「ババアは体育座りで十分でしょう。」
息子の嫁から放たれたその言葉が、私の心を凍りつかせた。60年の人生で、こんな屈辱を味わったことがあっただろうか。いいえ、一度もない。
私は坂本と申す。27年間、名古屋の小さな花屋で働き続けてきた。そして今日は、息子の直の結婚式当日だ。この日のために、私たちは500万円もの援助を決めていた。夫の秋彦と二人、幸せな気持ちで式場へ向かったはずだった。
だが、受付で渡された座席表を見た瞬間、私の胸に冷たい何かが走った。
秋彦の名前は最前列にあった。しかし、私の名前はどこにも見当たらない。信じられない思いで何度も見つめ直す。そこには明らかな事実が突きつけられていた。夫の席だけが用意され、母親である私の席はどこにもなかったのだ。
私はこれまで、息子のためにだけ生きてきたと言っても過言ではない。28年前、小さな命を胸に抱いた時の感動を、今でも鮮明に覚えている。夜中に泣く息子を抱きしめながら、この子のためなら何でもできると心から思った。花屋で働きながらの育児は決して楽ではなかった。朝5時に起きて、8時間立ちっぱなしの接客。帰宅すれば家事と育児。それでも息子の笑顔を見るだけで、疲れは吹き飛んでいった。
教育費として注ぎ込んだお金は、総額800万円以上になる。幼稚園から大学まで、私と秋彦の給料のほとんどを直の将来のために使った。そして結婚式の際、「母さん、式の費用をお願いできる?」と頼まれた時、私は迷いなく500万円を渡す約束をした。さらにマイホーム購入の際には、頭金として300万円も出した。全ては息子の幸せのため。母親として当然のことだと信じていた。
けれども今日、その全てが音を立てて崩れ去ろうとしている。
私は秋彦と共に、廊下で待機していた直の元へ向かった。息子の横には、地下が寄り添うように立っている。
「直、あの、私の席が見当たらないんだけど」
そう尋ねた瞬間、直の目が泳いだ。
「あ、それは……」
直が言葉に詰まると、地下が口を開いた。
「あら、お母さん、席、ちゃんと用意してありますよ」
その声は明るいのに、どこか芯が冷たく感じられた。
「座席表は会場の都合で急遽変更になったんです。当日のご案内になりますから、ご安心くださいね」
地下の笑顔は完璧だった。けれども、その目は笑っていない。
不安を抱えたまま、私たちは再び受付に確認することにした。秋彦が丁寧に尋ねる。
「すみません。妻の席について新郎に確認したのですが、当日案内とのことでした。どちらの席になりますでしょうか?」
受付の女性は困惑した表情で、何度も確認リストを見直した。そして申し訳なさそうに口を開いた。
「ええと……大変申し上げにくいのですが。新郎新婦様からは、新郎の母の席は用意しないとの指示を受けておりまして……」
「なんだと?」
秋彦の声が静かな廊下に響き渡った。周囲の参列者が驚いたようにこちらを見る。私は言葉を失い、ただその場に立ち尽くすことしかできなかった。
愛情の都合ではなく、意図的な排除。地下の言葉は完全な嘘だった。そして何より辛かったのは、直もそれを承知していたという事実だ。
私たちは再び直と地下の元へ向かった。今度は秋彦の表情が険しくなっている。
「地下さん。受付の方から今お聞きしました。席を用意しないという指示は、あなた方からだったそうですね」
地下の顔から一瞬だけ笑顔が消えた。けれどもすぐに、今度は少し傲慢な表情へと変わる。
「ええ、そうですよ。だって、お父さんの席はありますし」
その言葉に、私は耳を疑った。
「どういう意味ですか?」
「お父さんは新郎のお父様ですから。でもお母さんは……まあ、そこまで重要ではないかと思いまして」
地下の言葉が、まるで鋭い刃物のように胸に突き刺さる。重要ではない。実の母親が重要ではない。
秋彦が怒りを抑えきれず声を荒げた。
「何を言っているんだ! 美は直の実の母親だぞ!」
「でも、女性って結婚したら夫の家の人間じゃないですか? だから私の両親が優先で。お母さんは……」
地下の価値観に、私は愕然とした。夫が重要で、妻は重要でない。そんな考え方が、今の時代にまだ存在することに驚きを隠せなかった。
「あなたもそう思っているの?」
