巨大開発プロジェクトのキックオフパーティーの会場で、それは起こった。俺は出資者として招待されていたが、壇上で挨拶を終えたプロジェクトを主導するデベロッパーの社長が、参加者全員の前で突然俺にこう言い放った。「高卒の飯はない。1億出資したら食わせてやるよ。」
この社長は、俺への傲慢な振る舞いを後悔することになる。俺は瀬川、32歳。不動産に特化した独立系投資ファンドの代表だ。高校を卒業してすぐ、建設現場に入った。最初の仕事は測量の補助員で、先輩の後ろをついて回りながら機材を運ぶことから始まった。やがて施工管理の仕事を覚え、試験者との用地取得交渉まで経験を積んだ。10年間、現場で職人たちの仕事を間近で見てきた。開発というものの本当の重さを、俺は体で知っている。
28歳で独立し、投資ファンドを立ち上げた。業界では異例の若さだと言われた。そして今、俺のファンドが動かせる資金は約700億円になっている。俺には一つ決めていることがある。投じる先は本物の開発だけに絞るということだ。利益のためだけの箱物には金を出さない。公共施設や環境設備が組み込まれ、地域住民が実際に使える場所を作ろうとしているプロジェクトにしか、俺は出資しない。10年の現場経験がその信念を作った。
今回の大型複合開発は、まさにその条件に合致していた。都市部に残された一等地に商業施設と住宅を組み合わせ、環境配慮型の設備を組み込む計画だ。主導するのは業界の重鎮として知られる大手デベロッパーで、国の補助金制度を活用した環境配慮型プロジェクトとして行政の認定も受けている。俺が700億の出資を決めたのは半年前のことだ。
キックオフパーティーの前夜、夜10時を過ぎた頃、スマートフォンに着信が入った。画面に浮かんだのは、建設コンサルタントの朝倉の名前だった。長年、大型開発の設計と施工管理に携わってきた人物で、俺が現場で働いていた頃から気にかけてくれていた。その朝倉がこんな夜更けに連絡してくることは珍しい。
「瀬川君、君が出資するプロジェクトに関してだが、古い付き合いの設計事務所から図面が回ってきてな。補助金の申請書類と並べて中身を比べてみたんだが……環境設備が軒並み消えている。補助金の根拠になっているはずの設備が、変更後の図面からごっそり抜け落ちているんだ。君が考える開発とは別物になっているかもしれない」
朝倉の声は、いつもより硬く低かった。これが事実なら、これは単なる計画の見直しではない。俺は即答した。「わかりました。明日のパーティーで社長に直接確かめます」電話を切った後も、俺はしばらく動けなかった。机の上に資料を広げ、700億の出資判断を下す時に読み込んだ開発計画書、補助金認定の申請資料、当初の設計概要を一枚ずつ読み返しながら、朝倉の言葉の意味を整理した。
翌朝、俺はスーツに袖を通した。デベロッパーの社長は俺の顔を知らないはずだ。これまでの交渉は全て担当者同士で行われ、俺のファンドは法人名義で動いているため、個人名が表に出ることはほとんどない。俺自身も意図的に全面には出ないようにしていた。出資者の規模を知れば、相手の態度が変わる。そのままの相手を見たい時、俺はいつもそうしてきた。
会場は都内の高層ホテルの最上階にある宴会場だった。業界の重鎮と呼ばれる企業のトップたちがグラスを傾けている。中央で存在感を放っていたのが、この開発を主導する大手デベロッパーの社長、井口だった。業界に40年近く君臨してきた重鎮の顔で、太い声で笑いながら周囲と親しげに話している。俺は自然な流れで井口に近づける位置を探した。
パーティーが始まって30分ほど経った頃、井口のそばにいた担当者の一人が俺に気づいた。「瀬川さん、来ていたんですね」担当者が井口に向き直り、俺を紹介した。「今回のプロジェクトに出資いただいている瀬川さんです。投資ファンドの代表をされています」井口が初めて俺に目を向けた。細めた視線が俺の全身を一瞥する。少し驚いたような顔だった。周囲の重鎮たちより二回りは若い男がそこに立っていることに、違和感を覚えたのかもしれない。
