蓋を閉めろ。こんな貧乏臭いばあさんの死に顔なんて誰も見たくないんだよ。ガシャンという破壊音とともに、祭壇の前に飾られていた白い棺が無惨にも床へと転がり落ちた。悲しみに包まれていた葬儀場の空気が一瞬にして凍りつく。参列者たちが息を飲み、言葉を失う中、ただ二人だけが下品な笑い声をあげていた。私の夫である浩司と、その母親である義母のせ子だった。だがこのとき傲慢に笑い続ける彼らは知らなかったのだ。数年後、この男が最愛の母親の葬儀で、この日の行いを十倍の絶望として自らの身に受けることになるとは。
私は花子。今年で五十二歳になる平凡な主婦だ。夫の浩司とは結婚して二十五年。息子はすでに独立し、今は夫と義母の三人で息の詰まるような同居生活を送っている。つい三日前のことだった。私を女手一つで育ててくれた最愛の母が、くも膜下出血で突然この世を去ったのだ。母は決して裕福とは言えない環境の中で、朝から晩までパートを掛け持ちし、私を大学まで行かせてくれた。優しくて強くて、私の人生の灯のような人だった。母の突然の訃報に、私は立っていることすらままならないほど打ちひしがれていた。
しかし私の深い悲しみなど、夫と義母にはどうでもいいことだったらしい。全く急に死ぬなんて迷惑な話だ。おかげで今日のゴルフコンペをキャンセルするはめになったじゃないか。斎場で泣き崩れる私に向かって、浩司が最初に放った言葉がそれだった。義母に至っては、葬儀代の立て替えなんてうちはしないからね。花子さん、あんたのへそくりでどうにかしなさいよ。どうせ安物の葬式で十分でしょうけど、と鼻で笑う。結婚当初から彼らは私と私の実家を貧乏人と見下し続けてきた。夫は何かにつけて、俺の稼ぎで食わせてもらっているくせに、と怒鳴り散らすモラハラ男であり、義母はそんな息子を擁護する典型的なマザコン親子だった。
そして迎えた母の告別式の日。親族や母の古い友人が集まり、厳かに最後のお別れが行われていた。冷たくなった母の頬に触れながら、私は涙が止まらなかった。お母さん、ありがとう。今まで本当にありがとう。親族たちも貰い泣きで目頭を抑え、静かな啜り泣きがホールに響いていた。その時だった。おい、いつまでメソメソやってんだ。時間が押してるだろうが。突然静寂を切り裂くような怒声が響き渡った。振り返ると、喪服のネクタイをだらしなく緩めた浩司が、今にも掴みかからんばかりの勢いでこちらへずかずかと歩いてくる。その後ろには喪服ではなく派手な紫色のスーツを着た義母が、嫌そうな顔で続いている。
ちょっと浩司さん、静かにして。今最後のお別れを。私が震える声で諭すと、浩司は鼻で笑い飛ばした。はっ、最後のお別れだと?死んだばあさんに話しかけて何の意味があるんだよ。金もねえ、地位もねえ。底辺の人生を送った惨めなばあさんだろうが。さっさと火葬に送って済ませてやれよ。あまりの暴言に私は言葉を失った。親族たちも信じられないものを見る目で浩司を睨みつけている。しかし浩司はそんな視線など意に返さない。なんだよその目は。俺は事実を言っただけだ。大体こんな安っぽい祭壇にいくら金をかけたんだ。俺の金で葬式出してやってるんだぞ。違うわ。このお葬式は私とお母さんの貯金で。口ごもる私を、激昂した浩司が乱暴に突き飛ばした。私はバランスを崩し、祭壇の前に倒れ込む。
花子ちゃん。親戚のおばが慌てて駆け寄ってくる中、浩司はさらに暴走を始めた。大体こんな小汚い棺をいつまで開けておくつもりだ。そう叫ぶと、浩司は母の遺体が安置された棺の縁に手をかけ、力任せに引っ張ったのだ。やめて。私の悲鳴も虚しく、浩司の乱暴な手つきによって棺のバランスが大きく崩れた。ガシャーン。重い音を立てて棺がひっくり返り、中に入っていた色とりどりの花が無残にも床へと散らばっていく。そしてあろうことか、母の遺体までもが棺から半分投げ出されるような形になってしまった。ああ、お母さん。私は這うようにして母の元へ駆け寄り、散らばった花をかき集めながら泣き叫んだ。ホールの中は悲鳴と怒号が入り混じったパニック状態となった。親族の男性たちが、何てことをするんだ、と浩司に掴みかかろうとする。しかし浩司は悪びれる様子など微塵も見せず、揶揄するように言い放った。おお、怖い。貧乏人が群れて怒ってるよ。ほら母さん、こんな臭い場所、さっさと出ようぜ。そうだね。あんな薄い死体を見せられて気分が悪くなっちゃったわ。帰りにしましょう。急がなくちゃね。ゲラゲラと笑い合いながら葬儀場を後にする夫と義母の後ろ姿。その時だった。私は泣き叫ぶのをやめた。ただ静かに床に散らばった母の遺影を抱きしめた。涙はもう一滴も出なかった。私の心の中で何かが冷たく、そして決定的にプツリと切れる音がしたのだ。この瞬間から、私はただ悲しみに暮れるだけの哀れな妻であることをやめた。頭の中で静かに、しかし燃え盛る炎のような復讐の計画が動き始めたのである。だがそのための決定的な武器を、私がすでに握っていることなど、あの愚かな親子は知るよしもなかった。
あの最悪な母の葬儀から丸三年が経過した。現在私は五十五歳になり、夫の浩司は五十八歳、義母のせ子は八十一歳を迎えていた。季節は巡り、世間は穏やかな春の訪れに包まれていたが、我が家の中は澱んだような冷たい空気が満ちている。おい花子、お茶が薄いぞ。何度言ったら分かるんだ?この脳なしが。朝の食卓で浩司の怒号が響き渡る。彼は中堅企業で営業部長を務めており、来月には念願の取締役への昇格が内定していると、鼻息を荒くしていた。社会的地位が上がるにつれ、家の中での暴言もエスカレートする一方だった。申し訳ありません。すぐに入れ直しますね。私は表情を一切変えず、ただ機械的に湯呑みを受け取った。ふん。相変わらずどん臭い女だ。母親が貧乏人だと、娘もやっぱり底辺のままだな。お前のその薄汚さ、どうにかならんのか。背後から投げつけられるひどい侮辱の言葉。しかし私は一切言い返さなかった。ただ深い沈黙を守り、新しいお茶を入れる手を動かし続けた。私が反抗しないことを、完全に心を折られて服従したと勘違いしている浩司は、満足そうに鼻を鳴らす。浩司の言う通りだよ。花子さんは本当に気が利かないね。リビングの奥からしゃがれた声が加わった。ベッドに横たわったまま口を動かしているのは義母のせ子だ。義母はこの一年ほどで急激に足腰が弱り、今では家の中を歩くことすら困難になり、一日中ベッドの上で過ごすようになっていた。本来ならプロの介護サービスを頼むべき状態なのだが、他人が家に入るのは嫌だという義母の我がまま。そして嫁がただで面倒を見るのが当たり前だという浩司の身勝手な主張により、全ての介護は私にのしかかっていた。おい花子、母さんのオムツを変えてやれよ。部屋が臭くて朝飯がまずくなるだろうが。あら浩司、私ったらまた漏らしちゃったみたい。ごめんね。母さんは気にしなくていいんだよ。おい、さっさとやれ。まるで汚いゴミでも扱うかのように、浩司は私を顎で使った。私はやはり無言のまま義母のベッドへと向かう。ちょっと花子さん、痛いじゃないの?もっと優しくしなさいよ。本当に殺伐とした女ね。これだから育ちの悪い人間は嫌なのよ。身の回りの世話をさせられているにも関わらず、義母の口から出るのは文句と嫌みばかりだ。三年前、私の母の棺をひっくり返し、ゲラゲラと笑っていたあの日の醜い顔が、今も義母の顔と重なる。ええ、そうよ。いくらでも罵りなさい。今のうちにね。私の心の中は湖のように静まり返っていた。怒りすらない。なぜなら彼らへの感情はすでに、処理すべき対象へと変わっていたからだ。この三年間、私はただ耐えていたわけではない。彼らが私を見下し、油断しきっている裏で、私は着々とその日のための準備を進めてきたのだ。
時計の針が午前八時を回り、浩司が「俺は会社に行く。母さんの世話はしっかりやれよ」と偉そうに言い残して玄関を出ていった。義母も朝食を終えると、テレビの音がうるさいから消してちょうだい、と我がままを言い残していびきをかいて眠り始めた。家の中にようやく静寂が訪れる。私はエプロンを外し、冷たい水で手を洗った。鏡に映る自分の顔を見る。化粧のノリは悪いが、その瞳の奥にはギラギラとした強い光が宿っているのが分かった。その時だった。エプロンのポケットに入れていた私のスマートフォンが、ブブッと短く震えた。画面に表示された送り主の名前に、私は小さく息を飲んだ。準備が整いました。いつでも動けます。たった一言だけの短いメッセージ。送り主は意外な人物だった。浩司の務める会社の総務部にいる若い女性社員。いや、ただの社員ではない。彼女は浩司が数年前から会社に内緒で囲っている愛人だった。ついに来たね。私は誰にも聞こえない声でそっと呟いた。夫は知らない。自分が完全に支配下にあると思い込んでいるその妻が、実は美しい愛人と裏で繋がっていることなど。そして私たちがこの三年という月日をかけて、浩司と義母を地獄の底へ突き落とすための完璧な罠を張り巡らせてきたことなど。スマートフォンを握りしめる私の手に、じわりと汗が滲む。いよいよ長かった忍耐の日々が終わろうとしていた。