震える声で、息子に尋ねた。直は視線をそらし、しばらく黙っていた。そしてついに口を開いた。
「母さん。地下の言う通りだよ。結婚式の主役は地下と地下の家族なんだ」
「でも、私はあなたのお母さんよ。28年間育てて……」
「それは感謝してる。でも今は地下が一番大事なんだ。母さんには悪いけど、地下の意見を尊重したい」
息子の言葉が胸を貫いた。感謝はしているけれども、尊重はしない。28年間の献身が、たった一言で否定されたように感じられた。
秋彦が息子に詰め寄る。
「直、お前、それでも息子か!」
「お父さんには席を用意したじゃないか。それで十分でしょ」
直の言葉で、私は完全に理解した。これは単なる座席の問題ではない。私という存在そのものが軽視されているのだ。
式が始まるまであと30分。秋彦は最前列の立派な席へと案内されていった。一方、私を呼び止めたスタッフは、会場の最後方へと案内し始める。
「こちらがお席になります」
そこは控室の前、壁際に置かれたパイプ椅子だった。周囲は立ち見スペース。とても席と呼べるような場所ではない。
言葉を失う私の前に、地下が現れた。その顔には、もはや作り笑顔すらない。
「あら、お母さん。ちゃんと椅子を用意したじゃないですか。ババアは体育座りで十分でしょう? それでも椅子を用意したんだから、感謝して欲しいくらいです」
その言葉が、私の心に深く突き刺さった。60年の人生で、誰かにこんな呼び方をされたことはない。涙が溢れそうになるのを、必死でこらえる。
地下はさらに追い打ちをかけるように言葉を続けた。
「それに、お母さん。500万円の援助、ありがとうございます。おかげで素敵な式が挙げられます。まあ、お金だけ出してくれればそれで十分ですけどね」
お金だけ出せ。その言葉が、28年間の母親としての日々を完全に否定したように感じられた。
「お父さんは新郎の父親だから最前列。当然ですよね。でもお母さんは初詣の外の人じゃないですか? 外の人。息子の人生で重要なのは、妻の私と私の家族です。お母さんはもう役目を終えたんですから、大人しく端っこで見ててください」
役目を終えた。その言葉が最後の一撃となった。私はもう、必要とされていない。
その瞬間、私の中で何かが音を立てて壊れた。いや、壊れたのではない。長年の我慢という鎖が、ついに断ち切れたのだ。
壁際のパイプ椅子に腰を下ろした私は、会場の最前列を見つめた。そこには秋彦が豪華な席に座っている。周囲には地下のご両親や親戚の方々が、名古屋弁で賑やかに話していた。私と秋彦の距離はわずか10メートルほど。けれどもその距離が、まるで別世界のように感じられる。
華やかな装花、シャンデリアの輝き、参列者の笑顔。全てが美しい結婚式の光景だ。けれども、その中で私だけが、まるで存在しないかのように扱われていた。
式が始まる10分前、地下が再び私の前に現れた。今度はさらに冷たい表情を浮かべている。
「お母さん、ちゃんと座っていられますか? 立ちっぱなしだと疲れちゃいますものね」
その言葉に込められた皮肉を、私は痛いほど感じ取った。地下はまるで何も悪いことをしていないとでも言うように、平然とした態度を取り続ける。
「お母さんは勘違いしているんです。息子を育てたからって、特別扱いされると思わないでください」
特別扱い。私は特別扱いを求めていたのだろうか。ただ実の母親として、普通に結婚式に参列したかっただけだ。ただ息子の結婚を祝いたかっただけだ。
「祝うのは結構ですよ。でも、それとこれとは別です。この式は私と私の家族のためのものなんですから」
地下の言葉を聞きながら、私は息子の姿を探した。直は会場の入口近くで最終確認をしているようだ。こちらを見ることはない。
その時、地下が決定的な一言を口にした。
「それにね、お母さん。正直に言いますけど、あなたみたいな地味で古臭い人が最前列にいたら、写真写りが悪くなるんですよ。私の両親は上品で素敵だから、写真に映えるんです」
写真写り。私は写真映りが悪いから排除されたのだ。
「あ、それと。500万円、本当に助かります。でもね、正直もっと出せたんじゃないですか? 花屋さんで27年も働いていたんでしょう? もっと貯金があるはずですよね」
その瞬間、私の体が震え始めた。怒りなのか、悲しみなのか、自分でも分からない。
