「最終職は大企業の掃除係か。大出世じゃないか」
三年ぶりに再会して、開口一番の言葉がこれだった。会社の玄関を掃除していた俺の前に現れたのは、かつての同僚だった。
この元同僚は、人のことを小ばかにし、何事においても不誠実な男だったが、それは今も変わっていないらしい。こんなやつにはめられて仕事を辞めるはめになったかと思うと、未だに腹が立つ。
「ほら、俺はお客様なんだからお茶出せよ。あと社長も呼んできて。雑用係り君」
俺が社長を呼びに行くとでも思ったのか。
「ああ、けど雑用係りが社長を呼べるわけないか。雑用係りだもんな」
自分で言ったことに自分で突っ込み、元同僚はゲラゲラと笑う。口を開けば人を馬鹿にする言葉しか吐かないが、俺は気にせずに尋ねた。
「俺に何か用か?」
すると彼は、今まで見たことのないような渋い顔をした。
「はあ? 俺は社長を呼べって言ったんだぞ。掃除のしすぎでいよいよ頭がおかしくなったか」
そう言ってまた楽しそうに笑う。俺が口を開こうとした瞬間、スーツをきっちりと着込んだ男たちがぞろぞろと現れて、声をかけてきた。
俺の名前は原田新一。大学を卒業後、新卒で入社して以来、ずっと大手スーパーで企画メインの仕事をしている。大事な企画といえば、スーパーの仕事の中でも華やかなイメージがあるが、俺は華やかさには興味がない。企画がうまくいけば自分のスーパーが盛り上がり、売上も上がる。俺は自分の企画によって店を盛り上げることに喜びを感じ、日々そのために尽力している。
そんな俺には、同期から一緒に働いている泉という同僚がいた。入社当初から明るい性格や口のうまさから周囲の人に好かれていたが、泉には致命的な悪いところがあった。
今日も泉の悪い癖が出てしまったようだ。
「泉、どこ行くんだ?」
「ちょっとこもりすぎちゃったから、外の空気吸ってくるわ。この前かわいい子がいるカフェ見つけたんだよな」
そう言っていつものように泉はさぼりに行ってしまった。さっきまでずっとスマホをいじってたくせに、そんな疲れるわけないだろう。泉という男は毎日こんな感じだ。出勤こそしてくるものの仕事らしい仕事をしておらず、すぐにサボりに出かける。仕事時間のほとんどをサボりに費やしているような人物だ。
泉は毎日そんな調子だが、持ち前の明るい性格と口のうまさを活用してうまく立ち回っている。あいつの悪い癖を明確に把握しているのは、同僚の俺くらいだろう。それに対して俺は、泉のように口がうまいタイプでもなければ、すごく明るいわけでもないので、よくも悪くも目立つことはない。仕事に対しては熱意を持ってしっかりとやっていると自分では思っている。ただ、俺の場合は仕事をちゃんとやっていても、泉のように上手く上司にアピールすることが現実的にできない。俺は泉の影に隠れている状態で、あまり印象のない社員と上司に思われていることだろう。
それでも俺は、自分の力で成果を出すだけだと毎日自分の仕事を熱心に頑張っている。
俺には以前から時間をかけて温めていた企画案があった。この企画案は自分でもかなりの出来だと自負しており、この企画案が通れば俺の仕事もきっと上司に認めてもらえるだろうとかなり気合いを入れて練っていたのだ。
上司にその企画案を提出しようと思っていたその日、会社に行くと泉と上司が大きな声で楽しそうに会話をしていた。
「泉、この企画案いいじゃないか。俺が見込んだ男なだけあるな」
「ありがとうございます。以前から力を入れて考えていた企画案でして」
そんな会話をしているところに俺が入ってきてしまったようだ。
「おはようございます」
二人を見て挨拶をしたところ、テンション高めの上司が話しかけてきた。
「原田、泉が素晴らしい企画案を作ってきたぞ。お前も見習っていい企画案を出せよ」
そう言って泉の企画案を俺に見せてきた。
この企画は、俺が今まで長い間力を注いで作ってきた企画案だった。俺が考えてきたものとまったく同じものだ。
「あ、あの、俺はこの後取引先に行く予定があるから、後は頼むよ」
上司に真実を伝えようとしたのだが、その前にそう言って行ってしまった。呆然としている俺を見て、泉はニヤニヤと下卑た笑いを浮かべる。
「泉、一体どういうことだよ。この企画案」
俺は今まで頑張ってきた企画案を横取りされたことで強い怒りを感じている。しかし怒っている俺を見ても、泉はずっとニヤニヤしたままだ。
「一体何のことかな?」
