「決済が通りません」—その一言で、私の三十年間は終わりを告げた。白いバラと銀色のリボンに飾られた宴会場で、昨日離婚届に捺印したばかりの元夫が、二十八万円のダイヤのネックレスを若い女の胸元に輝かせて、満面の笑みで挨拶を振りまいていた。私は木村水薦、五十八歳。駅前の惣菜屋で朝五時から煮物を作る毎日を送っている。経理の仕事を辞めて家庭に入って三十年、家計の全てを一人で管理してきた。夫は通帳を開いた…

「決済が通りません」—その一言で、私の三十年間は終わりを告げた。白いバラと銀色のリボンに飾られた宴会場で、昨日離婚届に捺印したばかりの元夫が、二十八万円のダイヤのネックレスを若い女の胸元に輝かせて、満面の笑みで挨拶を振りまいていた。私は木村水薦、五十八歳。駅前の惣菜屋で朝五時から煮物を作る毎日を送っている。経理の仕事を辞めて家庭に入って三十年、家計の全てを一人で管理してきた。夫は通帳を開いた...

白いバラと銀色のリボンに飾られた宴会場で、シャンデリアの光が床に反射して、招待客のグラスを淡く輝かせていた。つい昨日に離婚届に捺印したばかりのせ彦は、33歳の西田連ゲと腕を組み、満面の笑みで挨拶を振りまいている。慎長したタキシード姿のせ彦は、まるで20歳若返ったかのようだ。連ゲは純白のウェディングドレスに身を包み、胸元で大粒のダイヤモンドのネックレスが輝いている。このネックレスは、表参道のジュエリーショップで28万円のものだ。私のカード明細に記載されていた金額と店名を、私は今も正確に覚えている。

宴も中盤に差し掛かり、せ彦は上機嫌でスピーチを始めた、皆さん、お忙しい中お集まりいただきありがとうございます、60歳にして第二の人生をスタートできることを心から幸せに思っております。会場からは拍手が沸き起こった。営業部長として培った話術で、空気を巧みにコントロールしているな、と私は冷めた目で見つめていた。連ゲが隣で頬を染め、せ彦の腕に寄り添う、絵に描いたような幸せな光景だ。少なくともこの時点では、だれもがそう思っただろう。

華やかな宴も終わりに近づき、客が帰り始めた頃、せ彦は上機嫌のままフロントへ向かった。連ゲを伴い、胸ポケットからクレジットカードを取り出す。フロント係の若い女性スタッフがそれを受け取り、端末に通した。数秒の沈黙の後、スタッフの表情がわずかに曇った。もう一度カードを通し直し、画面を確認してから、申し訳なさそうに口を開ける。「決済が通りません」その言葉で、せ彦の笑顔が凍りついた。「え?」聞き間違いかと思い、スタッフの顔を覗き込む。

「そんなはずはない、もう一度やってくれ」だが、結果は同じだった。端末の画面には「ご利用いただけません」の文字が無情に表示されている。せ彦は慌てて財布から別のカードを出したが、それも、その次のカードも、同じエラー表示だった。額に汗が浮かび始め、隣の連ゲが不安そうに彼の腕を引く、「ねえ、みんな見てるわよ、早くどうにかしてよ」せ彦はポケットからスマートフォンを取り出し、銀行のアプリを開いた。暗証番号を何度か間違えながらようやくログインすると、表示されたのは普通預金残高、47万円だけだった。宴の精算額、料理、飲み物、会場費、装花、音響設備を合わせて380万円、この金額を知った瞬間、せ彦の顔から見る見る血の気が引いていった。

私は木村水薦、58歳。駅前の商店街にある惣菜屋「真心亭」で、朝の仕込みに汗を流す毎日を送っている。夜明け前の薄暗い厨房で、大鍋のひじきの煮物をかき混ぜていると、醤油と出汁の香りが湯気と一緒に立ちのぼってくる。この匂いを嗅ぐと、今日も一日が始まるのだという実感が体の奥から湧いてくるのだ。「水薦さん、今日の金平ごぼう、ちょっと味見してくれない?ごぼうの太さがいつもと違う気がするのよ」同僚の麦田ユリが、試食用の小皿を差し出しながら笑顔で声をかけてきた。ユリとは、私がこの店に務め始めた頃からの付き合いで、気がつけばもう八年になる。「うん、ちょうどいい甘辛さね、ごぼうも歯応えがあって美味しいわ」ユリは安心したように胸を撫で下ろし、調理台に向き直った。回転前の厨房には、揚げ物の油が跳ねる音と、炊飯器から立ちのぼる白い蒸気が満ちている。パートの仲間が次々と出勤してきて、厨房は活気づいていく,私の担当は煮物全般と、閉店間際の値引きシール貼りだ。地味な仕事だが、煮物の味付けだけは誰にも負けない自信がある。母から教わった「出汁は贅沢に、砂糖は控えめに」という基本を、五十年以上守り続けてきた成果だった。

と同時に、馴染みのお客さんたちが店先に並び始める、杖をつきながら毎朝やってくる田中のおばあちゃんは、決まってひじきの煮物と鯵の塩焼きを買っていく,一人暮らしの年配のお客さんが多いこの商店街では、真心の惣菜が食卓の主役になっている家庭も少なくない,それが私のやりがいでもあった

私がこの店で働き始めたのは、子供が手を離れた五十歳の時だ.それまでの私は、夫の木村彦を支える専業主婦として、家庭のことを一手に引き受けてきた,結婚前は大手食品メーカーの経理部で十年間勤めていたけれど、彦との結婚を機に退職した,以来三十年間、家計の管理から日々の食事、掃除洗濯、子育てまで、全てを私の手で回してきたのだ.経理時代に培った数字への感覚は、家庭に入ってからも存分に発揮された,毎月の収支を一円単位で記録し、子供の将来の教育費や老後の資金を計画的に積み立て、住宅ローンの繰り上げ返済も私の判断で進めてきた、彦の給料が振り込まれる口座の管理から、光熱費や保険料の引き落とし口座の設定、クレジットカードの家族カードの手続きまで、全て私が担っていたのである,彦は営業畑の人間で、数字に向き合うことを極端に嫌がる男だった,「お前に任せておけば安心だ」というのが口癖で、通帳を開いたことすらないのではないかと思うほど、家計のことには無関心だった,結婚当初から彦は、稼いだ金を右から左へ使う人間だった,給料日にはすぐに同僚や部下を連れて飲みに出かけ、ゴルフクラブを衝動買いし、最新の家電を見れば後先考えずに購入する,その穴埋めをしてきたのは、いつも私だった,食費が足りなくなれば節約レシピに切り替え、彦の使いすぎた月は密かに貯蓄の積立額を減らしてやりくりを合わせる,そうした地道な調整を、私は文句一つ言わずに続けてきた,とってお金とは、蛇口をひねれば出てくる水と同じような、当たり前の存在だったのだろう,水道代は誰が払っているのか、配管がどう通っているのか、一度も考えたことがない,一人息子の剣一は二十八歳になり、都内のIT企業に勤めて順調にやっている,子育ても終わり、夫婦二人の穏やかな暮らしが始まるはずだったけれど、ここ半年ほど、彦の様子が少しずつ変わってきていることに私は気づいていた,帰宅時間が以前より遅くなったのだ,最初は営業先との付き合いだと思っていたけれど、それが週に三、四回と増え、深夜を回ることも珍しくなくなった頃から、胸の奥にかなり引っかかりが生まれ始める,何より気になったのは、彦の身だしなみの変化だった,六十歳を過ぎてから急にスーツの仕立てにこだわり始め、美容院にも月に二回通うようになった,洗面台には見慣れないブランドの制汗剤が並び、玄関には新しい革靴が増えている,スマートフォンの扱いも変わった,以前はリビングのテーブルに無造作に置いていたのに、最近は肌身離さず持ち歩き、入浴の時でさえ脱衣所に持ち込んでいる,画面にロックをかけ始めたのもここ数ヶ月のことで、以前はそんなことをしない人だった,着信音が鳴った時、彦が慌てて部屋を出ていく姿も何度か目にしている,休日の外出も増えた,以前は土日ともなれば昼までソファでごろごろしていたのに、今は朝からゴルフに行くと言って身支度を整えて出かけていく、だが、ゴルフバッグは玄関の隅にほこりをかぶったまま動いていない,彦はその矛盾に私が気づいていないと思っているのだろう,違和感をさらに強くしたのは、ある朝の出来事だった,出勤前の彦とすれ違った時、ふわりと知らない香水の匂いがしたのだ,,甘く華やかなその香りは、六十歳の営業部長が自分で選ぶようなものではなかった,「水薦さん、どうしたの?ぼんやりしてひじきが焦げちゃうわよ」ユリの声で我に帰り、慌てて鍋底をかき混ぜる,焦げてはいなかったけれど、少しだけ水分が飛んでいた,,ごめんなさい、ちょっと考え事をしていて,ユリは軽く頷いたが、それ以上は聞いてこなかった,長年の付き合いで、私が自分から話すまで待ってくれる人だと分かっている

