「社長、いい加減にしてくださいよ」
二階堂は社長室のドアを開けるなり、そんな言葉を吐き捨てた。後ろには同じく東大卒の新入社員、八ハが立っている。二人の手には、何やら書類の束が握られていた。
「この会社に入ってもうだいぶ経つっ てのに、俺らの給料、一円も上げないなんて、一体どういうつもりですか」
俺、飯村正義は、今年四十七歳になる。世間一般によくいる、普通のおっさんだ。様々なブランドのアパレル商品を取り扱う会社、Mクローゼットを経営している
俺は十代の頃から洋服が好きで好きでたまらなかった。しかし当時、都会の実店舗でしか販売していなかったから、ネット通販などはもちろん、まだ生まれてもいない。地方の片隅で暮らしていた俺は、目当てのデザイナーズブランドの洋服を手に入れることは、ほとんどできなかった
その悔しさが原動力となって、俺は大学在学中にMクローゼットを立ち上げた。大学では文学を専攻していたので、周りからは畑違いだと笑われることも、よくあったっけ。それでも俺は、大学の講義の傍らで、アパレルや通販サイトの勉強を続けた
立ち上げた当時は、当然ながら誰からも相手にされなかった。大手通販サイトのように、お客さんがすぐに信用してくれるほどの実績など、皆無だったからだ。正直、心が折れそうな時期も何度かあった
しかしSNSでの宣伝活動によって徐々に知名度は向上し、無料サンプルや会員限定セールなどのお得なキャンペーンを度々開催したことも功を奏した。近年、うちの会社の売上は右肩上がりを続けている。そのおかげで、取引相手であるアパレルブランドも同様に増え続けているところだ
今、うちの会社はハイティーン向けのブランド「カンターレ」との契約合意に向けて、調整に入っている。カンターレは、ヨーロッパのレトロテイストを売りにしていて、十代の女性から絶大な支持を得ているブランドだ。どおり人気モデルがファッションショーでこのブランドの服を着用したことで、人気が爆発した
カンターレは、これまでずっと店舗販売しか行っていなかった。しかし昔の俺のように、近くに店舗がないファンからの要望に答えて、この度ついに通信販売を行うことに決めたらしい。そしてその販売を担う会社として、うちが選ばれたわけだ
なんとも幸運なことである。なんとしてでもこの契約を強いものにしていきたい。その思いのもと、社員みんなで今日も汗を流している最中だ
カンターレとの商談を担当しているのは、営業部の部長と新入社員二名の計三名。部長とは、実は大学時代からの友人である。そのため創業時から世話になっているうちの一人だ。何でも話せる気心の知れた相手だからこそ、今回の担当に選ばせてもらった
そして、なぜこんな大事な商談に新入社員を二名も担当させたのかと言えば、それはひとえに彼らの成長を促すためだ。今年、うちに入ってきた新入社員は五名。なんと全員が東京大学の卒業生だ。五人は大学時代よくつるんでいた仲間らしい
営業部に配属されたそのうちの二名、二階堂と八ハが、部長と共にカンターレとの商談を行っている。五人のうちのリーダー格である二階堂は、入社早々、挨拶する初対面の俺に向かって、給料アップの交渉をしてきた
「社長、給料もっとあげてくださいよ。俺たち東大出てんですから。新入社員だからって舐めた金額のままにするつもりなら、こっちにだって考えがありますからね」
そんな物騒な言葉を聞いて、俺は思わず面食らった。少なくとも、社長に対する言葉ではない。呆然とするしかない俺を笑うように見ていた二階堂と八ハの顔は、今でも思い出せる
どうやら、そんな俺の曖昧な態度がいけなかったらしい。以来、二人は会社の誰に対しても高圧的に接するようになってしまった。もっと会社のトップとして、叱るべき態度を取ればよかったと、今でも後悔に駆られる。しかし過ぎ去った過去は、誰であっても変えることはできない
そんなことがあったからこそ、俺はあえて二階堂と八ハを大事な商談の担当に選んだ。俺が期待をかけていることが伝われば、彼らだって心を入れ替えるかもしれない。そんなことを思いながらの人選だった
カンターレとの商談は、大方を合意でまとまりかけていた。そして最終的な交渉を数日後に控えていたある日、俺は社長室でメールをチェックしていた
