あの日の恐怖は、今思い出しても背筋が凍る。夫の姉である義姉が、台所の包丁を手に取り、笑みを浮かべながら私に向けたのだから。 いや、正確に言えば、彼女が向けたのは私ではなく、まな板の上の青ねぎだった。「お昼、そうめんにするつもりだったんでしょ? こっちは私がやっとくから、あなたは部屋の片付けでもしてなさいよ。んな汚い部屋でご飯食べたくないんだから」 そう言って、義姉は手際よく薬味を切り始めた。私はただ、その場に立ち竦むことしかできなかった。 あの日の朝、夫の大輔は、私の作った朝食も食べずに家を出ていった。前日の夜、私たちは大喧嘩をした。大輔は私を罵った。「お前なんか専業主婦失格だ。家は汚い。料理にも乾く。あげく子供は夜中ずっと泣いている。子供を教育し支え、家を守るのが女の役目だろう。どうしてそんな簡単なこともできないんだ」 そして最後に、こう言ったのだ。「もう我慢の限界だ。こうなったら、俺にも考えがある」 その「考え」が、義姉を呼び寄せることだったとは、私はその時まだ知る由もなかった。 私の名前は半田直子。どこにでもいる普通の専業主婦だ。夫の大輔とは、以前同じ会社で働いていた。部署は違ったが、飲み会で知り合い、数年交際した後に結婚した。第一子が生まれた時、私は育児休暇を取ることになった。 実は、仕事を辞めるつもりはなかった。仕事も好きだったし、子供が一人なら、共働きでもなんとか育てていけると思っていた。会社も理解を示してくれたし、育休から復帰するつもりでいた。 しかし、その育休中に、私は再び妊娠してしまった。しかも、双子だった。復帰どころか、気がつけば私は三人の母になっていた。 長男の育児に加え、双子の妊娠は、想像を絶するほど過酷だった。そして、夫の大輔から、こう切り出された。「さすがに小さい子を三人も抱えて、共働きは難しいだろう。俺がお前のことを養うし、育児や家事も、困ったら俺も助けるからさ」 彼の言っていることは、もっともだと思った。三人の子供の面倒を見ながら働くのは、現実的ではない。私も仕事には思い入れがあったが、子供たちに辛い思いをさせるくらいなら、と思い、泣く泣く会社を辞める決断をした。 しかし、それは間違いだった。 実際は、毎日が戦場だった。一人をあやせば、下の子たちが泣き出す。下の子たちをあやせば、今度は長男がぐずる。特に双子は、寝る時も泣く時もお腹が空く時も、まるでシンクロするかのように一緒に騒ぎ出す。何をするにも、時間も労力も倍かかった。 そんな私の現状を見て、夫は一切手伝おうとはしなかった。決して手伝わなかった。「シャツのシワをちゃんと伸ばせ」「ご飯の量が少ない」「もっと栄養バランスを考えろ」「部屋をちゃんと片付けろ」「子供が泣いてるぞ。早くあやしに行け」 言うのは文句ばかり。私は、夫に子育てや家事を手伝ってもらうなんて、夢のまた夢だった。 そんなある日、私は子供たちを昼寝させているうちに、自分まで眠ってしまっていた。最近の睡眠不足がたたったのだろう、かなりの爆睡だったと思う。しかし、スマホの着信音が何度も鳴り、私は無理やり目を覚ました。見ると、夫からの電話だった。 私はため息をついた。大抵こういう時は、「飲みに行くから飯はいらない」というパターンだ。そう思いながら電話に出ると、夫は予想に反することを言った。「今日、部下を連れて帰るから、晩御飯は一人分多く作ってくれ」 突然のことに、私は怒りさえ覚えた。せめて前もって言ってくれれば、もっと準備ができたのに。しかし、子供を三人抱えている身としては、文句を言っている暇もない。私は急いで冷蔵庫を漁り、あり合わせの材料で料理を作り始めた。味噌汁に炒め物、残り物で作ったにしては、よく頑張った方だと思う。 夫が連れて帰ってきた部下は、林という若い男だった。私は彼と一応の面識があった。私が会社を辞める間際に入社してきたため、勤務期間が少しだけ被っていたのだ。ただ、一緒に仕事をしたことはないし、会話も挨拶程度しかしたことがなかった。 私は正直、この林という男が少し苦手だった。よく言えば真面目で大人しい、だが悪く言えば暗くて不気味な印象だった。実際、食事中も彼はほとんど言葉を発さず、夫が一方的に喋り続けていた。 