封筒が食卓に置かれていたのを見つけたのは、三月の雨の木曜日の朝だった。前の晩、夜勤から帰って部屋の明かりもつけずに横になったから、その存在に気づかなかった。差出人の欄には管理会社の名前が印刷されていて、嫌な予感しかしなかった。開けてみると「三ヶ月以内のご退去をお願い申し上げます」と書いてあった。二十年住んだ六畳一間、家賃三万五千円。年金六万円に清掃の仕事を足しても、この部屋なしでは暮らしてい…

封筒が食卓に置かれていたのを見つけたのは、三月の雨の木曜日の朝だった。前の晩、夜勤から帰って部屋の明かりもつけずに横になったから、その存在に気づかなかった。差出人の欄には管理会社の名前が印刷されていて、嫌な予感しかしなかった。開けてみると「三ヶ月以内のご退去をお願い申し上げます」と書いてあった。二十年住んだ六畳一間、家賃三万五千円。年金六万円に清掃の仕事を足しても、この部屋なしでは暮らしてい...

封筒が食卓の上に置かれたのは、三月の雨が降る木曜日の朝のことだった。白鳥リツ子はその朝も五時半に目を覚ました。長年の習慣で、目覚まし時計が鳴る十分前に自然と目が開く。薄暗い部屋の中で天井を見上げ、しばらくぼんやりとした。ベッドではなく床に敷いた薄い布団の上で寝ているため、起き上がるのに両手で体を支えなくてはならない。台所に立ってお湯を沸かし、昨日の残りの麦茶を温め直して飲む。それが朝の全てだった。食卓と呼んでいるのは六十センチ四方ほどの小さな折りたたみテーブルで、足の一本がわずかに斜めになっているため、コップを乗せるといつも微妙に揺れる。リツ子はそのことを気にしなくなっていた。二十年も使えば、家具の欠点は癖のようなものに見えてくる。

封筒に気づいたのは、湯のみを置こうとした時だった。昨日は気づかなかった。夜勤明けで帰ってきた時、部屋の明かりをつけずにそのまま横になったせいだろう。白い長形の封筒で、差出人の欄には管理会社の名前が印刷されていた。リツ子は封を開ける前に一度だけ深く息を吸った。この種の封筒が良い知らせをもたらした試しはない。二十年の暮らしの中で、それくらいのことは体が知っている。

「建物老朽化に伴い、入居者の皆様には誠に恐縮ながら、三ヶ月以内のご退去をお願い申し上げます」

文字を読み終えてから、リツ子はもう一度最初から読み直した。頭の中でうまく形にならなかったからではなく、そうすることで気持ちが落ち着くと思ったからだ。しかし二度目を読み終えても、落ち着きは来なかった。テーブルの上に通知書を置き、両手を膝の上で組み合わせて、ただそこに座っていた。三ヶ月。九十日。リツ子はこの部屋に二十年間住んでいる。六畳一間、台所が四畳半、トイレと浴室が一体になった古い作り。建物自体は昭和の半ばに建てられたと聞いていて、壁の一部には縦に細いひびが入っているし、雨の強い日には玄関のドアが湿気で膨らんで閉まりにくくなる。それでも月三万五千円という家賃は、リツ子にとって唯一現実的な選択肢だった。年金は毎月六万円。それに夜間のビル清掃の仕事で得られる収入が月に四万円ほどある。合わせて十万円。そこから家賃と光熱費と食費を引いて、少しずつ貯め続けていた八十万円の預金。この部屋なしにリツ子の生活は成立しない。

通知書を封筒に戻した。それからリツ子は仕事の支度を始めた。考え続けても今日の答えは出ない。まず動くことが先だと自分に言い聞かせながら、古い作業着を引き出しから引っ張り出した。

午後二時頃、玄関の外で鍵を開ける音がした。息子の直人は三十八歳だった。背が高く、父親に似た輪郭をしているが、その顔つきにはどこか疲れと、それとは別の何か、無関心に近いものが常に浮かんでいる。リツ子の部屋に転がり込んできたのは半年前のことだった。理由は「会社をやめた。しばらく金を貸してくれ」という一言だった。リツ子は断れなかった。いつも断れなかった。

直人はリツ子に目を向けることなく、まっすぐ台所の戸棚を開けた。引き出しを引き、冷蔵庫のドアを開け、何かを探しながら下を向いた。リツ子は食卓の端に置いたままの封筒を、無意識に指先でなぞった。話すなら今だと思った。

「直さん」

声が少し小さくなった。台所に立つ息子の背中は動かなかった。もう一度、「直さん」と繰り返す。今度は振り向いた。リツ子は封筒を持って立ち上がり、通知書を広げて息子に見せた。「管理会社からです。三ヶ月で出ていかなければならないって書いてある」と言った。直人の目が紙の上を一度だけ横に流れた。それだけだった。

「他を探せばいいだろ」と言った。声に感情らしいものはなかった。「母さんの貯金があるだろう。それで引っ越せ」と続けた。リツ子は何も言えなかった。二ヶ月前のことを思い出したからだ。直人が深夜に帰ってきた日のこと。床に膝をついて声を上げて泣いた。「借金取りに追われている。このままでは体に危険が及ぶ。頼むから助けてくれ」と。リツ子は畳の上に正座したまま、息子の鳴き声を聞き続けた。長い時間が過ぎてから通帳を出した。貯金は八十万円あった。引き出せる上限まで引き出して封筒に入れて、直人に渡した。直人はありがとうとは言わなかった。ただ封筒を上着の内ポケットにしまって、その夜のうちにまた出ていった。

「だから今、リツ子には貯金がないんです。もう一銭も」とリツ子は言った。声は平坦だった。怒りでも懇願でもなく、ただ事実を述べているような言い方になった。直人の表情がわずかに動いた。眉と眉の間に一本の線が浮かんだ。舌先で奥歯を押す小さな音が聞こえた。

「役に立たないな」と直人は言った。怒鳴ったのではなかった。むしろ感情を抜いた低い声だった。その言い方の方がリツ子には鋭く感じられた。「病気ばかりして金もない。その上、家まで追い出されるのか」直人は台所から居住空間に戻り、壁際に積んであった自分の荷物の方へ歩いた。リツ子は立ったまま通知書を手に持っていた。直人は何も言わずにテレビをつけた。昼のバラエティ番組の音が部屋に広がった。リツ子は封筒を畳んで引き出しの中にしまい、エプロンをつけて夕食の準備を始めた。他に何もできることがなかった。

その日の夕方、仕事の前に時間を作って、リツ子は駅の近くにある不動産仲介業者の事務所に立ち寄った。ハウスパートナーという看板を掲げたその事務所は、小さくて古い雑居ビルの一階にあり、ガラス張りの窓に物件情報が並んでいた。リツ子は少し立ち止まって値段を確認した。安いものでも四万円台が多い。管理費を入れれば五万を超える。それでもないよりはましだと思って、扉を開けた。担当者の井岸という男は、リツ子が座る前から手元の書類に目を向けていた。四十代半ばで、シャツの袖を折り上げ、髪を整えるのに気を使っている様子だった。業務用の笑顔で「どうぞ」と椅子を勧めた。

リツ子は状況を説明した。三ヶ月後に今の部屋を出なければならないこと。現在の収入が年金と清掃の仕事で合わせて十万円程度であること。保証人になれる家族がいないこと。井岸はメモを取りながら話を聞いていたが、生年月日の欄にリツ子が記入した数字を見た時、ペンの動きが止まった。「昭和三十四年生まれ」井岸は確認するように繰り返した。「そうです。六十五になります」とリツ子は答えた。井岸は一度だけわずかに視線を外した。窓の向こう、外を歩く人の方へ。それからまたリツ子に目を戻した。笑顔の形はそのままだったが、その質がほんの少し変わっていた。業務的な温度が引き、代わりに言いにくいことを告げる前の表情になっていた。