ドアをノックする音が、にわかに響いた。俺が返事をすると、入ってきたのは二階堂と八ハの新入社員二人。彼らは手に何やら書類の束のようなものを持っていたが、俺はさして気に留めず要件を聞いた
すると二階堂は、突然こんなことを言い出すではないか
「社長、いい加減にしてくださいよ。この会社入ってもうだいぶ経ったのに、俺らの給料、一円も上げないなんて、一体どういうつもりですか」
俺はあの時のように、またしてもポカンとしてしまいそうになった。慌てて二階堂に、なぜそんなことを言うのか尋ねた
二階堂と八ハは、自分たちのような高学歴な人間が、今のような給料で働かされているのはおかしいと、しきりに言い立てた
「給料というものは、学歴だけで全てが決定されるものではない。の人の能力や働きによって変動するものだ」
俺はそう伝えたが、に腕押しである。二階堂は手に持っていた書類の束を、俺の机の上に投げつけて続けた
「今すぐ給料十倍にしないと、他の部署の奴らも含めて、東大卒の俺ら全員やめますんで。のつもりでいてくださいね」
ちっとも俺の言葉を聞く気はなさそうだ。俺は彼らと口を聞くのが、とても虚しくてたまらなくなった
しかしここで会話を終了してしまってはならない。Mクローゼットの社長として、たとえどんな人間であっても、社員とは誠摯に向き合わなくてはならない。俺は襟を正して、彼らの言い分をもう一度詳しく聞こうとした
しかしそれは、時間の無駄だったことに間もなく気づく。未道はただただ給料を上げろと同じことを繰り返すばかりなのだ
俺は徐々に腹が立ってきたが、怒りに支配されるわけにはいかない。ここで怒りに任せて怒鳴りつけたりしては、二階堂たちの思う壺である。俺は静かに深呼吸して、アンガーコントロールに徹した
そんな俺とは反対に、二階堂は俺を馬鹿にし始めた
「ところで社長って、どっかのF大学出身ですよね。んな人がトップとか、この会社マジで大丈夫なんですか」
FランとはFランクの略語で、偏差値の低い、いわゆる三流以下の大学のことだ。俺は思わず顔を歪めた
確かに俺は大卒といえど、決して全国的に有名な大学の出身者ではない。俺は本当は、都内の国立有名大学が第一志望だった
俺は高校時代、必死に勉強したおかげで、学年トップの成績を常に納めていた」だから俺は、その大学の試験を十分にパスできるだけの学力も身につけていたのだ
しかし入試当日、俺は四十度近い高熱を出してしまう」うなされながらも、どうにかして試験会場まで向かおうとする俺を、お袋は必死に止めてくれた」もしあのまま試験会場へと向かっていたら、きっとどこかで倒れてしまっていたことだろう」お袋には、今でも感謝している
こんな風に人には、それぞれ様々な事情というものがあるのだ」そんなことも考慮できない目の前の若者たちに、俺はすっかり失望してしまった」給料の額と同様に、学歴で人生が決まるわけではないことは明白だ
さすがに苛立った」俺は少し皮肉混じりに、こう尋ねた
「では、どうしてうちのような低学歴者が社長の会社に、わざわざ君たちは入社したんですか」
その問いかけに二階堂は小声で「うるせえ」とつぶやき、八ハは下を向いて答えなかった」なんて奴らだろう」人として完全に終わっている」国内トップの大学で学んだところで、こんな人間性では拉智が開かない
俺はとにかく、現時点で給料を上げることはできない。、十倍などは到底無理だと、諭すように告げた
二階堂は大げさにため息をつく」そして二人は、来客用のソファーに勝手にどさっとだらしなく腰かけた
「社長、本当にいいんですね。んな有能な人材、一気に五人も失うことになるのに」
「これだから、ちゃんとした大学出てないやつはダメなんだよ」
八ハはそれを聞いて、けたたましい笑い声をあげている」そして二階堂は俺に、こう言い放った
「カンターレとの契約も、きっと破談になるでしょうね」
俺はどういうことか尋ねた」すると二階堂は、中年の部長一人では、今をときめく若者向けのブランドとの契約を強引に持っていくことなどできるわけがない」それに部長も、大した大学を出ていないくせに、俺たちに色々命令するのは偉そうで許せないと、俺に告げた
そして部長を散々バカにするような酷い言葉を、次々とマシンガンのように放った
俺はとうとう我慢の限界を迎えた」俺だけを攻撃するのならば、まだ平気である」しかし長年仕事を共にしてきた部長のことも馬鹿にするなんて、許すわけにはいかない