それでも何とか、無事に食事会を乗り切ることができたと思っていた。しかし、夫はそう思っていなかったようだ。林が帰った途端、夫は私を怒鳴りつけた。「直子、俺に恥をかかせる気かよ」 「部屋が片付いていないのはいつものことだが、特に料理がひどかったぞ」。部下がやってくると聞いたら、もっとまともな料理を作るだろうが」「なんだ、あの残り物で作りました、みたいな料理は。お前のせいで、俺が部下から舐められたらどうするつもりなんだ」 これには、さすがの私もカチンと来た。「はいはい、私が悪い妻で悪うございました」「そうね、出前でも取ればよかったかしら。で、そのお金はどこから出てくるの? 家族五人、あなたの給料で暮らすのが精一杯じゃない」「そもそも、あなたの給料って、私が働いていた時よりも安いのよ」「それなのに、お寿司ですって? そんな余裕、この家にはないわよ」「そんなに体裁を気にするなら、嫁や子供に文句を言われるくらい、お金を稼いできなさいよ」 私が叫ぶように言い返すと、子供たちが泣き出した。しまった、と思ったが、もう遅い。私は子供たちをあやしに、その場を離れた。 夫は、私に言われたことが恥ずかしかったのか、顔を真っ赤にして怒鳴っていたが、やがてこう言い放った。「なんだよ、全部俺が悪いってのかよ」「誰のおかげで生きていけると思ってるんだ」「このままじゃ、快適な生活は送れないぞ」「お前がそんな態度で来るなら、俺に考えがある。覚悟しておけ」 そう言って、夫は寝室へと逃げ込んだ。そして翌日、夫の姉が家にやって来たのだ。 義姉の名は、洋子。夫の姉で、学生時代はヤンキーだったらしい、曰く付きの人物だ。態度や口調は高圧的で、私はずっと彼女が苦手だった。「大輔から連絡が来てさ、直子の根性を叩き直せって言われたから来た」 私は学然とした。夫は何を考えているのだろう。よりによって、姉を呼びつけるなんて。間違いなく、とんでもないことが始まろうとしている。 義姉は、私の様子など気にも留めず、家の中に上がり込むと、部屋を見渡して言った。「確かに、綺麗とは言えない部屋ね」「ここで暮らすのは、精神的にも良くなさそう」 そう言うと、次は台所へと向かった。そして、包丁を手に取った、その瞬間、私は恐怖のあまり、声を出すこともできなくなった。 根性を叩き直す、とは、まさか肉体的に痛めつけるつもりなのか、と私は思った。しかし、次の瞬間、義姉が振り下ろした包丁は、まな板の上の青ねぎを叩いていた。「お昼そうめん、作るつもりだったんでしょ?

」「こっちは私がやっとくから、あなたは部屋の片付けでもしてなさいよ」 義姉は、そう言って手際よく薬味を切り、そうめんを茹で始めた。 私は、呆然としながらも、言われた通りに部屋の片付けを始めた。そして、昼食を食べ終わると、今度は義姉は慣れた手つきで掃除をし始めた。洗濯や整理整頓など、住人である私がやるべきことは私にやらせ、その間は子供たちの面倒を見てくれたのだ。 義姉には小学生の子供が二人いるため、子供の扱いには慣れているらしかった。そんな様子を見て、私はようやく気づいた。義姉は、私を手伝いに来てくれたのだと。「根性を叩き直す」という言葉に、すっかり怖気づいてしまっていたが、そういうことだったのか。 義姉が帰る際、私はお礼を言った。「今日はわざわざ来てくれて、ありがとうございます」「おかげ様で、久しぶりに快適に過ごせそうです」 すると義姉は、フン、と鼻を鳴らした。「別に、お礼を言われるようなことはしてないわよ」「子供の面倒を見るのは、大人の責任でしょ」「それに、今片付いてるだけで、そのうちまた散らかるんだから、また来るわよ」「あんな環境の中での育児なんて最悪。子供がかわいそうだもの」 そう言われて、義姉が本当に優しい人なのかどうか、また分からなくなってしまったが、照れ隠しだということにしておくことにした。 それからというもの、義姉は度々家に来て、家事や育児を手伝ってくれるようになった。週に二、三日の頻度だ。さすがに、そんなに頻繁に来られては、ご自身の家が疎かになるのでは、と心配になり、私はそのことを尋ねてみた。「余計なお世話だよ」と一蹴されたが、しっかりと理由も話してくれた。