明らかに何のことか分かっているであろう表情だ。
「さて、上司さんと企画案の話して疲れちゃったなあ。外で気分転換してくるわ」
俺の質問に対して白を切り通し、いつも通りに泉は外にサボりに行ってしまった。
今までの泉は、ただ上司に取り入るかサボるかで、別に俺に実害はなかったから気にしていなかった。だが今回、泉は俺の大切な企画案を奪って自分の手柄にするという卑劣な行為をしてきたのだ。しかも横取りされた企画は、俺が今までで一番力を注いできたもので、かなり出来の良いものだった。おそらく泉もこの企画案の出来がいいことを理解して、横取りしようと思ったのだろう。
さすがにこんなことをされたら俺も黙ってはいられない。上司は取引先に行ってしまったため、今すぐに抗議することは難しい。しかし、そのままにしておくことはできず、次に上司に会ったら今回の件の事実を告げてしっかりと抗議をしようと心に決めてから仕事に打ち込んだ。
「原田、話があるから来てくれ」
上司に声をかけられたのは翌日の午前中のことだった。俺も話したいことがあった。泉のことを抗議したかった俺は、そう言って上司と一緒に人気のない場所へ移動した。
「泉から相談を受けたのだが」
そう言って上司は話し始めた。
「お前、泉の企画案を横取りしようとしたようじゃないか。それにかなり高圧的でひどい態度を取られていると、泉はすごく悩んでいたぞ」
一つも身に覚えのない話を上司にされて、俺は驚いてしまった。企画案の横取りはもちろん、泉に何かひどい態度を取った記憶だって一切ない。
「いえ、企画案を横取りしたのは泉です。それに高圧的な態度なんて取ったことありません」
俺は事実を伝えたが、上司は不愉快そうに眉を寄せる。
「泉はあんなに仕事熱心なんだ。そんなことするわけないだろう」
上司は泉を普段から信用して可愛がっているため、泉の言い分を100パーセント信用しているようだ。上司は日頃からの泉のサボってばかりの勤務態度を知らない。
「俺は本当にそんなことしていません。それをしているのは泉です」
俺は必死に上司に訴えたものの、まともに取り合ってくれなかった。
「人の企画を横取りしたり、他の社員に対しての非道な態度は許されない。処分を下さないといけない。そんなお前は明日から出勤停止だ。しばらく自宅で謹慎していろ。正式な処分は追って通達する」
異常な上司の言葉に、俺は頭が真っ白になってしまう。何も悪いことをしていないのに俺の言い分は全く認めてもらえないことに絶望すら感じた。もう何を言っても無駄だと思った。
「もういいです。俺、退職させていただきます」
出勤停止の処分が解除されたとしても、この会社にいるとこの先も俺は正当な評価を得ることはできない。俺が本当のことを言ったって、上司に信じてもらえるのは俺ではなく泉なのだということが、今回の件で嫌というほど分かった。それどころか、この先も泉に企画案を横取りされたり嫌がらせを受ける可能性だってある。今回だけでも頑張ってきた仕事を横取りされて辛いのに、この先も同じことが繰り返されるなんて想像したら、俺は耐えることができない。
「そうか。じゃあ今日以降来なくていいよ」
上司は俺を引き止めることなく、俺の退職を受け入れた。俺は会社にとって不必要で、上司にとっては泉の方が必要な存在と思われていることにやりきれなさを感じた。
「俺があいつに一体何をしたって言うんだよ」
上司と別れた後、俺は思わずそう呟いてしまう。これまで俺は会社のために仕事を頑張ってきたのに、楽ばかりしてきた泉の言い分が通ってしまったことが悔しい。
勢いとはいえ退職すると言ってしまい、これからどうしようかと考えながら帰宅していると、そこに泉が現れた。
「何の話だった?」
ニヤニヤしながらそう聞いてきた。
「分かってるだろ? お前、なんであんなことしたんだ?」
「え? 俺が何したって言うんだよ」
ここまで来ても泉はとぼけ続ける。
「もう俺はここを辞めることにしたから。お前、もうこんなことするなよ。いつか自分に帰ってくるぞ」
俺が退職するなんて、泉も思っていなかっただろう。俺が仕事を辞めることに罪悪感を感じるだろうと思ったのだが、甘かった。
「あ、退職なの? 目障りなやつが消えてくれる。ラッキー」
泉はとんでもないことを嘲るように言った。こいつには本当に人の心というものがあるのだろうか。
「お前、自分が何したか分かってるのかよ」
相変わらずふざけた態度の泉に、さすがに怒りが隠せず感情的になってしまった。