「随分若いな。どこの大学だ」井口は軽い調子で聞いてきた。「高校卒業してすぐに現場に入りました」俺は正直に答えた。井口の口元が緩んでいく。そして周囲の重鎮たちに視線を巡らせてから、俺を見下すような目で言った。「ここは、きちんとした学歴と功績のある業界トップが集まる場だ。君のような若造がいくら出資したか知らんが、高卒の飯はないぞ。まあ、1億出資したら食わせてやるよ」
井口がそう言うと、周囲から笑い声が上がった。俺の顔どころか、名前すら把握していなかったのだ。目の前にいるのが700億の出資者だとも知らずに、この男は笑っている。相手を確かめる前に決めつける井口のような男なら、当初の計画を反古にすることも十分やりかねない。朝倉の言葉が確信に変わる。俺の腹の底に、静かな決意が降りていく。
俺は口を開いた。「いや、飯など結構。ついでに700億の出資は中止しますね」会場の空気が一瞬で止まった。誰かのグラスがテーブルに置かれる音だけが、やけにはっきりと響く。笑い声がすっと消えていく。「え?」そう言って口を開けたまま、井口が俺の顔を見た。俺はそれ以上何も言わず、グラスをテーブルに置き、会場の出口へと向かった。エレベーターホールへの廊下を歩いていると、背後から足音と共に担当者の声が届く。「お待ちください。先ほどの社長の発言は……」俺は足を止めず、振り返りもせず、エレベーターに乗り込んで場を後にした。
翌朝、俺はオフィスの机に向かった。頭の中では井口の声と会場の笑い声が交互に蘇り、夜中に朝倉から聞いた言葉が重なる。午前9時を過ぎた頃、朝倉から書留が届いた。風を開けると書類の束が入っていた。その中の2つの書類が問題だった。一つは行政に提出した補助金の申請書類。もう一つは変更後の使用書だ。申請書類には補助金交付の根拠として3つの設備が明記されていた。しかし変更後の使用書には、それらが一つも残っていない。各設備の欄に記されているのは「省略」「大体案」「検討中」「仕様変更」の文字だ。
並んだ文字を眺めながら、俺は現場の土の匂いを思い出していた。測量機材を担いで急斜面を登った朝のこと。用地交渉が長引いて、試験者の老人と何時間も向き合った夕方のこと。職人たちが1ミリの誤差を嫌い、何度もやり直した作業。そんな現場の苦労を知っているからこそ、仕様変更という安易な判断に怒りが湧く。おそらく井口は、環境配慮型の開発という名目で補助金を引き出し、実際の建設からその設備を丸ごと外すことで、その差分を利益にしようとしている。これが俺が700億を出そうとした開発の実態ということだ。
午前中のうちに、井口の担当者から連絡が届いた。「誤解を招いてしまった部分がございます。改めてお時間をいただけないでしょうか?」俺は即座に断った。誤解ではない。書類がそれを証明している。俺は資料を一つのファイルにまとめ始めた。補助金の申請書類と変更後の使用書を並べ、項目ごとの違いを一枚の比較表に整理する。数字に不慣れな人間でも一目で差が分かるよう、言葉で補足しながら作った。
このプロジェクトの補助金を所管する自治体の担当課長は、飯島という人物だ。以前、知人が審査に関しては厳しい人物だと言っていたのを思い出す。夕方、俺は飯島に連絡を入れた。「確認していただきたい資料があります」概要を端的に伝えると、電話口で少し沈黙があった。「わかりました。明後日の午前中、窓口へいらしてください」電話を切り、俺は机の上にファイルを置いた。すでに次の局面が動き出していた。
飯島との約束を取り付けた翌朝、俺は現場で働いていた頃から面識がある鍛原という人物に連絡を入れた。地域の住民や行政と丁寧な接点を積み重ねながら、地に足のついた開発を続けてきた人物だ。電話に出た鍛原はこう言った。「あなたが案件から手を引いたことは、業界内で流れる情報で伺っています。ただ、私はあなたの仕事ぶりをずっと見てきた。軽々しく700億を動かす人間ではないことも知っています」
