「あの、この間の『結婚しよう』って話、あれは冗談ですよね?」
「ああ、ごめんなさい。冗談よ。そっちだって、いきなりそんなこと言われたら困るでしょ?」
幸恵さんは「忘れて」と言った。でも、俺は流されることなく食い下がった。
「俺は幸恵さんと結婚したいです」
正直、絶対に断られると思った。だが彼女は予想に反して、静かに頷いた。
「いいわよ」
「いいんですか?」
「ええ。あなたとなら、なんだかうまくやっていけるような気がするから」
「わかりました。よろしくお願いします」
「こちらこそ」
こうして俺たちは握手を交わした。そして、妙な発端の交際がスタートしたわけである。
俺はさと申す中小企業のサラリーマンとして働いている。そんな俺が派遣社員のミキと知り合ったのは、職場でのことだった。学生時代にも何人かの女性と交際したが、ミキは実にエネルギッシュで、性格も明るかった。人を引っ張るような力を秘めた女性だったと思う。
ミキとの日々は、実に素晴らしいものだった。世の中のすべてがキラキラと光り輝いているような感覚さえ、俺は覚えてしまった。
きっと俺はこの人と結婚するんだろうな。俺はいつからか、そんな風に思うようになったし、その前提で日々を送っていた。今の会社で引き続き頑張り、実績を上げて給料と立場もアップさせ、ミキには専業主婦になってもらった上で、さらなる高みを目指す。そしてやがては子供も——そんな風に真剣に考えていた次第である。
しかし、予想外のことが起きてしまう。交際を始めた俺たちは早いペースで関係を深めていったが、一年ほど経った頃、ミキの様子がどうもおかしくなったのだ。目を合わせてくれないし、何かあっても「忙しいから」の一点張り。一体何があったのか。
俺は困惑したし、試案も巡らせた。だが、ある日とんでもないものを目撃してしまう。
。あ、上司の山野さんとミキが、親密そうに歩いている様子だ。俺は愕然とした。そして、ミキが俺から山野さんに鞍替えしたという事実を突きつけられる。
目を合わせてくれなくなったり、何があっても「忙しいから」って済まされるようになった時点で、俺は何が起きているか薄々気づいてはいた。だが、そんなはずはないと自分に言い聞かせて日々を送っていたのだ。しかし現実は違った。悪い予感は的中し、考え得る最悪の事態が、現実に起きてしまった。
はあ……
うちのめされた俺は、居酒屋に逃げ込んで酒に溺れた।正直、もう飲まないとやっていられなかった。酒というものは、こういう時のためにあるのだとさえ感じてしまった。
隣から「あなた、人を見る目がないようね」という声が聞こえてきたのは、そんな時である。本当に突然、声をかけられたのだ。「あなたは、うわっ、つらだけしか見なかった結果がこれ。つまり、あなたは本気の恋愛をしていなかったのよ」
俺が視線を向けた先には、そんな風に語るメガネをかけた女性がいた。
「そんなことありませんよ。俺は俺なりに、ちゃんと恋愛をやっていたつもりです」
「どうだか」
雪恵と名乗った女性は、そんな風に言いつつも、
「あなたって、まっすぐなのね。そういう人、好きよ」
と言ってくれた。
そして、こう続けたのだ。
「そうだ。私で試してみない?私はあなたと結婚して、夫になるのよ」
何を言っているんだ?俺は素直にそう思ったし、こいつは頭がおかしいとも思った。だが同時に、この人ってなんだか面白い、とも感じる。
「これ、私の名刺。気に入ったら、明日もここで」
「どうも」
幸恵さんは名刺を置いて立ち去っていくが、俺はそれを見て驚愕する。そこには、有名企業の名前と、社長の肩書きも記されているではないか。こんなことがあるのかよ……
俺はひどく困惑しながらも、翌日、同じ店に足を運んだ。もちろん同じ時間である。あ、いた。幸恵さんは確かに同じ席に腰かけていた。だが昨日とは格好がまるで違う。昨日は地味なスーツ姿だったが、今日はパーティーにでも参加しそうな立ち姿である。
「あの……」
俺は恐る恐る声をかける。多分彼女なのだろうが、その確証が持てず、どうにもばつが悪い。
「ほら、やっぱりウワッ、つらだけしか見てない」
振り向いた幸恵さんは苦笑する。
「女っていう生き物は、髪型と服装で見た目なんてすぐに変えられる。でも心の中は変わらないわ。昨日の私も、今日の私もね」
なるほど。女性というものはすごいと俺は思った。そして、俺はミキについて何も知らなかったんだな、とも思い知らされた。多分、幸恵さんが言うように、つらしか知らなかったのかもしれない。
「さ、飲みましょう」
「え、ええ」
こうして俺たちは酒を酌み交わした。幸恵さんは美人だが、気取ることもなく、話しやすい空気を作ってくれた。
「そんなにお綺麗だと、寄ってくる男も一人や二人じゃないでしょう」
だから俺はぶしつけにも、そんな風に質問する。すると幸恵さんは「まあね」と返してくれた。
「取引先の会社のお偉いさんから、何度も何度も『付き合おう』って言われてるのよ。悪い人じゃないし、スペックも高いんだけど、どうにも自分の年収やキャリアを自慢してくるのが嫌でね」
