朝の台所で味噌汁の鍋をかき混ぜていた私の手が、ふと止まった。リビングから聞こえてくる息子夫婦の声が、はっきりと耳に入ってきたからだ。
「お母さん、最近うるさくない?」
「掃除の仕方とか、料理の味付けとか、いちいち口出ししてきてさ」
「まあ、母さんも年だからな」
「でも、ここは俺たちの家なんだから、母さんにも分かってもらわないと」
「そうよね。お母さんは、遺相ろ老ろみたいなものなんだから」
その言葉が、私の心に深く突き刺さった。
私は王野知恵子、68歳。農教で41年間働き、今は理事を務めている。息子の順一が結婚して10年、同居を始めてから3年が経つ。自宅を売って得た1000万円を息子に渡し、このマンションの頭金にしたのは誰だったのか。孫の世話を5年間、毎日欠かさず続けてきたのは誰だったのか——そんな思いが頭をよぎるが、口には出さない。
湯気の向こうで、孫の声まで聞こえてきた。
「おばあちゃんも、邪魔物扱いされてる気がするって、昨日友達に言ったんだ」
私は静かに包丁を置いた。震える手を見つめながら、心の中で何かが音を立てて崩れていくのを感じていた。
台所の椅子に腰を下ろし、これまでの人生を振り返る。
農教で朝7時から夜遅くまで働き続けた日々。定年まで一度も長期休暇を取らず、地域の農家のために尽くしてきた。息子の順一が大学に進学する時も、迷わず学費を全額負担した。「母さん、ありがとう」と言ってくれた息子の笑顔が、今でも忘れられない。4年間で600万円. 就職が決まらずにいた時期の生活費も、文句一つ言わずに援助した。結婚式の費用300万円も、「母さんしか頼れる人がいないんだ」という言葉に喜んで出した。家具や家電も、すべて私が揃えた。
「おばあちゃん、大好き」
そう言って私に抱きついてくれた小さな陽太。あの温もりのために、私はすべてを捧げてきた。3年前、「母さんも一緒に住もうよ。陽太も喜ぶし」という順一の言葉を信じて、住み慣れた30年の自宅を売却した。2000万円という代金を、迷うことなく息子に託した——それが今や「遺相ろ老」と呼ばれる私の献身は、一体何だったのか。
同居が始まった最初の数ヶ月は、まだ良かった。まゆも「お母さん、よろしくお願いします」と笑顔で接してくれていた。しかしそれは、長くは続かなかった。
ある日の夕方、リビングでテレビを見ていると、まゆが来た。
「お母さん、ちょっといいですか? 」
彼女の声は冷たかった。
「リビングは、私たち家族の憩いの場なんです。お母さんは自分の部屋でゆっくりされた方がいいんじゃないですか」
「でも、陽太と一緒にいたいんだけど——」
「陽太のことは、私たちが見ますから」
それからは、週に1回、30分だけ孫に会えるという約束になった。その日から、私の居場所は6畳一間の部屋だけになった。食事の時だけリビングに出ることを許されたが、それも長居は禁物だった。
「お母さん、食事は15分以内に済ませてください」
まゆが時計を指差した。
家事の負担も、日に日に増えていった。
「お母さん、時間があるんだから、掃除と洗濯はお願いしますね」
まゆの要求は次第にエスカレートした。朝5時に起きて朝食の準備、掃除機をかけ、拭き掃除、洗濯物を干し、買い物に行き、夕食の支度——1日10時間動き回っているのに、感謝の言葉一つない。
「お母さん、窓ガラスが汚れてますわ。ちゃんと拭いてください」
「トイレの掃除、手抜きしないでくださいね」
「洗濯物の干し方が雑ですよ。シワになったらアイロンかけ直してください」
まるで、無給の家政婦のような扱いだった。68歳の体にはこたえる重労働だったが、文句を言えば「いろのくせに」と言われるのが目に見えていた。
ある日、順一が言い出した。
「母さん、生活費として月10万円入れてくれる? 家のローンもあるし、陽太の教育費もかかるから」
「でも、年金は月15万円しかないのよ」
「だって、住ませてもらってるんだから当然でしょう」
「でも、家を売ったお金は——」
「あれは俺たちの家の頭金になったんだから、もうお母さんのものじゃない」
順一は冷たく言い放った>
「それに、光熱費も食費もかかってるんだよ。10万円でも安いくらいだ」
自宅を売った2000万円のことは、もう忘れられているようだった。あの時、「母さんのおかげで家が買えた」と涙を流して感謝していた息子は、もうどこにもいなかった。
最も辛かったのは、些細なことで人格を否定されることだった>
「お母さん、また同じ話してますよ。認知症じゃないですか」
まゆが笑いながら言う>
「昨日も同じこと聞きましたよ。病院行った方がいいんじゃないですか」
「この料理の味付け、古臭いんですよね。今時、こんなの誰も食べませんよ」
「その服、いつの時代のですか?