私の復讐の幕開けは、私が予想していたよりもずっと唐突に、そして衝撃的な形で訪れることになる。その日の夕方、一本の電話が静まり返ったリビングに鳴り響いた。電話の主はかかりつけの病院の医師だった。その内容は、私の計画の歯車を急激に加速させるものだったのだ。薄暗くなり始めたリビングに、固定電話の無機質な呼び出し音が響き渡った。受話器のディスプレイには、義母が毎月通院している総合病院の名前が表示されている。私は胸騒ぎを覚えながら静かに受話器を取った。はい、花子です。あ、花子さんですか?担当医の佐藤です。遅い時間に申し訳ありません。先日受けていただいたせ子さんの定期検査の結果が出まして、お伝えしなければならないことがあり、お電話しました。電話越しの医師の声は、沈痛そのものだった。嫌な予感。いや、私の計画の前提を根底から揺るがすかもしれない予感がした。単刀直入に申し上げます。せ子さんの心不全の症状が、ここ数日で急激に悪化しています。ご高齢ということもあり、手術や治療はご本人の体力を奪うだけです。このままではもってあと一ヶ月、早ければ数週間という可能性もあります。えっ、私は絶句した。一ヶ月?いえ、数週間?予想よりもずっと早い宣告だった。だが、私の中の冷静な部分は、悲しむどころか恐ろしいほど落ち着いて状況を計算し始めていた。分かりました。覚悟しておきます。ありがとうございます。電話を切り、私は薄暗い廊下の先にある義母の寝室を見つめた。いびきをかいて眠る義母。彼女の命の灯はすでに風前の灯だったのだ。義母の葬儀。それこそが私の用意した復讐の最大の舞台となる。
夜八時過ぎ、ガチャリと乱暴な音を立てて玄関の扉が開き、浩司が帰宅した。酒の匂いをぷんぷん漂わせながら、彼は上機嫌でスマートフォンをいじり、ニヤニヤとだらしない笑みを浮かべている。きっとあの若い愛人とメッセージのやり取りをしているのだろう。飯だ、飯。今日は気分がいいんだよ。来月の取締役昇進祝賀会の会場が決まってな。スーツの上着をソファに投げ捨てながら、浩司は偉そうにふんぞり返った。私は彼に温めた夕食を出しながら、淡々とした口調で先ほどの電話の内容を伝えた。義母の余命が後仅かであること。箸を持ったまま、浩司の動きがピタリと止まった。次の瞬間、彼の顔から血の気が引き、見る見るうちにどす黒い怒りへと変わっていく。彼はバンとテーブルを強く叩き、立ち上がった。ふざけんな。なんでこのタイミングなんだよ。怒号がリビングに響き渡る。母親の死期が近いと聞かされて、彼が最初に口にしたのは悲しみでも心配でもなく、怒りと苛立ちだった。俺は来月取締役になるんだぞ。社長や取引先の重役を呼んで盛大な祝賀会をやるんだ。こんな大事な時に死なれたら、喪中だなんだと縁起が悪いだろうが。あのババアの足かせになる気か。浩司さん、義母さんの命に関わることなんですよ。うるさい。浩司は目を血走らせ、私に向かって指を突きつけた。大体、急にそんなに悪くなるなんておかしいだろう。おい、お前がちゃんと介護してないから弱ったんじゃないのか。この役立たずの貧乏人が。毎日ろくに文句も言わせないから寿命が縮んだんだ。おい、何か言えよ。自分の非を棚に上げて黙ってりゃ済むと思ってんのか。浴びせられるような侮辱の言葉。だが私は言い返さなかった。ただ無言のまま、彼を冷ややかな目で見つめるだけだ。この男は自分の母親の死ですら、迷惑なイベントとしか思っていない。三年前、私の母の葬儀で笑っていた時と同じ。根本的に何も変わっていない。私の沈黙を、疲れて反論できないと勘違いした浩司は、勝ち誇ったように鼻を鳴らした。まあいい。どうせ先が長くないなら、葬式の準備やら何やらは全部お前がやっておけよ。俺は忙しいんだ。ああ、言っておくが、俺は金なんか一切出さないからな。えっ、聞こえなかったのか。葬式代はお前のへそくりでどうにかしろって言ってんだよ。お前の親の時のように、適当に安いダンボールにでも詰めて焼けば十分だ。どうせ死んだ人間なんだからな。信じられない言葉だった。自分の母親の葬儀すら、妻に全額負担させようというのか。だが私は怒りで震えそうになる手を必死に抑え込み、小さく頷いた。分かりました。義母さんのお見送りは、私が全て手配させていただきます。その言葉の裏にある本当の意味に気づくこともなく、浩司は「当たり前だ」と吐き捨て、鞄の中から茶封筒を取り出してテーブルに投げつけた。それよりこれだ。ばあさんの預金口座を俺の名義に移す書類と、この家の権利書だ。あいつがボケる前にしっかりサインさせておいた。明日、お前が銀行と役所に行って名義変更の手続きをしてこい。私はテーブルに滑ってきた茶封筒をじっと見つめた。名義変更ですか?そうだ。親の金は息子のものだ。俺が取締役になるための布石として、資産としてきっちり管理してやる。お前みたいな貧乏育ちには縁のない話だが、絶対に中身を抜くなよ。浩司はそう言い残し、どかどかと足音を立てて寝室へと消えていった。
リビングに一人取り残された私は、その茶封筒を手に取った。中には確かに、義母の拇印が押された遺言書と、自宅の権利書が入っていた。浩司は自分が母親の全財産を手に入れ、愛人と共に裕福な生活を送るつもりなのだろう。だが彼は決定的な勘違いをしている。私はエプロンのポケットからスマートフォンを取り出し、あの愛人からのメッセージ画面を開いた。花子さん。浩司さんが母親の資産を手に入れると豪語していますが、予定通り例の件は進めています。私は茶封筒とスマートフォンの画面を交互に見比べ、くすっと乾いた笑いを漏らした。浩司は知らないのだ。彼が義母から無理やり奪い取ったこの財産の中に、彼自身を地獄の底へ突き落とす恐ろしい秘密が隠されていること。そして、彼が信じて疑わない若き愛人が、私にとって最強の共犯者であるということを。
翌朝、どんよりとした曇り空が、この家の中に立ち込める重苦しい空気をそのまま映し出しているかのようだった。痛いじゃないの?この意地悪、わざとやってるんでしょう。薄暗い寝室に、義母せ子のヒステリックな金切り声が響き渡った。私がパジャマを着替えさせようと腕を持ち上げた瞬間、義母は私の手を思いきり払いのけ、長い爪で私の手首を強く引っかいた。皮膚が赤くめくれ上がり、血が滲む。申し訳ありません。義母さん、なるべく痛くないようにしますから。私が感情を殺して淡々と謝罪すると、義母はさらに顔を醜く歪め、唾を吐き捨てるように言った。あんたみたいな安物の石鹸の匂いがする女に触られると、こっちまで貧乏臭くなるわ。本当にあんたのあの母親と同じで、気が利かない役立たずね。あんな底辺の親から生まれたから、まともな介護一つできないのよ。そこへ寝起きの浩司があくびをしながら部屋に入ってきた。朝からうるせえな。おい花子、母さんを怒らせるなよ。ただでさえ先が短いってのに。お前のせいで寿命が縮んだらどうしてくれるんだ。浩司は腕を組み、私を汚いゴミでも見るかのような冷たい目で見下ろした。花子。私が死んだら、あんたが一番立派なお葬式を出しておくれよ。間違っても三年前にひっくり返したあの安っぽい棺桶みたいな真似はしないでね。あれは本当に傑作だったけどさ。義母が意地悪く笑うと、浩司も思い出し笑いをするように声を上げた。はは、違いない。あのばあさんの葬式は、貧乏人の末路みたいで最高に笑えたよな。安心しろよ、母さん。母さんの時は、俺の会社の連中や取引先の重役も呼んで、最高級の祭壇を用意してやる。費用なら、この花子に全額払わせるから。義母は顔を見合わせて、ゲラゲラと下品な笑い声をあげた。私を女手一つで育ててくれた最愛の母。その最後の別れの場を台無しにされたあの日の屈辱を。彼らは今でも最高のエンターテインメントとして消費しているのだ。おい花子、聞いてるのか?お前は俺の稼ぎで長年飯を食わせてもらってきたんだ。恩返しのつもりで、俺の母親のためにしっかり働いて、立派に送り出せよ。さらに浩司は私の耳元に顔を寄せ、わざとらしく囁いた。母さんが死んで、この家の名義と預金が俺に移ったら、ここはさっさと売り払って高級タワーマンションに引っ越す。もちろん、お前を連れて行く気はねえよ。養育費の代わりに、さっさと離婚届に判を押して、ダンボールハウスにでも住めばいい。俺には若くて賢い最高のパートナーがいるからな。露骨な離婚宣言。そして愛人の存在を匂わせる優越感に浸った発言。私は一切の反論をしなかった。怒りに震えることも、涙を流すこともなく、ただ深い沈黙を守り、床の木目をじっと見つめていた。そうだ。もっと罵ればいい。もっと油断しろ。完全に心が折れたふりをしろ。私が黙り込んでいる姿を見て、浩司は完全に服従して絶望した哀れな女だと確信したのだろう。ふん、つまらねえ女だ。と白目を剥いて洗面所へと向かっていった。