「説教とかやめろよ。だるいから」
俺の話なんて全く聞く気がないようだ。もうこんなやつ相手にするのも疲れると思い、嘲る泉をスルーして家に着いた。
そのまま会社を退職した俺は、その後しばらくの間無職で、実家の世話にもなったが、転職先を探し、その結果大手食品メーカーに運良く就職することができた。あの時の泉と上司のことを忘れたことはないが、あの悔しい思いがあったからこそ、次こそは仕事でしっかり結果を出そうと歯を食いしばって頑張り続けたのだった。
そうして前の会社を退職し、三年の月日が流れた。俺はあの事件の後に転職した会社で今も仕事をしているが、今では現在の会社が大好きだ。そんな俺の日課となったのが、玄関前の掃除である。玄関はいわば会社の顔だ。きれいにしておくことでより会社のイメージを美しくアップできるだろうという思いで、日々掃除をしている。
その日もいつものように玄関をしっかり掃除し終え、俺は満足してきれいになった玄関を見ていた。すると、前から見たことのある人物が歩いてきた。
「なんだ、なんだ。そこにいるのは原田じゃないか」
久しく聞いていなかったが、だけど忘れることのできない声。振り向くと、ニヤニヤと笑う泉が立っていた。
「最終職は大企業の掃除係か。大出世じゃないか」
開口一番に人を侮辱するなんていい性格してるな、泉。
「これがエリートだからってひがむなよ。お前が辞めた後も順調に業績残してるんだぜ。俺優秀だから出世もしちゃってさ」
三年経って変わらぬ様子に呆れて言うが、泉はどこ吹く風といった感じだ。自分のキャリアアップの自慢まで、聞いてもいないのにしてくる始末。
「ああ。それでな、俺、今日はここの社長に用があるんだよ」
「そうだったのか」
泉の自慢を何ともないような顔で聞き流していたのだが、彼は俺を馬鹿にしながら命令してきた。
「お客様なんだからお茶出せよ。あ、あと雑用係りなんだから社長も呼んできて」
とにかく俺をバカにするのが楽しいようだ。
「これが社長を呼びにね。ああ、けど雑用係りが社長を呼べるわけないか。雑用係りだもんな」
自分で言ったことに自分で突っ込み、泉はゲラゲラと笑う。口を開けば俺を馬鹿にする言葉しか吐かないが、俺は気にせず泉に聞いた。
「確かに呼びには行けないな。というかその必要もない。俺に用があるみたいだから、話は聞けるよ」
俺は真面目に聞き返したつもりだったのだが、それに泉は眉を寄せた。
「はあ? 俺は社長を呼べって言ったんだぞ。掃除のしすぎでいよいよ頭がおかしくなったか」
泉は完璧に俺を掃除係だと思い込んでおり、俺の言葉を理解する気がないようだ。
「いや、だから俺が」
俺がもう一度きちんと説明しようとしたのだが、途中で俺に声をかけてくる人物がいた。
「社長、来客のお時間です」
そう言ってスーツをビシッと決めた秘書数名が俺の元に来た。俺は「分かった」と軽く返事をするが、隣の泉は目を白黒させている。
「はあ? お前、掃除係りだろ? 社長なんて嘘だろ?」
秘書たちが来たことで、完全に俺を掃除係だと認識していた泉はパニックになってしまったようだ。だが、秘書の言う通り俺がここの社長で間違いはない。
実は俺は、前の会社で働いていた時に今働いている会社が取引先だったため、何度も仕事をしたことがあった。そんな中で、当時は取引先の社長だった全社長とも親交を持つようになったのだが、俺の真面目な仕事ぶりと仕事に対する真摯な姿勢を高く評価してくれていた。前の会社を勢いで退職してしまった後、転職先を探していた俺に「是非」と声をかけてくれたのも全社長だ。俺は前の会社での仕事ぶりを認められ、就職後は企画をする部署で責任者として働かせてもらうことができた。俺は全社長の期待に答えるべく、前の会社の時以上に仕事へ打ち込み、必死に結果を出し続け、それを全社長はしっかりと評価してくれた。もちろん仕事をしていれば大変なことや辛いこともあったが、周囲がサポートしてくれ、全社長がしっかりと成果を認めてくれたため、頑張り続けることができたのだ。
懸命に仕事をして三年ほどが経った先日、社長が退任して会長となったのだが、その際に後任は俺だと全社長が自ら指名してくれたのだった。
「俺はここの会社に転職して働いてきて、つい最近前の社長から次期社長にと指名されたんだ」
混乱している泉に、自分が社長になった経緯を簡単に伝えてみた。