「正直に申し上げますと、六十五歳以上で保証人なし、年金中心という条件ですと、ほとんどの物件で入居審査が難しくなります。オーナー様の側に色々なご懸念がありまして、孤独死のリスクですとか、病気になった時の対応ですとか、そういったことを理由に六十歳を超えた方の入居を断っているオーナー様が非常に多い状況です」

リツ子は黙っていた。井岸は続けた。「弊社で取り扱える物件の中では、現実的には相当限られてしまいます。公営住宅の申し込みをされることをお勧めします。ただし抽選ですし、当選まで時間がかかる場合もありますが」

「三ヶ月しかないんです」とリツ子は言った。声が静かだった。自分でもどうしてこんなに静かな声が出るのかが不思議だった。井岸は何かを言いかけて止まった。それから「申し訳ありません」とかはなかった。リツ子は礼を言って立ち上がり、事務所を出た。外は夕方の薄暗さの中に、小雨が降り始めていた。バス停まで歩きながら、リツ子は井岸の言葉を頭の中で繰り返した。孤独死のリスク。その言葉が妙に耳の奥に残った。自分が死ぬことを恐れているわけではなかった。ただ、自分がそういう言葉で分類される存在になっていることを、これほどはっきり言葉にされたのは初めてだった。バス停のベンチに座り、路線バスを待つ間、リツ子はポケットの中の百円玉を指で確かめた。今夜のビル清掃の仕事が終われば、また少しだけ収入が入る。それで何日かをしのぐ。それだけ考えることにした。先のことを全部考えると、頭の中が白くなる気がした。雨は少しずつ強くなっていた。

あの夜から三日が過ぎた。リツ子は通知書を引き出しの奥にしまったまま、一度も開いていない。見なければ、少しだけ遠くに置いておけるような気がして、そうしていた。金曜日の深夜、リツ子はビル清掃の仕事を終えて帰宅した。靴を脱ぐ前にスイッチを押すと、天井の蛍光灯がまず白く点滅し、それから安定した光になる。部屋の中は静かだった。直人の荷物がまだ壁際に積んであるのを確認して、リツ子は台所に向かった。残り物のご飯を電子レンジで温め、味噌汁の代わりにお湯を注いだだけのスープを作った。立ったまま食べた。座る気力がなかったというよりも、ちゃんと食事をしている気分にならないようにしたかった。座って箸を置いて一人で食卓に向かうと、疲れが押し寄せてくる。

翌朝、リツ子は管理会社に電話をかけた。退去期限の延長を願い出るためだった。電話口に出た担当者は若い男性の声だった。リツ子が事情を話すと、相手はしばらく無言になり、それから「申し訳ございませんが、規定の期間内でのご退去をお願いしております」と繰り返した。状況が状況だということは伝わっているはずなのに、言葉は紋切り型のままだった。リツ子は「何か相談できる窓口はありませんか」と続けたが、担当者は同じ言い回しを少しずつ言い換えながら繰り返した。電話を切った後、リツ子はしばらく受話器を持ったままでいた。

その週の水曜日、リツ子は清掃の仕事に出かけた。担当しているのは駅から歩いて十五分ほどの場所にある七階建ての雑居ビルだった。夜の十時に入り、翌朝の六時まで働く。廊下のモップ掛け、エレベーターの内側の拭き上げ、各フロアのトイレの清掃、ゴミの収集。繰り返しの作業だが、リツ子はその繰り返しを嫌いではなかった。考えなくて良い仕事というのは、頭の疲れた人間にとっては救いになる。その夜、リツ子がトイレの清掃を終えて廊下に出た時、現場責任者の立花という男が腕を組んで立っていた。五十代で頭のてっぺんが薄く、いつも首の後ろに汗をかいている。リツ子は挨拶をしてモップを引いて通りすぎようとした。「ちょっといいですか」と立花は言った。リツ子は立ち止まった。立花の顔がいつもと少し違うように見えた。言いにくいことがある人間の顔だとリツ子は思った。長年色々な人間と接してきた経験が、そういうことを教えてくれる。

「実はですね」と立花は始めた。「最近お客様からいくつかご意見をいただいておりまして、廊下の清掃のペースについて少し遅いというご指摘とか。それから先月のトイレの件もありましたよね。水拭きの後が残っていたという」

リツ子は何も言わなかった。先月のことは覚えていた。疲れがひどい夜で、仕上げが甘くなってしまったことは自分でも分かっていた。立花は続けた。「来週からしばらくの間、シフトを週に二日にさせてほしい。ちょっと人員の調整もありまして」と付け加えた。しかしリツ子には、人員の調整という言葉が建前であることが分かった。立花の目が一瞬だけ泳いだからだ。週に二日ということは、今の収入が半分以下になる。

「あの」とリツ子は口を開いた。声をできるだけ静かに保とうとした。「実は今、住まいのことで少し困っておりまして、引っ越しもかかりますし、もし可能であればシフトをこのまま維持していただけないかと」

立花の顔に困惑と申し訳なさと、それでも譲れないという意思が同時に浮かんだ。「申し訳ないのですが、これは上からの決定でして」と立花は言った。「私もできれば……」と言いかけて止まった。その先は言わなかった。言わなかったことで、リツ子には伝わった。立花自身がこの決定に不本意であることも、しかしそれがもはや覆せないことも。

「わかりました」とリツ子は言った。頭を下げて、モップを押して歩き始めた。廊下の端まで歩いて折り返して戻ってくる時、立花はもうそこにいなかった。その夜の残りの時間、リツ子は黙々と働いた。モップを引くたびに頭の中で数字が動いた。週に二日、月に八日か九日の勤務。一日あたりの日当が三千円ほどだから、月に二万五千円前後。年金の六万円と合わせて八万五千円。家賃が三万五千円。光熱費が一万円弱。食費が二万円。残るのは二万円もない。その二万円で引っ越しをしなければならない。

仕事が終わり、リツ子が着替えて外に出ると、夜明け前の空がまだ暗かった。バス停まで歩きながら、リツ子は次の行動を考えた。不動産屋が一軒だけではなかったはずだ。もっと探せば何か見つかるかもしれない。そう思わなければ足が動かなかった。

それから二週間、リツ子は仕事のない日を使って、都県内の駅から一時間以内の範囲にある不動産仲介業者を片っ端から回った。最初の三軒は初日に回った。それぞれ対応は異なったが、結果は同じだった。一件目は年配の男性が担当で、リツ子の話を最後まで聞いてから「申し訳ないが、うちでは難しい」と言った。丁寧だった。二件目は若い女性の担当で、最初から書類を出すことなく「高齢者向けの物件は扱っておりません」と言った。三件目は受付にいた男性が、リツ子の年齢を確認した瞬間に表情が変わった。ほんの一瞬のことだったが、リツ子にははっきり分かった。その後の会話は形式的なものになった。二日目は四件回った。そのうち一件だけが「物件を探してみましょう」と言った。担当者は三十代の男性で、二日後に連絡しますと言った。リツ子は番号を書いた名刺を受け取り、礼を言って出た。しかし二日後も三日後も連絡は来なかった。四日目にリツ子の方から電話をすると、担当者は「申し訳ありませんが、条件に合う物件が見つからなかった」と言った。三日目は別の路線沿いに三軒、全て断られた。理由はいつも同じだった。保証人の問題、年齢の問題、収入の問題。リツ子はそれぞれの事務所を出るたびに、近くの自動販売機で百円の缶コーヒーを買って飲んだ。休むためではなく、次の場所に向かう前に少しだけ立ち止まるために。

