夫の友人だという女性からの電話は、唐突に始まった。名前を名乗った瞬間、大学時代のサークルの仲間だった美里だと分かったが、八年ぶりの再会が、まさかこんな形になるとは思ってもみなかった。
「私、サトシ君と付き合ってるの。彩佳とは別れるって言ってるから、離婚してあげてね」
耳を疑った。夫のサトシは、私にとっては今でも大切な人だった。確かに問題はあった。特に義母との関係は、結婚前からずっとわだかまりが続いていた。しかしそれでも、私は夫を愛していたし、良好な関係を築けていると思っていた。そう思っていたのは、私だけだったらしい。
私は二十九歳のシステムエンジニアだ。一年前に同い年のサトシと結婚した。大学時代は同じサークルで仲の良い友人だったが、卒業と同時に疎遠になった。それが三年前に偶然再会し、連絡を取り合うようになって、自然と付き合うようになった。サトシはお調子者のところはあるが、明るくて優しい男だ。毎日の激務で疲れていた私は、そんな彼の明るさに惹かれていった。
付き合って一年が経った頃、サトシから同棲しないかと提案された。お互いが忙しすぎて会う時間がないことを寂しく思っていた私は、喜んで受け入れた。しかし、それに待ったをかけたのが義母だった。
「結婚前に一緒に住むなんて、世間体が悪い。同棲するくらいなら結婚しなさい」
義母の言い分にも一理あるとは思った。だが、二十七歳の社会人の息子のやることに口出しするのは、私には違和感があった。私の両親は、自分のことは自分で決めるように育ててくれた。だからこそ、義母の態度が不思議でならなかった。それ以上に、義母の意見を聞いて「じゃあ結婚しようか」と言ってきたサトシのことも理解できなかった。
何度も話し合い、友人にも相談した。結局、夫のことが好きで一緒にいたいという気持ちが勝り、私は結婚を決めた。だが、話はそれでは収まらなかった。義母は新居についても口出しするようになった。息子の職場に近い場所にしろ、実家に近い場所にしろと言い、挙げ句には賃貸ではなく家を購入しろと言ってきた。
我慢の限界だった私は、義母と直接話をすることにした。
「家のことは、私とサトシで話し合って決めます」
「私はあなたたちのことを思って言ってるのよ」
「それはありがたいと思います。でも、私たちが自分で決めたいんです。うちの両親も、私たちの意見を尊重してくれます」
すると義母は、どこか私を見下すように笑った。
「こう言ってはなんだけど、彩佳さんのご両親が口出ししてこないのは、あなたのことをどうでもいいと思ってるからじゃないかしら」
「どういう意味ですか?」
「だって、ご両親はお医者様なんでしょ? それなのにあなたは、結局、ただの会社員と結婚した。ご両親は、あなたのことを諦めてるんじゃないかしら」
まさか、夫の母親にそんなことを言われるとは思わなかった。ショックで黙り込む私を見て、さすがにサトシが義母を窘めてくれた。だが、義母は不機嫌になり、その日の話はそこで終わってしまった。
その後も、義母と私の意見は対立し続けた。お調子者のサトシは、どちらにもいい顔をしようとして、話が進まない。さすがにまずいと思ったのか、サトシが私と夫の職場から利便性の良い新築マンションを見つけてきてくれた。義母は一軒家でなかったことが不服だったようだが、義父に注意されて渋々引き下がった。
マンションの頭金で貯金のほとんどを使ってしまったが、新しい住まいは便利で満足していた。しかし、義母との戦いは始まったばかりだった。
結婚してすぐ、義母は毎日のように「孫はまだか」「仕事はいつやめるのか」というメッセージを送ってくるようになった。精神的に参ってサトシに相談しても、「母さんも悪気があるわけじゃない」と言うだけだ。義母のことに関しては、夫は全く頼りにならないと悟った。
私は義母に直接連絡した。子供のことは夫婦で決める。仕事をやめるつもりはない。すると義母は夫に泣きついた。「自分は良かれと思って言ってるのに、全く聞き入れてもらえない。彩佳さんは私のことが嫌いなんだわ」と、被害妄想たっぷりに。サトシも義母を全面的に信じているわけではないが、「母さんはか弱い人だから、もうちょっと優しくしてあげてほしい」と言ってきた。
その言葉を聞いて、夫は何も分かっていないのだと実感した。あんなに自分の意見を押し通そうとする人が、どこがか弱いというのか。
嫌気が差した私は、義母と関わらないことを決めた。何を言われても「夫に聞いてください」とだけ返事をした。そんな時、上司から海外赴任の話を聞かされた。私は絶対に行きたいと思った。サトシに相談すると、最初は乗り気ではなかったが、「戻ってきたら義母と良好な関係を築けるように努力するから」と説得した。期間は一年と短いが、それでも嬉しかった。
海外赴任して半年後、私は仕事も順調でやりがいのある日々を送っていた。そんな時、美里から電話がかかってきた。
「サトシ君と付き合ってるの。彩佳とは別れるって言ってるから、離婚したげてね」
