お盆の朝、父の墓石の隣で出会った薄汚れた双子の兄弟。その顔を見た瞬間、私は叫びそうになった。12歳くらいの男の子の顔が、幼い頃の私にそっくりだったのだ。
お盆の墓地は静寂に包まれていた。早くも咲いたコスモスが風に揺れ、線香の匂いが漂っている。父の墓石の前に膝まづいた瞬間、隣の墓から小さな嗚咽が聞こえてきた。顔を向けると、12歳ほどに見える双子の兄弟が白い菊の花を備えていた。女の子が弟をしっかりと抱きしめている。男の子の顔を見た瞬間、息が止まった。
墓石を見た。高橋空。心臓がドクンと音を立てて落ちた。
その時はまだ知らなかった。この子たちが私の人生の全てを揺さぶることになるとは。
午前5時半、目が覚めた。ベッドから起き上がり、窓の外を眺める。東京の空はまだ暗闇に包まれている。40階のペントハウスのガラス窓に私の顔がぼんやりと映った。42歳の顔だった。シは深くなり、目元には影が落ちている。
黒いスーツを取り出して身につけた。ネクタイを結ぶ手が慣れたように動く。鏡の前に立った私は、グランド東京ホテルチェーンの会長だった。1000億円台の資産を持つ男だった。しかし、その瞳は空っぽだった。
地下駐車場に降りると、黒いセダンが待っている。運転手が車のドアを開けてくれた。
「どちらへ向かわれますか」
「埼玉県の南山区共同墓地へ」
声が低く響いた。車が発進する。隅田川を渡る間、窓の外の風景が流れすぎていく。お盆の朝なので道は開いていた。助手席のグローブボックスを開けると、白い菊の花が12本入っている。毎年この時期になると用意する花だった。
7時過ぎ、墓地の入り口に到着した。エンジン音が止むと、静寂が押し寄せてくる。100段の階段を登らなければならない。息が切れた。42歳の体は昔のようにはいかない。50段ほど登った時、何か妙な感覚に襲われた。周りが静かすぎる。鳥の声も風の音も聞こえない。
父の墓は大きな松の木の下にある。田中哲夫。13年前に交通事故で亡くなった父だった。膝まづき、菊の花を備えた。
「父さん、また来ましたよ」
手を合わせ、目を閉じる。13年前のことが思い出される。病院の集中治療室。最後に目を開けた時、父は私の手を強く握った。
「すまない。借金まで残してしまって」
それが最後の言葉だった。10億円だった。友人の保証が5億、事業失敗による銀行からの借金、両親代と葬儀代。29歳の私には到底抱えきれない金額だった。
その時だった。隣から泣き声が聞こえたのは。
ゆっくりと顔を向けると、父の墓から数歩ほど離れたところに小さな墓があった。雑草が生い茂り、草刈りもされていないようだった。さらに目を引いたのは、こんな日に大人が一人もおらず、その前に2人の子供が座っていることだった。
女の子が男の子を抱いている。男の子は俯いて泣いていた。女の子の声が風に乗って聞こえてきた。
「大丈夫よ。私たち2人でやっていけるわ」
声は震えていたが、優しさに満ちていた。古びたスニーカー、擦り切れたジャンパー、手垢のついたリュックサック。貧しさが全身に染みついていた。
男の子が顔を上げた。
心臓が止まった。鋭い眉、すっと通った鼻筋、硬く結ばれた唇。鏡の中で数えきれないほど見てきた顔だった。私の顔だった。
墓石が見えた。高橋空。3つの文字が目に飛び込んできた。
20年前、大学の美術館の前で初めて会った人。明るく笑う女性だった。私が世界で唯一愛した人だった。
膝から力が抜け、松の木に捕まった。木の皮が手のひらに食い込む。
20年前のこと、私は大学院生で、父の事業が傾き始めてからアルバイトを3つ掛け持ちしていた。早朝の配達、午後の家庭教師、夜のコンビニ。1日に4時間しか眠れなかった。美術館の前で彼女に出会った。美術大学1年生の高橋空だった。スケッチブックを持って、明るく笑っていた。