俺は大きく息を吐いて、二階堂と八ハをじっと見つめた」未道はニヤニヤしながら言った
「何ですか? 何か文句でも」そんな目で新入社員を威圧するなんて、これはパワハですよ」SNSで告発しちゃおっかな」
カンターレとの商談が佳境を迎えている」今、SNSでの炎上騒ぎは絶対に避けたい」俺は仕方なく目をそらして俯いた
二階堂はそんな俺の様子を面白そうに眺めながら、もう一度給料を十倍にしないと全員でやめると繰り返している
そんな様子に、俺は思わずふっと笑う」その瞬間、二階堂と八ハが驚きのあまり、少し後ずさったのが分かった
机の上に投げ出されたままの書類を手に、俺は言った
「どうぞどうぞ。ああ、そんなことだろうと思ってましたけどね」
俺の言葉を聞いた二階堂と八ハは、ぎょっとしたようで互いに顔を見合わせている」二階堂は動揺を悟られないよう、俺をからかうような言葉で挑発した
「あれ? どうしました? 社長、頭大丈夫ですか」
「君たちよりは、よっぽどまともな頭をしていますよ」
俺は平然と言ってのけた」二階堂は顔を歪めた
「ところで、うちの会社が君たちをなぜ雇ったのか、本当の事情を知っていますか」
俺は二人に訪ねた」二階堂と八ハはわけがわからないらしく、「どういうことだ」としきりに呟いている
俺は真実を明らかにしようと決意した
「実は、君たちが世話になっていたゼミの神宮寺教授から、前に相談を受けたんですよ」うちのゼミに、どうしようもない五人組がいて困っているって」それで、うちの会社でどうか社会的に通用するちゃんとした大人になるように教育してくれないかって、教授に頼まれたおかげで、君たちはうちに入社できたんですよ」まあ、いわばコネ入社ですね」
二階堂は声を荒らげた
「神宮寺教授が」そ、そんなの嘘だね」大体、なんで東大の神宮寺教授と、Fラン出身の社長が知り合いなんだよ」
「俺は大学時代にバイトしていた喫茶店の常連客だった」神宮寺教授と次第に懇意になっていったこと」そして俺の高校時代の第一志望校が東大だったと知った教授が、当時特別に個人的に俺に講義をしてくれていたことを明かした
実はその講義で俺は、インターネットサイト運営の手法を教わったのだ」それ以来、神宮寺教授とはしばしば連絡を取り合っている中である」俺がMクローゼットを起業した時も、教授は色々なアドバイスと共に俺を応援してくれていた
二階堂と八ハは驚きのあまり、目を見開いたまま一言も発しない」俺は少し笑いながら続けた
「どうやら本当に何も知らなかったみたいですね」ああ、僕も神宮寺教授から口止めされていたんだけど、でも同じ会社に、大学時代つるんでいたはずの五人組がそのまま入社するなんて、少しはおかしいと思わなかったんですか?

」
本当に世間知らずのお坊っちゃんたちだ」俺の言葉に二階堂は切れたらしく、「ああ、くそ」と大声をあげた
「として、俺たち東大の人間を馬鹿にするのも大概にしろよ」この低学歴が」
「君たちはもう東大の人間ではない」もうとっくに卒業しているのだから、元東大の人間ですよ」
俺は訂正した」二階堂は鼻息荒く、声にならない声をあげた」八ハは、まだ俺の言葉が信じられないようで、「神宮寺教授がそんなことをするわけがない」とはめいている
俺は仕方なくスマホを取り出して、ある人の元へ電話をかけた
十数分後、慌てた様子で社長室にやってきたのは、他でもない東大の神宮寺教授本人だった」学生時代の恩師ご本人の登場に、二階堂と八ハはすっかり目を丸くしている
神宮寺教授は、早々にだらしなくソファーに腰かけている二階堂と八ハを叱りつけた
「お前らなあ」卒業してこのMクローゼットに世話になれば、多少はまともな人間に変わるだろうと期待していたのに」はあ]出身ゼミの教授として、私は本当に情けないよ」
本当にうちの会社へやってきた神宮寺教授の姿に、二階堂と八ハは声も出ないといった様子である」神宮寺教授は俺に対してしきりに謝っていた」だがこの人は何も悪くないのだ」俺は顔をあげるよう神宮寺教授を促した
二階堂はようやく口が聞けるようになったらしく、神宮寺教授に詳しい説明を求めた」神宮寺教授は、先ほど俺が二階堂たちに行ったのとほとんど同じ言葉を、彼らに伝えた
