「健二さん、あの時はごめんね」――キャバクラの店先で、見送りに出てきた女の子が、申し訳なさそうに顔の前で手を合わせた。さっきまで隣で笑っていたキャバ嬢のあいちゃんだ。あの時って、まさか、あのお見合いのこと?…

「健二さん、あの時はごめんね」――キャバクラの店先で、見送りに出てきた女の子が、申し訳なさそうに顔の前で手を合わせた。さっきまで隣で笑っていたキャバ嬢のあいちゃんだ。あの時って、まさか、あのお見合いのこと?...

「ケ二さん、あの時はごめんね」

驚いて振り返ると、さっきのキャバ嬢・あいちゃんが申し訳なさそうに顔の前で手を合わせていた。あの時って、もしかして――お見合いの時のこと?

「お願いがあるの。私の婚約者のふりをしてほしいの」

俺の名前は宝田健二、三十一歳。医療機器メーカーの営業として、毎日激務をこなしている。職場と家の往復で一日が終わり、帰宅後は簡単な夕食を済ませ、シャワーを浴びてベッドに直行。疲れてすぐに眠りにつくけれど、夢の中でも仕事のことが頭から離れない。気がつけば窓から朝日が差し込み、重いまぶたを開ける。鉛のように重い体を引きずりながら家を出る。そんな毎日が繰り返されていた。

ここ五年ほど彼女もいない。恋愛をする暇がないのだ。地元の同級生たちは今まさに結婚ラッシュで、来月は二回も結婚式に呼ばれている。三十を過ぎても恋人さえいない俺を、両親はひどく心配していた。

「縁談のいい話があるのよ。ほら、見て。お綺麗な方でしょ。会うだけでもいいからさ」

母親が知り合いに頼まれたと言って、見合い写真を持ってきた。

「やだよ、見合いなんて」

俺は写真を見もせずに突っぱねたのだが、母は強引だった。

「まあ、そう言わずに。これも一つの出会いだと思って。会ってみるだけ。会ってみたらどうだ?」

「そうそう。実はもうお受けしちゃってね。断れないのよ」

「はあ。もう勝手に受けてくるなよ」

今回は父まで一緒になって見合いを進めてくるものだから、俺も断りきれず、結局お見合いをすることになってしまった。まあ、別に結婚しなきゃいけないわけじゃないし、父の言うように会うだけ会って断ろう。そう思っていたのだが――

お見合い当日、駅近くの高級和食店で俺たちは初めて顔を合わせた。初対面の緊張感が漂う中、人見知りの俺はかなり言葉少なだったと思うが、思ったより和やかな雰囲気で会話が進んだ。お相手の名前は三宅愛子さん。俺の一つ年下だという。お互い仕事のことや休日の過ごし方、趣味など、特に問題なく楽しく話していたのだが、ある話をきっかけに雰囲気が一変する。

「動物はお好きですか? 私は猫を飼っていて、毎日その子に癒されてるんです。本当に可愛いですよ。ほら」

愛子さんはスマホの待ち受け画面をこちらに向けて見せた。毛がふさふさの白い猫が表示されている。

「へえ」

興味なさげな俺の反応に気を悪くしたのか、愛子さんは少しむっとした表情を見せた。

「猫の何がいいって、独立心が強くて自分の時間を大切にするところが好きなんですよね。犬みたいに人間に依存してないところが」

スマホの待ち受け画面をうっとり眺めながら愛子さんは話し続けたが、今度は俺がカチンと来てしまう。

「俺は断然、猫より犬派ですけどね。人間に忠実だし、無条件の愛情を示してくれるから。実家で飼ってる犬は、俺が帰ったら飛び跳ねて喜んでくれて、たまらなく可愛いです」

小さい頃から犬と育ってきた俺にとって、そこはどうしても譲れない。そんなやり取りが続くうち、二人の間に緊張が走り始めた。

「正直言うと、猫って苦手なんですよね。爪が怖いっていうか、飼おうとは思わないな」

つい本音を口にしてしまった俺に、彼女は烈火のごとく怒り出した。

「猫のこと何も知らないくせに、そんなことよく言えますね。ひどい!」

立ち上がり、俺を睨みつける。一方的に怒鳴られた俺もいい気はしない。

「そっちこそ、犬の何を知ってるんですか? 飼ったこともないくせに」

「その言葉、そのままお返しします。絶対に犬より猫です」

「いや、絶対に猫より犬!」

最後はまるで子供のように言い合い、睨み合っていた。

「もう、あなたとは根本的に合わないわ。さようなら」

愛子さんは一万円札を机に叩きつけて、部屋を出ていった。おい、待てよ。一瞬追いかけようとした俺だったが、よく考えればそもそも断ろうとしていたところだ。二度と会うこともないだろうし、別に追いかける必要もない。俺はもう一度座り直し、出された料理を完食して店を後にした。

