「何をぼっとしてるんだよ。首だよ。首」。つい最近就任した新社長が、冷たい口調でそう告げた。その瞬間、三十年以上勤めてきた製薬会社での私の人生が、音を立てて崩れていくのが分かった。新社長は「改革」の名のもとに、研究室のリーダーである私を時代遅れのじじい呼ばわりし、部下を守ろうとした私を会社のお荷物だと切り捨てた。私はあまりにもあっさりと首を受け入れた。その理由を、彼は全く不思議に思っていないら…

「何をぼっとしてるんだよ。首だよ。首」。つい最近就任した新社長が、冷たい口調でそう告げた。その瞬間、三十年以上勤めてきた製薬会社での私の人生が、音を立てて崩れていくのが分かった。新社長は「改革」の名のもとに、研究室のリーダーである私を時代遅れのじじい呼ばわりし、部下を守ろうとした私を会社のお荷物だと切り捨てた。私はあまりにもあっさりと首を受け入れた。その理由を、彼は全く不思議に思っていないら...

「何をぼっとしてるんだよ。首だよ。首」

つい最近就任したばかりの新社長が、冷たい口調でそう告げた。私は三十年以上、製薬会社で研究に明け暮れてきた。人様の役に立てるこの仕事に誇りを持って働いてきたのだが、そんな日々は新社長の就任とともに崩れ去ってしまった。

新社長は「改革」と称して、各部署に無理難題を押し付けてきた。研究室のリーダーである私は、部下を守るために新社長の要求を突っぱねたのだが、どうやらそれが彼の気に触ったらしい。

「お前みたいな時代遅れのじじいがいると悪影響だ。お前の代わりに雇う若手のエリートがもう見つかってるんだよ。荷物をまとめてさっさと出ていけ」

「本当によろしいんですね。私がやめても会社は困らないと、社長はお考えなんですね」

「だからさっきからそう言ってるだろうが。お前は会社のお荷物なんだよ」

その返答に、私が首を受け入れることを告げると、新社長は満足げに笑みを浮かべた。私がなぜあっさり首を受け入れたのか。そのことを全く不思議に思っていないらしい。この致命的で自己中心的な性格が、自分の首を締めることになると、新社長はまだ気づいていない。

私の名前は沢田空。製薬メーカーに勤務する研究者だ。私の務める会社は規模こそ小さいが、安心・安全な医薬品作りを旨とし、製造する高品質な医薬品は業界内でも定評がある。また、社長の方針で新薬開発にも力を注いでおり、会社規模の割に研究者が多く所属しているのも特徴だ。私もそうした研究者の一人というわけである。

子供の頃から科学オタクだった私は、好きなことを学びながら人の役に立つ仕事がしたいと考え、薬学を志した。地方大学の大学院修了後、製薬業界に入って研究に明け暮れ、気がつけばキャリア三十年のベテランだ。日々の仕事のほとんどは地道な基礎研究だが、苦労の末に新薬を世に出すことができた時の喜びはとても大きい。長いキャリアの中で、自分の開発した薬がメディアで大きく取り上げられたことも何度かある。難病に苦しむ人が新薬のおかげで希望を取り戻したと喜ぶ姿をテレビで見た時は、思わず目頭が熱くなったものだ。自分の研究で救える命があることに、誇りとやりがいを感じている。

とはいえ、ここ数年は研究室のリーダーとして部下を管理する立場になり、研究にのめり込むばかりではいられなくなった。研究部門の予算獲得のため各所に働きかけたり、プロジェクトの進捗を管理したりといった、管理職の業務に追われている。研究室の若手が研究に没頭している姿を見ていると少し羨ましくも感じるが、私が若い頃、研究のことだけ考えていられたのも、当時の上司や先輩が今の自分のように奔走してくれていたおかげなのだろう。次世代のために環境を整えるのも研究者の大切な仕事の一つであるし、私の働き次第でチームの研究が大きく躍進するかもしれないのだ。