午前十時。私は浩司から渡された茶封筒をバッグの奥底にしまい込み、足早に家を出た。向かったのは、浩司に指示された銀行や役所ではない。隣駅から少し離れた、人目につかない路地にある静かな喫茶店だった。カランコロンとドアベルが鳴る。薄暗い店内の一番奥の席で、一人の女性がコーヒーを飲みながら私を待っていた。お待ちしておりました、花子さん。立ち上がって私に深く頭を下げたのは、浩司が「若くて賢い最高のパートナー」と自慢してやまない愛人、リナだった。急に呼び出してごめんなさいね。リナさん、彼、すっかり上機嫌で、ついに例の封筒を私に渡してきたわ。私がバッグから茶封筒を取り出すと、リナは美しい顔に冷たい笑みを浮かべた。計画通りですね。浩司さんは、自分の立場がどれほど危ういか全く気づいていません。今はそう言うと、自分のバッグから分厚いファイルを取り出し、テーブルの上に置いた。実は昨日、彼から会社のお金に関してとんでもない指示を受けました。これ、全て証拠として抑えてあります。ファイルを開いた私の目に飛び込んできたのは、浩司がこれまで隠蔽してきた信じられない裏の顔を暴く決定的な資料だった。さらに、私が手にした茶封筒の中身。つまり浩司が自分のものになると信じきっている義母の資産の、恐るべき真実を知った時、全てのパズルのピースが完璧に組み上がったのだ。ぷっ。私は思わず声に出して笑ってしまった。あまりにも滑稽だったからだ。彼らは私を底辺だと見下しているが、本当に首の皮一枚で崖っぷちに立たされているのは一体どちらなのか。さあ、リナさん、義母のお葬式で全てを終わらせましょう。私がそう告げ、二人の湯呑みが小さく触れ合った。その瞬間だった。私のスマートフォンの着信音が無機質に鳴り響いた。画面には義母の入院先の病院の名前が映っている。電話に出た私の耳に、看護師の焦ったような声が飛び込んできた。花子さんですか?至急病院に来てください。せ子さんの容態が急変して、たった今。予想外の急展開。私とリナが仕掛けた地獄の罠の幕開けは、突然の知らせという形で唐突に引き金が引かれたのだった。
タクシーを飛び降り、病院の長い廊下を駆け抜けた私が病室にたどり着いた時、すでに義母の心電図は無慈悲な直線を描いていた。午後一時十五分、ご臨終です。担当医が静かに頭を下げる。だが、その厳粛な空気をぶち壊すように、背後のドアがバンと乱暴に開け放たれた。平日の昼間に死ぬなんて、とことん迷惑なババアだぜ。おかげで大事な会議をすっぽかすはめになったじゃねえか。今にも掴みかからんばかりの勢いで現れたのは、夫の浩司だった。ネクタイを緩め、汗も拭わずにずかずかとベッドに近づいた彼は、冷たくなった母親の顔を覗き込むなり、鼻で笑ったのだ。なんだ、もうすっかり死んでるじゃねえか。まあいい、これで俺の足を引っ張る厄介者がいなくなったってわけだ。タイミング的には悪くないな。おじいさん、身内のお母様に向かって、なんてことを。あまりの非常な言葉に、立ち会っていた若い看護師が思わず非難の声をあげた。だが浩司は悪びれるどころか、鬼の首を取ったようにはっと医師に詰め寄った。おい先生。お前の介護が手抜きだったから、こんなに早く死んだんだろ。この役立たずの底辺女が。生前の葬式代から何から、全部お前のへそくりで払えよ。俺の会社の人間に恥をかかせたら承知しねえからな。霊安室に移る前の病室に、浩司の心ない怒号が響き渡る。しかし私は一切の表情を崩さなかった。ただ冷ややかな目で浩司を見つめ、深い沈黙を守り続けた。お、もっと吠えなさい。自分の首を締めているとも知らずに。私の沈黙を、反論できない無能な妻だと都合よく解釈した浩司は、「俺は仕事に戻る。後の雑用は全部お前がやっておけ」と吐き捨て、嵐のように病室を出ていった。
静寂が戻った病室。数分後、そっとドアが開き、一人の女性が足音を忍ばせて入ってきた。先ほどまで私と喫茶店にいた、浩司の愛人であるリナだ。花子さん。リナはベッドで事切れている義母に一瞥もくれず、私の元へ歩み寄った。浩司さん、さっきから「ババアが死んだから今夜は高級フレンチでお祝いだ」ってメッセージを連投してきています。本当に吐き気がするほど気持ち悪い男ですね。リナの言葉に、私は静かに頷いた。浩司はリナのことを、自分に惚れ込んでいる若くて可愛い愛人だと信じて疑っていない。だがそれは完全な間違いだ。リナは私にとって意外な人物。私の母が身寄りのない子供たちのために長年私財を投じて支援していた育英基金の、かつての小学生だったのだ。三年前に起きたあの母の葬儀での悪夢。一番後ろの席で、浩司と義母が母の棺をひっくり返してゲラゲラと笑う姿を、リナは唇から血が出るほど噛み締めて見ていたという。恩人である母を侮辱されたリナは、私に接触し、浩司への復讐を誓い合った。彼女はあえて浩司の務める会社に入社し、美貌を武器に彼に近づき、愛人のふりをして彼の裏の顔を探っていたのだ。リナさん、あなたには本当に辛い役目を押し付けてしまったわね。母への恩返しなんてもう十分すぎるくらいよ。私がねぎらうと、リナは強く首を横に振った。とんでもありません。あの日、お母様の遺影が床に転がり落ちた光景を、私は一生忘れません。浩司さんとあの女に、絶対に地獄を見せます。リナの瞳には、私と同じ冷たく燃えるような復讐の炎が宿っていた。
浩司が知らない秘密は、リナの正体だけではない。彼は結婚以来ずっと、私と私の実家を底辺の貧乏人と貶し続けてきた。母が朝から晩までパートを掛け持ちし、質素な生活を送っていたのは事実だ。しかしそれは、母が「お金は本当に困っている人のために使うべき」という強い信念を持っていたからに過ぎない。実は私の母は、地元でも有名な旧家の大地主の一人だった。母が亡くなった後、私が相続した遺産。複数の土地の権利と、堅実に運用されていた莫大な株式資産。その総額は、浩司の生涯賃金など軽く吹き飛ばすほどの額に上っていたのだ。私はその事実を、この三年間、浩司に一切隠し通してきた。彼が「俺の稼ぎで食わせてやっている」と罵っている間、私の手元には彼を社会的に完全に抹殺できるだけの資金と力が、静かに蓄えられていたのである。
花子さん、いよいよ明日が本番ですね。はい。会社の方の準備は全て整っています。浩司さんが横領していた裏金の証拠もばっちりですから。私とリナは、冷たくなった義母の前で冷ややかな微笑みを交わした。その夜、自宅に戻った浩司は上機嫌でビールを煽りながら、私に命じた。おい花子、明日の通夜と明後日の葬儀、俺の会社の社長や重役、取引先のVIPが大勢来るんだ。絶対に安っぽい真似はすんなよ。貧乏人の親から生まれたお前には想像もつかないだろうが、一番高い祭壇と、一番高い変わり花を用意しろ。私は静かに頭を下げた。分かりました。浩司さん、義母様のために、ご列席の皆様が一生忘れられないような最高の式を手配させていただきます。私のその言葉が、彼をどん底へ突き落とすカウントダウンの合図だとは知らず、浩司は満足そうに高笑いをあげた。だが彼はまだ気づいていなかった。翌日の葬儀の会場で、彼が最も恐れる衝撃の事実が、全列席者の前で白日のもとにさらされることになろうとは。
翌日の夕方。市内でも最も格式高い葬儀場の、一番広いメインホール。そこはまるで企業の賀詞交換会場かのように異様な熱気に包まれていた。壁一面を埋め尽くす最高級の白い菊の祭壇。その中央には、穏やかな顔で眠る義母せ子の遺影が飾られている。しかし喪主である浩司の振る舞いは、母親の死を悼む息子のそれとはかけ離れていた。本日はお忙しい中、わざわざお越しいただき光栄です。ええ、来月からは取締役として再始動します。あっ、社長、社長もお見えになるとは。浩司は悲しむ素振りなど微塵も見せず、顔を赤くして会社の重役や取引先のVIPたちに名刺を配り歩いていた。彼にとってこの通夜は、自らの権力を示し、出世を確実にするための巨大な接待の場でしかなかったのだ。私が親族席の隅で控えめに立っていると、社長と談笑していた浩司が不意に私を指差して大声をあげた。おい花子、社長のグラスが空いてるだろうが。さっさと注ぎに来い。この役立たず。はい。私が無言で歩み寄ると、浩司は社長に向かって大袈裟に肩を竦めて見せた。いやー、社長、お見苦しいところをお見せして申し訳ありません。うちの嫁は実家が貧乏なもんで、こういう上流の場でのマナーってもんを全く知らない。底辺の女なんでね。教育するのに苦労してるんですよ。はははっ。静まり返る周囲。何人かの参列者が不快そうに眉を潜めたが、浩司はそれに全く気づかず、得意げに笑い声をあげている。おい、突っ立ってないで、さっさと奥へ引っ込んでろ。お前の貧乏臭い顔を見てると、こっちの運気まで下がるからな。容赦なく浴びせられる侮辱の言葉。だが私は一切反論しなかった。口を結び、ただ深く一礼してその場を静かに立ち去ったのだ。ええ、そうよ。もっと声を大にして私を貶めなさい。あなたのその傲慢な姿を、会社のトップ全員にしっかりと見せつけておくのよ。
