ふっと、いい加減に諦めろって言ってんだよ。俺は来長組の若頭だ。お前みたいな女、ボコボコにして二度と見られない顔にしてやっても構わねえんだぜ。
男はファーストクラスの座席にどっしりと腰を下ろし、私に向かって怒鳴り散らしていた。男が座っているその席は、間違いなく私が予約した席だった。どうして自分の席を横取りした見知らぬ男に怒鳴られなければならないのか。私は理不尽な怒りに全身が震えた。
その時、男はまだ知らなかった。男に訪れる因果応報の結末を。
私の名前は豊田瑠美。来長組という組織でヤクザの組員をしている。だが、女である上に服装も普通の恰好だから、あまりヤクザには見えないらしい。私は特にそれを気にすることもなく日々を過ごしていたけれど、その日は九州での会合を終えて東京へ戻るところだった。
会合自体は無事に終わったのだが、準備の忙しさと緊張から解放された瞬間、どっと疲れが出た。すぐに移動しなければならないので休む暇はなかったが、帰りのフライトをファーストクラスにしておいたのは正解だった。短いフライトでも、ゆっくり体を休めて空の旅を楽しめる。そう思って自分の座席へ向かうと、そこには見知らぬ男が座っていた。
一目で分かるほど柄の悪い男で、明らかに一般人には見えない。私は何度かチケットを確認してから、できるだけ優しい声で話しかけた。
「すみません。あの、そこは私の席なんですけど、お席をお間違いではないですか?」
男はイヤホンをつけたまま目を閉じ、返事をしようとしない。
「あの、すみません。座席をお間違いではないですか? ここ、私の席のはずなんですけれども」
今度は肩に軽く触れて声をかけると、男は不機嫌そうに目を開けて私を睨みつけた。
「なんだよ。いい気持ちで寝てるってのに。お嬢ちゃんが席を間違えてるんじゃねえのか」
「いえ、ここは私の席です。番号は間違えていません。あなたの方がお席をお間違いではありませんか? チケットを確認してみてください」
「はあ、そうかい。でも他にも席は開いてるだろ。他の場所に座ったらどうだ?」
男はそれだけ言うと腕を組んでまた目を閉じてしまう。他の席に行けと言うが、ファーストクラスで開いている席などあるはずがない。それに私は会合で疲れ切っていて、一刻も早く座って休みたかった。
「そういうわけにはいきませんよ。ファーストクラスなんですから。あ、ひょっとしたら手違いで席がブッキングしちゃったのかしら。チケットを確認してくれませんか?」
「うるさい姉ちゃんだな。普通席ならまだ空いてるだろ。そっちに移動したらどうだ?」
男はチケットを出そうともしない。最初からファーストクラスの席を横取りするつもりで座っていたのだろう。正直かなり苛立っていたが、ここで客室乗務員を呼べば大事になってしまう。大きな騒ぎを起こして乗客に迷惑をかけるのは避けたかった。私はあえて下手に出ることにした。
「そんなこと言われても困ります。普通席に座っても、チケットを確認しに来たら乗務員さんにも分かってしまいますよ。そうなったら乗務員さんにも迷惑をかけてしまうでしょう。離陸前にちゃんと自分の席に戻ってください」
丁寧に、角を立てないように話したつもりだった。だが、それは逆に男を調子づかせてしまったらしい。男は深々と座席に腰をかけ、ふんぞり返って私を見た。
「うるさい姉ちゃんだな。何度も言わすな。俺が先に座ったんだから、ここは俺の席なんだよ。さっさと諦めて普通席に行けよ。空いてるんだろ。なんなら姉ちゃんの首根っこ掴んで普通席まで引きずって行ってやろうか」
男はさらに気勢を上げて私に迫るが、離陸前ということもあって、他の乗客は私たちの様子に気づいていないようだった。仕方がない。自分の席のことだから、自分で何とかするしかない。
「そんなことをしたら普通席のお客さんが驚いてしまいますよ。あまり乱暴なことをすると事が大きくなってしまうじゃないですか。飛行機の中で問題が起こったら大変ですよ。離陸時間が遅れる可能性だってありますから。ですから、席を変わっていただけませんか? そこは私の席ですので」
私は頭を下げてお願いする。すると男は、私が頭を下げて頼む姿を見て完全に自分が勝ったと思ったのだろう。急に得意げな顔をして、にやけた表情で私を見た。
「そんなに席を変えて欲しいのか? それならひとまず飲み物でも持ってきてもらおうか。話はそれからだ」
