「私、もうすぐ結婚するの。」
ずっと想いを寄せていた女性にそんな告白をされて、俺は目の前が真っ暗になった。辛かった高校時代、たった一人だけ味方をしてくれた同級生。彼女に会うため、気の進まない同窓会に足を運んだ。そして長年の思いを打ち明けようとした矢先に——彼女は、他の誰かを思い浮かべて幸せそうに笑っていたのだった。
その結婚相手って、まさか俺の嫌な予感は、想像以上の形で的中する。遅れて二次会に現れた人物——それは、なんだその態度は?会社を首にしてやろうか、無能の分際で。かつて今も俺を見下す因縁の相手だった。それを機に、俺の絶対に諦められない戦いが始まる。初恋の女性を阻止するために、俺を救ってくれた彼女を、今度は俺が救うために。
俺の名前は仁田はるき、三十歳。今日は高校の同窓会に参加するため、会場である某ホテルの宴会場に来ている。
十二年ぶりに見る同級生たちは、当然ながら全員すっかり大人になっていたが、じっくり観察していると、どこかしら残っている昔の面影も見えてきて面白いなと思っていた最中、いきなり背後から声をかけられた。
「仁田君ね。嬉しい。」
「あ、どうも。」
それは紺色のワンピースを着た、すらりと背の高い女性だった。れるような白い肌に、知的な印象を与える切れ長の目. シャープではっきりとした目鼻立ちは、一つの文句もつけようがない美人だ。しかしそんなモデル張りの美貌以上に目を引くのは、肩甲骨の辺りまで伸びた、まるで絹のように艶めくロングヘアだった。
「どうしたの? もしかして私が誰か分からなかったとか? 」
俺の不器用な挨拶を、美女がくすくすと笑った。それに合わせて彼女の黒髪がさらさらと揺れる。思わず目で追ってしまうほど、その髪は会場内の誰よりも綺麗で、全く会話に集中できないのも仕方ないだろう。横目でちらちらと彼女の様子を伺っているのは、多分他の同級生たちも一緒だ。
「もう、せっかく会えたのにちょっと寂しいかな。私は仁田君に会えて嬉しいのに。」
「ごめん。冗談。」改めて久しぶりね、仁田君.

うん。改めて久しぶり、五藤. まだ少しぎこちなく、俺は高校時代の同級生に挨拶をした।彼女の名前は五藤あや. 俺が今日の同窓会に参加した目的は、たった一つ——まさしく彼女だった. 「仁田、さっき五藤さんと話してたよな。見たぞ。」
友人に呼ばれた五藤が「また後で」と去っていくと、入れ替わるように同級生たちがわいわいと集まってきた。俺を取り囲んで、「羨ましい」「ずるい」と文句を言ってくる。それもそのはず、高校時代の五藤は、男子生徒なら誰もが憧れる存在だったからだ。**
「ごめん、ちょっとトイレに。」
注目を浴びているのがいたたまれず、俺はそっと宴会場から逃げ出した。**
「早速疲れた。やっぱり苦手だ、こういう場所は。」
誰も来ない廊下の隅に避難して、ようやく一息つくことができた。確か高校時代も、こうして人気のない場所を探して同級生たちから逃げていたな。あまりいいとは言えない思い出が蘇って、俺はさらに憂鬱になった。
こんな時、決まって俺を探し当てるのが五藤だった。最初は成績優秀。おまけに真面目な性格で、誰にでも好かれていた完璧な優等生.
本当なら俺が関われるような相手じゃなかったはずなのに——
弟がいなかったら、絶対ここには来てなかったな。**
あれは今から一ヶ月ほど前。とあるIT系の中小企業で働いている俺は、新しい取引先との相談で、相手企業の担当者と初めて顔を合わせることになった。そしてお互いに名刺を差し出した時、俺たちは同時に声をあげた。**
「もしかして、はるき君」
「五藤——え、五藤さん」
なんと、その担当者は高校時代の同級生、そして単なる同級生ではなく、俺の中で特に強く覚えている人物だったのだ。
「すごい偶然。まさかこうして仁田君に会えるなんて。」
考え深そうにつぶやきながら、五藤は切れ長の目を細めた。昔よりさらに綺麗な彼女に、俺は仕事のことも忘れて見とれた. そんな俺に、五藤はそうそうと切り出した. **
「そういえば、仁田君は同窓会に行くの? 」
「同窓会?
」
高校の案内はがきが届いてたことすら、彼女の言葉で思い出したくらいで、俺は全く行く気がなかったので、同窓会のことは記憶から消し去っていたのだが——
「私はもう出席で返事をしたけど、仁田君は? 」
「俺は——」
「私は仁田君も来てくれたら嬉しいな。」
「出席するよ。」
気づけば口が勝手に即していた. 五藤が「本当に? 」と顔を輝かせてから、ようやく自分の失態を後悔したのだが、結果的にはそれで正解だった。**
「五藤さん、どうしたの?
君? 」
「いや、ごめん。なんでもない。」
俺はある言葉を彼女に伝えられないまま、高校を卒業してしまっていた. それから打ち合わせで会うたび、伝えようとしては踏ん切りがつかず、何度も断念して、結局ずるずると時間だけが経ってしまったのだから——
「やっぱり出席にしてよかったな。今日こそ言えそうな気がするし。」
俺は昔から人付き合いが苦手で、自分の思いを相手に伝えるのも苦手だ. だからこそ、同窓会の賑やかな雰囲気に希望を託すことにした。話が盛り上がれば、自然と切り出すタイミングも掴めるのではないかと.
「よし、行けるぞ。今日こそ。」
自分に気合いを入れて、俺は再び宴会場に向かって足を踏み出した. そして常に同級生たちに囲まれる五藤が、一人になるタイミングを待ち続けて、ついにチャンスが巡ってきたのは、居酒屋での二次会も中盤に差しかかった頃だった。**
「ごめんね。全然話せなくて。私から誘ったようなものなのに。」
部屋の隅にいた俺の隣に座るなり、申し訳なさそうな顔をする五藤. 彼女と二人で話せるチャンスを待つ間、一人でちびちびと飲み続けていた俺は、すでにだいぶアルコールが回っていて、そのせいか余計に自分が情けなくなった. 「悪いのは俺なのに、彼女に謝らせてしまった。」**
「こっちこそ、ごめん。」**
「どうして仁田君が謝るの?