昼過ぎに店が落ち着くと、私は休憩室で温かい番茶をすりながら、スマートフォンに届いたクレジットカードの利用通知を確認した,,経理出身の私にとって、支出の確認は呼吸をするのと同じくらい自然な習慣である,画面に並ぶ明細の中に、見慣れない店名がいくつか混じっていた,,都心の高級フレンチレストラン、銀座のブランドショップ、表参道のジュエリーショップ,,いずれも私が使った覚えのない店である,,これらは全て、彦に渡している家族カードでの支出だった,,私の口座から引き落とされるカードを、彦は当然のように使っている,,今までは接待や自分の身の回りの買い物程度だったのに、ここ数ヶ月で明らかに金額と頻度が跳ね上がっていた,,銀座のブランドショップで十五万円、表参道のジュエリーショップで二十八万円,急行の高級レストランでの会計が三万円、四万円と続いている,,自分用にしては高額すぎるし、私への贈り物ではないことは確かだった,,経理の仕事をしていた頃の癖で、金額を見ると自然とパターンが浮かび上がってくる,,毎週金曜日に集中する高額決済,二人分の食事と分かる金額帯,そして月に二回の同じホテル泊,点と点が線になりかけているけれど、その線を辿どった先にある答えを、まだ見たくはない,,胸の奥で引っかかりが少しずつ大きくなっていくけれど、長年連れ添った夫を疑うという行為そのものが、自分の中で強い抵抗を生んでいる

帰宅すると、彦は珍しく先に家にいた,,玄関の靴を見た瞬間、「もういるのか」と少し身構えた,,最近は、彦がいてもいなくても、この家に安らぎを感じることがない,,彦はリビングのソファに座り、スマートフォンを操作している,,通りすがりの瞬間に、鏡のような画面に何かのメッセージを打っているのが映り込んだ,,「お帰りなさい、今日は早かったのね、夕飯、少し待ってもらえる?」「ああ、今日はいい、外に食べに行くから」そう言って彦は立ち上がり、洗面所で身支度を整え始めた,,鏡の前で髪を整え、あの甘い香水をつけている後ろ姿を見ながら、私は台所に立ち尽くしていた,,玄関のドアが閉まる音が響き、静かになったリビングに、時計の針の音だけが残される,,買ってきた刺身のパックを冷蔵庫にしまいながら、一人分の夕食を用意する自分の手が、わずかに震えているのに気がついた

それから数日後の朝,,私はいつものように彦のスーツをクリーニングに出す準備をしていた,,ポケットの中身を確認するのは長年の習慣で、ハンカチや名刺入れを取り出しながら、内ポケットに手を伸ばした時のこと,,指先に触れたのは、光沢のある写真用紙の感触だった,,名刺かと思って引き抜いてみると、きちんとした写真館で撮影されたと思われるツーショット写真が現れた,,L版サイズの写真の裏には、丸文字で日付が書き込まれている,,三ヶ月前の日付だ,,彦の隣に寄り添っているのは、若い女性である,,柔らかな黒髪を緩く巻き、ブランドもののワンピースに身を包んだその女性は、彦の腕に品だれかかるようにして微笑んでいた,,三十代前半だろうか,,娘と言ってもおかしくない年齢の女性と、六十歳の彦が肩を寄せ合って写真に収まっている光景は、私の胸を鋭く突き刺した,,写真を持つ手が震え、膝の力が抜けるのを感じながら、洗面台の縁を掴んでなんとか体を支える,,しばらくの間、洗面所の冷たいタイルの上に立ち尽くした,,涙は出なかった,,出ないのではなく、出せなかったのかもしれない,,泣いてしまえば、その瞬間から自分が被害者になる,,まだそうなりたくなかった,,深呼吸を繰り返し、震える指で、写真をスマートフォンのカメラで撮影してから元の場所に戻した,,表面は様々な角度から、裏面は日付がはっきりと読めるように、カメラに収めていく,,写真が入っていたポケットの位置まで撮影は念入りに行った,,証拠は残す,,経理時代に叩き込まれたその鉄則が、感情に溺れそうになる私を過るじて引き止めていた

その日の夜,彦が入浴している間に、改めて家族カードの利用明細を、過去半年分遡って確認した,,ノートパソコンの画面に並ぶ数字を追いかけていくと、浮かび上がってきたのは一つの明確なパターンである,,毎週金曜日の夜、都心の高級レストランで二人分のディナー、月に二回、同じ高級ホテルでの宿泊,間に挟まるブランドショップやジュエリーショップでの高額な買い物,,規則的で、まるで定期的なデートのスケジュールが組まれているかのようなパターンだった,,明細を計算表に打ち込み、月ごとに集計していく,,一ヶ月目は三十八万円、二ヶ月目は四十二万円,,三ヶ月目から金額が跳ね上がり、直近の月は八十七万円に達していた,,半年間の合計額を電卓で弾き出すと、その数字は三百二十万円を超えていることがわかった,,全て私の口座から引き落とされている金額である,,私が朝五時に起きて惣菜屋で働き、一円単位で家計を管理し、コツコツと積み上げてきた貯蓄の中から、彦は若い女との交際に、湯水のように金を注ぎ込んでいたのだ,,怒りよりも先に、深い虚しさが胸に広がった,,これまでずっとあの人のために尽くしてきた時間は、何だったのだろう,,経理の仕事を辞め、家庭に入り、子育てをし、家計を守り、彦の帰りを待ち続けた日々,,彼が帰りが遅くなると電話をかけてくるたびに、温め直しやすいおかずを用意して待っていた,,その全てが裏切られていたのである

脱衣所から持っておいた彦のスマートフォンの通知が光った,,彦宛てのメッセージが画面に表示される,,差出人の名前は連ゲ,「今週末も楽しみにしている、早く二人きりになりたい」という甘い文面の冒頭だけが読み取れる,,私は画面が暗くなるまで、その文字を見つめ続けていた,,連ゲ,,その名前を心の中で何度も反芻した,,彦は家では一切その名前を口にしたことがないけれど、スマートフォンの向こう側には確かにその人がいる,,風呂場から聞こえてくる彦の鼻歌が、やけに遠く感じられた,,私が惣菜屋で汗を流している間、あの人は連ゲという名の若い女性と高級レストランで食事をし、ブランドショップで買い物をし、ホテルの部屋で過ごしていたのだ,,その全てに、私の口座から金が支払われていた,,窓の外では秋の虫が泣いている、静かな夜だった

裏切りの証拠を見つけてから、私の中では二つの感情が絶え間なく攻め合っていた,,一つは、長い結婚生活を守りたいという気持ち,,若い頃の彦は確かに優しかった,,剣一が生まれた時、病院の廊下で泣いて喜んでいた姿を、今でも覚えている,,運動会で剣一が転んだ時、誰よりも大きな声で応援していたのも彦だ,,もう一つは、裏切られた怒りと、このまま見て見ぬふりを続けることへの嫌悪感だった,,毎朝五時に起きて惣菜屋に立ち、帰宅すれば夕食を作り、洗濯物を畳み、家計簿をつける,,その繰り返しの日々を支えていたのは「家族のため」という思いだったはずなのに、当の夫は若い女と高級レストランで食事を楽しんでいた,,鏡に映る自分の姿を見つめた,,惣菜屋の仕事で荒れた手、日焼けした肌,白が混じった髪,,五十八歳の自分は、若い頃の面影をどれほど残しているだろうか,,このまま知らないふりを続けることもできた,,証拠を突きつけて修羅場にすることもできた,,けれど、どちらの選択肢も自分を幸せにするとは思えない,,知らないふりを続ければ、毎月のカード明細を見るたびに縮む日々が続く,,修羅場にすれば、長い歳月をかけて築いてきた家庭が跡形もなく壊れる,,どちらを選んでも痛みは避けられない,,ならば、どちらの痛みなら耐えられるのか,,その問が、毎晩の寝室で何度も頭をもたげる

ある日の昼休み,,惣菜屋の裏口でユリと二人きりになった時、耐えきれなくなって口を開いた,,「ユリさん、ちょっと聞いて欲しいことがあるの」ユリは弁当を食べる手を止め、真剣な目で私を見た,,長い付き合いの中で、私がこんな切り出し方をするのは初めてだったから、只事ではないと察したのだろう,,写真のこと、カードの明細のこと、スマートフォンのメッセージのこと,,一つ一つ話すたびに、ユリの表情が険しくなっていった,,「水薦さん、それいつから気づいてたの?ずっと一人で抱え込んでたのね」「半年くらい前から、なんとなくおかしいとは思ってたの、でも確信が持てなくて,それに三十年も一緒にいた人を疑うのが怖くて」ユリは腕を組み、しばらく黙ったまま遠くを見つめていた,,やがて深いため息をつき、紙コップのコーヒーを一口飲んでから、私の目をまっすぐに見据えた,,「あなたの気持ちは分かるわ、でも、三百二十万も使い込まれてるんでしょう,あなたのお金よ,それ黙って見ているのは、優しさじゃなくて自分を傷つけてるだけよ」その言葉が、胸の深いところに刺さった,,ユリの目は怒りに燃えている,,私以上に怒ってくれている目だった,,分かっているのに、踏み出せない,,離婚という言葉を口にするだけで、体中の力が抜けてしまいそうになる,,積み重ねた歳月の重さが、足かせのように私を縛りつけていた,,剣一のことも頭をよぎる,,両親の離婚が、二十八歳の息子にどんな影響を与えるのか,考えるだけで胸が締め付けられた,,剣一は彦を尊敬している,,営業成績の良い父を誇りに思い、正月に帰省するたびに、父の元気な姿を喜び、嬉しそうに笑っていた,,それに、商店街で働いていれば、近所の人々と毎日顔を合わせる,,離婚の噂が広がれば、惣菜屋の仕事にも影響が出るかもしれない,,田中のおばあちゃんも、毎朝来てくれるお客さんたちも、私のことをどう見るだろうか,,五十八歳で離婚した女,,世間ではそういう目で見るに違いない