混乱した。美里は大学時代からずっとサトシのことが好きだったと言う。しかし、サトシには恋人がいたので諦めて自分も恋人を作った。そして、サトシが大学時代の恋人と別れたと聞いて、今度こそ自分がと思った矢先に、私と付き合って結婚してしまった。それが我慢ならなかったらしい。私がサトシを置いて海外に行ったと聞いて、いても立ってもいられなくなったのだ。
美里は大学時代のサークル仲間で集まることを計画し、そこでサトシに接近した。最初は軽く受け流していたサトシだったが、猛烈なアプローチの結果、二ヶ月ほど前から不倫関係になったという。
「慰謝料なら払うから、サトシ君と別れて」
美里はそう言った。私は混乱したまま電話を切り、気持ちの整理がついたらサトシに確認しようと思った。だが、私は美里の執着を甘く見ていた。
その後、美里から音声データが送られてきた。夫が私と離婚して美里と再婚したいと言っている録音だった。他にも二人の際どい写真など、不倫の証拠が毎日送られてきた。義母との会話まで送られてきた。元々私の海外赴任に反対していた義母は、私とは離婚して美里と再婚させたいと思っているようだった。
もう離婚するしかないなと思った。だが、離婚の手続きのためには日本に戻る必要がある。ちょうど仕事が忙しく、帰る時間が取れなかった。困っていると、夫から電話がかかってきた。
「彩佳、俺だけど。離婚届は出したから。家は俺がもらうからさ。彩佳はずっと向こうで仕事してればいいよ。日本に帰ってきても、帰る家はないからさ」
予想外の展開に言葉を失った。離婚届を勝手に出すなんて、それって犯罪じゃないのか。しかし、心の底からこみ上げてきたのは、なぜか喜びだった。これで美里から証拠の写真や音声が送られてくることもなくなる。あのデータの山に、私はすっかり疲弊していたのだ。
「いいよ」
私があっさりと了承すると、夫は戸惑った様子だった。電話の向こうで話し声がして、今度は義母に代わった。
「彩佳さん、あなたの帰ってくる家はありませんからね。元々私はあなたとの結婚には反対だったのよ。夫をほったらかして仕事で外国に行くなんて非常識にも程があるわ。離婚したのはあなたが原因ですからね。慰謝料がもらえるなんて思わないことね」
義母が言いたい放題言うのを聞きながら、ふと気がついた。夫と離婚したということは、今話している相手と私は赤の他人だ。気を使う必要もないし、長々と話を聞く必要もない。
「あの、もういいですか? 私、忙しいんです。もう電話も切りますね」
「ちょっと待ちなさい」
「待ちません。それでは。二度と話すこともないと思いますが、お元気で、ご機嫌よう」
義母がまだ何か言っていたが、気にせず電話を切った。あの時の爽快感といったらなかった。
しかし、話はこれで終わらなかった。一ヶ月ほどした頃から、元夫から何度も電話がかかってくるようになった。無視し続けていたが、何か大変なことがあったのかもしれないと思って、電話に出ることにした。
「彩佳よかった。何度も連絡してたんだ」
「何?」
「俺、やっぱり彩佳がいないとダメなんだ。俺たちやり直そう。今ならまだ間に合うだろう」
「間に合うって何? 離婚届、出してないの?」
「出したけどさ、もう一回結婚すればいいだろう」
私は笑いをこらえた。元夫は、自分の不倫が私にバレていることを知らないのだ。
「もう一回結婚って、美里と再婚したんでしょ?」
「え? なんで知ってるんだ?」
「美里が二人で婚姻届を持ってる写真を送ってくれたけど。離婚したの?」
元夫は答えず、どうやら離婚していないようだ。当然だろう。あんなに元夫に執着していた美里が、簡単に離婚に応じるはずがない。
「離婚届を出せばいいだけだろう」
「言っておくけど、私の時みたいに離婚届を勝手に出すのはやめなさいよ。犯罪だから」
「え? 犯罪? 俺、捕まってないけど」
「私が訴えなかっただけよ。あなたと離婚したかったから。美里との浮気も知ってたしね」
元夫は「美里に騙された」と言い出した。美里と結婚すれば大金が手に入ると思っていたらしい。美里には私への慰謝料を用意していたのだ。一千万元の慰謝料を私に支払い、「二度とサトシに近づくな」と言ってきたのだ。
「それは私への慰謝料よ」
「なんでそんなことになるんだ?」
「それだけあなたのことが好きってことでしょう。愛されてていいわね」
元夫は「俺の金を返せ」と怒鳴ったが、それは美里のお金だ。美里が返してほしいと言うなら、相場よりも多く支払った分は返してもいいと伝えた。すると元夫の後ろから「返して」と呼ぶ声が聞こえた。おそらく美里の声だろう。元夫は「やばい」と言って電話を切り、二度と連絡が来ることはなかった。
大学時代の友人から聞いた話だが、美里の束縛は激しく、私の連絡先は消去されたらしい。慰謝料の話をすると「お金目当てだったの」と発狂したそうだ。さらに美里は義母にも嫉妬し、結婚前の良好な関係が嘘のように敵意を向け出している。元夫は美里の束縛で精神的に追い詰められ、最近では友人に泣きながら電話をかけてくるそうだ。義母は今度こそ理想の嫁が来たと思ったのに当てが外れ、今では最愛の息子と連絡を取ることすら苦労しているらしい。
