「無能で仕事ができない奴に、ここでの仕事が務まるのかな?この間お前が出したバグの件、部長に言っていいか?」金曜の夕方、オフィスに響いたその一言で、俺の日常は音を立てて崩れた。同期たちがくすくす笑う中、田中部長は「エナジードリンク奢るから深夜メンテやってくれよ、俺らオールだから」と平然と言った。俺は今週すでに3日連続で深夜勤務だった。大学からシステム開発を学び、コツコツ働いてこの春主任になった…

「無能で仕事ができない奴に、ここでの仕事が務まるのかな?この間お前が出したバグの件、部長に言っていいか?」金曜の夕方、オフィスに響いたその一言で、俺の日常は音を立てて崩れた。同期たちがくすくす笑う中、田中部長は「エナジードリンク奢るから深夜メンテやってくれよ、俺らオールだから」と平然と言った。俺は今週すでに3日連続で深夜勤務だった。大学からシステム開発を学び、コツコツ働いてこの春主任になった...

「無能で仕事ができない奴に、ここでの仕事が務まるのかな?この間お前が出したバグの件、部長に言っていいか?」

「ああ、どうぞ。言いたいことをおっしゃってください。俺は無能なので、今日はもうこれで失礼しますね」

俺はカバンを持って立ち上がった。

「おい、どこに行くんだよ。今日もゲームアプリの定期システム更新があるだろう」

「え、それもあなたの担当企業でしょ?俺は無能なので、今から退職届けを出してきますね」

俺の名前は井上正。大学卒業後からソフト制作会社のシステム保守部門で働いている。システム開発が好きで、大学ではコンピュータサイエンスを学んできた。俺の仕事は、顧客に納品したシステムを保守管理することだ。バグがあれば修正し、データを更新する。顧客から依頼があれば、システムのバージョンアップも引き受ける。コツコツと仕事をしてきたおかげで、この春から主任として働くようになった。同僚の中では一番の出世頭と言われている。

「え、今日時間ある?」

この人は同じ部門で働く田中だ。俺は主任だが、田中は直属の上司である部長級の役割を担っている。田中の後ろには何人か同期の奴らがいる。てっきり飲み会の誘いかと思った。

「あのさ、顧客の定期更新って今日の深夜に入ってるんだよね」

「ああ、あのクリニックさんのシステムメンテですね」

「でさ、今日これから予定が入っちまって、俺ら残れないんだよね。だからさ、井上、深夜の定期更新やってて欲しいんだけど、いいかな」

「この間もそう言って皆で帰りましたよね。深夜勤務は結構辛いんですよ。今週に入ってもう3日も深夜勤務入ってますよ」

「ああ、エナジードリンクプレゼントするわ。今日は金曜日だから、俺らも深夜勤務するからさ」

「え、なんておっしゃいました?」

「オールだよ。深夜勤務のオールナイト。飲み放題の居酒屋にカラオケでオールだよ。それに始発が出るまで漫画喫茶で時間潰すんだよ」

田中の後ろにいる同期たちがくすくす笑っている。そういうことか。彼女とのデートと言うんだったら喜んで代わってやったんですけどね。揃いも揃って、しかもおっさんたちの飲みなんて無益で苦しい集まりだ。こちらから願い下げだよ。

俺がそう口答えすると、田中がむっとして怒鳴りつけてくる。

「おい、なんだよその言い方。俺が割増金が発生する深夜勤務の仕事を振ってやってるんじゃないか」

「そんなお気遣いありませんよ。割増賃金をもらって喜ぶほど収入に困っていませんしね」

そこまで言った時に、坂の部長がフロアに入ってきたので、田中や他の連中はそそくさと自席に戻っていった。坂の部長は、かつて部下が過労死した過去を持っているため、残業や深夜勤務には大変うるさい。実は俺はすでに今週に入って3日もシステム保守で深夜勤務の申請を行っており、坂の部長に「大丈夫かね」と言われてしまっている。そのため、これ以上の深夜勤務は認められないだろう。

だから俺は先に坂の部長に残業申請書を出しておき、「井上君以外にも保守ができる者は他にいるだろう」という下りが来るのを待っていた。もちろん坂の部長は顔を真っ赤にして怒った。

