十五年前、白血病になった十歳の私と母を捨てて愛人を選んだ父。まさか生きているとは思わなかった。飲食店で偶然再会した父の口から、信じられない言葉が飛び出したのはついさっきのことだ。
「その隣の娘、まさかお前の子供じゃないだろうな」
隣に座る前に、私の顔を見つめる父の表情はどこか不機嫌そうだった。
「ええ、私の子よ。三年前に結婚したの」
「金に困って貧乏生活してるんだろうなと思ってたからな。どうせお前もお前の母親も社会のお荷物だからなあ」
父の言葉に怒りが湧き、思わず立ち上がった。女手一つでここまで育ててくれた母を侮辱することだけは、どうしても許せなかった。父に言い返そうとしたその時、母が父に声をかけた。
「あら、久しぶり。私の店へようこそ」
母の言葉に驚き、父は分かりやすく目を見開いた。
「何の冗談だ? 面白くも何ともないぞ」
「あら、じゃあきちんと説明してあげるわね」
自分たちを見捨てた父への復讐のように、母は静かに、しかし確かな口調で話し始めた。
私は秋、二十五歳。今日は夫のたけるさんと一歳になる娘のまいと一緒に、有名なハンバーグ専門店のランチに来ている。この店は最近店舗を拡大している人気店で、ずっと来てみたいと思っていた。実は私の母もランチに誘っていたのだが、電車が遅延してしまい、まだ到着していない。
「ママ」
「うん、はい。もう少し待っててね」
隣のテーブルの料理を指さしながらご飯をねだる娘をなだめる。きっとお腹が空いているのだろう。
「お母さんから連絡あった? 」
「うん。今駅に着いたって。もう少しで着くんじゃないかな。お店の場所分かりにくいかな? 俺、駅まで迎えに行ってくるよ」
「たけるさん、ありがとう」
そう言うと、たけるさんは上着をさっと羽織り、店から出ていった。相変わらず気が利く人だ。改めてこの人と結婚してよかったと思った。
私は昔から、温かい家庭を築きたいと思っていた。私が十歳の頃に両親が離婚しているからだ。母の話では、私が小さい頃から父は育児は二の次で、よく遊び歩いていたらしい。私が熱を出して寝込んでも心配せず放置していて、よく二人は喧嘩していたのを覚えている。それでも母は一生懸命私の面倒を見てくれた。運動会や授業参観には必ず来てくれた。しかし父は仕事が忙しいと言って、一度も来てくれることはなかった。
私たち家族に大きな転機が訪れたのは、私が十歳の時だった。ある日、高熱を出した私は家で寝込んだ。どの病院を回っても「ただの風邪だろう」と言われた。しかし風邪薬を飲んでも一向に熱が下がらない日々が続いた。そして熱が続いて二週間が経とうとした頃、私を大学病院に連れて行くかどうかで、父と母が揉めていた。
「だから何度も言ってるでしょう。二週間も高熱が続いているのよ」
「そんなのたまたまだろう。医者が風邪って言ってるんだ。それに大学病院なんていくらかかると思ってるんだ?