「飲み物ですか? 分かりました」
私はしぶしぶ客室乗務員の元へ向かい、ホットコーヒーを注文した。急にやってきてコーヒーを頼む私を、客室乗務員は不思議そうな顔で見ていた。何かトラブルに巻き込まれているのではないかと心配しているのかもしれない。だが、ここで客室乗務員を頼るわけにはいかない。私は何もないように笑って、ホットコーヒーを手に席へと戻った。
「お待たせしました。ホットコーヒーです。熱いので気をつけて飲んでくださいね」
「ホットコーヒーだって? おい姉ちゃん、気が利かねえなあ。こういう時、飲み物って言ったら酒だろ。ビールでもワインでもシャンパンでもあるんだろ」
「ファーストクラスはコーヒーも美味しいですよ」
「そういう問題じゃねえんだよ。まったく」
男は文句を言いながら熱々のコーヒーをすする。席を譲る気は微塵もないのだろう。男は靴を脱ぎ、ファーストクラス専用のスリッパに履き替えていた。
「どうしてスリッパを履いているんですか? ここは私の席で、あなたは間違えて座っているんですよね。この席に居座るつもりなんですか? ダメですよ。飛行機の座席はちゃんと決められた通りに座らないと」
「うるせえ姉ちゃんだな。もうここは俺の席なんだよ。大人しく普通席に戻ったらどうだ?」
さらに男は座席についているマッサージ機能まで使い始めた。呆れるを通り越してあきれてくる。すると男は気持ち良さそうに言った。
「ああ、マッサージ機能がついてる座席ってのはいいもんだが、人間が手で揉むマッサージには及ばないよな。姉ちゃん、せっかくならちょっと肩も揉んでくれないか?」
一体この男はどこまで図々しいのだろう。困り果てた私を見かねたのか、近くに座っていた乗客が立ち上がった。
「君、いい加減にしないか? さっきから聞いていたが、そこの席はそちらのお嬢さんの席なんだろう。それを自分の席だと言い張って、お嬢さんに他の席へ行けと命令するとは、横暴にもほどがあるぞ」
「うるせえ。片付の分際で俺に指図するんじゃねえよ」
男は立ち上がると、声をあげた乗客の頬を思い切り殴りつけた。突然殴られた乗客はその場で膝をつき、頬を押さえてうずくまる。その様子を男は気持ち良さそうに眺めていた。
「は、いい気味だ。いいか? 他の連中も正義感振りかざして俺に指図なんかするなよ。こいつみたいに痛い目を見るぜ」
私は慌てて倒れた乗客に駆け寄った。
「ああ、だ、大丈夫ですか?」
「ああ、大丈夫だ。心配をかけてしまってすまない」
乗客が無事なのを確認すると、私は男の方へ向き直った。
「急に殴るなんて、どうしてそんなひどいことをするんですか? 自分がどれだけ悪いことをしたか分かっているんですか?」
「女の前で恰好つけたがってるおっさんをぶん殴っただけで、いちいち騒ぐなよ」
「いい加減にしてください。あなた、一体何様のつもりですか?」
私はつい強い口調で男を責めた。すると男は、よくぞ聞いてくれたと言わんばかりの顔で私にこう告げた。
「俺が誰だか知りたいってか。これなら教えてやる。俺は来長組の若頭、小金井ってもんだ。どうだ? 驚いたか? あの巨大ヤクザ組織、来長組の若頭だぜ。お前みたいな女一人、ボコボコにしてやってもいいんだぜ」
堂々と名乗る小金井を見て、私は驚きのあまりポカンと口を開けた。まさか小金井が来長組を名乗っているとは思わなかったからだ。元々静かだった乗客たちは、お互い顔を見合わせてひそひそと話し始める。相手がヤクザを名乗るというのなら、もう我慢をする必要もない。しかも来長組を名乗るというのなら、なお好都合だ。
「へえ。あんた、来長組の若頭さんなんだ。随分と偉い人なんだね」
私はいつものヤクザとしての姿を見せる。その瞬間、雰囲気が変わったのに気づいたのだろう。小金井は驚いた顔を私に向けていた。
「お、おう、そうだよ。あ、なんだお前。急に雰囲気が変わったなあ」
「あんたがあんまり面白い冗談を言うから、ついおかしくなっちまっただけだよ。でもいけないね。来長組の若頭ともあろう方が、大事な人を忘れちゃいないかい?」
「何言ってやがるんだお前。大事な人? 何のことだかさっぱり分かんねえよ」
急に話し方を変えた私に対し、小金井は戸惑いながら視線をそらす。そんな小金井に私は満面の笑みを浮かべて言った。