けれど,私が汗水流して稼いだパート代と、長い年月をかけてコツコツ積み立ててきた貯蓄の中から、彦は勝手に若い女に貢いでいる,,家族カードの仕組みを知らない人は多いが、経理出身の私にはよく分かっている,,あのカードの契約者は私であり、引き落とし口座も私の名義だ,,彦は自分の稼ぎで贅沢をしているつもりだろうが、実際に支払っているのは私だ,,この事実に気づいた時、怒りとも悲しみとも違う、冷たく澄んだ感情が胸の底に沈んでいくのを感じた,,「水薦さん、あなたは経理のプロとして、十年も大手企業で働いてきたじゃない,数字のことなら誰よりも分かってるでしょう,その力を、今こそ自分のために使う時なんじゃないの」ユリの言葉が、固く閉ざしていた心の扉を、少しだけ開いた,,経理のプロとしての力,,その能力を、私はこれまで一度も自分に向けたことがなかったかもしれない

ユリと話してから数日後の夜,,事態は思わぬ形で動き始めた,,リビングで家計簿の整理をしていると、彦が上機嫌で帰宅したのだ,,酒の匂いはなく、むしろ妙に晴れやかな表情をしている,,あの甘い香水の残り香が、かすかに漂っていた,,ソファに腰を下ろした彦は、テレビのリモコンにも手を伸ばさず、おもむろに口を開いた,,「水星がある,実は、好きな人ができたんだ,離婚してくれないか?」あまりにも唐突で、あまりにも軽い口調だった,,長年連れ添った妻に離婚を切り出すのに、まるで明日の天気の話でもするかのような気軽さである,,私は手元の家計簿から顔を上げ、彦の目を静かに見つめた,,驚いてはいなかった,,この瞬間が来ることを、心のどこかで予感していたからである,,「相手は会社の後輩で、連ゲって言うんだ,もう一年以上付き合ってる,本気なんだ,だから、できるだけ早く離婚届を出したいんだが」彦の声は弾んでいた,,そして、のたまう,「条件はお前の好きにしていい,,家はお前にやるから,それでいいだろう」,,それは、妻への感謝も、詫びる言葉も、一片も含まれていない、ただ自分が新しい生活をするために、じゃまな存在を処理するような物言いだった,,これまでにも増してはっきりと、この人の目に私が映っていないことが分かった,,私は静かに頷いた,,「分かったわ」この五文字を口にするまでに、どれほどの感情を飲み込んだか、彦には永遠に分からないだろう,,彦は私があっさり応じたことに少し面食い、すぐにホッとした表情を浮かべた,,面倒な修羅場にならなくて良かったとでも思っているのだろう,,「助かるよ,,できれば今月中に届を出したいんだ」,,そう言いながらポケットからスマートフォンを取り出し、画面を確認した,,きっと連ゲからのメッセージだ,,妻に離婚を切り出した直後に、恋人のメッセージをチェックする神経が、私には理解できなかった

彦が寝室に引き上げた後,私はリビングに残り、家計関連のファイルを引き出しから取り出した,,通帳、保険証券、不動産の権利書、投資信託,クレジットカードの契約書,,長年にわたって几帳面に整理してきた書類の束を前に、一つ一つ確認していく,,自宅マンションの名義は私,貯蓄の大半は私名義の口座に入っている,,彦の給与が振り込まれる口座の残高は、毎月の散財でほとんど残っていない,,彦が日常的に使っているクレジットカードは、私が契約者のカードである,,つまり、離婚すれば、彦の手元に残るものはほぼ何もない,,この事実を、彦は知らない,,ずっと家計を丸投げし続けた結果、自分の経済状況すら把握できていないのだ,,時計の針が深夜一時を指していた,,彦はとくに穏やかな寝息を立てている,,連ゲのことで頭がいっぱいなのだろう,,寝顔を見ても、もう何の感情も湧かなかった,,テーブルの上に並べた書類を見つめながら、私は静かに決意を固めた,,泣くのは終わりにする,,悲しむのももう十分だ,,ここからは、長年磨き続けてきた経理の力を、自分自身を守るために使う番である

翌日の昼休み,,ユリに事情を話すと、ユリは驚くよりも先に怒りを露わにした,,「離婚してくれ、だって‥三十年も尽くしてきたあなたに、好きな人ができたから別れてくれ?ふざけるのも大概にしてほしいわ」彼女の剣幕に、周囲のパートさんたちが驚いて振り返るほどだった,,私が手で制すと、ユリは声を落としたものの、目には怒りの炎が灯ったままである,,「水薦さん、私の友達に、離婚専門の弁護士がいるの,,一度相談してみない?あなたが不利にならないように、ちゃんとした人に見てもらった方がいいわ」ユリが紹介してくれたのは、小田原明子という弁護士だ,,ユリの幼馴染みの姉が離婚した際に世話になったらしく、離婚問題の腕は折り紙付きだと太鼓判を押してくれた

数日後,,私は駅前のビルにある法律事務所を訪ねた,,エレベーターのボタンを押す指が、少し震えている,,弁護士事務所を訪れるなど、人生で初めてのことなのだ,,エレベーターの扉が開くと、落ち着いた雰囲気の女性が出迎えてくれた,,明子はきちんとしたスーツに身を包んでいるが、どこか柔らかさを感じさせる人だった,,五十歳という年齢からは想像できないほどの澄んだ目が印象的で、私の話に真剣に耳を傾けてくれる,,途中で涙声になった時も、黙ってティッシュの箱を差し出してくれただけで、せかすことは一切なかった,,私が持参した資料、写真のコピー、カード明細の一覧、不動産の権利書、通帳のコピー,,それらを確認しながら、明子は時折り頷き、メモを取っていた,,「木村さんは、長い間、家計を完璧に管理されてきたんですね,これだけ整理された資料を、初回相談で持ってこられる方は、なかなかいらっしゃいません,,ありがとうございます」その言葉が嬉しくて、頬が緩む,,「率直に申し上げます,,この状況であれば、財産分与はあなたにかなり有利に進められます,自宅の名義はあなた、貯蓄の大半もあなた名義、ご主人が使っているクレジットカードも、あなたが契約者の家族カードです」明子はペンを置き、私の目をまっすぐに見た,,「離婚届を出す前に、きちんと条件を整えましょう,,特にカードの扱いについては、離婚成立のタイミングで適切に対処する必要があります」,,「焦る必要はありません,夫が『すぐにでも』という態度だったので、それに従わないといけないと思っていました」私がそう話すと、明子は首を横に振った,,「ご主人は早く届を出したがっているようですが、それはご主人の都合です,あなたのペースで進めましょう」その言葉を聞いた瞬間、張り詰めていた糸が、少しだけ緩むのを感じた,,一人で戦わなくていい,,専門家が味方についてくれている,,その安心感が、冷え切っていた心を、わずかに温めてくれた

事務所を出る時、明子が玄関先まで見送ってくれた,,「木村さん、あなたは十分に頑張ってこられました,,ここからは私も一緒に考えますから、どうか一人で抱え込まないでくださいね」深く頭を下げて、事務所を後にした,,駅までの道すがら、秋風が頬を撫でていく,,冷たくはない,むしろどこか清々しい風だった

明子と私は、綿密な準備を進めた,,翌日には明子に連絡を入れ、面談を設定したのだ,,あの時の私は、不思議と冷静だった,,写真を見つけてから数ヶ月間、心の奥底で覚悟が育っていたのかもしれない,,週に二回法律事務所に通い、離婚協議書の内容を一つずつ確認していく,,惣菜屋の昼休みに抜け出し、電車で三駅先の事務所へ向かう日々が始まった,,明子は私が作成した資料に全て目を通し、法的な裏付けを丁寧に確認してくれた,,「こんなに細かく条件を決める必要があるんですか?」「はい,協議書に書かれていないことは、後から争いの種になります,,今のうちに全て明文しておきましょう」弁護士費用は決して安くないけれど、これは自分への投資だ,,惣菜屋のパート代を少しずつ積み立ててきた貯蓄の中から、この費用だけは惜しまなかった,,打ち合わせは毎回二時間以上に及んだ,,家計簿のデータ、通帳の記録、カードの明細、不動産の登記情報,,私が作成したそれらを一つずつテーブルに並べ、法的な意味を確認していく,,経理畑で十年鍛えた書類整理の技術が、これほど役に立つ日が来るとは思わなかった,,「北山さんの資料の正確さには、関心します,,普通の方がここまで揃えられることは稀です,,これなら、協議の場でも、堂々と持ち込まれても動じない主張ができます」明子のその言葉は、純粋に嬉しかった,,誰にも評価されなかった家計管理の仕事が、ようやく意味を持ったのだ

その間も,彦は一刻も早く離婚届を提出したがっていた,,連ゲとの結婚式の日取りまで決めたらしく、毎晩のように離婚届の提出を催促してくる,,「式場の予約が入っていて,キャンセル料がかかるとまで言い出す始末だった,,焦っているのはご主人の方です,,こちらは冷静に、必要な手続きを一つずつ進めましょう」明子の言葉に従い、私は離婚協議書の内容を、細かく詰めていった,,改めて財産の全体像を整理すると、あの夜確認した通りの状況がそこにあった,,自宅マンションと貯蓄はいずれも私の名義,彦の口座はほぼ空なのが常,カードは私が契約者の家族カード,,離婚すれば当然、この契約関係は解消される,,「ご主人は、自分が使っているカードの引き落とし口座がどこか、ご存知なのでしょうか?」「おそらく知りません,,一度もカードの明細を確認したことがないと思います」「つまりご主人は、奥様の口座のお金で生活していること、離婚後に自分の手元にいくら残るのかを、全く把握していないということですね」その通りだ,,彦は自分の稼ぎで暮らしていると信じ込んでいるが、実態は正反対だった,,毎月の給与明細すら確認しない男が、自分の手取り額を正確に知っているとは思えない,,自分の金など、ほとんど存在しないに等しいのだ,,明子は眼鏡の位置を直しながら、淡々と続けた,,「ご主人のような方は、珍しくありません,,家計を配偶者に一任し、自分の経済状況を把握していない,,離婚時に初めて現実を知って、愕然とするケースは、私の経験でも何度もありました」その言葉に、自分だけが苦しんでいるわけではないのだと、少しだけ気持ちが楽になった