なんだか元気もないし。」
「そうよ。いつも仕事の時、機敏としている仁田君はどうしたの? どんな質問にも即座に答えてくれるし、トラブルがあっても動じることなく冷静に完璧な対処をしてくれる。」
「私、そんな仁田君を尊敬してるんだから。」**
「ど、どうも。」
明らかにアルコールのせいだけでなく、顔が熱くて仕方ない. 彼女の言葉は、今も昔も変わらずまっすぐすぎるした. **あの頃も、俺には眩しすぎて素直に受け取ることができなかった。
「あ、ここにいたんだ。」
「たくさん——」
一人でいると、五藤は校舎の端だろうと必ず探しに来てくれた.
当時、俺は周囲に馴染むことができず、いつも一人ぼっちだった. 特に教室は居心地が悪くて、まだ授業中はマシだったが、昼休みは一分足たりとも我慢できなくて、こっそり抜け出しては、誰も来ない静かな場所で弁当を食べるのが日常だった. 「ねえ、私も一緒に食べていい? 」
そんな日常に、いつからかクラスメートの女子が加わった.
学級委員を務める優等生で、学校一との噂もある美少女. いつも太陽みたいに明るく笑っている、ぼっちで陰気な俺とは正反対の存在が、なぜ——
「——見て見ぬふりできないからかな。」
照れる様子もなく、そんなことを笑顔で言い放ったのだっ た**
「だってほら、私って学級委員だし。一人でお昼を食べているクラスメートは、放っておけないというか。」
「そんなの、個人の自由だろ。」
「あ、今の は、仁田君って自分の考えをしっかり持ってる人だよね。やっぱり頭がいいからかな。すごくかっこいいと思う。」
ああ、こんなにまっすぐ褒めてきたのは、後にも先にも五藤だけだった. あまりに顔が突然かっと熱くなって、俺は戸惑うあまり、何を話しかけられても答えられなくて、結局ほとんど彼女のことを無視していたのに、彼女は次の日も、また次の日も、必ず俺の元にやってきたのだった。**
「五藤——どうしたの、君? 」
あの頃と同じ仕草で、五藤が小さく首をかしげる.
それと一緒に髪がさらさらと流れて、それがあまりに綺麗で、俺は思わずどきっとした. **
「せっかく静まったのに、また顔が熱くなる気配がする。」**
「ありがとう。高校の時は——」
ようやく今日の目的を果たすことができた. あの頃、たった一人だけ優しくしてくれたことに、感謝の気持ちを伝える. このために、俺は今日ずっと彼女の姿を目で追い続けていた.
**
「なかなか言えなくてごめん. あれが学級委員の義務感だったとしても、嬉しかったんだ。誰かが自分を気にかけてくれるのは。」**
「仁田君——」
「五藤がそばにいてくれたからこそ、俺の高校生活は完全に暗いものにならずに住んだんだ。」**
「五藤——どうしたの、仁田君。」
俺は、そのたった一言がなかなか喉の奥から出てこない. すると、突然五藤が腰を浮かせ——
「ねえ、顔が真っ赤よ。待ってて。お水をもらってくるから。」
「あ、違うんだ。そうじゃなくて——」
俺は彼女を引き止めるために、どうにか言葉を絞り出そうとした. その時、その動きに合わせて彼女の髪も、大きく波のように動いたから——
「髪?
」
「え? 」
「髪、綺麗だよな。**
「すごく——」
俺はへらへら笑いながら、突然そんなことを言う. ほとんど不審者同然になってしまったのだった. 「ああ、ごめん.
急に気持ち悪かったよな. 本当にごめん。」
真顔で固まった五藤に、俺は慌てて——
「これで長年の片思いも終了か。」**
内心がっくり来ながら、恐る恐るその顔を伺うと——**
「嬉しい。私、髪を褒められるのが一番好きなの。」
なんと彼女は、ほんのりと頬を染めて微笑んでいたのだった. その表情が、クールな顔立ちとのギャップもあって、あまりに可愛らしくて、俺が目を奪われて**
「やっぱり好きだ。」
と思った、その時だった。**
「ロングヘアが似合う、、綺麗だって。」
「彼がいつも褒めてくれるからか。」**
五藤の一言で、ガツンと頭を殴られたような感覚を覚える俺. しかし、それはそれだけでは終わらなかった.
**
「え、私、もうすぐ結婚するの? 」
え、にっこりと、それは幸せそうに微笑んで、俺は目の前でずっと恋をしていた女性に、結婚の報告をされたのだった. **
「そ、それは、おめでとう。」
「ありがとう。」
「彼、仕事で同窓会には来れなかったんだけど、私が二次会に参加するって言ったら、終わる頃迎えに来てくれるって。」**
「そ、そう。」
で、今大きなショックの中で、俺は同窓会という部分に引っかかった. 「仕事がなければ同窓会に参加していた。」ということは——五藤の結婚相手って、もしかして同級生の中の誰かなのか?
**
そう尋ねようとした時、俺は背後から突然ぽんと肩を叩かれた**
「やあ、仁田君、あやの相手をしてくれてたんだね. **
どうもありがとう。」
え、驚いて振り向いた俺に、その人物は爽やかな笑顔を向けた. きっちりとスーツを着こなした、いかにも今時という雰囲気の、誰が見ても認めるような美形の男性. その彼が、五藤を「あや」と呼んだから——俺は一瞬で全てが繋がって、みるみるうちに血の気が引いていった.
**
「五藤の結婚相手って、久保一なのか。」**
「はあ、気安く呼び捨てにしてんじゃねえよ. 久保一さんだろうが。」
「俺が社長になった赤月には、真っ先にお前を首にしてやろうか。」
ああ、その声は、先ほどの爽やかさとは別人のように低く、陰湿な響きで、俺の耳元だけで囁きながら、彼は肩に置いたままだった手に痛いくらい力を込めた. 「ほら、返事は? 無能な平社員の仁田君。」**
「すみませんでした、久保さん。」
彼、久保一世と俺は高校の同級生で、三年の時はクラスメートだった間柄だ.