恥ずかしいから、外出する時は着ないでください」
「お母さんの部屋、なんか匂いがするんですよね。ちゃんと換気してますか」
順一もまゆの味方だった>
「母さん、もう少し今の時代に合わせたらどうだ? いつまでも昔のやり方じゃダメだよ」
「まゆの言うことも聞いてやってくれ。嫁との関係をよくするのは、母さんの役目だろう」
孫の陽太まで、私を避けるようになっていた>
「おばあちゃん、臭いんだって」
「ママが言ってたよ。おばあちゃんは邪魔だって」
「友達の家のおばあちゃんは、もっと若くて綺麗なのに」
10歳になった陽太の言葉は、まるで刃物のように私の心を切り刻んだ。あんなに可愛がって育てた孫が、今では私を汚いものを見るような目で見ている——
ある日、偶然聞いてしまった会話が、私の心を完全に打ち砕いた>
「お母さん、本当に鬱陶しいわね」
まゆの声が、寝室から漏れてきた>
「いつまでいるつもりなのかしら」
「まあ、もう少しの辛抱だよ」
順一が答える>
「そろそろ、施設のことも考えないとね」
「でも、お金がかかるでしょう」
「母さんの貯金があるはずだよ。農教の退職金もあったし、まだ1000万くらいは持ってるんじゃないか」
「それを使えばいいのね」
「そうそう。どうせ俺たちが相続するんだから、今使っても同じだろう」
「早く施設に入ってくれないかな」
「そうすれば、この部屋も物置きに使えるし、陽太の勉強部屋にしてもいいな」
私は部屋の布団の中で、声を殺して泣いた。息子は私を母親としてではなく、金ずるとしか見ていなかった।これまでの人生すべてを息子のために捧げてきたのに、私は邪魔物でしかなかった——
翌朝、食事の席でまゆが切り出した>
「お母さん、貯金通帳、預からせてもらえませんか? 」
「お母さんも高齢だし、お金の管理は私たちがした方が安心でしょう」
「……それは、拒否するんですか? 私たちを信用してないんですか?