離婚協議書の作成は、着々と進んだ,,慰謝料、財産分与、年金分割,,一つ一つの条項に、明子の知恵と私の経理経験が反映されていた,,特に時間をかけたのは、財産分与の計算だ,,自宅マンションの評価額、残余貯金の分割方法、退職金の扱い,,私は法律事務所から持ち帰った資料を台所のテーブルに広げ、電卓を叩きながら何度も計算をやり直した,,日付が変わってからも、番茶を入れ直しては数字と向き合い続ける夜もあった,,寝室から彦の鼾が聞こえてくる,,この男は、自分の人生がどう変わろうとしているのか、全くもって気づいていない

明子と最終確認を行った日,完成した書類には、法的にも会計的にも、隙がなかった,,「これなら完璧です,,仮に後から争われても、この協議書は十分に有効です」彦は、書類の内容には目もくれず、捺印を急かすばかりだった,,「細かいことはいいから、さっさと判を押させてくれ,,連ゲとの式は明日なんだ,,間に合わないと困る」協議書は全十五ページ,,財産分与の詳細、慰謝料の金額、不動産の帰属、カードの取り扱い、年金分割,全てが明記されている,,彦はその一ページ目すら読まずに、最終ページの署名欄に目を走らせるだけだった,,「ここに判を押せばいいんだな」「はい」「よし」離婚届と協議書に署名・捺印し、鼻歌交じりで寝室に引っ込んでいった,,自分が何に判を押したのか、まるで理解していない,,あの書類には、家族カードの契約が離婚と同時に解消される旨が、明記されていた,,読んでいれば気づけたはずのことを、彦は自ら放棄したのである

翌朝一番に、役所へ離婚届を提出した,,朝八時半の受付時間に合わせて行ったのは、午後に彦がホテルへ向かう前に、全ての手続きを終えろと言ったためだ,,待合いの椅子に座り、番号札を握りしめながら順番を待つ,,窓口の向こうで職員が書類を確認し、何度か印影の押し具合を確かめた後、受理の印影が押された,,たったそれだけ,,事務的な手続き一つで、長い結婚生活が終わりを告げたのだ,,役所を出た時、朝の光が眩しかった,,通り過ぎるサラリーマンや学生たちは、ここで一つの結婚が終わったことなど知るよしもなく、それぞれの日常を歩いている,,私はベンチに座り、しばらく空を見上げていた,,雲一つない青空が、皮肉なほど清々しい朝だ,,スマートフォンが震えた,,ユリからのメッセージだった,,「大丈夫,今日のシフト私が変わるから、無理しないでね」短いメッセージに、目頭が熱くなったけれど、泣くのは早い,,今日は、やるべきことが残っている

自宅に戻ると,彦はすでに式場のホテルへ出かけていた,,連ゲとの結婚式は、その日の午後に控えていたのだ,,朝一番に離婚届を出させ、昼には新しい結婚式を挙げる,,彦にとって今日は、人生の輝かしい再出発の日なのだろう,,役所へ向かう私を見送った彦の足取りは、まるで少年のように軽やかだった,,結婚生活を噛み切れ一枚で終わらせたことへの重みなど、彦の中には一欠片も存在しないらしい,,私はゆっくりとリビングのテーブルに座り、明子から預かっていたチェックリストを広げた,,離婚後に行うべき手続きが、項目ごとに整理されたチェックリストだ,,最初の項目は、家族カードの解約だった,,カード会社のコールセンターに電話をかけた,,待ち時間の間、壁にかかった時計を見上げる,,午前十時,,あと数時間で、彦の結婚式が始まる,,オペレーターにつながった,,「家族カードの解約をお願いします」離婚が成立しましたので、落ち着いた声で必要事項を伝える,,オペレーターは事務的だが丁寧に対応してくれた,,離婚届の受理証明書の写しをファクスで送付し、本人確認を経て、手続きは滞りなく完了する,,カードは即時利用停止となるらしい,,最後に、未決済の予約やサブスクリプションの有無を確認された,,全てないことを伝えると、手続きは完了した,,それだけのやり取りで、彦の金銭的な命綱は断ち切られたのだ,,彦が持っている他のカードについても確認した,,明子と事前に調査した情報によれば、彦個人名義のカードは二枚あったが、いずれも利用限度額いっぱいまで使い込んでおり、追加の決済はできない状態だった,,連ゲへの贈り物やデートの費用で、毎月末を待たずに限度額を使い切っていたのだ,,昨日の時点で、一枚は限度額五十万円のところ四十九万八千円まで使われており、もう一枚は三十万円の限度額を完全に使い切っていた,,つまり、彦の手元にある全てのクレジットカードが、数時間後の式では使えないのだ,,明子にそのことを報告すると、明子は静かに頷いた,,「これは法的に何の問題もありません,,離婚が成立した以上、カードの契約関係も解消して当然です,,むしろ解約しなければ、今後も北山さんの口座から引き落としされ続ける可能性がありました、、ええ,これは私の口座を守るための、当然の手続きです」窓の外では、午前の日差しが町を白く照らしていた,,数時間後,彦は高級ホテルで盛大な結婚式を挙げるのだろう,,新しい花嫁と腕を組み、シャンパンで乾杯し、招待客から祝福を受ける,,そして、その代金を支払おうとした時に、初めて自分が何も持っていないことに気づく,,長年家計を妻に丸投げし、通帳も一度も開かず、カードの明細すら確認しなかった男の自業自得だ,,私がそれを仕組んだのではない,,ただ離婚という手続きに当然伴う手続きを、当然のタイミングで行っただけなのだ,,テーブルの上の湯呑みから、番茶の穏やかな香りが立ちのぼっていた

式から三日後の夕方,,私は真心亭から帰宅してマンションの鍵を開けようとした時、背後から怒号が飛んできた,,「木村!お前、何をした?」振り返ると、彦が形相を変えて駆け寄ってくるのが見えた,,スーツはしわだらけで、目の下には深い隈が刻まれている,,結婚式からわずか三日で、見る影もなくやつれていた,,私は落ち着いて玄関のドアを開け、中に入るよう促した,,近所に怒鳴り声を聞かれるのは避けたかったからだ,,廊下の向こうの部屋から、住人が隙間からこちらを覗いていた,,彦は靴も脱がずにリビングに上がり込もうとした,,私が靴を脱ぐよう促すと、舌打ちをしながら乱暴に革靴を蹴り飛ばした,,結婚式で履いたものだろう,,新品だったはずの革靴は、もう傷だらけになっていた,,リビングに入るなり、彦はテーブルを拳で叩いた,,「カードが使えなくなっているんだ,,全部,,お前が何かしたんだろう,,結婚式で俺に恥を欠かせるために、わざとカードを止めたんだな」彦の顔は赤く膨れ上がり、眉間には青筋が浮かんでいる,,長かった結婚生活の中でも、これほど感情を露わにした彦は見たことがなかった,,私は台所に立ち、静かにお茶を入れてから、テーブルに座った,,手が震えないように意識して動作をゆっくりにする,,急須に湯を注ぎ、湯呑みに茶を注ぐ,,この一連の動作に集中することで、心の平静を保つ,,そして、怒り狂う彦の向かいで、湯呑みを両手で包み込みながら口を開いた,,「落ち着いて聞いてちょうだい,,あのカードは、私が契約者の家族カードよ,,引き落とし口座も、私の口座,私は彦の目を見て、まっすぐに言う,,「離婚が成立した以上、家族カードの契約は解消されるの,,これは当然の手続きであって、あなたに嫌がらせをしたわけじゃないわ」彦は一瞬、言葉を失った,,家族カード、引き落とし口座、契約者,,そのどれもが、彦にとっては初めて聞くような言葉だったのだろう,,「何を言ってるんだ,,あのカードには俺の名前が入っている,,俺のカードだろうが」,,「カードにあなたの名前が入っていても、あれは家族カードなの,,契約者は私,,引き落としも私の口座から,,あなたはずっと、私のお金で食事をし、服を買い、不倫相手にプレゼントを送っていたのよ」彦の顔から怒りが消え、代わりに困惑が広がっていくのが見て取れた,,それまでの威圧的な態度が、急に萎んでいく,,テーブルを叩いていた拳が力なく開き、膝の上に落ちた,,口を半開きにしたまま、私の顔と手元を交互に見つめている,,まるで風船から空気が抜けていくようだった,,「嘘だ,,俺の給料は、俺の口座に入ってるはずだ」「あなたの給料は、結婚した年に、『お前に任せる』と言われたから、私の口座に自動振替する設定にしたの,覚えてないでしょうけど」私は引き出しから一枚の書類を取り出した,,銀行の自動振替契約書のコピーだ,,署名欄には、若い頃の彦の筆跡が、はっきりと残っている,,日付は結婚の翌日,,彦自身が「面倒だから」と、給与の振込先を私の口座に一本化するよう指示し、署名した書類である,,彦は椅子に崩れ落ちるように座り込んだ,,書類を手に取り、自分の筆跡を確認するが、おそらく何も覚えていまい,,結婚して最初の月に、家計の一切を丸投げするために署名しただけの書類,,それ以降、通帳の中身を確認したことも、引き落とし先を把握しようとしたこともない,,家計という仕組みの全貌を、この人は一度も把握しようとしなかったのだ,,彦の肩が、小さく震えていた,,怒りなのか恐怖なのか、あるいは自分の無知に対する衝撃なのか,,六十歳の男が、自分の人生の経済的な基盤が、丸ごと妻の手の中にあったと知った瞬間の表情を、私は正面から見つめていた,,「じゃあ,俺の金は,俺の口座には,,どのくらい残ってる?」「あなたの口座の残高は、先月の時点で四十七万円よ,,毎月の散財で使い果たしているもの」彦はしばらく呆けていたが、やがてよろめくように立ち上がり、玄関へ向かった,,何か言おうとして口を開きかけたが、言葉が出てこないまま、靴を履いて出ていった,,ドアが閉まった後、マンションの廊下を歩く重い足音が、遠ざかっていく,,リビングに戻った私は、三十年間の結婚生活の中で感じたことのなかった、奇妙な解放感を覚えていた,,罪悪感はない,,むしろ、やっと正しい場所に物事が収まったような、そんな感覚である,,テーブルの上に残された彦の湯呑みを洗いながら思った,,あの人は、これから自分の力だけで生きていくことになる,,蛇口をひねれば水が出る暮らしは、もう終わったのだ