もし日本に残っていたら、もっと大変なことになっていたかもしれないと思う。海外に来て本当に良かった。私は海外勤務を一年から二年に延長しないかという話をいただき、もちろん即承した。今は仕事一筋で、やりがいのある日々を送っている。
私はまなみ。四十二歳。結婚して十二年になる。ケーキ屋でパティシエをしている。母は料理がとても上手で、物心つく前からキッチンに来て母の料理をする姿をじっと見ていたのを、母が今でも話してくれる。小学校に上がってからは母に料理を教えてもらい、休日は一緒にお菓子作りをした。そこから私の趣味はお菓子作りになり、調理専門学校を経て、憧れだったケーキ屋に就職することができた。それから二十年以上、ずっと働いてきた。
パティシエは立ち仕事だ。朝から夜まで長時間立ちっぱなしで、重い鍋なども扱うかなりの重労働。三年前から腰を悪くしてしまい、最近は特に調子が良くない。立ち上がることもつらく、休まざるを得ない日もある。後輩たちに迷惑をかけてしまうのが心苦しい。
一方で、そんな私に一切優しくしてくれないのが夫だ。腰が悪く朝起き上がれなかった日も、心配するでも助けるでもなく、わざわざベッドまで来て「朝ご飯はまだなのか。遅刻するじゃないか」と迫ってくる。
夫とは二十代の頃に知り合った。よく行く居酒屋が同じで、よく顔を合わせるうちに私の中で気になる存在になった。店長にその話をしたところ、飲む機会を作ってくれて、そのまま付き合うことになった。夫は私の三歳年上で、保険の営業をしている。出会った頃の夫はクールでとても紳士的で、私の悩みを嫌な顔せず聞いてくれた。しかし結婚してから、私に無関心になり、冷たいと感じることが多くなった。
おそらく原因は、私がパティシエの仕事を続けたことだと思う。夫は結婚した時に、家にいる時間を増やすために転職してほしいと言ったが、私は大好きな仕事をやめたくなかった。仕事のせいだと思われないように家事はできる限り頑張り、生活費も結婚当初に決めた半分の額を毎月欠かさず渡していた。しかしクリスマスなどの繁忙期はどうしても家のことがおろそかになってしまう。
「家がこんなに荒れても平気なのか。給料も安いみたいだし、そこまでしてやりたい仕事なのか」
その度に夫はそう言ってきた。私は「好きだから続けたいの」と意地を張って答えていた。普段は夫に言い返すことなどないが、仕事のことだけはどうしても譲れなかった。夫は結婚してから、私の作ったケーキを一度も食べてくれたことがない。
腰が痛くて起き上がれず、仕事に休みの連絡を入れようとしていると、義母が家にやってきた。
「あら? 大はもう仕事に行ったの? 朝早くからやっぱりあの子は偉いわね。あんたはこんな時間までパジャマで何してんのよ」
義母は週に何度かウォーキングがてら私たちの家に寄るのが日課になっている。夫と同じように、義母も私の仕事に反対だった。そして子供ができなかったことを今でも口うるさく言ってくる。会うたびに嫌味を言われるので、正直苦手だ。
「ちょっと体調を崩して、仕事をお休みしたんです。今から病院に行こうと思って」
「子供ができないのも、仕事のせいじゃないの? 私たちは昔から何度も言ってたのにね。あんたは家庭なんてどうでもいいのね。本当にどうしようもない嫁だこと」
言い返す元気もなく、作り笑いをするしかなかった。義母は「あんたといても嫌な気持ちになるだけだから帰るわ」と言って帰っていった。嫌な気持ちになるのは私も同じだと思ったが、あえて言わずに送り出した。
病院に行くと、腰の状態がかなり悪いと言われてしまった。いよいよ仕事を続けていくのは難しいかもしれない。これ以上会社に迷惑をかけられないが、違う形でもお菓子に関する仕事は続けていきたいと思った。
私は数日後、長年働いたケーキ屋に退職を申し出た。先輩や後輩たちは驚いて「やめてほしい」と言ってくれた。止めてもらえたことは嬉しかったし、私もこの仕事が大好きだったので涙が出た。退職までの一ヶ月間は、腰の調子を見ながらではあるが、全力で働くことを約束した。
退職したことを夫に伝えると、夫は驚いた顔をした。
「なんでやめたんだよ。なんで俺に何も言わないんだ」
「知ってると思うけど、私、腰が悪いからもう立ち仕事は難しいと思ったの。あなたも仕事をやめてほしいって言ってたじゃない」
「転職した方がいいとは言ったけど、仕事をやめていいとは言ってない。生活費はどうするんだよ」
「これまでの貯金があるから、そこから払うわよ」
「まあ、払うならいいけど。もういいわ、寝るよ」
夫はそう言って寝てしまった。私の腰の心配も、これまで働いてきた労いの言葉もなかった。
次の日、夫が仕事休みの日に義母がやってきた。
「あんた、仕事やめたんだって」
「はい、そうですけど」
「ニートになったってこと? ただでさえ使えないのに、さらに使えなくなったのね」
「治療に専念するだけです。『使えない』なんて失礼です」
私が言い返すと、声を聞いた夫も起きてきた。
「朝からうるさいな。無職なんだから、言い返すなよ」