その日の夕方、リツ子は帰り道でふと足を止めた。スーパーマーケットの横の細い路地に、手書きの看板が張ってあった。「高齢者の住まい探し、お気軽にご相談ください」と書いてあった。字が少し崩れていて、印刷ではなく手書きであることが逆にリツ子の目を引いた。矢印の先を辿ると、階段を登った二階に小さな事務所があった。扉を開けると、タバコの匂いと古い書類の匂いが混じった空気が流れてきた。六畳ほどのスペースに、応接セットと折りたたみ机が並んでいた。窓際に男が一人座っていた。四十代後半か五十代の初めか。顔の彫りが深く、眉が太い。胸のポケットに名刺が差してあった。黒田とあった。

「どうぞ」黒田はリツ子に向けて椅子を引いた。タバコを灰皿で押し消してから言った。リツ子は状況を説明した。退去の期限、収入、貯金がないこと。黒田は聞きながら、メモを取ることもなく、時々うなずいた。話し方に他の不動産業者のような型通りの愛想がなかった。それがリツ子には少し安心感を与えた。愛想がないということは、少なくとも建前の笑顔ではないからだ。

「一軒、ちょうどいい物件があります」と黒田は言った。「うちが管理しているわけではないんですが、オーナーが高齢者の入居を断らない方で。場所はここから電車で二十分ほど」リツ子は少し前のめりになった。黒田は続けた。「ただ、入居の前に初期費用として、管理リスク費用というのを十五万円いただくことになっています。審査の代わりとして受け取っているお金で、返金はできないんですが。それさえ払ってもらえれば、年齢も保証人も関係なく入居できます」

十五万円。リツ子の頭の中でその数字が落ちた。今のリツ子の手元にある現金は、わずか二千円と少しだった。給料日まであと九日ある。次の給料はシフトが減った後の最初の給料だ。「それはすぐには難しいんですが」とリツ子は言った。黒田は特に表情を変えなかった。「いつまでなら用意できますか」とだけ聞いた。リツ子は少し考えた。一ヶ月後であれば、仕事の給料と年金を合わせればなんとかなるかもしれない。でも一ヶ月後では、退去期限まで二ヶ月を切ってしまう。「三週間後に」とリツ子は言った。黒田は少し間を置いてから「分かりました。では物件を押さえておきます」と言った。名刺を一枚差し出して、「用意できたら連絡してください」と言った。リツ子は礼を言って事務所を出た。階段を降りながら、十五万円という数字をどこから捻出するか考えた。給料と年金を合わせても、三週間で十五万円に届くかどうかは分からない。光熱費も払わなければならないし、食費を削るにも限度がある。

その夜、帰ると直人がいた。テレビを見ながら菓子パンを食べていた。リツ子は台所に立ち、今日回った不動産屋のことを頭の中で整理した。直人に話す気にはなれなかった。話しても帰ってくる言葉が想像できたからだ。

翌朝、リツ子は消費者金融の窓口に行くことを決めた。決めたという言い方は正確ではない。他に選択肢がなかった。町中で見かけるATMの広告。ポストに入っていたカードローンのチラシ。そういうものを今までリツ子は意識して遠ざけてきた。借金だけはするまいと思って生きてきた。しかし今は、借りなければ家を失う。駅前のビルの三階に消費者金融の窓口があった。自動ドアを入ると待合スペースがあり、二人の客が待っていた。受付の女性がリツ子の番号を読んで、個室のブースに案内した。担当者は三十代の男性で、淡々と書類を広げた。年収、勤続年数、他者からの借入れの有無。答えるたびに男性は画面に入力した。「審査には時間がかかります」と言われ、リツ子は待合スペースで三十分ほど待った。「審査が通りました」と担当者が戻ってきて言った。「ただし貸し出し可能額は十五万円で、金利が年十八パーセントになります」リツ子はそれでいいと言った。その場で書類にサインをし、翌日には指定した口座に十五万円が振り込まれた。リツ子は通帳を開けてその数字を確認した。十五万円という金額が、生まれて初めて負債として存在する感触は、予想よりもずっと重かった。

三日後、リツ子は黒田の事務所を再び訪れた。封筒の中に十五万円を入れて持っていった。黒田はそれを数えてから、「ありがとうございます。では三日後に鍵を渡します」と言った。手続きに時間がかかるのでと説明した。リツ子は領収書を受け取り、次の約束の日時をメモした。

三日間、リツ子は荷造りを始めた。と言っても、荷物はそれほど多くなかった。衣類、食器、わずかな日用品。大きな家具はなく、布団と折りたたみテーブルと小さなテレビだけだった。それでも二十年間ここに置いてきたものを袋に詰めていると、物の少なさが逆に胸に刺さった。これだけで二十年を生きてきたのだと思った。

約束の三日後、リツ子は黒田の事務所に向かった。扉を開けると、事務所の様子が変わっていた。昨日まであったはずのスチール棚がなかった。折りたたみ机だけが残っていて、窓際にダンボール箱が一つ置いてあった。黒田の姿はなかった。リツ子は室内を見回した。窓の外の光が変わらず差し込んでいて、それが逆に不気味に感じられた。他には誰もいない。タバコの匂いだけが残っていた。携帯電話を取り出して、名刺の番号を押した。呼び出し音が三回なって、「このSIMカードは現在使用されておりません」という自動音声が流れた。リツ子はもう一度かけた。同じ音声だった。もう一度かけた。壁に貼られた手書きのチラシが、窓からの風でわずかに揺れた。リツ子はそれを見ていた。「高齢者の住まい探し、お気軽にご相談ください」その文字をリツ子は声に出さずに読んだ。十五万円は戻ってこない。リツ子はその場に立ったまま、しばらく動けなかった。怒りかどうかも分からなかった。ただ、足の裏から床の感触がなくなるような感覚があった。体の中の何かが、静かにストンと落ちた。

階段を降りて路地に出た。夕方の人通りの中に出ると、周りの音が急に遠くなった。自動販売機の前を通りすぎ、コンビニエンスストアの前を通りすぎ、リツ子はただ歩いた。消費者金融への返済が始まる。利子がつく。仕事は週に二日になった。退去まで残り六週間。手元の現金は、今日の交通費を引けば千円を切る。それだけのことをリツ子は頭の中で一度だけ並べた。並べ終えてから、もう一度歩き始めた。今夜の仕事が始まるまであと三時間ある。

その夜、リツ子は仕事に行かなかった。行けなかったというよりも、行く意味が見えなかった。着替えを手に取り、玄関に向かいかけて、靴の前で立ち止まった。足が動かなかった。そのまま壁に背をつけて、ずるずると座り込んだ。靴下のまま冷たい床に、黒田の事務所の空っぽの棚が頭の中で繰り返し浮かんだ。タバコの匂いだけが残っていたあの部屋が、まるで初めからそこに何もなかったかのように見えた。

翌朝、リツ子は立花に電話をかけて、昨夜は体調不良で欠勤してしまったことを詫びた。立花は特に責めなかった。「気をつけてください」とだけ言った。その声の低さが、リツ子には返って応えた。責められた方がまだ楽だったかもしれない。その日の午前中、リツ子は消費者金融の明細を確認した。借入残高、十五万円。初回返済額は来月の十日。最低返済額が七千円。金利分だけを払い続ければ、元金はほとんど減らない。リツ子はその数字を手帳に書き移してから、手帳を閉じた。書いたからと言って何かが変わるわけではないが、目の前に置いておかなければ実感が薄れる気がした。それが怖かった。