彦が真実を知ってから,状況は急速に悪化し始めた,,まず動いたのは、彦の姉である菊池蓉子だ,,彦から泣きつかれた蓉子は、翌日には弁護士を伴って、私のマンションに乗り込んできた,,常々の行動力は昔から侮れない,,敵に回すと厄介な人だとは思っていたが、まさかこんな形で実感することになるとは,,蓉子が私を気に入っていないことは、結婚前から分かっていた,,「弟にはもっといい相手がいたのにと」結婚式の時には影で触れ回っていたらしい,,正月の集まりでも、蓉子は必ず私の料理にケチをつけ、実家の財産を遠回しに探るような質問を繰り返した,,私はその度に笑顔で受け流してきたが、彼女の目の奥にある蔑みの色には、気づいていた,,その蓉子が、弁護士を伴って私のマンションに乗り込んできたのだ,,「あなたのやったことは卑怯よ,,弟が三十年間も稼いできたお金を、全部自分のものにするなんて,人としてどうなの?昔からあなたは計算高い女だと思ってたけど、ここまでとはね」彼女は玄関先で声を荒げ、近所に聞こえるほどの剣幕で詰め寄ってくる,,濃い化粧と、ブランドのバッグを肩にかけた彼女の後ろには、中年の男性弁護士が控えていた,,差し出された薄い書類フォルダには、「木村彦の代理人として、財産分与の再請求を求める」旨が記されている,,「分野内容が一著しく不公平であり,法的に問題がある」こんな形式的な文言ばかりが並んでいた,,私は冷静に応じた,,「弁護士を通してお話いただけますか?私の代理人は、小田原法律事務所の小田原明子です,連絡先はこちらです」名刺を蓉子に差し出す,,蓉子は最後まで何か言いたげだったが、弁護士が制して、帰っていった,,さり際に蓉子が、聞こえよがしに吐き捨てる,,「こんな女に、弟が三十年も騙されていたなんて」マンションの廊下に響くその声を、私は表情を変えずに聞いていた,,ドアを閉め、鍵を回す,,金属のカチリという音が、蓉子の世界との境界線を引いてくれた,,彼女が去った後、玄関のドアに背を預け、その場にしゃがみ込んだ,,心臓がドクドクと脈打っている,,何を言われても動じないつもりだったが、実際に面と向かって「卑怯」と言われると、やはり胸に響くものがあった,,けれど,私は卑怯なことは何一つしていない,,自分の名義のものを、離婚に伴って正当に確保しただけだ,,そう自分に言い聞かせ、ゆっくりと立ち上がる,,数日後,真心亭の電話が鳴った,,店長が受話器を取り、しばらく話した後、複雑な表情で私を呼んだ,,匿名の電話だったと、店長は話し始めた,,「北山という従業員は、離婚した夫の財産を騙し取った卑怯者だ」という誹謗中傷だったという,,店長は取り合わず即座に電話を切ってくれたが、胸の奥がずきりと痛んだ,,仕事場にまで嫌がらせが及んでいるのかと思うと、申し訳なさと悔しさが同時に込み上げてくる,,店長は力強く首を横に振り、頼もしい声で言った,,「気にすることなど何もない,,うちは腕で勝負している店だ,,変な電話ごときで、やめられたら困る」店長の温かい言葉に救われたけれど、同じような内容の電話が、商店街の他の店にもかかってきたと聞いた,,「北山水薦は、人を騙す女だ,,夫の金を持ち逃げして離婚した」そんな内容が、八百屋にも花屋にも薬局にも告げられていた,,一軒一軒、手当たり次第にかけているのだろう,,声は女性だったという証言もあり、蓉子の仕業である可能性が高い,,「気にしちゃだめよ,,商店街のみんな、あなたの人柄をよく知ってるんだから,,そんな電話で騙される人なんていないわ」ユリは私を励ましてくれたが、無言の視線が刺さることが増えてきたのは事実だ,,惣菜を買いに来てくれていた常連のお客さんが、なんとなく目をそらすようになった,,以前は味を褒めてくれていた人が、目も合わせずに商品だけ取って帰っていく,,商店街を歩いていると、立ち話をしていた奥さんたちが、急に黙り込むこともあった,,噂というのは、審議に関係なく、人の心に影を落とすものなのだ,,ある日、杖をついた田中のおばあちゃんが、いつも通りにひじきの煮物を買いに来てくれた,,レジで代金を受け取る時、おばあちゃんは何も言わず、ただ手を握って頷いた,,それだけのことなのに、胸の底から温かいものが込み上げてくる

その日の帰宅後,玄関のチャイムが鳴った,,インターホンの画面に映ったのは、派手なワンピースに大きなサングラスをかけた若い女性,,一目で連ゲだと分かった,,追い打ちをかけるように、直接私のマンションにやってきたのだ,,「あなたが元奥さんね,,ホテルの結婚式、三百八十万円の請求が来てるの,,払えてないの,,あなたのせいでしょ?カードが使えなくなるなんて聞いてないんだけど,,どうしてくれるの?」私はインターホン越しに応じた,,「その件は、彦さんに聞いてください,,カードの契約者は私で、離婚に伴い解約したまでです,,あなたに説明する義務はありません」「ふざけないでよ,,彦さんは、お金もない、仕事も危ないって言ってるの,,あなたが全部持っていったからでしょう」連ゲはさらに声を荒げた,,カメラ越しに見える彼女の顔は、化粧が崩れ、目元が赤く晴れている,,高級ブランドのバッグを腕に抱え、ヒールの高い靴でマンションの廊下に立つ姿は、追い詰められた動物のように見えた,,「結婚式の三百八十万円,,どうしてくれるのよ,,私の夢の結婚式を台無しにしたのは、あなたでしょ」連ゲの甲高い声がインターホンのスピーカーから響き渡り、廊下に反響する,,マンションの他の住人が不審に思って出てくる前に、事態を収めなければならなかった,,「これ以上騒ぐなら、警察を呼びます,,帰ってください」彼女は舌打ちをし、ヒールの音を廊下に響かせながら去っていった,,インターホンの電源を切り、静かにリビングに戻る,,手が震えていた,,怒りではなく、疲労から来る震えだった,,台所で水を一杯飲み、深呼吸を繰り返す,,冷たい水が喉を通り、胃に落ちていく感覚に集中する,,それだけで、少しだけ心が落ち着いた

離婚してから,心が休まる時間がほとんどない,,仕事中は嫌がらせの電話に怯え、帰宅すれば連ゲや蓉子が押しかけてくる,,眠れない夜が増えた,,暗い部屋の天井を見つめながら、自分の選択は正しかったのかと、何度も問い直す,,正しかった,,頭では分かっているけれど、心が追いつかない,,ある朝,惣菜屋に出勤すると、店の前に生ゴミが巻かれていた,,腐った野菜クズと、使い終わった生理用品が、シャッターの前に散乱している,,犯人は分からないが、タイミングからして偶然ではないだろう,,ユリが人足先に出勤しており、黙々と箒と塵取りで片付けしてくれていた,,私も隣で掃き掃除を始めながら、怒りと悲しみが入り混じった感情を飲み込んだ,,ユリが毎日のように声をかけてくれ、明子が法的に対処してくれているのが、唯一の救いだった,,この二人がいなければ、私はとっくに潰れていたかもしれない,,ユリは休憩時間の度に温かいお茶を入れてくれ、何気ない世間話で私の気持ちを軽くしてくれた,,直接的な励ましではなく、いつもと変わらない態度で接してくれることが、何よりありがたい,,明子は、嫌がらせのような自宅訪問について、彦側の弁護士に警告書を送付してくれた,,「嫌がらせが続くようであれば、名誉毀損や不法行為として、法的措置を取ることも可能です,,相手にはその旨を明確に伝えてあります」警告書の効果で、電話や自宅訪問などの嫌がらせは収まった,,明子は淡々としかし的確に動いてくれたのだ,,弁護士費用の追加が必要だと言うと,ユリがきっぱりと言い切る,,「これは必要経費よ,,あなたを守るためのお金なの」けれど蓉子が商店街で直接噂を広める行動は、止まらなかった,,「あの北山っていう女が,,稼ぎをずっと溜め込んで,離婚した途端に全部持って逃げたのよ,,恐ろしい女でしょ,,皆さん気をつけた方がいいわよ」八百屋の前で、魚屋の前で、パン屋の前で,,蓉子は商店街を歩き回り、私の悪評を撒き散らしていた,,ブランドのバッグを肩にかけ、高級そうな服に身を包んだ蓉子が、商店街の路地で高声に他人の悪口を語る姿は、傍から見れば異様だったに違いない,,そんなある日、真心亭の常連客である年配の女性が、私の姿を探していたと聞いた,,私がいないと分かると、その常連客はユリを通じて間接的に言葉を届けてくれた,,「北山さんの真面目な働きぶりは、みんなが見ているわ,,あんな噂を信じる人の方がおかしいのよ」温かい言葉だった,,さらに数日後,花屋の女将さんが惣菜を買いに来た時にも、小声で声をかけてくれた,,「菊池っていう女が悪口を言いふらしているけど,,商店街のみんなは呆れて聞き流しているわよ,,あなたは堂々としていなさい」その言葉に、思わず目頭が熱くなった,,商店街の人たちは、私の働きぶりをちゃんと見てくれていたのだ