「部長君の担当顧客だろう。君が責任を持ってメンテナンスを行うべきだろう」

「すみません。妻がインフルエンザにかかっておりまして、嫁さんも看病で参っているので早めに帰りたいんです」

よく嘘がすらすらと出てくるものだと感心するほどだ。さっきまで今夜は金曜だから飲み会でオールすると騒いでたくせに。

「あ、井上、なんか言ったか?」

「いいえ」

ぎろりと睨む田中から目をそらして俺は言った。そんな嘘を言っても、多分坂の部長はお見通しなのだろう。坂の部長は俺以外の社員を深夜の定期メンテナンス要員に指名していた。でも、そんなことは全く無意味だったのだ。俺以外のメンバーたちはメールなどで示し合わせて、17時20分の終業ベルと同時に全員が退勤してしまったのだ。メンテナンス要員に指名された社員は「トイレ行ってくる」と言ったままオフィスに帰ってこなかった。

「しょうがない。やりますかね」

「変わってやりたいが、私も他の案件を抱えててね。深夜勤務は一緒だから、後で牛丼でも出前して一緒に食べよう」

俺はこうなることはなんとなく分かっていたので、した準備は事前に済ませていた。メンテナンスは30分の予定で、相手先のIT担当者とリモートで行う。そんなに難しくないメンテナンスと更新作業だから、全く問題なかった。しかし、その後挙動が不安定になっていないか、バグが出ていないかを確認するために、3時間程度は見守りが必要になる。もちろんこちらも問題はなく、デリバリーの牛丼を食べながら深夜4時に作業を終えた。これよりも、欲張りの坂の部長がどういった態度に出るのかを考えただけで、数字がぞっとした。

そして月曜日、俺が少し早めに出社したところ、すでに田中部長他数名がオフィスにいた。若手社員は慣例でデスクの掃除を行っている。

「無能で仕事ができない。井上君、仕事が遅いから今日は早く来たのか」

俺はこの人たちを無視することにした。多分だが、後になって部長も深夜勤務で作業を行っていたことを知って探りに来たのではないかと思われる。金曜日に俺の代わりにメンテナンスを命じられた社員は、次の日の早朝、坂の部長から「随分長いトイレのようだが大丈夫かね」と電話が来たという。

「無能で仕事ができない奴に、ここでの仕事が務まるのかな?この間お前が出したバグの件、部長に言っていいか?」

「ああ、どうぞ。あなたがプログラミングしたシステムの挙動が不安定だったので確認したら、システムが暴走しただけの話であって、あなたがそれを水面下で直そうとしただけの話ですから。そんなのログを撮ればバレる話でしょう」

「お前、無能のくせに言い訳が一丁前なんだな」

「どうぞ。言いたいことをおっしゃってください。俺は無能なので、今日はもうこれで失礼しますね」

俺はカバンを持って立ち上がった。

「おい、どこに行くんだよ。今日もゲームアプリの定期システム更新があるだろ」

「え、それもあなたの担当企業でしょ?俺は無能なので、今から退職届けを出してきますね」

「おいおい、ちょっと待て。なんで無能が退職届けを出しに行くんだよ」

「当たり前じゃないですか。社員全員の前で無能呼ばわりされたら、愛社精神は愚か、仕事に対するモチベーションはなくなりますよ」

俺はそのまま坂の部長がいる別室へ向かった。転職に関しては前々から考えていたのだ。IT業界の転職に強い転職エージェントに登録をして、いくつかオファーを受けていたのだった。気になる企業からディレクター採用の案件があったので、転職しようと思っていたのだ。

「先日の件で突然すみません」

俺はあらかじめ作っておいた退職届けを出す。

「おいおい、気持ちは分かるが、退職届けを出すのは君の方じゃないだろう。それに君のスキルはうちの会社にとって手放すのが惜しいよ」

そう言ってくれるのは嬉しいんですけどね。俺は、度重なる深夜勤務の理由や部長である田中の言動について、金曜日のメンテナンスの待機時間中に坂の部長に洗いざらい話をしていた。別室で仕事をしている坂の部長は、この状況が見えていなかったと頭を下げた。