退去まで残り五週間と三日。午後、リツ子は区役所に向かった。区役所の福祉課は三階の奥にあった。整理券を引いて待つ間、リツ子は周りを見回した。自分より年上に見える人が数人いたが、ほとんどは若い人か中年の人だった。リツ子は自分が何番目に呼ばれるかを数えながら待った。考え事をしないようにするための習慣だった。担当の窓口に呼ばれたのは四十分後だった。向かいに座ったのは、三十代後半と思われる女性だった。名札には田中とあった。眼鏡をかけていて、書類の扱い方が手慣れていた。リツ子は状況を話した。退去通知のこと、シフトが減ったこと、消費者金融から借入れをしたこと、黒田に騙されたこと。田中は聞きながら、途中で一度だけ眉を動かした。黒田の話のところで。しかし表情をすぐに戻して、最後まで聞いた。

話を終えると、田中はメモを確認しながら言った。「生活保護の申請については、いくつか確認が必要なことがあります。まず、現在お住まいの住所が申請の基準になりますので、今の住所で申請を進めることはできます。ただし、退去後に住所が変わった場合は、転居先の区で改めて手続きが必要です」リツ子はうなずいた。「それから」と田中は続けた。「申請して実際に受給が始まるまでに時間がかかることと、その間にお住まいが確保されていることが条件の一つになります。退去期限が五週間後ということであれば、今すぐ申請を出しても、審査が完了するまでの間に住所がなくなってしまう可能性がある。それが少し難しいところで」

「つまり、家がなければ申請が通らないということですか」とリツ子は聞いた。「そうではないのですが」と田中は答えた。「住所がないと申請の審査が複雑になります。また、現在の借入れについては、生活保護を受けながら返済を続けることは原則として認められていないので、その整理も必要になってきます」リツ子は田中の言葉をゆっくり飲み込んだ。家がなければ申請が難しい。申請が通るまで家が必要。家を借りるには金が必要。金がないから申請したい。その輪が胃のあたりで静かに閉じていくのを感じた。

「今できることから始めましょう」と田中は言った。「住居確保給付金という制度があります。これは離職や収入の減少によって住居を失う恐れがある方が対象で、一定期間家賃相当額を支給するものです。申請にはいくつか条件がありますが、白鳥さんの場合は対象になる可能性があります。こちらを一緒に確認してみましょうか」田中が書類を広げながら説明した。申請から支給までにかかる期間、支給額の上限、就労支援とのセット条件。リツ子は話を聞きながら、申請書類の欄を確認した。枚数が多かった。

リツ子はその日の夕方、必要書類の一覧を受け取って区役所を出た。外に出ると、春の終わりかけの夕方の光がまぶしかった。リツ子はしばらく入り口の前に立っていた。書類の束を鞄に入れながら、頭の中で手順を整理した。まず収入証明。次に退去通知のコピー。それから通帳の写し。消費者金融の明細も必要だろうか。田中の説明の中で一つだけ頭に残った言葉があった。「住居を失う恐れがある方が対象」リツ子はすでに、恐れどころか現実の入り口に立っていた。

翌日からリツ子は書類を集め始めた。勤務先の清掃会社に収入証明の発行を依頼すると、経理の担当者が「少し時間がかかります」と言った。「どのくらいかかりますか」とリツ子が聞くと、「一週間から十日ほど」と言った。退去まで五週間を切っているのに、書類一枚に十日かかる。リツ子は「分かりました」と言って電話を切った。その夜の仕事の帰り道、リツ子はコンビニエンスストアで百円のおにぎりを一つ買った。一日の食事がそれだけの日が増えていた。昼は水で過ごして、夜の仕事の前に食べる。朝は帰ってすぐ横になる。それが最近の一日の流れだった。

二日後、リツ子は直人と顔を合わせた。直人は昼過ぎに起きてきて、シャワーを浴びてから台所で何かを食べた。リツ子は折りたたみテーブルの前で書類の確認をしていた。直人はリツ子の手元の紙を一瞥して、「なんだそれ」と言った。「区役所の書類です」とリツ子は言った。「引っ越し先の費用を出してもらえる制度があるみたいで」直人は冷蔵庫から麦茶を取り出しながら、「ふうん」と言った。関心があるのかないのか分からない返し方だった。リツ子は少し迷ってから、「直さん、引っ越しのことで少し手伝っていただけませんか」と言った。声の出し方に気をつけた。頼んでいるのか、相談しているのか、どちらにも取れる言い方にした。直接頼むと帰ってくる言葉が予測できたからだ。直人は麦茶を飲みながら振り向かなかった。「俺は今色々あって、それどころじゃない」とだけ言った。色々というのが何なのか、リツ子は聞かなかった。聞いて答えが返ってきたとしても、それが本当かどうかを確かめる手段がない。それよりも、聞くことで直人の機嫌が変わることの方をリツ子は警戒していた。

その夜、リツ子は仕事に向かいながら、黒田のことを区役所に報告すべきかどうかを考えた。田中には黒田に金を騙し取られたことを話していた。田中は表情を変えずに、「消費生活センターへの相談も検討してください」と言い添えていた。リツ子はその番号をメモしてあったが、電話する気になれなかった。理由は自分でもはっきり分からなかった。相談して何かが変わるとは思えなかったのかもしれない。あるいは、自分がそういうことをされたと声に出して繰り返すことが、単純に嫌だったのかもしれない。

ビルにつき、更衣室で着替えながら、リツ子は今夜の作業順を頭に入れた。一階から始めて、エレベーターで七階まで上がり、降りながら各フロアを終わらせる。それだけを考えれば三時間は過ぎる。深夜一時頃、リツ子が四階の廊下をモップで拭いていると、後ろから足音がした。振り向くと、見知らぬ男が廊下に立っていた。スーツ姿でネクタイを緩めており、終電を逃して戻ってきた風に見えた。男はリツ子を見て、「ああ、清掃の方か」と独り言のように言ってから通りすぎていった。その顔には何の悪意もなかった。ただ、リツ子の存在を一秒で確認して、次の瞬間には忘れていた。それが普通だった。清掃員というのは、いてもいなくてもいい背景の一部として扱われる。リツ子はそのことを二十年前から知っていたが、今夜はその感覚がいつもよりも少し胸の近くに触れた。

一週間が経った。清掃会社から収入証明書が届いた。区役所に行き、田中の窓口で書類の確認をしてもらった。田中は一枚一枚丁寧に確認してから、「あと一点だけ」と言った。「就労支援の要件として、ハローワークへの求職登録が必要になります。今後も働く意思があることを示す手続きです」リツ子はうなずいた。

ハローワークへはその翌日に行った。受付で書類をもらい、記入して提出した。担当者から「どのような仕事をお探しですか」と聞かれた。「清掃の仕事です」とリツ子は答えた。担当者が画面を操作しながら年齢と経験年数を確認した。「清掃のご経験が長いんですね」と言った。リツ子は「そうです」と答えた。求人票を数枚渡された。リツ子は受け取った紙を見た。「清掃スタッフ、週五、五十代まで歓迎」「清掃補助員、六十歳まで歓迎」「ビルメンテナンス経験者優遇、年齢不問」年齢不問という文字だけがリツ子の目に止まった。家に帰り、求人票をテーブルの上に広げた。電話番号を確認して、翌朝かけてみることにした。