しかし,精神的な消耗は、確実に蓄積されていた,,夜、一人のマンションに戻ると、暗いリビングで息をつくことしかできない日が続く,,テレビをつけても、画面の内容が頭に入ってこない,,お風呂に入る気力もなく、ソファの上で毛布に包まって朝を迎える日もあった,,眠れない夜が増え、食欲も落ちてきた,,鏡に映る自分の顔が、日に日にやつれていくのがわかる,,目の下の隈が深くなり、頬がこけてきた,,支えてきた結婚生活の終わりと、その後に押し寄せてきた嵐のような攻撃に、心が軋み始めていることを自分でも感じていた,,朝の身支度にも、以前の倍近い時間がかかるようになっている,,化粧水を手に取ったまま、洗面台の前でぼんやりと立ち尽くす,,鏡に映る自分の顔が、知らない誰かのように見える日もあった,,洗面台の隅には、彦が使っていた髭剃りがまだ置いてある,,処分すべきだと分かっているのに、手が伸びない,,長年に暮らした人間の痕跡は、こんな些細な場所に残るものなのだ,,同じ歯磨き粉を使い、同じ石鹸で手を洗い、同じ鏡を見てきた,,その全てが、もう戻らない日々の証である,,帰宅して玄関のドアを閉めた途端、静寂が部屋を満たす,,彦がもう帰ってこないことを頭では理解しているけれど、体が覚えているのだ,,夕方になると、無意識に玄関の方に耳を傾けてしまう,,鍵を回す音がしないまま、時間だけが過ぎていく,,冷蔵庫を開けると、一人分に減った食材が整然と並んでいた,,彦がいた頃は、大きなビール瓶が常に冷えていた棚が、今は空のままである,,一人分の食事を作る気にもなれず、昨日の残りの惣菜を、冷たいまま口に運ぶ夜が増えていた,,それでも朝になれば起き上がり、真心亭の厨房に立つ,,煮物の鍋に向き合っている時だけは、余計なことを忘れられた,,出汁の香りと包丁の音だけが世界の全てになる瞬間が、私にとっての救いだった

嫌がらせが一段落したかに見えた夜,,最も恐れていたことが起きる,,離婚から二週間が過ぎた頃、ある夜、スマートフォンが震え、画面に剣一の名前が表示された,,離婚のことはまだ伝えていない,,タイミングを見計っていたのだが、なかなか切り出せずにいたのだ,,久しぶりの連絡に胸が弾んだのも束の間,,受話器の向こうから聞こえてきたのは、いつもの明るい声ではなく、固く沈んだ声だった,,「母さん,親父から連絡があった,,離婚したって,本当なの?」「ええ,本当よ,,ごめんなさい,,ちゃんと話そうと思ってたの,,でもタイミングが見つからなくて」電話の向こうで、剣一が深いため息をついた,,次の言葉を絞り出すまでに、長い沈黙があった,,「親父が,母さんが家の財産を全部持っていったって言ってた,,親父は今,住むところもないって,,それ本当なの?」心臓が握りつぶされるような痛みが走った,,彦が剣一に連絡していた,,しかも、自分に都合のいい話だけを伝えている,,「剣一,お父さんの話だけを聞かないで,,事情はもっと複雑なの,,ちゃんと説明するから」言葉が震えた,,剣一の前ではいつだって強い母でいたかったけれど、今声が言うことを聞いてくれない,,「複雑って何?親父は泣いてたよ,,六十歳にもなって泣きながら電話してきたんだ,,母さんに全部持って行かれたって,,仕事も危ないって,,俺,,どうしたらいいかわかんないよ」剣一の声にも動揺が滲んでいた,,電話の向こうで、剣一が唇を噛んでいる気配が伝わってくる,,この子は小さい頃から、困った時に唇を噛む癖があった,,剣一の声には、困惑と、かすかな非難の色が滲んでいた,,父親が泣いている姿を想像して、動揺しているのだろう,,彼にとって父は、いつだって頼もしい営業マンで、正月に一緒に酒を酌み交わす相手だったのだ,,「剣一,,お父さんには、好きな人ができたの,,それで離婚を求められたのよ,,財産のことは、弁護士を通じて正式に話し合った結果なの」「好きな人って,,親父が浮気したってこと?」沈黙が流れた,,息子に父親の裏切りを告げることの残酷さに言葉が詰まるけれど、嘘をつくわけにもいかなかった,,「ええ,,一年以上前から、若い女性と付き合っていたの」「嘘だろ?親父がそんなことするわけない」電話の向こうで、剣一の息遣いが荒くなるのが聞こえた,,信じたくないのだろう,,私だって最初はそうだった,,「剣一の言分と、親父の言分、全然違う,,俺には何が本当かわからないよ,,ちょっと考えさせてくれ」通話が切れた後,私は暗いリビングでスマートフォンを握りしめたまま、動けなかった,,画面に映る「通話終了」の表示が、まるで剣一との関係の断絶を示しているかのように見える,,剣一が赤ちゃんの頃、夜泣きがひどくて、一晩中抱いていたことを思い出した,,学式で少し大きなランドセルを背負った顔,,高校受験の夜、不安で眠れない剣一に付き合って、台所で一緒にホットミルクを飲んだこと,,どれもこの手で守ってきた記憶なのに、今その剣一が私を疑っている,,財産のことは弁護士が守ってくれる,,嫌がらせは法的に対処できる,,けれど,剣一の信頼を失うことだけは、どんな法律でも防げない,,彦は卑怯だった,,自分の裏切りという火を隠し、「財産を取られた」という被害者面で剣一に泣きつくなど、あまりにも姑息なやり方だ,,自分の都合のいい部分だけを切り取って伝え、相手を悪者に仕立てる,,営業畑で培った話術を、よりによって剣一を騙すことに使うとは,,けれどその卑怯が、剣一をそうしてしまったのも事実だった,,剣一の声に滲んでいたかすかな非難の色が、夜の暗闇の中で何度も頭の中に甦える,,あの声を聞いた瞬間、人生で最も深い痛みを感じた,,離婚の痛みよりも、裏切りの痛みよりも,,剣一に疑われることの方が、ずっとずっと苦しい,,スマートフォンを枕元に置いて横になったが、眠れるはずもなかった,,剣一にメッセージを送ろうかと何度も画面を開いたが、何を書いても言い訳めいた文章にしかならず、その度に画面を閉じた,,「私の話も聞いて欲しい」と打ち込んでは消す,,「全部誤解だ」とも書いてみたが、これも違う気がして消した,,どの言葉を並べても、剣一の中に芽生えた不審感を拭える気がしなかった,,母親として息子に、父親の不貞を詳しく伝えることには、言いようのない抵抗がある,,真実を語ることは、剣一が信じてきた父親像を砕くことでもあるのだ

剣一との電話の後,,私は三日間ほとんど眠れなかった,,惣菜屋の仕事は休むわけにはいかないから、朝五時に起きて厨房に立つ,,目の下の隈をファンデーションで隠し、いつも通りの笑顔を作るけれど、包丁握る手に力が入らず、煮物の味付けを何度もやり直す日が続いた,,出汁の濃さが分からない,,砂糖と塩を間違えそうになる,,五十年間の料理人生で、こんなことは初めてだった,,「水薦さん、顔色が悪いわよ,,ちゃんと食べてる?昨日の残りのコロッケ、持って帰った?」ユリの心配そうな声に、作り笑いで「大丈夫」と返すのが精一杯だった,,大丈夫ではない,,帰宅しても食事を作る気力がなく、コンビニのおにぎりを一個食べるだけの日が続いている,,剣一に信じてもらえないかもしれないという恐怖が、昼も夜も私を蝕ばんでいた,,惣菜屋で他人のために料理を作りながら、自分の食事すらままならない,,その滑稽さに、胸が締め付けられた,,閉店後,一人で厨房の片付けをしている時、不意に涙が溢れた,,洗い物をする手が止まり、蛇口から流れ続ける水の音だけが、薄暗い厨房に響く,,これまで一度も、自分のために泣いたことはなかった,,彦のために泣き、剣一のために泣いたことはある,,家族のために涙を流すことはあっても、自分自身の苦しみのために泣くことを、いつの間にか忘れていた,,結婚してからの日々は、常に誰かのためだった,,朝五時に起きるのは彦のためで、家計を管理するのは家族のためで、惣菜屋で働くのは老後のため,,自分のためという理由で何かをした記憶が、思い返しても出てこない,,涙が止まらなくなり、シンクの縁を握りしめてうずくまった時、背後で静かに足音がした,,ユリが何も言わずに隣に立ち、私の肩にそっと手を置いた,,温かい手の感触が、凍えた心に染み込んでくる,,「泣いていいのよ,,ここには私しかいないんだから,,溜め込んでたもの、全部出しなさい」その言葉に、堰を切ったように嗚咽が漏れる,,子供のように声を上げて泣いた,,ユリは一言も余計なことを言わず、ただ肩を抱き続けてくれた,,どれくらいの時間が経っただろう,,涙が枯れた頃、ユリは黙って立ち上がり、ガスコンロに火をつけた,,鍋に火を入れ、急須に番茶の葉を入れる,,その手際の良さは、長年惣菜屋で一緒に働いてきた仲間のそれだった,,温かいお茶を二つ持ってきて、ユリは私の隣に座った,,茶碗を両手で包むと、手のひらにじんわりと熱が伝わってくる,,湯気がゆっくりと立ちのぼり、薄暗い厨房の蛍光灯の光の中で、白い筋となって消えていく,,番茶の香ばしい匂いが鼻を包んだ,,この香りは、実家の母を思い出させる,,子供の頃、台所で母はいつも番茶を入れてくれたものだ,,とついでからは、彦が緑茶しか飲まなかったから、番茶を買うことはなくなっていた,,離婚して初めて気づいた,,自分の好きなお茶を、自由に選べるのだ,,ただの茶のことなのに、その小さな自由が、涙で晴れた目に染みるように温かかった,,「水薦さんは、三十年間、家族のために働いて、家計を守って、息子さんを立派に育てた,,それを誰かに否定される筋合いなんてないのよ」ユリの言葉を聞きながら、自分の手を見つめた,,惣菜屋の仕事で荒れた手,,兵時代にはもっと滑らかだったこの手が、今は水仕事で赤くひび割れている,,けれど,この手でずっと家庭を支え、家計を守り、子供を育ててきたのだ,,その事実は、誰にも否定できない,,彦にも、蓉子にも、連ゲにも,,そして剣一にも,,この手が証拠であり、この手が武器なのだ,,「明子先生が言ってたわ,,法律はあなたの味方だって,,でもね、法律だけじゃない,,あなた自身の積み重ねてきた努力が、あなたを守ってくれるのよ」乾いた涙の跡が残る中で、私はゆっくりと顔を上げた,,まだ戦いは終わっていないけれど,一人ではない