しかし今は、大きく立場が異なっている. その理由は——久保の父親が、俺が働いている会社の社長だからだった. **
「何話してるの? 二人だけで。」
五藤が首をかしげると、久保一はすぐさま俺を解放、五藤の隣に座って、爽やかな笑顔で彼女の肩を抱いた.
「なんでもないよ. ここで仁田君に会えて嬉しいなって話をね。」**
「そうなの? そういえば、二人は同じ会社だものね。
すごい偶然ね。」
「そうそう。彼と言えば、高校時代から成績が抜群だっただろう。会社でもすごく優秀で、僕はいつも助けられてばかりだよ。」
「本当、父さんには感謝しないとね。」**
ああ、久保一という男は、昔からこうだった. 外面が抜群にいいので、一見すると優しくて爽やかな優等生.
しかし、その中身は——
「本当、こいつがいるだけで、クラスの空気が悪くなるんだよな。」**
「集団生活ができないやつは、学校に来ない方がいいんじゃないか。」**
「何言った? 」
まるで昨日のことのように、その声まで鮮明に思い出せる. 当時、俺は他人とコミュニケーションを取るのが極端に苦手で、高校では周囲から浮いた存在だった. そんな俺をターゲットにしていたのが、久保一がリーダー格を務める集団.
教師や学級委員の五藤がいない隙を狙っては、俺を囲んで罵倒したり、バカにして笑い合ったりしていたのだった. **
「悔しいか? 誰かに訴えられるものなら、訴えてみろよ. どうせ誰もお前の話なんて聞くはずないだろうけどな。」**
久保一の言葉は、俺の心に深く突き刺さった。「自分の味方なんて、誰もいない。」そんな現実を教えられて、俺はますます自分の殻に閉じこもるようになった.
きっと大学でも同じ思いをするのだろうと考えたら、進学する気にもなれなくて、高校卒業後はすぐに就職. 現在の会社で働き始めると、俺にとって幸運なことがあった. **
「そうか、さぞ今まで行きづらかっただろうな。」**
会社の社長、木下さんが俺に理解を示して、働きやすいように色々と気を配ってくれたのだ. 「へえ、まさか仁田がここで働いてるとはな。」**
「昔のよしみで、首にだけはしないよう、親父に頼んでやるよ.
せいぜい感謝してくれよな、高卒君。」**
それは去年のことだ. 突然会社が別の企業に買収されることが決まった. そして木下社長は退任することになり、新たに社長へ就任したのは、売却元の社長だった久保という人物. そして、新たに同僚となったのが、新社長の一人息子——高校時代の同級生で、俺の心に消えない傷を負わせた、あの久保一だった.
**
久保新社長は、息子の悪い部分だけをパワーアップさせたような性格だった. 息子や元々の部下たち、一部の気に入った社員だけを優遇して、気に入らない社員は徹底的に冷遇. 言うまでもなく、俺は気に入らない社員の方で、いきなり部署を移動させられた挙げ句、社長の取り巻きの一人である部長のもとで「営業部一の無能」「使えないやつ」と毎日言われるようになって、周囲に味方はおらず、俺はまるで高校時代のように、部署で浮いた存在となっているのだった**
「もう聞いたと思うけど、ここにいるあやと僕は、結婚することになったんだよ. 同僚として、同級生として、祝ってくれるよね、仁田君。」**
いつも部長を盾に取りながら、自分も二人きりになると楽しそうに俺を虐めてくる久保一が、五藤の肩を抱いたままにっこりと笑う.
彼と見つめ合った五藤は、恥ずかしそうに頬を染めながら、それでも幸せそうな微笑みを浮かべていて——そんな光景を見せつけられた俺は、すぐに返事をすることができなかった. すると、それが癪に触ったらしい. **
「おい、黙ってんじゃねえよ。」**
「こんなやつと一緒の高校だったなんて、恥ずかしすぎて人生唯一の汚点だよ. **
明日会社であったら覚えとけよ.
一生虐めてやるからな。」
「何言ってるの? 仁田君に。」**
「おっと、冗談だよ、冗談. 会社ではこういうノリだからさ. そろそろ帰ろうか。」
「ちょっと、待って——」
こちらを何度も振り向く五藤を、久保一は半ば強引に連れ去っていった.
**
一人になった俺は、もう周囲の音も耳に入らなくて、大きなショックに包まれながら、二次会の解散まで呆然と座り込んでいたのだった**
散々な終わり方をした同窓会から数日後、まだショックも抜けきらないうちに、俺は五藤と顔を合わせることになった. **
「ごめんね、わざわざ足を運んでもらって、すごく助かったわ。」**
よ、彼女の会社に納品したシステムで不具合があり、その対処を頼まれたのだった. 結果的にトラブル自体は簡単に解決したのだが、問題はその後だった. **
「やっぱり仁田君はすごいわ、とっても頼りになるって、再確認したわ。」
「どうも。」
「えっと、ごめんなさい、あの時は——一生君が——」
俺は当然、思い人の結婚を知ったのと、その相手にショックを受けたのだったが、五藤もまた、初めて聞く婚約者の暴言にショックを受けたらしい.
まだ戸惑っている様子で、いつもの明るさは半分も見られない. 俺も、そんな彼女にどう接していいかわからず、俺たちの間には気まずい空気が流れた. **
「本当にごめんなさい. 普段、あんなことを言う人じゃないのよ、彼は。」**
「だけど、完全な冗談とも聞こえなかったし。」**
「冗談だよ、ただの——本当に、会社でああいうノリがあるんだ。」**
「そうなの?
」
五藤の気分が少しでも晴れればいい——そう思って、俺は彼女に嘘をついた. 普段の久保一は、俺の前ではあんな程度で済まない暴言を吐いているが、それを彼女に知られる必要はない. **
すると、それが功を奏したのか、五藤は安心したのか、少し表情が穏やかになった**. そして、ふいにこちらに向かって両手を合わせてきた.
**
「ねえ、仁田君、こんな頼み事は図々しいかもしれないけど、もっと一生君のことを教えてくれない? 」**
「え? 」
「実は、最近ちょっと悩んでて。」
そう言って、彼女は俺に悩みを打ち明けた. それは、最近お互いに忙しくて、久保一との時間が取れないこと.