」
順一も火生する>
「母さん、家族なんだから疑うなよ」
「でも、私のお金は——」
「俺たちが面倒見てやってるんだから、当然預かる権利があるだろう」
順一の顔が急に険しくなった〉私は震える手で箸を置いた〉もう、限界だった›この家に、私の居場所はない›息子夫婦にとって私はただの邪魔物›金を絞り取るだけの存在——その時、私の中で何かが決まった〉静かに、しかし確実に、反撃の時が来たのだと——
その日の午後、まゆの母親が遊びに来た〉私は台所で夕食の準備をしていたが、リビングから聞こえてくる会話に耳を疑った〉
「お母さん、いらっしゃい」
まゆの声は、普段私に向ける時とは全く違う温かさに満ちていた〉
「順一さん、お母さんが来てくださいましたわ」
「お母さん、いらっしゃいませ」
順一も立ち上がって、深く頭を下げた〉
「お元気そうで、何よりです」
「まあ、順一さん、相変わらず優しいのね」
まゆの母親の上品な声が響く〉
「まゆも、お似合いだわ」
「お母さん、お茶を入れますね»
「わたくしも、買ってきたんですよ」
まゆがせわしなく動き回る〉
「陽太、おばあちゃんにご挨拶しなさい」
「こんにちは、おばあちゃん」
陽太が元気よく挨拶した〉私への態度とは、雲泥の差だった〉
「まあ、陽太君大きくなったわね»
「ほら、お小遣いよ」
「ありがとう、おばあちゃん」
私は包丁を持つ手を止めた〉なぜ、まゆの母親にはこんなに優しくできるのか——
「お母さん、最近お体の調子はいかがですか? 」
順一が気遣わしげに訪ねる〉
「おかげ様で、元気よ»
「でも、一人暮らしは寂しくてね」
「それなら、いつでも泊まりに来てください」
まゆが即座に言った〉
「お部屋も、用意できますから」
「本当? でも、迷惑じゃない? 」
「とんでもない。お母さんが来てくださると、私たちも嬉しいです」
順一まで言う〉
「家族ですから、遠慮なんていりません」
家族——その言葉を聞いて、私の胸は激しく痛んだ〉私も、家族のはずなのに——
「まゆの作る料理は、本当に美味しいわね」
まゆの母親が褒める〉
「お母さんに教えていただいたおかげです」
まゆが謙遜する〉
「今日は特別に、お母さんの好きな煮物を作りましたの」
私が毎日作っている煮物は「まずい」「味が濃い」と文句を言われるのに——
「ところで、順一さんのお母様は——」
まゆの母親が訪ねた〉一瞬、リビングが静まり返った〉
「ああ、母は——」
順一が言い淀む〉
「お母さんは、自分の部屋でお休みです」
まゆが取りつくように言う〉
「最近、人と会うのを嫌がるんです」
「そう、大変ね」
「本当に、困ってるんです」
まゆが大げさにため息をついた〉
「私たちがどんなに気を使っても、心を開いてくれなくて」
「お年寄りは頑固だから、仕方ないわね」
「でも、うちのお母さんは違いますよね」
順一が言った〉
「若々かしくて、話も面白くて」
「まあ、順一さんったら」
まゆの母親が嬉しそうに笑う〉私は震える手で包丁を置いた〉涙がこぼれそうになるのを、必死でこらえた〉
夕方、まゆの母親が帰った後、まゆは元の冷たい態度に戻っていた〉
「お母さん、夕食の準備、まだですか?
」
「……もうすぐできます」
「遅いんですよね。容量が悪いんじゃないですか? 」
食卓に着くと、順一が切り出した〉
「お母さん、まゆの母親を見習ったらどうだ? 」
「どういうこと? 」
「あの人は品があって、話も楽しい」
「母さんも、少しは努力したらどうだ」
「私だって、母さんは文句ばかりだろう」
「そうよ」
まゆが口を挟む〉
「私の母は、いつも前向きで明るいんです」
「そうだよ」
順一が同調する〉
「うちの母親とは、大違いだ」
その時、陽太が無邪気に言った〉
「ねえ、なんでおばあちゃんを施設には入れないの?
」
「陽太! 」
まゆが慌てて息子を叱る〉
「だって、ママが言ってたじゃん」
「おばあちゃんが死んだら、お金が全部僕たちのものになるって」
私の箸が、カタンと音を立てて落ちた〉
「陽太、部屋に行きなさい」
順一が怒鳴る〉
「なんで? 本当のことじゃん」
陽太は不満そうに立ち上がる〉
「ママ、いつも言ってるよ」
「おばあちゃんの貯金があれば、新しい車が買えるって」
まゆの顔が真っ赤になった〉
「子供の言うことですから——」
「いいえ」
私は静かに言った〉
「よく、わかりました」
その夜、また息子夫婦の会話が聞こえてきた〉
「陽太のやつ、余計なこと言いやがって」
順一の苛立った声〉だが、まゆは言った〉
「でも、もう隠す必要もないんじゃない? どうせお母さんには、何もできないし」
「それも、そうだな」
「ねえ、本当に施設のパンフレット、取り寄せた?