問題はさらに拡大していく。浩司は自分の権力を見せつけるため、会社の総務部から数名の若手社員を、受付の手伝いという名目で強制的に借り出していたのだ。その中にはもちろん、リナの姿もあった。リナちゃん、今日も綺麗だね。受付なんて雑用させてごめんな。でも、俺の妻になるなら、こういう場にも慣れておいてもらわないとな。誰も見ていないバックヤードで、浩司はリナの腰に手を回し、ニヤニヤとだらしない声をかけていた。浩司さんったら、お気が早いんですから。でも、義母様の遺産も入りますし、これからの私たちの生活、楽しみですね。リナが甘えた声で演技をすると、浩司は完全に有頂天になった。ああ、あのババアが死んで残した金は全部俺のものだ。あの貧乏神の花子には一文も渡さねえ。明日の告別式が終わったら、即刻あいつを叩き出してやる。私は壁の裏側でその会話を聞きながら、冷たい笑みを浮かべていた。浩司は自分がどれほど巨大な罠の中心に立っているか、全く理解していないのだ。
そして運命の翌日。告別式には前日の通夜をさらに上回る、三百人以上の参列者が集まっていた。浩司の会社の社長、役員陣、主要な取引先のトップが最前列にずらりと並び、厳粛な空気がホールを包み込んでいる。これより、浩司様よりご参列の皆様へのご挨拶、並びに故人への特別追悼映像を行わせていただきます。司会者のアナウンスが響き、浩司が胸を張ってマイクの前に立った。本日は亡き母せ子のためにご参集いただき、誠にありがとうございます。浩司は事前に誰かに書かせたであろう感動的なスピーチを、涙声すら交えて白々しく読み上げている。浩司は私に「俺の偉大さと親孝行ぶりをアピールする感動的な映像を作れ、費用はお前持ちだ」と命じていた。彼は今頃、自分の株を最高に上げるための素晴らしいスライドショーが流れると信じきっている。だが、ホールの最奥。音響、映像のコントロールブースに立つ私の手には、小さなリモコンが握られていた。そして私の隣には、冷ややかな視線を祭壇の浩司に向けるリナが立っている。花子さん、準備完了です。社長たちの顔色が変わる瞬間が、今から楽しみですね。リナの囁きに、私は静かに頷き、リモコンの再生ボタンに指をかけた。
浩司がスピーチを終え、「それでは、母との思い出の映像をご覧ください」と芝居がかった手振りで巨大スクリーンを差し示した。会場の照明がゆっくりと落ちる。三百人の視線が一斉にスクリーンへと注がれた。だが、そこに映し出されたのは美しい親子の思い出の写真などではなかった。真っ暗な会場に突然響き渡ったのは、スピーカーが割れんばかりの信じられない音声と、衝撃の映像だったのだ。その瞬間、最前列に座っていた社長がたっ、と音を立てて立ち上がり、浩司の顔から一瞬にして血の気が引いていくこととなる。真っ暗な会場に響き渡ったのは、涙を誘うような感動的なBGMなどではなかった。耳を劈くような、下品で傲慢な男の怒声だったのだ。平日の昼間に死ぬなんて、とことん迷惑なババアだぜ。おかげで大事な会議をすっぽかすはめになったじゃねえか。巨大なスクリーンに映し出されたのは、病院の病室で吐き捨てたあの日の浩司の姿だった。隠しカメラで撮影された生々しい映像とクリアな音声が、三百人の参列者の鼓膜を容赦なく打ち据える。最前列に座っていた社長が、信じられないものを見る目で立ち上がった。しかし映像はそれだけでは終わらない。画面が切り替わり、今度は自宅のリビングでビールを飲みながら、浩司が電話で高笑いしている音声が流れ始めたのだ。ははは。ええ、あの老害社長なんてちょろいもんですよ。俺が取締役になれば、あのボケた頭を適当に丸め込んで、リースの案件からもっとキックバックを抜いてやりますよ。会社の金なんて、俺の財布みたいなもんですからね。その瞬間、葬儀場の空気が完全に凍りついた。この野郎。社長の顔が怒りでどす黒く染まり、隣に座っていた役員たちも一斉に立ち上がる。取引先であるB社の社長に至っては、怒りのあまり拳を震わせている。違うんです。誤解です、社長。これはAIで作った偽物の音声で。浩司は顔面を蒼白にし、マイクを握りしめたまま必死に言い訳を叫んだ。だが無情にもスクリーンには、次々と決定的な証拠が映し出されていく。浩司が愛人に会社の裏金で作った高級バッグをプレゼントしている生々しい映像。そして、私が毎日どれほどひどいモラハラを受けていたかを記録した、数々の暴言の音声。お前みたいな貧乏人の親から生まれた底辺女。俺の稼ぎがなけりゃ生きていけねえだろうが。親の葬式代も出せない無能な女が。ホールのあちこちから、なんて最低な男だ。自分の母親が死んだ日に、あんなことを言うなんて。と怒りと軽蔑が入り混じったひそひそ声が、波のように広がっていく。止めろ。誰かその映像を止めろ。完全にパニックに陥った浩司は、血走った目で会場を見回し、最奥のコントロールブースの前に立つ私の姿を捉えた。花子、お前だな。お前がこんなふざけた真似を仕組んだんだな。喪服のネクタイを振り乱し、猛獣のように私に向かって突進してくる浩司。この底辺の貧乏女が、俺の輝かしい人生を台無しにする気か。今すぐ止めないとぶっ殺してやる。大勢の参列者の前で、夫は私に向かって思いきり拳を振り上げた。だが、私は一歩も引かなかった。恐怖など微塵もない。ただ静かに、氷のように冷え切った目で、振り下ろされようとするその拳を見据え、深い沈黙を守り続けた。そうなさい。皆の目の前で露呈したその本性こそが、一番の証拠なのだから。私が無言で彼を睨み返したその時だ。そこまでにしておけ、浩司君。低く、しかし絶対的な威厳を持った声が、ホールに響き渡った。浩司の拳が、私の顔の数十センチ前でピタリと止まる。彼が震えながら振り返った先には、予想もしなかった意外な人物が立っていた。それは浩司の会社の社長だけではない。社長の隣に並び立ち、冷たい目で浩司を見下ろしていたのは、彼が「ボケていてちょろい」と豪語していた、最大の取引先であるB社の会長、その人だったのだ。
会長、これはあの妻のでっち上げで。見苦しい言い訳はよせ。映像が偽物かどうかは、お前のパソコンの裏帳簿を見れば一目瞭然だ。実は昨晩、君の身内から、我が社の監査部と君の会社の社長当てに、詳細な内部告発のデータが届いていてね。内部告発。浩司の顔からさらに血の気が引いていく。彼には全く心当たりがないようだった。当然だ。そのデータを緻密に集め、送信したのは、彼が最も信頼し、愛してやまない「若くて賢い最高のパートナー」であるリナなのだから。それに加えてだ。会長は鼻で笑うようにして決定的な一言を放った。君は一つ、取り返しのつかない勘違いをしている。君が先ほどから「底辺の貧乏女」と貶し続けている奥様、花子さんの本当の正体がどこにあるか、知らずに結婚したのかね。えっ。浩司は間抜けな声を漏らし、私と会長の顔を交互に見た。場中が息を飲む中、スクリーンから流れていた映像が不意に止まり、代わりに一枚の公的な書類が大写しにされた。それを見た瞬間、浩司は白目を剥きそうになりながら、その場に膝から崩れ落ちることになる。彼が「絶対に手に入れられる」と信じて疑わなかった遺産に隠された、恐るべき真実がそこに記されていたからだ。