デートに誘っても断られてばかりで、婚約者の彼が何を考えているかわからない. だから、だんだん不安になってきたのだと——
「もちろん、彼は以前と変わらず優しいんだけどね. 私が不安な気持ちを打ち明けても、『いずれ社長夫人になるんだから、堂々と構えていればいい』って——そればっかり。」
「私、まだ実感も湧いてないのに。」**
「そんな、そんなやつと、本当に結婚していいのか? 」**
喉元まで出かかった言葉を、必死に呑み込んだ.
それでも結婚を選ぶほど、彼女は久保一のことを愛している. その現実を目の当たりにして、胸にずきっと痛みが走った. **
「きっと、仕事は頑張ってるわよね. いずれ社長になるんだから.
同じ営業部だって聞いたけど、成績は? 」
「あ、うん、まあ、かなり——本当。」
うん、悔しいが、久保一の有能さだけは本物だ. 持ち前のコミュニケーション能力を生かして、毎月トップクラスの営業成績を維持している. だから誰も、彼が持つ裏の顔に気づかないのだった**
「ねえ、それから——えっと、ごめん、そろそろ会社に戻らないと。」
他に、俺が持ち合わせている話といえば、とても彼女には聞かせられないものばかりだ.
できる限り関わりたくないと意識して久保一を避けていたのもあって、答えに困った俺は、その場をそそくさと後にしたのだった**
それでも、好きな女性に頼られたら張り切ってしまうのが男だ. この翌日から、俺は意識して久保一の行動に目を配るようになった. **
「俺への態度はさておき、他の社員に親切な様子でも確認できたら、きっと五藤も安心するだろう。」
と思って——すると、俺はある意味で予想もしていなかった久保一の姿を目撃するのだった. **
「こんなに美人だと、夜道を一人で帰らせるのは心配だな.
今日の帰りは、送っていこうか. そのついでに、どこか二人で——」
その光景を見た時、思わず目を疑った. オフィスの給湯室にいる久保一と、その傍らには今年入社したばかりの女性社員——なんと久保一は、その女性社員の腰に腕を回して体を密着させながら、デートに誘っていたのだ**
「それじゃあ、また後で。」
あ、久保一が出てくる気配がして、俺は慌ててその場を離れた. 心臓はばくばくと、今にも破裂しそうになり続けていて、それでも妙に頭の中は冷静に、五藤の顔を思い浮かべていた.
**
「一体どうしたらいいんだ、これは。」**
できれば自分の見間違いであってほしいと、念のため周囲にそれとなく確認してみたのだが、残念なことに、それは俺の目が確かだったと証明するだけだった. **
「久保一さん、ああ、色々と噂はあるよな。」**
「知らなかったの? 結構評判よ、彼——悪い意味でね. まあ、時期社長だし、みんな表だって言えないというか。」**
誰もが苦い顔をして、「自分が言ったとは内緒にして欲しい」と前置きする久保一の噂——それは、若い女性社員に手当たり次第デートに誘っているというものだった.
もっと酷いことを隠しながらそれ——五藤が思うような善人ではないことは、俺が一番よく知っていたが、それをはるかに上回る加減に、俺は目眩がするほどの怒りに襲われた. **
それでも——
「ねえ、最近どう? 一生君は、最近ますます——なんか、疲れてたりしない? 」**
最低なのは、俺も同じだった.
**
その数日後、いつものように打ち合わせを終えた後、五藤と一緒に昼食を取ることになり、その席で尋ねられて——
「うん、元気だよ. すごく——今は特に、忙しくて。」**
「そうなの. でも、一生君が元気なら、よかった。」**
「ありがとう、君。
うん。」
自分の言葉で彼女の表情が曇るのを見たくなかったから、俺はまたも五藤に嘘をついたのだった. **
そんなある日、ついに俺は我慢の限界を迎えることになる——**
「婚約者?
あっちゃ、どこで聞いたの? それ、」
そんな言葉が廊下から聞こえてきたのは、オフィスに一人残って残業していた時久保一や、予感がして、俺はそっと入口から廊下を覗いた. **
「親が決めたから、結婚するだけだよ、
恋愛感情なんてない. 好きなのは、君だけだよ。」**
「今年で三十の婆さんなんて、女として見れないよ.
なのに、会いたいだの何だのって、毎日うるさいし、
その上、重いんだよな. 鏡見てから言えっつうの。」**
隣にいる若い女性社員の肩を抱きながら、久保一はそんな言葉を吐いた. **婚約者——三十の——五藤. 誰のことを言っているのか、名前が出なくても明白だった.
**
「一生君が元気でよかった。」
そう言って優しく微笑んだ五藤の顔が、脳裏に蘇る. **
「彼女が久保一の身を案じている間、当の久保一は——」**
「ふざけるな。」
俺の存在に全く気づくことなく、久保一は女性社員とさらに体を密着させ、そのロングヘアを優しげな手つきで撫でた. そんな姿にも、俺の怒りは抑えきれないほど高まって——そして、ついに爆発する時が来た. **
「やっぱり、ロングは若い子こそ似合うよ.
五藤が髪を伸ばしていたって、単にだらしなく見えるだけ. 一応会うたびに褒めてやるけど、ただのご機嫌取りだって気づけっつうの. もしかして、まだ自分が若いつもりなのかな? 見てられないよ、痛々しくて。
ああ、あんなのと婚約なんてするんじゃなかった。」**
「ふざけるな。」
思わず廊下に飛び出すと、女性社員は「きゃっ」と悲鳴をあげて逃げていった.
ぎょっとした表情を浮かべる久保一を、俺は胸倉を掴んで、渾身の力で壁に叩きつけた. 「え? て、てめえ——何のつもりだ? 」**
「それはこっちのセリフだ、五藤が一体誰のために——」
あまりの怒りで、自分が何を言いたいのかもわからない.