「あなたは黙ってお金を出していればいいんです。それが母親の役目でしょう。もう高齢なんだから、無理に動き回らなくても、ここでじっと座って式が終わるのを待っていてください」
高齢。黙ってお金を出せ。じっと座っていろ。全ての言葉が、私という人間の尊厳を踏みにじるものだった。
そして地下は最後にこう言った。
「ババアは体育座りで十分だって、最初から思ってたんです。でも直が少しは椅子を用意した方がいいって言うから、仕方なくこれを置いたんですよ。感謝してくださいね」
ババア。その言葉が再び私の心を切り裂いた。
地下が立ち去った後、私はただ座り続けることしかできなかった。周囲の参列者が時折こちらを見ては、小声で何かを話している。きっと、なぜあの女性だけが壁際のパイプ椅子に座っているのか、不思議に思っているのだろう。
式が始まる5分前、秋彦が私の元へ駆けつけてくれた。その顔は怒りで真っ赤に染まっている。
「美。すぐに帰るぞ」
「秋彦さん……」
「こんな式に出る必要はない。お前を侮辱する連中の式になど、一秒たりともいられるか」
秋彦の言葉に、私の目から涙が溢れた。35年間、私を大切にしてくれた夫。その存在が、今この瞬間どれほど救いになるかを実感する。
「俺たちは28年間、直のために全てを捧げてきた。それを『ババアだの』『お金だけ出せだの』言う連中に、これ以上何をしてやる必要がある」
秋彦の言葉が、私の心に深く響いた。その瞬間、私の中で何かが決定的に変わった。長年積み重ねてきた我慢、優しさ、母親としての献身。それらが全て一本の線となって、私の背筋を貫いていった。
もう耐える必要はない。もう我慢する必要はない。ここで黙って屈辱を受け入れれば、私という人間が完全に消えてしまう。
私は立ち上がり、秋彦の手を握った。
「秋彦さん、帰りましょう」
「ああ」
私は振り返って、華やかな式場を見つめた。そして同時に、息子夫婦への完全な反撃が、今始まろうとしていた。
私は秋彦の手を引き、静かに会場の出口へと向かった。参列者の視線を感じる。けれども、もう気にする必要はない。この場所に、私の居場所はないのだから。
ロビーに出て、私はバッグからスマートフォンを取り出した。そして銀行のアプリを開く。画面には、振り込む予定だった500万円の送金予約が表示されていた。
「秋彦さん、見てください。これ、明日振り込む予定だった500万円です。直の結婚式のための。今からこの振り込み予定をキャンセルします」
私は震える指で画面を操作した。確認画面が表示され、もう一度タップすれば完了する。一瞬だけ躊躇した。けれども、地下の言葉が脳裏に蘇る。
ババアは体育座りで十分。お金だけ出してくれればいい。外の人。役目を終えた。
その言葉を思い出した瞬間、躊躇は消えた。私はキャンセルボタンを押したのだ。
「振り込み予定をキャンセルしました」
画面に表示されたその文字を、秋彦と二人で見つめた。
「よくやった。美は、それでこそ俺の妻だ」
秋彦の言葉に、私は初めて笑顔を見せることができた。
「『ババアにお金はありません』って、地下さんに言ってやりたいわ」
「その言葉、最高だな」
私たちはまるで共犯者のように顔を見合わせて微笑んだ。その時、ロビーの奥から直が慌てた様子で駆けてきた。
「父さん、母さん、どこに行ってたの? もうすぐ式が始まるよ」
直の声には焦りが滲んでいる。けれども、私の中にはもはや、母親としての優しさはなかった。
「直。私たちは帰ります」
「え? 帰るって、なんで?」
「なぜだと思う? あなたの嫁が私に何と言ったか、知っているでしょう?」
直は視線をそらした。やはり知っていたのだ。
秋彦が息子に詰め寄る。
「お前の嫁が美に何と言ったか、聞いたのか」
「地下が何か言ったと?」
息子に、私は冷静に答えた。
「『ババアは体育座りで十分』『お金だけ出してくれればいい』『外の人』『役目を終えた』。そう言われました」
直の顔が、みるみる青ざめていく。
「え……そんな。地下がそこまで……」
「知らなかったとは言わせません。あなたも、私の席を用意しないことに賛成したんでしょう?」
直は何も答えられなかった。