「は、お前が社長? 本当に頭がおかしくなったのか? お前がこんな大きな企業の社長なんてあるわけないだろう」
泉は俺を指さして怒鳴り散らしてきた。予想外の事実に頭が追いつかない上に、陥れた俺が社長という事実を認めたくなくて感情的になってしまったようだ。いつもヘラヘラしているかニヤニヤしながら人を馬鹿にする泉しか見たことがない。俺は少し驚いた。
「お前が何と言おうと、俺が社長という事実は変わらない」
「お前みたいな地味な仕事ばっかりやってるようなやつが、大企業の社長になれるわけあるか」
俺は冷静に言い返すが、泉の興奮は収まらない。そんな泉を見て、先ほど来た秘書たちが黙っていられなかったようだ。
「さすがにいきなりそんな言動は失礼ではないでしょうか。この方は本当に社長です。そのような言動はすぐに謝罪すべきだと思います」
自分の会社の社長を目の前で侮辱されたことで、秘書たちも腹が立ったらしく泉に詰め寄った。そんな秘書たちをなだめて、俺は泉に告げる。
「これから本来はお前と商談する予定だったんだ。だがその予定はキャンセルするよ。お前の会社じゃなく他の会社と商談することにする」
元々前の職場と商談する予定が入っており、泉が来るというのも予想がついていた。俺は別に最初から泉に対する恨みで商談をなかったことにしようというつもりはなかった。確かに当時泉が俺にした仕打ちは忘れることはできないが、それがあったからこそ今があるとも俺は思っている。なので企画案のトラブルの後で泉がいい方向に変わってくれていたら、真面目に商談をしようと思っていた。
しかし泉は、俺から仕事を横取りした時と何一つ変わっていない。むしろ昇進し変に自信がついたことで、昔よりも傲慢さが増している。
「別に俺はお前を恨んで商談をなしにしているわけではない。しかし、お前のように人を馬鹿にするやつとは仕事したいとは思えないんだよ」
本来ならば、泉がいる大手スーパーと組むことで新しい商品を展開に有利にアピールするという計画だった。だが、たった今予定変更を決めた。ありがたいことにうちの会社は取引先には困っていない。別に泉のスーパーでなければいけない理由などないのだ。実は他のところからも元々話はもらっていた。
俺が泉のスーパーとの取引をなしにするという発言をしたところで、さすがの泉も焦り出したようだ。
「だ、悪かった。商談がキャンセルされると俺の立場が危ないんだ。許してくれ」
ここでようやく泉は俺に謝罪をしてきたが、泉が謝罪をした理由は俺に対して悪いと思ったからではない。俺が社長という立場であることと、商談がキャンセルされると自分の立場が悪くなるためだ。
「泉、お前はあの時と全然変わってないんだな。最初から最後まで自分のことしか考えてないじゃないか」
泉という人間は、結局自分が甘い蜜を吸うことしか考えていないのだ。泉の謝罪の理由は内容からも自分の立場の心配しか考えておらず、薄っぺらい謝罪に過ぎない。俺に対しての発言がひどいものという認識はそこまで持っていないだろう。
どうにか俺に許しを乞おうとする泉を、秘書たちが追い返した。俺は間違ったことをしたとは思っていない。泉は変わっていなかったということは、仕事ぶりも昔と変わっていないのだろう。昔から泉がまともに仕事をしている姿なんか見たことがなかった。一緒に仕事をしたとしても、泉自身はまともな仕事をしてくれないことが容易に分かってしまう。そんなやつに仕事を任せたくないのだ。
さすがにうちの会社と取引ができないのはまずいと思ったのだろう。翌日、俺の元へ前の職場の上司が謝罪にやってきた。上司は当時よりも出世しており、今では専務なのだそうだ。俺の元へ訪れた上司は、信じられない言葉を口にする。
「この度は泉が失礼しました。しかし泉と原田さんは同僚だったじゃないですか。どうにか元同僚のよしみで、私の顔に免じて今回は商談してもらえないでしょうか?」
現在俺が社長であることから、上司は言葉遣いは丁寧だが言っていることはめちゃくちゃだ。確かに俺と泉は同僚だったが、泉は俺を陥れたし、上司は俺の言葉を全く聞いてくれなかった。それなのに誠意のこもっていない謝罪で許して商談してくれというのは、あまりにも筋が通らない言い分だ。専務ともあろう人間がそんな謝罪で許されると思っているのかと思ったら、さすがに俺もはっきり言わねばならない。
