リビングに、信吾の下品な叫び声が響き渡った。一億円だ。一億円ゲット。これで俺は大金持ちだ。彼は安っぽい馬券を宝物のように掲げ、テーブルを叩きながら狂ったように騒いでいた。
聞いて驚け。俺はあのクソみたいな会社を辞めてきた。ムカつく上司の机に辞表を叩きつけてやったよ。安い給料のために頭を下げる生活は今日で終わりだ。
私が冷めた反応を見せると、信吾は一瞬だけ顔を歪めた。しかしすぐに金を手にした万能感に満ちた笑みを浮かべ、決定的な言葉を放った。
そして、一番大事なことだ。俺はお前と離婚する。こんな面白みのないババアとの生活は終わりだ。
彼は勝利を確信した傲慢な顔で私を見下し、唾を吐き捨てるように続けた。慰謝料代わりだ。この古臭い家はくれてやる。だからリカを連れてさっさと出ていけ。貧乏臭い顔は二度と見せたくない。
全てを吐き出し、勝ち誇る夫。しかし私は動じなかった。ただ静かに、その時を待っていた。そして、凍りつくような冷たい声でゆっくりと言い放った。
離婚には同意する。でも、一つだけ勘違いしないで。リカはあなたにくれてやるわ。
はあ?
億万長者になったはずの男の傲慢な笑みが消えていく。
私の名前は山崎あけみ。夫の信吾とは同じ職場で出会い、恋愛の末に結婚した。この人なら穏やかで幸せな家庭を築けると、当時は信じて疑わなかった。しかし、その幻想は結婚生活が始まると同時に崩れ去った。信吾の金銭感覚は、結婚前からすでに歪んでいたのだ。
私が将来のためにと貯蓄を提案しても、彼はいつも鼻で笑うだけだった。
信吾さん、少しずつでも将来のために貯金しない?
はあ? そんなちまちましたことして何になるんだよ。金ってのはよ、パーッと使ってこそ価値があるんだ。
彼は給料の大半を競馬やパチンコに注ぎ込み、週末はいつも家を空けていた。そんな夫を、義母の愛子さんは止めるどころか、むしろ褒めそやす始末だった。信吾は本当に男らしくて素敵ね。細かいことを気にしない器の大きい男よ。
やがて娘の理花が生まれたが、信吾の自己中心的な態度は変わらなかった。おむつ交換も夜泣きの対応も全て私任せで、彼は指一本動かそうとしない。私が育児に追われ疲弊していると、彼は信じられない言葉を投げつけた。
おい、リカが泣いてて競馬中継が聞こえねえだろうが。早く黙らせろよ。
結局、私は心身ともに限界を迎え、育児休暇を取っていた会社を辞めざるを得なかった。
そんなある日、信吾が同居を提案してきた。おふくろがリカの面倒を見るって言ってるし、お前にとっても好都合だろ。愛子さんも、ええ、可愛いリカちゃんのためなら何でも手伝うわよと満面の笑みで約束してくれた。私はこの提案に一縷の望みを託してしまったのだ。
しかし、義母との同居生活が始まると、私の淡い期待はすぐに裏切られた。愛子さんが育児を手伝ってくれたのは、最初の数日だけだった。あら、ごめんなさいね。今日は腰が痛くて、リカちゃんのことお願いできるかしら? 昨日ちょっと無理をしすぎたみたいで、今日は一日横になっていたいの。
口を開けば体調不良を訴え、家事も育児も全て私の肩にのしかかった。状況は同居前と何も変わらず、むしろ気を遣う相手が増えただけの日々が続いた。
しかし、本当の地獄はリカが小学校に上がってから始まった。あれほどリカに無関心だった信吾と育児を放棄していた愛子さんが、手のひらを返したように過剰な介入を始めたのだ。