「あの、モデルになってくれませんか」
それが始まりだった。7年間付き合った。結婚を約束した。しかし、13年前、すべてが崩れ落ちた。父の交通事故、10億円の借金。月1500万円の利息など、到底手に負えなかった。
空の父親が言った。「我々が全部返してやる。うちの娘と結婚さえしてくれれば」
大手建設会社の社長だった彼は、豪快で助ける力もあった。しかし、私は断った。自分の力で返す。プライドだった。傲慢だった。
当時、MITの博士課程の全額奨学金を受け取っていた。アメリカで成功して戻ってくると誓った。成田空港で空が泣いていた。
「行かないで。お願い」
「また泣いてくれるな。待っていてくれとは、とても言えないんだ」
空の顔が青ざめた。涙が頬を伝って流れる。私は彼女の手を振り払い、背を向けた。後ろから空の嗚咽が聞こえたが、振り返らなかった。その時、空は妊娠2ヶ月だった。私は知らなかった。彼女も言わなかった。
13年が経った。MITで博士号を取得し、AIホテル管理システムの特許を取った。シリコンバレーで莫大な投資を受け、数年で借金を全て返済した。5年前に日本に帰国し、東京にホテルを開業した。成功した。資産は増え続け、1000億円台の資産家になった。
しかし、空を探さなかった。彼女が私を捨てたと思っていたからだ。アメリカにいる間、手紙も連絡も一つなかったから。
記憶が現実に戻る。子供たちは私を見ていた。女の子の目は、空の目だった。全く同じだった。
「君たちの、お母さんは」
女の子が墓を見下ろし、唇を噛みしめた。
「ここにいます」
「いつ」
「3ヶ月前です」
膝が折れ、その場に座り込んだ。3ヶ月。たった3ヶ月前だった。私は何も知らなかった。空は、この子たちを残して死んでいた。
女の子が男の子を抱きしめた。2人の子供が同時に頭を下げた。全く同じ角度だった。双子だった。
私はよろめきながら後ずさりし、逃げるように丘を下りた。駐車場に到着し、車に乗り込んだ。バックミラーを見ると、墓地が遠ざかっていく。胸が詰まり、目の前が真っ暗になるようだった。
翌朝、会長室の机に座っていた。書類が山積みになっているが、一枚も読めなかった。子供たちの顔ばかりが思い浮かぶ。
秘書の鈴木を呼んだ。
「人を探してほしい」
「どなたをお探しでしょうか」
「高橋空。最近亡くなったはずだ。そして、その人に子供がいたかどうか調べてくれ。双子だ。12歳くらいのはずだ」
「内密に調べてくれ」
「承知いたしました」
机の引き出しを開け、一番奥にしまってあった小さな箱を取り出した。20年前の大学の学園祭の写真。空が明るく笑っている。私の腕に捕まって。
「ごめん」
2日後、鈴木が分厚いファイルを抱えて入ってきた。高橋空の死亡診断書。12年前に双子を出産している。未婚の母だった。子供たちの名前は田中凛、田中悠人。
「会長。高橋さんはグランド東京ホテルで5年間勤務していました。夜間の清掃員として。夜10時から明け方5時までです」
息ができなかった。私のホテルだった。5年間、同じ建物にいたのだ。月給は20万円。清掃員のロッカールームから見つかった手帳には、細かい家計のメモが書かれていた。母の介護施設費8万円、家賃4万5000円、食費3万円、光熱費1万円、双子の塾代と空手代。合計19万円。残りの1万円で3人が1ヶ月を暮らしていたのだ。
「お母さんの介護施設費」
「はい。高橋さんのお母様は重度の認知症で介護施設にいらっしゃいます。父親は12年前に亡くなりました。建設会社が金融危機の際に倒産しました」