「残念ですが、今回そちらと取引をする気はありません。泉とあなたが三年前に俺にしたことを覚えていらっしゃいますか? あの時泉は、俺が頑張って練ってきた企画案を横取りしました」
俺の問いかけに、上司は何も言えないようだ。
「あなたも泉の話だけを信じ、事実確認をせずに俺を処分しようとしました。過ちを犯した社員に対して正しい処分もできないような会社と取引をするというのは、私はできません」
俺はようやく、三年前に言えなかったことを全て吐き出せたような気がした。晴れ晴れとした気持ちの俺と対照的に、上司は非常に慌てている。
「本当に困ります。御社との取引がなくなってしまえば、スーパーとしてこの先やっていくことができません。取引を続けていただけるなら何でもします」
「まずは、許されないことをした者に対する適切な処分をしてから謝罪に来てください」
慌てた上司は何度も頭を下げ、泉を直ちに処分するために会社へと帰っていった。
上司は泉に処分を下すべく、この後すぐに社内調査が行われたようだ。その調査の結果、泉は俺だけではなく、他の人の仕事を何度も横取りしてきたことがあったらしい。泉に手柄を横取りされたのは俺だけではなかったのだ。
「本当に救えないやつだな」
その報告を聞いて、俺は思わずそう口に出してしまった。確かに一緒に仕事をしていた時に、泉が真面目に仕事をした姿なんて見たことがない。しかし泉は上司にいつも褒められていたので、疑問に思っていたのだ。きっと俺の仕事を横取りする前も、俺が退職した後も、いろんな人間の手柄をうまいこと横取りして成功してきたのだろう。
数々の泉の卑劣な行為が発覚した前の職場では、泉をそのまま働かせるということはできず、泉は子会社の地方営業所へ左遷になったと、再び謝罪に来た上司から聞いた。自分はサボってばかりで全く仕事をせず、人の仕事を奪ってきたのだから、泉は自業自得だろう。おまけに子会社でも、泉がした行為は周りの人に知られているということで、肩身の狭い思いをしながら仕事をしているらしい。それに泉の過去の悪事がバレているため、周りが目を光らせており、人の手柄を横取りするなんてこともできないだろう。
昔は同期として同じ会社で仕事をしていた俺たちだが、俺は社長になり、泉は左遷された。すっかり立場は対照的になってしまった。これだけ俺らに違いが出たのは、仕事に対する姿勢が大きいだろう。いくら泉の口がうまく上に取り入るのがうまくても、ずっとサボり続けて仕事がうまくいくわけなどないのだ。俺は前の職場を退職した後も、自分を認めて支えてくれる人がいたからこそ真面目に頑張ってきた。その結果、俺は成果が認められて会社の社長という地位にもつけた。頑張っていれば、ちゃんとそれを認めてくれる人はちゃんといるのだ。
俺は社長という立場になったが、今後も泉を反面教師に怠けずに、会社のために仕事を頑張っていこうと思う。
「どう考えても高すぎるだろう。これから卸値は半額に下げろ」
大手回転寿司チェーンとの契約更新の席で、新任の担当者がめちゃくちゃな要求をしてきた。
「俺は社長の息子だぞ。次期社長の俺には逆らわない方が身のためだと思うけどね」
そんな脅し文句でこちらの足元を見てくる。一家で養殖漁業を始め、まだまだ生活が苦しかった頃から取引をしてくれた相手なので、これまで安価で卸していたのだが、それに対する感謝の気持ちは微塵もないらしい。
「そこまでおっしゃるのでしたら、契約は打ち切りでいいです」
俺はこれ幸いと契約打ち切りを宣言する。下請けの強がりと侮る彼だったが、後日、思わぬ展開に慌てふためくことになったのだった。
俺の名前は織田桐。両親と共に養殖業を営んでいる。今はまだ父の元で修行中の身だが、近い将来にはその後を継ぐつもりだ。
養殖は天候や海水温、魚の動きなどに左右されず、安定した量と一定以上の質を確保できる。だがその代わり、正に人一倍手間がかかり気の抜けない仕事でもあった。養殖を始めたのは祖父で、そしてその後を継ぎ、父が安定した出荷先を確保し軌道に乗せた。周囲にはうちの跡を追って養殖に取り組み始めた家もあり、そのため小田切家は地域のまとめ役のようなこともなっている。
だが最近は父も高齢で体が重く、思うように動かないらしく、俺が中心となって仕事をすることも増えてきていた。父の体が動くうちに、一つでも多くのことを学んでおきたいと、俺は毎日目の前の仕事に誠実に向き合っている。
「そろそろ契約更新の時期だな」
「ああ、そうだね。もうそんな時期か」