それでも俺は、久保一を壁に押し付けながら訴えた. **
「五藤が、どれだけ久保一を思っているか——同窓会の後から、彼女が自分に話すのは、いつだって久保一のことばかりだったと. あれほど髪を大事にしているのも、お前に褒められるのが嬉しくて——なのにお前は——」**
しかし、そんな訴えも久保一には全く響かなかった. **
「さっさと話せよ、グズ。
ボタンやシワになっただろうが、このスーツがいくらすると思ってんだ.
高卒ごときの給料じゃ一生縁がない、オーダーメイドだぞ。」**
「たく。」
スーツの襟元を手で払いながら、やれやれと大げさにため息をつく久保一. そして突然、にやりと薄気味悪い笑みを浮かべた**
「ああ、もしかして、欲しいのか、俺の婚約者が。
え、随分楽しそうだったよな、
あやと話してる時のお前. そうか、そうか——
仕事もできないお荷物社員が、一応前に——時期社長の婚約者へ横恋慕か. 意外とやるもんだな、仁田。」**
「ち、違う——
俺は、俺はずっと前から——」**
「まあいいや.
欲しいなら、くれてやるよ——
俺の棄てたものでよかったら. 見た目が少しいいだけの、年増のくせに真面目くさって、一緒にいても息が詰まるだけの女だけどな. お似合いだよ、お前みたいな無能とは。」**
「ああ、そうそう、やっぱり学生時代の成績なんて、社会ではクソの役にも立たないもんな. 高校では常に成績トップで、自分が世界で一番賢いみたいな顔してたお前が、今や高卒の無能サラリーマンとは——
お前なんかを開発部に置いていた前社長も、やっぱり経営の才能ゼロな無能だった.
首にした親父は、大正解だったよ。」**
笑いながら、久保一は上機嫌で去っていった. **
一人残された俺は、その場に立ち尽くしたまま、胸ポケットの中に手をやった——
「よかったよ、これを——思い出して。」**
それから間もなく、俺は五藤の会社の担当を外されることになった. Scrap久保一がにやにやしながら「残念だったな」とわざわざ声をかけに来たところから、おそらく彼の嫌がらせだと検討がついたけれど、そんなことよりも、もう五藤に会えなくなるという事実が、俺の気分を暗くした. **
「そう、残念ね、
仁田君とお仕事をするの、私もすごく楽しかったのに。」**
ああ、寂しそうな五藤の顔を、俺はまともに見ることができなかった.
**
そのまま最後の打ち合わせを淡々と済ませて——
「今までありがとう、仁田君. 結婚式の招待状を送るから、是非仁田君も出席してね。」**
そう言いながらにっこり笑った五藤が、片手を差し出してきた時、俺は抑えていたものが一気に溢れ出した. **
「するな。」**
「え? 」**
「あんなやつと、結婚なんかするな。」
「あいつは、久保一は——最低のクズだ。」**
「え、何言ってるの?
仁田君。」**
慌てる五藤に、俺は全ての事実をぶちまけた. 会社中の若い女性社員と浮気していること. その噂が水面下で広まった結果、すでに大半の社員が久保一に失望し、彼が会社を継ぐ未来を不安に思っていること. 俺が現在久保一に影で嫌がらせを受けていることも——そして、意を決して、俺は先日の件も五藤に打ち明けた.
**
「久保一は、すでに五藤と本気で結婚する気なんてない. だから、あんなやつと結婚なんかしなくていい. このまま結婚したら、君が不幸になるだけだ. そんな君を、俺は絶対に見たくない。」**
そう伝えようとすると、五藤は横に首を振った.
**
「嘘、ひどいわ、仁田君. どうして、そんな嘘——」**
「本当なんだ. 高校時代からずっと、久保一は君が思うような男じゃない. 信じてほしい。」**
「嘘よ,
一生君は、高校の時から真面目でまっすぐで、優しくて——
私、あの頃から彼を見ていたもの,
ずっと好きだったんだから,
仁田君なんかより、ずっと彼のことを分かってる。」**
「五藤——」**
「もう、お帰りください。」**
「それから、二度と私の前に現れないで。」**
顔を真っ赤にして、今にも泣きそうな五藤が、震える手で出入口を指さす.
俺は目の前が真っ暗になりながら、最後の力を振り絞って、胸ポケットから出したあるものをテーブルに置いた. **
「これ、置いていくから。」**
「何それ? ボイスレコーダー? 」**
「そうだ——
中にある音声を聞いてもらえたら、きっと信じてもらえると思う。」**
初めて久保一の浮気を目撃した日、五藤を救いたいと思ったから、すぐさまレコーダーを用意して、わざと久保一の近くをうろついて、女性社員をデートに誘う発言や、俺の他にも気に入らない社員を貶す発言を録音していたのだった.
あの決定的な場面に立ち合ったのは、全くの偶然だったが——
「嘘——」**
声を震わせながら、五藤はレコーダーを手に取った. そして再生ボタンに指をかけて、音声が流れ始めた瞬間——思いきり、床に投げ捨てた. **
「一生君の様子を知りたいって頼んだのは私だけど、
ここまでして欲しいとは、頼んでないわ。」**
頭を抱えて叫んだ拍子に、涙がぽたぽたと床に落ちた. 俺は無言で、床に落ちたレコーダーを拾い上げ、再びテーブルに置くと、そのまま出入口に向かった.
**
「——俺も、見て見ぬふりができなかったから。」**
「え? 」**
「五藤の言葉で救われたから——見て見ぬふりできないって. そんなことを言ってくれるのは、君だけだったから——本当に、すごく嬉しかったんだ。」**
「仁田君——」**
「このまま久保一と結婚して、俺と同じ思いはして欲しくなかったんだ. ごめん、余計なことをして.
さようなら、元気で。」**
その一言と同時に、俺はドアを閉めた. **
「せめて最後は笑顔でと思ったが、うまく笑えていただろうか. 確かなのは、この先当面は心から笑えそうにないということだった。」**
その後、俺の日常はまさにどん底の一言だった. **
「全くやる気がないのは、まだしも——
君はそれすら失っても、会社に来る意味はあるのかい?