研究室一丸となって、きっと大きな成果を出して見せよう。そんな意気込みで働いていたある日のこと。社内向けに一斉送信されたメールの内容に、研究室はざわついた。創業以来、会社を牽引してきた社長が、高齢を理由に退任することが決まったのだ。

社長は私が尊敬する人物の一人だ。一代で安定した経営基盤を築いた実力はもちろん、社会貢献として新薬開発に積極投資を続ける筋の通った人柄は、私を含めた多くの社員に慕われている。新薬開発というのは難しいもので、コストと時間を投資しても必ず成果に結びつくとは限らない。百の失敗、いや百では足りないような数の失敗を積み上げて、ようやく一つの成果を得られるような世界だ。社長はそんな現実を理解した上で、積極的に研究を後押ししてきてくれたのだった。

尊敬する社長の退任は寂しいが、年齢が理由となれば仕方がない。新社長に就任するのは、現社長の親戚である伊藤春俊という人物だそうだ。現社長には子供がいないため、親戚の中で会社を経営した経験のある伊藤が後継に指名されたらしい。

社長交代までの数週間、社内では新社長に関する噂が飛び交った。普段は黙々と研究に励む研究室のメンバーも、噂話をせずにはいられないようだった。

「なんか不穏ですよね。新しい社長。製薬業界に無関係な人なんでしょ」

「らしいね。しかも経営していた会社とやらも破産させちゃったらしいよ。夜勤まみれになって、親戚中に金を貸してくれって回ってたんだって」

「マジですか?社長はどうしてそんな人を指名したんでしょう?社内の優秀な人を指名しても良かったんじゃないですかね」

「うん。確かにそうだね。沢田さんは何十年も前から社長を知ってますよね。今回の指名についてどう思いますか?」

「社長が決めたことなら大丈夫と言いたいところだけど、君たち若者の率直な意見の方が、実は的確なのかもしれないね。社長が優秀な人であるのは間違いないけど、ここ数年、目が見えていないのも事実だし」

「沢田さんがそこまで信頼してるなんて、相当優秀な人だったんですね。僕は正直、のんびりしたおじいちゃんっていうイメージしかないっすけど」

若手研究員のはっきりした物言いに苦笑しつつ、新社長を自分の目で見るまで極端な先入観は持たないようにしようと、部下たちに伝えて仕事に戻った。

翌月、新社長の就任式が執り行われた。全社員が集合できるようなスペースは社内にないため、一部の幹部だけが社長と同席し、ほとんどの社員はリモートで就任式の様子を視聴する。私と部下たちは、研究室の実績からリモート会議に参加していた。

「えー、初めまして。社長に就任しました伊藤です。正直なところ、製薬業界のことはよく知りません。俺は理系じゃなくて体育会系なんで。なんて、冗談です。まあ、経営に関してはプロですから、安心してください」

PC画面に映る伊藤社長は、派手なストライプのスーツに身を包んでいる。画面越しでは上半身しか見えないが、肩幅の広さから体躯の良さが窺えた。年齢は三十代そこそこといったところだろうか。日焼けした肌と真っ白な歯のコントラストは、健康的というよりも人工的な違和感の方が強い。ビジュアルからも話し方からも、強気のオーラが滲み出ていて、画面越しでも圧を感じるほどだった。

「初めに宣言しておきますが、俺はこの会社を改革したいと思ってます。俺からすると、この会社は無駄が多いんですよ。安心安全も結構だけど、利益を生み出してこその会社でしょう」

社員への挨拶もそこそこに、社風を否定するような発言をする伊藤社長に、研究室の部下たちが顔を見合わせている。画面の向こうで社員たちが困惑していることなど知らない伊藤社長は、息継ぎもせずに続ける。