「直、あなたは覚えていますか? 私があなたのためにどれだけのことをしてきたか。教育費800万円、マイホームの頭金300万円。全部あなたの幸せのためでした」
私の声は震えていたけれども、涙は出なかった。もう泣く必要はないのだ。
「そして今日、500万円の援助を約束していました。でも、もう必要ありませんね。今、振り込み予定をキャンセルしました。500万円、援助しません」
直の顔から血の気が引いた。
「ちょ、ちょっと待って。母さん、それは困る。会場費が……」
「困るのはあなた方の問題です。『お金だけ出してくれればいい』とおっしゃったのは地下さんですよね。でも私はババアではありません。28年間あなたを育てた、誇り高い母親です」
私の言葉に、直は言葉を失った。
「さようなら、直」
「母さん!」
直が手を伸ばしたが、私は振り返らなかった。秋彦が私の肩を抱き、二人で式場の出口へと向かう。その時、慌てた様子の地下が現れた。
「ちょっと、お母さん! 500万円は!」
振り返ると、地下の顔は先ほどまでの余裕が消え、焦りに満ちている。
「ババアにお金はありません」
私は冷静にそう告げた。
「え? でも、約束したじゃないですか!」
「約束? 私をババアと呼び、体育座りと言った時点で、全ての約束は無効になりました」
秋彦がさらに追い打ちをかける。
「俺たちは、妻を『ババア』と呼んだ時点で、全てが変わったんだ」
地下の顔が真っ赤になった。
「そ、そんな! 直、なんとか言って!」
けれども直は、ただ呆然と立ち尽くすだけだった。
「お母さん! お父さん! 待って!」
息子の声が背中に届く。けれども、私たちは振り返らなかった。
式場の扉を開けると、爽やかな5月の風が頬を撫でた。空は青く澄み渡り、新緑の木々が美しく輝いている。私たちは手をつなぎ、駐車場へと向かった。
車に乗り込み、エンジンをかける。バックミラーに映る式場が、どんどん小さくなっていく。
「美さん、私たちはこれからどうしましょうか?」
「俺たちには、俺たちの人生がある。息子のためではなく、自分たちのために生きればいい」
「そうですね」
私は窓の外を眺めた。新しい人生が、今始まろうとしている。
「それにしても、あの二人はこれからどうするんだろうな」
秋彦の言葉に、私は小さく笑った。
「それは彼らの問題です。500万円がなくて困るのは、自業自得というものでしょう」
車は静かに走り続ける。私の心は、不思議なほど軽くなっていた。長年背負ってきた重荷を、ようやく下ろすことができたのだ。
自宅に戻った私たちは、リビングのソファに座り、静かにお茶を入れた。窓から差し込む午後の光が、部屋を優しく照らしている。
「美。大丈夫か?」
「ええ、不思議なくらいすっきりしているわ。本当に心が軽くなりました」
28年間、息子のために我慢してきた日々。けれども今日、初めて自分のために行動できた。
「お前は正しい選択をした。誇りに思うよ」
「ありがとう、秋彦さん。あなたがいてくれて、本当に良かった」
穏やかな時間が、30分ほど続いた。そして、私のスマートフォンが鳴り響いたのだ。画面を見ると、直の名前が表示されている。私は電話には出ず、ただ着信を見つめた。電話は鳴り続け、やがて留守番電話に切り替わる。その後も電話は鳴り続けた。直から5回、地下から3回、また直から10回。30分の間に、合計25回もの着信があった。
「すごい回数ね」
「焦っているんだろう。500万円がないと、会場費が払えないんだ」
秋彦の言葉通り、息子夫婦は完全に慌てているようだった。留守番電話にメッセージが残されていた。私はそれを再生することにした。
最初のメッセージは、直からだった。
「母さん、どうして出ないの? 式がもうすぐ始まるんだよ。500万円がないと会場費が足りないんだ。お願いだから、すぐに振り込んで」
声は焦りと苛立ちに満ちていたけれども、謝罪の言葉は一つもない。
次のメッセージは、地下からだった。
「お母さん、何やってるんですか? 約束したじゃないですか、500万円。今すぐ振り込んでください。このままじゃ式が中止になっちゃうんです」
地下の声にも謝罪はなかった。ただ金を出せという要求だけ。
三つ目のメッセージは、再び直からだった。