翌朝、三件に電話をかけた。最初の一件は「募集は終了しました」と言われた。二件目は「面接に来てください」ということになった。三件目は「詳しい話を聞いてから判断したい」と言われ、来週の日程を調整することになった。二件目の面接は三日後だった。場所は電車で四駅の商業施設の管理会社だった。担当者は四十代の女性で、テキパキとした話し方をした。履歴書を確認しながら、これまでの清掃の仕事についていくつか質問した。リツ子は答えた。夜間の清掃が中心だったこと。七年間同じ現場を担当していたこと。複数のフロアを一人で回った経験があること。担当者は一度だけうなずいてから、「現在はどちらにお住まいですか」と聞いた。リツ子は今の住所を答えた。担当者はそれをメモしてから、「もう少し詳しく聞かせてください」と言った。「通勤のことを考えると少し遠いかもしれないので。実は来月中に引っ越しをする予定でして」とリツ子は言った。そこで少し言葉が止まった。引っ越し先が決まっていないことをどう言えばいいか、一瞬分からなかった。「引っ越し先はまだ探している途中です」と続けた。担当者の表情がほんの少し変わった。大きな変化ではなかった。ただ、視線の焦点が少しだけ動いた。「そうですか」と言って、書類に何かを書き込んだ。その動きをリツ子は見ていた。「結果はご連絡します」と担当者は言った。連絡は来なかった。一週間後にリツ子の方から電話をすると、「今回は別の方でご縁があることになりまして」と言われた。リツ子は「了解しました」と言って電話を切った。三件目の面接も翌週に行った。こちらも似たような流れだった。住所を聞かれ、引っ越し中であることを説明し、数日後に不採用の連絡が来た。住居が定まっていない人間は、雇う側からすれば不安定な要素に映るのだろう。リツ子は思った。住所がなければ仕事が得にくい。仕事が得られなければ家賃が払えない。家賃が払えなければ住所が保てない。またその輪だ。

退去まで残り三週間になっていた。区役所から連絡が来たのはその翌日だった。田中からではなく、別の担当者の名前で着信があった。折り返すと、住居給付金の審査について追加で確認したいことがあると言われた。翌日、リツ子は区役所に出向いた。窓口に座っていたのは田中とは別の担当者だった。五十代の男性で、眼鏡の奥の目が疲れていた。書類を広げて、「現在の収入についてもう少し詳しく確認させてください」と言った。リツ子は聞かれたことに答えた。清掃の仕事の収入が減ったこと。消費者金融からの借入れがあること。男性担当者は書類に何かを書き込みながら、「ところで」と言った。「息子さんがいらっしゃると聞いていますが、現在もご一緒にお住まいですか?」リツ子は「はい」と答えた。男性担当者はメモを続けながら、「収入はどのくらいですか」と聞いた。「無職で」とリツ子は言った。「収入はありません」担当者は一度顔を上げた。「お一緒にお住まいで収入がないということは、息子さんも同じく生活が厳しい状況ということでしょうか?」リツ子は少し考えた。「はい、そうだと思います」と言った。担当者は書類に視線を落としたまま、「こちらの給付金の申請は世帯単位での申請になります。同居されている方の収入も合算して審査することになりますので、息子さんの収入証明も必要になります。また、その場合、息子さんも就労支援の対象としてハローワークへの登録が求められます」と言った。

リツ子はしばらく黙っていた。直人がハローワークに登録することを承諾するとは思えなかった。申請の話をすること自体、直人がどう反応するかが読めなかった。しかしそれを担当者に言うわけにもいかなかった。「確認して、また連絡します」とリツ子は言った。帰り道、リツ子はバスの中で窓の外を見ていた。夕方の町が流れていった。信号が変わるたびに人の群れが横断歩道を渡った。みんなどこかへ向かっていた。リツ子はバスの中で、どこへ向かうかを考えていた。

部屋に戻ると、直人はいなかった。最近、泊まりで外に出ることが増えていた。どこへ行っているのかは知らなかった。リツ子は、荷物の途中まで詰まった袋を見た。まだタンスの中に衣類が残っていた。テーブルに座って手帳を開いた。退去まで三週間。収入証明はある。ハローワーク登録はした。だが申請には直人の書類もいる。住居給付金が通らなければ、家賃を払える見込みがない。消費者金融の返済は来週から始まる。書き出した項目を眺めて、リツ子は手帳を閉じた。問題を整理することと、問題が解決することは、全く別のことだった。それは分かっていた。それでも書かずにはいられなかった。書いておかないと、自分が何を抱えているのかが見えなくなる。見えなくなると、何から手をつければいいのかも分からなくなる。分からなくなると、動けなくなる。リツ子は手帳を引き出しにしまって立ち上がった。台所に行き、水を一杯飲んだ。それから仕事の支度を始めた。今夜もビルへ行く。モップを引く。廊下を拭く。それだけが今、確かに存在することだった。

直人が荷物をまとめ始めたのは、退去まで二週間を切った土曜日の夜のことだった。リツ子は台所で食器を洗っていた。奥の方で衣ずれの音がして、振り向くと直人がクローゼットを開けて中身を引き出していた。衣類を無造作に掴んでは、床に開いたボストンバッグに放り込んでいた。丁寧に畳もうとも整理しようともしていなかった。ただ詰め込んでいた。リツ子は食器を洗う手を止めた。水を止めた。タオルで手を拭きながら、「直さん」と呼んだ。直人は振り向かなかった。「どこへ行くんですか?」とリツ子は聞いた。声を低く保った。責めるような言い方にならないように気をつけた。長年の習慣で、直人の機嫌がどちら側に傾いているかを、声のトーンと動きの速さで読めるようになっていた。今夜の直人は静かだが固かった。こういう時の直人は言葉を受け付けない。

「友達のところ」と直人は言った。「しばらく止まる」リツ子はしばらく立っていた。タオルを両手でゆっくりと畳みながら、次の言葉を選んだ。「退去のことは」と言いかけて止まった。言っても無駄だということをどこかで知っていた。それでも言わないわけにはいかなかった。「退去まであと二週間もないんです。区役所の申請のことで、直さんの書類が必要で」とリツ子は言った。直人はバッグのファスナーを引いた。それだけで返事の代わりだった。リツ子は一歩だけ前に出た。「直さん、聞いてますか」と言った。今度は少し声が大きくなった。怒ってではなく、自然にそうなった。直人が振り向いた。その目の中に怒りではなく、呆れたものがあった。リツ子はその表情を見たことがあった。直人が小学校の高学年頃から時々そういう顔をするようになっていた。面倒くさいという言葉を使わずに、全身でそれを表現する時の顔だった。

「俺には関係ない話だ」と直人は言った。「区役所でも役所でも、母さんが自分でやれ。俺を巻き込むな」「でも、同じ世帯で暮らしているから書類が必要で」とリツ子は続けた。直人はバッグを肩にかけた。「俺はここには住んでいない」と言った。「住民票はここじゃない。だから関係ない」そう言い残して、玄関の方へ歩いた。リツ子は動かなかった。靴を履く音がして、ドアが開いて、閉まった。部屋の中が静かになった。クローゼットが半分開いたままで、中にはまだ直人のものが残っていた。置き去りにされなかった冬物のコートと、そこに積まれた雑誌と、靴箱の上に置き忘れた傘。リツ子はその傘を少しの間だけ見ていた。