「製薬会社ってそもそもすごく儲かる業界なんですから、ガンガン改革して会社をでかくしていきましょう。しっかりついてくるように。以上」

伊藤社長はそこで言葉を切り、社員の反応を待っているのか、しばらくカメラをじっと見つめる。

「反応薄いなあ。リモートでもリアクションとかコメントとかできるでしょ。俺が熱く語ったのに、拍手もなしですか?」

伊藤社長の発言も虚しく、リモート参加している社員たちは誰一人としてリアクションやコメントを返さなかった。社員たちは皆、スピーチの内容に反感を抱いただろうから、当然の反応だ。反応を得られなかった伊藤社長は、白けたような顔でため息をつく。そして、先ほどとは一変して、唾を飛ばす勢いで声を荒げた。

「いきなり感じ悪いよ。お前ら、改革が気に食わないってか。まあ、お前らが何と言おうと改革は実行するから。俺のやり方に文句があるやつは、やめてもらって結構。今日のうちに辞表を持ってこい。いいな」

伊藤社長がカメラを睨みつける映像を最後に、リモート配信はぶつりと途えた。リモート式はそのまま異様な雰囲気で終了した。伊藤社長のあまりに横暴な発言に、研究室のメンバーは皆、呆れた顔をしている。私自身も動揺しているが、今はリーダーとして部下たちが不安になりすぎないようにフォローしなくては。私はなるべく冷静な声を心がけて、研究員たちに声をかけた。

「彼がどんな方針を掲げるにせよ、君たちにしわ寄せがいかないよう私が働きかける。君たちはどうか今まで通りに仕事を進めてくれ」

翌日、伊藤社長は各部署のリーダーを招集して、改革の実行を改めて宣言した。掲げられたのは、既存製品の量産化と新薬開発の強化だ。しかも内容はありえないほど無茶なものだった。なんと、通常は数年単位の時間がかかる新薬開発を、三ヶ月スパンで行えというのだ。

「一日も早く成果を上げるんだ。昨日も言ったが、文句があるやつは勝手に出ていけばいい。分かったな」

私の業務である新薬開発が無謀な改革の対象となったからには、もはや黙っていることはできない。私は伊藤社長に問いかけた。

「伊藤社長、発言してもよろしいでしょうか。研究室のリーダーを務める沢田と申します。改革の内容は理解しましたが、具体的にどんな改善案をお持ちなのか、お聞かせいただけないでしょうか?」

「何?研究室のリーダー?あんた、この会社に勤めて長いわけ?」

伊藤社長はこちらの質問には答えず、侮辱的な口調で聞き返してきた。

「はい。三十年ほどになります」

私の回答を聞いて、伊藤社長は鼻で笑った。

「三十年も勤めて、具体的な指示がないと動けないのか?具体案なんて俺が考えることじゃない。お前たち社員が考えることだろうが」

高圧的な言い方をされて、思わず言い返したくなるが、ぐっとこらえた。すると今度は、製造ラインの責任者が伊藤社長に抗議を始める。製造責任者は私と同年代の古株社員であり、優秀な男だった。

「私からも発言させてください。製造ラインの責任者を務めております。量産化を進めろとのご指示ですが、すでに製造部門はできる限り自動化をしていて、今以上に製造ペースを上げることはできません」

「できませんじゃなくて、やれよ。お前ら高学歴の集まりなんだろ?頭使って考えろよ」

製造責任者は伊藤社長に詰め寄られても動じることなく、淡々と意見を伝えてみせた。

「安全性を保ったまま製造するには、今のペースが精一杯です。ご要望にお答えするのは難しいかと思います」

はっきりと言い切られて、伊藤社長はますます苛立つ。

「ちっ、無能のじじいが。研究室のお前はどうなんだ?新薬開発、さっさと進められるよな」

「新薬開発はどうやっても数年単位の時間がかかります。まず基礎研究に膨大な時間が必要ですし、新しい成分を見つけられたとしても、慎重な臨床試験を重ねて人体への影響を――」