「なんでそんなこと言われないといけないのよ。別に、今働いていないだけじゃない」
「今働いていないことが問題なんだろ。普通は次の仕事を決めてからやめるんだよ」
「腰が悪いからって言ってるじゃない。何度言ったら分かるの?」
そこに義母も参戦してきた。
「腰が悪いなんて自業自得よ。無能な嫁は出ていけ」
「母さんの言う通りだよ。慰謝料として退職金をよこせ」
もうこの人たちと話しても意味がないと思った。
「わかりました。では、離婚ということで」
私は作りかけの朝ご飯をゴミ箱に捨て、必要最低限のものを持って家を出た。どうして退職しただけでここまで言われなければならないのか。これまで仕事も家庭も精一杯頑張ってきたはずなのに、私が腰を悪くしても一度も心配してくれなかった夫に。歩きながら涙が止まらなかった。
実家は遠いので、前の職場の同期である親友の家に電話して、数日泊めてもらうことにした。親友は「泣かないでよ。あんたは何も悪くないから」と言ってくれて、その日は結婚前のように昼からお酒を飲みながら語り合った。
その後、離婚のために夫に離婚届を持っていくと、夫は「退職金は慰謝料としてくれるんだよな」としつこく言ってきた。嫌な思いをした私が慰謝料を払うのはおかしいと思ったが、これ以上話を長引かせたくなかった。
「はいはい。退職金なんて安いものよ」
後日、退職金を下ろして渡した。義母がいたが、封筒の中身をすぐに確認し、「あんだけ長いこと働いて退職金だけなの? 最後まで使えない嫁だったわね」と嫌味を言われた。嫌な気持ちにはなったが、むしろこんな人たちと家族でいなくて良かったと思った。
離婚が成立し、私は小さなアパートを借りて新生活を始めた。二週間ほどゆっくり過ごしたことで、あれだけ悪かった腰も気にならないほどになった。明日から新しい仕事の準備が始まる。楽しみでたまらない。
寝る準備をしていると、電話がかかってきた。元旦那からだった。
「なあ、まなみ。本当にごめん。やり直さないか?」
離婚した時とは別人のような声だった。
「バカなこと言わないでよ。やり直すわけないじゃない」
勢いよく言うと、電話の向こうから「もっとしつこく言いなさい」という義母の声が聞こえてきた。
「お母さん、聞こえてますよ。やり直す気なんてありませんから。失礼します」
そう言って一方的に電話を切り、頭を切り替えて寝ることにした。
次の日、新しい仕事に行くと、そこに元旦那と義母がいた。二人は深々と頭を下げた。
「本当に申し訳ございませんでした」
何が起こっているのか分からず戸惑っていると、そこに義父が現れた。
「まなみさん、何も知らずに申し訳なかった」
義父の経営している会社で、新しいケーキ屋を出すことになり、私は一から店舗と商品を開発する仕事をすることになっていたのだ。前職をやめようか悩んでいた時に、義父に相談した時にいただいた話だった。義母と元旦那は私のことを目の敵にしていたが、義父だけは結婚当初から私の味方だった。私の仕事をずっと応援してくれていて、私の作ったケーキをいつも美味しそうに食べてくれた。
離婚が成立してから二週間後、元旦那は一緒に住んでいた家を引き払って実家に帰った。私に電話があった日だ。義父が「まなみさんはどうした?」と聞くと、元旦那は「ああ、しょうもない女だから離婚したよ」と答え、義母も「ニートの嫁なんか離婚して正解よ」と嬉しそうに言ったそうだ。それを聞いた義父は真っ青になり、「お前ら、何も知らんのか? まなみさんには、うちの新規事業をお願いしているんだぞ」と怒ったらしい。
「お父さん、私も離婚のことをお伝えしていなくてすみません。離婚したとしても、仕事は全力で頑張ります。必ず人気店にしてみせます」
義父にそう伝えると、
「いや、無理しなくていい。こいつらのことは、許さなくてもいいからな。まなみさんの腕があれば、人気店になるのは間違いないぞ」
と言って握手をしてくれた。その様子を、義母と元旦那は小さくなりながら見ていた。
「大とお母さん、私はあの日言われたことを忘れませんから」
私はそう伝えたが、二人は「ごめんなさい。ごめんなさい」と言うばかりだった。義父が「お前らはもう帰れ」と言って二人を帰らせ、私たちは新しい店の打ち合わせを始めた。一から店舗を作っていくのは初めてで、打ち合わせをするだけでウキウキしてきた。
後で義父から聞いた話だが、離婚する一年前から元旦那と義母は二人で投資を始め、失敗して多額の借金を抱えていたらしい。お金の管理は元旦那に任せていたが、私が出した生活費で全て賄い、元旦那の給料は新たな投資と借金返済に使われていた。私が仕事をやめたことで生活費をいつか出せなくなることと、家に私がいることで投資のことがバレるのが怖かったそうだ。だから、どうしても私の退職金が欲しかったのだ。
義父は二人に投資を辞めさせ、借金返済に専念するように言った。借金を返済するまでは甘えないように、二人は別の場所で暮らすことにしたらしい。元旦那は普段の仕事に加えて夜のアルバイトを始め、義母はフルタイムの仕事を始めたそうだ。
義父から、私が渡していた退職金を返してもらった。