「気持ちは分かるんだが、君にはもう少しこの会社で頑張ってほしい。正確で誠実な仕事ぶりは取引先に好評なんだよ」

「でも、そろそろ視野を広げてみたいんです」

俺は坂の部長に改めて退職届けを差し出した。

あれから2週間が経過した。

「おい、井上。井上じゃないか」

俺が声のする方を振り向くと、そこには田中部長が立っていた。

「お前、退職届けを出しに行くって言ってたけど、まだ会社にいるんだね」

にやにやしながら俺の方を見た。

「はい。坂の部長に相談をして、部署移動をいたしました」

俺は1枚の名刺を差し出す。

「経理部 主任 井上正」

「経理部って、お前、経理に移動したのか?」

「ええ、そうですが、何か」

俺は坂の部長の計らいで経理部に移動したのだ。経理に関する資格も持っていたので、そのスキルを利用して部署移動をしたのだ。本当は会社をやめたかったのだが。

「あんなに会社を辞めるって格好つけておいて、この様かよ。やっぱ無能は違うよな」

そう言って田中部長はエレベーターに乗り込んだ。この人は本当にダメな人だなと息をついた。

俺は経理部で、各部署から回ってきた請求書と経理伝票を突き合わせて処理する仕事を行っている。不備があれば返却し、修正を依頼し、却下することもある。

「ああ、これダメなやつじゃん」

以前の経理担当者が持病の悪化で退職することとなり、席が1つ空いていたというのも一つの理由だ。その前任者が放置していた経理伝票の山を整理していた時に出てきたのが、9月の金曜日に田中部長が開催したオール飲み会の領収書だった。接待費として処理するよう求められているが、参加人数や接待した相手会社に関して若干の疑問点が残った。相手会社の出席者は、あの日メンテナンスを行った会社の人で、俺とリモートで朝方の4時まで一緒に作業を行っていた。子供の病気でメンテナンスができないと帰った田中部長の他に、トイレに行ったきりメンテナンスに携わらなかったあの社員の名前も記載されている。俺は坂の部長に経理伝票と領収書を返却した。あとは坂の部長がなんとかしてくれるだろう。

その2時間後には、田中部長が怒りの内線電話をかけてきた。

「部長決裁があるだろう。なんで返却なんだよ」

「申し訳ありませんね。リモートメンテナンスで、私はその方と朝方4時までご一緒しておりましたし。それに、あなた方が業務を妨害されたことを裏付ける書類じゃないですか。そのため、IT部の部長へ報告させていただきました。経理部としても、内部監査で追求されることを避けるために返却しました」

「黙って処理してくれたら良かったものを」

「俺は無能なので、そういった融通はできないんですよ」

そう言って電話を切った。部長と俺によって、接待でも何でもないただの飲み会であることが証明できる状況だ。接待相手は俺と仕事をしていたことも証明できる。これを容認できるほど俺はちゃらんぽらんな社員ではない。この一件で、俺に対するハラスメント行為が浮き彫りとなる。

田中部長は、業務命令をしなかった社員をはじめとする飲み会の参加者全員が何らかの処分を受けた。田中部長なんて、会社を解雇されなかっただけ良かったような処分内容だ。その処分内容はIT部だけではなく、支店営業所を含む全社員へ告知されることとなった。居場所を失い、退職届けを出さざるを得ないような周知になるはずだ。処分を受けた何人かは傷口が浅いうちに転職した。しかし、降格のため役職を失った田中さんは会社を退職せずに残った。田中は転職に失敗したと誰もが察したと思われる。

その事件から2ヶ月ほど経過した頃だった。デスクの上が荒らされ、領収書やら経理伝票やらが散らばっている。通常、各部署のオフィスは常時施錠がなされており、社員が1人1枚ずつ持っている警備会社のセキュリティカードがなければ入室できない。犯人が社員であることは間違いがなかった。

誰がこんなことを。でも、よく見てみるとなんか見覚えがない領収書なども混じっている。俺は直感を信じて、とあるところへ内線電話をかけた。そして経理部の社員が手分けしてデスクの上に散乱した書類を片付けている時、1人の男性が経理部のオフィスに入り込んでくる。部長でも何でもなくなったIT部の田中だった。

「田中さん」

「おい、聞いたぞ。経理部では経理伝票の一部を却下して仕事を渋ってるって」

「田中さん、なんかおっしゃってることの意味が分からないんですけど」

「他部署から回ってきた経理伝票をなんとか却下して拒否してるって話じゃねえか」

「そんなことありませんよ。不備があった伝票に関してはお返ししていますけどね」

「ほら、じゃあこれは何なんだよ」

田中は一度綺麗に片付けたデスクの上の書類を再びばらまく。経理部の社員たちは「あっ」と言いながら、再び散乱する書類を見守っている。

「お前の机の中から出てきたこの領収書の中身は何なんだ?お前、俺に何の恨みがあるんだよ。ふざけんなよ」

一人で怒りをぶちまけている田中がとても滑稽に見えた。女性社員がくすっと笑い出すのを、俺が制する。

「田中さん、経理伝票がない領収書については処理できませんし、3万円以上の出勤は経理伝票と部長決済が付いた報告書が必要です。あなたが持ち込んだ領収書は全てそれがない状態なんですよ」

