高級イタリアンの個室に、ふんわりとトリュフの香りが漂っていた。季節の花が活けられたテーブルには銀の食器が並び、ママ友たちの前には前菜の美しい皿が次々と置かれていく。エビのカルパッチョは透き通るほど薄くスライスされ、彩り豊かな野菜のピューレが宝石のように皿を飾っている。
私の前にも、最後にウェイターが皿を置いた。だが、そこに広がっていたのは、ただの濃い緑色の野菜が一本だけ。塩も胡椒も何もかかっていない、生のゴーヤだった。
「どうやら、特別メニューらしいわ」
思わず声が漏れた。白い高級な皿の上で、そのゴーヤは異様に浮かび上がっている。一瞬の沈黙の後、周囲からざわめきが起こった。
「あら、あみさんがゴーヤ苦手だって言ってたでしょ。だから特別に用意したのよ」
満面の笑みを浮かべているのは、ママ友グループのボス、矢島ゆあさん。彼女は先日のお茶会で私が何気なく漏らした言葉を、しっかりと記憶していたのだ。
「でも、これはちょっと……」
一人のママ友が小さく抗議すると、ゆあさんの視線が鋭くその方を刺した。
「何か問題でも?」
その瞬間、空気が凍りついた。周囲のママたちは恐怖と無力感に支配され、誰も言葉を発することができない。すると次の瞬間、バチンという鋭い音が室内に響いた。ゆあさんは、反対意見を述べたママ友の頬を、平手打ちにしていたのだ。
「黲りなさい。私のパパは総流会のボスよ。あなたたちに何ができるっていうの?」
部屋の温度が一気に下がった。総流会。誰もが知っている暴力団の名前だった。彼女がなぜここまで傍若無人に振る舞えるのか、なぜ誰も逆らえないのか、すべてが納得できた。店員たちも恐怖と諦めの表情を浮かべたまま、固まっている。
私は背筋を伸ばし、表情を平静に保ったままゆっくりと立ち上がった。心臓は早鐘を打っていたが、それを外に漏らすまいと必死だった。
「失礼します」
冷静に一礼して、席を離れようとした。
「腰抜け。逃げるの?」
ゆあさんの声には怒りが満ちていた。彼女は素早く席を立ち、私の腕を強く掴んだ。爪が食い込むほどの痛みが走る。
「食べなさいよ。特別に用意したんだから」
彼女は無理やりゴーヤを私の口元に押し付けた。その動きは予想以上に乱暴で、私は反射的に口を開けてしまう。口の中に入ったゴーヤの強い苦みが、吐き気を催すほどに広がった。しかし私は表情を変えなかった。感情を表に出すことは、彼女に勝利を与えることになる。
ゆっくりとハンドバッグを取り、ゆあさんの手を振り払う。口の中のゴーヤを白いナプキンに静かに吐き出し、丁寧に折りたたんだ。
「皆さん、お元気で」
背筋を伸ばしたまま、私は部屋を出た。背後からゆあさんの怒声が聞こえる。
「あみさん戻りなさい! 話はまだ終わってないわよ!」
その声は、エレベーターに乗った途端に消えた。
外の空気が異常に冷たく感じられた。春の陽気だというのに、体が震えている。それは怒りと屈辱から来る震えだった。家までの道のりは記憶にない。気づいたら玄関のドアの前に立っていた。
鍵を開け、靴を脱ぎ、洗面所に直行する。何度もうがいを繰り返し、歯を磨いても、苦みは舌の上に残り続けた。それは単なる味覚ではなく、心に刻まれた屈辱の記憶だった。鏡に映る自分の顔には、普段の穏やかな主婦の表情ではなく、別の何かが浮かんでいる。決意、そして復讐心。
あの女、許せない。
私は心の中で硬く誓った。ゆあさんが何者かは分かった。総流会のボスの娘。しかし、彼女は私のことを何も知らない。私が何を隠して生きてきたのかを。
私の名前は藤村あ美。三十七歳。表向きは普通の主婦だが、裏では違った一面を持っている。夫の信治と、中学二年生の娘であるみ咲との平穏な日々を何よりも大切にしながら、二つの顔を使い分けてきた。ご近所さんにも料理上手と言ってもらえるほどで、さらにPTAや子供会の活動にも積極的に参加する模範的な主婦。それが私の表の顔だ。
