大将の一言で店内の空気が凍りついた。「ねえ、あんたたちみたいな貧乏人が来るなんて、金でも盗んだわけ?」久しぶりに弟の誕生日を祝おうと、昔住んでいた町の高級寿司屋を予約しただけだった。なのにまさか、カウンターの向こうにいたのが、十五年前に母を侮辱したあの男だったなんて。俺は怒りを飲み込んで納豆巻きを完食し、静かに告げた。「口に合わないので、店を潰しますね」。男は大笑いしたが、俺が鞄から取り出し…

大将の一言で店内の空気が凍りついた。「ねえ、あんたたちみたいな貧乏人が来るなんて、金でも盗んだわけ?」久しぶりに弟の誕生日を祝おうと、昔住んでいた町の高級寿司屋を予約しただけだった。なのにまさか、カウンターの向こうにいたのが、十五年前に母を侮辱したあの男だったなんて。俺は怒りを飲み込んで納豆巻きを完食し、静かに告げた。「口に合わないので、店を潰しますね」。男は大笑いしたが、俺が鞄から取り出し...

大将の一言で、店内の空気が凍りついた。「ねえ、あんたたちみたいな貧乏人が来るなんて、金でも盗んだわけ?」あまりの衝撃に、俺は一瞬言葉を失った。それでも、お任せを頼んだ以上、食べるのが筋だろう。にやにやと笑う大将に、はっきりと言ってやった。「口に合わないから、店を潰しますね。」

俺の名前は慎。父親が経営する会社で働いている。といっても、血の繋がった父親ではない。俺が小学校六年生の時に、母が再婚した相手だ。優しくて賢い人で、子供の頃からいろいろなことを教えてくれた。大人になった今でも、たくさんのことをこの父から学んでいる。

そして、俺には五つ歳の離れた弟がいる。名前は武尊。武尊は父の会社ではなく、同じ業界の他社で働いている。外の世界を見てから、俺と同じように父の会社に就職したいと言っていた。今はそれぞれ一人暮らしをしているが、よく実家に顔を出しては、みんなで食卓を囲んでいる。

今日も俺と武尊は実家に来ていた。あまりにも頻繁に来るので、仲良しファミリーで羨ましいと、ご近所さんから言われているらしい。

今でこそ普通の生活ができているが、母が再婚するまで、俺たちは貧乏暮らしだった。本当の父親の顔は、あまり覚えていない。弟が生まれてすぐに離婚したらしい。母はシングルマザーになってから、昼夜問わず働いていた。新しい服やゲームを買う金など、あるはずもなかった。

当時、貧乏な俺に目をつけたのは同級生の富沢だった。からかうのが面白かったのだろう。貧乏だとか、汚いだとか、馬鹿にされたものだ。普段は気にしないようにしていたが、ある日、小柄な弟を馬鹿にされたことがある。「貧乏で食べるものがないから、小さいんだ」と言われた時は、さすがに頭に血が上った。突き飛ばしてしまうと、富沢が怪我をした。弟とは違って体格のいい俺が突き飛ばしたもんだから、富沢は吹っ飛んだ。

俺と富沢は校長室へ呼び出された。事実確認をして、内々に片付けるつもりだったのだろう。だが、たまたまこの日は保護者会があり、大勢の保護者が集まっていた。

気の強い母は、富沢の親に噛みついた。「暴力を振るった慎も悪いけど、先に馬鹿にしてきたのはそっち。貧乏だの小柄だの、子供の尊厳を傷つけたでしょう」

すると富沢の両親、特に父親が反発した。「貧乏な暮らしをさせるあんたが悪い。暴力を振るうなんて、犬以下だな。家庭の最底辺が」と。言い合いは保護者会の帰り道まで続き、他の保護者もいる中で、富沢の父親は暴言を吐き続けた。まさかここまで大事になるとは、先生も思っていなかったはずだ。

あの時、父親が暴言を吐く姿を見て、白けてしまったのか。帰り道、富沢が俺に謝ってきた。「悪かった。父さんがあんなこと言うなんて」俺も暴力を振ったことを謝り、俺たちはあっさり和解した。だが、親同士はいつまでも歪み合っていた。他の保護者からも、富沢に意地悪を言われたという声が上がった。さらに、他の母子家庭の母親が、富沢の父親に偏見だと抗議したという。