「おやおや。来長組の若頭さんとあろうものが、隣に座っている組長さんのことを知らないのかい。しかも組長さんより偉そうにしているじゃないか。ねえ、組長もそう思いませんか?」
「え? 来長組の組長?」
私の言葉に小金井は驚いて飛び上がった。同時に、隣に座っていた男が声を上げて笑い始めた。
「いや、やめてくれ。さっきから笑いをこらえるのが大変だったのに、もう我慢できないじゃないか。それにしても、組長の俺を隣に、若頭を自称する奴がいるとは驚きだぜ」
「え? 組長さん? 本物の来長組の……」
「おお、来長組を仕切らせてもらってる高尾ってもんだ。それでお前さんは一体どこの組のだ? うちに小金井なんて若頭はいなかったはずだがな」
目に涙を浮かべて笑う組長とは裏腹に、小金井の顔色はどんどん白くなっていく。
「そ、そうだったんですか。高尾組長。これは大変失礼いたしました」
逃げ出そうとする小金井の体を、私はとっさに押さえた。
「待ちなさいよ、小金井さん。うちの組の若頭を勝手に名乗っておいて、逃げようったってそうはいかないよ。大体、ファーストクラスのスリッパのままで逃げてどうするんだい? 靴も履き替えないでいたら、外に出られないじゃないか。本当、よその組の名前を勝手に借りるような間抜けは、何をやらせても間抜けだね」
小金井は脂汗をだらだら流しながら、無理やり席へと戻される。さっきまで威張り散らしていた小金井が、一気に小さく見えた。
「どうして来長組の組長さんがこんなところに? 確か本部は東京ですよね」
「うちの組織は別に東京だけが全てじゃねえからな。九州でも会合の一つや二つあるんだよ。ああ、当然、お前が散々お嬢ちゃん扱いしていたあのお嬢さんも、うちの組員だ。なに、あれでいい仕事をするからな」
「そ、そんなことがあるかよ。どう見たって普通のお嬢さんじゃねえか」
小金井は私をとてもヤクザだとは信じられないという顔で見る。
「よく言われるんですよね。見た目がヤクザらしくないって。でもだからこそ、ちょっと言葉遣いを変えて話し出すと、ビビッて縮こまる奴が結構いるんだよね。ギャップが返って怖いみたいだよ。そう、ちょうど今のあんたみたいにね」
私がわざと声色を変えて話すと、小金井はすっかり小さくなり、ブルブル震え出した。来長組の若頭であるという嘘が簡単に見破られたことも、隣に座っていたのが来長組の組長だったことも、私がヤクザだったことも、小金井にとっては全てが予想外の出来事で、考えが追いつかないのだろう。だからこそ、私はさらに追い打ちをかけることにした。
「それにね、実はこのファーストクラスもビジネスクラスも、全部来長組の幹部が座ってるんだよ」
「はあ? どういうことだ? 何なんだ?」
「今回の会合で女手で動いたからね。飛行機の席を取ったら、自然と貸し切りみたいになっちまったのさ。だから、あんたが張り切って殴ったのも、うちの幹部だよ」
私がそう告げると、さっき殴られた乗客が立ち上がってにやりと笑う。
「いやあ、小金井とか言ったか。いいパンチくれたよな。だが、いけねえぜ。顔は目立つ。ヤクザならちゃんと見えないところを殴って、しっかり痛めつけないとな」
殴られた乗客はそう言いながら、仕返しのつもりか小金井の腹を一発殴った。小金井は小さく悲鳴を漏らし、椅子から転げ落ちそうになったので、私はそれを支えてやった。
「まったく、皆さん人が悪いですよ。私の席にこいつが座っているのを知っていて、知らん顔をしてたでしょ」
「いやいや、悪いとは思ったよ。だがトヨタはいつも大人しいからな。ちゃんとヤクザやれてるか、見てやらないといけないと思ってな」
他の席に座っている幹部たちは悪びれる様子もなくそう言う。最初からここにいる全員がヤクザだったなんて。最初から俺を笑い者にしてたのかよ。小金井は悔しそうにうめき声をあげたので、私はその頬を軽く叩いてやった。
「何が被害者だよ。あんたが私の席に勝手に座ってたのが全ての原因だろ。最初に間違えましたと謝って、素直に席を譲ってればよかったのに。私を甘く見て居座るからいけないのさ。自業自得もいいところだよ。それであんたは本当はどこの組の問題? 来長組は嘘だが、ヤクザってのは本当だろ。素直に白状しなさい。そうしないと、これからもっとひどい目に合うよ」