翌朝、リツ子は区役所に電話をかけた。田中ではなく、男性担当者につながった。「昨日、再度確認しましたが、息子は別の住民票の住所があるそうで、世帯は別になるかもしれません」とリツ子は言った。担当者は少し間を置いてから、「実態として同居されている期間はどのくらいですか」と聞いた。「半年ほどです」とリツ子は答えた。担当者は書類を操作する音を立てながら、「実態として同居していると見なされる場合は、住民票の住所が異なっていても世帯として扱われることがあります。ただし、確認のためにはいくつかの書類が必要で、それを揃えていただく必要があります」と言った。リツ子は「その書類とは何ですか」と聞いた。担当者が挙げた項目を、リツ子は手帳にメモした。話を終えてから、「ありがとうございました」と言って電話を切った。手帳を見た。メモした項目の一つ一つに、直人が関わらなければ揃えられないものが含まれていた。

その日の午後、リツ子は区役所の別の窓口を尋ねた。住民票の写しを取るためだった。自分の分だけ発行してもらった。学園用紙を二枚出しながら、窓口の女性が住民票を封筒に入れて渡してくれた。その女性はリツ子より少し年上に見えた。「ありがとうございます」とリツ子は言った。女性は会釈をして、次の番号を読んだ。別の窓口へ回り、退去通知書のコピーを提出書類に加えてもらえるか確認した。担当者は書類を見てから、「これは原本が必要です。コピーだけでは受け付けられません」と言った。「原本は」とリツ子が言いかけると、「原本は返却できません」と言われた。リツ子は退去通知の原本が手元に一枚しかないことを思い出した。それを提出してしまえば、手元に証拠が残らない。リツ子はしばらく考えてから、「コピーをもう一部自分で取っておいても大丈夫ですか」と聞いた。「それは構いません」と担当者は言った。帰り道にコンビニエンスストアにより、十円を払って退去通知書のコピーを一部取った。コピーが出てくる間、機械の前に立って待った。紙が出てきた時、その質感が妙に薄く感じられた。十円で作った証拠。リツ子はそれを丁寧に折りたたんで、鞄の内ポケットに入れた。

その週の水曜日、リツ子は清掃の仕事に出た。更衣室で着替えながら、同じシフトの清掃員の吉田と顔を合わせた。吉田は六十二歳で、腰が少し曲がっていたが動きは早く、無口な人だった。リツ子とは三年ほど同じ現場で働いていたが、仕事の話以外をしたことはほとんどなかった。「今夜は寒いですね」とリツ子は言った。吉田はうなずいて、「明日は雨になるらしいですよ」と言った。それだけだった。そのやり取りが、リツ子には久しぶりにまともな会話のように感じられた。

作業が始まってしばらくして、立花が巡回に来た。リツ子の作業を少し離れたところから見ていた。リツ子はそれに気づきながら、モップを引き続けた。立花は何も言わなかった。ただ見ていた。リツ子が廊下の端まで拭き終えてからこちらを向くと、立花は軽くうなずいて、別の階段の方へ消えた。その動作が何を意味するのか、リツ子には分からなかった。評価なのか、確認なのか、あるいは何かを決めかけているのか。分からないまま、次のフロアへ向かった。

深夜二時過ぎ、四階のトイレを掃除している時、手が滑った。バケツの縁を持ち直そうとして指先が滑り、バケツが傾いた。中に入っていた洗剤の混じった水が床にこぼれた。タイル張りの床に一気に広がった。リツ子はすぐに雑巾を取って床に当てたが、量が多かった。廊下側まで流れ出た。その音を聞いてか、立花が四階に上がってきた。廊下の水を見て、眉をひそめた。「どうしたんですか」と言った。声にはなかったが、平坦だった。「すみません。バケツが」とリツ子は言いながら、床を拭き続けた。立花はしばらく見ていた。それから雑巾を一枚余分に取り出して、リツ子に渡した。床の水が引いてから、立花はリツ子の隣にしゃがんで、「何を考えているんですか、最近」と言った。リツ子は手を止めた。立花は続けた。「作業中に手が止まっていることがある。吉田から聞いた。ぼーっとしているわけじゃないんだろうけど、どこか上の空の時がある」リツ子は雑巾を絞った。「すみません」と言った。立花は立ち上がりながら、「住まいのこと、まだ解決していないんですか」と聞いた。リツ子はしばらく間を置いてから、「はい」と言った。立花は廊下の窓の外を少し見てから、「こういう話をしていいものか迷っているんですが」と前置きをして言った。「うちの会社の社員で、親の家を整理して空いた部屋があるという人がいます。詳しいことは私も分からないし、確約できることは何もないんですが。興味がありますか?」

リツ子は立花を見た。立花の顔に、業務的なものとは違う表情があった。気まずさと、それでも言わなければという気持ちが交互に見えた。「聞かせてください」とリツ子は言った。立花はスマートフォンを取り出して、名前と連絡先を見せた。同僚の名前だった。「詳しいことはその人に直接聞いてください。私が間に入る話でもないので」と言って、スマートフォンをしまった。

翌日、リツ子はその番号に電話をかけた。出た男性は声が低く、話し方は穏やかだった。名前は浜田だと言った。「事情を聞いてから、一度部屋を見ていただければと思いますが」と言った。場所は電車で三十分ほどのところで、築年数は古いが六畳と台所があると説明した。「家賃はどのくらいでしょうか?」とリツ子は聞いた。浜田は少し間を置いてから、「正直に言うと、家賃をもらうつもりはないんです」と言った。「ただ、空き家のままにしておくと管理が大変で。誰かに使ってもらえればくらいの気持ちで。光熱費ぐらいだけ払ってもらえれば十分です」リツ子は受話器を持ったまま、少しの間だけ黙っていた。こういう申し出を受けていいものかどうか、判断がつかなかった。善意であることは分かった。しかし、善意というものがこれまでいくつか、後になって別の形になったことも知っていた。「一度見せてください」とリツ子は言った。

翌週の火曜日、リツ子は浜田と現地で待ち合わせた。駅から徒歩で十二分ほどの住宅街にその家はあった。二階建ての古い木造で、外壁が色あせていたが、崩れているわけではなかった。浜田は五十代で、立花より少し体格が良く、口数が少ない人だった。鍵を開けながら、「親が亡くなって三年になるので」と言った。中に入ると、古い家の匂いがした。しかし不快ではなかった。六畳の和室と四畳半の台所、小さな風呂と便所。窓を開けると光が入った。縁側があって、小さな庭に面していた。庭には雑草が伸びていたが、それを除けば荒れているわけではなかった。リツ子は部屋を一回りした。畳が一部傷んでいた。台所の水道は問題なく出た。風呂場の換気扇が少し音を立てたが、動いた。「どうぞ。気になるところがあれば、何でも確認してください」と浜田は言った。リツ子は換気扇の音を確かめてから、「ここの最寄り駅からは、どの路線が出ていますか」と聞いた。浜田が答えた路線名は、今の清掃の仕事の最寄り駅と乗り換え一回でつながっていた。リツ子はしばらく縁側に立って、庭を見ていた。浜田は声をかけずに待っていた。「お世話になってもいいでしょうか?」とリツ子は言った。浜田はうなずいた。「細かいことはおいおい」と言った。「鍵は今日はお渡ししますので」と言った。

帰り道、リツ子はバスの中で座っていた。鞄の中に、浜田から受け取った鍵が入っていた。小さな鍵だった。それが存在することを、リツ子は何度か確かめた。指先でその形を確かめた。区役所に電話して、先の住所が決まったことを伝えなければならない。消費者金融への返済も、引き続き払い続けなければならない。清掃の仕事のシフトが週二日になった状態で、光熱費を払いながら返済を続けることができるかどうかは、まだはっきりしなかった。それでも今日は鍵がある。バスが停留所に着くたびに、人が乗り降りした。リツ子は窓の外を見ていた。夕方の光の中で、街が少しずつ暗くなっていった。