「ああ、もういい。言い訳ばっかで、改善する気がないってことだな。全く、長く勤めているだけの無能じじいしかいねえのか、この会社は」

自分が掲げた改革案を突っぱねられて、伊藤社長は相当いらついているようだ。せわしなく指で机を叩きながら、私と製造責任者をじっとり睨みつけた。

「老いぼれがいると会議が進まないから、今日はここまでだ。改革にふさわしいメンバーで仕切り直さないとな」

伊藤社長は秘書と共に、足音荒く出て行ってしまった。唐突に招集をかけ、反論されたぐらいで激昂して会議終了とは、あまりに暴虐無道だ。会社を経営していたとは思えない伊藤社長の言動に、私は会社の未来を案じずにはいられない。こんな環境で、部下たちをどうやって守っていけば良いのだろうか。会議室を後にして研究室に戻る道中、私は考え続けていた。

それ以来、会社の雰囲気は悪化する一方だ。社員たちは今まで通りに仕事を進めようと努力しているが、伊藤社長は連日各部署に無理難題を吹っかけて、威圧を繰り返しているという。私の研究室にも「とにかく早く新薬を開発しろ」という指示が飛んできて、その度に私が「できない理由」を説明するという不毛なやり取りが続いている。きっと他部署でもこんな調子なのだろう。当然、社内では伊藤社長に対する愚痴や、前社長を懐かしむ声ばかりが聞こえてくるようになった。研究室の部下たちも例外ではなく、仕事の合間に伊藤社長への不平不満を口にしてばかりだ。私は優秀な部下たちが自分の仕事に専念できない状況を、憂う思いで見つめるしかなかった。

「みんな、すまないな。私が伊藤社長をうまく納得させることができないばかりに、研究に集中できない環境を作ってしまって」

「何言ってるんですか?沢田さんは私たちの盾になって、伊藤社長の無茶ぶりをきっぱり断ってくれてるじゃないですか。何も謝ることはありませんよ」

「そうっすよ。あんな威圧的な言い方されて、はっきり言い返すなんて僕にはできません。僕たちこそ、沢田さんにばかり負担をかけてしまって申し訳ないです」

自分を支えてくれる部下たちをありがたく思いつつ、私の心は晴れなかった。現状に耐えるだけでは、事態が改善される望みは薄い。どうしたら再び研究に打ち込める環境を作ることができるだろうか。私の頭はそればかり考えていた。

そして、伊藤社長の就任から二週間が経過したある日のこと。伊藤社長は全社員をリモート会議に招集した。招集の理由については、事前に噂が囁かれていた。自分の悪評を耳にした伊藤社長は激怒し、自分の力を誇示するため、前社長の元で長く働いてきた社員を首にするつもりだというのだ。会社を長年支えてきたベテラン社員を首にしたら、社内体制が崩壊してもおかしくない。普通ならありえない判断だが、伊藤社長の言動を見ていると、噂にも信憑性を感じてしまう。

リモート会議が始まり、画面いっぱいに顔を映した伊藤社長は、自信たっぷりに宣言した。

「今、この会社に必要なのは若返りだ。最大限に募集をかけて、若い社員を大量に採用する」

首ではなく新規採用の話が出てくるのは意外だが、いずれにしろいいアイデアとは思えなかった。当たり前だが、人員を増やせばそれだけ研究や製造が早く進むなどという単純な話があるはずもない。伊藤社長は少し間を置き、嫌にゆったりとした口調で次の言葉を続けた。

「もちろん、人を増やすだけじゃ人件費が嵩むだけだよな。増えた分だけ無駄を減らさないと。というわけで、長く会社にいるだけの老害どもには、会社を出ていってもらう予定だ」

