健二も,,佳代も,,あ子も,,許す,,つもりは,,ありませんでした。。しかし,,彼らの,,ために,,もはや,,時間を,,使うことも,,ありませんでした。。彼らは,,しおりの,,人生から,,退場した,,のです。。永遠に。。しおりの,,人生は,,もう,,前だけを,,見て,,いました。。新しい,,事業,,新しい,,挑戦,,新しい,,経験,,全てが,,待って,,いました

携帯が,,鳴った。。父から,,だった。。「お父さん?

」「しおり,,何してるんだ? 」「東京タワーに,,来てるの。。夜景を,,見てるわ」「そうか。。寒いから,,風邪,,引くなよ」「うん。。お父さん。。」「何だ? 」「ありがとう。。あの,,契約書のこと,,そして,,私を,,信じて,,くれた,,こと」父は,,しばらく,,黙って,,いた。。そして,,温かい,,声で,,言った。。「しおり,,お前は,,俺の,,娘だ。。当然,,守って,,やるさ」「愛してるわ,,お父さん」「俺も,,愛してるよ,,娘よ」通話を,,終えた,,しおりは,,再び,,夜景を,,見つめた。。目頭が,,熱く,,なった。。しかし,,今度は,,悲しみの,,涙では,,なかった。。感謝の,,涙だった。。しおりには,,まだ,,愛する,,人々が,,いた。。父,,兄の,,強兵,,そして,,自分自身。。それだけで,,十分だった

再び,,車に,,乗り込み,,エンジンを,,かけ,,家へと,,向かった。。首都高を,,走りながら,,しおりは,,思った。。五年間の,,苦痛は,,無駄では,,なかった。。その,,時間が,,今の,,自分を,,作った,,のだと。。より,,強く,,より,,賢く,,より,,逞しい,,人間に。。家に,,到着し,,エレベーターに,,乗り,,四十回へと,,上がった。。ドアを,,開けて,,入ると,,温かい,,空気が,,迎えて,,くれた。。しおりは,,リビングの,,ソファに,,座り,,窓の,,外を,,見つめた。。夜景が,,依然として,,美しい,,ものだった。。あの,,川の,,流れのように,,しおりの,,人生も,,流れ続けて,,いく,,のでしょう。。過去は,,過去だった。。今,,重要なのは,,現在と,,未来だった。。しおりは,,新しい,,王冠を,,被った。。自由と,,幸福という,,名の,,王冠を。。そして,,その,,王冠は,,誰にも,,奪うことは,,でき,,ませんでした。。しおり,,自身が,,勝ち取った,,ものだった,,からだ。。しおりは,,目を,,閉じた。。明日が,,楽しみだった。。新しい,,一日,,新しい,,機会,,新しい,,可能性の,,ある,,明日が。。しおりの,,物語は,,終わりました。。いや,,新しく,,始まった,,と,,言うべき,,でしょう。。本当の,,しおりの,,物語が