「親戚とも連絡が途絶えています。子供たちの面倒を見てくれる人はいません」
空は一人だった。12年間、一人で耐え抜いた。そして死んだ。私は何も知らなかった。
夕方、ホテル1階のラウンジに婚約者の南沙織が現れた。35歳、社交界で有名な人物だ。ブランドのドレスを着て、ハイヒールを履いている。
「お盆にどうして連絡してくれなかったの。婚約して1年以上経つのよ。結婚式場、決めなくちゃ」
「ああ」
「聞いてる? 一体何をそんなに考えてるの。最近ずっとおかしいわよ」
「いや、何でもない」
私は適当に答えていた。婚約者も、結婚式も、どうでもよく感じられた。
その頃、東京都足立区の屋上部屋では、別の世界が広がっていた。
凛は古い冷蔵庫のドアを開けた。中にはキムチの容器1つと卵が3つだけだった。米びつは空っぽだ。
「今日はラーメンにしましょう」
悠人が机で宿題をしている。お姉ちゃん、お腹空いた。声には力がない。凛は微笑みながらラーメンの袋を取り出した。残りは3つだけだった。
おとといスーパーで働いた。優しいおじいさんが3000円くれるはず。そのお金があればお米が買える。
「大丈夫。私たち2人でやっていけるわ」
凛は自分に言い聞かせた。ラーメンが煮え始め、卵を1つ落とした。
「お姉ちゃん、卵はお姉ちゃんが食べて」
「私はいいから。一緒に分けましょう」
ラーメンを2つの器に分け、卵はきっかり半分にした。2人は無言で食べた。悠人は俯いて、ずるずると音を立てて麺をすする。凛は弟の痩せた顔を見て胸が痛んだ。
食事が終わった後、悠人が壁にかけられた額縁を見つめた。お母さんの写真だ。
「お姉ちゃん、お母さんに会いたい」
凛は弟を強く抱きしめた。
「私も会いたいわ」
2人の子供はお母さんの写真を見ながら静かに泣いた。窓の外には星が輝いている。冷たい秋風が屋上部屋のドアの隙間から吹き込んできた。
凛は思った。お母さん、私たちちゃんとやってるよね。あと2年だけ耐えれば中学生よ。そうすれば、児童養護施設に行かなくても済むんだから。
凛は知らなかった。自分の体の中で、時限爆弾が時を刻んでいることを。
2週間が経った。ある日の午後、屋上部屋のドアをノックする音がした。スーツを着た中年の女性が立っている。児童相談所の職員だった。
「田中凛さん、田中悠人さんですね。保護者がいないという通報があったの。親戚の方はいないのかしら」
「いません」
「それなら、あなたたちは児童養護施設に入所しなければならないの。法律で決まっている手続きなのよ」
「嫌です。私たちには家があります。2人でちゃんと暮らしています。あと2年経てば中学生なんです。そうすれば1人で暮らせるじゃないですか」
「ごめんなさいね。でも決まりなの。未成年者は保護者なしでは暮らせないのよ。来週の月曜日までに連絡をちょうだい。そうしないと警察が来ることになるわ」
翌日の学校は地獄だった。給食室で、3人の男子生徒が悠人に近づいてきた。
「おい、田中。お前んちの母さん死んだんだってな。孤児になったんだって。勉強だけいつも100点取って何になるんだよ」
悠人は俯いて答えなかった。男子生徒が悠人の給食のトレイを押した。熱いスープが手の甲にかかった。悠人は悲鳴を上げたが、誰も助けてくれない。先生でさえ、給食室のドアの前で見てみぬふりをしていた。
「勉強できても孤児じゃねえんだよ。うちの親父が言ってたぜ。お前みたいな奴はうちの焼肉屋で鉄板でも磨いてろってな」
「お前の家、屋上部屋なんだってな。孤児じゃねえか。孤児野郎」
「お前らもうすぐ児童養護施設に行くんだってな。良かったじゃん。うちの学校から消えろよ」