「私も仕事が忙しくて気づくことができなかった。生活費が足りないと言われれば、何の疑問も持たずに渡していた。甘やかしすぎていたのかもしれないな」
義父は申し訳なさそうに言った。
「いえ、私も同じです。仕事ばかりで何も気づきませんでした。今回、気づくことができて本当に良かったと思います」
それから私は、店舗オープンに向けて義父と共に忙しく動き回った。初めてのことばかりで不安なこともあったが、何度も打ち合わせをし、商品の試作を繰り返した。想像よりも時間がかかってしまったが、満足のいく内装と商品を作り上げることができた。
そしてオープンの日、私は義父と共に店頭に立った。売れ行きは好調だ。お客さんがキラキラとした顔でケーキを買っていく姿を見るのは、幸せでたまらない。
私はミキ。四十五歳。同じ年の夫と二人で暮らしている。夫とは大学で知り合い、交際を始めた。夫の第一印象は真面目で誠実な人だったが、家族をとても大切にしていた。そんな優しい夫に惹かれ、この人とずっと一緒にいたいと思うようになった。夫も同じように思ってくれていたようで、大学在学中から結婚の約束をしていたほどだ。
大学を卒業しても交際は続き、それぞれの職場で働き始めても気持ちは変わらずに結婚した。嬉しいことに、結婚してすぐに子供も生まれた。今年で二十一歳になる娘の彩葉は、専門学校を卒業して就職し、職場の近くで一人暮らしをしている。
彩葉が家を出てから、私たち夫婦は久々に二人での生活を満喫していた。不自由なく暮らしていたが、一つ悩み事があった。それは夫の妹の存在だ。義妹の夏美は三十八歳になるが、十五年共に過ごした夫と去年離婚をしている。離婚の原因は、義妹の浮気によるものだった。
義妹は見た目は普通の女性で特別モテるわけではないが、とにかく男が好きだ。十五年で何度も浮気を繰り返していたらしい。浮気に気づかないふりをして、旦那さんは長年証拠集めをしていた。そしてその証拠を持って離婚を突きつけ、旦那さんは義妹と浮気相手に多額の慰謝料を請求し、離婚に至った。
しかし私が驚いたのは、この後だった。なんと義妹は、その浮気相手と再婚をすることに決めたのだ。義妹の再婚については、結婚式の招待状が来たことで知った。
「夏美さん、結婚式本当にやるの? 浮気相手との再婚だって、みんな知ってるし、大丈夫かな」
「妹は新たなスタートを切ろうとしているんだ。祝ってあげなきゃ、かわいそうだろ」
夫は義妹のことを昔から可愛がっていたので、再婚でも喜ばしいことだと言った。いやいや、浮気された元夫の方がかわいそうなんだけど、と思ったが、義妹はさらなる問題を抱えていた。そしてその問題は、後に私へ降りかかることになる。
ある日、夫への電話がかかってきた。相手は義妹だった。
「お前、泣いてたんだ。理由も言えないくらいに混乱してるみたいだから、とりあえずうちに呼んだよ。ミキも一緒に話を聞いてやってほしい」
二ヶ月後に結婚式を控えた義妹に何があったのか、不安に思った。
一時間後、義妹は汗をかきながら我が家に到着した。
「お兄ちゃん、お姉さん、助けて」
家に入るなり、義妹はパニックを起こしている様子だった。夫が義妹をソファーに座らせ、お茶を出すと、義妹は一気に飲み干し、深いため息をついた。
「こんなに焦ってどうしたの?」
私が義妹の顔を覗き込むと、義妹はぽろぽろと涙をこぼし始めた。
「実は、二人に相談があって。今度の結婚式のことなんだけど」
「まさか、結婚式が中止になったのか?」
夫が遮るように言った。
「違うの。いや、違うこともないというか。実は、結婚式と新婚旅行のお金を用意できなくかもしれなくって」
義妹は、元夫に慰謝料を払ったせいで貯金がなくなったと言った。
「相談っていうのは、二人に結婚式と旅行のお金を借りたいんだけど」
義妹は私たちに縋るような目を向けた。あまりにも馬鹿げた話に、夫も呆れていた。
「なんだ、そんなことか。それならうちは多少の貯金があるし、それくらいのお金だったら出せるよ」
「え? 貸すの?」
私は夫の言葉に頭がクラクラしてきた。
「当たり前だろ。妹に金を貸したなんて冷たいことを言うのはおかしいよな。お金は返さなくていい」
「へ?」
そして夫は続けた。
「ミキ、親の介護のために貯金してるって言ってたよな。そこから出せるだろう」
夫は自分が払うのではなく、私の貯金から出そうと提案してきたのだ。
「いやいや、私が貯金してるのは親のためだよ。貸すならまだしも、お金を上げるなんてできないよ」
義妹はまた泣き出した。
「妹がこんなに困ってるのにひどいじゃないか。少しぐらい助けてやってもいいだろ。夏美にはいくら必要なんだ?」
「全部で三百万円」
「はあ? 三百万?」
私の両親はすでに七十五歳を超えている。今はまだ元気だが、介護が必要になる日はそう遠くはないだろう。私は一人っ子のため、親の介護のためにずっと貯金を続けてきた。出産しても仕事をやめず、子供の教育費と並行してコツコツ貯めてきたお金だ。そんな大切なお金を、義妹のために使いたくなかった。