翌日,,明子から緊急の連絡が入った,,声の調子がいつもと違う,,いつもは冷静で落ち着いた口調の明子が、どこか興奮を抑えているような声だった,,「北山さん,,重要な事実が判明しました,,彦さんの勤務先の経理に照会をかけたところ、過去二年間にわたり、会社の交際費を不正に流用していた形跡が見つかりました」一瞬、言葉の意味を理解するのに時間がかかった,,受話器を持つ手に、思わず力が入る,,交際費の不正流用,,つまり、彦は私の口座のお金だけでなく、会社の金まで使って、連ゲとの交際費を捻出していたのだ,,どこまで貪欲な人なのかと、怒りを通り越して呆れが込み上げてきた,,明子が続けて説明してくれた内容は、驚くべきものだった,,「具体的には、架空の接待名目で会社のクレジットカードを使い、実際には連ゲさんとの食事代やホテル代に当てていたようです,,金額は確認できる範囲で、約四百五十万円,,会社は現在、内部調査を進めています」途方もない金額だ,,私の口座からの支出に加え、会社の金まで不正に使い込んでいたとは,,合計七百七十万円以上を、連ゲとの交際に注ぎ込んでいた計算になる,,彦の道楽は、想像をはるかに超えていたのだ,,営業部長という立場を利用して、存在しない接待を作り上げ、経費として処理する,,その大胆さと無謀さに、呆れるしかなかった,,経理出身の私からすれば、すぐにバレる不正なのだ,,実際、会社の経理部が定期監査で不審な取引パターンを検出し、問題が表面化したのだという,,「この情報は、調停において極めて有力な証拠になります,,ご主人側が財産分与の再請求を求めていますが、この不正流用の事実があれば、相手方の主張は完全に崩れます」さらに明子は、もう一つの提案をしてくれた,,「息子さんのことですが、直接お会いして、事実を説明する場を設けてはいかがでしょうか?私が同席し、客観的な資料をもとに経緯をお伝えすれば、息子さんも冷静に判断できるはずです」剣一に真実を伝える,,それは、「あの子がかっこいい営業マンだ」と誇らしげに語っていた、父親像が根本から崩れることになる,,だが、嘘で塗り固められた話を信じたまま生きていくよりは、真実を知る方がずっと良い,,剣一はもう二十八歳の大人だ,,事実を受け止め、自分で判断する力を持っている,,私はそう信じることにした,,「お願いします,,剣一に会って、全てを話します」自分でも驚くほど、はっきりとした声だった,,あの厨房で泣いた夜から、何かが変わったのかもしれない,,溜め込んでいたものを全て出し切った後に残ったのは、弱さではなく覚悟だった,,電話を切った後、ユリにも報告した,,「会社の金まで使い込んでたの,,呆れて言葉も出ないわ,,でもこれで完全に決着がつく,,因果応報って、ちゃんとあるのね」ユリの声は、電話越しでも力強かった,,この人がいなければ、私はとうに折れていたかもしれない,,ここからが本当の戦いだけれど、もう怖くはない,,積み重ねてきた記録と、経理の知識と、味方になってくれる人たちがいる

まず行ったのは、剣一との面会だった,,都内のカフェを選んだのは、明子の提案だ,,裁判所や法律事務所ではなく、リラックスできる場所で話した方がいいと言ってくれた,,約束の時間の十分前に到着した私は、窓際の席に座って息を整えていた,,手の中のハンカチが、汗で湿っている,,間もなく、剣一がドアを開けて入ってきた,,最後に会ったのは正月だ,,あの時はまだ、木村家の食卓で、家族三人の正月があった,,しかし今、剣一と向かい合うのは、弁護士を伴った、離婚の説明の場だ,,剣一は硬い表情で対面に座った,,テーブルの上のコーヒーカップに視線を落とし、指先でカップの縁をなぞっている,,いつもは快活な青年だが、今日は唇を固く結び、眉間に皺を寄せている,,痩せたようだ,,顎のラインが以前より鋭くなっている,,剣一もまた、眠れない夜を過ごしてきたのだろう,,「剣一,来てくれてありがとう,,今日は、全部本当のことを話すわね」明子がファイルを開き、一つ一つ資料を示しながら説明を始めた,,自宅マンションの権利書、残余金の通帳のコピー、クレジットカードの契約書,,そして、彦の不貞行為の証拠となる写真と、カード明細の記録,,「剣一さん,お母様は、この三十年間、ご家庭の家計を一手に管理されてきました」明子は剣一に優しく語りかける,,「自宅マンションの購入資金は、お母様の退職金と貯蓄です,,名義もお母様,,お父様が日常的に使っていたクレジットカードは、お母様が契約者の家族カードで、引き落とし口座もお母様名義です」剣一は目を見開いた,,父親が使っていたカードが、母親の口座に紐づいていたという事実に、衝撃を受けているようだった,,「さらに,,お父様は会社の交際費を不正に流用し、交際相手との費用に当てていました,,現在、お父様の勤務先で内部調査が進んでいます」剣一の顔が、みるみる蒼白になった,,テーブルの上に並べられた資料を食い入るように見つめ、何度も目をまたかせている,,通帳のコピーには、毎月の給与振込と引き落としの履歴が、赤線で丁寧にマーキングされていた,,彦の名前で振り込まれた給与が、全て私の口座へ自動振替されている事実,,その口座から、光熱費も保険料もローンの返済も、全てが賄われてきた記録,,経理の仕事をしていない人間でも、これだけ明確な証拠を前にすれば、事実関係は理解できるはずだ,,明子は淡々と、しかし正確に事実を説明してくれた,,感情を交えず、書類に記された数字と日付だけを示していく,,その冷静さが、事態の深刻さを際立たせていた,,「母さん,,これ,全部本当なの?」声がかすれていた,,剣一の目には、うっすらと涙が浮かんでいる,,「ええ,,嘘は一つもないわ,,確認したければ、いつでも銀行や法務局で調べられるわ,,お母さんがあなたに嘘をついたことはないでしょう」長い沈黙が流れた,,カフェの穏やかなBGMだけが、三人の間の重い空気を、かすかに揺らしている,,窓の外を通り過ぎる歩行者たちは、幸せそうに笑い合っている,,カフェの中のこの小さなテーブルだけが、別の時間を刻んでいるようだった,,剣一はコーヒーカップを手に取り、一口飲んで、また置いた,,指先が震えている,,「親父は、母さんのお金で浮気してたってことか」「そうなるわね,,お父さんは、家計のことを何も知らなかった,,自分の給料で暮らしていると思い込んでいたの,,でも実際は、お父さんの給料のほとんどは、私の口座に自動振替されて、私が管理していたのよ」剣一がテーブルに両肘をつき、頭を抱えた,,カフェの他のお客さんが心配そうにこちらを見ていたが、今はそんなことを気にしている余裕はなかった,,明子が静かに、水のグラスを剣一の前に置く,,その小さな気遣いに、私は目頭が熱くなった,,長い沈黙の後、剣一がゆっくりと顔を上げた,,彼の目は赤くなっていたが、涙は拭われている,,何かを決意したような、まっすぐな目だ,,「俺,,父の話だけ聞いて,母さん疑ってた,,最低だ,,ごめん,母さん」そう言って、剣一は頭を下げる,,「親父は、俺に電話してきた時、自分が浮気したことなんて,一言も言わなかった,,母さんが金を持ち逃げしたって、それだけだったんだ,,俺はそれを信じてしまった」声が震え、目元が赤くなっている剣一の姿に、私の目からも涙が溢れた,,けれどそれは、悲しみの涙ではない,,剣一が真実を受け止めてくれた,安堵の涙だ,,テーブルの上の書類を見つめながら、剣一が呟いた,,「母さん,,正月にうちに来た時,,親父の隣で笑ってたよな,,あの時,もう全部知ってたの?」「ええ,,でもあの日は,家族の正月だったから」剣一は唇を噛みしめ、大きく息を吐いた,,彼の目に、新たな決意が宿っているのが見える,,カフェを出る時、剣一が立ち止まって振り返った,,「母さん,今度の休みに,飯食いに行くから,,母さんの手料理が食いたい」あの暗いリビングで、天井の皺を数え続けた夜が、ようやく明けた瞬間だった,,剣一は、まだ私が母親でいることを許してくれている,,駅に向かう道を並んで歩きながら、剣一が手元のスマートフォンの画面を見つめていた,,「母さん,,親父のこと,俺からは何も連絡しない,,親父が自分で何とかすべきことだ,,俺は،母さんの味方だから」風に乗って、金木犀の甘い香りが漂ってくる,,その香りを吸い込んだ時、久しぶりに深く呼吸ができた気がした