幸恵さんだって相当なハイスペックだが、それゆえに面倒も多そうだ。俺にとっては正直、雲の上の出来事にしか見えない。ただ、幸恵さんは今この瞬間、確かに俺の前に腰かけている。
この人ともっと話したい。この人のことをもっと知りたい——
いつの間にか、俺はそんな風にさえ感じるようになっていた।
あの、この間の「結婚しよう」っていうの、あれは冗談ですよね。
「あの話?」
「ああ、ごめんなさい。冗談よ。そっちだって、いきなりそんなこと言われたら困るでしょ?」
幸恵さんは「忘れて」と言ったが、俺は流されることなく、食い下がる。
「俺は幸恵さんと結婚したいです」
「え……?」
絶対に断られると思った。だが彼女は予想に反して、頷いてくれた。
「いいわよ」
「いいんですか?」
「ええ。あなたとなら、なんだかうまくやっていけるような気がするから」
「わかりました。よろしくお願いします」
「こちらこそ」
こうして俺たちは握手を交わす。そして、妙な発端の交際がスタートしたわけである。
幸恵さんは社長ゆえに多忙だから、俺の方が早く仕事が終わり、彼女を待ってからデートすることが多かった。
「ごめんなさい。待たせちゃったわね」
「いえいえ」
「お年寄りって、大事にしすぎることはないのよ。どれだけ見張ってても、どれだけスタッフがケアを頑張っても、人生の先輩たちに報いるには足りないわ」
話を聞いている限り、幸恵さんは社長という立場を利用するような人ではなかった。自分から率先して現場に出て、スタッフからの信頼や人望にもなかなかのものがある。すごい人だな。正直、こんな人には生まれて初めて出会った。
だから俺は彼女を心から尊敬したし、より強く好きだと思うようにもなった。
「幸恵さんは、本当にすごいと思います」
「そんなことないわよ。でも、理由を聞かせてもらえる?」
「えっと……」
俺は素直に答えた。社長というのは偉そうな態度や印象なのに、幸恵さんからはそれが感じられない。加えて美人なのに、全く気取ってもいない。そんな人、なかなかいないよ——。それらすべてを素直に答えたのだ。
「なるほどね……別に意識はしてないけど、そう言ってもらえると嬉しいわ。ありがとう」
そんな風に返してくる幸恵さん。俺はその一挙一動から、俺に対する愛情を強く感じていた。今まで付き合ってきた女性はみんな笑顔こそ向けてはくれたが、愛情までは向けてくれなかった。だが、今は違う。俺はますます彼女を好きになったし、より深い繋がりを持ちたいと考えるようにもなった。こんな気持ちにさせられた女性は初めてだ。
ある日のことだ。俺たちは新しくできたレストランで食事をすることになった。楽しい時間。どこまでも続くはずの会話——
あ、そんな時、俺は刺さる視線を感じた。その方向を見てみると、そこには山野さんの姿。これが、ミキを奪った男である。しかも今日は、ミキではない女性と一緒だ。
「いや、器遇だなあ」
その女性がトイレに立つや、山野さんは俺たちのテーブルに近づいてきた。どこまでも馴れ馴れしい表情と動作で、自分が何をしたのか全く理解していない様子だ。
「仕事の解消かな?こんなこともあるんですね」
山野は媚びるような表情だが、幸恵さんは対照的に渋い顔をしている。「取引先の関係者とやら」は、どうやら山野さんのことらしい。
こんなことがあるのかよ。
「私も今日は、仕事の打ち合わせなんですが」
そして俺は思う——嘘をつくなよ。あんな若い女と仕事の打ち合わせなんて行うはずがない。
「そうだ。一つ忠告しておこう」
幸恵さんからの鋭い視線を気にすることなく、山野さんは再度俺を見る。
「プライドの高い女には気をつけろよ。女のプライドが低ければ低いほどいいんだ。理由?そんなの、扱いやすいからに決まってるだろう」
くだらない。俺は心からそう思った。こんな奴にミキを奪われたこと。こんな奴に奪われたミキのこと——どちらも、心底どうでもいいと思い始めてきた。
ただ、せっかくのデートが台無しになったのは事実だ。つい先ほどまでの楽しい空気は、今やどこにもない状態である。
「あの人、俺の彼女を奪った人なんです」
「あら、そうだったのね」
幸恵さんは困惑しながらも、
「でも、奪い返すチャンスじゃない?抑えるとか」
と案を出してくれる。だが俺は、そんなことをするつもりは毛頭なかった。
「奪い返すとか、そういうのはいいです。でも、あいつが幸恵さんを侮辱した時、俺は何も言えなかった……すみません」
「そうよね……」
彼女は息を呑んだ。そして、静かに言った。
「実を言うと、私も、あなたやあなたが大切にしていた人を馬鹿にされるのは、耐えられなかった」
ここにいたって、俺は切り出す。
「幸恵さん——俺は、幸恵さんのことが好きです」
辛い過去と決別するために。
この後、俺たちはさらに一年ほど交際してから、結ばれた。
今は本当に、幸せな毎日を送っている。