「母さん、お願いだから。会場が支払いを求められてるんだ。クレジットカードの限度額も超えて、親戚の前で恥をかいてる。助けて、母さん」
ようやく声に弱々しさが混じり始めたけれども、それは反省ではなく、ただ困っているだけのように聞こえる。
四つ目のメッセージは、地下からだった。
「お母さん、いい加減にしてください! 私の両親も呆れてます。あなたのせいで式がめちゃくちゃです。責任取ってください! お願いします! もうお願いしますから!」
最後は泣き声になっていたけれども、その涙に同情する気持ちは湧かなかった。
私はスマートフォンを置いた。
「秋彦さん、聞きましたか?」
「ああ。謝罪は一言もなかったな」
「ええ。ただお金を出せと言っているだけ」
私たちは顔を見合わせた。
「これが、私たちをババア、外の人と呼んだ人たちの本性なのね」
「そうだ。金が欲しいだけで、お前を人として尊重する気持ちなど、最初からなかったんだ」
秋彦の言葉に、私は深く頷いた。
その後も電話とメッセージは続いたけれども、私たちは一切応答しなかった。夕方になり、LINEにメッセージが届き始めた。直からのメッセージにはこう書かれていた。
「母さん、ごめん。地下があんなこと言ったのは悪かった。でも会場費を用意できないんだ。助けて」
私は冷静に返信を考えた。そして、長文のメッセージを打ち始めた。
「地下さん。私は約束を破ったわけではありません。『ババアは体育座りで十分』『お金だけ出してくれればいい』。そう言われた時点で、全ての約束は無効になりました。私は28年間、あなたを愛情を持って育てました。800万円以上の教育費、毎日の家事、全てあなたのためでした。それを『ババア』『外の人』『役目を終えた』と言われて、なぜ500万円を出さなければならないのですか? 今回のことで、私は大切なことを学びました。我慢には限界があるということ。自分の尊厳は自分で守らなければならないということ。あなたたちの結婚式がどうなったか、私には関係ありません。それはあなたたち自身の問題です。今後、私と秋彦さんに連絡してくることはお控えください。あなたたちにはあなたたちの人生があります。私たちには私たちの人生があります。母より」
送信ボタンを押すと、メッセージは既読になった。けれども返信はなかった。
その夜、私たちは静かに夕食を取った。
「美、明日は何をしようか」
「そうね。久しぶりに映画でも見に行きましょうか」
「いいな。お前が見たいって言っていた映画、まだやっているだろう」
「ええ、楽しみだわ」
私たちはこれからの生活について語り合った。息子のためではなく、自分たちのための時間。それがどれほど貴重なものかを実感する。
数日後、親戚の一人から連絡があった。
「美さん、あの件、全部聞きましたよ。ひどい話ですね」
「ご存知なんですか?」
「ええ、式に出席した親戚から聞きました。結婚式、大変なことになったそうですね」
親戚の話によれば、結婚式は会場費未払いのまま大幅に縮小されたそうだ。予定していた料理のコースが削られ、引き出物もグレードダウン。親戚たちは何が起きたのかと困惑していたとのことだった。
「それで、地下さんのご両親も激怒しているそうですよ。事前に聞いていた話と違うって」
「そうですか……」
「でもね、美さん。みんな、美さんの味方ですよ。だって、実の母親をババアなんて、ありえないじゃないですか。500万円も援助してもらえるのに、その態度はないって、みんな言ってます」
親戚の言葉に、私の目から涙が溢れた。
「美さんが式を退場されたのは当然です。逆に、よく我慢しましたね。尊敬します」
電話を切った後、私は秋彦に報告した。
「秋彦さん、聞いて。親戚のみんなが私の味方だって」
「そうか。当然だ。お前は何も間違っていないんだから」
「私、間違っていなかったのね」
「最初から正しかったさ」
私たちは抱き合い、しばらくそのままでいた。
その後、直からも地下からも連絡は絶えた。きっと、もう私たちに頼ることを諦めたのだろう。
一ヶ月後、私たちは北海道旅行に出かけた。500万円の一部を使って、念願だった旅行を実現させたのだ。美しい花畑、広大な大地、美味しい食事。全てが新鮮で、心が踊るようだった。
