「おい、おっさん、何ぼっとしてんだよ。そこは俺の席だ。邪魔だろうが。」
そのあまりにも横柄な言葉に、俺は思わずむっとしてしまった。ここは社員食堂だ。社員なら誰でも使える場所に、お前専用の席があるはずがないだろう。この男は一体何を言っているのだろうか。
「とにかくそこは俺の席だ。おっさんは廊下で飯食え。」
とても初対面の、それも年上の人間に向かって言う言葉とは思えない。男は連れの部下らしき若い男と一緒に、大声でげたげたと笑っている。耳障りな笑い声だった。その声に驚いた周りの社員たちも、こちらに注目している。
今日は本社勤務の初日だというのに、本当に運がない。こんなことで山川マーケットは大丈夫なのだろうか。俺はがっかりして、思わずため息をついた。
俺の名前は福原達志。今年五十二歳になる、どこにでもいる普通のサラリーマンだ。子供の頃から曲がったことが嫌いな性格で、そのせいで他人と揉めることも少なくなかった。しかし、俺は自分の信念を曲げることがどうしてもできない。特に、他人を見下すような人間とばかりは相性が合わず、これまで数え切れないほど衝突を繰り返してきた。どんな人間であれ、他人を馬鹿にしてよい権利など持っているはずがないのだ。俺はそのポリシーを胸に生きてきたことに誇りを持っている。
四十代の頃に結婚し、今は妻と小学生の娘との三人家族だ。家族と過ごす時間は、俺にとって何よりも大事なものだ。その家族のために、俺は毎日一生懸命働いている。つらいことやしんどいこともあるけれど、家族の笑顔を思い浮かべれば、何てことはない。
俺が働いているのは、山川マーケットというスーパーマーケットを経営する会社だ。国立大学を卒業後、新卒で採用されて現在に至る。十年前にロサンゼルス支社へ移動して働いていたが、先日、東京の本社への異動が決まった。十年ぶりの本社勤務である。ロサンゼルスでの日々も新鮮で楽しかったが、本社へ戻れるのは俺にとって素直に嬉しいことだった。当然引っ越しが伴うので家族には迷惑をかけてしまうが、妻も日本に帰ることを喜んでくれている。
飛行機の中で、俺はこれから始まる本社での仕事について考えていた。もう本社を離れて十年が経過しているから、社員の顔ぶれもガラリと変わっていることだろう。もちろん、初めて会う社員も大勢いるに違いない。実は俺は、こう見えて結構人見知りをするタイプだ。さすがにもう五十を超えているのでかなり改善はしているのだが、どうしても初対面の人間を前にすると、何を話していいのか分からず戸惑ってしまうのだ。この性格を直したいとずっと思っているが、なかなかうまくいかない。しかし、今回はちょうどいい機会かもしれない。なるべく初対面の社員たちとも積極的にコミュニケーションを取るように務めよう。機内でそんなことを決めたのだった。
日本に帰国して数日後、今日は本社への異動後、初めての勤務日だ。実に十年ぶりの社屋は、以前よりも大きく立派になっていた。それもそのはず、この十年で山川マーケットは業界ナンバーワンになったのだ。俺が本社で働いていた頃は、ずっと業界三位だったので、これは大きな成長である。これもひとえに、山川マーケットの社長である山川さんの経営手腕のおかげだ。山川さんが社長に就任してからというもの、うちの会社の業績は右肩上がりを続けている。山川さんはそれまでの当たり前だった旧態依然とした慣習をことごとく撤廃していった。そのおかげで社員たちは働きやすくなり、結果として業績が上がったのである。俺は素直に山川さんを尊敬している。いつか山川さんのように、部下に対して優しく接しつつ、的確な指示を与えられるような上司になりたいものだ。
心を新たにオフィスへ向かうと、そこでは知った顔も初対面の人間も、俺を温かく迎えてくれた。人の温かさというものは本当にいいものである。俺はみんなのおかげで自然と笑顔になった。
午前中に一仕事を終えた俺は、ふと自分の空腹に気づく。時計を見てみれば、もうランチタイムだ。俺は社員食堂へ向かうことにした。そしてそこで、再び驚かされることになる。食堂も十年前とは比べ物にならないほど充実していたのだ。和食も洋食も問わず種類が豊富で、中にはケーキなどのカフェメニューまである。これだけ種類があると迷ってしまうのは当然のことだ。散々迷った末、俺はかけうどんを注文した。十年前にもよく食べていたメニューだ。これだけのメニューがある中で、わざわざ普通のうどんを注文してしまうなんて、我ながらなんだかおかしい。