子供たちは下を出して笑いながら去っていった。悠人はその場に座り込んで泣きじゃくった。手の甲は赤く腫れ上がっている。
遅れて知らせを聞いた凛が駆けつけてきた。
「大丈夫? どこか怪我したの」
悠人は姉の胸に顔を埋めて泣いた。
「痛いよ。すごく痛い。どうして僕たちはこんな風に生きなきゃいけないの」
凛は助けを求めようと周りを見回した。担任の先生が給食室のドアの前に立っている。凛と目が合った。しかし、先生は顔を背けた。
その日の夕方、凛はいつも通りスーパーでアルバイトをしていた。店のおじいさんは凛の顔色が悪いのを見て休ませようとしたが、凛は頑なに働こうとした。
おじいさんは凛が5歳の頃から知っている。母の空がホテルの清掃員として毎晩働いていたため、幼稚園のお迎えを手伝ったこともあった。3ヶ月前に空が亡くなってから、凛は1日も休まず働いている。
夜11時、凛はチラシ配りの仕事に向かった。ラーメン屋のおじさんが頼んでくれた仕事だ。100枚配れば3000円もらえる。お米が買える。
2時間が経った。凛の額には脂汗が流れている。午前1時、通りはさらに静まり返っていた。ふらつきながら階段を登ったその時だった。
突然、目の前が真っ白になった。足から力が抜け、凛は階段に倒れ込んだ。チラシが四方八方に散らばり、風に吹かれて宙を舞う。
「お姉ちゃん」
後ろから悲鳴が聞こえた。悠人だった。姉がいないことに気づいて追ってきたのだ。ゆすっても、凛は目を開けない。顔は青白く、唇は青ざめていた。
「お姉ちゃん、お願い」
悠人は震える手で119番を押した。やっとのことで住所を伝え、救急車を待った。7分後、救急車のサイレンが聞こえ、赤い光が路地を照らした。
区立病院の救急救命室。医師が診察を終え、重い表情で出てきた。
「先天性腎疾患です。両方の腎臓の機能が著しく低下しています。3ヶ月以内に腎臓移植を受けなければ、命が危険です」
「僕の腎臓を使えませんか。僕たち同じじゃないですか。双子じゃないですか」
医師は首を横に振った。
「君も同じ疾患だ。検査結果では、君の腎臓も正常ではない」
悠人の足から力が抜け、その場に座り込んで泣いた。誰も助けてくれない。お姉ちゃんまでいなくなったら、僕はどうなるんだろう。
その日の朝7時、私の携帯電話が鳴った。
「会長、大変なことになりました。凛さんが病院に搬送されました。区立病院です。明け方に倒れたそうです」
「今すぐ車を用意してくれ」
病院に着くと、救急救命室の廊下の隅で、悠人が膝を抱えてすり泣いていた。12歳の少年は、あまりにも小さく孤独に見えた。
「おじさん、お姉ちゃん、腎臓が悪いんだって。移植しなきゃいけないんだって。でも、僕の腎臓もおかしいんだって。あげられないんだ。お姉ちゃんにあげられないんだ」
悠人が私の服の裾を掴んだ。
「おじさん、お願い。お姉ちゃんを助けてください。お願いします。お姉ちゃんがいなくなったら、僕は1人になっちゃう」
私は震える手で悠人の頭を撫でた。
「泣かないで。方法はあるはずだ。約束する。お姉さんは必ず助ける」
その瞬間、私は決心した。この子たちを守らなければならない。空が果たせなかった愛を、自分が代わりに繋いでいかなければならない。
その時、病院のロビーの方から声が聞こえてきた。
「リンはどこ? うちの凛は」
大家のおばあさん、スーパーのおじいさん、ラーメン屋のおじさんが駆けつけてきたのだ。隣人たちは、空が遺した子供たちを見守ってきた人たちだった。
「おじさんはお墓で会ったんだ。お母さんの墓の隣にいたんだよ」
おばあさんが私を見て目を大きくした。
「もしかして、あの方ですか?