俺は落ち着いた声で提案した。「鍛原さん、環境設備と地域貢献を最初から計画に組み込んだ本物の複合開発を、一緒に立ち上げてもらえませんか。正式な共同出資の形で進めたいと考えています」鍛原の返答は早かった。「実は私も、地域貢献を軸にし、環境に配慮した開発計画を進めているところです。あとは出資者を探していた段階でした。内容を詳しく聞かせてください」俺はその場で鍛原に会う日程を決めた。
その2日後、俺は朝一番で飯島との面会に向かった。小さな会議室に通され、俺は作成した比較資料を飯島の前に広げた。申請内容と変更後の設計の間に、埋めようのない隔たりがあることを端的に伝える。飯島は一枚ずつ黙って目を通した。書類を確認する手の速度が、いつの間にか遅くなっていた。「内部で確認の上、必要な対応を取ります」短い言葉の中に、行政が動くという意思を俺は読んだ。
その後、俺は鍛原との綿密な打ち合わせを数回に渡って重ねた。打ち合わせは、互いの開発に対する情熱と哲学が合致し、充実した時間となった。そして、商業施設と住宅を組み合わせ、環境保全と地域貢献を主眼にした複合開発の共同出資契約が成立する。その頃から、業界内の状況が急速に変わり始めた。朝倉から情報が届いた。井口の案件がかなり厳しくなってきているらしい。民間出資と銀行融資を組み合わせるこのプロジェクトでは、民間出資が一定割合を維持することが事業継続の前提となっている。俺の700億が抜けたことで、その基準を大きく割り込んでいるはずだ。銀行が融資審査に入り、他の出資者にも撤退の動きが出ているようだ。銀行が動けば周囲が連鎖する。読んでいた通りの展開だった。
そしてその3日後、井口の担当者から着信が入る。関係者を集めた調整の場を設けたい。社長が直接話したいので出席して欲しいという内容だった。「出席します」俺はそう告げて電話を切る。銀行が動き、他の出資者が手を引き、補助金の調査も水面下で進んでいる。ただ、俺が水面下で動かしてきた伏線の全容を、井口はまだ掴んでいないはずだ。
会議の前日、俺は飯島と鍛原に連絡を入れた。飯島には、翌日の会議に銀行と関係者が一同に揃う場になると伝える。飯島は土地開発として正式に確認するために出席すると答えた。鍛原にも会議への同行を求め、同意を得る。
迎えた会議当日、都心のホテルの一室に俺は鍛原と並んで入った。長机を囲む席には銀行の担当者と業界関係者がすでについている。正面に座る井口が俺を一瞥し、すぐに視線をそらした。着席すると井口が口を開いた。「今日はこのプロジェクトを前に進めるための場です。出資比率と条件を見直す用意があります。瀬川さん、もう一度ご検討いただけませんか?」穏やかな口調だった。パーティーの夜のあの口調とは別物だ。しかし俺の返答は変わらない。
「その前に、この場で確認しておきたいことがあります」俺は鞄から2つのファイルを取り出し、テーブルに並べた。一つは補助金の申請書類。もう一つが変更後の設計使用書だ。「行政が補助金を認めた根拠は3つの設備です。太陽光パネルの自家発電、雨水循環の給排水設備、地域が無償で利用できる緑地スペース。変更後の使用書に、その3つが一つも残っていません」俺は比較表を全員の視点が届く位置に回した。「各設備の欄に並んでいるのは『省略』『大体案』『検討中』『仕様変更』の文字です。環境配慮型の開発として補助金を受け取りながら、その根拠となる設備を着工前に全て外した。この事実をご確認ください」
銀行の担当者が書類に顔を近づけた。ページをめくる手が静止し、隣の担当者と無言で視線を合わせる。その時、室内の後方のドアが静かに開いた。飯島が一人で入ってきた。「都市開発の飯島です。補助金の扱いについて正式に確認する必要があり、同席させていただきます」井口の表情が一瞬だけ固まった。飯島は末席につき、申請書類と変更の使用書を交互に確認してから口を開いた。「当方でも同様の内容を把握しています。関係部署と連携した上で、適切な対応を取る必要があります」