」
「ああ、明日にでも見せてやるよ」
「月に10万の安いところで、いいわよね」
「どうせ、長くないんだから」
「母さんの貯金を使えば、5年は持つだろう」
「5年も生きるかしらね」
まゆが冷たく笑った〉
「まあ、早ければ早いほどいいけどな」
「相続税の対策も、しないとね」
私は布団を頭までかぶった〉もう、息子ではない——こんな人間を育てた覚えはない〉いや、私が甘やかしすぎたのかもしれない〉何でも与え、何でも許してきた結果が、これだった——
翌朝、順一が施設のパンフレットを持ってきた〉
「母さん、これ見てくれ」
「何これ? 」
「介護施設だよ»
「母さんももう年だし、一人で生活するのは大変だろう」
「ここで、生活してるじゃない」
「いや——俺たちも限界なんだ」
順一は冷たく言った〉
「母さんの面倒を見るのは、正直、負担なんだよ」
「お母さん」
まゆが畳みかける〉
「これはお母さんのためでもあるんですよ」
「プロの介護を受けた方が、幸せですよ」
「でも、お金が——」
「お母さんの貯金があるでしょう」
まゆが畳みかける〉
「それを使えば、いいじゃないですか」
「それに、母さんが施設に入れば、俺たちも楽になる」
順一が本音を漏らした〉
「お互いのためだよ」
私は施設のパンフレットを見つめた〉月額20万円——私の年金では、到底払えない金額だった〉貯金を切り崩せば数年は持つかもしれないが、その後はどうなるのか——
「……考えさせて」
私は小さく言った〉
「早く決めてくれよ」
順一が苛立たしげに言った〉
「来月には入所できるように、手続きを進めたいから」
その時、私の心は完全に決まった〉もう、この家には一日足りともいたくない〉でも、ただ出ていくだけでは、息子夫婦の思う壺だ〉私には、まだできることがある〉41年、農教で働いていた知識と人脈——そして、隠してきた切り札が——
静かな復讐の時が、ついに来たのだ——
その夜、私は寝室で静かに準備を始めた〉古い手帳を開き、農教時代の同僚の電話番号を確認する〉その中に、今は市役所で働いている元部下の名前があった〉明日、彼女に会いに行こう——
翌朝、私はいつも通り朝食を作り、黙って自分の分だけを食べた〉
「お母さん、今日は買い物に行ってください」
まゆが淡々と言う〉
「リストを置いておきますから」
「分かりました」
私は買い物袋を持って家を出た〉しかし、向かったのはスーパーではなく、市役所だった〉
「知恵子さん! 」
受付で私を見つけた元部下の山田さんが、駆け寄ってきた〉
「お久しぶりです」
「山田さん」
「ちょっと相談があって」
個室に案内された私は、世帯分離の手続きについて尋ねた〉
「世帯分離ですか? 」
山田さんは真剣な表情になった〉
「同じ住所でも、世帯が別なら可能ですよ」
「息子夫婦とは、実質的に世帯は別なの」
「私の年金で生活してるし、食事も別々のことが多いし——それなら、問題ありません」
「ただ、息子さんたちへの影響もありますよ」
「各種控除が受けられなくなりますし、児童手当ての計算にも影響します」
「それに——知恵子さんが別世帯になれば、息子さんは知恵子さんの財産に対する法的な管理を失います」
私は小さく微笑んだ〉
「それで、結構です」
手続きは、意外なほど簡単だった〉必要書類に記入し、拇印を押すだけ——30分後、私は正式に、息子夫婦とは別世帯となっていた〉
「知恵子さん」
山田さんが心配そうに言った〉
「大丈夫ですか?