」
「私は高橋空さんを知っていました」
「空ちゃんが、あんなに探していた方なんですね」
その言葉に、私の全身が凍りついた。
「空さんはね、よくうちの店に来て聞いてたんですよ。東京で大きなホテルを経営している田中快斗っていう人、知りませんかって」
「亡くなる1ヶ月前まで、探しているって言ってました。子供たちのお父さんを探しているんだと」
「じゃあ、私を探していたんですか」
「そのようです。でも、とうとう見つけられなかった。亡くなる瞬間まで、子供たちには父親の話はしませんでした」
「なぜ、私に連絡してくれなかったんですか」
「分かりません。多分、あなたに迷惑をかけたくなかったんじゃないでしょうか」
私は壁に手をついて座り込んだ。空が私を探している間、私は成功だけを追いかけて走り続けていた。成功して堂々と現れたかったのに、いつの間にか完全に忘れてしまっていた。
その時、廊下に鋭い声が響き渡った。
「快斗さん」
南沙織だった。秘書から聞いて飛んできたらしい。
「あの汚い人たちは誰? それに、その子は何? 」
「私の子供だ。私の子供を知っている人たちだ」
「まさか、隠し子がいたっていうの」
「隠していたんじゃない。私も知らなかったんだ。でも、今は分かった。この子たちは私の子供たちかもしれないんだ」
「気でも狂ったの。私たち、来月結婚するのよ」
「すまない、沙織さん。でも、今はこの子たちの方が大事なんだ」
沙織の顔が真っ赤になった。
「分かったわ。じゃあ勝手にしなさい。後悔しないでよ」
沙織は背を向け、廊下を大股で歩き去っていった。
医師が呼びに来た。腎臓提供のための組織適合検査を受けるためだ。私は悠人に言った。
「悠人、私は、お前の父さんだ」
悠人の目が大きく開かれた。
「嘘だ。お母さんが言ってた。父さんは僕たちのことを望んでいなかったって」
「違うんだ。私は知らなかったんだ。君たちがいることを。知っていたら、絶対に離れたりしなかった」
私は悠人を強く抱きしめた。悠人は私の胸で泣き始めた。
「本当? 本当に僕たちの父さんなの」
「ああ。検査結果が出ればはっきり分かるだろう。でも、私は確信している。君たちは私の子供たちだ」
3日後、検査結果が出た。遺伝子の一致率99.
99%。生物学的な親子関係は確実だった。そして、私と凛の組織は完全に一致している。
「1週間後に手術が可能です」
「いつ手術できますか」
「会長、糖尿病の既往症で血圧も高い。慎重に決断されるべきです」
「構いません。私の娘です。すぐに手術の準備をしてください」
診察室を出ると、悠人がトイレに駆け込んだ。後を追うと、中からすすり泣く声が聞こえてくる。
「どうして僕たちを捨てたんだよ。お母さんが、あんなに大変だったのに。1人で僕たちを育てるのに、死ぬほど苦労したのに。どうして今頃現れるんだよ」
私は何も言えなかった。弁解の余地はなかった。
その日の午後、秘書の鈴木が足立区の屋上部屋を訪れた。空の遺品整理のためだ。大家のおばあさんが出てきて、小さな段ボール箱を指さした。
「これが空ちゃんの荷物です。あまりないんですよ。生涯持っていたものはこれだけです」
おばあさんは語った。12年前、大きなお腹を抱えて一人で訪ねてきた若い女性のこと。裏金なしで部屋を貸したこと。毎日、若布スープを作って持って行ったこと。夜の仕事に出る空に代わって、子供たちを寝かしつけたこと。
「最後まで家賃の滞納はありませんでした。亡くなる前日まできっちり払っていきました。プライドの高い子でしたから」
「あの子たち、どうなるのかしら。私ももう年だから面倒を見てあげられない。児童相談所は児童養護施設に送るって言うんですよ。2人、離れ離れになるかもしれないって」
「空ちゃんは、最後まで誰かを待っていました。会長さんという人を。いつもその人の話をしていました。『あの人は成功したらきっと来てくれるの。必ず来てくれるの』って。亡くなる日までそう言っていました。空ちゃんは生涯、会長さんを恨んだことは一度もなかった。最後の瞬間まで愛していたと、お伝えください」
鈴木は帰りの車の中で箱を開けた。古い服が数着。子供たちの写真。そして、ゴムで束ねられた手紙の束。20通だった。全て同じ筆跡で「田中快斗様」と書かれている。全ての封筒に赤い印が押されていた。宛先不明で、返送されたのだ。