私の本当の職業を知るものは、家族以外にほとんどいない。信治は家では穏やかで優しい夫であり、良き父親。けれど一歩外に出れば、誰もが名を聞いただけで震える存在だった。そんな彼と出会って十五年。今では私もレディ組長として組員たちを束ねる立場にある。組事務所に足を踏み入れると、黒服の部下たちが一斉に頭を下げる。漆黒の着物に身を包み、足音を響かせて廊下を歩く私。感情を表に出さず、常に冷静沈着。どんな修羅場でも一歩も引かず、組員たちの信頼を得てきた。
そんな私の平和な日常に影を落とす存在が、矢島ゆあさんだった。彼女は半年前、私たちの住む高級住宅街に引っ越してきた。夫は地元の企業の役員で、ゆあさんの息子の達也君は娘のみ咲と同級生。一見すると普通の家庭に見えたが、ゆあさんは初対面の挨拶から鼻につく女だった。
「私の父は関西の組織で有名な人なの。何かあったら言ってね」
そう自己紹介した彼女の目は、相手を値踏みするような冷たさを宿していた。すぐに彼女を中心とした新しいママ友グループが形成され、私もその輪に半ば強制的に組み込まれていった。
「あみさんのケーキ、しっかりしてて食べ応えあるわね。手作りってやっぱり素朴な感じがするのね」
「これと今日の服、すごく個性的ね。もしかしてお得に見つけたのかしら。ちょっとレトロ感あるわ」
集まりのたびに、さりげなく繰り出される嫌み。他のママたちは苦笑いするだけで、誰もかばってくれない。私の誇りが傷つけられる瞬間だったが、表の顔を守るため、私はただ微笑むしかできなかった。
「あみさん、明日のママ友ランチ会いらしてね。明日は素敵なイタリアンよ。みんなで予約したの」
電話の向こうで、ゆあさんの高圧的な声が響く。彼女はいつもこうして周囲を支配し、特に私をターゲットにしていた。過去の集まりでも、先月の爽会では私の手作りケーキの味を「スーパー以下だ」と言い捨てた。子供の運動会では、転んだ娘のことを笑った。
「あみ美さんの娘さん、運動神経悪いのね」
こんな侮辱を受けても、私は常に冷静さを保ち、穏やかな笑顔を浮かべてきた。他のママたちは彼女の父親の肩書きを恐れ、黙って従うばかり。誰も逆らえない状況が続いていた。
夕食時、帰宅した夫の信治が私の様子を心配そうに見つめた。
「お帰り。大丈夫か? 何か思い詰めた顔してるよ」
信治は私の二つの顔を理解し、常に支えてくれる存在だ。
「またゆあさんからお誘いが来たの」
お箸を置きながら、私は静かに呟いた。
「無理していかなくてもいいんじゃないか」
彼の目には心配の色が浮かんでいた。私の本当の力を知る彼だからこそ、私がどれだけ我慢しているかを理解している。
「他のママ友たちとの関係もあるし、行くわよ」
私はそっと微笑みながら言葉をかけた。信治は何も言わずに静かに頷いた。その仕草からは、確かな信頼が伝わってくる。彼は私がどんな状況に置かれても、最適な判断ができることを知っているのだ。
「ママ、明日のランチ会、達也君も来るの?」
み咲が不安そうな顔で尋ねた。ゆあさんの息子の達也君は学校でも問題児として知られ、み咲も何度か嫌な思いをさせられたようだ。
「大丈夫よ。ママ友だけの会だから」
私は娘の頭を優しくなでた。み咲の学校生活に影響が出ないよう、この問題は早く解決しなければならない。
そして迎えた当日。私はいつも通りの華やかさは控えめな服装で、指定されたイタリアンレストランに向かった。高級住宅街に近いこの町で、一番格式高いとされる店だ。
「あら、あみさん来たのね」
店内に入ると、すでに到着していたゆあさんが上から目線で私を見た。彼女の周りには五人ほどのママ友たちが座っていて、皆緊張した面持ちで私に申し訳なさそうな目を向けている。何かが起きる。その予感が私の背筋を走った。普段の私ならこんな場所には足を踏み入れない。危険を察知する能力は、組長として生きてきた私の本能だ。しかし今日は、穏やかな主婦のふりをして、ゆあさんの罠にあえて飛び込むつもりだった。
あの日の屈辱から、私は決意を固めていた。翌日、私は藤村会の本部にゆあさんを呼び出した。