」
「ええ」
私は静かに微笑んだ〉
「これでやっと、自由になれるわ」
次に向かったのは、農教の本部だった〉現在の理事長は、私の元部下だ〉
「知恵子さん、どうした? 」
理事長の田中が、温かく迎えてくれた〉
「実は、お願いがあって」
私は事情を説明した〉田中は黙って聞いていたが、次第に顔を曇らせた〉
「……そんなことが」
「知恵子さんが、そんな扱いを受けているなんて」
「それで、理事職の件なんだけど——」
「ああ、知恵子さんの理事職は、現役だよ」
「それに伴う特権も、すべて有効だ」
「土地の件ももちろん——あの土地は農教の所有だが、知恵子さんには現役使用権がある」
「書類上は、知恵子さんの名前になっているはずだ」
私は深く頭を下げた〉
「ありがとう」
「知恵子さん」
田中が真剣な顔で言った〉
「もし助けが必要なら、いつでも言ってくれ」
「農教は、仲間を見捨てない」
帰り道、私は銀行に寄った〉貯金通帳の名義と印鑑を変更し、息子夫婦が勝手に引き出せないようにした〉残高は800万円——退職金の残りだ〉これがあれば、当面の生活には困らない〉さらに不動産屋にも立ち寄った〉
「王野様、お久しぶりです」
担当者が笑顔で迎えた〉
「実は、賃貸物件を探していて」
「王野様なら、いい物件がありますよ」
「駅前の新築マンション」
「家賃は月8万円ですが、礼金は不要です」
「そう——見せてもらえる? 」
「ええ、もちろんです」
物件は素晴らしかった〉ワンリムだが、一人暮らしには十分な広さ〉セキュリティもしっかりしている〉
「いつから入居できますか? 」
「来週からでも、可能です」
「では、契約します」
全ての準備が整った〉私は家に帰ると、静かに荷物をまとめ始めた〉大切なものだけを選び、小さなスーツケースに詰める〉農教のリジバッチ、亡き夫の写真、そして母から受け継いだネックレス——夕食の時間になっても、私は部屋から出なかった〉
「お母さん、夕食よ」
まゆの苛立った声がする〉
「作りません」
「は?
何言ってるんですか? 」
「もう、あなたたちの家政婦ではありませんから」
まゆが部屋のドアを乱暴に開けた〉
「何様のつもりですか? 」
「私は王野知恵子」
私は静かに立ち上がった〉
「農教の現役理事です」
「そして——この家の土地の、実質的な所有者でもあります」
まゆの顔が青ざめた〉
「何を言って——」
「明日の朝、全てが分かりますよ」
私はスーツケースを持って、部屋を出た〉玄関で靴を履いていると、順一が駆けつけてきた〉
「母さん、どこへ行くんだ? 」
「私には、私の人生があります」
振り返らずに言った〉
「あなたたちも、自分たちの人生を生きてください」
「待てよ!
「話し合おう」
「もう、遅いです」
私は静かにドアを閉めた〉背後で息子夫婦の慌てた声が聞こえたが、もう振り返ることはなかった〉
タクシーでホテルに向かう車中、私は深く息を吸った〉68年の人生で、初めて自分のために行動したような気がした〉明日の朝、息子夫婦は世帯分離の通知を受け取るだろう〉そして、この家の土地が私の名義であることも知るだろう——
静かな復讐の第一歩を踏み出した夜、私は久しぶりに安らかな気持ちで眠りに着いた〉
翌朝7時、私の携帯電話が鳴り続けた〉息子からの着信を無視して、ホテルの朝食をゆっくりと楽しんだ〉久しぶりに自分のペースで食事ができることが、こんなにも幸せだとは思わなかった〉
8時過ぎ、ようやく電話に出た〉
「母さん! どこにいるんだ? 」
順一の怒声が響く〉
「おはよう、順一」
「おはようじゃない! 今すぐ帰って来い!
」
「なぜ? 」
「なぜって——陽太が、おばあちゃんは聞くんだよ! 学校に送る前に、いつも顔を見せるだろう」
私は小さく笑った〉
「陽太に、伝えてください」
「おばあちゃんは、邪魔物だから出ていったって」
「何を言ってるんだ? 」
「それより、郵便受けを確認した方がいいですよ」
電話の向こうで、ドアの開く音がした〉しばらくの沈黙の後、順一の震え声が聞こえた〉
「世帯分離——とけって、なんだこれは?