昼時だったので開いている席を見つけるのにも苦労したが、どうにか座ることができた。俺がうどんを食べていると、突然男が近づいてくる。見知らぬ顔だった。
「おい、おっさん、何ぼっとしてんだよ。そこは俺の席だ。邪魔だろうが。」
俺はこの野蛮な言葉に、ついむっとしてしまった。俺の席も何も、ここは社員食堂である。社員みんなの場所に違いない。この男は一体何を言っているのだろうか。俺は最初の言葉に驚いて、声が出なかった。そもそも、こんなに強い口調でそんなことを言う必要は全くないはずである。こういう理不尽な態度を、俺は黙って見過ごすことができない性格なのだ。俺はひとまず謝罪の言葉を述べたが、すぐに反論した。
「ここは社員食堂ですよ。あなた専用の特等席なんてあるはずないでしょう。」
すると男は顔をしかめて俺に尋ねた。
「おいおっさん、お前この俺に向かって何言ってるんだよ。もしかして、俺のこと知らないとか言うのか?」
記憶力はいい方だが、この男の顔には見覚えがない。俺が正直に首を横に振ると、男はますます顔を険しくして言い放った。
「マジかよ。ありえねえ。あのなあ、俺は営業部の課長、羽田だ。よく覚えとけよな。つうか、俺のこと知らないなんて、お前本社の人間じゃねえだろ。」
俺は、ついさっき本社に戻ってきたことを羽田に説明した。すると羽田は、明らかに俺を馬鹿にしたような顔をして言う。
「おいおい、気をつけろよな。何てったって俺は、三十代で課長になったエリートなんだからな。」
全く、何て傲慢な男だろうか。キャリアをひけらかしている人間ほど見苦しいものはない。隣に連れている部下らしき男も、ニヤニヤと俺を見るばかりで、羽田を止めようともしない。呆れた連中だ。
すると羽田は、俺にこんなことを言い放った。
「とにかくそこは俺の席だ。おっさんは廊下で飯食え。」
呆気に取られるとは、まさにこういう状況を言うのだろう。とても初対面の、しかも年上の人間に対する言葉とは思えない。この羽田という男は、どういう神経をしているのだろう。羽田とその部下は、俺を大声で囃し立てる。本当に耳障りだ。騒ぎを聞きつけた周りの社員たちも、こちらに注目してしまっている。せっかく本社に戻って来られて喜んでいたのに、まさか初日にこんな理不尽な連中に絡まれるなんて、本当に運が悪い。十年前には、こんなとんでもない社員なんていなかったはずだが、今やこんな男が営業の課長とは信じられない。こんなことで山川マーケットは大丈夫なのだろうか。俺はがっかりして、またため息をついた。
羽田は俺のそういう様子が面白かったらしい。ますますげたげたと、嫌な笑い声を大きくしている。まるで悪魔のような男だ。
社会人にとって、他人に対する礼儀というものはとても大事なものである。とりわけ、他の企業の人間と接する営業部にとって、それがいかに重要であるかは言うまでもない。営業というのは、いわば会社全体を代表するような立場なのだ。だからこそ、俺はこの羽田の言動が軽蔑で理解不能だった。どうしてこんな男が、営業課長なんて重要な役職に就いていられるのだろう。
俺は羽田に対して、謝罪を求めた。
「あなたの態度はあまりにも無礼すぎます。私に謝罪するべきです。」
すると羽田は、鼻で笑いながら俺を侮辱してきた。
「この俺が、支社上がりのポンコツ社員に謝るだと?おいおいおっさん、あんた頭大丈夫か?自分が何を言ってるか理解できてるのか?」
こういう身勝手な人間には、いくら言っても拉致があかない。それは、曲がりなりにも長年生きてきた経験で俺が理解したことである。しかし、だからと言って黙ってこのまま席を譲るのは絶対に違う。そんなことをしてしまえば、奴を付け上がらせるだけだからだ。そうなれば、別の機会に俺のような新たな被害者を生み出すことになりかねない。それだけは阻止せねば。俺は羽田に立ち向かうことに決めた。
「そんな自分勝手なことを言って通用すると思ったら、大間違いですよ。あなた、少しは自分自身を顧みた方がいいんじゃないですか。」
俺のその言葉に、羽田は顔を歪めた。
「あのなあおっさん、お前に偉そうなことを言われる筋合いはねえんだよ。いい加減に退きやがれ、この野郎。」
低い声でそう脅してくる。俺は引かなかった。
「いい加減にするべきなのは、あなたの方でしょう。とにかく、この席を譲るわけにはいきません。座りたいなら、向こうの席が空くのを待てばいいだけじゃありませんか。」