壁にかけられたカレンダーを眺め呟いた父の隣に並んで、頷く。取引先の一つである大手回転寿司チェーンとの契約の更新時期が近づいていた。チェーンははっきり言って単価が安く、大きな儲けにはならない。だが同時に、必ず一定量を仕入れてくれる大口の取引先でもある。近隣の漁家の多くもそのチェーンと契約を交わしていた。
俺としてはできれば卸値を上げてもらいたいと思っている。だがそのチェーンは、まだうちの養殖の仕事が安定する前に父が売り込みをかけて開拓した取引先の一つだった。まずはうちの育てた魚の良さをより多くの人に知ってもらいたいという父の願いから契約を交わしたことを、もちろん息子の俺も知っている。だから卸値に関して、俺は父に何も言ったことはない。
さて、契約の更新のためにはチェーンの本社に赴かなくてはいけないのだが、本社はうちから結構な遠距離に位置している。遠出が辛くなっている父の姿を知っているだけにどうするかと思っていた矢先、唐突に父から俺は代行を頼まれたのだった。
「向こうの担当者にはお前もあったことがあるだろう。あの人ならそんな無茶なことは言ってこないと思う。それにこういうことも大事な仕事のうちだからな」
確かにこちらを訪れる会社の担当者は気のいい人で、俺は何度か顔を合わせ、世間話程度の会話も交わしたことはあった。契約の更新という場に当事者として立ち合ったことはないが、いずれ後を継ぐのなら、父の言葉通りこういうことにも慣れていかなければならない。
「そうだよな。分かった。俺が代わりに行ってくるよ」
「頼んだぞ」
顔をほころばせて背中を押してくれた父だったが、さすがに俺一人で行かせるのはどうかと思ったらしく、今回は母も同行してくれることとなった。
そして俺と母は、車で二時間ほどの距離にあるチェーンの本社へと向かった。
「遅いわね」
通された応接室で母はそう言って、手持ちぶさたな様子で目の前のお茶を手に取る。俺も無言で頷いて湯のみに手を伸ばすが、三十分前に出されたそれはもうすっかり冷めてしまっていた。約束の時間は事前に伝えてあったはずだが、何かあったのだろうか。母と言葉少なに待ち続けることさらに十分。ようやく応接室に人が入ってくる。だが現れたのはいつもの担当者ではなく、となく顔つきから強かさが伝わってくるような初対面の男性だった。
「へえ。御社が織田さん」
そう言って男は時間に遅れたことを謝りもせず、じろじろと品定めするような視線を俺たちに送ってくる。
「俺は若山。はい。これ名刺」
さらに彼は何とも適当な感じで名乗り、また取り出した名刺もいかにも面倒くさそうな手つきでテーブルに投げ出すものだから、俺は思わず母と顔を見合わせてしまった。母が首をかしげながら口を開く。
「あの、いつもの担当の方は」
すると若山さんは母を小ばかにしたように一瞥し、肩をすくめた。
「ああ、そうか。御社は知らなかったか。最近担当が俺に変わったんですよ。これでも俺、食材仕入れの責任者なもんだから、もうこれが忙しくて。仕事ができると周りに頼られて大変なんだよね」
聞かれてもいないことを自慢げにひとしきり語ると、若山さんは持っていた書類を取り出し、俺たちの目の前にそれを投げつけた。
「だ。オタクとの契約更新の件だけど」
じろっと彼が俺たちを睨みつける。その乱暴な言動に俺たちが驚くのを面白がるように、若山さんは得意げな自身の口元をきりきりと釣り上げて、高圧的に口を開く。
「今までのオタクとの契約を確認したけど、こんなのどう考えても高すぎるだろう。信じられないよ、こんな取引が今までまかり通ってたなんて」
大げさに呆れ顔を作ってそう言った彼は、俺たちをさらに怖い顔で睨みながら続けた。
「いいか。今回の契約からは卸値は今の半額にするからな」
「半額? そんなむちゃくちゃな」
そんなむちゃくちゃなことを言い出した相手に、俺は呆然としてしまう。横では母がすっかり言葉をなくした様子で固まっていた。
「ちょっと待ってください。いきなりそんなこと。そもそも養殖は相当以上に手間がかかるんです。現時点でも卸値ギリギリの契約です。それに魚の質も、来社の方もご存じの通りなんですが」
だが俺の言い分は、若山さんの一言によってけなげに断ち切られる。
「それを言うなら、オタクも知っての通りうちは大手のチェーンなわけ。海外にも何件も店舗を出しているし、その分知名度もあるから、うちと契約したいって取引先は引きも切らないんだよ」