」
「通知の通りです」
私は冷静に言った〉
「私はもう、あなたたちの世帯員ではありません」
「勝手にこんなことして——」
「勝手に——私の人生を勝手に決めていたのは、誰ですか? 」
まゆの声が割り込んできた〉
「お母さん! 大変なことになってますよ! 」
「児童手当てが、打ち切られるって通知が来たんです!
」
「あら、それは大変ね」
「年間36万円も減るんですよ! 」
「私には、関係ありません」
「関係ないって——あなたのせいでしょう! 」
「いいえ——あなたたちが私を、家族として扱わなかった結果です」
そして、私は切札を切った〉
「ところで——土地の件は、もう確認しましたか? 」
「土地——?
」
順一の声が詰まった〉
「その家が立っている土地です」
「登記簿を、確認してみてください」
電話の向こうで、慌ただしい物音——パソコンを開く音、キーボードを叩く音、そして——
「……信じられない」
「土地の名義が——母さんになってる」
「正確には、農教の所有地ですが、私に現役使用権があります」
私は淡々と説明した〉
「農教の理事特権の一つです」
「41年間の功労に対する、報償として」
「そんなこと——知らなかった」
「知らせる必要がありましたか? 」
「家族じゃないんでしょう」
まゆが泣き叫ぶような声をあげた〉
「じゃあ——この家は、一週間以内に出て行ってください! 」
「出ていけって——ローンがまだ2000万も残ってるのよ! 」
「それは、建物のローンでしょう」
「土地は、別です」
「でも——どこに行けばいいのよ」
「施設のパンフレットがあったでしょう」
「あなたたちこそ、そこに入ったらどうですか?
」
順一が必死に訴えた〉
「母さん、話し合おう」
「一度、会ってくれ」
「会って、何を話すんですか? 」
「謝りたいんだ」
「俺たちが悪かった」
「今更ですね」
「陽太のためにも——頼む」
陽太——その名前を聞いて、少しだけ心が揺れた〉でも、すぐに思い出した〉「おばあちゃん、臭い」と言った孫の顔を——
「陽太には、毎月一回会います」
「それ以上は、無理です」
そう言って、私は電話を切った〉
翌日、私は新しいマンションの鍵を受け取った〉まっさらな部屋に初めて足を踏み入れた時、深い解放感に包まれた〉ここは、私だけの城——誰にも邪魔されない領域だ〉引っ越し業者に頼んで、最小限の荷物を運び込んだ〉その間にも息子夫婦からの電話は鳴り続けたが、すべて無視した〉
夕方、農教の田中理事長から連絡があった〉
「知恵子さん、息子さんが農教に来たよ」
「そうですか」
「土地の件で、相談に来たんだが——もちろん断った」
「現役使用権は、知恵子さんのものだ」
「ありがとうございます」
「それと、知恵子さん」
「理事会で決まったことがある」
「何でしょう? 」
「月一回の理事会出席と、若手職員への指導」
「報酬は、月に10万円」
「どうだろう? 」
私は息を飲んだ〉
「そんな——もう68歳ですよ」
「年齢は関係ない」
「知恵子さんの経験と知識が、必要なんだ」
「……ありがとうございます」
「喜んで、お受けします」
電話を切った後、私は窓から夕日を眺めた〉新しい人生が、始まろうとしている——
その夜、インターホンが鳴った〉モニターを見ると、順一とまゆが立っていた〉二人とも、憔悴しきった顔をしている〉
「母さん、開けてくれ」
私はインターホン越しに答えた〉
「何のようですか?
」
「お願いだ」
「土地の件を、考え直してくれ」
「無理です」
「じゃあ、せめて三ヶ月待ってくれ」
「引っ越し先を探すから」
「一週間と言いました」
まゆが泣きながら言った〉
「お母さん、本当にごめんなさい」
「私たちが間違ってました」
「ごめんなさい」
「泣き落としなら、警察を呼びますよ」
「警察——? 」
「高齢者虐待防止法を、ご存知ですか? 」
「私が訴えれば、あなたたちは罪に問われます」
二人の顔が真っ青になった〉
「訴えるつもりはありませんが——二度と、私に近づかないでください」
「母さん! 」
順一が最後の訴えをした〉
「俺を——息子だと思ったことはないのか?