仁田君。」**
「すみません、二度とこのようなことは——」**
「いいんだよ、別に——
むしろ、辞めてもらった方がありがたいね,
無能な高卒の代わりなんて、腐るほどいるんだからさ。」**
ああ、仕事は少しも手につかず、今までありえなかったようなミスを連発. 元々折り合いが悪かった部長からはさらに目の敵にされるようになって、一層——本当に会社をやめてしまおうか,そう考えるようになるほど、俺はギリギリの状態まで追い詰められた. **
「二度と会いたくない」という五藤の言葉が、頭から離れなくて——
「そっか、これが失恋か、まだ知らないことがあったんだな. だけど、こんなに苦しいなら、知りたくなかった.
レコーダーを投げ捨てた時、五藤も同じ気持ちだったんだろうか. 今更ながら、自分の行動が正しかったのかどうか——」**
俺がデスクで頭を抱えた、その時だった. **
「仁田さん? 」**
声をかけてきたのは、俺から五藤の会社の担当を引き継いだ同僚だった:**
「どうかしたんですか?
これ、五藤さんがお前に渡してくれって。」**
「え? 」**
同僚が差し出してきたメモ用紙を、俺は信じられない思いで受け取った. そこに書いてあったのは——
「君、あの時はごめんなさい。」**
数日後、メモにあった場所、五藤に指定されたバーに足を運ぶと、すでに彼女が待っていて、俺が隣に座るなり深々と頭を下げてきた. **
「あれから、レコーダーの中身を聞いたの.
とても信じられなかったけど、仁田君が人を陥れる嘘をつく人だとも、冷静になってみたら考えられなくて——うん、すごくショックだった. 本当に、仁田君が言った通りだったから。」**
あれから眠れていないのだろうか,俯く彼女の目元には、はっきりとした隈があった. いつも下ろしているロングヘアは、今日は無造作に後ろでまとめてあって、心なしか最後に会った時より艶がないように見える. それでも、やっぱり綺麗だと思った.
**
「一生君とは、大学も一緒で、彼の方から告白された時は、もう舞い上がるくらい嬉しくて——
その頃にはもう、女癖が悪いって噂は聞いてたのに。」**
「え、信じたくなかったの——ずっと目をそらしてきて——
彼も、たとえ浮気したって、いずれ社長夫人になれるんだから、我慢できるよなって,
それに両親も、早く孫の顔を見たいって言うし——
だから、自分が我慢すればって——うん、これは全部、言い訳だと——」**
五藤は泣きそうな顔で微笑んだ. **
「本当は、長年の思いを捨てるのが怖かったから。
十数年、たった一人だけを見てきて、三十歳を迎えた今更、別の人と恋愛する勇気なんてない. 久保一と婚約して、一人ぼっちで人生を過ごしていくくらいなら、我慢した方がマシだと——それに、やっぱり私、彼を心から嫌いにはなれなかった。」**
涙と一緒に、五藤はそんな本音を吐き出した. そんな彼女に、俺は自分でも予想していなかった言葉をこぼした.
**
「それでも、いい。」**
「え? 」**
「あ、そう——綺麗だよ,
誰が何と言おうと——
すごく綺麗な髪だ,本当に。」**
俺がごまかすように付け足すと、五藤は寂しそうに笑った. **
「ありがとう——やっぱり、褒められると嬉しい。」**
「髪だけじゃなくて、昔からずっと、五藤は綺麗だよ. もちろん、見た目もそうだけど、何よりも、心が優しくて、まっすぐで——そんなところが——」**
「仁田君——」**
俺は、たった一言なのに——「ずっと好きだった」の一言が、どうしても喉の奥から出てこない.
**
「十数年、たった一人だけを見てきたのは、俺だって同じだ——
婚約したって、一人ぼっちじゃない——と彼女に伝えたいのに。」**
とうとう黙り込んでしまった俺を見かねたのか、五藤は話題を変えた. **
「ねえ、一生君のことだけど——他におかしな様子はなかった? 」**
「え? 」**
「実は、以前から妙に羽振りがいいと思ってたの.
会社に——腕時計、オーダーメイドのスーツ——お父さんに買ってもらったって言ってたけど、そのお父さんも、すごく贅沢をしているみたいだし——
失礼だけど、仁田君の会社は——」**
うん、彼女の言う通りだった. 久保社長に買収されて以来、俺の会社は業績が下がりっぱなしにも関わらず、社長と久保一の金遣いはエスカレートする一方だった. それを疑問に思い、五藤は俺に久保一の様子を尋ねることで、それとなく探りを入れていたのだった. **
「止められそうなら、婚約者として彼を止めようと思ったの.
もしかして、何か良くないことをしているんじゃないかって。」**
ああ、不安に表情を曇らせる五藤に、俺は意を決して、彼女に自分が知る真実を打ち明けた. **
「落ち着いて聞いてほしい——実は——」**
それから一ヶ月後——
「会社で臨時の取締役会が開かれるとの情報を受け、俺は会議室に向かった。」**
「それでは、ここにいる息子を副社長に任命するということで——重役たちに向かって、久保社長が採決を取る声が聞こえる。」**
それと同時に、俺は会議室のドアを開けた. **
「失礼します。」**
「うん——お前は、何のようだ,
今は取締役会の最中だぞ、社長。」**
そして、すでに取締役のような顔をした久保一が、同時に声をあげる. 俺は二人に構わず、重役たちの前まで足を進めた.
**
「君は誰だ? 部署は? 」**
軽蔑な顔をする専務に、自分は営業部のただの平社員だと名乗る. そして俺は、彼の前に抱えていた荷物をどさっと置いた.
**
「どうか、副社長任命の前に、ご確認ください——
そこにいる久保一が、そして久保一社長が、取締役にふさわしいのか、分かるはずです。」**
「ま、なんだと? 」**
俺の言葉に、久保一親子は揃って絶句. 重役たちも絶句した後に、顔を見合わせてざわめき始めた. **
俺は荷物を、適当にそれぞれ重役たちへ配っていく.
順番なんて、どうでもいい——なぜなら、全て久保一親子の不正を証明する資料なのだから**
「まず、会社の資金に不審な流れが発見されました. 調査したところ、会社とは無関係な口座へ資金が何度も移されていることがわかりました. 口座の名義はとある企業ですが、それは久保一社長が設立したペーパーカンパニーです。」**
あ、途端に社長の顔は青ざめ、さらに重役たちのざわめきが大きくなる. そんな中で淡々と、俺は資料の内容を読み上げていった.