金がもったいないだけじゃないか」
「あなた、あき子が苦しんでるのによくもそんなこと」
「まあ勝手にしろ。金は出さないからな」
そう言って父は出ていってしまった。その時の父の背中は、今でもはっきりと覚えている。
その後、すぐに母が私を大学病院に連れて行ってくれ、精密検査を受けることになった。検査が終わると、医者は深刻な表情で母に結果を話した。
「落ち着いて聞いてください。検査の結果ですが、白血病でした」
「そんな…」
「検査をするのがもう少し遅くなっていたら、危ないところでした。お母さん、よく決心してきてくださいましたね」
医者のその言葉を聞いて、母はやっぱり間違っていなかったと涙を流したらしい。その後すぐに入院となり、治療が始まった。幸いすぐに治療が開始できたことと、私がまだ小さく回復力が高かったことで、一ヶ月ほどで症状は落ち着いた。母もすぐに父に連絡していたらしいが、入院中に父が来ることは一度もなかった。
そして無事に退院し、帰宅すると、そこにはもう父の姿はなかった。混乱する私をよそに、母はどこか落ち着いていた。そして私にゆっくり話してくれた。
「あき子、落ち着いて聞いてね。お父さんはもうきっと帰ってこないわ」
「お母さん、どういうこと? 」
「お父さん、ずっと別の女の人のところにいたの。あき子が病気だって分かった途端、連絡が取れなくなった。あの人ならきっとそのまま出ていくだろうと思っていたわ」
「そんな…もうお父さんに会えないの? 」
父は私たちを捨てて、愛人を選んだのだ。そのことを理解すると、途端に悲しさが込み上げてきた。泣きそうになる私を見て、母は優しく抱きしめてくれた。
「お母さんがいるから大丈夫。絶対にあき子に寂しい思いはさせないわ」
そう言うと、母はさらに強く私を抱きしめた。それから母は女手一つで私を育ててくれた。仕事をしながら私の面倒を見て、それでもたくさんの愛情を注いでくれた。一緒に過ごす時間は短くなったが、寂しさを感じることはなかった。そして私は次第に、母のような強くて優しい女性になりたいと思うようになった。
こんな昔のことをぼんやり思い出しながら、母を連れて帰ってくるのを待っていた。その時、聞き覚えのある声が私の名前を呼んだ。
「あき子? あき子じゃないか」
思わず振り返ると、そこにはボロボロの服をまとった年老いた男が立っていた。髭は伸び切っており、髪の毛も数日洗っていないように見える。お世辞にも綺麗とは言えない姿だった。この人をどこかで見たことがあるような。頭を回転させるも、どこであったか思い出せない。困った顔で悩んでいる私を見て、その男性はバカにしたように笑った。
「お前、父親の顔も覚えていないのか?
相変わらずアホだなあ」
「お…お父さん? なんでこんなところに? 」
「なぜここにって? 俺も食事をしに来たんだ。悪いか?
」
確かに、その男性の笑った顔には昔の父親の面影が残っていた。しかし今、父は五十五歳のはずだ。目の前に立つ男性は、服装も相まって七十歳以上に見える。私たちを捨てて、二度と会わないと思っていた父親だ。小さい頃の私は、思い出すたびに悲しくなり、必死に父のことを忘れようとしていた。だから、すぐに思い出すことができなかったのだろう。
十数年ぶりに父に会えた喜びよりも、複雑な思いが勝ってしまう。言葉が出ない私に向かって、父は口を開いた。
「というか、まさか生きているとはなあ」
「どういうこと? 」
「ほら、お前、白血病だったんだろう」
「お母さんがすぐに病院に連れて行ってくれたおかげで、すぐに回復したのよ。今でも定期的に病院には通っているけど、あの時少しでも病院に行くのが遅れていたら、助からなかったらしいわ」
「そら良かった」
「そんな言い方…あの時、お父さんは放っておけって言ってたくせに」
人ごとのように笑う父親に怒りが湧いてきた。私は父を睨みつけるが、父は気にせず会話を続けてくる。
「で、その横の娘は。まさかお前の子供じゃないだろうな」
隣に座るまいに視線を向ける。父の表情はどこか不機嫌そうだ。
「ええ、私の子よ。三年前に結婚したの。この子の名前はまいになるわ」
「ふうん」
「何が不満なの? あなたには関係ないでしょ」
「金に困って貧乏生活してるんだろうなと思ってたからなあ。どうせお前もあき子も社会のお荷物だからなあ」
「そんな言い方…」
私は思わずその場で立ち上がり、声を荒げた。まいが驚いてこちらを見上げている。きっとこの人に何を言っても無駄だろう。そう頭では分かっている。だが、たくさん辛い思いをしながら私を育ててくれた母を侮辱することは、どうしても許せなかった。
確かに当時は、私の突然の入院やその後の度重なる通院で、お金の面が大変だったらしい。中には母が病院に支払いを待ってもらえないかと頭を下げている姿も見た。だからこそ、そんな姿を見ていたからこそ、私は母に感謝をしているし、尊敬している。そしてその度に、父を軽蔑する思いも増えていった。
まいもいるし、他のお客さんにも迷惑になる。ここで喧嘩をするわけにはいかない。そうして父と私が睨み合っていると、たけるさんが母を連れて帰ってきた。立ち上がっている私を見て、たけるさんは心配そうに声をかけた。
「あき子、一体どうしたんだ? それにこの人、あき子の知り合いか?