俺はばらまかれた領収書を改めて片付け始めた。

「それに、これなんか3ヶ月前の領収書だ。請求期限切れで処理してもらえないじゃないか」

「井上、全部お前のせいだ。お前が処理しなかったのが悪いんだろうが」

「それはあなたが出勤依頼の伝票を作らなかったからじゃないですか」

そんな時に坂の部長が経理部にやってきた。

「あの件は大体把握したよ。最近は部長の決済の後で私が書類を精査するようにしているんだ」

新部長が就任してから、経理伝票に関して厳しく処理をするようになったという。元経理部で仕事をしてきた坂の部長が俺に笑いながら言った。

「ああ、井上君には防犯カメラがついてるんだよ。侵入者が誰か警備部に行って確認してきたよ。なんだ、田中君の自作自演だったんじゃないかってことが分かってね」

「防犯カメラ」

田中ががくがく震え出す。自分が何をしたのかようやく気づいたらしい。

「それに、これを経理部で何もしていないと言いはるんでしたら、経理伝票の控えを持ってきてもらえますか?」

田中は完全に負けを認めたらしい。ここで坂の部長が俺に耳打ちした。

「防犯カメラでオフィスで働く社員の監視なんてできるわけないじゃないですか。本当はオフィス内のカメラではなく、通路の防犯カメラの映像ですがね」

坂の部長はにやりとほくそ笑んだ。この人も策士だなと、俺は心底感心した。

坂の部長は田中を経理部から引きずり出そうとした。

「事情を聞かせてもらえるかな」

「あ、あの、待ってください」

どうして田中さんは俺のことを攻撃対象にしたのでしょうか。

「攻撃対象っていうか、そういうとこだよ。真面目に誰にも媚びずに仕事して、IT部では部長って俺の立場が危うかったんだよ。役職を奪われそうだと」

田中が静かに頷いた。

「言葉は悪いですが、それって田中さん自身が自分は無能だって気づいていたからじゃないですか」

目に涙を浮かべながら、田中はこちらを睨んだ。悔しかったのだろう。

「それに、処分を受けながらもこの会社に残っていた理由って」

そこに触れるのはやめておけ。転職活動をしたけれど、どの会社も最終面接にたどり着くことがなかったんだよ。これも本当のことだったらしい。田中は膝を折って座り込んでしまった。ここで無能なのは他でもない自分という思いが生まれてしまったようだ。だんだん気持ちが弱っていくと、人間はとんでもない行動に出てしまう。その結果、今回の領収書まき散らし事件に発展したようだ。

田中さんは部長時代、これまでも架空の接待案件をでっち上げて飲み会代金を不正に請求していたようだった。自分が決裁者だったのをいいことに、社員たちに飲み代を奢っていたようだった。社員たちは全員が田中の奢りだと思い込んでいた。不正に飲み代を得ていたとは誰も思っていない。「太っ腹な部長」という印象が出来上がり、みんな部長についていった。田中さんが「井上正は無能だ」と言えば、部下たちは「はい、そうです」と同調する。結果的に俺は貶められ、田中さんが気持ちよくなるという仕組みだった。俺に深夜勤務を押し付けた件も明るみに出て、部長から降格させられたら、そんなマジックも使えなくなった。部下たちはみんな離れていき、信頼できる部下は転職してしまった。「はい、そうです」と言ってもらえたあの頃に戻りたくて、今回の事件に至ったらしい。

前回は降格という甘大な処分だったため、上層部だって2度目は優しい顔はできない。田中さんは諭旨解雇処分となってしまった。

「どうしても辞めるのかい」

「ええ、俺は経理の仕事も好きですが、やはり以前のようなアプリの開発や保守の仕事の方が性に合ってますよ」

一時流されかけていた転職先だった。今回田中が解雇になったことで、IT部へ戻ることもできただろう。しかし、イエスマン集団があの職場には戻ろうとは思えなかった。

俺は転職活動を再開し、いい条件で迎えてくれる会社へ入社する。田中を反面教師と位置づけ、自分のしたい仕事を誠実にまっすぐ続けていこうと思った。

Thumbnail