それから二週間後,,家庭裁判所で調停が行われた,,秋の朝、裁判所の建物に入る時は、足が重かった,,しかし、明子が隣を歩いてくれているのが心強い,,待合室のベンチに座り、呼ばれるのを待つ間、自分の手を見つめていた,,この手で家計簿をつけ、煮物を作り、子供を育ててきた,,今日、この手が握りしめている書類が、全てを決める,,調停室に呼ばれ、私は明子と共に席についた,,彦は別の待合室で待機している,,調停の仕組み上、双方が顔を合わせることはない,,調停委員は男女各一名で、穏やかだが鋭い目をした初老の男性と、知的な印象の中年女性だった,,明子が準備した資料を調停委員に提出しながら、経緯を説明していった,,この声は穏やかだが、提示する資料の一つ一つに、揺るぎない根拠が添えられている,,私が何時間もかけて整理した書類が、今この調停室で力を発揮していた,,「自宅マンションの購入資金は、全額依頼人の退職金及び貯蓄から拠出されており、名義も依頼人単独です,,残余金についても同様で、依頼人名義の口座に約二千八百万円,相手方名義の口座残高は四十七万円です」調停委員は資料の束を手に取り、繰りながら丁寧にメモを取っている,,通帳のコピー、不動産の登記、カードの契約書,,これらを一つずつ確認していく作業は時間がかかったが、調停委員の表情は真剣そのものだった,,「加えて،相手方が使用していたクレジットカードは,依頼人が契約者の家族カードであり、交際相手との費用に約三百二十万円を支出しています」調停委員の表情が、厳しくなった,,「そして,最も重大な事実をお伝えします,,相手方は勤務先の交際費を不正に流用し、交際相手との費用に約四百五十万円を当てていたことが判明しました,,勤務先は現在,懲戒処分の手続きを進めています」約三十分間の説明を終え、私は待合室に戻された,,次は彦が調停室に呼ばれる番だ,,待合室のベンチは硬かったが、不思議と落ち着いた気分だった,,やれることは全てやった,,後は調停委員の判断に委ねるしかない,,ユリからのメッセージを確認すると、短い応援の言葉が添えられていた,,たった一言だったが、それだけで十分だ,,私は何度も、ユリの言葉に支えられてきた,,しばらく待った後,調停委員に呼ばれて、再び調停室に入る,,委員の男性が、落ち着いた声で結果を伝えた,,「相手方の主張は聞きました,,しかし提出資料を精査した結果,現在の財産分与は,法的に適正だと判断しました,,再請求の申し立ては、却下の方向で進めます」続いて、女性の調停委員が、穏やかな声で言葉を添えた,,「長年に渡る家計管理の実績は、提出された資料から明白です,,立派な貢献であり,正党に評価されるべきものだと思います」その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で張り詰めていたものが、ふっと緩んだ,,足の力が抜けそうになるのをこらえ、深く頭を下げる,,「お疲れ様でした,,法的には、完全な勝利です」明子の言葉に心から安堵した,,廊下に出て、待合室の硬いベンチに座り、しばらく顔を覆う,,肩の力が一気に抜け、体が震えた,,恐怖でも悲しみでもない,,張り詰めた糸がようやく緩んだ,安堵の震えだった

後で明子から聞いた話では,彦は調停室で相当に取り乱したらしい,,自分に非があることを認めようとせず、「全て水薦の策略だ,,自分は騙されたのだ」と繰り返していたが、証拠の前に、弁護士も沈黙するしかなかったようだ,,彦は途中から椅子の上で落ち着きなく身じろぎをし、何度もハンカチで額の汗を拭っていたという,,調停委員が一つずつ証拠を確認するたびに、彦の声は小さくなっていったとか,,最後には俯いたまま、ほとんど口を開かなくなったらしい,,交際費の不正流用の資料を見せられた時、彦は完全に言葉を失ったという,,調停委員からは、彦に対して厳しい指摘もあったらしい,,「妻の家計管理があったからこそ、営業に専念できたはずだ,,にも関わらず感謝の一つもなく、婚姻費用を私し、会社の経費まで不正に流用していた,,到底理解できる話ではない」調停が終わって数日後,彦の会社から懲戒解雇の通知が出されたと聞いた,,営業部長として二十年以上勤めてきた会社を、たった一枚の通知書で追われることになったのだ,,交際費の不正流用は、会社に対する背信行為として処理され、全額の返還を求められたという,,彦の同僚たちの間にも衝撃が走ったらしい,,驚きと動揺の声が社内を駆け巡る様子が目に浮かぶ,業界解雇の事実はまたたく間に業界中に知れ渡り、かつての取引先からも一斉に連絡が途絶えたそうだ,,名刺交換をした相手の数を自慢していた男のスマートフォンは、今では着信音すら鳴らなくなっているという,,営業畑で築き上げてきた人脈も信用も、一瞬にして崩れ落ちたのだ,,連ゲは、彦に金がないと知った途端に態度を変えたとか,,ユリ経由で聞いた話によれば、連ゲは彦に向かってこう言い放ったらしい,,「仕事もない,,お金もない,,住むところもない人と一緒にいる理由がない,,最初からあなたのお金が目当てだったの,,でもそのお金,あなたのじゃなかったのね」蓉子もまた、手のひらを返したそうだ,,「最初からあの結婚には反対だった」と周囲に触れ回り、彦への援助を一切断ったという,,弟を世話していたはずの蓉子が,弟が一文無しになった途端に知らん顔を決め込む ,,血のつながりよりも、金の切れ目が効いたのだろう,,彦は職を失い、連ゲに捨てられ、姉にも見放され,,ホテルからは結婚式の未払金三百八十万円の請求書が届いている,,会社への返還金四百五十万円と合わせれば、八百三十万円もの借金を抱えることになった

彦のその後を聞いたのは,調停から一ヶ月が過ぎた頃だった,,ユリが商店街で拾ってきた噂によると,彦は実家の離れ部屋に転がり込み、ハローワークに通い始めたらしい,,あれほど身だしなみに気を使っていた男が、今ではよれよれのジャンパーを着て、職業安定所の列に並んでいるという,,六十歳で懲戒解雇という経歴を持つ男を雇う会社はなかなか見つからず、日雇いの仕事でなんとか食いついでいるとのこと,,高級スーツを着こなし、部下を引き連れて得意先を回っていた営業部長の面影は、もうどこにもない,,連ゲは彦と別れた後、すぐに別の男性と交際を始めたらしい,,金のある男の腕を渡り歩く女にとって、無一文の元恋人など、もはや存在しないも同然なのだろう,,結婚式で純白のドレスに身を包んでいた花嫁は、わずか二ヶ月で次の相手を見つけたのだ,,彦がどれだけ惨めに感じたか知らないが、最初から金で繋がっていた関係の結末としては、あまりにも順当だった,,蓉子は、商店街での悪評を撒き散らした件について、明子から警告書を受けて以来、私に関する話題を一切口にしなくなった,,名誉毀損で訴えられる可能性を恐れたのか,,それとも、弟が転落した今、私に構う理由がなくなったのか,,ユリによれば、蓉子は「離婚は弟の自業自得だ」と、手のひらを返し始めているらしい,,都合の良い時だけ味方をし、不利になれば即座に立場を変える,,この姉弟は、根っこの部分で似た者同士だったのだ,,いずれにせよ,嵐は過ぎ去った,,ホテルの未払金は、彦が分割払いの交渉をしているらしいが、収入がほとんどない状態で、どうやって返すのか、見当もつかないだろう,,自分の稼ぎで贅沢をしていると信じ込み、妻の管理する口座のお金で愛人に貢ぎ、会社の金まで横領した男の末路,,因果応報とは、まさにこのことである

秋が深まり,イチョウ並木が黄金色に染まる頃、あの嵐のような日々が嘘のように、私の暮らしは穏やかさを取り戻していた,,真心亭の厨房で、ユリと並んで煮物の仕込みをする朝がある,,常連のお客さんがコロッケを褒めて、笑顔を見せてくれる午後がある,,月に一度,剣一が食事に来てくれるようになった,,最初はぎこちなかったが、回を重ねるごとに、会話が増えている,,先日は、手料理を並べたテーブルで向かい合い、剣一がコロッケを頬張りながら言った,,「母さんの惣菜が,一番うまいよ」その照れ臭そうな笑顔は、幼い頃に運動会のお弁当を開けた時と同じだった,,あの頃と変わらない,まっすぐな目,,剣一はちゃんと母親の味を、覚えてくれていたのだ,,明子とユリとは、時々三人でお茶を飲む仲になった,,あの激闘の日々を共に乗り越えた三人だからこそ、分かち合える静かな絆がそこにある,,私は今,北山水薦として、自分の名前で、自分の足で立っている,,何十年間他人のために使い続けた経理の力を、最後に自分のために使った,,それは決して誰かを落とし入れるためではなく、自分自身を守るための、当然の選択だったのだ

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