私はリカに社会で生きていくための基本的な躾をしようと試みた。宿題をきちんと済ませること、挨拶をしっかりすること、食事のマナーを守ること。親として当然の務めのはずだった。だが、そんな私の教育方針を、信吾と愛子さんは真っ向から否定しにかかった。
リカ、テレビは宿題が終わってからにしなさい。約束でしょ。
えー、やだ。今面白いところなのに。宿題なんて後でやるもん。
勉強を嫌がるリカを見て、信吾がわざとらしく大きなため息をつく。おい、あけみ。子供に勉強ばっかり押し付けるなよ。リカがいいって言うんだから、好きなだけテレビを見せておけ。すると愛子さんも同調し、私を貶めるような目で見る。本当よ。あけみさんは時代遅れの教育ママなんだから。これだから頭の固い人は困るのよ。可哀想に、リカちゃん。
二人はリカの目の前で私を貶め、甘い言葉でリカを煽てた。それだけではない。彼らはリカが欲しがるものは、どんなに高価なものでも無条件で買い与えた。最新のゲーム機、流行りのブランド服、人気アイドルのコンサートグッズ。私が「そんなに甘やかしてはいけない」と口を挟むと、愛子さんは鬼のような形相で私を罵倒した。
お母さん、先週も新しいゲームを買ったばかりですよ。こんなに甘やかすのは教育上よくありません。
まあ、なんてけち臭い嫁なんでしょう。子供が欲しいものを買ってあげるのが親の愛情ってもんでしょうが。あんたはリカちゃんが可愛くないの?
そうだ、そうだ。お前のそのけちなところがリカを苦しめてるんだよ。俺の稼いだ金で何を買おうが、お前に指図される筋合いはない。
こんな環境で育ったリカがまともな人間に育つはずもなかった。いつしかリカは私の言うことには一切耳を貸さなくなり、完全に信吾と愛子さんの味方になっていた。私のことを「けちで口うるさいママ」と見下し、何か注意をしようものなら、すぐに祖母と父親に泣きつくのである。その結果、リカは自分の意に沿わないことは一切受け入れない、わがままで傲慢な人間へと成長していった。
そして、その歪んだ性格は、学校という社会生活の場でも問題を引き起こすようになる。ある日、リカが学校で同級生に怪我をさせ、担任の先生から電話がかかってきた。私がリカを叱ろうとしても、彼女は悪びれる様子もなく、ただ相手を非難するだけだった。
ママ、今日学校で先生に怒られた。でも私は悪くないもん。あの子が先にちょっかい出してきたのが悪いんだもん。
そうだったのね。でも、だからと言ってお友達を突き飛ばして怪我をさせていい理由にはならないでしょう。まずは先生とその子にきちんと謝らないと。
やだ。謝らない。私は悪くないんだから。
自分の非を認めようとしない娘の姿に、私は頭を抱えるしかなかった。そして、私たちの会話を聞いていた信吾と愛子さんが、鬼の形相で割って入ってきた。
はあ、うちのリカがそんなことするはずないだろうが。どうせ相手の子に何か言われたんだろう。おい、学校に電話するぞ。どんな教育してやがるんだ。
そうですとも。うちの可愛いリカちゃんを一方的に悪者扱いするなんて。あの担任はどうかしてるわ。私からもガツンと言ってやりますから。
彼らは学校に乗り込んではリカを盲目的に擁護し、学校側を悪者に仕立て上げた。まさにモンスターペアレントそのものである。学校側もこれ以上関わりたくないと思ったのか、それ以降リカの問題行動について連絡してくることはなくなった。その結果、リカはますます増長し、自分の非を一切認めない性格が完成してしまったのだった。