まさか本当に噂通りのことを実行しようとしているとは。私は絶句した。伊藤社長は、今までの鬱憤を晴らすかのようにベテラン社員への不満を並べ立てる。

「毎度しけた面で俺の邪魔をしてきやがって。高給のくせに無能なじじいばっかりで、うんざりだ。お前らを追い出して優秀な若手を入れるからさ。覚悟しておけよ」

誰を追い出すのか、具体的な名前は出ないままリモート会議は終了したが、今まで彼に正面から反論してきた私も、当然首の対象に含まれるだろうと予想がつく。研究室の部下たちも同じように考えたのか、皆、心配そうに私を見ている。その時、研究室の扉が荒々しく開かれた。ずかずかと遠慮ない足取りで踏み込んできたのは、伊藤社長だ。彼が研究室にやってくるのは初めてのことだった。

伊藤社長は私の顔を見つけると、勝ち誇った笑みを浮かべて話しかけてくる。

「なんだ、お前まだいたのか。何をぼっとしてるんだよ。早く荷物をまとめないと」

「先ほど話していた老害とやらに、私も含まれるということでしょうか」

「当たり前だろ。首だよ。首。お前みたいな時代遅れのじじいがいると、研究に悪影響だ。お前の代わりに雇う若手のエリートがもう見つかってるんだよ。さっさと出ていけ」

長年の研究を侮辱するような言い方をされて、頭に血が登る。しかし、この男に何を言ったところで響くことはないだろう。言い返したい気持ちをどうにか抑え、私は冷静に尋ねた。

「本当によろしいんですね。私がやめても、会社は困らないと。伊藤社長はお考えなんですね」

「だからさっきからそう言ってるだろうが。お前は会社のお荷物なんだよ」

「分かりました。そこまでおっしゃるなら、私はこの会社を出ていきます」

私が淡々と承諾すると、伊藤社長は満足げに笑みを浮かべた。

「やっと賢明になるな。じゃ、早く荷物をまとめろよ」

最後までこちらを馬鹿にしたような口振りを吐き、彼は研究室を出ていった。伊藤社長が去ると、部下たちが駆け寄ってくる。

「沢田さん、本当にやめてしまうんですか?」

「若手が何人も増えたところで、沢田さんがいなくなったら現場が回りませんよ」

「私たちみんなで社長に抗議しますから、どうか考え直してくれませんか?」

「まだまだ沢田さんから教わりたいことがたくさんあるんです」

部下たちの思いが素直に嬉しかった。私は微笑みを浮かべて、暗い顔の部下たちにこう言った。

「みんな、不安な思いをさせてすまない。私も君たちのような優秀な部下を手放すのは惜しいと思っている。そこで提案なんだが、私と一緒に新しい会社を立ち上げないか」

驚く部下たちに、私は事情を説明した。伊藤社長の方針に不安を覚えた私は、起業の準備を始めていたのだ。新しい会社を起こせば、伊藤社長の横暴に振り回されることもなく、今まで通りに研究を続けることができる。自分や部下たちが研究に打ち込める環境を守るための方法として思いついたのが、独立だったのだ。驚くばかりだった部下たちも、私が本気であることを悟ると、全員独立すると言ってくれた。

「沢田さん、そこまで僕たちのことを考えてくれていたんですね。本当にありがとうございます」

涙を流す研究員に、思わずもらい泣きしながら、彼らのためにも必ず起業を成功させようという決意を新たにしたのだった。

翌日、私と部下たちは社長室に赴き、退職届を提出した。研究室のメンバー全員が退職するという事態は、当然ながら伊藤社長の想定外だったようだ。信じられないという顔で、研究室のメンバーたちを見渡している。