気分は最悪だった。母親が言っていたように確かに綺麗な人ではあったが、お見合いをしたことを心から後悔した。断る手間が省けたな。でも、もう二度と見合いなんかするもんか。俺は仕事に生きるんだ。そう決めて、俺はまた仕事一筋の日常に戻った。

その日の営業先は、郊外の大きな総合病院だった。新しい医療機器の契約について話をするべく、病院を訪れていた俺。中央にある経営企画室に向かおうとエレベーターを待っていると、そばのベンチで気分が悪そうに俯くご婦人がいた。年は俺の母親くらいだろうか。白髪の混じった頭を壁にもたれかけ、明らかに顔色がおかしかった。パジャマを着ているから入院している人に違いない。医者か看護師を呼ぼうと周りを見渡したが、間が悪く周囲は患者ばかりで、白衣を着た人は誰もいなかった。

「ちょっと待っててください。お医者さん呼んできますから」

慌てる俺の腕を、ご婦人がギュッと掴んで言った。

「大丈夫。ありがとうね。病室はすぐそこなの。悪いけど……」

「あ、はい。もちろんです」

俺はご婦人に肩を貸し、病室までお連れすることに。

「廊下の一番奥の三〇五号室なの。ありがとうね」

ご婦人は何度も頭を下げながら言った。その時やっと通りかかった看護師がご婦人と共に病室に入ったのを見届けて、俺は急いで経営企画室に向かった。約束の時間まであと五分。ギリギリだったが、気分はなんだか晴れやかだった。ちょっとしたことではあるけれど、情けは人のためならず。俺にもいいことがあればいいな。営業がうまくいって契約成立なんてことになればいいんだけど。そんな多幸的なことを考えていた。

だけど現実はそううまくいくものではない。新商品を必死でアピールしたものの、いい返事は得られず、渋い顔のままの担当者が言った。

「それはそうと、宝田さん。今晩、部長先生とここのキャバクラに行きましょうよ。接待ですよ、接待」

そう言って、あるキャバクラの名刺を取り出してきた。

「は、はあ……」

キャバクラは苦手だ。一度接待で連れて行かれたことがあるが、全く居心地のいいところではなく、それ以来行きたいとも思わない。居心地の悪さの原因は多分、女の子たちの営業スマイル。心からの笑顔ではなさそうなその表情に、なんとなく不信感しか持てなかった。でも、取引先の部長先生が来るなら営業のチャンスだ。気は進まないが、誘われるまま、俺はその夜キャバクラに行くこととなった。

「いらっしゃいませ。あいです」

俺が座ると、甘えた声を出したキャバ嬢がすかさず隣に座ってきた。仕事は何してるとか、地元はどこなのかとか、当たり障りのない質問をし続けてくる。その距離の近さに戸惑い、目も見られずにいた俺。

「ねえねえ、聞いてる?」

ふと俺の顔を覗き込んできた隣のキャバ嬢を見て、俺は目を疑った。化粧は濃かったが、その顔には間違いなく見覚えがあった。そう、犬より猫と言い張り、喧嘩別れした見合い相手――愛子さんだ。俺は飲んでいたウイスキーを吹き出しそうになった。

「やだ、どうしたの? もう酔っちゃった?」

ケラケラと笑う愛子さんは、俺に気づいていないのだろうか。まるで初対面のように話しかけてきていた。まあ、俺みたいな平凡なやつ、記憶にも残らないんだろうな。俺にとってはある意味衝撃的な出会いだったけど、相手にとってはそうでもなかったんだろう。若干ショックを受けつつ、俺はただの客の一人として振る舞った。

そのうち部長先生が酔いつぶれてしまう。

「部長先生、タクシーまでお連れします。大丈夫ですか?」

支払いを済ませ、部長を抱えるようにして表に出た俺。店の前にいたタクシーに部長を押し込んで、一息ついたその時だった。背後から、見送りに来ていたキャバ嬢の一人に声をかけられた。