そして俺は、彼らの今までの給料は、実は全て神宮寺教授のポケットマネーから出ていることも付け加えた」だから俺の独断で給料を上げることなど、できるはずはない」最も二階堂たちがまともに働いてくれていたならば、うちの会社から正式に給料を出したいと申し出ることもできたのだが
神宮寺教授は、かつて俺に特別に講義をしてくれていたことからも分かるように、とても面倒見のいい人なのだ」ただ今回は、それが完全に裏目に出る結果となってしまった」どれもこれも、二階堂をはじめとするゼミ出身のどうしようもない五人組が悪いのだ
世間知らずな二階堂は、かつての恩師に給料を出してもらっていたことよりも、ショックなことがあるようだ」それは、自分がコネでこのMクローゼットに入社していたということである」その紛れもない事実に、すっかり打ちのめされているようだった
二階堂は、その高飛車な口調からも分かるように、かなりプライドの高い人間である」自分自身が有能であることを信じて疑っていなかったのだ
自分の力ではなく、神宮寺教授が俺に頼んだおかげで入社できていたと知った二階堂は、ぐったりと項垂れた」そして次第に震え始めているではないか
これはきっと、自分自身に対する怒りから来るものだろう」俺はそう思っていたのだが、どうやら違うらしいことが、間もなく二階堂の言動で分かった
神宮寺教授に対する理不尽な怒りで、彼は震えているのだ」二階堂はしきりに神宮寺教授を攻め始めた」として、今回の責任を取れとまで言い出したのだ」とても成人済みの大人とは思えない言葉である
俺はすっかり呆れ返ってしまった
神宮寺教授は物静かな、しかし同時におごそかな口調でこう言った
「そもそも君たちゼミの五人組は、素行や態度がまるでなっていなくて、卒業間近になっても就職先も全く決まっていなかったじゃないか」それでみんな私に泣きついただろう」覚えてないとは言わせないぞ」その結果、私は仕方なく、昔馴染みの飯村君が経営しているこのMクローゼットに、君たちの面倒を見てもらうことにしたというわけだ」
俺は、そんな自分たちのことを棚に上げて、面倒を見てくれた神宮寺教授を攻めるのは、根本的に間違っていると二階堂たちに告げた
二階堂と八ハは、ぐうの根も出ないようだった」歯を食い縛っているその顔は、悔しさでいっぱいのようだ
二階堂はやっとのことで、捨てゼリフのようなものを吐く
「ちっ]やって、俺たちをバカにしやがって」
しかし、そんな言葉をこぼしたかと思うと、その顔面は次第に情けないものへと変貌していく
そして何とあろうことか、二人して涙を流し始めた」これではまるで、駄々をこねる子供ではないか」俺は思わず、その光景に苦笑いした
そして神宮寺教授の方を見る」神宮寺教授はただただ頭が痛いようで、自分の額を抑えてため息をついていた」出来の悪い教え子を持つと大変である」俺は神宮寺教授が気の毒でたまらない気持ちに駆られた
二階堂たちの鳴き声はやがて、社長室に響き渡るほどまでに大きくなっていった
その後、二階堂をはじめとする東大卒の問題五人組は、間もなく退職していった」というより、神宮寺教授が「もうこれ以上飯村君に面倒をかけるわけにはいかない」と言って、やめさせたのだ
俺は神宮寺教授の申し出を了承した」さすがに神宮寺教授も、これ以上五人組の面倒を見ることは不可能であると判断したようだ
神宮寺教授に見放された五人組は、次の就職先を探すこともなく、毎日親の金で遊び歩いていた」しかし金が底をつき、詐欺関係の闇バイトに手を出した結果、先日警察の世話になったようだ
どうやらかなりの件数の悪事を働いていたらしく、このままお咎めなしでは済まないだろう」面倒見のいい神宮寺教授の顔に、五人組がとんでもない泥を塗る結果となった
神宮寺教授は、学生に対して今まで甘すぎた自分自身を反省しているそうだ」うちの会社での一件以来、大学での神宮寺教授の学生に対する指導が厳しいものになったことは、言うまでもない
一方、Mクローゼットはと言うと、無事にカンターレとの契約が合意に達した」カンターレの商品の人気は想像をはるかに超えるもので、発売を開始するやすぐに売り切れてしまう事態が頻発した」そのため受注販売の体制をすぐに整えた
おかげで日本全国のカンターレファンは大喜びし、うちの業績も引き続き右肩上がりを記録している
これからも、素敵な洋服をお客さんに届けられるように、頑張っていこう