翌日、リツ子は退去の手続きを進めるために管理会社に電話をかけた。担当者は退去日の確定と、部屋の現状確認の日程を決めたいと言った。リツ子は手帳を開きながら日程を確認した。退去日まで十日を切っていた。現状確認は退去の三日前に設定することになった。「分かりました」とリツ子は言ってから、一つだけ確認させてくださいと続けた。「退去後に返ってくる敷金はありますか?」担当者は少し間を置いた。「当時の契約書を確認しますが、おそらくこの物件は敷金なしの契約になっていたかと思います」と言った。「そうですか」とリツ子は言った。電話を切ってから、手帳に退去日と現状確認の日程を書き込んだ。敷金なしという文字も書いた。書いてから、消した。書いておいても仕方がない情報だった。

退去三日前の現状確認には、管理会社の担当者が一人来た。三十代の若い男性で、部屋の中を一通り確認しながらチェックリストに記入した。壁のひびを指さして、「これは入居前からのものですか」と聞いた。「そうだと思います」とリツ子は答えた。担当者は「分かりました」と言って書き込んだ。台所の換気扇の油汚れについては、「清掃費用として五千円を退去時に請求することになります」と言った。リツ子はうなずいた。五千円という数字が、今の自分にとってどれだけ重いかを、この担当者に説明するつもりはなかった。確認が終わり、担当者が帰った後、リツ子は部屋の中に一人で立った。荷物はほぼ片付いていた。二十年間この部屋にあったものが、ほとんどゴミ袋とダンボール箱に収まっていた。壁には、日焼けた四角い跡が残っていた。何かがかかっていた場所の跡だったが、何をかけていたのか、すぐには思い出せなかった。

退去当日の朝、リツ子は五時半に起きた。最後に部屋を一回りした。台所を見た。窓を見た。トイレと風呂場を確認した。何も残っていないことを確認した。玄関に出て、靴を履いた。ドアを開けた。振り返らなかった。鍵を管理会社の郵便受けに投げ入れて、リツ子は浜田の家へ向かった。ダンボール箱を一つ、ゴミ袋を二つ。それだけを持っていた。それが二十年分だった。

浜田の家に着いたのは午前八時過ぎだった。鍵で扉を開けて、中に荷物を置いた。昨日開けた窓はまだ閉まったままで、部屋は少し冷えていた。リツ子は窓を一枚だけ開けた。朝の光が入ってきた。ダンボールを隅に寄せ、ゴミ袋を台所に置いた。そのまま畳の上に座った。何もない部屋だった。自分の呼吸の音が少し響いた。消費者金融への今月の返済は、来週の月曜日だった。返済額の七千円が、今月の手元の現金の約半分にあたった。光熱費の名義を変える手続きも、区役所への届けも、まだ残っていた。清掃の仕事の通勤時間が以前より二十分ほど伸びることも、計算し直さなければならなかった。リツ子は畳の目を見ていた。古い畳の少し毛羽立った表面を、指先でなぞった。何かを感じたわけでも、考えたわけでもなかった。ただそこに座っていた。ここが今日から自分の場所だということを、頭ではなく体の方がまだ知らないでいるようだった。しばらくしてリツ子は立ち上がった。台所に行き、持ってきた鍋を一つ取り出した。今日の夕方までにガスが使えるかどうかを確認しなければならない。それが今日の最初の仕事だった。

浜田の家で目を覚ますようになって、一週間が経った。初めの三日間は、朝になるといつも一瞬だけ、ここがどこか分からなかった。天井の木目が違う。光の入り方が違う。起き上がってから、ああ、ここだと思い出す。それだけのことが妙に体力を使った。二十年間同じ天井を見て起きてきた人間には、場所を覚え直すということがこれほど時間のかかることだとは思っていなかった。四日目からは、天井を見て迷うことがなくなった。体が先に覚えた。ガスは使えた。水道も問題なかった。電気の名義変更は二日かかったが、その間は浜田が立て替えてくれた。リツ子は後で必ず払うと言った。浜田は「そういうことは気にしないでください」と言った。それ以上は言わなかった。リツ子も言わなかった。転居届けは、引っ越しから五日後に区役所に出した。新しい区の福祉課の窓口で、住居給付金の申請について相談した。担当者は三十代の男性で、リツ子の事情を一通り聞いてから、「前の区での申請の途中経過があれば、書類を自費してください」と言った。リツ子は翌日、前の区の福祉課に電話をかけて、書類の転送を依頼した。前の区の田中は電話口で、「転居先の区への引き継ぎ書類を準備します」と言った。少し間があってから、「お体に気をつけてください」と付け加えた。リツ子は「ありがとうございます」と言った。田中が言ったその言葉が、仕事の言葉なのか、それ以外の何かなのか、リツ子には分からなかった。どちらでも構わなかった。

消費者金融への第一回目の返済日は、引っ越しから十日後に来た。リツ子はコンビニエンスストアのATMで七千円を払い込んだ。画面に残高が表示された。十四万三千円と少し。金利分だけで毎月二千円以上が消えていく計算だった。手帳に返済額と残高を書き込んでから、ATMの前を離れた。コンビニを出ると、外は曇っていた。

その日の夜、リツ子は仕事に出た。清掃のビルまでの道のりが、以前より二十分ほど長くなっていた。電車を一度乗り換えて、駅から歩く。その二十分の差が、仕事終わりの疲れた体にはじわりと効いてくることを、最初の週で知った。帰宅が午前六時半を過ぎるようになった。更衣室に入ると、吉田がすでに着替えを終えていた。「白鳥さん、遠くなりましたね」と吉田は言った。立花から聞いたのだろう。「ええ、少し」とリツ子は答えながらロッカーを開けた。吉田はしばらく黙ってから、「うちの近所に、前に流行った清掃の仕事の空きが出るかもしれないって話があって」と言った。「夜じゃなくて日勤なんですけど、もしよかったら聞いてみますよ」と続けた。リツ子は着替えの手を止めた。吉田の方を向いた。吉田はリツ子の目を見なかった。ロッカーの扉を閉めながら、「まあ、確定じゃないんですけど」とだけ言った。「ありがとうございます」とリツ子は言った。「もし詳しいことが分かったら、教えてください」吉田はうなずいて、更衣室を出た。リツ子は着替えを続けた。吉田の申し出が本当に実るかどうかは分からなかった。吉田自身も確かなことを言っていなかった。しかし、誰かが自分のことをそういう風に気にかけていたのだということを、リツ子はしばらく頭の中で確かめた。確かめながら、作業服のボタンを止めた。

三週間が過ぎた。新しい区の福祉課から、住居給付金の審査結果が出たと連絡があった。リツ子は翌日、窓口に出向いた。担当の男性は書類を広げて、「審査の結果、給付の対象となることが認められました」と言った。給付期間は最長三ヶ月で、月に三万二千円がリツ子の口座に振り込まれる。ただし、その間もハローワークへの定期的な報告と、就労活動の継続が条件になる。リツ子は書類を受け取りながら、うなずいた。三万二千円。浜田の家では家賃が発生しないため、光熱費だけが必要だった。その分を差し引けば、消費者金融への返済に充てることができる。完全ではないが、数字が少しだけ動く余地ができた。「ありがとうございます」とリツ子は言った。担当者は書類を整えながら、「給付期間の三ヶ月の間に、なるべく安定した収入の仕事を見つけてください」と言った。事務的な言葉だったが、リツ子にはその言葉が空虚には聞こえなかった。できることをするしかない。それは分かっていた。