「健二さん、あの時はごめんね」

驚いて振り返ると、さっきのキャバ嬢、あいちゃんが申し訳なさそうに顔の前で手を合わせている。あの時って、もしかして――お見合いの時のこと? てっきり忘れられていると思っていたので驚いた。

「うん。ずっと気にかかってたのよね。みたいな感じで喧嘩しちゃったこと。大人げないよね。本当ごめんなさい」

「さっきは他のお客さんもいたし、話せなくって」

なんだ。俺はてっきり、俺のことなんて覚えていないんだと思ってた。

「そんなわけないでしょう。あんな出会い方して、忘れるわけないよ。対面で怒鳴ったのなんて、私、生まれて初めてよ」

愛子さんは思い出し笑いをするように、ふっと声を出した。

「そして、こんな形で再開するだなんてね。これも何かの縁よ。連絡先、教えてよ」

愛子さんはスマホを取り出した。見合い相手だった愛子さんだけど、相手はあくまでもキャバ嬢。連絡先を聞かれているこの状況に、俺は正直戸惑った。だってこれは絶対、営業のために違いない。キャバ嬢の営業LINEはうざいって、先輩がこぼしてたのを聞いたことがある。

「だけどね。いいでしょ?」

首をかしげながら俺を覗き込んでくるその笑顔に、俺は負けて。連絡先を交換していた。

その後、愛子さんからは連絡が来るものの、俺が心配していたような営業LINEではなかった。他愛もない友達同士でするような会話。おはようとか、おやすみとか。たった一言の時もあるが、毎日やり取りしていた。俺たちの関係をなんて例えたらいいんだろう。キャバクラ嬢と客の関係? 友達? まあ、恋人ではないことは確かだが、よくわからないまま連絡を取り合っていたある日のこと。俺はまた病院を訪れていた。

「え、愛子さん?」

病院へ続く廊下を、愛子さんが歩いているのを見かけた。なんで愛子さんが病院へ? 誰かのお見舞いだろうか。約束の時間まで余裕はあったし、俺はこっそり愛子さんの跡をつけてみた。すると、入っていったのは廊下の一番奥の三〇五号室。

「え、ここって」

その部屋は、以前俺がご婦人を案内した部屋。確かこの階は入院病棟のはずだ。あのご婦人は愛子さんの知り合いなのだろうか。俺はそっと扉の向こうの声に聞き耳を立てた。

「お花の水、変えてくるね。この前みたいに無理して外出ちゃだめだよ。分かった?」

あ、やばい――と思った時には時すでに遅し。花瓶を持った愛子さんと、ばっちり目が合ってしまった。愛子さんは驚いた表情を見せたかと思うと、いきなり俺の腕を掴んできた。

「ちょっと、こっち来て」

そう言って、屋上へと向かう階段へ俺を引っ張っていった。

「お願いがあるの。私の婚約者のふりをしてほしいの」

唐突なお願いにフリーズする俺。予想外の展開に、完全に思考が停止していた。愛子さんはそんな俺に気づいたのか、ゆっくりと丁寧に状況を説明してくれた。

「あの部屋に入院してるのは、私の母なの」

偶然にも、俺が手助けしたあのご婦人は、愛子さんの母親だという。話によると、愛子さんは早くに父親を亡くし、母と子の一人っ子の家庭だとか。母親が病気になり、愛子さんはその治療費のためにキャバクラ嬢になったのだそうだ。だが治療の効果はあまりなく、お母さんの体調は悪くなるばかり。

「生きる希望をなくしてしまってるお母さんに、婚約者を見せて安心させたいの。『早くいい相手を見つけて幸せになってほしい』っていつも言われてて。だからお見合いも何度かしてたんだけど」