俺も富沢も、大人たちの揉め事など気にせず、仲良くサッカーをしていた。やがて母が今の父と出会い、再婚し、父の会社がある隣町に引っ越すことになった。あれから十五年ほどが経つ。

昔を思い出したからか、久しぶりに富沢のことも思い出した。「そういえば、父さんと住む前は、もやしばっかり食べていたよな」俺が当時の貧乏エピソードを話すと、食卓から笑い声が上がる。「父さんがいたから、まともな大人になれたんだよ。もちろん、一生懸命育ててくれた母さんにも感謝しかないけど」

「おかげで無事に二十五歳になりました。兄ちゃん、約束通り、高級寿司連れて行ってよね」

「おう」と俺が言うと、武尊はガッツポーズを取った。俺も武尊も寿司が大好きで、よく二人で食べに行くことがある。父も母も、残念ながら生魚が好きではないので、四人で行くことはなかった。そういえば、去年も武尊の誕生日に高級寿司屋へ行ったっけ。

いろいろな店を開拓しようと探していると、昔住んでいた町に良さそうな高級寿司屋を見つけた。昔からある店らしいが、子供の頃はそんな店があるなんて知らなかった。ここの店に行くつもりだと父に見せると、「どれどれ」と携帯の画面を覗き込む。「ここか。慎、それだったらさ」父はついでにとあるお願いをしてきた。俺は了承すると、これから食べる寿司のことを考えて、よだれが出そうになっていた。

最近は忙しくて、寿司も食べられていない。久しぶりの高級寿司屋に、俺も武尊もワクワクしていたのだ。それなのに、まさかあんな最低なお祝いになってしまうなんて、この時は思いもしなかった。

「いらっしゃい。カウンターへどうぞ」

予約した店に入ると、大将の元気な声で出迎えられた。平日で天気も悪いからか、客は俺たちとテーブル席の一組だけだ。

「昔、この町に住んでいたんですけど、すっかり街並みが変わりましたよね」俺がカウンターにいる大将に話しかけると、大将は苦笑いした。「そうなんですよ。新しい店がどんどん増えましたね。昔住んでいたって言うと、子供の頃ですか?」

俺はそうだと答えると、自虐も込めて昔の貧乏エピソードを少し話した。もやしばかりの毎日、昼夜働いてくれた母への感謝。あとは、貧乏だと馬鹿にされたことなんかも。大将はその時、別の客の寿司を握っていた。

初めは笑顔で聞いていた大将の表情が、少しずつ曇り始めた。そして険しい顔をして、俺の顔をじっと見つめてきたのだ。調子に乗って話しすぎたのかもしれない。母が再婚して引っ越したという辺りで、話を切り上げることにした。「かけすぎだよ、慎。大将だって仕事中で忙しいんだから」と武尊に小声で注意されてしまう始末。久しぶりの寿司屋に、浮かれていたのかもしれない。

「再婚ね。でかい口叩いていたくせに、結局男だよりだったなんて、情けない。情けないな」

大将はそう、ぼそりとつぶやいた。何を言っているのか分からなかったので「何ですか?」と聞き返したが、「ご注文は?」と素っ気なく言われてしまう。明らかに、入店した時よりもテンションが低い。大将の態度が気になるところだが、俺はお任せをお願いした。

すると、ふっと小さく笑った大将。しばらく静かに待っていると、高級寿司屋ではありえないものが出てきたのだ。俺たちの目の前に現れたのは、なんと大量の納豆巻きとガリ。武尊は納豆巻きと大将の顔を交互に見ている。俺は驚きすぎて、何も言えずにいた。最近寿司屋巡りができていなかったが、これが流行りなのか?いや、そんなはずはない。心の中で一人突っ込みをしていると、大将はさらに衝撃的なことを言い出す。

「貧乏人のお口に合いますか?それとも、納豆すら食べられないくらい貧乏でしたかね」

にやりと意地悪な笑みを浮かべる大将。確かに貧乏エピソードを話したのは俺だが、その言い方はあんまりではないだろうか。

「貧乏人って、あんたね」武尊が席をガタッと立つもんだから、テーブル席にいた客から注目されてしまう。

「事実でしょう?貧乏で育ちが悪いもんだから、暴力に走る野蛮なガキだったくせに」

何のことなのか、ピンとこなかった。大将は腕を組み、俺たちを見下ろしながら続ける。

「あれからさ、寿の息子は性格が悪いって、散々言われてね。文句を言おうにも、いつの間にかあんたたちは引っ越すし。うちはずっとこの地域で生きていくから、片身が狭くて仕方なかったんですよ」