夕方、会長室で鈴木が手紙の束を差し出した。最初の手紙を開けると、空の筆跡があった。
「快斗さんへ。私、妊娠したの。双子だって。私たちの赤ちゃんよ。帰ってきて。お願い」
2通目。「手紙、届いてないのね。私、もう5ヶ月なの。お腹、大きくなったよ。赤ちゃんたちがよく蹴るの。あなたに似たのかしら」
3通目。「赤ちゃん、生まれたよ。男の子と女の子。2人ともあなたに似てるの。眉毛があなたそっくり。会いたい」
10通目。「子供たちが歩いたの。凛はよく笑って、悠人は夜によく泣くの。2人とも元気よ。心配しないで」
15通目。「凛が幼稚園に入ったわ。悠人はお兄ちゃんになるの嫌だって泣いてた。3人であなたのことを思って暮らしているわ」
そして、最後の手紙。3年前に送られたものだった。
「快斗さんへ。これが最後の手紙です。多分、あなたはこの手紙を一度も受け取れなかったのでしょうね。住所が見つからなかったみたい。子供たちはもう小学生です。凛は優しくて、悠人は逞しい。2人ともあなたに似ています。私は最近、体調がよくありません。病院に行ったら、良くないことばかり言われました。でも、大丈夫。子供たちが元気に育てば、それでいいの。快斗さん、恨んでいません。私が離れたのは、あなたの夢のためだったから。私は理解しています。ただ一つだけお願いがあります。もしいつか、私たちの子供たちに会うことがあったら、愛してあげてください。お母さんの分まで。愛しています。快斗さん、生涯」
私は手紙を手に持ったまま、床に膝まづいた。獣のような叫び声が漏れた。
翌朝、南沙織がホテルの会長室に押しかけてきた。
「正気になってよ。あの子たちのために私たちの結婚を諦めるつもりなの」
「沙織さん。これが何か分かるか。20通だ。空が私に送った手紙だ。全て返送されてきた」
「私がアメリカで住所を変えたからな。だが、おかしいな。ここ3年間に送られた手紙には、返送の跡がない。なぜだろう? 」
「私が日本に帰国したのは4年前だ。その時から君は私の秘書室で働いていた。君が受け取って処理したんだな」
「なぜ、そんなことをした」
「ホテルのためよ。あなたと結婚すれば、私が副社長になれたのよ。ホテルの株ももらえるはずだったの。あんな手紙、あんな女、目に積んでおくべきだったのよ」
「出ていけ。2度と顔を見せるな」
沙織は何も言えず、バッグを掴んで部屋を出ていった。
私は凛の病室へ行った。凛はベッドで眠っていた。青白い顔、細い腕。12歳の少女はあまりにも小さく弱々しく見えた。私はベッドの横の椅子に座り、凛の手をそっと握った。
「凛。私がお前の父さんだ。遅くなってすまなかった」
凛の手がかすかに動いた。目を開けた。
「おじさん…本当に父さんなの」
「そうだ。私がお前の父さんだ」
「お母さんが、お母さんが父さんにすごく会いたがってた」
「私もお母さんに会いたかった。そして、君たちに会いたかった。知らなかったけど、会いたかったんだ」
「もう、どこにも行かないよね」
「絶対に離れない。君たちのそばにいる」
手術の前日、医師が最後の確認をした。
「会長は糖尿病の既往症で血圧も高い。腎臓を1つ摘出すると、残った腎臓に負担がかかります。生涯、薬を飲み続けなければなりません。最悪の場合、手術中に合併症が起こる可能性もあります」
「構いません。私の娘です。私の娘を助けてください」
私は署名した。田中快斗。その署名は、娘のための命をかけた約束だった。
「父さん、怖くないの」
夜、凛がベッドから私に尋ねた。
「いや、幸せだよ。君の父さんになれて」
翌朝6時、手術室の廊下は緊張感で満ちていた。悠人が私の手を握る。
「父さん、必ず戻ってきてね」
「約束しただろう。悠人、お姉さんが目を覚ましたら、しっかり面倒を見てやるんだぞ」
「うん、父さん」
手術室のドアが閉まり、赤いランプが点灯した。6時間後、医師が疲れた顔で微笑んだ。
「成功です」
悠人はその場に座り込んで泣いた。おばあさんは天に向かって祈り、おじいさんとおじさんは互いに抱き合った。
4時間後、私は麻酔から覚めた。隣のベッドに凛が横たわっている。顔に血色が戻っていた。
「父さん」
「ああ、父さんはここにいるよ。もう痛くないからな。一生、元気に暮らすんだ」
「うん、父さん」
親子は手をつないだまま目を閉じた。