巨大なスクリーンに映し出された一枚の書類。それは浩司と義母が暮らしていたあの自宅の、不動産登記簿だった。浩司は目を血走らせ、震える指でスクリーンを指さした。所有者の欄が「花子」だと?ふざけるな。この家は母さんの名義だ。俺が相続して、タワーマンションを買うための資金にするんだぞ。絶叫する浩司。しかし、私は一切の動揺を見せず、ただ冷ややかな目で彼を見下ろした。そう。それがあなたの最大の思い込み。私の深い沈黙に耐えきれなくなったのか、浩司は社長やB社会長に向かって必死に弁解を始めた。会長、これは書類の偽造です。こいつは貧乏人の娘で、こんな家を買えるわけがないんです。いつもスーパーの特売品ばかり買っているような、底辺の女なんですよ。浩司のその見苦しい侮辱の言葉を聞いた瞬間、B社会長は深いため息をつき、呆れ果てたように首を振った。浩司君、君は本当に何も見てこなかったのだな。彼女のお母様、つまり三年前に君が葬儀で棺をひっくり返したというあの方こそが、我がB社が倒産の危機に陥った時、私財を投げ打って救ってくださった大恩人なのだよ。わあ。浩司の口から間抜けな声が漏れた。彼女の実家は、この界隈でも有数の大地主にして旧家だ。お母様は「お金は本当に困っている人のために使うべき」という信念の持ち主で、ご自身は質素な生活を貫いておられた。だがその総資産は、君の会社の資本金など軽く吹き飛ばすほどの額だぞ。会長の言葉に、参列していた社長や役員たちからどよめきが上がった。浩司はまるで幽霊でも見たかのように、口をパクパクと開閉させている。う、嘘だ。だって、こいつ、いつも俺の稼ぎで飯を食わせてもらって。私はそこで初めて、静かに口を開いた。浩司さん、あなた、義母様が裏でどれだけの借金を抱えていたか、本当にご存知なかったの?借金だと?ええ、義母様はご近所に見栄を張るために高級な着物や宝石を買い漁り、あちこちの消費者金融から多額の借金を重ねていたのよ。家はとっくに抵当に入り、競売にかけられる寸前だったわ。それを不憫に思った私の母が、自分の資産からこっそりと全額を肩代わりし、家を買い戻してくれたの。だから、あの家の所有者は、ずっと前から私よ。義母様は私に毎月家賃を払う形で、住ませてもらっていただけなの。浩司の顔色が見る見るうちに土色に変わっていく。彼が自分のものになると信じて疑わなかった資産など、最初から存在しなかったのだ。むしろ、彼が名義変更のために私に押し付けたあの茶封筒の中身。義母の預金口座の通帳には、まだ返しきれていない数千万円の借金の残高が記されていたのだ。騙したな、この小悪魔が。お前、俺を落とし入れるために、ずっと黙ってたんだな。浩司は錯乱し、血走った目で私を睨みつけた。そして藁にもすがる思いで、受付の近くに立っていた一人の女性に向かって叫んだ。リナ、リナ!お前からも言ってやってくれ。俺は会社のために必死に働いてきたんだ。こいつらがグルになって、俺を嵌めようとしてるって。お前なら分かるよな。
浩司にとって「若くて賢い最高のパートナー」であり、自分の全てを理解してくれているはずの愛人。だが、呼ばれたリナはいつもの愛想笑いなど微塵も見せず、氷のように冷たい視線を浩司に向けた。そして、コツコツとヒールの音を響かせながら、ゆっくりと浩司の目の前まで歩み寄った。リナ、お前がいれば、俺は。浩司さん。リナの声は、まるで虫けらを見るかのように冷淡だった。私、あなたが横領した会社の裏金で作ってくれた、あの高級バッグ、全部売ってお金に換えました。そのお金、花子さんのお母様が設立した育英基金に、全額寄付させていただいたんです。いえ、それから。あなたが酔っ払って私に自慢げに見せてくれた、不正なキックバックの裏帳簿のデータ。あれ、昨日の夜、私が監査部とB社会長に一斉送信しておきました。リナのその一言に、浩司は完全に言葉を失った。目を見開き、信じられないというようにリナを凝視している。な、なんでだ。お前、俺のことが好きだったんじゃないのか。俺と一緒にタワーマンションに住むって、冗談でしょ。リナはふっと鼻で笑い、参列者全員に聞こえるような通る声で言い放った。三年前にあなたが棺をひっくり返した、花子さんのお母様。私は施設で育ち、大学へ行くための奨学金を全額支援してくださった、命の恩人なんです。あの日、あなたの下品な笑い顔を見た時から、私はあなたを地獄に落とすことだけを考えて生きてきたのよ。ああ。味方だと信じていた愛人が、実は最大の敵であり、最初から自分を破滅させるための計画だった。その事実を突きつけられた浩司は、ついに膝から崩れ落ち、祭壇の前で無様な姿をさらした。社長、うちの会社から、こんな横領犯を出すわけにはいかんな。即刻、警察へ通報したまえ。B社会長の冷徹な指示が飛び、社長も慌てて「はい、すぐに手配します」とスマートフォンを取り出した。全てが終わった。浩司は社会的地位も財産も愛人も、全てを失ったのだ。だが、私の復讐はこれで終わりではなかった。
這いつくばって震える浩司を見下ろしながら、私はバッグの中から、ある一枚の書類を取り出した。浩司さん、実はね、あなたにもう一つお伝えしなければならない、最大の事実があるのよ。私が告げたその言葉が、浩司をさらなる絶望の底へと引きずり込むことになるとは。この時の彼はまだ知るよしもなかった。葬儀場の冷たい床に這いつくばり、ガタガタと震える浩司。私はその無様な姿を静かに見下ろしながら、手に持っていた一枚の法的な書類を彼の目の前に突きつけた。な、なんだよそれは。もう、俺を落とし入れるネタなんて、ないはずだろ。浩司さん、あなたは先ほど「遺産を相続する」と豪語していましたね。でも、義母様が残したのは莫大な借金だけだと言いました。だから、俺はそんな借金、一文も払わねえぞ。相続放棄してやる。そうすれば、借金はチャラだ。血走った目で叫ぶ浩司。しかし、私は氷のように冷ややかな微笑みを浮かべた。いいえ、できませんよ。あなたはもう、相続放棄できないんです。わあっ、なんでだよ。あなたが数日前に、私にドヤ顔で投げつけた封筒を覚えていますか?義母様の預金をあなたの名義に移すための書類が入った、あの封筒です。浩司の瞳孔がカッと大きく開いた。あなたが「俺の出世の布石だ」「貧乏人には縁のない話だ」と罵りながら、私に役所と銀行へ行かせましたよね。実は、法律上、亡くなった方の財産を少しでも動かしたり、名義変更の手続きを進めたりした場合、「単純承認」と言って、借金も含めた全ての遺産を無条件で相続したと見なされるんです。あなたはご丁寧にも、義母様が生きているうちから強引に書類を書かせ、私に手続きを命令した。おかげで、義母様の抱えていた五千万円の借金は、完全にあなた個人のものとして確定したんですよ。浩司の顔面から、さらにスッと血の気が引いていくのが分かった。参列者たちも、自業自得だ。なんて愚かな男だ、とひそひそと囁き合っている。しかも浩司さん、義母様の借金を立て替えた私の母が亡くなった後、その債権、つまりお金を返してもらう権利は、一人である私が全て相続しています。つまり、今のあなたの最大の借金の債権者は、あなたが見下し続けてきた私なのよ。五千万。浩司は喉の奥からヒューヒューと奇妙な音を漏らし、後ずさった。会社を首になり、警察沙汰になる上に、妻から五千万円の借金返済を迫られる。完全に退路を断たれたのだ。
しかし、この男の往生際の悪さは異常だった。極限状態に追い込まれた浩司は、突然立ち上がり、顔を真っ赤にして私に向かって狂ったように吠え始めたのだ。ふ、ふざけるな。この底辺の貧乏女が、小賢しい罠を張り巡らせたところで、俺がこんな証紙一枚で屈すると思うなよ。浩司は口から唾を飛ばしながら、汚い暴言を吐き続けた。俺にはな、まだ最後の切り札があるんだよ。お前なんかよりずっと優秀な、俺のエリートの血を引く一人の娘がいるんだ。あいつは都内の大手法律事務所で働く、超エリート弁護士だ。娘に頼んで、お前みたいな高卒の脳なし女が作った、こんな詐欺書類、全部無効にしてやる。娘は絶対に、父親の俺の味方をするからな。ホール中に響き渡る、浩司の見苦しい絶叫。娘の権威を傘に着て、私を徹底的に侮辱しにかかる。だが、私は一切言い返さなかった。ただ深く静かな沈黙を守り、哀れなピエロを見るような目で彼を見つめ続けた。ええ、呼んでみなさいよ。あなたが自慢してやまない、そのエリートの娘を。私の不気味な沈黙に、浩司が「ビビって声も出ねえか」と勝ち誇ったように笑おうとした。その瞬間だった。本当に見苦しいわね、お父さん。最奥の重厚な扉が開き、ピンと張り詰めた静寂のホールに、凛とした若い女性の声が響き渡った。コツコツとヒールの音を響かせ、参列者の間を真っ直ぐに歩いてくる長身の女性。娘が、呆然と呟いた。そこに現れたのは、浩司が今まさに助けを求めた意外な人物。私たちの一人娘であり、若き辣腕弁護士の娘だったのだ。おお、娘、よく来てくれた。おい、この狂った女を今すぐ訴えろ。こいつ、俺を騙して借金を押し付けようとして。黙りなさい。娘の冷たく鋭い一言が、その言葉をピシャリと遮った。その声の冷徹さに、浩司はまるでカエルが蛇に睨まれたように、口をパクパクさせている。誰を?私をですか?ええ、お母さんが今持っているその完璧な法的書類。そして、リナさんがあなたの会社とB社に送った内部告発の証拠データ。それらを全て法的に精査し、裏で糸を引いて作成したのは、弁護士である私よ。わあっ、嘘だろう。お前は俺の。私はあなたという人間を、心の底から軽蔑しているわ。お母さんと亡くなったおばあちゃんを、ゴミのように扱い続けたあなたを絶対に許さない。私が必死に勉強して弁護士になったのは、全て今日この場で、あなたを完全に社会から抹殺するためなのよ。実の娘からの残酷な死刑宣告。自分の血を分けた娘までもが、この三年間、私とリナと共に完璧な復讐計画のシナリオを描いていた中心人物だったのだ。ああ。浩司は今度こそ完全に心が折れ、崩れ落ちるように床に突っ伏した。もう彼には、名声もお金も愛人も、そして家族すらも、何ひとつ残っていない。