」
「この人、私の父親よ」
「え? 確か小さい頃に離婚したんじゃなかったか。どうしてここに? 」
「さあね。たまたまここにいたらしいわ」
「だから食事をしに来たんだって言ってるだろう。なんか文句でもあるのか? 」
父は不機嫌そうにそう言う。三人の間に険悪な空気が流れる。すると、たけるさんの後ろに立っていた母が父に声をかけた。
「あら、久しぶり。何年ぶりかしら」
「お…お前も来たのか。久しぶりだな。もう二度と会わないと思っていたけど、どうしてここに?
」
「ここ最近人気だろう。一度食べてみたくてな」
「あら、嬉しいわね。ようこそ、私の店へ」
「え? 」
父は母の言葉に、分かりやすく目を見開いた。聞き間違いだと思ったのか、力なく笑い始めた。
「私の店だって? そんな冗談? 」
「冗談じゃないわよ。ここは私のお店よ。と言っても、数ある店舗のうちの一つだけどね」
「う…どういうことだ?
」
母の思いもよらない言葉に混乱している父。そんな父をよそに、母は冷静に説明を始めた。
「言葉の通りよ。このハンバーグ専門店は、私がオーナーなの。元々は父が起業した小さなお店だったけれど、あなたが出て行った後、生活費を稼ぐために私も経営を手伝わせてもらうようになったのよ。お母さんが経営に入ったおかげで、どんどん店舗が増えていったのよ。もうすぐ全国に店舗ができるんだっけ? 」
「そんな…お前にそんなことができるわけないだろう。ただの偶然じゃないのか」
どこまでも父は母を認めたくないようだ。思わず私が言い返そうとすると、たけるさんが口を開いた。
「お父さん、お言葉ですが、いい加減認めたらどうですか? 」
「あき子の旦那か? お前には関係ないだろう。それにお前が何を知ってるって言うんだ?
」
「いえ、関係あります。実は僕もこの会社の本部で働いているんです」
「そうよ。たけるさんは期待の若手なの。今は本部で役員候補として働いてもらっているわ」
「あき子さんのアイデアや提案は、いつもお客様目線で素晴らしいと、社内でも支持を得ています」
「あら、ありがとう。あなたにも期待しているのよ」
「いえいえ、そんな。ありがとうございます」
たけるさんと母がそう話すのを見て、私も誇らしい気持ちになった。ちらりと父を見ると、驚きで開いた口が塞がらないようだ。見下していた母が会社のオーナーになり、病弱だった私は優秀な若手社員と結婚し、子供もいる。自分が捨てた二人が幸せな生活を送っている。そんな現実が受け入れられないのだろう。
「な、なんだよ。お前らなんて知るか」
父はそう捨て台詞を吐くと、慌てて入口へと走っていった。しかし父は支払いがまだだったようで、お金も払わず店から出て行こうとして、店員に捕まってしまった。そしてそのまま裏に連れて行かれて行った。
一台のパトカーが店の前に止まった。警察官が三人ほど入店し、事務所に向かっていく。そんな状況を見ていると、店長らしき人が母の元に駆け寄り、現状を説明してきた。どうやら父は無銭飲食の常習犯だったようだ。このハンバーグ店だけでなく、周辺の店からも度々苦情が入っていたらしい。そして父は今回の件で、現行犯で逮捕されてしまった。
「警察にずっと抵抗していましてね。大声で話すから声が聞こえてきたんですが、どうやら家族とうまくいっていないみたいで、それで反抗に及んだみたいですよ」
そう母に言うと、店長は事務所に戻っていった。無銭飲食するほど追い詰められているなんて。一体どんな状況なんだろう。昔は仕事をバリバリこなしていた父。その面影もない父親を見て、少し可哀想に思った。私たちのテーブルの空気は、しんと静まり返ってしまった。
すると母が突然、パンと手を叩き、私とたけるさんを見た。
「さあ、邪魔者もいなくなったことだし、美味しい食事を楽しみましょう」
「お母さん…」
「今期の新作ハンバーグ、とっても気合い入っているのよ。たけるさん、私たちの家庭の事情に巻き込んでしまってごめんなさいね」
「いえ、気にしていないですよ」
母がそう言うと、張り詰めていた心がほぐれていくように感じた。私とたけるさんのために、わざわざ明るい空気を作ってくれたのだろう。やはり母には敵わない。そう思った。そして母の言う通り、父のことは忘れることにして、ランチを楽しんだ。
それから数日後、私のスマホに発信元不明の着信が一件あった。最近まいの保育園探しで色々なところに問い合わせていたから、もしかしたらその関係かな。あまり心当たりはなかったが、思わず電話を取ってしまった。すると電話口からは、もう二度と聞きたくないと思っていた声が聞こえてきた。電話をかけてきたのは父だった。
「もしもし。あき子か」
「お父さん…私の番号、どうやって? 」
「まあまあ、そんなことはどうでもいいじゃないか」
ケラケラと笑う父。一体どこで私の番号を手に入れたのだろう。不安になるが、今はそんなことを気にしている場合ではない。なぜ父が電話をかけてきたのか、そちらの方が重要だ。追い込まれて軽犯罪を繰り返している父のことだ。今の父なら何をしてくるか分からない。私は警戒しながら父に問いかけた。
「それで本題は何? 私たちに何をするつもり? 」
「おいおい、そんな冷たい言い方をしないでもいいだろう。お前と母親にとってもいい話だってのに」
「いい話?