井口が割り込んだ。「設計変更は通常の範囲内のことで、誤解だと思います。補助金については後ほど改めて行政の皆さんとお話しします」「通常の範囲内という言葉を、俺は静かに繰り返した。「補助金の根拠となる設備を着工前に全て省くことが通常であれば、その意味を銀行の皆さんにもご説明いただけますか?」銀行の担当者が手帳を取り出した。井口はもっともらしく咳払いをしてから言った。「コスト上の問題がありまして、今後改めて検討する予定で……」言葉を濁す井口に向かって、俺は言った。「書類の日付をご確認ください。設計変更の完了は、補助金の交付からわずか2ヶ月後です。検討中ではなく、その時にはすでに決定していた」
井口は何か言いかけたが、言葉が出てこない。俺は室内全体を見渡してから言った。「もう一つ申し上げます。先日のキックオフパーティーで井口社長は私に向かってこう言いました。『高卒の飯はない。1億出資したら食わせてやるよ』と。その場にいた方々も笑っていました。その社長が今、国民の税金を原資とする補助金を環境配慮の看板として使い、実際の建設からその中身を全て外して自社の利益を確保しようとしている。これが業界トップのやることですか?」
井口が顔を上げた。言い訳にすがろうとする目だ。「君のような若造が、私の仕事に口を挟む資格があるのかね。私は40年、この業界を動かしてきたんだ」「40年の実績があれば、補助金の申請内容を着工前に丸ごと変えても許されるということでしょうか。それをこの場にいる全員に説明していただけますか?」井口の口がもう一度開きかけた。しかし唇が震えるだけで、何も出てこない。銀行の担当者は手帳を見つめたままペンを止めなかった。飯島は書類から目を上げず書き続けている。業界の関係者は腕を組み、比較表に視線を落とす。
俺は井口に言い放った。「700億が戻ることはありません。民間の出資が基準を下回った状態では、銀行融資の継続も難しくなる。このプロジェクトがこれ以上前に進めない理由を、ここにいる全員がすでにご存知のはずです」銀行の担当者が静かに資料を閉じる。飯島がペンを置いた。井口は崩れていた。40年間この業界の頂点にいた男が、言葉を持たないままそこにいる。
しかし次の瞬間、井口が顔を上げた。今度は権威ではなく、別の何かにすがろうとする目だった。「待ちなさい。君が手を引けば700億が宙に浮く。それだけの金が行き場を失えば、業界全体に影響が出る。その責任を、君は取れるのかね」追い詰められた男が最後に使える札を切ってきた。俺は少し微笑んだ。「ご心配なく」鞄からもう一つのファイルを取り出し、室内の全員に手渡した。「700億の行き先はすでに決まっています。鍛原と進める開発の概要だ。商業施設と住宅を組み合わせ、太陽光パネルの自家発電、雨水循環の給排水設備、地域住民が自由に使える多目的スペースを計画の段階から設計に折り込んだ、次世代型の複合開発です。仕様変更の余地を最初から設計図の中に残していない、本物の環境配慮と地域貢献を形にする開発に使います。金は宙に浮きません。最初からそのつもりでした」
井口の口が、今度こそ完全に閉じた。反論の言葉が、もうどこにも見当たらないのだろう。鍛原が静かに言葉を添えた。「地域の方々が実際に使える場所を、最初から最後まで作り続けること。それが私たちの仕事です」その瞬間、室内の重い空気が一気に取り払われるのを感じる。俺は鍛原と目を合わせ、ゆっくりと頷いた。
行政の調査が入り、井口の会社に対し補助金の返還命令が下った。銀行は融資を引き上げ、プロジェクトは着工されることなく頓挫した。業界で井口の名前は、やがて聞こえなくなった。鍛原との共同プロジェクトは着実に前進している。環境設備も地域スペースも、建物の骨格に組み込まれている。先日、建設中の敷地を訪れた。測量の補助員として現場の土埃にまみれていた日々を思い出す。あの頃の俺には想像すらできなかった巨額の金が、今、嘘のない場所を作るために使われている。高卒だろうが何だろうが、本物の仕事は嘘をつかない。「お疲れ様です」ヘルメットを脱ぐこともせず現場に向き合う職人たちに一声かけ、俺は現場を後にした。