言いながらバーンと机を叩かれ、横に座る母がその音にびっくりと肩を揺らす。そういう態度に俺はすっかり反感を持ったが、相手はそれに気づいていないのか、それとも気づいていてもわざとそうしているのか、こちらの様子には構わず自身の意見をとうとうと語り続けている。
「それをうちの社長がオタクの魚を気に入っているからって、そのたった一点だけ でオタクとは契約を続けているんだよ。このこと、御社は分かってないみたいだけどね」
そう言って若山さんは再び大きなため息をつき、言い放った。
「とにかく、今までの価格では契約続行しないから」
それと不意に彼はにやりと口元を釣り上げ、俺を見据えてくる。
「とさ、実は俺、社長の息子なんだよね。いずれこの会社も俺のものってわけだからさ」
そうして若山さんはずいっと俺に顔を近づけ、声を潜めながら言った。
「俺に逆らわない方が身のためだと思うよ。何たって俺、未来の社長なんだし。御社みたいな相手なんか一捻りで潰せるんだからさ。ああ、誤解しないでくれよ。これは親切で言ってるんだ」
俺は思わずぎりっと自身の唇を噛んだ。何が親切だ。こんなの脅し以外の何者でもないじゃないか。俺は悔しさで胸が潰れそうだった。横で黙っている母は、今にも倒れそうな青ざめた顔で何かを必死に耐えるようにして、その手をぎゅっと握りしめている。俺の視線に気づき、母が痛々しいほどに強張った笑顔を向けてきた。母だって父と一緒に家業を大きくするために頑張ってきた身だ。言いたいことはいっぱいあるのだろう。だが、ここで自分が何か言えば息子の邪魔になるのではないかと、そう気を回して黙っているに違いなかった。
母の様子、また共に切磋琢磨してくれている近隣の漁家より、俺を信じて自身の代わりにと送り出してくれた父の顔が順に思い浮かび、俺はぐっと腹に力を入れた。
「そこまでおっしゃるのでしたら、契約は打ち切りでいいです」
俺の言葉に、母が戸惑うように顔を上げた。てっきり俺たちが折れるとばかり思っていたのか、こちらの返事に驚いていたのは若山さんも同じだった。だがそれもつかの間、彼は底意地の悪い顔で思い切り頬を歪ませる。
「おいおい、御社、路頭に迷うことになるぞ」
相手の強がっている様子が楽しくて仕方ないとばかり、若山さんはニヤニヤと笑っている。結局彼はこちらを対等な取引相手としては見ていないということが、その表情からも伝わってくる。そんな相手には、これ以上何を言っても無駄だ。俺は無言で立ち上がると、母の手を引きその場を後にしたのだった。
その後俺たちは家に戻り、待っていた父にことの顛末を隠さず話した。
「せっかく父さんが開拓した取引先、勝手に契約を切ってごめん」
あの場で相手に従わなかったことに後悔はないが、それでも俺が父の得たものを自ら手放してしまったのは事実だ。だが頭を下げる俺の肩を、父はなだめるように軽く叩いていった。
「いいんだよ。うちの後を継ぐお前が決めたことだ。わしはお前の選択を尊重する」
「父さん……」
母がうすら涙でうんと頷いている。そんな二人を目の前にして、俺はこれから自身の仕事へより一層一生懸命取り組んでいこうと決意したのだった。
さて、それから数ヶ月が経ったある日のこと。すっかり縁が切れたとばかり思っていた例の回転寿司チェーンから、若山さんともう一人、執行役員の男性が突然我が家を尋ねてきたのである。ちなみに執行役員の男性は村井さんと言って、これまでうちの仕入れ担当だった人物だ。きっちりスーツを着込みながらも見るからに顔色の悪い二人に戸惑いながら、とりあえず家の中へと入れてもらう。
すると玄関に足を踏み入れるや、うちの担当でもあった村井さんが俺たち家族に頭を下げてきたのだ。
「織田さんたちには本当に迷惑をかけてしまった。特に桐君には弊社の若山が随分と失礼な口を聞いたそうで。すまなかった」
深々と謝罪する彼の横では、あの時の意地の悪さと勢いはどこへやら、青ざめた顔をしてすっかり大人しくなった若山さんが、小刻みに震えながら同じように頭を下げている。
話を聞くと、先の契約更新での若山さんのめちゃくちゃな要求は、社長である父に自分を認めさせるための実績作りとして、彼が勝手に行ったことだという。社長は現在持病の悪化で入院しているため直接謝罪には来られなかったが、うちとの契約が打ち切りとなりそれをとても気にしているとのこと。また、うちさえ良ければ再度契約を交わして欲しいとのことだった。必死でどうにかならないかと懇願する村井さん。