」
「聞いて喜べ。秋と再婚してやるよ。こいつのことだから、どうせまだ独り身なんだろう」
「はあ? お父さん、自分が何言ってるか分かってるの? 」
「ああ、分かってるさ。どうだ? 嬉しいだろう」
この人はおかしいのだろうか?
自分から私たちを捨てておいて、今更再婚してやるだなんて。嬉しいはずがない。間違いなく母も断るだろう。
「嬉しいはずないじゃない。それに、昔私たちにしたことも忘れたの? 」
「あの時出ていったことか。謝って欲しいなら謝るぞ。ごめんな」
どこまでも自分勝手な父親に怒りが湧いてくる。思わず悪態を吐いてしまいそうになる。でもここで父の機嫌を損ねてはいけない。私には母もたけるさんもまいもいる。みんなを守るために、冷静にならないと。スマホを持つ左手が怒りで震えている。右手で左手を必死に抑え、私は父に問いかけた。
「ともかく、急に再婚だなんてどうしたのよ。一緒にいた女の人とはどうなったの? 」
「ああ、あいつか。俺が家を出て行ってしばらく経った後、息子が生まれてなあ。そう。俺は俺で新しい家族と幸せに暮らそうと思ったんだ。病気の娘もいなくなったしな。でもあいつ、金遣いが荒くてなあ。息子が生まれてからもずっと遊ぶのをやめないし、ブランドバッグもどんどん買うし、俺の給料だけじゃやっていけなくなってたら、知らないうちに借金作っててよ。気づいた時には、家からいなくなってたんだ」
そう淡々と話す父。想像していなかった状況に、少し言葉を失った。私たちを置いて行った後、楽しく幸せに暮らしていると思い込んでいたが、どうやらそうではなかったようだ。汚い姿だったことも、無銭飲食を繰り返していたことも納得がいく。きっと父も苦労をしたのだろう。だからと言って、私が同情してやる必要はない。
「ほら、あいつ金持ってるんだろ? 親孝行だと思ってさ、母さんに頼んでみてくれよ」
「信じられない。今更そんなこと言わないでよ。お父さんのこと、許せるわけないでしょ」
「おいおい、落ち着けって」
「落ち着いてるわよ。お金なんて自分でどうにかして。そして、もう二度と私たちに関わらないで」
そう言い捨てて、私は電話を切った。幼い私と母を見捨てたくせに、自分が困ったら頼ってくる。やはり父は最低な人間だった。
私はすぐに、父から電話がかかってきたことを母に伝えた。
「そういうわけでもう二度と連絡しないでって言っておいたから」
「そうだったのね。あき子、怖い思いさせてごめんなさいね」
「いいのよ」
「それにしても信じられないわね。再婚なんて無茶な。受け入れるとでも思ったのかしら」
信じられないと言いたげに、母はふうとため息をついた。きっとまた連絡を取ってくるから、無視するようにと母は私に伝え、電話を切った。母の予想通り、それからしばらくの間、知らない番号から何度も電話がかかってきていた。だが、それらを全て無視していると、そのうちに電話がかかってこなくなった。ここまで無視され続けたのだから、さすがの父も諦めたのだろう。そう思っていた。
ある日、私はまいを連れて母の家に遊びに来ていた。母は多忙期を終えて久しぶりの休みだったらしく、孫に会えてとても嬉しそうだった。そしてまいもとても楽しそうだった。母と他愛もない会話をしながらまいと遊んでいた瞬間、玄関のチャイムが突然なった。
「あら、何かしら。もしかしたら宅配便かしら」
「私、行こうか。お母さんはまいと遊んでてよ」
「そう。じゃあお願いしようかしら」
そう言って私は立ち上がり、インターホンを見た。そこに映っていた人物を見て、一気に血の気が引いた。画面には父が映っていたのだ。
「ど…どうして。家の場所なんて教えていないはずなのに」
心臓の音がどんどん早くなる。焦る気持ちを抑え、深呼吸をし、私は母に声をかけた。
「お、お母さん、お父さんが来てる」
「どういうこと?