」
私は少し考えてから、答えた〉
「息子だと思っていました」
「だから、すべてを捧げた」
「でも、あなたは私を母親だと思っていなかった」
「それが、答えです」
インターホンを切ると、廊下で泣き崩れる声が聞こえた〉でも、もう私の心は動かなかった〉
翌日、まゆの母親から電話があった〉
「知恵子さん、どうしてまゆたちに、あんな仕打ちを? 」
「仕打ち? 」
私は聞き返した〉
「私は、何もしていません」
「ただ、自分の権利を行使しただけです」
「でも——家族でしょう」
「あなたの娘さんは、私を家族だと思っていませんでした」
「それは、違います」
「では、なぜあなたは歓迎されて、私は邪魔者扱いされたんですか? 」
相手は言葉に詰まった〉私は冷たく笑った〉
「娘さんに伝えてください」
「人を大切にしないものは、いずれ自分も大切にされなくなると」
一週間後、息子夫婦は家を出た〉どこへ行ったかは知らない〉ただ、農教の仲間から聞いた話では、まゆの実家に転がり込んだらしい〉土地は農教に変換され、新しい若手職員の寮として活用されることになった〉私の名前を冠した寮として——
新しいマンションでの生活は、快適だった〉好きな時間に起き、好きなものを食べ、好きなことをする〉理事の仕事も充実している〉若い職員たちは私を「知恵子先生」と呼び、熱心に話を聞いてくれる〉
ある日、スーパーで陽太とばったり会った〉
「おばあちゃん」
陽太は戸惑ったような顔で、私を見た〉私は優しく聞いた〉
「うん」
「おばあちゃん——ごめんね」
「臭いなんて、言うんじゃなかった」
「ママが言ってた」
「おばあちゃんは、本当はすごい人だって」
私は苦笑いした〉今更、そんなことを言っても遅い——でも、陽太に罪はない〉
「陽太——今度、おばあちゃんの家に遊びに来る?
」
「月に一回なら」
陽太の顔が明るくなった〉
「うん、行く」
別れ際、陽太が言った〉
「おばあちゃん、かっこいいね」
その言葉が、なぜか一番嬉しかった〉私は、本当の意味で自由になったのだ——
新しいマンションでの生活が始まって三ヶ月が経った〉朝の光が差し込む部屋で、私は優雅にコーヒーを飲んでいた〉農教理事としての仕事は、週に三日——今日は、若手職員への研修の日だ〉
「知恵子先生、おはようございます」
農教の会議室に入ると、20人ほどの若手職員が立ち上がって挨拶した〉彼らの真剣な眼差しが、私に新しい生がいを与えてくれる〉
「今日は、農家さんとの信頼関係の築き方について、話します」
私が話し始めると、皆が熱心にメモを取る〉41年の経験は、決して無駄ではなかった〉むしろ、今その価値が最も輝いている——
昼休み、一人の女性職員が近づいてきた〉
「知恵子先生」
「実は——相談があって」
「どうしたの? 」
「舅姑の両親との同居で悩んでいて——先生も、息子さんと同居されていたと聞きました」
私は少し考えてから、答えた〉
「同居は、簡単じゃないわ」
「でも、一番大切なのは自分の尊厳を守ること」
「我慢にも、限界があるのよ」
「先生は、どうやって——」
「私は遅すぎたけど——あなたは、まだ間に合う」
「きちんと話し合って、お互いの境界線を決めなさい」
「それができないなら——別居も、選択肢の一つよ」
彼女は深く頷いた〉
「ありがとうございます」
「勇気が、出ました」
午後、私の携帯に着信があった〉陽太からだった〉
「おばあちゃん、今度の日曜日、会える? 」
「もちろん——約束の月一回ね」
「うん、楽しみにしてる」
日曜日、陽太は一人でやってきた〉手には、小さな花束を持っている〉
「おばあちゃん、これ——ありがとう」
部屋に上がった陽太は、キョロキョロと見回した〉