「うちは、旦那の両親と同居してるから、家には必ず誰かがいるの」「子供たちは学校から帰るなり、ランドセルを投げ出して遊びに行くし、夕飯の時間までに帰ってきゃ、私がいなくても何の問題もないのよ」「お母さんも、あんたのことを助けてあげなさいって言ってくれるしね」 やはり、助けに来てくれているのだ。私が嬉しくなってそう言うと、義姉はきっと私を睨んだ。「調子に乗ってんじゃないわよ」「その口、二度と開かないようにしてやろうか」 そして、話題は夫のことへ移った。「それに、あんた最近、大輔との中は大丈夫なわけ? 」 図星を突かれ、私は言葉を失った。そう、最近の夫との関係は、全然良くなかった。あの喧嘩以来、私たちは冷戦状態が続いている。 義姉は、なぜそれを知っていたのだろう。「そんなの簡単よ」と、義姉は言った。「この家に来るたび、前日の晩御飯らしきものが、ゴミ箱に捨てられてるのよ」「たまになら、間違って作りすぎたってだけかもしれないけど、それが何度もあるなんて、よっぽどバカじゃない限り、ありえないでしょ」「つまり、作っても食べないやつがいるんでしょう」 その通りだった。最近の夫は、家に帰ってくるのを嫌がっているのか、会社に残ったり、酒を飲んで遅く帰ってくることがほとんどだった。それなのに、夫から夕食がいらないという連絡はなく、私から聞いても「帰れる時くらい、好きにさせろ」と突き放されるだけだった。 私は、涙を流しながら、そのことを義姉に話した。すると義姉は、私の背中をさすりながら言った。「泣いてたって、舐められるだけよ」「全く、根性を叩き直す必要があるのは、直子だけじゃないみたいね」「とりあえず今日は、私も大輔が帰ってくるまでここで待つわ」「あいつは、一回締めないと分からないでしょうしね」 それから数時間後、子供たちはすっかり眠り、私も眠気が止まらない時間帯になっていた。そして、夜中の二時、ようやく夫が帰ってきた。夫が玄関を開けて家の中に入るなり、義姉は素早く間合いを詰め、彼を壁に追い込んだ。「でかい声を出すんじゃないわよ。子供たちが起きるでしょう」 義姉は、低くドスの効いた声で、今日までのことを淡々と話した。そして、夫を糾弾した。「あんたも、偉くなったもんだね」「女を妊娠させたら、後は知らん顔かい」「家事どころか、子供の面倒は見ない」「酒は飲んで帰ってくる」「嫌がらせのように、夕食も食べない」「やることが、見苦しいんだよ」「本当に根性を叩き直す必要があるのは、あんたじゃないのかい」 しかし夫も、黙って聞いているような男ではなかった。「なんで俺が攻められないといけないんだよ」「俺が姉さんに頼んだのは、あくまで直子の教育だけだ」「それ以外のことに首を突っ込むなよ」「それにな、バイトしかしたことのない姉さんには分からないんだよ、会社員として働くことの大変さが」「確かに、子供が三人いる分、よそより大変かもしれないけど、それでも俺より、専業主婦の方が百倍楽だね」 その言葉に、私は我慢の限界を超えた。「は、どうせ口だけでしょ」「お前みたいな根性なしには、修業くらい自分にもできるって証明する気もないだろうからね」 私が挑発すると、義姉も便乗した。「直子も、なんか言ってやりなさいよ」 私も、溜まっていた不満を、思いっきりぶつけてやることにした。「確かに、いつも口だけね」「もしできなかった時に、恥をかきたくないなら、何もしないのよね」「かわいそうな人」「そうやって一生、逃げ続けてればいいわ」「子供たちに、あなたのそういうところが遺伝しなければいいけどね」 夫は激昂した。「分かったよ」「やってやるよ」「日曜日、やってやるよ」「その代わり、俺が無事にこなしとら、直子は二度と俺に逆らうなよ」 そして、日曜日になった。 私は義姉に「今日ぐらいはゆっくりしな」と言われ、久しぶりに友人とお茶に出かけていたのだが、家に帰ってくると、夫が泣きながら子供をあやしていた。「本当にごめんよ」「まさか、子供三人の面倒を見ながら家事をするのが、こんなに大変だとは思わなかったんだよ」 夫の変わりように、私は驚いた。「一体、姉さんは何をしたの? 」 後から聞いた話だが、義姉は特に何かをしたわけではないらしい。