「うう。気境組です。す、すみません。組には言わないでおいてください」
気境組。聞いたことがある。来長組よりずっと小さな組だったはずだ。
「そういうわけにはいかないね。あんた、来長組を名乗るのに一切ためらいがなかったじゃないかい。日頃から当たり前のように来長組の若頭を名乗っていたんだろう。嘘をつき続けていたんだろう」
小金井は唇を噛むと黙り込んでしまった。すると隣に座っていた高尾組長が、笑いながら小金井の肩をバンバンと叩く。
「おいおい、なんだお前? うちの組員じゃないのに、その名を名乗っていた上に、勝手に若頭まで登り詰めたのか。はは、そりゃ面白れえ。ライセンス料を取らねえとな。それと、うちの幹部を殴った治療代だろ。トヨタにコーヒーを運ばせたサービス料も払ってもらわないといかんな」
「金を払うんですか?」
「当たり前だろ。来長組の名を汚し、組員に怪我までさせたんだからな。そうだな。全部込みで二億でどうだ? 今までお前がしてきた悪事を振り返れば、格安じゃないかなあ」
「な、何を言ってるんですか。そんな金、払いません」
飛び上がりそうになる小金井の体をしっかり押さえると、私は優しく言った。
「安心しなよ。金が払えないってヤクザのために、ヤクザは金貸しをしてるんだからね。心配しなくても、来長組にもいい金貸しがいるよ。支払いができないかわいそうな奴にも、ポンと金を貸してくれるのさ。特別な利息付きでね。こんな風に急に物入りになった時、すぐに支払えるじゃないか」
「そう言われましても、それは金利が少々お高いですよね。あの、二億、分割で払いますんで、なんとかなりませんか?」
「何言ってるんだい? 気境組は大した組じゃないだろう。組の金を全部かき集めたって、二億なんて集められるもんか。そうだね。うちの仕事を紹介してやるから、そこから支払うってのはどうだい? ちょうど今の時期に出るマグロ漁船があるんだ。いい稼ぎになるよ」
「ま、待ってください。もし俺が借金をしてマグロ漁船に乗ったとしても、二億なんて額、すぐに払いきれるもんなんですか?」
「さあね。それはあんたの働き次第じゃないか。ひょっとしたら一生かけて払ってもらうことになるかもしれないね。でも、気境組でのらりくらり過ごすよりよっぽど早く稼げるはずさ」
そう言われ、小金井はブルブルと首を振った。
「い、いや、マグロ漁船は嫌ですよ。もう町に戻ってこれないとか、俺の人生おしまいじゃないですか」
「あんたが嫌だって言うんなら、別にいいさ。ただうちもメンツってのがあるからね。来長組の名前を汚した罪、命で払ってもらってもいいんだけど、どうする? 潮の泡になった方がいいかい?」
私は笑いながら小金井に迫る。すると小金井は魂が抜けたような顔をして、呆然と天を仰いだ。
「そうだ。せっかくだから、私があんたの席と変わってやるよ。ファーストクラスのフライト、せいぜい楽しみな」
私はせめてもの慈悲として、小金井と席を変えることにした。きっと小金井にとってこれが最後のフライトになるだろう。そう思ったら、席を譲ってやってもいいと思えたのだ。隣は来長組の組長。周囲は来長組の幹部たちに囲まれたフライトだ。きっと楽しんでくれたことだろう。
東京に戻ってすぐ、小金井は来長組の事務所へ連れて行かれた。ファーストクラスを楽しんだ後、黒塗りの高級車でのドライブだ。さぞ堪えたことだろう。事務所の応接でソファーに座らされた小金井は、疲れ果てたように放心していた。だがそこはヤクザだ。フライトの最中にマグロ漁船に乗る覚悟はついたのだろう。事務所に金貸しが来た時も、マグロ漁船の話をした時も、特に逆らうことなく大人しくしていた。
「さて、二億の借金も契約した。うちのライセンス料も部下の治療費もしっかり払ってもらったが、さすがにお前を勝手にマグロ漁船に乗せるのは筋が通らんよな。一応、気境組の組長にも話を通しておくぞ」
「え? 組に連絡をするんですか?」
だがさすがの小金井も、自分の組の名前を出されたら冷静ではいられなかったようだ。気境組の名を聞いた時、急にうろたえ始めた。
「ま、待ってください。この件は気境組は一切関係がないんです。若頭を名乗っていたのは俺の独断ですから、どうか組には内密でことを進めてください」