資金の横領に始まり、取引先からワイロやキックバックの受け取り、経費の水増し請求、その他諸々——社長とその息子という立場をいいことに、久保一親子はやりたい放題していたのだった. **二人の妙な羽振りの良さは、会社を無限に金が湧いてくる貯金箱代わりにしていたからだったのだ**
「それと——業務データにも改ざんの痕跡が見られました. 実際の経営状況は、皆さんが把握されているよりはるかに深刻かと。」**
「黙れ、仁田——」**
汗をだらだらと流す久保一が、俺の胸倉に掴みかかってきた. 思いきり顔を近づけて、大声でまくし立ててくるが、ようやく出てくるのはこの一言だ**
「高卒に、そんなことが分かるはずないだろ、
妄想も大概にしろよ。」**
「行った——」**
「お忙しい取締役の皆さんにご迷惑だ,さっさと出ていけ。」**
「い、一世の言う通りだ、社長命令だ,
その書類を回収して、即刻消えろ,
高卒の無能が。」**
息子の罵倒に、社長も意趣を回復し、俺の肩を力強く突き飛ばした.
大きく後ろによろめく俺——すると、それを背後で受け止めてくれる人物がいた. **
「大丈夫か。」**
振り向くと、そこにいたのは——**
「社長、今はただの木下だよ,
以前と変わらない優しげな笑みを浮かべていたのは、久保社長によってその座を追われた元社長の、木下さんだった。」**
「社員に乱暴はいけませんね、久保さん,
それも——こんなに優秀な社員に向かって。」**
「なんだと? 社長を首になって、頭がおかしくなったか,
負け犬の木下——
そいつは優秀でも何でもない,
単なる高卒の大荷物だ,
だから——はるきを開発部から移動させたのか,
そんなバカな真似をしなければ、ここまで業績が落ちることもなかっただろうに。」**
「何? 」**
軽蔑な顔をする社長を見て、俺と木下さんは頷き合って——なぜ不正の証拠を集めることができたのか、その種明かしをすることにした.
**
「不審な資金の流れ、ワイロやキックバックを要求するメール、重要データの書き換え——
それらは全て、あるシステムによって把握されていたからです。」**
「システム? いや——ある人物が作成した、横領など企業内部で想定される不正を防止するシステムです. 社内のPCを使った不正が起これば、理論上は100%の確率で検知できます. それも、不正をした本人には気づかれることなく。」**
「バカな——そんなものが作れるとしたら、その人物とは天才だな。」**
俺の言葉を嘲笑う社長.
すると木下さんは、はっはっはと大きな笑い声をあげた. **
「何がおかしい? 木下。」**
「バカは、あんただよ——
そんな天才を営業に回して、ミスミス会社のチャンスを潰したんだから。」**
「な、なんだと? 」**
「そのシステムを作ったのは、はるきだ,
ここにいる天才システムエンジニアだよ。」**
え、社長も久保一も、重役たちまで——全員が目を見開いて、俺に視線を集中させた.
**
まるで何かまずいことでもやらかしたようで、俺は苦笑いしながら、かつて木下さんが「天才」と呼んでくれた時のことを思い出していた. **
俺はまだ幼い頃から、全く周囲に馴染めない子供だった. 例えば同年代の子供たちが喜んで遊ぶおもちゃに、俺は全く興味が持てなかった. 彼らと一緒に遊びたいとも、会話したいとも思えない——いつも一人でぽつんと、図鑑などを読んで過ごしていた.
**
そんな息子を「変だ」と思った両親は、俺を病院に連れて行ったのだが、そこで告げられたのは、IQが200近くあるという検査結果だった. **
「いいか、はるき——自分を特別だなんて思うな. いくら頭が良くても、周りとうまくやれないと、社会じゃ生きていけないんだぞ。」**
「IQがどうのこうの、他の子に言っちゃだめよ——
おかしな子だって思われるから。」**
両親は、息子が異常だと認めるのが嫌だったらしい. **「みんなと仲良くしなさい」「周りと同じ行動をしなさい」——そんなことばかり言い聞かせて、俺を「普通の子」して育てたがった.
俺が少しでも子供らしくない言動をすれば、あからさまに嫌な顔をして——外に出れば、周りの誰もが自分よりずっと幼く感じて、どうしても馴染むことができない——こうして、俺は家でも学校でも、孤独な日々を送った. **
やがて高校三年になると、俺は教師の反対を押し切って就職を選んだ. 同年代がダメなら、早く大人たちの社会に入りたい——そうすれば、自分を理解してくれる人と出会えるような気がしたから. そして——俺は出会った.
**
「へえ、独学でプログラミングを——大したもんだな. こりゃ——天才ってやつだ。」**
高校時代、初めて優しくしてくれたのが五藤なら、木下さんは初めて俺を認めてくれた人だ. 彼は採用面接で、たった一人だけ俺の話をまともに聞いてくれた>. そして社員たちの反対を押し切り、俺をSEとして採用してくれたのだった**
「さぞ、今まで行きづらかっただろうな——
そんな中でも頑張ってきたお前は、大したもんだよ、はるき.
ああ、頭がいいのもそうだが、俺はその根性が気に入ったんだよ. お前が会社で行きやすいよう、社長としてできる限りのことをやっていくから、
どうか、はるきらしく、この会社のために頑張ってくれないか? 」**
「はい、頑張ります、社長。」**
人前で泣いたのは、この時が生まれて初めてだった. **
そして木下さんは、約束を守ってくれた.
コミュニケーションが苦手な俺のために、飲み会や親睦会には出席しなくていいという社長命令を出してくれた. また同時に、同僚たちとの仲立ちを率先して引き受けてくれた**社長のおかげで仕事に集中できた俺は、画期的なシステムの開発に次々と成功——その実績から、同僚たちにも認められ始めたところである、一台のプロジェクトに着手した. **それが、企業内の不正を検知するシステムの開発だ. 完成すれば、大きな話題を呼び、会社も飛躍的に成長することは間違いない——そうしていた矢先、会社は買収され、木下さんは社長を退任,俺は「高卒にシステム開発などできるはずがない」という久保新社長の一声で、営業部へ移動するはめになったのだった.