「留瀬さんと名乗る方がいらっしゃいました」
部下の葛西から伝えられる。ゆあさんは不安そうな顔で入ってきた。高級な和室に通された彼女は、異様な雰囲気に戸惑っている様子だった。そこには総流会の幹部たちも集まっていた。彼らの顔には緊張感が走る。藤村会の本部に呼び出されることの意味を、彼らは理解しているからだ。
「お久しぶり、ゆあさん」
私は清掃した姿で現れた。黒い着物に家紋の入った羽織りを身につけ、髪は丁寧に結い上げている。昨日までの主婦の姿はどこにもない。
「え、あみさん……なぜあなたが?」
彼女の目は信じられないものを見るように見開かれている。
「紹介するわ。私は藤村会レディ組長の藤村あ美。あなたのお父様や総会の皆さんは、うちの組織に頭を下げている関係よ」
ゆあさんの顔から血の気が引いていく。総流会の幹部たちは一斉に深く頭を下げた。
私は静かに口を開いた。
「昨日はご馳走様。特にあなたが無理やり食べさせてくれたゴーヤ。なかなか忘れられない味だったわ」
私の声は穏やかだが、その場の空気が一気に張り詰める。ゆあさんの横で、総流会の幹部たちは硬い表情で彼女を睨んでいた。
「あなたの父親も幹部たちも、私には頭を下げている。つまり、あなたは誰にも守られていないってこと」
その言葉に、ゆあさんの顔からさらに血の気が引いていく。私の怒りを買ったことを知ったゆあさんの父親、そして敵対組織の上層部までもが、一斉に彼女にけじめをつけるよう詰め寄った。
「あなたが何をしたのか、話してもらおうかしら」
私の一言で、ゆあさんは震え始めた。
「申し訳ありません」
彼女は土下座を始めた。彼女の父親も同じように床に頭をつける。さらに、彼女がママ友に立て替えさせているガソリン代や電気代も、返済しないままになっていることが発覚した。
「そうね」
私はテーブルの上に資料を広げる。明細書や、彼女がママ友たちから巻き上げた金額の記録が並べられている。
「迷惑料や慰謝料も含めて、総額で一億円。支払うか、それとも……」
私はテーブルに小さな箱を置いた。箱を開けると、中には刃物と白い布が用意されている。ゆあさんは青ざめた顔で震えている。彼女の父親も冷や汗を流している。
「この箱が何を意味するか、理解していると思うわ」
私はゆっくりと箱を閉じた。その瞬間、ゆあさんの父親が額を床につけたまま震える声で懇願した。
「どうかお許しを。私は何も知らなかったのです。知らなかった……」
「あなたの娘さんは、自分の父親が総会の人間だと言って周囲を威圧していたのよ。それも知らなかったと?」
私は冷たく笑った。部屋の空気が凍りつく。
「ママ友たちから巻き上げた金、嫌がらせの慰謝料、そして昨日の屈辱に対する代償。合わせて一億円、三日以内に用意しなさい」
ゆあさんと父親は、顔を上げることさえできず、ただひたすら許しを乞う。支払いが滞れば、指一本では済まないだろう。総流会の幹部たちも黙って頭を下げている。彼らにとって、藤村会との関係は絶対に壊せないものだった。部下の一人が膝まずいたまま、ゆあさんに書類を差し出す。そこには詳細な返済計画が記されていた。
「一週間後、私が特別なママ友会を開くわ。そこであなたに支払ってもらうことにする」
私は立ち上がり、羽織りの袖を軽く払った。
「もし支払えないようなら、別の方法で返済してもらうことになるわ」
ゆあさんが顔を上げた。その目には恐怖と混乱が浮かんでいる。
「別の方法……」
「ええ、遠い海の向こうで働いてもらうことになるわ。あなたにも稼ぐ才能があるはずよ」
私の言葉の意味を理解したゆあさんの顔から、また血の気が引いていった。
一週間後、私が手配した高級料亭の一室に、かつてゆあさんに被害を受けたママ友たちが集められていた。彼女たちの表情には不安と緊張が滲んでいる。
「皆さん、今日はお集まりいただきありがとう」
私はあくまで穏やかな笑顔を見せた。だが部屋の隅には、藤村会の女性組員たちが静かに控えている。これはただのママ友会ではない。