「美、楽しいか?」
「ええ、とても。これからはこうやって、二人で人生を楽しもう」
「そうだな。もう誰のためでもなく、私たち自身のために」
北海道の青い空の下で、私たちは新しい人生の一歩を踏み出した。息子のために尽くす人生は終わった。これからは、私自身のための人生が始まるのだ。
あれから三ヶ月が経った。私と秋彦の生活は、驚くほど穏やかで充実したものになっている。毎朝ゆっくりと目を覚まし、二人で朝食を取る。花屋での仕事も、今では心から楽しめるようになった。
「いらっしゃいませ」
お客様に笑顔で声をかけると、温かい言葉が返ってくる。
「ありがとう。いつも素敵な花をありがとう」
この「ありがとう」という言葉が、どれほど心を満たしてくれることだろう。誰かに感謝される喜び。それは一方的に与え続けるだけの関係では、決して得られないものだった。
週末には、秋彦と二人で陶芸教室に通い始めた。土をこねながら新しい作品を生み出していく喜び。それはまるで、私自身の新しい人生を形作っているようだった。
「美さん、とても良い形になってきましたね」
先生が褒めてくださると、自然と笑顔がこぼれる。
「ありがとうございます。楽しくて」
「その笑顔が一番素敵ですよ」
誰かに認められる。人として尊重される。それがどれほど大切なことか。息子夫婦との日々では、決して感じられなかった温かさが、ここにはあった。
ある日の午後、友人たちとのランチの席で、一人が訪ねた。
「美さん、最近とても輝いているわね。何かいいことでもあったの?」
「ええ。自分のために生きることを始めたの」
その言葉に、友人たちは優しく微笑んでくれた。
「それは素敵ね。私たちの年代になると、つい家族のことばかり考えてしまうけれど。自分を大切にすることも、必要よね」
「本当にそう思うわ」
会話の中で、私は自分の経験を少しだけ話した。息子夫婦から受けた屈辱、そして自分を取り戻すまでの道のり。友人たちは深く頷きながら聞いてくれた。
「美さんの選択は正しかったわ。我慢し続けることが美徳とは限らないものね」
その言葉が、私の心に染み渡った。
夕方、家に戻ると、秋彦が夕食の準備をしてくれていた。
「お帰り、美」
「ただいま。楽しかったわ。友人たちとたくさん笑って」
「それは良かった。お前の笑顔が増えて、俺も嬉しいよ」
二人で食卓を囲みながら、今日あったことを語り合う。以前は息子のことばかり話していたけれども、今は自分たちのことを話せる。それがどれほど自由なことか。
私は窓辺に立ち、夕暮れの空を眺めた。オレンジ色に染まる雲が、美しく流れていく。
「秋彦さん、私、今とても幸せよ」
「俺もだ」
「息子を育てている時も幸せだったわ。でも、今の幸せは違うの。自分自身のために生きている幸せなの」
秋彦が、私の方を優しく抱いてくれた。
「美は、誰よりも強い女性だ」
「いいえ。あなたがいてくれたから、強くなれたの」
その夜、私は手帳を開き、新しいページに書き込んだ。
「人生は誰のためでもなく、私自身のもの。我慢には限界がある。自分の尊厳は自分で守るもの。そして、理不尽には立ち向かうべきもの」
これが、私が学んだ大切な教訓だった。
直からは、あれ以来一度も連絡がない。きっと彼らは、彼らなりの人生を歩んでいるのだろう。それでいいのだと、私は思う。親として子供の幸せを願う気持ちは変わらない。けれども、それは自分を犠牲にすることとは違うのだ。自分を大切にしてこそ、本当の意味で誰かを愛することができる。
月日が流れ、季節は秋へと移り変わった。北海道旅行で撮った写真を、私たちはリビングに飾った。広大な花畑の前で笑顔を浮かべる私たち。その写真を見るたびに、あの決断は正しかったのだと確信する。
もしあの場を出ていなかったら。もし500万円を振り込んでいたら。きっと私は今でも、ババアとして扱われ、「お金だけ出せ」と言われ続けていただろう。けれども私は反撃した。自分の尊厳を守るために、毅然とした態度を取った。その結果が、今の自由で幸せな生活なのだ。
60歳になって、私はようやく自分の人生を取り戻した。これからは秋彦と二人、笑顔で毎日を過ごしていく。誰にも遠慮することなく、自分らしく自由に。それが、私の選んだ幸せな人生なのだ。