「おいおいおい。一体どういうことだ?お前たちが一斉にいなくなったら、研究室はどうなる?新薬開発が完全にストップするじゃないか」

「優秀な若手を雇うのでしょう。彼らに任せればいいのでは?」

「若手を教育する研究者がいなくなったら、元も子もないじゃないか。お前たち、あいつに唆されたのか?今からでも遅くないから考え直せ。給料も三割増しにしてやるからな」

伊藤社長は必死に引き止めるが、部下たちは黙って首を振るばかりだ。すでに私も部下たちも覚悟を決めている。

「何をおっしゃっても無駄ですよ。それでは、短い間でしたがお世話になりました。失礼いたします」

最低限の挨拶を済ませて、私たちは会社を去った。

その後、私は早速自分の製薬会社を立ち上げた。以前から研究資金の調達で付き合いのあった銀行に相談して、すでに手続きを終えていたのだ。普通のサラリーマンがこれほどトントン拍子に資金や書類の準備をするのは難しいだろうが、今回はいくつかの要因が重なり、スムーズにことが運んだ。

まず第一の要因は、私が業界で名の知れた研究者であるということだ。自分で言うのは気が引けるが、私はジェネリック医薬品の研究では第一人者としてよく名前を挙げてもらっている。得意分野は薬の改良で、既存の薬より高い効果を持ち、副作用を軽減した新薬をいくつも世に送り出し、論文も多数執筆してきた。この分野においては、自分でも一流を自負している。こうした知名度を持つ私が起業するとなれば、実績と信頼は折り紙付きであるし、業界でも話題になることが予想される。よって、銀行の審査も通りやすかったというわけだ。

また、第二の要因は、辞職の経緯を銀行がすんなり理解してくれたことだ。伊藤社長の就任によって会社が物騒な雰囲気になっていることは、すでに銀行も突き止めていたらしい。そのため、銀行側も私の事情を察して、前向きに協力してくれたのだった。

起業メンバーは、私と研究室の部下たち、そして別会社から引き抜いた若手社員数名だ。実を言うと、この若手社員たちこそ、伊藤社長が採用しようとしていた若手のエリートである。私は以前の会社の人事担当と懇意にしていたため、伊藤社長が誰に声をかけているのかを尋ねたら、すぐに情報を提供してくれた。そればかりか、「沢田さんの会社に入った方が彼らのためになるから」と言って、採用予定であった若手エリートたちを私に紹介してくれたのだ。人事担当自身は伊藤社長の老害リストラには巻き込まれなかったものの、伊藤社長に愛想が尽きたため、近いうちに退職するつもりだと話していた。

こうして私の会社は、潤沢な資金と優秀な人材を揃えて、順調なスタートを切った。そんな矢先、さらにいいニュースが飛び込んでくる。私の独立を聞きつけた大手製薬メーカーが、共同研究を持ちかけてきてくれたのだ。大手の協力が得られれば、自力で調達することが難しい大規模な設備を使うことも可能になる。研究に明け暮れる社員たちにこのニュースを伝えたところ、大喜びしてくれた。

「すごい。前の会社でも使えなかったような良い設備が使えるようになるってことですよね。これで間違いなく研究が加速しますよ」

それからしばらくの間は、新事業を安定させるため必死で働き、以前の会社のことを考える暇もない日々が続いた。

数ヶ月後、久しぶりの休日を得ることができた私は、以前の会社の同期と飲みに出かけた。彼は私よりも少し後に伊藤社長から退職を迫られ、現在は製薬業界の別会社に勤めているという。

「沢田が研究室ごと退職したと聞いた時は、びっくりしすぎて笑っちゃったよ。お前は大人しい顔して、意外と派手なことしでかすよな。あの後、伊藤社長はずっとイライラしてて、残された俺たちは大変だったぞ」

朗らかな口調で話していた同期の顔が、ふっと暗くなる。

「噂で聞いた話だと、業績悪化して倒産間近らしいぜ。三十年も働いた会社がこんなことになっちまうなんて、寂しいよな」

同期によれば、私たち研究員が一斉辞職した後、新しく雇った若手社員を研究室に配置したが、うまくいかなかったらしい。さらに、私が自分の会社でシェアを拡大するにつれて、以前の会社のシェアが縮小していったのだという。結果的に、私はかつての会社の売上を奪ってしまったということか。少し後ろめたい気持ちになるが、社長の交代によって、あの会社は私たちの居場所ではなくなってしまったのだ。そもそも、今は自分の事業を成功させて社員たちを守らなければいけない時期なのだから、後悔に浸っている余裕などない。私は後ろめたさに蓋をして、同期と近況を報告し合い、酒を飲み、しばしの気分転換を楽しんだのだった。