「おばあちゃんの家、すごく綺麗」
「自分の好きなように、暮らしてるからね」
陽太と一緒に昼食を作った〉私が料理を教えると、陽太は真剣に聞いている〉
「ねえ、パパとママ——最近、喧嘩ばかりなんだ」
陽太がぽつりと言った〉
「そう」
「おばあちゃんのことで、意見が合わないみたい」
「パパは謝りに行きたいって言うけど——ママは無理だって」
「大人の事情は、複雑なのよ」
「でも——僕は、おばあちゃんが好き」
陽太はまっすぐ私を見た〉
「ママの言うことを信じてたけど——違ってた」
「過去のことは、忘れましょう」
「大切なのは、これからよ」
その時、陽太が意外なことを言った〉
「おばあちゃん——パパから聞いた」
「おばあちゃんが、農教の偉い人だって」
「偉くはないわ」
「ただ、長く働いただけ」
「でも——すごいよ」
「僕も将来、おばあちゃんみたいに強くなりたい」
その言葉に、私は心が温かくなった〉
陽太が帰った後、一本の電話があった〉順一からだった〉
「母さん——陽太が、楽しそうに帰ってきた」
「ありがとう」
「当然のことをしただけよ」
「母さん——本当に、申し訳なかった」
順一の声は震えていた〉
「俺たちは——とんでもない間違いをした」
「今更、何を言っても——分かってる」
「でも、言わせてくれ」
「母さんは、俺にとって世界で一番大切な人だった」
「それを忘れて——金や体裁ばかり気にして」
「順一——今まゆの実家にいるんでしょう」
「……ああ」
「狭いよ」
「まゆの母親も——最初は優しかったけど、今は邪魔者扱いだ」
因が応報——私は心の中で呟いた〉
「それで、何も求めない」
「ただ——陽太だけは、これからも会ってやってくれ」
「それは、約束したから」
電話を切った後、私は深いため息をついた〉息子夫婦への怒りは、もうない〉ただ、失った時間への寂しさだけが、残っている——
夜、農教の理事仲間と食事会があった〉
「知恵子さん、若返ったね」
田中理事長が言った〉
「自由になったからかしら」
「一人暮らしは、寂しくない?
」
「全然——むしろ、充実してるわ」
「知恵子さんの講義、若手に大好評だよ」
別の理事が言った〉
「来年度は——正式に教育担当理事になってもらえないか」
「まあ、そんなの——」
「知恵子さんしか、いない」
「報酬も、上げるから」
私は嬉しさを隠せなかった〉68歳にして、新しいキャリアが開けるなんて——
帰宅すると、郵便受けに一通の手紙が入っていた〉まゆからだった〉
「お母さん——今更、こんな手紙を送る資格はないと分かっています」
「でも、どうしても伝えたくて——」
「私は、最低な嫁でした」
「お母さんの優しさを当たり前だと思い、感謝することを忘れていました」
「今、私も実の母に同じ扱いを受けて——初めて、お母さんの気持ちが分かりました」
「本当に、ごめんなさい」
「いつか——許してもらえる日が来ることを、願っています」
手紙を読み終えて、私は窓の外を見た〉夜景が、キラキラと輝いている〉許すか許さないか——それはまだ分からない〉でも、一つだけ確かなことがある〉私は今、本当に幸せだということ〉自分の力で立ち、自分の意思で生きる——それがどれほど尊いことか、今なら分かる〉
「遺相ろ老」と呼ばれた私は、今では「先生」と呼ばれている〉「邪魔者」と言われた私は、今では必要とされている〉「ここはお前の家じゃない」と言われた私は、今、本当の自分の家を手に入れた〉人生は、何歳からでもやり直せる〉大切なのは、自分を信じる勇気と、一歩踏み出す決意だけ——
私は王野知恵子、68歳〉農教の理事——そして何より、自由で幸せな一人の女性〉これからの人生を、誰にも遠慮することなく、堂々と生きていく——