「聞いてるのか? 妹の結婚式と新婚旅行は、お前の貯金三百万で払うからな」
「親の介護資金だから、無理だってば」
私が拒否し続けると、ついに夫が怒った。
「妹を助けようとしないなんて、家族なのにおかしいじゃないか。金がある人が出すのが普通だろ」
「だったら、あなたが出せばいいじゃない」
「俺はこの家を買ったんだ。だから貯金なんてない」
「家は二人の給料でローンで買ったよね。それは理由にならないでしょ」
「ほら、彩葉の教育費だって」
「それも折半だったじゃない。ちなみに生活費も、今までかかってきたお金は全部折半よ。忘れたの?」
夫は言い返す言葉を失い、顔を真っ赤にして拳を握っている。私はここで初めて、夫が貯金を全くしていないことに気づいた。結婚してから金銭の管理は分けていたので、知る由もなかった。
「つべこべ言わずに金を出せばいいんだ。分からないなら、もういい」
夫はそう言い残すと、寝室へ行ってしまった。リビングに義妹と二人きりにされ、どうしたら良いか分からなかった。
「お姉さん、どうしてもお金ダメですか?」
義妹はうるうるした目で見つめてくる。だが、その手は通じない。
「無理です。自分たちでなんとかしなさい」
無言で気まずい空気の流れるリビング。義妹は私が折れるのを待っているようで、一向に帰ろうとしない。そんな時間が続いていると、夫が寝室から出てきた。その手には一枚の紙が握られている。
「離婚届を印刷してきた。妹のために金を使えないというのなら、離婚だ。俺のサインはしてあるから、あとはお前次第だぞ」
「離婚したら、お前は家を失うことになる。四十五歳のババアが家なんか借りられるか?」
どれだけ馬鹿にされたら気が済むのか。応な夫とだらしない義妹を見ていると、私の中で何かがプツンと切れた。
「妹に金を出さないから離婚。ふざけるんじゃないわよ。バカにするのもいい加減にしなさい」
私は夫から離婚届を奪い取った。
「離婚でも何でもしてやるわよ。あなたは大好きな妹のため、三百万円払ってあげればいいじゃない」
夫は驚いて硬直している。そんな夫を知り目に、私は最低限の荷物をまとめて家を飛び出した。行き先もなく、彩葉に電話をしてみることにした。
「もしもし。あ、元気? それがお父さんと言い争いしちゃって。迷惑じゃなければ、一晩だけ泊めてもらえないかしら」
「もちろんいいよ。ていうか、何日でもいいし。あ、久しぶりにすき焼き作ってほしいな」
「ありがとう。すき焼きたくさん作るよ」
スーパーで食材を買い、彩葉のアパートへ向かった。料理を始めると、彩葉が後ろから気まずそうに話しかけてきた。
「お母さんが家でするほど言い争うなんて。お父さん、何を言ってきたの?」
「いや、まあ、ちょっとね」
「まさか、お母さん気づいた?」
彩葉のその言葉に、私は動きを止めた。
「何のこと?」
「あ、いや、なんでもない」
「実はね、お父さんと離婚しようか悩んでるの。ひどいこと言われてね。あなたも何か知ってるの?」
私が離婚という言葉を口にすると、彩葉は心当たりがあったようで目を見開いた。
「やっとバレたんだ。お父さん、浮気してるよね。私、たまたまお父さんが若い女の人とホテルに入っていくところを見かけたの。それからもう気持ち悪くて、実家を出たのよ」
あまりにも予想外な内容だった。
「え? 浮気? え、あれ? もしかして、そのことじゃなかったの?」
彩葉は顔を真っ赤にしていた。
「そのことじゃなかったけど、聞かなきゃいけないことのようね。詳しく話してくれる? 今更傷ついたりしないわ」
彩葉は、私が学校を卒業するちょっと前に友達と居酒屋に行こうとしたら、お父さんが知らない女の人と歩いているのを見かけたと言う。怪しいと思って後をつけたら、そのままホテルに入っていったらしい。そして証拠の写真も撮ってあると言う。
写真を見せてもらうと、夫とは不釣り合いなほど若くて綺麗な女性と腕を組んでいた。
「うわ、これは確かに気持ち悪いね。気づいてやれなくてごめんね」
彩葉は首を横に振った。
「実はね、お母さん、お父さんの妹にお金をせびられたのよ。それを断ったら、お父さんに離婚しろって言われたの。こんな証拠があるなら、こっちから離婚してやるわ」
「その写真、私に送ってくれる? お父さんのサインが書かれた離婚届は私が持ってるから。ちゃんと慰謝料ももらってから離婚するわ」
「私も一緒に行くよ。最後にお父さんにガツンと言ってやりたいの」
夫が義妹の浮気を止めなかったのは、自分も浮気をしていたからだ。そのことが分かると、夫は途端に他人らしい存在になった。その晩は大量に作ったすき焼きを彩葉と二人で食べ、お酒を飲みながら夫の愚痴で盛り上がった。
週末、私は彩葉と共に夫のいる家へ行った。家は荒れ放題だった。食べかけのカップラーメンやスナック菓子がそこら中に散らばっている。
「どうやって生活したらこうなるの?」
彩葉の言葉に、夫は苛立っている。
「親に向かってなんだ、その口の聞き方は」
「これから親じゃなくなるんでしょ」
「娘にはもう話してあるわ。離婚届も記入したから、あとは提出するだけよ」