さて、お父さん。これで、あなたの罪は全て暴かれたけれど。娘は冷たい目で浩司を見下ろしながら、ゆっくりと祭壇の方へ視線を向けた。今日のこの葬式について、あなたが全く気づいていない最大の事実が、もう一つだけあるわ。もう一つ。絶望のどん底で、浩司ががうめき声を上げる。娘は後ろで控えていた葬儀スタッフに向かって、小さく頷いた。そして私と娘の冷ややかな視線が交差する中、ホールの中央に安置された義母の立派な棺桶に、信じられない異変が起こったのだ。娘の合図と共に、祭壇の横に控えていた数名のスタッフが、厳粛な足取りで中央の最高級の棺へと近づいた。な、何をする気だ?床に這いつくばった浩司が、血走った目でその様子を見上げる。スタッフがゆっくりと白い蓋を横へスライドさせた。その瞬間、中から溢れんばかりの美しい花々と、白百合の甘い香りがホール全体を包み込んだ。だが、棺の中を覗き込んだ最前列の参列者たちは一様に息を飲み、そして信じられないものを見たようにざわめき始めたのだ。浩司もフラフラと立ち上がり、棺の中を覗き込む。わあっ、な、なんだこれは?浩司の口から間抜けな声が漏れた。最高級の棺の中に安置されていたのは、義母せ子の遺体ではなかった。そこには、美しい花に囲まれるようにして立派な白木の位牌。そして、穏やかな笑顔を浮かべる、私の母の遺影が飾られていたのだ。ど、どういうことだ?なんで、このババアの写真がここにあるんだ?俺の母さんは、どこに行った?パニックに陥った浩司は、再び私に向かって唾を飛ばしながら怒鳴り散らした。この貧乏神が。俺の会社の人間に見せるための立派な葬式を、お前の底辺の母親の法事にすり替えやがって。ふざけるな。どこまでも愚かな女だ。お前みたいな貧乏育ちのクズには、他人の葬式を乗っ取る泥棒の血が流れてるんだ。ホール中に響き渡る、あまりにも見苦しい侮辱の言葉。しかし、私は一切の反論をしなかった。怒りで顔を真っ赤にして怒鳴り散らす浩司を、ただ静かに、氷のように冷たい目で見つめ続けた。私が沈黙を守れば守るほど、浩司の異常な怒号だけが静まり返ったホールに虚しく響き渡り、彼自身の首をさらにきつく締め上げていく。本当に救いのない男だな。低く震える声と共に、浩司の前に進み出たのは意外な人物、B社の会長だった。会長は浩司を虫けらでも見るかのように冷たく見下ろした後、私の母の遺影が飾られた棺の前に進み出ると、深々と頭を下げたのだ。我が社の命の恩人であるお母様の三年祭。このような素晴らしい場を用意していただき、花子さん、本当にありがとうございます。私は今日、せ子さんではなくお母様に、感謝の花を手向けるためにここへ参りました。会長、何を言って。俺の母さんの葬式で、その恩着せがましい。黙りなさい。会長の一喝に、浩司はビクッと肩を震わせ、完全に言葉を失った。
お父さん、「母さんはどこだ」と探しているけれど。娘が冷ややかに言い放ち、再びスタッフに目くばせをした。ホールの隅から、一台の無骨な台車がゴロゴロと軋む音を立てて運ばれてくる。その上に乗せられていたのは、スーパーの裏口に捨てられているような、ガムテープで無造作に補強された薄汚いダンボール箱だった。わあっ。浩司が呆然と目を見開く。義母様のご遺体は、あなたのご意向通り、そちらのダンボールに安置させていただいたわ。私が静かにそう告げると、浩司は発狂したように頭を抱えた。だ、お前。俺の母親を、ゴミみたいにダンボールに詰めたのか。狂ってる。正気か、お前は。正気よ。だって、あなたが私に言ったんじゃない。私は一歩前に出て、三百人の参列者全員に聞こえるようにはっきりと告げた。葬式代はお前のへそくりでどうにかしろ。適当に安いダンボールにでも詰めて焼けば十分だ。どうせ死んだ人間なんだからな。ってね。浩司の顔色が、土色から一気に真っ白へと変わる。お父さん。あなたが酔っ払ってその暴言を吐いた時の音声、さっきの映像の中にしっかり残っていたわよね。娘が追い打ちをかけるように、冷酷な事実を突きつけた。しかもあなたは、葬儀の打ち合わせを全て母さんに丸投げして、このダンボール葬プランの同意書に、中身も見ずに自分の拇印を押した。これは法的に何の問題もない、完璧なあなたの指示よ。弁護士の私が保証するわ。ホールのあちこちから、最低だ。自分の母親をダンボールに詰めるなんて。鬼畜の所業だ。という怒りと軽蔑に満ちた声が、波のように広がっていく。会社の金を横領し、愛人に貢ぎ、自分の母親の葬儀すらケチってダンボールに詰めさせ、その責任を妻に押し付けようとした男。それが浩司という人間の完全な正体だったのだ。ああ、ああ。違う。俺は、俺はただ。完全に退路を断たれ、床に崩れ込んだ浩司。彼がすがりつくものは、もはやこの世のどこにも存在しなかった。富も権力も家族の絆も、全て彼自身の手で粉々に破壊してしまったのだから。
その時だった。葬儀場の外から、無機質なサイレンの音が近づいてきたのだ。赤色灯のサイレンが、ステンドグラスの窓越しにホールの壁を不気味な赤色に染め上げる。B社会長が通報した警察のパトカーが到着したのだ。いよいよ、この長かった壮大な復讐計画の最終幕が始まろうとしていた。しかし、浩司を待ち受けていたのは、単なる横領での逮捕という結末だけではなかった。この直後、彼が三年前に犯した最大の罪が、十倍の絶望となって、信じられない形で彼自身の身に振りかかることになろうとは。ステンドグラスの窓越しに、赤色灯の不気味な光がホールの壁をチカチカと染め上げていく。無機質なサイレンの音がピタリと止むと同時に、葬儀場の重厚な扉がガチャリと開かれた。警察です。B社会長並びにA社長からの通報を受け、業務上横領及び特別背任の容疑で、喪主の浩司さんはどちらですか?制服警官数名と共に、鋭い眼光を持った刑事がホールへと足を踏み入れた。その間に、三百人の参列者たちがさっと道を開ける。警察の姿を見た瞬間、床に崩れ込んでいた浩司は、まるで熱湯を浴びたカエルのように飛び上がった。ち、違う。俺じゃない。刑事さん、俺は嵌められたんだ。浩司は血走った目に涙を浮かべ、乱れた髪を振り乱しながら、私に向かって指を突きつけた。全部こいつの仕業だ。この底辺の貧乏女が、俺の優秀な頭脳に嫉妬して、財産を奪うために仕組んだ罠なんだよ。中卒だか高卒だか知らねえが、ろくな教養もないクズ女が、娘まで洗脳して、俺を落とし入れようとしてるんだ。逮捕するなら、この貧乏神の女を逮捕しろ。ホール中に響き渡る、あまりにも見苦しい最後の絶叫。自分の罪を一切認めず、最後まで妻である私を侮辱し、責任を擦り付けようとするその醜悪な姿に、参列者たちは嫌悪感を通り越して言葉を失っていた。だが、私は一歩も引かず、一切の反論もしなかった。ただ狂ったように吠え面をかく夫を、氷のように冷たく、そして深い哀れみを込めた目で見つめ続けた。私が完全なる沈黙を貫くことで、浩司の異常な暴言だけがホールに虚しく響き渡り、彼がいかに卑劣な人間であるかを、警察と全参列者の心に深く刻み込んでいくのだ。もういい。見苦しいぞ。署でたっぷりと話を聞かせてもらおう。刑事が低い声で一喝し、手錠を片手に浩司へと歩み寄る。ひ、嫌だ。俺はエリートだぞ。取締役になる男だぞ。完全にパニック状態に陥った浩司は、刑事の手から逃れるため、祭壇の方へ向かって無様に逃げ出そうとした。逃げるな。警官たちが一斉に飛び出す。浩司は「来るな」と叫びながら後ずさりし、パニックのあまり足元がもつれた。そして、あろうことか。背後にあった簡素な台車に、思いきり背中から激突してしまったのだ。ドガッという激突の衝撃で、台車の上に乗せられていた薄汚いダンボール箱が、勢いよく床を滑った。ガムテープで無造作に補強された、義母の遺体が入ったダンボール箱。バリバシャーッ。安物のダンボールは床に叩きつけられた衝撃で、あっけなく破裂した。そして中に入っていた、安物の薄い布に包まれた義母の遺体が、無残にも冷たい大理石の床の上へと転がり出たのだ。三百人の参列者から、一斉に悲鳴と息を飲む音が上がった。浩司は床に這いつくばったまま、目の前に転がり出た母の遺体を見て、信じられないというように口を大きく開けたまま固まっていた。浩司さん。私は静かに歩み寄り、床に転がった義母の遺体と、呆然とする浩司を見下ろした。三年前の母のお葬式で、あなたが母の棺をひっくり返して笑った日のこと、覚えているわよね。あの日、あなたは「こんな貧乏臭い死に顔なんて誰も見たくないんだよ」と吐き捨てたわね。ああ。今日、あなたは自分の手で、母の遺体をダンボールごとひっくり返した。しかも、三百人もの会社の重役や取引先、そして警察の目の前でね。うあああっ。義母様は、あなたが一番見栄を張りたい人たちの前で、ゴミのように床に転がっている。これが、あなたが私と母に与えた痛みの、十倍の絶望よ。どう?自分の手で母親を辱める気分は。私の冷酷な言葉がホールに響き渡った瞬間、浩司の目からボロボロと大粒の涙が溢れ出した。ああ、母さん、母さん。彼は自分の愚かさと、取り返しのつかない罪の重さにようやく気づき、床に額を擦りつけて慟哭し始めた。だが、彼に向かって同情の目を向けるものは、このホールにただの一人も存在しなかった。刑務所でたっぷり絞ってやる。警官たちが浩司の両脇を抱え上げ、冷たい手錠がガチャリと無情な音を立てて、彼の両手に食い込んだ。嫌だ。許してくれ。花子!娘!助けてくれ。無様に泣き叫びながら、浩司は警察官に引きずられていく。B社会長も、浩司の会社の社長も、そしてかつての愛人であったリナも、ただ冷たい目でその背中を見送っていた。