「ただ、夫が何か失敗するたびに、直子が夫から言われた言葉を、そのまま投げかけてただけよ」「シャツのシワをちゃんと伸ばせ、とかね」 そう言って、義姉はニヤニヤと笑っていた。「夫なりに計画を立ててたみたいなんだけど、子供が泣いて、どんどん思い通りに行かなくなって、計画が押しに押して、挙句の果てに、何をしていいか分からなくなって、泣き出したのさ」「我が弟ながら、情けないね」 義姉に促され、夫は私に向かって土下座した。「私が、家事育児程度のこともできないくせに、愛する嫁を尻目にバカにした愚か者の玉出し野郎です」 私は、そんな夫の姿を見て、今までの不満が少し晴れたような気がした。「私も、言いすぎたわ」「ごめんなさい」「これからは、家のことも、この子たちのことも、協力して頑張ろうね」 そう言うと、夫は「ありがとう」と、私の腰元に抱きついてきた。何とか、夫婦は仲直りを果たしたのだ。 それから三ヶ月ほどの時が流れた。夫も、義姉に絞られて以来、家事や育児に協力するようになった。以前のような横柄な態度も、少しずつ改善されてきたように思う。 変化は、それだけではなかった。たまに、部下の林が家に来て、食事をしていくことも増えた。以前のように急に連れてくることはなく、ちゃんと事前に連絡してくれるようになったので、私としても準備する余裕ができて、ありがたかった。師弟の仲がいいのは、いいことだろうと思うことにしていた。 しかし、そんな穏やかな日々は、ある日突然に終わりを告げる。 ある休日のこと、子供たちを昼寝させ、私と夫が団欒していた時のことだった。突然インターホンが鳴り、夫が「俺が出るよ」と玄関へ向かった。しかし、すぐに玄関で言い争うような声が聞こえてきた。不安になった私が玄関へ向かうと、そこには夫と、知らない女性がいた。 その女性は、とみといい、夫の浮気相手だった。「もう関係は切った」と、夫は言ったが、今まで会社に残っていたり、帰りが遅かった理由は、ほとんどがこの女と会っていたためらしい。夫は私の家事をとやかく言いながら、自分は若い女と遊んでいたというわけだ。 しかし、義姉の手によって私の大変さを理解した夫は、浮気を反省し、とみに別れを告げたらしい。だが、とみからしてみれば、それで「分かりました」となるわけもなく、とうとう家にまで押しかけてきたというわけなのだ。「本当に申し訳ない」「自分勝手なことを言っているのは、分かっている」「でも俺たちは、夫婦として再出発したんだ」「とみなら、もっといい男が見つかるさ」「だから、俺との関係を終わりにしてくれ」 とみは、夫を虫けらを見るような目で見下ろし、やがて何も言わずに去っていった。その後、私は夫に怒りをぶつけた。とんでもない裏切りだっ た。 このことを義姉に話すと、「あの野郎、今すぐにでも殺してやりたい」と、義姉は拳を血が出るほど握り締めながら言った。「ごめん、私しばらく直子の家に行けないわ」「今直子の家に行っても、もし大輔と会ったら、私間違いなくあの愚図を殺しかねないから」 しかし、地獄はまだ終わらなかった。私が夫を責め立ててから数日後、夫は仕事を首になった。とみが、「大輔に無理やり関係を迫られた」と、会社に訴えたのだという。証拠として、いくつか夫との写真を提出したらしい。特に無理やり迫られているように見えるものもあったらしいが、さらにとみは、「関係を復縁しなければ、警察にまで突き出す」と言い出したらしいのだ。 夫が仕事を首になるのは、仕方がないかもしれないと思う一方で、警察沙汰になるのは、あまりにも理不尽だと思った。数日前の、とみと夫の会話を聞く限り、あれは明らかに同意の上のものだったし、なんなら、とみの方が夫に未練があったのではないだろうか。夫がその気持ちを利用したことは、確かにクズだが、無実の罪で捕まってしまうのは、話が別だ。それに、父親に犯罪者のレッテルが貼られるのは、子供にとっても良いことではない。 私は、どうしたものかと、一日中頭を悩ませていた。そんなある日、家に林が訪ねてきた。「僕、大輔さんが無理やり関係を迫ったわけじゃないと証明できる映像を持ってます」 林が見せてくれた動画は、会社の一室での監視カメラの映像だった。人気のない部屋で、とみが夫に近寄り、何か喋った後にキスをする。