「今日は特別なお客様がいらっしゃるの」
扉が開くと、ゆあさんとその父親が姿を現した。ゆあさんの顔色は蒼白で、目の下には濃い隈ができている。完全に別人のようだ。
「ゆあさん、皆さんに言うことがあるのでは?」
ゆあさんは震える手で封筒を差し出し、深く頭を下げた。
「これまで本当に申し訳ありませんでした。こちらは皆様からお借りしたお金、そして慰謝料です」
封筒には、借金や迷惑料、嫌がらせに対する保証を含めた数千万円が入っていた。だが、それは私が提示した支払いのほんの一部に過ぎない。
「ゆあさん、残りは?」
ゆあさんは目を伏せ、別の封筒を差し出す。それでも足りていない。
「この場で指を詰めさせることも考えたけれど、今日はママ友会だから特別に免除してあげる。その代わり、残り一億円きっちり払ってもらうわ。支払いができないなら、こちらが用意した仕事についてもらう。少し危ないけれど、逃げなければ完済は可能よ」
ゆあさんの父親は冷や汗を浮かべながら、深く頭を下げた。
「総流会としても、娘が逃げたり支払いを拒むことがないよう、監視と管理を徹底いたします」
私は静かに頷いた。本筋である藤村会に対する忠誠を示すため、総流会もこの命令に逆らえない。ゆあさんはその日から、裏の仕事につき、監視下で働くこととなった。
それから半年後。
「組長、あの件の後始末が終わりました」
葛西が分厚い封筒を私の前に置く。中には献金と書類が入っている。
「ゆあからの借金は全額回収しました。彼女は香港の某所へ送られ、借金返済のために働いています」
私は静かに頷く。
「詳細は……最初は遠洋漁業の船に乗せる予定でしたが、彼女自身が別の道を選びました。ある種の接客業です」
葛西の言葉に、私は目を閉じる。自業自得とはいえ、女として同情する気持ちもある。しかし、あの日のゴーヤの味と屈辱を思い出せば、因果応報以外の何者でもない。
「そこでの生活はかなり厳しいようです。すでに二度ほど逃亡を試みたようですが……」
葛西が言葉を濁す。それ以上の説明は不要だった。彼女の行く末に、これ以上の想像は必要ない。
「詳細は結構。保険は万全か?」
「保険は万全です。何かあれば、残りの借金は全て保険で精算される手筈になっています」
私は無言で頷く。ゆあさんの夫と子供は、北海道の小さな町に引っ越した。夫は地元の工場で働き始め、子供も転校している。細々と暮らしているようだ。罪のない家族まで巻き込むつもりはなかった。
「これが回収した金額の内訳です。ママ友たちへの分配額も計算してあります」
葛西が差し出した書類に目を通す。被害にあったママ友たちへ、彼女たちが失った以上の金額が記されていた。
「これでいい」
翌日、私はママ友たちを自宅に招いた。普段着の私には、藤村会のレディ組長の面影はない。
「皆さん、これを受け取ってください」
一人一人に封筒を手渡す。中には現金と、ゆあさんから回収した金額の内訳が入っている。
「これは?」
封筒を開けたママ友が、驚きの声を上げた。
「ゆあさんが集めていたお金です。彼女のご家族が返済してくれました」
彼女たちは信じられない表情で封筒を見つめている。
「でも、これは私が払った金額より多いわ」
「利息と、精神的苦痛への保証です」
「あみさん、あなたが……?」
「私は何もしていません。ただの主婦ですから」
私は微笑みながら、湯呑みに緑茶を注ぐ。こうして回収した金は被害にあったママ友たちに分配され、平和な日常が戻ってきた。
「あみさん、あの後どうなったの?」
恐る恐る尋ねるママ友もいた。
「ご心配なく、もう彼女に会うことはないでしょう」
私は穏やかに微笑むだけだった。力を持つということは、それだけ責任も伴うもの。私は娘を見つめながら、二度とこのような報復が必要のない世界を願った。二つの顔を持つ私だからこそ、平和の尊さを知っている。娘には普通の幸せな人生を送ってほしい。それが、私の本当の願いなのだから。