そんなある日、私のスマホに伊藤社長から電話がかかってきた。いぶかしみながら電話に出ると、伊藤社長は聞いたこともないような猫撫で声で話し始めた。

「起業した会社は順調らしいな。知らなかったよ。あんたが有名な研究者だったなんて。もっと早く言ってくれたら、首になんかしなかったのに。戻ってくる気はないか?給料は以前の倍出すぞ」

「戻れるわけないでしょう。自分の会社があるんですから」

「そうか、そうか。いや、聞いてみただけだよ。そういえば聞いているかな。うちの会社、今結構やばい状態なんだ。このままだと、あんたが何十年も勤めた会社がなくなるかもしれないな」

「それは残念な話ですが、急ぎの要件がないなら切ってもよろしいでしょうか。目が回るほど忙しいもので」

「おいおい、長年世話になった会社の危機だっていうのに、白々しいな。事業は順調なんだから、世話になった会社を少しくらい助けてくれたっていいんじゃないか。あんたがうちと業務提携してくれれば、多少持ち直せるかもしれないんだ」

伊藤社長の言葉は、すっかり以前の威圧的な調子に戻っている。助けを求めるのに、どうしてこんなに上から物を言えるのだろうと、うんざりする。

「伊藤社長。あなたは就任式で言ってましたよね。自分は経営のプロだって。私は研究一本で経営には不慣れですが、寝る間も惜しんで必死でやってますよ。あなたはプロなんですから、自分でどうにかできるでしょう」

私はあくまでも淡々と突き離した。長年勤めた会社を助けないという選択は、もちろん胸が痛む。だが、伊藤社長に恩を着せられる義理はない。

「ちょっとうまくいってるからって、偉そうなこと言いやがって。そもそもお前が部下を連れてやめたせいで、こんなことになったんだぞ。こんなことが許されると思っているのか」

伊藤社長は電話の向こうで喚き散らし続けていたが、私は途中で電話を切り、仕事に戻った。

それから数週間が経った頃、伊藤社長が辞任したという知らせが入った。銀行から聞いた情報だから、確かな話だ。伊藤社長は株主である創業一族から業績悪化の責任を追求され、社長を辞任する状況に追い込まれたという。辞任を迫られた時でさえ、伊藤社長は「こんなことになったのは老害どものせいだ」としきりに訴えていたらしい。居場所をなくした伊藤社長は、そのまま行方知れずとなったという。もう製薬業界に戻ってくることはないだろう。

社長不在となった会社は、銀行から新社長が送り込まれ、新体制のもとで会社の立て直しを図っているらしい。いろいろあったが、愛着のある会社だ。どうにか再建してほしいと、思わずにはいられなかった。一度は断った業務提携だが、伊藤社長が追放された今、新体制のもとで協力を申し出てみてもいいかもしれない。とはいえ、今は自分の会社が第一だ。

会社を経営するということは、社員やその家族まで背負うということなのだから、責任は重大だ。幸いにも会社の業績は好調で、新人を採用して規模を拡大しようかという話も出ている。相変わらず社長業が忙しくて、研究に関わる時間は取れないのだが、研究者として積み上げてきたキャリアがこうした形で報われるのはとても嬉しいことだ。部下たちも銀行も協力会社も、私が研究者として地道に積み上げた実績を評価してくれたからこそ、信じてついてきてくれたのだろう。力を貸してくれた彼らのためにも、必ず事業を成功させよう。そして、今まで自分が貫いてきた道を、これからも歩んでいこう。そう決意したのだった。

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