愛子さんの目は、うっすら潤んでいるように見えた。

「婚約者のふりをしてお母さんに会えばいいの?」

話を聞いて戸惑いはしたが、状況は違うものの、俺自身も親に心配されてるし、安心させたいって気持ちはよくわかる。

「そう。お見合いがうまくいって、結婚を前提に付き合ってるってことにしてほしいの」

切実なお願いを、断るわけにはいかなかった。

「うん。分かった」

こうして俺たちは、偽の婚約者として愛子さんの母親に会うことに。心の準備もできないまま病室に行き、お母さんと対面した。

「あなたは確か、以前……」

お母さんは病院で俺と会ったことを覚えていてくれたようだった。

「え、なんで? 二人は会ったことあるの?」

不思議に尋ねる愛子さんに、お母さんは和やかに説明した。

「話したじゃない。ベンチで気分悪くなってたところ、病室まで連れてきてくださった親切な青年がいたって。あなたよね。間違いないわ」

「へえ、そうだったの?」

愛子さんは嬉しそうに笑い、俺の手を握りしめた。

「ありがとう、健二さん」

「あなたが愛子のお相手だったなんて。愛子、良かったわね。優しくて思いやりのある方とご縁があって。お母さん、これで安心していけるわ」

お母さんは涙を浮かべて微笑んだ。

「やだ。そんな、縁起でもないこと言わないでよ。しっかり治療して、私たちの結婚式にはちゃんと出席してちょうだい。孫の顔だって見せてあげるからね」

愛子さんは俯きがちなお母さんを必死になだめていた。

「そうね。……うん。お母さん、治療頑張るわ」

心なしか、目に力が戻ったようなお母さんに、他人事ながら俺もほっとした。

その後も俺は愛子さんの婚約者として振る舞った。「証拠を見せなきゃ」と言って、二人でテーマパークに行き、写真撮影したこともある。撮った写真をお母さんに見せると、本当に嬉しそうに目を細めていた。何度も病院に足を運び、二人の仲のいいところを見せる。それが効果があったのかどうかは分からないが、お母さんの顔色は日に日に良くなっていった。

「本当にありがとうね。健二さんのおかげよ」

愛子さんは俺に頭を下げた。そして、お礼として一度料理を振る舞うと言う。

「一人暮らしでしょ、健二さん。一度お家に行って、ご馳走させて。こう見えて私、料理得意なのよ。肉じゃがでもハンバーグでも何でも作れるから、リクエストしてよ」

毎日コンビニ弁当で済ませている俺としては、ものすごくありがたい申し出だった。

「じゃあ、肉じゃがが食べたいな」

「うん、分かった。今週の土曜の夜はどう?」

こうして週末、愛子さんがうちに来ることになった。俺はあくまでも愛子さんの婚約者のふりをしているだけだ。愛子さんのお母さんのために。俺はそのことを改めて頭の中で反復した。正直、勘違いしてしまいそうになる自分もいたが、その思いを必死で打ち消した。

そして週末。愛子さんがうちにやってきた。手際よく料理を作ってくれる愛子さん。肉じゃがはもちろん、おつまみにと作ってくれた副菜も絶品だった。そして美味しいおつまみを当てに、二人ともビールがグイグイ進み、すぐにほろ酔い状態に。

「私、毎日毎日、本当によく頑張ってるわよね。ねえ、健二君どう思う?」

頬をほんのり赤く染めながら、トロンと下目で見つめる愛子さんにドキドキしてしまう。

「うん。そうだね。頑張ってるね」

戸惑いながら絞り出した返事だったのだが、愛子さんはたちまち頬を膨らませた。

「もう、言葉だけじゃなくて、態度で示してよ」

「た、態度って」

戸惑う俺に、愛子さんは身を委ねてきた。

「ぎゅってしてよ。よしよしして」

ふわっと香る香水の甘い匂いに、俺の理性は崩壊寸前。愛子さんの頭にそっと手を置いて、思い切って抱きしめようとしたその時――スースーと寝息が聞こえてきた。胸元にいた愛子さんに目をやると、気持ちよさそうに目を閉じている。

ね、寝てる。愛子さんは俺にもたれかかったまま、すやすやと眠りについていた。肩透かしを食らった俺は、ほっとしたような、がっかりするような複雑な気持ちで、ぐっすり眠った愛子さんをそっとベッドまで運んだ。

嘘の婚約者である俺だけど、現実になったらどんなにいいか。そんなことを考えながら、その夜俺はリビングのソファーで眠りに着いた。

そんなことがあった後も、俺たちは愛子さんのお母さんのために付き合っているように振る舞った。その生活は意外と平和で、楽しく穏やかだった。このままずっとこの関係性が続けばいいのにと思うほどだった。