全てが終わった。三年越しの、私の完璧な復讐計画が。母の無念を晴らし、私たちを見下し続けたモラハラ夫と義母に、これ以上ない地獄を見せることができたのだ。お母さん、終わったよ。私は祭壇の上の立派な棺に飾られた、母の優しい遺影に向かって静かに頭を下げた。隣に立つ娘も、そっと私の肩に手を置き、「お疲れ様、お母さん」と微笑んでくれた。しかし、浩司がパトカーに乗せられようとした、まさにその時だった。待ってください。刑事さん。突如、葬儀場の入口から息を切らして駆け込んでくる、意外な人物の姿があった。それは義母が亡くなる直前まで入院していた、総合病院の担当医、佐藤先生だったのだ。先生、どうしてここに。私が驚いて尋ねると、佐藤医師は手にした分厚いカルテのようなものを握りしめ、顔面を蒼白にしながら叫んだ。刑事さん、皆さん。その男を連れて行く前に、この書類を見てください。せ子さんの死因について、血液検査のやり直しを行った結果、とんでもない事実が判明したんです。とんでもない事実。刑事が訝しげに眉を潜める。引きずられていた浩司も、涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら振り返った。佐藤医師が震える指で差し出したその検査結果には、横領や借金などという次元をはるかに超えた、浩司の決定的な罪が記されていたのだ。それを聞いた瞬間、浩司は今度こそ完全に白目を向き、その場で泡を吹いて気絶することになる。
待ってください。刑事さん。葬儀場の静寂を切り裂くように駆け込んできたのは、義母の最後を看取った総合病院の担当医、佐藤先生だった。その背後には、見覚えのある若い看護師の姿もある。佐藤先生、それに看護師さんまで。一体、どうしたんですか?私が尋ねると、佐藤医師は息を切らせながら、手に握りしめていた分厚い検査報告書を刑事へと差し出した。警察の皆さん、その男を連行する前に、これを確認してください。せ子さんのあれは、単なる心不全による死亡ではありませんでした。なんだと。刑事が鋭い声を上げ、報告書を受け取る。亡くなられた直後、あまりにも不自然な心停止だったため、念のために血液検査をやり直したんです。その結果、せ子さんの血液から、当院では一切処方していない、筋弛緩剤の強力な成分が検出されました。つまり、何者かが意図的に薬物を投与した、殺人事件です。殺人。三百人の参列者から、今日一番の悲鳴とどよめきが上がった。社長やB社会長も顔面を蒼白にし、後ずさる。床に引き倒され、手錠をかけられそうになっていた浩司は、その言葉を聞いた瞬間、全身をビクッと硬直させた。な、何を馬鹿なこと言ってるんだ。俺の母さんが殺されただと?浩司は血走った目を剥き、首をギシギシと回して私を睨みつけた。お前だな、花子。お前がやったんだな。浩司は発狂したように叫び、再び私に向かって口から泡を飛ばして暴言を吐き始めた。刑事さん、犯人はこいつです。この底辺の貧乏女が、俺の母さんの介護に飽き飽きして、毒を持ったんですよ。中卒だか高卒だか知らねえが、ろくな教養もない無能な女だから、薬の量も読み違えて殺しちまったんだ。俺の出世の邪魔をするために、この罪を着せようとしてるんだ。身の母親が殺害されたという事実を突きつけられてなお、彼は自分の保身のためには、妻を侮辱し、全ての罪を着せようとした。だが、私は一言も発しなかった。言い訳をする必要などない。私はただ、氷のように冷たく、底なしの軽蔑を込めた視線で、床に這いつくばる愚かな男を見下ろすだけだった。私の深い沈黙が、浩司の焦りと錯乱を一層強くさせている。
その時だった。佐藤医師の後ろに隠れるように立っていた若い看護師が、震える声で、しかしはっきりと口を開いた。嘘です。花子さんは、そんなことしていません。ああ?なんだと。この適当なこと言ってんじゃねえぞ。怒鳴る浩司に向かって、看護師は一歩前に踏み出し、参会者に聞こえる声で告発した。せ子さんが亡くなる直前のお昼過ぎです。浩司さんが突然病室にやってきて、「母さんに特別な栄養ドリンクを飲ませるから、お前は外に出てろ」って、私を無理やり病室から追い出したんです。その数分後に、せ子さんの容態が急変した。あの時、病室にいたのは、浩司さん。あなただけです。浩司の顔から完全に血の気が引いた。ち、違う。俺はただ、栄養ドリンクを。防犯カメラの映像も確認済みです。佐藤医師が冷徹に追い打ちをかける。あなたが病室に入る前、廊下の隅で、ドリンクの瓶に怪しげな粉末を混ぜている姿が、ばっちりと映っていましたよ。すでにその映像データは、警察に提出する準備ができています。完璧な法的証拠だ。浩司は、自分の取締役への昇進と愛人とのタワーマンション生活を急ぐあまり、足かせとなる母親を自らの手で葬り去ったのだ。そして、その母親の遺産である大金を手に入れるため、生きているうちから財産分与の遺言を書かせ、私に手続きを急がせた。しかし、その結果はどうだ?ははは。私は堪えきれず、静かなホールに響くような乾いた笑い声を漏らした。笑えるわね。浩司さん。あなたは邪魔な母親を自分の手で殺し、殺人犯になってまで、五千万円の借金を相続したのよ。ああ。自分の親を殺してまで手に入れたかったのが、一生かかっても返せない莫大な借金と、冷たい刑務所の独房だなんて。本当にあなたらしい、滑稽な人生の掉尾ね。私の言葉に、浩司は完全に魂を抜かれたように口を開け、ガクガクと全身を震わせた。横領、特別背任、そして母親への殺人容疑。もはや言い逃れできる余地は、一ミリも残されていなかった。話は署でじっくりと聞かせてもらう。刑事が容赦なく浩司の腕を引っ張り上げ、ついに冷たい手錠がガチャリと重い音を立てて、彼の両手にロックされた。嫌だ。嘘だろ。俺の輝かしい人生が。俺はエリートで。商店の合わない目でブツブツと呟きながら、浩司は警官たちに引きずられていく。散らばった花と、無残に破裂したダンボール箱。そして冷たい床に転がった母の遺体に見送られながら。
お疲れ様でした、花子さん。B社会長が静かに歩み寄り、私と娘に向かって深く一礼した。あの男には、法の裁きと社会的制裁、両方を徹底的に受けさせます。我が社としても、彼を絶対に許すつもりはありません。これで、本当に私の三年間に及ぶ復讐は、完璧な形で幕を閉じた。そう思っていた。しかし、パトカーに乗せられる直前。葬儀場の入口で必死に抵抗していた浩司が、最後の悪あがきとばかりに血走った目で私を振り返り、不気味な笑みを浮かべて叫んだのだ。へへへ。喜ぶのはまだ早いぞ、花子。何、俺が捕まっても、お前には一文も入らねえよ。なぜなら、俺は会社の裏金を全部、海外の隠し口座に移してあるからな。借金なんて、踏み倒してやる。俺が出所したら、その金で海外に逃げて、一生遊んで暮らしてやるんだよ。負け犬の泣き言か。だが、浩司のその言葉を聞いた瞬間、私の隣に立っていた娘が、ふっと氷のように冷たい笑みをこぼした。ねえ、お母さん。あのバカな男、まだ自分が誰に喧嘩を売ったのか、全く分かっていないみたいね。娘はそう呟くと、すっと前に進み出た。そして、パトカーに押し込まれようとしている父親に向かって、彼の最後の希望である隠し財産を根底から打ち砕く、とどめの一撃を放つことになる。待ちなさい、お父さん。最後に、あなたの唯一の希望を、粉々に打ち砕いてあげるわ。パトカーのドアに押し込まれようとしていた浩司の動きが、娘の冷酷な一言でピタリと止まった。真っ赤なパトライトの光に照らされた浩司の顔は、狂気と期待が入り混じった、見るに堪えないものだった。へへへ、なんだよ、娘。今更、父親が恋しくなったか?さっきも言った通りだ。俺には海外の隠し口座に、お前らみたいな底辺には一生拝めないほどの大金が眠ってるんだよ。お前ら親子がどれだけ嵌めようが、俺は出所したら南の島で優雅に暮らすんだ。ざまあ見ろ。浩司は手錠をかけられた両手を振り回し、勝利を確信したように下品な笑い声をあげた。