俺の揺るがない態度に、羽田は苛立ちを募らせていく。
「ああ、このバカ野郎が。お前みたいな奴は、一生底辺で暮らしてろ!」
そう叫んだかと思うと、羽田はとんでもない行動に出た。なんと、俺の胸ぐらを思いっきり掴んだのだ。今にも殴りかからんばかりの勢いだ。辺りは何事かと、すっかり騒然としてしまっている。こんなことで注目を集めるのは、正直気持ちのいいものではない。
そんな中、一人の男性が慌てて俺たちに近づいてきた。
「やめろ。やめないか!」
それは、山川マーケットの社長、山川さんだった。山川さんは、俺から羽田を引き離してくれた。突然現れた社長の姿に、羽田は驚いて目を白黒させている。
山川さんは厳しい口調で羽田に言った。
「久しぶりに社員食堂に来てみれば、これは一体どういうことだ?おい、羽田。お前、誰に向かってそんな失礼なことを言っているのか分かっているのか。」
しかし、羽田はその言葉の意味を全く理解できていないようだった。
「誰にって、この支社上がりのポンコツさんのことですか?」
山川さんは呆れた口調で言った。
「やっぱり分かっていないみたいだな。いいか。彼はロサンゼルス支社で素晴らしい業績をあげて、今日から本社の専務に就任した福原君だよ。」
羽田は、ぽかんと口を開けて呆然としている。
「せ……このおっさんが?」
そう。俺はロサンゼルス支社での仕事ぶりが認められて、この度本社の専務に昇進したのである。山川さんは顔をしかめながら、羽田に苦言を呈した。
「ところで、さっきまでのお前の態度は全て見ていたぞ。営業課長ともあろう人間が、あんなにも傲慢に振る舞うなんて、ご同業だ。」
羽田は見る見るうちに青ざめて、俯いてしまった。まるでしぼんだ風船のようだ。先ほどまでの傲岸不遜な態度は、一体どこへ行ってしまったのだろう。先ほどまであんなとんでもない暴言を吐いていた人間とは思えないほど、小さくなってしまっている。自分のキャリアにこだわる人間ほど、立場が上の人物に指摘されると何も言えなくなってしまうものである。本当に呆れたものだ。
山川さんは羽田に謝罪を促した。
「そんなら、分かったら早く福原君に謝れ。」
羽田はその言葉を受けて、すぐに土下座した。
「大変申し訳ございませんでした!」
床に頭がめり込んでしまうんじゃないかと心配になるくらいの勢いだ。しかし、この変わり身の速さはいかがなものだろうか。俺は羽田に尋ねた。
「あなたは、自分より立場が下の人間に対して、いつもそのような態度を取っているんですか?」
羽田はすぐに必死で言い訳する。
「いいえ、滅相もございません。今日は、その……えっと、ちょっと虫の居所が悪くて、それで……」
間違いなく今羽田が言っていることは嘘だ。俺はそう直感した。どうやら俺の勘は当たっていたようだ。山川さんが、こんなことを告げた。
「羽田。お前が部下に対してひどい態度を取っているという報告は、前々から上がっているんだ。今回の件も含めて、私は確信した。お前はどうやら課長の座には向いていないみたいだな。」
すると羽田は、慌てた様子で山川さんにすがりついた。
「ま、待ってください!それは何かの間違いです。きっと誰かの陰謀です!」
俺はその言葉に呆れて、ぷっと吹き出してしまった。一体誰の陰謀だと言うのだろうか。何ともみっともない姿だ。同じ会社の社員として、情けないことこの上ない。山川さんは羽田の言葉に取り合わず、冷淡な態度で告げた。
「処分が多いに伝えるから、そのつもりでいろ。」
それを受けて、羽田はすっかり取り乱してしまった。羽田の部下もどうしていいのか分からず、ただあたふたするばかりだ。すると羽田は、自分の部下に向かって怒鳴りつけた。
「おい、どうにかしろ!お前、俺の部下だろうが!」
全く、見当違いもいいところである。確かにこの部下も一緒になって俺を嘲笑ってはいたが、全ては羽田自身が招いたことだろう。にも関わらず、無理やりその責任を取らせようとするなんて。本当にこの男は、人の上に立つべきではないタイプなのだろう。こういう人間にだけはなりたくない。俺は反面教師として、今目の前で繰り広げられている見苦しい状況を、心に焼きつけることにした。
山川さんは羽田の見苦しい姿を見て、眉間のしわをますます深くしている。こんな部下を持つなんて、社長にとってもいい迷惑だ。俺は山川さんに尋ねてみた。
「なぜ、羽田のような人間が営業課長という役職に就くことになったのですか?」
すると山川さんは、ため息混じりに明かしてくれた。