だが、ある日突然、愛子さんからの連絡が途絶えた。電話をしても出てくれないし、毎日くれていたメールもない。こんな日が二週間ほど続き、さすがに心配になった俺は、いても立ってもいられず病院に行ってみることにした。病院に行く時はいつも愛子さんと一緒だったから、一人でお母さんと会うのは初めてだった。

「健二さん、来てくれたの? 久しぶりね」

体を起こし、和やかに笑ってくれたお母さんだったけど、明らかに痩せていて、顔色も悪かった。少し前に会った時とは別人のようだ。

「びっくりさせちゃったかしら。ごめんなさいね」

お母さんのあまりの変貌ぶりに驚き、一瞬表情を変えてしまった俺に気づいたのだろう。お母さんは申し訳なさそうにしながら、俺を気遣ってくれた。

「もう、先は長くないの。今までありがとうね。愛子が迷惑をかけてごめんなさい」

俺に頭を下げるお母さん。

「迷惑だなんて。そんなこと……」

「もう、嘘つかなくていいのよ」

「え? 嘘って?」

お母さんは気づいていたようだった。俺と愛子さんの偽りの関係に。

「愛子は、ああ見えて優しいから。私のことを安心させようとしたのね。あなたと愛子がそういう関係ではないってことは、最初から分かっていたわ。目を見れば分かるものよ」

お母さんは俺をまっすぐに見つめた。

「でも、俺は愛子さんのことが本当に好きなんです」

次の瞬間、俺は思わず愛子さんへの愛情を打ち明けていた。嘘をついていた罪悪感よりも、本当の気持ちを伝えたい気持ちの方が強かったのだ。

「健二君」

いつの間にか病室の入り口に立っていた愛子さんが俺の名前を呼んだが、俺は構わず続けた。

「そりゃ最初は愛子さんに頼まれて始めた婚約者役だったけど、今では愛子さんのことを心から愛しています。これは本当です」

必死の俺に、お母さんはうんうんと頷いた。

「ありがとう。それが分かっただけで、嬉しいわ。愛子のことを、よろしくね」

お母さんはベッドに立つ俺の手を取り、撫でた。

「これから先生の検診なの。ちょうどお昼の時間だし、二人で食事してらっしゃい。私は大丈夫だからね」

お母さんは、立ち尽くしたままの愛子さんに声をかけた。俺たちは売店でサンドイッチを買い、屋上に向かった。

「お母さん、もう長くないんだって。手術しても、成功する確率は低いらしくて」

愛子さんは涙目で呟いた。

「くだらない嘘ついて、お母さんのこと騙したバチが当たったのね。きっと。私のせいで、お母さんがいなくなっちゃう。やだ、どうしよう。私、一人になっちゃう」

パニック状態で泣き始めた愛子さんの肩を、俺はしっかりと掴んだ。

「愛子さんのことは、俺が一生かけて守る。結婚してほしい。俺が支えるから」

愛子さんの震える背中をさすりながら、思い切ってプロポーズした。

「健二君……本当に嬉しい。ありがとう」

子供のようにしゃくり上げ、泣き続ける愛子さんを、俺はずっと抱きしめていた。こうして本当の婚約者になれた俺たち。心を通じ合わせた俺たちを、お母さんも心から祝福してくれた。そして、わずかな確率をかけて手術を受けることを決意した。

とはいえ、手術をしても助かる見込みはわずかと言われており、俺たちも覚悟はしていた。だが術後のお母さんは、医者も驚くほどの回復力を見せた。病魔はすっかり消え、なんと半年後には退院することができたのだ。

「お医者さんが、まるで奇跡だって驚いてたわ。二人のおかげね。夢のまた夢だと思ってた、孫の顔も見られるかもしれないなんて。本当に幸せよ。男の子かしら、女の子かしら。楽しみだね」

そう。プロポーズから三ヶ月後に籍を入れた俺たち。愛子のお腹には、今、新しい命が宿っている。第一印象は最悪だった。そして嘘から始まった俺たちの関係だったけど、こうなることは運命だったのかもしれないな。

ちなみに、結婚してから飼い始めたのは、小さな三毛猫と黒い柴犬。猫派だったはずの愛子だけど、今では愛情深い柴犬を可愛がっているし、俺は三毛猫の愛らしい仕草に毎日癒されるという、初めての経験をしている。いろんな偶然が重なり、結ばれた俺たち。これからも何気ない日々を大切に、幸せに過ごしていけるよう頑張るつもりだ。

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