ここまで聞いて、ようやく大将が誰なのか気がついた。昔、トラブルになった富沢の父親だ。寿司屋の名前は本名とは違う屋号だったので、気がつかなかったのだ。子供の頃に会ったことがあるが、顔など覚えているわけもない。そういえば、富沢の家は商売をやっていると、あの後聞いた気がする。だから父親は頑固で、譲らないだろうとも言っていた。それならうちの母も負けず嫌いだから、勝負がつかないね、と富沢と笑い合ったことが懐かしい。確かに富沢は、あの後同級生に距離を置かれていたが、本人は大して気にしていないように見えた。俺も富沢も、図太い性格なのだろう。

大将は、自分のプライドを傷つけられたことが、許せないに違いない。ようやく気がついた俺に、大将は大きなため息をつく。

「で、あんたたちみたいな貧乏人が来るなんて、金でも盗んだわけ?それとも、店主相手にたかってるの?あの母親、気が強いもんね。脅して金を巻き上げているとか」

まさか、他の客も聞いているような店内で、母を侮辱されるだなんて。俺は怒りでかっとなり、拳を強く握った。だがもちろん、子供の頃のように暴力で解決しようだなんて思わない。それよりも、何と言えばこの男が謝罪するのかを考えた方が賢いだろう。

「母さんを馬鹿にするな。それに、この寿司は何だよ」先に口を出したのは武尊だった。

「武尊、大きな声を出すんじゃない。マナー違反だぞ」俺は武尊を座らせると、出された納豆巻きを食べるように言った。「お任せを頼んだのはこちらだ。任せておいて文句を言うなんて、筋違いだろう」

俺は無言で納豆巻きとガリを完食すると、「ごちそうさまでした」と言った。武尊も俺に習うように、無言で納豆巻きを頬張る。その間、大将はずっとニヤニヤしていた。

「貧乏人のお口に合うかと聞かれましたね。答えは、いいえです。口に合わないので、お店潰しますね」

「へえ。誰がどこを潰すって?貧乏人が高級寿司屋に来ただけでも笑えるのに、これ以上笑わせないでくれよ」大将が大きな声で笑うもんだから、何事かと他の客も固唾を飲んで見守っていた。女将らしき人が出てきて注意するが、大将は止まらない。「こいつが俺と息子のプライドを傷つけたんだ」と大声で言っている。奥さんである女将は、俺が誰なのか察したようだが、何十年も昔のことなのに何を言っているのかと呆れている。

「俺の店を潰せるもんなら、潰してみろよ」短気な大将が、喧嘩を売ってきた。

「わかりました。まず、今すぐ滞納している家賃を全額払ってください。もう半年分は滞納されているようですから。できないようだったら、強制退去もありえます。そうなれば、実質潰れたようなものですよね」

俺はある書類を見せながら言った。それは、大将が滞納している家賃の金額が記載されている書類だ。

「な、なんでお前がこれを持っているんだよ」

「んで、と言われましても、これが私の仕事なので」

自分の中で、仕事モードに切り替わったのが分かった。俺は父の経営している不動産会社に務めており、こうして家賃を滞納するテナントの元を訪れることがある。滞納賃料を請求するために、まずは支払い金額を通知するためだ。体格のいい俺が訪問すると、支払いに応じるケースが多いらしい。文句を言われることも多いが、図太い性格だからか、大して気にはならないのだ。

これまで俺の受け持ちは会社近隣のテナントだったが、最近は隣町も任されるようになってきた。俺たちがこの店に食べに行くと知った父は、「ついでに家賃の件を通知してきて」と軽く言ってきた。ここも訪問先リストに入っていたらしい。家賃が三ヶ月滞納した時、社員が電話で支払い金額を通知していた。しかし、「売上金が少ないから待って欲しい」と言い訳を続けてきたのだ。

昔からの付き合いだからと、父は大将に甘いところがある。ただ、付き合いの長い短いはビジネスに関係ないと、母が厳しく管理するようになったのだ。赤字だった時期もあった父の会社だが、母と再婚してからは随分と回復したのだとか。