「大体なあ、本当に離婚できるとでも思ってるのか?」
「思ってるわよ。その前に、あなたに確認したいことがあるの。これを見てちょうだい」
私は彩葉から送られてきた写真を夫に見せた。夫は見る見る顔色が悪くなっている。
「この女は俺の部下なんだよ。体調が悪かったみたいで、休憩しただけなんだ」
「この写真、私が撮ったんだけど。ホテルに入る前、この女の人、ゲラゲラ笑ってたじゃない。全然体調悪いようには見えなかったけど」
「あなたの望み通り、離婚はしてあげます。ただし、慰謝料は払ってください」
「慰謝料なんて払えるわけがないだろう。妹にもお金を出さなきゃいけないのに」
ここまで来ても、まだ義妹を優先させようとしている夫に呆れ返った。
「これから頑張って働いて、どちらも払うように努力してください。今後は弁護士を通して話をするから、もう連絡してこないでね」
「待って。違うんだって。待ってくれ」
「お母さん、しばらく私のアパートにいたらいいわ」
泣き喚く夫を置いて、私たちは家を出た。
その後、私は無事に離婚することができた。彩葉が証拠の写真を撮ってくれたおかげで、慰謝料もしっかり払ってもらっている。一文無しになった元夫は、当然義妹にお金を出すことなどできなくなった。結局、資金が確保できなくなった義妹とその婚約者は、結婚式を挙げることはできなかった。それどころか金銭面で喧嘩が絶えず、婚約することなく別れたそうだ。義妹は再婚ができなかったことを元夫のせいにしている。義妹を溺愛する元夫は勝手に責任を感じ、今は義妹と二人で暮らしているらしい。しかし、私に慰謝料を払ったため元夫もお金がなく、ついには義実家へ転がり込んだが、私が義両親に事情を話していたため、あの兄妹は勘当されてしまった。
私はと言うと、彩葉を連れて実家で暮らすことにした。幸い両親ともまだ元気なので、貯めていた介護資金で実家をリフォームすることにした。フルリフォームした家はとても快適で、両親も彩葉も喜んでくれている。この穏やかな毎日を守るためにも、地道に頑張っていこうと思う。
これは、ごく普通の主婦だった私の身に起こった、恐ろしい話です。私は三十五歳の主婦で、就職を機に上京し、今の夫と出会いました。結婚後は郊外のマンションに、一歳になる息子と三人で暮らしています。そこは夫の実家からも徒歩圏内のため、義実家との交流もよくありました。
義実家との仲は良好でした。義母は「嫁子さん、親戚がお野菜をたくさん送ってくれたのよ。お裾分けをどうぞ」と程よい距離感で接してくれますし、義妹や義父も「お姉さん、お兄ちゃんが苦労をかけてない?」「今度一緒にショッピング行こうよ」と、いい関係を築けていました。特に私は実家から遠くに住んでいたこともあり、いざという時に頼れる親族が身近にいてくれるのは、心の支えでした。
そんなある日、義妹が彼氏を連れて義実家に挨拶に来るというので、私たちもその会に参加することになりました。会はトントン拍子に進み、義妹は数ヶ月後に結婚することが正式に決まりました。
「それではお開きに」といったタイミングで、義妹の彼氏がタクシーを呼ぼうとするので、義母が言いました。
「嫁子さん、悪いんだけど、送ってあげてくれないかしら。実家は最寄り駅から少し距離があるから、行きで来たらしいんだけど、もったいないでしょう」
この家で免許を持っているのは義父と私だけです。しかし、義父は二週間前にぎっくり腰をやったばかりでした。
「わかりました。それでは、息子さんのことを面倒見ていてくださいね」
私は義父から車の鍵を借りて、義妹の彼氏を往復二十分ほどの距離にある最寄り駅まで送り届けることにしました。
「ただいま戻りました」
玄関を開けるも、反応がありません。中から明かりが漏れているので、まだみんなで話し込んでいるようでした。私がドアに手をかけた時、義母の声が聞こえました。
「ねえ、嫁子さんに保険かけたの?」
何のことかしらと思わず手を止めると、夫が答えました。
「いや、結婚する時に入ったもので十分じゃないか」
そういえば、前に夫から「今よりいい保険に入らないか」と聞かれたのを思い出しました。その時は大して疑問に思わなかったのですが、義母からの提案だったことに急に疑惑が湧いてきた私は、何気なくスマホを取り出し、録画ボタンを押しました。前に友人が「夫の親族から変な宗教を進められた知人が、後で証明できなくて泣き寝入りしたことがあるから、証拠って大事よね」と言っていたのを思い出したのです。別に何もなければ、ただの家族の動画ですから、消すことは簡単です。私はドアの隙間からレンズを向けました。
「保険金だけかけて、何もなかったら無駄だもんね。嫁子さんにはお金が入らないんだもの。断られるわよ。だからね、こっそりかけておけばいいのよ。それに、せっかく高いお金をかけるんだったら、元を取らないとね」
「そうだな。嫁子さんには、巻き込み事故にでも遭ってもらえれば、ちょうどいいんだけどな」
義父が返しました。