この家で、私の味方は一人もいなかった。私の言葉は誰にも届かない虚しい響きでしかなかった。信吾、愛子、リカの三人は、私を仲間外れにするのが当たり前になっていた。彼らは私に留守番を命じ、三人だけで頻繁に旅行に出かけるようになったのである。高級旅館やリゾートホテルに泊まり、SNSには楽しそうな写真をこれ見よがしにアップしていた。その間、私は広い家に一人残り、三人が散らかした部屋を片付け、帰りを待つだけだった。まるでこの家の使用人のような扱いだった。
そんなある日のこと、一本の電話が鳴った。三人が宿泊していた高級ホテルのスタッフからだった。
山崎信吾様のお宅でしょうか。先日ご宿泊の際の忘れ物がございまして、ご連絡いたしました。
はい、妻のあけみです。主人がお世話になっております。
電話口の向こうで、相手が息を飲む気配がした。ああ、奥様でいらっしゃいましたか。大変失礼いたしました。いつもご一緒の女性の方が奥様だとばかり思い込んでおりまして。
その気まずそうな声を聞いた瞬間、私の頭の中でこれまで感じていた違和感の全てが繋がった。夫の浮気。おそらくもう何年も前から続いていたのだろう。家族旅行と称して私を家に置き去りにし、愛人を連れ回していたのだ。怒りと悲しみを通り越し、冷たい感情が心を支配していくのを感じた。
私はこの歪んだ家族から抜け出す決意を固めた。静かに、そして慎重に、離婚の準備を始めたのである。弁護士に相談し、財産分与について調べ、探偵を雇って浮気の決定的な証拠を集めた。そして、リカが高校生になった頃には、私の準備は全て整っていた。慰謝料請求に必要な証拠も、離婚後の生活基盤を築く計画も、全て完璧だ。私は私から離婚を切り出すタイミングを計っていた。
まさにその日の夜だった。信吾が見たこともないような高揚感で帰宅したのである。リビングに足を踏み入れた私に、信吾は一枚の紙切れをヒラヒラと見せびらかした。それは競馬の当たり券だった。
よっしゃ、見たか? これ、一億円だ。一億円ゲット。これで俺は大金持ちだ。
狂喜乱舞する夫。私はただ冷めた目で見つめていた。
まあ、そうだ。いい機会だから言っておくわ。俺はもう会社を辞めてきたからな。こんな薄給のために毎日働くなんてバカバカしいだろうが。
そう。
私の素っ気ない返事に、信吾は少しむっとしたようだったが、すぐに下品な笑みを浮かべた。
それからな、俺はお前と離婚する。こんな面白みのないババアと一緒にいる意味もなくなったからな。御免こうむるぜ。
彼は心底嬉しそうに私にそう言い放った。慰謝料代わりだ。この家はお前にくれてやる。だからさっさとリカを連れて出ていけ。もう二度とお前らの顔も見たくないんだよ。
彼は勝利を確信したような傲慢な笑みを浮かべている。しかし、私は少しも動揺しなかった。彼の言葉をただ静かに聞いていた。そして、ゆっくりと口を開いたのである。
離婚には同意するわ。でも、リカは置いていくわ。
予想外の返答に、信吾の顔から笑みが消える。
だから、リカはあなたが引き取って。私は一人でこの家を出ていくから。
私の予想外の返答に、信吾は一瞬言葉を失っていた。やがて我に返ると、顔を真っ赤にして怒鳴り散らす。
はあ? 何言ってんだお前。子供は母親が見るのが当たり前だろうが。ふざけんじゃねえよ。
どうして当たり前なんてことがあるの? それにリカは、私の言うことなんてもう何年も前から聞きやしないわ。私は冷静に、そして淡々と事実を告げた。あの子が心から信頼し、大好きで一緒にいたいと願っているのは、あなたとお母さんじゃないの? 私ではないわ。