その翌週、吉田から連絡が来た。日勤の清掃の仕事が一枠、という内容だった。場所は浜田の家から電車で十五分ほど。週に四日、午前八時から午後三時まで。日当は今の夜間清掃よりも低いが、日勤であることと週の日数が増えることで、月の収入はほぼ同じになる計算だった。リツ子はその日のうちに電話をかけた。担当者と十分ほど話して、翌週に面接の日程が決まった。面接は商業施設の裏手にある管理会社の事務所で行われた。担当者は五十代の女性で、話し方がはっきりしていた。履歴書を見ながら、「清掃の経験が長いですね」と言った。リツ子はこれまでの仕事を説明した。担当者はいくつか確認をしてから、「現在のお住まいはどちらですか」と聞いた。リツ子は新しい住所を答えた。今度は、引っ越しの途中ですとは言わなかった。言わなくて済んだ。担当者は地図を確認して、「通勤は問題なさそうですね」と言った。それだけだった。一週間後、採用の連絡が来た。来月から勤務開始という内容だった。リツ子は電話を切ってから、手帳に書き込んだ。来月から日勤、週四日。その下に、夜間清掃の終了を立花に伝えることと書いた。

その夜、リツ子は立花に電話をかけた。事情を説明すると、立花は「そうですか」とだけ言った。少し間があってから、「良かったですね」と続けた。声に感情らしいものはなかったが、リツ子にはその短い言葉が十分だった。「来月の何日からですか」と立花は聞いた。日程を伝えると、「では、今月末でこちらは退職ということで手続きします」と言った。「吉田に伝えておきます」とも言った。「お世話になりました」とリツ子は言った。立花は「こちらこそ」と言った。それで電話は終わった。

五月の下旬になっていた。浜田の庭の雑草が、少し前に比べて伸びていた。リツ子は休みの日の午前中に庭に出て、草を抜いた。軍手をはめて、根のあるものを丁寧に抜いた。一時間ほどかけて、縁側の前の一角だけをきれいにした。全部はできなかった。それでも少しだけ土が見えた。浜田が週に一度だけ様子を見に来た。その日も、ちょうど庭に出ていたリツ子と顔を合わせた。浜田は庭を見て、「きれいになってきましたね」と言った。リツ子は「少しだけやってみました」と答えた。浜田は縁側に腰を下ろして、「親父がここで夕方よく座っていたんです」と言った。リツ子は手を止めた。浜田の顔は感傷的ではなかった。ただ、思い出したことを声に出したという感じだった。リツ子は軍手を外しながら、「いい場所ですね」と言った。浜田は「そうですね」と言って立ち上がった。「では」と言って、帰って行った。その後ろ姿を見ながら、リツ子は土のついた軍手を持ったまま、しばらく立っていた。

直人から連絡が来たのは、六月に入ってすぐのことだった。メッセージアプリに短い文が届いた。「どこにいる」と書いてあった。リツ子はしばらく画面を見ていた。返信するかどうか迷った。迷ってから、新しい住所を送った。それだけにした。直人から返信は来なかった。二日後、また短い文が来た。「金貸してくれ」と書いてあった。リツ子は画面を見た。文字を三回読んだ。それから画面を閉じた。返信しなかった。その夜、リツ子は布団に入りながら、直人のことを考えた。三十八年間、あの子の親だった。小学校の入学式のランドセルのことも、中学の時の骨折のことも、高校を中退すると言ってきた夜のことも覚えていた。覚えていたが、それと今の自分の手元の現金とは別の話だった。もう渡せるものがなかった。渡せるものがなければ、渡せない。それだけだった。後悔があるかどうかは、リツ子にはよく分からなかった。ただ、その夜はよく眠れた。

六月の中旬、日勤の仕事が始まった。最初の日、リツ子は三十分前に現場に着いた。担当の係長は四十代の男性で、初日は一緒に回りながら作業の手順を確認した。リツ子は黙って従って、一通り覚えた。昼休みに、他の清掃員たちと小さな休憩室でお茶を飲んだ。全員がリツ子より年下だったが、誰も年齢のことは言わなかった。午後三時に仕事が終わり、外に出ると日差しがあった。夜間清掃の時は、仕事が終わると夜明け前か早朝で、空がいつも薄暗かった。明るい時間に仕事が終わるという感覚が、リツ子にはしばらく慣れなかった。空が明るいまま家に帰るということが、これほど異質に感じられるとは思っていなかった。帰り道、スーパーマーケットに寄った。野菜が安くなっている時間帯だった。大根と玉ねぎとほうれん草を買った。合わせて二百円と少し。レジに並びながら、今夜は味噌汁を作ろうと思った。久しぶりにきちんと作ろうと思った。家に帰り、台所に立った。鍋に水を入れて、ガスにかけた。大根を切りながら、包丁の音が部屋に響いた。一人分だけの音だったが、その音がリツ子には、なぜかその日に限って、ちゃんとした音に聞こえた。

七月になった。住居給付金の二回目が口座に入った日、リツ子は消費者金融のATMで一万二千円を返済した。最低返済額より五千円多く払った。残高が十三万円を切った。完済までまだ遠い。しかし、数字は動いている。動いているということが、止まっていないということだった。ハローワークへの月次報告も続けていた。担当者は毎回同じ人ではなかったが、リツ子は毎回就労活動の記録を自費して、淡々と報告した。担当者は書類を確認して、スタンプを押した。それだけの手続きだったが、リツ子は欠かさなかった。欠かすことで何かが崩れる気がした。吉田とはもう同じ現場では働いていなかった。しかし、月に一度ほど近況を知らせる短いメッセージが届いた。リツ子も短く返した。それだけの関係だったが、そのメッセージが届くたびに、リツ子は少しだけ画面を見た。

秋になりかけた頃、リツ子は庭の草をまた抜いた。今度は縁側の前だけでなく、庭の半分まで手をつけた。土が乾いていて、根が深いものは抜きにくかった。それでも二時間ほどかけて、ある程度きれいにした。終わってから縁側に腰を下ろして、水を飲んだ。庭に土が見えていた。あと何年ここにいられるかは分からなかった。浜田が事情の変化でこの家を必要とすることになれば、出なければならない。消費者金融の借金がなくなるまで、あと何年かかるかも分からなかった。年金だけになった時、日勤の仕事がなくなった時、体が思うように動かなくなった時、その時どこにいるかを考え始めると、輪郭がぼやけた。リツ子はそれをずっと考え続けることをしなかった。考えることと、考え続けることは違う。問題を知っていることと、問題の中に沈むことは違う。その境い目を、リツ子はこの数ヶ月の間に、言葉としてではなく体の感覚として覚えた。水を飲み終えて、コップを置いた。庭の向こうに、隣の家の屋根が見えた。その向こうには空があった。特別な空ではなかった。ただの、秋の始まりの空だった。

白鳥リツ子の話は、ここで終わりではない。しかし、今日のところはここまでにしておく。彼女がこの先どう生きるかは、まだ誰にも分からない。給付金が終わる。体がどこかで言うことを聞かなくなる。直人がまた現れる。浜田の事情が変わる。借金が少しずつ減っていく。日勤の仕事が続く。そのどれが来るかを、リツ子自身も知らない。ただ、今日も草を抜いた。今夜も夕飯を作る。明日も仕事に行く。それが続いている。

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