大将には店を潰すといったものの、こちらとしては家賃さえ払ってくれればそれでいい。だが、大将の青ざめた表情を見るに、滞納した家賃を払う金はないようだ。

「客入りも良くて、売上もいいはずです。貧乏人から借りた金くらい、返してくださいよ」嫌味を込めて言うが、大将は黙ったままだ。すると女将が、土下座する勢いでやってきた。

「利益が出ても、この人がギャンブルに全額使っちゃうもんで、返すお金がないんです。もう少し待ってもらえませんか?」

「うるさい。お前は出しゃばるな」大将は女将の腕を強く掴み、奥の部屋へと押し込もうとする。二人がギャーギャーと騒ぐ姿に、他の客も武尊も引いていた。

「父は半年待ちましたが、私はこれ以上待つつもりはありません。いつまでも支払いに応じるつもりがないなら、契約の解除も考えますので。つまり、このテナントからの強制退去です」

「それは困ります。この辺りは新規の店も増えてきて、賃貸価格が上がっていますから、これ以上家賃の高い物件ではやっていけません」と大将は泣き言を吐いた。

「では、支払ってもらうしかありませんね。ギャンブルだなんて無意味なことは、やめたらどうですか?」淡々と告げると、大将は逆切れしてきた。

「ごちゃごちゃうるせえな。オーナーはお前の父親であって、お前じゃないんだ。お前に払う義務はねえ。とっとと帰れ」

そう言うと、皿やまな板を投げてきた。武尊は驚いていたが、滞納した相手がこうなることは、たまにある。店にいた客は慌てて会計をしていた。女将は大将を止めたいが、帰る客の会計をしないわけにもいかないだろう。

俺は冷静に投げてきたものを避けながら、父に電話をした。「今、大将と話しています。代わりますね」そう言って、電話をスピーカーフォンにする。

「富沢さん、そろそろ家賃を支払ってもらわないと困っちゃいますよ。僕も奥さんに怒られちゃってね」物が割れる音の中で、父の呑気な声が響く。すると今度は、スピーカーから女性の声が聞こえた。

「お皿の割れる音が聞こえますが、暴力を振るうなんて、犬以下だって言ってませんでしたか?やはり富沢さんは、犬よりも程度が低いんですね。では、支払いお願いしますね」

この挑発するような言い方は、母だ。負けず嫌いの母は、昔言われた暴言を覚えていたのだ。

「くっそ。なんでオーナーの結婚相手が、あんたなんだよ」大将は悔しそうな声を出している。母も会社で働いているとはいえ、大将が会社に来ることはないので、会うことはなかったはずだ。

父との電話を切った俺は、一気に告げた。「まずは内容証明で支払い金額を通知します。無視するならば、連帯保証人である奥さんに連絡しますし、それも無視するなら、裁判所の支払い督促制度を利用します。それでも解決しないようでしたら、訴訟を起こしますから。滞納した家賃分を請求するのはもちろん、契約解除も念頭に入れています。そうしたら、このテナントから出て行ってください」

一気にそう言って、会計をお願いした。順序立てて説明したので、逃れられないと悟ったのだろう。大将は泣くような声で「申し訳ありませんでした」と言って、頭を下げていた。

結果的に、大将はテナントから出ていくことになった。謝罪したくせに、再善の通知も無視し続けたので、訴訟を起こして契約解除した。もちろん、家賃滞納分は支払ってもらう。また、奥さんから先日の謝罪の電話と共に、離婚したと報告を受けた。ギャンブル狂の大将についていけなかったのだろう。ちなみに富沢は、寿司屋を継ぐつもりなど全くなく、他で会社員をしていると奥さんから聞いた。

後継もおらず、妻にも逃げられ、店から追い出された大将。近隣の家賃が高いため、店の移転は諦めたらしい。今は家賃滞納分を返すために、回転寿司でアルバイトをしているそうだ。あの性格だ。きっと年下のバイトに怒られていることだろう。

俺はと言うと、父から特別ボーナスをもらっていた。家賃滞納問題を一件解決したという名目である。このボーナスで、もう一度武尊の誕生日祝いをしてやろう。今度は、納豆巻きやガリなんか出さない。ちゃんとした高級寿司屋で、武尊の笑顔を見るために。

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