その言葉に、信吾は言葉を失った。まさにその時、騒ぎを聞きつけた愛子さんとリカがリビングに入ってきたのである。二人は信吾が一億円を手にしたことをすでに知っているらしく、興奮で顔を上気させていた。
まあ、信吾。一億円ですって。すごいじゃないの。さすがは私の息子だわ。
パパ、すごい! じゃあ、今度の誕生日はヨーロッパ旅行ね。絶対だよ。約束だからね。
部屋の険悪な雰囲気にも気づかず、二人は浮かれきっていた。そんな二人の様子を見て、愛子さんがようやく私の冷たい視線に気づき、首をかしげる。
なんですの、この空気は? あけみさん、信吾がせっかく大金を手にしたっていうのに、その態度は何ですの? 少しは祝いなさいよ。
おふくろ、聞いてくれよ。こいつ、離婚する代わりにリカを俺に押し付けて、一人で出ていくって言うんだ。
信吾が吐き捨てるように言うと、愛子さんとリカの表情が凍りつく。しかしリカは、次の瞬間、待ってましたとばかりに甲高い声をあげたのである。
ちょうどいいじゃん。私、もうママとは暮らしたくないもん。パパとおばあちゃんと一緒がいいに決まってる。
リカはそう言うと、わざとらしく目に涙をためて愛子さんに抱きついた。けちでガミガミうるさいママなんて、いらない。パパとおばあちゃんがいれば、それでいいんだもん。
その芝居がかった姿は、長年私を苦しめてきた光景そのものだった。愛子さんも泣き真似をするリカをぎゅっと抱きしめ、私を睨みつけた。
まあ、なんてことを言うの? こんなに可愛くて素直なリカちゃんを捨てるなんて。それでも母親ですの?
彼女はまるで悲劇のヒロインのように大げさに嘆いてみせる。結構ですわ。リカちゃんは私たちで大事に、大事に育てますから。あなたのような、けち臭くて愛情のない人にこの子を任せられるわけがないでしょう。
その言葉を、私は待っていた。三人が、私の望んだ通りの言葉を、自らの口で言ってくれたのだ。私は心の中で小さくガッツポーズをした。
そう。リカもお母さんも、そう言うなら良かったわ。じゃあ、リカは信吾さん。あなたにお願いしますね。正式な書類にもサインしてもらうから。
私のあっさりとした態度に、三人は少し拍子抜けしたような顔を見せた。しかし、すぐに一億円のことで頭がいっぱいになったのだろう。
さあ、リカちゃん。あんな冷たい人のことは忘れて、これから何を買いに行くか相談しましょう。
うん! まずは最新のスマホとパソコン!
二人はキャッキャとはしゃぎながらリビングから出ていった。残された信吾は、苦虫を噛み潰したような顔で私を睨んでいる。
ちっ。分かったよ。どうせ俺には一億あるんだ。お前一人いなくなったって、リカくらいどうとでもなるわ。
彼はそう言い捨て、娘たちの後を追うように部屋を出ていった。こうして、長年の懸案だったリカの親権問題は、あっさりと彼ら自身の選択によって解決したのである。私は、これから始まる本当の反撃に向けて、静かに呼吸を整えた。
愛子さんとリカがリビングから出ていき、静けさが戻った。私はゆっくりと鞄から一冊のファイルを取り出し、テーブルの上に置いた。そこには、私が弁護士と探偵に依頼して集めた、数々の証拠が納められている。この瞬間のために、私は何年も耐えてきたのだ。
信吾さん。離婚の条件について、もう少しお話があるのだけど。
あ? まだ何かあんのかよ。家もくれてやるって言ってるんだから、文句ねえだろうが。さっさと消えろよ。
吐き捨てるように私を睨みつける。私は何も言わずにファイルの表紙をめくり、彼の目の前に突きつけた。そこに並んでいたのは、信吾と見知らぬ若い女性が睦まじく腕を組み、ホテルの前で微笑み合っている写真の数々だった。