「実は、この羽田という男は、私の知り合いの息子でな。」
なるほど。それを聞いて、俺はようやく納得がいった。羽田は早い話が、コネ入社で出世したわけだ。彼自身は自分の能力の高さでキャリアを積み重ねていると勘違いしているらしい。なんとも残念な男である。しかし、山川さんとしても、まさか羽田がここまでひどい人格の持ち主だとは思っていなかったようだ。山川さんは、こんなひどい人間を会社に入れるなんてとんでもない、と苦笑いした。羽田は罰が悪そうに俯いている。こういう時黙り込んでしまうなんて、まるで小さな子供のようだ。といっても、子供のような可愛げなど羽田には微塵もないが。
俺は山川さんが何だか気の毒に思えた。山川マーケットは、山川さんの父親が創業した会社だ。どんなに大きな会社でも、羽田のような人間が営業課長を務めている限り、いつ評判を落としてしまうか分かったものではない。羽田を一刻も早く切り捨てることこそ、今の山川マーケットにとって最も重要なことだろう。それは山川さんも同じ思いのようだった。
山川さんは俺の方に向き直ると、頭を下げた。
「福原君、本社に戻ってきてそうそう、嫌な思いをさせてしまってすまない。山川マーケットの社長として謝罪させてほしい。申し訳なかった。」
俺は恐縮して、すぐに山川さんを促した。
「社長は何も悪くないのですから、どうか顔を上げてください。」
そう、全ての元凶は、俺にとんでもない因縁をつけてきた羽田なのだから。ところが当の羽田は、頭を下げている山川さんの姿を、ぽかんと見ているばかりである。とても社会人とは思えない。とんでもないバカ野郎だ。
俺はこれ以上ここにいても仕方がないように感じたので、山川さんに挨拶してからその場を去ることにした。すると、誰かに腕を掴まれた。羽田だった。羽田は俺に向かって、泣きそうな声で言った。
「どうか、今回のことはご内聞に済ませてください。福原さんからも、社長に頼んでくださいよ。よろしくお願いします。」
全く、図々しいにもほどがある。たとえ冗談だとしても、全く笑えない。俺は羽田の手を冷たく振り払い、きっぱりと断った。
「処分について、私の方から何らかの口利きをすることは不可能です。全ては社長が決めることですから。」
それを受けて、羽田はがっくりと肩を落とした。
「畜生……!」
そう叫んで、床を拳で叩いた。いくら悔しがっても仕方がない。というか、悔しがるくらいなら、少しは反省したらどうなんだ。この男の自己反省のなさは、世界でもトップクラスに入るのではないだろうか。俺は羽田の叫びを背に、そんなことを思いながら社員食堂を後にした。
その後、山川さんの指示により、羽田は営業課長の職を外れることになった。処分を不服に思う羽田は、無断欠勤を繰り返すという幼稚な行動に出た。ところが、羽田が会社を休んでいる間に、営業部の部下たちから、羽田から不当な嫌がらせを受けたという証拠や証言が次々と上がったらしい。事態を重く見た山川さんは羽田を呼び出したが、羽田はその呼び出しに応じることはなかったようだ。社長からの連絡を無視するなんてありえない。その結果、羽田は懲戒解雇処分になった。自分自身の責任すら取れないような人間は、山川マーケットには必要ないという山川さんの判断は、正しいものだった。
仕事を失った羽田は、やがてギャンブルに溺れ、次第に借金を重ねるようになった。返す当てもないままどんどんギャンブルにお金を注ぎ込んでいった結果、とうとう闇金融にも手を出したらしい。近頃は借金取りに追い回される毎日を送っているという噂だ。全ては自身が招いたことだ。自業自得を体現しているような羽田が、改心しない限り、どん底から抜け出すことは決してできないだろう。
一方、俺はというと、本社で専務として忙しく働いている。別にロサンゼルス支社が楽しかったわけではないが、やはり本社での仕事はやりがいがあって、充実感に満ち溢れた毎日だ。山川さんもあの一件以来、俺のことを何かと気にかけてくれている。彼は社長という立場であるにも関わらず、部下への気遣いを常に忘れない。本当にいい人だ。比べるのも失礼だが、羽田とは真逆のタイプである。
もちろん、俺は家族との時間だっておろそかにはしていない。この週末には、みんなで遊園地に行く約束をしている。楽しみにしている娘や妻を見ていると、何だかこちらまで楽しい気持ちになってくる。俺はこれからも、仕事と家庭、どちらも大事にしながら生きていきたい。