お父さんが出て行ってから引っ越しをしたから、うちの場所なんて知らないはずなのに」
「もしかしたら、電話を無視してたから、うちまで押しかけてきたのかも。でもどうやって家を? 」
母とそう話していると、またチャイムが鳴る。私たちはなるべく音を立てないようにして、無視をすることにした。しかしチャイムの音は止まらない。何度も何度も繰り返し音が鳴る。それでも無視をし続けると、しまいには玄関の扉をどんどんと叩く音が聞こえてきた。
「おい、いるのは知ってるんだ。ドアを開けろ。どうしよう。お前らが金持ってるのも知ってるんだぞ。早く出せよ」
父はどんどんヒートアップしていき、大声を出している。このままじゃお母さんもまいも危ない。どうにかしないとそう思った瞬間、母が急に立ち上がり、玄関に向かっていった。そしてあろうことか、玄関の扉を開けたのだった。
「お母さん、何してるの? 」
急いで母の後を追い、玄関に向かう。母が扉を開けた瞬間、父は玄関に飛び込んでくる。そんな父を見て、母は冷静に話し始めた。
「あなた、何をしているの? 」
「たく、さっさと開ければいいのに。金持ってるんだろ。さっさと寄越せよ」
「そうね。確かにお金はあるわ。でもあなたに渡すお金はないわ」
この父親が母に殴りかかろうとしたその瞬間、後ろから警察官が父の腕を掴んだ。
「はいはい、落ち着いてくださいね」
「け…警察?
」
「さっき通報がありましてね。不法侵入の現行犯で逮捕します」
「不法侵入? こいつは元々俺の嫁で…」
そう口答えをする父をよそに、警察官はあっという間に父を取り押さえ、パトカーに連れて行った。呆然とする私をよそに、母はやれやれと玄関の鍵を閉める。
「お母さん、なんでそんなに冷静なの? さっき通報があったって言ってたけど、一体誰が? 」
「ああ、あなたがインターホンを見ている間に、警察を呼んでおいたのよ」
「そ、そうだったの?
全然気がつかなかった」
「現行犯じゃないと、警察って逮捕してくれないでしょ。だからわざと鍵を開けて、うちに入らせたのよ」
へなと座り込む私。そんな私を見て、母はふふんと笑っている。この人は一体どこまで強い人なんだろうか。一生母には追いつけないかもしれない。そう思ってしまった。
その後、警察から父が牢屋に入ったと知らされた。今回の件だけでなく、他にも万引きや無銭飲食など、色々な容疑がかけられていたらしい。保釈金を用意できるはずもなく、そのまま収監されてしまったそうだ。また、母は父の息子さんのことを心配し、児童相談所に連絡を入れていたらしい。児童相談所の職員さんから、息子さんについても教えてくれた。現在中学三年生になるその子は、現在施設に入っている。とてもしっかりしていて、成績も優秀らしく、あまり心配はいらないだろうとのことだ。父と一緒に住んではいないが、たまに息子さんが父の顔を見に行っているそうだ。
「ほら、まいちゃん、新作のハンバーグよ。たくさん食べてね」
「おばあちゃん、ありがとう」
あれから数年が経ち、まいもすっかり大きくなった。二人の微笑ましい会話を見て、幸せな気持ちになる。まさかこんな年になって、父親に振り回されるとは思わなかった。父のことは同情するが、あんな大人になりたいとは思わない。反面教師にして、幸せな生活を送っていこう。そう思うのだった。