な、なんだよ、これ。
彼の顔から血の気が引いていくのが、手に取るように分かった。
王野友花さん、三十四歳。あなたの部下の方よね。もう何年も、不適切な関係を続けているみたいだけど。
私はさらにページをめくっていく。ファイルには、二人がラブホテルに出入りする写真や、友花さんのマンションで半同棲生活を送っている証拠が、几帳面にまとめられていた。ホテルの領収書のコピー、クレジットカードの利用明細、二人の親密なメールのやり取り。それは言い逃れのしようがない、完璧な浮気調査の報告書だった。
信吾の顔は見る見るうちに青ざめ、額には脂汗が滲んでいた。しかし、彼はすぐに開き直ったように、ふてぶてしい笑みを浮かべた。絶望的な状況に追い込まれた人間が、時として見せる笑みである。
はっ、そうだよ。その通りだ。バレてたんなら話が早いぜ。友花はな、お前みたいな生活感のあるババアと違って、若くて可愛くて最高の女なんだよ。
信吾はまるで勝利宣言でもするように胸を張った。その姿は滑稽で、哀れですらあった。
ちょうど良かったぜ。こんな窮屈な家と、お前から解放されて、俺は友花と一緒になるんだ。一億円の金と最高の彼女。俺の人生、これからが本番なんだよ。
その下劣な言葉の数々を、私はただ静かに受け止めていた。全て想定内の反応だったからだ。
そう。それなら話が早いわね。私はあなたと、その王野友花さん、双方に慰謝料を請求させてもらうわ。私は彼の目を真っ直ぐに見据えて告げた。長年に渡る不貞行為による精神的苦痛に対する損害賠償として、法的に認められる最大限の金額をね。
私の言葉に、信吾は一瞬ひるんだ表情を見せた。だが、彼はすぐにポケットから当たり券を取り出すと、それを揶揄するように笑い飛ばした。
慰謝料? くれてやるよ。いくらでもな。言っただろうが。俺には一億円あるんだ。明日にでも、好きなだけ持っていけ。
彼は自分の手にした大金が、決して尽きることのない魔法の泉だとでも思っているようだった。
こんな金で縁が切れるなら、安いもんだぜ。せいぜい受け取って、俺たちの前から消えてくれ。
その愚かで傲慢な姿を、私はただ哀れむような気持ちで見つめていた。彼はまだ、自分がこれから何を失うことになるのか、全く理解していなかったのである。
後日、私は弁護士に同席してもらい、信吾と愛人の王野友花さんを交えた四者での話し合いの場を設けた。場所はホテルの静かなラウンジである。約束の時間ぴったりに現れた信吾と友花さんは、私の前で見せつけるように腕を絡ませていた。その親密な様子は、これから慰謝料の話をする当事者とは思えないほど無神経なものだった。
初めまして。王野友花です。信吾さんとは真剣にお付き合いさせていただいてます。
猫撫で声で挨拶すると、信吾は得意満面な笑みを浮かべている。二人の安っぽい芝居に、私と弁護士は内心呆れながらも、冷静に事を進めようとした。しかし、信吾は私たちのことなど眼中にないようだった。彼は突然、友花さんの手を取ると、その場に跪いたのである。
友花。見ててくれ。俺はもう、この女とは完全に切れる。だから、俺と結婚してくれ。
信吾さん。本当に嬉しい。
まるで安っぽい昼ドラのような光景に、私は思わずため息が出そうになった。うっとりと信吾を見つめる友花さんに向けて、私は静かに口を開いた。
おめでとうございます。でも、友花さん。よろしいのですか? 信吾さんと結婚するということは、漏れなく素敵な特典がついてきますけど。
え? 特典ですか?