**
「そうか——あれを、自力で完成させたんだな、はるき。」**
考え深そうに、木下さんが俺の肩に手を置く. その手に自分の手を重ねて、俺も頷いて見せた. **
「まだ試作段階ですが——
それに、ここまで来れたのも俺一人の力ではなくて、開発部のみんなが、社長たちに隠れて協力してくれたおかげです。」**
「そうか——みんな——すみません、あと少し早ければ、買収も防げたかもしれないのに。」**
「いいさ——おかげで、誰かさんらが身を持って——お前の才能を証明してくれたな。」**
いつも穏やかだった木下さんが、ぎろりと鋭い目で睨みつける. 「うひっ」——睨みつけられた社長と久保一は、二人とも顔面蒼白で、ほとんど同時に尻餅をついた.
**
そんな二人を、続々と席を立った重役たちが取り囲むと、ふと専務が俺たちの方を振り向いた. **
「君——さらに詳しく話を聞きたい. 頼めるかな? 」**
「はい——木下さんにも、この後の会議に参加していただきます,
どうやら——社長に復帰していただくことになりそうなので。」**
「ああ、もちろんだとも。」**
木下さんが大きく頷くと、社長はついに最後の気力を失って、がっくりと肩を落とした.
**
「親父——」**
そんな父親の姿に、久保一は弱々しく呟いて——**
「すみませんでした——全部、話します。」**
やはり、がっくりと肩を落とすのだった. **
その後、久保一社長の悪事が明るみになり、取締役を解任されたことで、彼のお気に入りだった社員たちは大慌て. その大半が社内で問題を起こしていたため、会社は久保一も含めて彼らを一斉に解雇した. **
「居座っていた久保一派が一掃されたことで、社内は嘘のように風通しが良くなった。」**
俺は、社長に復帰した木下さんの社長命令により、再びシステム開発部で働けることに——同僚たちには温かく迎えられ、また今回の件で専務たちに実力を認められた結果、満場一致でプロジェクトマネージャーに抜擢されるという昇進を果たした.
今は、同僚たちと共に、少しずつ——けれど着実に、会社の業績を回復させつつある最中だ. **
さらにその後、久保一親子は、横領など様々な罪によって、逮捕されることになった. 有罪は確実とのことで、今後は刑務所で罪を償うことになりそうだ. しかし出所後は、会社に対する莫大な賠償金の支払いが待っている.
全ての償いを終えるには、きっと一生に近い時間が必要だろう. **
「まずは、お疲れ様。」
久保一たちの問題に一応の決着がついた後、俺はあのバーで五藤と再開した. カウンターで俺を待っていた彼女は——なんと、ロングヘアを首元でばっさりと切り落としてた. **
「かなり印象が変わったでしょ?
みんなに驚かれるの——何かあったの? って。」**
ああ——婚約者が逮捕されるという、人生を揺るがすような大事件があった後なのに、五藤は妙にすっきりした、一層晴れやかなくらいの表情を浮かべていた. **
その理由は——**
「振ったの——自分から、一世君のこと. え、逮捕される直前に、向こうから会いに来たんだけど——『俺のことが好きなら、前みたいにすがってこい』って——
すがってくる姿を見たら、完全に吹っ切れちゃった.
なんで自分は、こんな人をずっと好きだったんだろうって. 彼より素敵な人なんて、いくらでもいたのにね。」**
え、最後の一言を口にする時、五藤はまっすぐに俺の目を見ていて、俺は三十年間生きてきた中で、一番大きな音を立てて心臓が跳ねた. **
「髪、また伸ばした方がいい? 」**
「え?
——いや、綺麗だよ,
短くても——すごく。」**
「ありがとう——じゃあ、二人ともお疲れ様、ということで、乾杯。」
グラスをかちんと合わせながら、にっこりと嬉しそうに微笑む. その仕草が、その表情が、見とれるほど綺麗で——俺の中で、再びあの気持ちが湧き上がってきた. **
「五藤——あの、ねえ、君——」**
「ん? 」**
「——『それでもいい』って、どういう意味だったの?
」**
「え? 」**
「言ってくれたでしょ? 前にこのバーで——ずっと気になってたの。」**
「あ、そ、それは——」**
「ねえ、教えて。」**
だんだんと、その体が俺の方に寄ってくる. その整った顔が、短くなっても綺麗な髪が、今にも触れそうな距離に迫ってきて——
俺は、ついに白状するしかなかった.
**
「君が——誰を好きでも、俺は多分ずっと、君のことが好きだって——そう言おうとしました,多分——いや、絶対に——」**
「君が他の誰かと結婚しても、いいの? 」**
「嫌だ——しないでほしい——他の誰とも。」**
今度は、自分でも驚くほど素直に、言葉が出た. そして——それを待っていたかのように、ぽたっと俺の手に雫が落ちた. **
「分かった——しない——
私のこともう——苗字で呼ばないなら。」**
「あ、——」
目にいっぱいの涙を溜めて、五藤あやが微笑む.
そして——**
「はるき君。」
初めて、その声で俺の名前を呼んだ. **
だから俺は、その手に自分の手をそっと重ねた. **
「あやさん——俺と——結婚を前提に、付き合ってください。」**
いつか、彼女の傷が完全に癒えたら、その時はちゃんとプロポーズするつもりだ**
「他の誰ともしないで欲しい」ではなくて、「俺と結婚してください」と——きっと彼女も、今のように飛び切りの笑顔で頷いてくれるはずだから. **
どんなものも、そして人も——あるべき場所に置かれてこそ、本来の輝きを放つものだと思う.
どれだけ思っても報われない悲しい恋を、自分で終わらせた女性を、俺は知っている. 今の彼女は、以前よりもっと輝くほどに綺麗だ. それは——俺が、彼女にとってのあるべき場所だったから——
そう信じてもいいだろうか. **
そして俺もまた、自分の力を十分に生かせる場所に戻ることができた.
今は目の前がきらきらと輝くような、とても充実した日々を送っている. そしてこれからも、そんな日々が続いていくなら——俺は出し惜しみすることなく、自分の力を全力で発揮していくつもりだ.