「そういうわけにはいかんだろう。いくらなんでも、よその組員をうちが勝手にマグロ漁船に乗せていたなんてことを、後から知ったら気境組の組長のメンツを潰すことになる。それに、お前はもう一生マグロ漁船で生きていくんだろう。組に戻ることもないんだ。ちゃんと話をつけておかないとな」
高尾組長の言葉に、小金井はがっくりと項垂れる。そんな小金井を横に、高尾組長は気境組へと連絡を入れた。すると五分と経たぬうちに、事務所へ気境組の組長がやってくる。
「気境組の組長、四ツ矢と申します。この度はうちの小金井がとんでもないことをしでかして、本当に申し訳ありませんでした。この件はどうか内々に」
気境組の組長四ツ矢は入ってくるなり、すぐに土下座をする。その様子を見て高尾組長はあきれ返った。
「おいおい、しでかした方が内々になんて言い出すのが筋じゃねえだろうが。何でもしますから許してくださいって頭下げるのが筋じゃねえのか。謝り方も知らねえような奴が組長やってるから、部下がバカなことをするんじゃないのか」
開き直って保身に走る四ツ矢に、高尾組長は呆れた顔をする。四ツ矢も自分の失態に気づいたのだろう。生半可な苛立ちと怒りをぶつけるように、小金井を怒鳴りつけた。
「大体なんだ貴様は。気境組の者でありながら来長組を名乗るなんて、ヤクザとしてのプライドはねえのか」
「組長、申し訳ありません。つい出来心で。一度名乗ったら、周りの連中が急にちやほやし出すんで、止められなくなっちまったんです」
「ちやほやされたいなんて、くだらない理由でうちの組が解散の危機にさらされてるんだぞ。お前、自分のしたことがどれだけのことだか分かってるのか。このバカたれが」
激怒した四ツ矢は、怒りに任せて小金井を蹴り倒す。その様子を私たちはけげんに見つめていた。まさかうちの事務所で小競り合いを始めるとは思ってもみなかったからだ。
「い、痛いです。組長、やめてください」
「ようもまあ、来長組なんてでかい組織に目をつけられがって。うちが解体されたら責任取れるのか? 取れるわけないよな。お前みたいな穀潰しヤクザに。くそ。今日限り、お前は破門だ。二度と俺の前に顔を見せるな」
「そ、そんな。組長、組長に見捨てられたら、俺はどこに行けばいいんですか?」
やはり小金井は、マグロ漁船で借金を返し終えることができたなら、気境組に戻りたいと思っていたのだろう。四ツ矢から破門を言い渡された小金井は、完全に希望を失って絶望に沈んでいた。だが、私は少しだけ思う。今、小金井を破門したことは彼のためなのだろうか。
「どうかうちの組には手を出さないように計らってもらえませんでしょうか。お願いします。お願いします」
さっさと部下を切り捨て、プライドのかけらも見せず何度も土下座をするような組長に仕えるのが、小金井のためなのだろうか。こんな保身しか考えのないような組長だからこそ、小金井のようなヤクザしか集まらないのではないか。高尾組長も何か思うところがあったのだろう。腕を組んだまま、じっと四ツ矢の姿を見据えていた。
「今はひとまず、そちらの小金井はうちで預からせてもらうって話だけにしておこうか」
「ありがとうございます。ありがとうございます」
許されたと思ったのか、四ツ矢は嬉しそうに頭を下げる。その後ろで小金井は、九州で見た時とは別人のようにげっそりとやつれて見えた。
それから一ヶ月後、気境組の組長四ツ矢は小金井を破門にし、謝罪した。だが、それも虚しく、来長組の手によりあっさり解体させられた。四ツ矢のように保身しか考えず、自分の部下をすぐ切り捨てるようなヤクザが組長をしていても、まともに部下を管理できるはずがない。高尾組長はそう考えたようだ。
小金井は大人しくマグロ漁船に乗り、借金を返すため毎日寝る間もないほど働かされているという。ただ、仕事ができず、毎日他の乗組員に怒鳴られているらしい。
私は相変わらず来長組のヤクザをしている。今日も他のヤクザと違い、黒スーツや黒い革靴とは違う服装に身を包む。相変わらずヤクザに見えないと言われることは多い。だが最近は、あの大人しい見た目だからこそ、ヤクザとしての顔を見せた時は返って恐ろしいのだと、周囲から恐れられているようだ。
私は髪をかき上げると、今日も夜の町を歩く。誰に何と言われてもいい。私は来長組のヤクザとして、今日も精一杯働く。
これが私の生き方で、これが私の幸せなのだから。