2ヶ月後、凛は健康を取り戻した。退院の日、私は子供たちを連れて新しい家へ向かった。足立区の屋上部屋ではない。東京港区のペントハウスだった。
「ここが私たちの家なの」
「ああ、これからはここで暮らすんだ」
「広すぎるよ。僕たちがここに住んでもいいの」
「当たり前だろう。君たちの家なんだから」
初めての夕食の時間。私はエプロンをつけて目玉焼きを作ろうとした。しかし、油が熱すぎて卵を焦がしてしまった。
「父さん、卵、焦げてるよ」
「すまん。父さん、料理が苦手でな」
「大丈夫だよ。私がやるから」
凛は手際よく味噌汁を作り始めた。お母さんが教えてくれた通りに。3人で食卓を囲み、味噌汁をすすった。
「お姉ちゃん、お母さんの味だ」
その言葉に、3人は一瞬動きを止めた。空のことが思い浮かんだのだ。私は子供たちの手を握った。
「お母さんも、ここで私たちを見ているはずだ」
3人は手をつないで静かに祈った。そして、一緒にご飯を食べた。初めて、家族のように。
数日後、私は悠人が通っていた学校を訪れた。悠人をいじめた男子生徒の家は、焼肉店を経営していた。私のホテルに牛肉を納品していた業者だった。私は契約を破棄し、他のホテルにも取引しないよう連絡した。あの日、給食室のドアの前で見てみぬふりをした担任の先生も、夫のリベート受領を告発した。
ある日、私は悠人と一緒に散歩に出かけた。歩いていると警察署の前に着いた。
「父さん、僕、警察官になりたい」
「そうか。どうして」
「お母さんを守ってあげられなかったから。お母さんが病気の時も、僕は何もできなかった。病院も稼げなかったし、お姉ちゃんが倒れた時も、ただ泣いてるだけだった。僕は弱すぎるんだ。だから、誰も守れなかった」
「違う。お前はもう十分に頑張った。お前は12歳で姉さんを守ろうとしたんだ。新聞配達もしたし、チラシも配った。それがどれだけすごいことか分かるか? お前はもう英雄だよ。お母さんの英雄、姉さんの英雄、そして父さんの英雄だ」
夕方、凛が私の書斎をノックした。
「父さん、私、お医者さんになりたいの」
「医者に」
「うん。私みたいに病気の子供たちを助けたいの。病院にいた時、見たの。私よりももっと病気の子供たちがたくさんいた。ある子は親がいなくて一人で病院にいたの。私は父さんのおかげで助かったでしょう。だから今度は、私が子供たちを助けたいの」
「君ならできる。父さんが信じてる」
「ありがとう、父さん。愛してる」
「私も愛してるよ、娘よ」
さらに数年が経った。ある冬の朝、凛が悲鳴を上げて部屋から飛び出してきた。
「父さん、合格したの。医学部に受かったの」
「本当か」
「僕もだよ、父さん。警察大学校に受かったんだ」
私は2人の子供を両腕で強く抱きしめた。
「お前たち2人とも、本当にすごいな」
「お母さんのところへ行こう。この知らせを伝えに行こう」
3人は花屋で白い菊の花束を買い、あの墓地へ向かった。高橋空の墓石は、私が毎月人を派遣して手入れをさせていたため、綺麗だった。
「お母さん、私、医学部に受かったよ。お母さんが夢見ていた、お医者さんになるからね」
「お母さん、僕もだよ。警察大学校に受かったんだ。お母さんみたいに、弱い人たちを守る警察官になるからね」
私は膝まづき、墓石に手を置いた。
「空、私たちの子供たちは大きくなったよ。とても立派に育った。私たち、幸せだよ」
風が吹いてきた。まるで空が答えているかのようだった。
3人はしばらくの間、墓の前に座っていた。風がコスモスを揺らし、日差しが温かく降り注いでいる。
「空、ありがとう。生涯愛してる。そして、私たちの子供たちをしっかり守る。約束する」
「私たちも愛してるよ、お母さん」
3人は立ち上がり、丘を降りた。振り返ると、墓石に日差しが当たっている。私は自分に誓った。これからの残りの全ての時間を、この子供たちと共に過ごすのだと。
今でも時々、あの日を思い出す。お盆の朝、墓地で子供たちに初めて会ったあの瞬間を。もし私がそのまま通り過ぎていたら、どうなっていただろう。凛は腎臓のドナーを見つけられなかったかもしれない。悠人は一人で姉を看病し、途中で力尽きていたかもしれない。2人の子供は児童養護施設に行き、離れ離れになっていただろう。
私は信じている。空が最後の贈り物を私にくれたのだと。私を許し、子供たちを私に託したのだと。