まるで付き合い立てのカップルのように、楽しげに、そして積極的に、だ。「どこが、無理やり迫られた女なんだ」と、私はその映像を睨むように見つめた。 林は、静かに話し始めた。「動画は、大輔さんたちを偶然見かけて、咄嗟に撮影したものです」「初めて家に来てもらった時、本当は直子さんにこれを見せようと思って、お邪魔したんですけど、どうしても言い出せなくて」 そうだったのか、と私は思った。てっきり、夫が無理やり連れてきたのだと思っていた。「正直、大輔さんと一緒に食事をしたい気持ちは、一ミリもありませんでしたよ」と、林は苦笑いする。「直子さんとは、勤務期間が少ししか被っていませんでしたが、その仕事や人間性を、尊敬していたんです」「だから、旦那さんの大輔さんが浮気していることを知った時、直子さんを悲しませる大輔さんが許せなくて、それでなんとか伝える方法がないかと思ったんですけど、家に来させてもらうたびに、大輔さんと直子さんの中は良くなっているように見えましたし、お子さんもいたんで、この動画は僕の胸のうちにしまっておこうと思ったんです」 確かに、林が初めて家に来た時と、それ以降では、私と夫の関係はかなり大きく変わっていたと思う。夫は協力的な姿勢に変わり、林はそれを感じ取っていたのだ。「でも、警察となると、そうも言ってられないじゃないですか」「だから、突然お邪魔させてもらいました」 私はただ、「ありがとう」としか言えなかった。彼がいなければ、夫は本当に警察に逮捕されていたかもしれないのだ。「これは、動画のコピーです」と、林はUSBメモリを私に渡した。は、ふと疑問に思った。「どうして、これを大輔じゃなくて、私に渡しに来たの?
」 「大輔さん相手に、盗撮してましたというのが、気まずかったからです」 そう言った後、林は照れ臭そうに言葉を続けた。「それもありますけど、ちゃんとお礼が言いたかったんですよ」「初めて来た時、僕は浮気のことをどうやって伝えるか考えるので精一杯でした」「それで、ご飯のお礼をまともに言ってなかったなって、思ってたんです」 そんなこと、気にしなくてもいいのに、と思ったが、林は続けた。「いえ、僕にとっても、久しぶりの家庭的な料理で、嬉しかったんです」「一人暮らしだと、外食やコンビニが増えますからね」「大輔さんには『妻がつまらない料理を作って済まなかった』なんて言われましたけど、そんなことない」「あの日の料理、美味しかったです」「ごちそうさまでした」 夫は、林にそんなことを言っていたのか、と私は思った。つまらない料理、ねえ。
後日談になるが、林のおかげで、夫はなんとか犯罪者にならずに済んだ。とみへの告訴や、法的な処理は、林が持ってきてくれた映像が物を言い、虚偽の告訴をしたとして、とみは逮捕された。もう、当分の間、私たちに近づくことはできないだろう。 そして、夫と私の関係は、結局、離婚という形で幕を閉じることになった。私は、もはや夫を男としても、夫としても見ることができなくなってしまったのだ。ただ、子供たちの父親としては、これからもいて欲しいと思ったので、定期的に会うことにはした。 夫は、新しい仕事を探していたところ、義姉の旦那さんが声をかけてくれたらしい、義姉の旦那さんは会社の社長をしているらしく、夫は下っ端として働くことになったそうだ給料は以前よりさらに減ってしまったらしいが、首の経歴がついている夫にとって、転職は難しいはずだったから、その程度で済んだのは、むしろ良かったのかもしれないと、私は思った。 ちなみに、夫は私に慰謝料と養育費を払ってくれるらしい少しずつになるものの、それが彼なりのけじめなのだろう、ありがたく頂戴しておくことにした。 そして、私には最近、新たに男として見ることのできる男性と出会えた。その相手は、林である。「最初は苦手だと思っていたけど、今回の一連の出来事を通じて、年下なのに正義感も強くて、かなりしっかりした人なんだなって、思ったわ」 林の方も、私に好意を寄せてくれていたらしく、子供たちのことも可愛がってくれている。結婚は、さすがにまだ考えてはいないが、これから時間をかけて、いい関係を築いていけたらいいなと、私は思っている。