俺は困惑し、ちらっと父を見やる。すると父は「お前の好きなようにしろ」とばかりにゆっくりと頷いてくれた。だから俺は一つ深呼吸をして、それから彼らに言い聞かせるように口を開く。
「申し訳ありませんが、それはできません。あれからうちも新たな契約先を見つけまして、そちらへ優先的に魚を卸すこととなりました。ですから、あなたたちと再契約する理由も、供給する魚もうちにはないんです」
これは嘘ではない。実は俺たちの元には、かねてより彼らのライバル会社からの取引の誘いがあったのだ。それでも父の代からの付き合いだからと、今までは優先的に彼らの会社との取引を続けていた。だがこんなことになり、付き合いを通す義理もなくなったため、俺たちはそちらの会社と新たに契約を結んだのである。それも、なんと取引額は今までの三倍。こんなにもらってもいいのかと驚愕してしまった俺たちに、「この魚の質であればこれくらいが適正価格ですよ」と担当者は太鼓判を押してくれ、今後の取引次第ではその都度価格を上乗せするとまで約束された。
だがその時、俺の意思が硬いと見たのか、若山さんが突如その場で土下座をしたのである。
「え、ちょっと若山さん」
慌てて頭を上げさせようとする俺の手を片手で振り払い、彼は懇願と訴え始める。
「あの後、こちらの地域一体の漁家から弊社は一斉に契約を切られました。今は別の仕入れ先を頼っていますが、質が落ちたとの悪評が広がるばかりで、どうかこの通り助けてくれませんか?」
俺はとうとう困り果てて、がりがりと自身の頭を掻く。そう、彼の言ったこともまた事実である。小田切家は昔から地域のまとめ役でもあったため、近隣の漁家も小田切家の動向に習って契約の内容を決めることが多かった。そして俺と母が受けた仕打ちについては、またたく間に近隣へと広まることになったのである。結果、怒った彼らはこぞって取引先をライバル会社へと乗り換えることとなった。
実は俺は、父の後を継ぐと決めた際、小田切家が地域のまとめ役であるという意味を父からよくよく言い含められていたのだ。小田切家の選択は個人の家の問題ではとどまらなくなる。だから小田切家の人間は、取引先となる相手のことをよく見定めなければいけないのだと。そうして俺は、あの一件で自身が馬鹿にされたこと以上に、今まで祖父を始め地域一体の漁家たちと会社が築き上げてきたはずの信頼関係が、残念ながら崩れてしまったとそう判断した。
「先に俺たちの信頼を裏切ったのはそちらでしょう。残念ですが、そちらと再契約を結ぶことは今後もありませんので」
俺の言葉に、土下座をしている若山さんがその身を地面に擦りつけるようにしながら叫ぶ。
「そこを、そこをなんとかとこうして頼んでいるんだ。何だ? 卸値か? 分かった。今度からはそっちのいい値でなんとかしよう。だからどうか、どうか」
玄関先に涙に濡れた彼のかれ声が響いた。その姿に哀れみを覚えないではなかったけれど、それでも俺は一時の感情で大事な契約をなおざりにするつもりはなかった。そもそもこうなる原因を作ったのは若山さんの方だ。彼の傲慢さと浅はかさが今回の件を招いたのである。それに、彼らの会社には大切に育てた魚を今まで随分と買い叩かれていたのだという、その悔しさもあった。もちろん今まで俺たちがそのことに対して何も言わなかったことも悪いと思う。だが、差し出された信頼や誠実に同じ立場で返そうとしない相手には、それ相応の罰が必要だろう。
俺は若山さんに立つように促し、それからきっぱりと言い返す。
「これ以上のお話は、お互いに時間の無駄です。お引き取りください」
静かだけれど決然とした俺の態度に、先に観念したのは村井さんの方だった。彼は無言で今一度俺たちへ頭を下げると、取り乱す若山さんを連れて自分たちの車へと戻っていったのである。
それからしばらくして、あれから俺は仲間の漁家から、若山さんが今回の責任を取らされて諭旨解雇処分を受けたことを聞いた。それも、会社からはその身勝手な行いで莫大な損害を与えたとして、損害賠償を請求されているらしい。またチェーン自体も、食材の質の低下により業績不振が続いているという。
一方、俺はといえば、この度正式に父から家業を受け継ぎ、現場の第一線で活躍することとなった。これからますます気が抜けないが、それでも目の前の仕事にはいつだって誠実に向き合っていたいと、俺は一層気を引き締めるのであった。