私の言葉の意味が分からず、友花さんは首をかしげる。
ええ。息子を神様のように崇拝し、新しい嫁を家政婦扱いするお母様と、欲しいものは何でも手に入らないと気が済まない、わがままな十七歳の娘さんが、漏れなくセットでついてきます。
私はわざとゆっくりと言い聞かせるように続けた。もちろん、お二人の生活費も、娘さんの学費も、これからの贅沢も、全て信吾さんの一億円から支払うことになります。頑張ってくださいね。
私の言葉に、友花さんの笑顔がみるみるうちに凍りついていく。彼女は信吾の方を向き、不安そうに問い詰めた。
信吾さん、どういうことなの? 娘さんがいるなんて、聞いてないわよ。
信吾は慌てた様子で立ち上がり、友花さんの耳元で何かを囁いた。その声は小さくとも、私の耳にははっきりと届いていた。
大丈夫だって。俺には一億円あるんだ。一億。あんな奴らの生活費なんて、どうってことないよ。すぐに静かになるさ。
その言葉を聞いた友花さんは、一瞬で表情を変えた。先ほどまでの不安げな顔はどこへやら、欲に満ちた満面の笑みを浮かべたのである。
そっか、一億円。それなら大丈夫。私、頑張る。信吾さんのためだもん。
金の切れ目が縁の切れ目とは、まさにこのことだろう。彼らの浅ましさに、私は最後の哀れみの気持ちさえ消えていくのを感じた。この二人には、これから訪れるであろう破滅がお似合いである。
私は弁護士に目配せをし、慰謝料の金額が書かれた書類を彼らの前に静かに差し出した。信吾は書類にちらりと目をやっただけで、まるでゴミでも払うかのようにペンを走らせ、サインをした。こうして、私の長く苦しい結婚生活はようやく終わりを告げたのだ。
離婚成立後、私はすぐに社会復帰を果たした。結婚前にキャリアを積んでいた会社はすでに辞めていたが、幸運にも学生時代の友人が手を差し伸べてくれたのである。友人が立ち上げたITベンチャー企業が、私を経理担当として迎えてくれたのだ。結婚と育児で十数年のブランクはあったものの、かつて磨いたスキルは鈍っていなかった。私は水を得た魚のように仕事に没頭し、会社の急成長に貢献することができた。仕事は日に日に充実感を増し、自分の力で未来を切り開く喜びに満ちている。
そして、離婚から一年が経った。私は会社の業績への貢献が認められ、役員待遇という立場になっていた。給料も上がり、都心のタワーマンションで快適な一人暮らしを始めている。あの息の詰まるような毎日が、まるで遠い昔の悪夢のようだ。
そんなある日の夜、マンションのエントランスのインターホンが鳴った。モニターに映っていたのは、変わり果てた娘リカの姿だった。高価なブランド服に身を包んでいた面影はなく、やつれて正気のない目で、彼女はそこに立っている。私がドアを開けると、リカは崩れるようにその場に泣き崩れた。
部屋に招き入れると、リカは堰を切ったように泣きじゃくりながら、この一年で元家族に起きたことを話し始めたのである。
ママ、助けて。もう無理だよ、生活。
彼女の話を総合すると、こうであった。信吾は知人から持ちかけられた「絶対に儲かる」という、いかにも怪しい投資話に飛びついたらしい。そして、一億円の大半を注ぎ込んだ結果、数ヶ月でその全てを失ったという。典型的な投資詐欺だった。パパは「すぐに倍になるから」って言って、おばあちゃんと一緒に毎日ブランド品を買い漁って、お寿司や焼肉を毎日のように食べ歩いて。計画性のない二人は、手元に大金があることをいいことに、後先考えずに散財を繰り返していた。詐欺だと気づいた時には、一億円は跡形もなく消え、多額の借金だけが残っていたのだった。
私、高校もやめさせられた。生活費を稼げって言われて、毎日コンビニと居酒屋のバイトを掛け持ちしてるの。
涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔で、リカは訴える。
友花さんって人も、最初は優しかったけど、お金がなくなったら毎日イライラしてて、私に当たってくるし。おばあちゃんも、私のことを家政婦みたいにこき使うし。もう、あんな家にはいたくない。