あの人たちは、私が死ねばいいと思っているの? よくしてくれた義両親。実の姉はいないから「姉ができて嬉しい」といった義妹と、同一人物なのでしょうか。それに、私にもしものことがあったら、息子はどうなるのでしょう? 仮の話としても、悪質すぎます。
「お兄ちゃん、もし再婚するにしても、息子は邪魔でしょ。嫁子さんがいなくなったら、施設に出せばいいわ。まだ小さいから、本当のお母さんじゃなくても分からないわよ」
「知り合いに子供ができない夫婦がいるんだ。紹介してやったら、恩も売れるし、金をもらうのもいいかもしれんな」
この人たちは、人間なのでしょうか? 私はスマホを握りしめました。そして、何一つ反論しない夫にも不信感が募っていきます。
「ひとまず、妹ちゃんの結婚は、そこから補填すればいいわね」
「お母さん、いっぱいお金が入ったら、新婚旅行は海外でもいいかしら」
「はははっ」
笑い合う家族たち。何も分からない息子が夫の腕に抱かれて、こんな恐ろしい話を聞かされている。それが私には怖くてたまりませんでした。
思わずよろけてしまった私は、廊下の壁に手をつきました。バンと小さくない音がしてしまったので、玄関の方へ逃げようとしましたが、リビングのドアを開けた義母と目が合いました。
「あら、嫁子さん、今帰ったのね。遅かったわね。大丈夫?」
義母は私が帰宅したところだと勘違いして、何くわぬ顔で言うので、それに合わせました。
「ええ、道が混んでて」
何とかその場を取り繕って、その日は早々に義実家を後にしました。
その日から、一緒に暮らす夫のことすら信用できなくなり、息子を夫に一切触らせないようにしました。この子を守れるのは私だけなんだ。そう思い、水面下で離婚に向けて動き出すことにしました。
そして今日は、義妹の結婚式です。式が始まって、新郎新婦の入場、来賓の挨拶、それぞれの友人や親戚、知人たちからのお祝いのメッセージへと続きます。次第に盛り上がる会場に、私は緊張で手を握りしめました。
そして、例のムービーが流れ出しました。会場のスタッフに「家族の様子を撮影したので、サプライズで義妹のお祝いムービーとして、一番最後に付け加えたいんです」と言ったら、快く協力してくれたのです。
「お金かけるんだったら、元を取らないとね」
義妹が笑いながら発言する様子が、会場のスクリーンに大きく映っています。愕然として、新郎が「これはどういうことなんだ」と義妹に尋ねています。
「嫁子さんがいなくなったら、施設に出せばいいわ」
次々に映し出される義家族の様子に、ついに新郎が席を立ちました。
「待って。違うの? 冗談? そう、冗談よ」
義妹は必死に新郎にしがみつきますが、新郎は振り払いました。
「冗談でも、そんなことを言う奴となんか結婚できない。俺にも保険金をかけて、子供ができたら施設に出すつもりなんだろ。まるで犯罪者の集まりじゃないか」
新郎は心底気持ち悪いといった様子で義妹を振り払い、私のところにやってきて頭を下げました。
「嫁子さん、おかげで義妹さんと結婚しなくて済みました。本当にありがとうございました」
そう言って、新郎は会場のマイクを借りました。
「お集まりの皆さん、本日は僕たちのためにご来場いただいたのにも関わらず、このような事態となり申し訳ございません。残念ながら、破談となりましたので、どうぞご祝儀はお持ち帰りください。お食事だけでも楽しんでいただいて、時間までご自由におくつろぎください」
そう言い終えると、新郎はスタスタと会場の外へ歩いていきました。
「ちょっと、待って」
義妹は真っ青な顔をして追いかけていきました。
「嫁子さん、なんてことしてくれたの? 義妹の結婚をダメにするなんて。あなた、それでも人間の心はあるの?」
残された義母が、私に掴みかかる勢いで詰め寄りました。
「お母さん、それはこちらのセリフです。私、もうこんな家族とは関係を続けられません。離婚してください。もちろん、息子の親権は私がいただきます」
私はあくまで冷静に、有無を言わせずその場で夫に離婚届にサインをさせ、財産分与など細かい話は弁護士を通して行うことを伝え、その場を後にしました。「もしごねるようなことがあれば、この映像をしかるべきところに提出して、争うことも辞さない覚悟ですが」と最後に言い残したので、すんなり離婚することができました。
結婚式で婚約破棄された義妹は、破談になるまでの諸々の決して少なくない費用を負担することになったそうです。加えて、あの式には親戚、友人、会社の同僚など幅広く招待していたそうで、参列者のみならず、関係のあるほとんどの人間にこの騒ぎが広まったらしく、色々なところから絶縁されたり白い目で見られたりしたせいで、仕事も辞めて、義実家ごと引っ越すことになったらしいです。
私は離婚後、育休から職場復帰して、女手一つで息子を育て上げました。裕福ではなかったかもしれませんが、幸せな家庭だったと思います。
今日は、大きくなった息子が「紹介したい人がいるんだ」というので、そわそわしながら待っているところです。ピンポンとインターホンが鳴りました。どんな娘さんがいらっしゃるのでしょうか。願わくば、いいご縁でありますように。