リカは床に突っ伏し、私の足にすがりついてきた。
ママ、ごめんなさい。私が全部間違ってた。だから、お願い。もう一度、ママと一緒に暮らしたい。お願いだよ。
過去のリカなら、決して口にしなかったであろう言葉である。しかし、私の心は少しも揺らがなかった。私は冷たく言い放った。
いいえ。あなたを甘やかして、そんなわがままな人間に育てたのは、パパとおばあちゃんでしょ? 私は関係ないわ。
そ、そんなひどいよ。ママ。
ひどい? 本当にひどいのは、これからあなたが一人で生きていく社会よ。お金がなければ、誰も優しくなんてしてくれない。それが現実。ようやくそれを学ぶ機会が来たのよ。
私は泣きじゃくるリカを無理やり立たせ、玄関へと向かわせた。
自分で選んだ道なのだから、自分で何とかしなさい。それが、あなたへの私の最後の情けよ。
私はリカを部屋から追い出し、二度とここへは来ないようにと告げて、静かにドアを閉めた。冷たい母親だと思われるかもしれない。しかし、これが本当の意味でリカのためになると、私は信じていた。
リカを追い返してから、元夫一家の顛末が人づてに私の耳にも入ってくるようになった。愛人だった友花さんは、信吾との再婚後、しばらくは愛子さんによる嫁いびりに耐えていたらしい。しかし、それも信吾の一億円があればこそだったのだろう。大金が借金に変わったと知るや、テーブルに離婚届と安物の指輪を叩きつけ、忽然と姿を消したそうだ。まさに絵に描いたような悪女である。
残された信吾、愛子、リカの三人は、ローンだけが残った家を二束三文で売却した。そして、都心から離れた格安の自己所有物件のアパートに引っ越したと聞いた。そこでの生活は、想像を絶するほど悲惨なものだったようだ。愛子さんは過去にリカにブランド品を買い与えたことを恩に着せ、自分の身の回りの世話を全てリカに強要した。
誰のおかげで今までいい思いができたと思ってるんだい? この恩知らずが。さっさと私の世話をしなさい。
しかし、甘やかされて育ったリカが、そんな生活に耐えられるはずもなかった。ある日、彼女は愛子さんの罵倒に耐えかね、信吾にも何も告げずに家出してしまった。それ以来、彼女の行方は誰も知らない。
しばらくして、私の携帯に見知らぬ番号から電話がかかってきた。それは、かつての傲慢さが嘘のように弱々しく震える、信吾の声だった。
お、おい、あけみか? リカが、リカがお前のところに行ってないか?
私は彼の情けない声を聞いても、何も感情は湧かなかった。
来るわけないでしょう。もし来たとしても、玄関先で追い返すだけよ。もう私には関係のないことだから。
私はそれだけ言うと、一方的に電話を切り、彼の番号を着信拒否に設定した。それが、元夫と交わした最後の会話になった。
娘にまで逃げられた信吾は、日に日に増えていく借金の取立てから逃れるため、ついに動いた。母親である愛子さんさえも置き去りにして、夜逃げ同然に蒸発してしまったのである。自己所有のアパートには、認知症の症状が出始めた愛子さんが、たった一人で取り残されたそうだ。近所では「あの家はやっぱり呪われている」と噂が広まり、愛子さんの孤独な生活をさらに不気味なものにしていると聞く。自ら蒔いた種とはいえ、因果応報という言葉を思わずにはいられない。
一方、私はと言うと、仕事で大きな成功を収めていた。友人の会社で立ち上げた新規事業が大ヒットし、会社に莫大な利益をもたらしたのだ。その功績が認められ、今では次期取締役候補として、周囲からも厚い信頼を寄せられている。自分の力で確固たる地位を築き上げた毎日は、自信と喜びに満ち溢れていった。
プライベートも順風満帆である。タワーマンションのラウンジで知り合った、様々な業界で活躍する友人たちと知的会話を楽しみ、互いに高め合える関係を築いている。長期休暇には昔から夢だったヨーロッパの美術館を巡る旅を満喫し、心から人生を謳歌している。あの地獄のような結婚生活は、もはや遠い過去の出来事である。重い足かせから完全に解放された私は、自らの足で人生を切り開き、誰にも邪魔されることのない自由で輝かしい未来を歩んでいる。