周囲の警察官たちが呆れ果てたようにため息をつく中、娘はふっと哀れみのこもった笑みを浮かべた。お父さん、あなたは本当に救いのないほど無能ね。エリートを自称しておきながら、自分の身の周りにいた女性たちが、どれだけあなたのことを見限っていたか、最後まで気づかなかったなんて。ああ、何を言ってやがる。あなたが数年かけてコツコツと海外口座に移していた、あの裏金のことよ。あのアカウントのパスワード、あなたが酔っ払って寝言で言っていたの、私がしっかり聞いていたと思っているの?浩司の顔から、見る見るうちに余裕が消えていく。な、なんで、それを。あれは、俺が誰にも教えずに管理していたはずだ。いいえ。あなたが絶大な信頼を寄せていたリナさんが、あなたの指紋やパスコードを全て記録して、私に届けてくれていたのよ。娘が視線を向けると、葬儀場の入口に立っていたリナが、冷ややかな微笑みを浮かべて浩司に手を振った。浩司は、まるで心臓を直接握り潰されたような顔をして絶句した。そ、そんな。リナ。お前、俺を愛してたんじゃないのか。一緒に海外へ逃げる約束を。浩司さん、鏡を見たことがありますか?リナの声は吐き捨てるように冷たかった。あなたのような、自分の親を殺し、妻を泥棒呼ばわりする最低な男。誰が本気で愛すると思うんですか?私はただ、お母様、花子さんの母への恩返しのために、あなたの汚い金を、一円の残らず回収したかっただけよ。そう言うと、娘がスマートフォンを浩司の目の前に突きつけた。画面に表示されていたのは、海外のプライベートバンクの残高照会画面だった。残念だったわね、お父さん。あなたの隠し口座の残高は、ちょうど一時間前に、ゼロになったわ。横領されたお金は、利息を含めて全て会社に返還される手続きを済ませた。そして、余った分は全て、おばあちゃん、花子の母が運営していた慈善団体へ寄付したわ。な、なんだって。俺の金が。俺の、俺の輝かしい未来の資金が。浩司はパトカーの車体に頭を打ちつけ、獣のような悲鳴を上げた。だが、とどめの一撃はまだ終わっていなかった。
私は静かに歩み寄り、パトカーの中に押し込められた浩司を真正面から見つめた。今日という日まで、彼から浴びせられ続けた数えきれないほどの侮辱、暴力、そして最愛の母への暴虐。その全てを、この一瞬間に込めて、私は口を開いた。浩司さん。あなたは、私を「底辺の貧乏女」と呼び続けたわね。でも、今のあなたはどうかしら?ぶっ、花子。許してくれ。悪かった。俺が悪かったんだ。いいえ。許さないわ。あなたはこれから、殺人犯として一生を刑務所で過ごすのよ。そしてね、忘れないで。あなたが相続した五千万円の借金は、たとえあなたが刑務所にいようとも、私が一円の容赦なく、あなたの全財産をかけて回収し続けてあげる。自己破産も、相続放棄も、もう二度とできない地獄の中でね。ああ、ああ。浩司は今度こそ完全に発狂したように、自分の頭を掻き毟った。エリートを自称し、他人の尊厳を平気で踏みにじってきた男の、これが最終的な姿だった。名誉も、金も、家族も、そして最後にすがった隠し財産という希望さえも、全て一つ残らず奪い去られたのだ。連れて行け。刑事の怒号と共に、パトカーのドアが乱暴に閉められた。車の中から響き渡る浩司の絶叫は、遠ざかるサイレンの音にかき消され、夜の闇へと吸い込まれていった。
嵐が去った後のような静まり返った葬儀場。参列者たちは言葉を失ったまま、呆然とその光景を見つめていた。そこへ、B社会長がゆっくりと歩み寄り、私の手を優しく取った。花子さん、本当によく耐えられましたね。あの方、花子の母も、天国であなたの勇気を誇りに思っているはずです。会長、ありがとうございます。私は祭壇の上に飾られた、母の遺影を見上げた。そこには、三年前のあの日からずっと止まっていた母の笑顔が、ようやく安らかに輝いているように見えた。お母さん、やっと終わったよ。お母さんの誇りも、私たちの人生も、全部取り戻したよ。私の頬を一筋の涙が伝った。それは悲しみの涙ではなく、三年間溜め込み続けた重い荷物を、ようやく下ろすことができた解放の涙だった。しかし、この壮絶な逆転劇の結末には、もう一つだけ誰にも予想できなかった、感動の奇跡が待っていた。母の棺の中に納められていた白木の位牌。その下に隠されていたのは、私への復讐の道具ではなく、母が死の直前まで書き綴っていた、あまりにも温かい最後の手紙だったのだ。その手紙の内容が明かされる時、冷え切っていた私の心は、本当の意味で救われることになる。
警察車両が遠ざかり、嵐のような喧騒が去った後の葬儀場。そこには静寂と、最高級の白菊のすがすがしい香りだけが残されていた。慌ただしく参列していた親族や知人たちも、B社会長の促しによって静かに会場を後にしていった。広大なホールに残ったのは、私と娘、そして復讐の協力者となってくれたリナさんの、三人だけだった。お母さん、これ。おばあちゃんの写真の後ろに隠されていたわ。娘が先ほどまで祭壇の棺の中に置かれていた白木の位牌を、大事そうに抱えて持ってきた。私は震える手で、その下に敷かれていた白い布をめくった。そこには、古びた一通の封筒が入っていた。表書きには、母の優しく力強い筆跡で、「愛する花子へ」と書かれている。私は吸い込まれるように、その手紙を開いた。花子。あなたがこの手紙を読んでいるということは、全てが終わった時なのでしょうね。あなたが浩司さんの仕打ちに耐え、私のために、そして娘のために、どれほど心を砕いてきたか、私はずっと知っていましたよ。私が自分の資産を隠し、質素な生活を貫いたのは、お金で人の心を買うような人間に、なって欲しくなかったからです。でも、あの日、私の葬儀であなたが流した涙を見て、私は確信しました。あなたは私よりもずっと強く、気高い心を持った女性に育ってくれたと。花子、復讐はあなたの心を癒しはしません。でも、自分を大切にしない人間から逃げ出せることは、決して恥ずかしいことではないのですよ。この箱の底に、私があなたに残した本当の贈り物を入れておきました。これからは、誰のためでもない。あなた自身の人生を歩みなさい。私はいつでも、あなたの味方です。母より。お母さん。手紙を読み終えた瞬間、私の目から大粒の涙が溢れ出し、止まらなくなった。母は知っていたのだ。私が浩司のモラハラに耐え、ボロボロになりながらも、立ち向かおうとしていたこと。そして、私が自らの手で地獄を抜け出し、自由を勝ち取るその日を、信じて待っていてくれたのだ。箱の底を探ると、小さな金色の鍵と、一枚の地図が出てきた。それは、母が密かに購入し、美しく整えていたという、海の見える高台にある小さな家への鍵だった。お母さん、これからは、あの家で一緒に暮らしましょう。もう誰にも、私たちの尊厳を汚させたりしない。私たちが本当の幸せを掴むことが、おばあちゃんへの一番の供養になるわ。娘が私の肩を抱き寄せ、優しく微笑んだ。リナさんも、晴れやかな表情で私に歩み寄った。花子さん。お母様の奨学金で救われた私たちが、今度は花子さんを支える番です。浩司さんから取り戻した資金の一部で、お母様の志を受け継ぐ新しい財団を作りました。花子さんには、その代表になっていただきたいんです。私に、そんな大役が務まるかしら。もちろんです。どん底から上がり、自分たちの手で未来を切り開いた花子さんなら、誰よりも苦しんでいる人の心に寄り添えるはずですから。私は涙を拭い、力強く頷いた。浩司と義母が私に与えた屈辱と痛み。それを十倍の絶望にして返した復讐劇は、単なる憎しみの連鎖ではなかった。それは、失われかけていた私自身の誇りを取り戻し、母が残してくれた愛という名の絆を、正しく受け取るための試練だったのだ。
それから数ヶ月後、私は娘と共に、海の見える高台の家へと移り住んだ。毎朝、窓から差し込む柔らかな光と、穏やかな波の音で目が覚める。そこには怒鳴り声も、侮辱の言葉も、理不尽な暴力もない。ただ穏やかで温かい、当たり前の幸せだけが流れている。浩司はその後、裁判の結果、無期懲役の判決を受けた。横領した金の返還義務、私への莫大な賠償金、そして身の親を殺めたという消えない罪。彼は今、鉄格子の中で、自分が手放してしまった幸せの大きさを、血の涙を流しながら噛み締めていることだろう。たとえ出所したとしても、彼を待つ場所はどこにもない。自業自得という言葉すら生ぬるい、本当の孤独という名の地獄。それが彼にふさわしい結末だった。私は今、リナさんと共に、母の残した財団の仕事に奔走している。かつての私と同じように理不尽な状況に苦しむ女性や、夢を諦めかけている子供たちを支えるために。お母さん、今日も忙しくなりそうね。娘が入れてくれた温かいお茶の香りが、部屋中に広がる。私はリビングに飾られた母の遺影に向かって、優しく微笑みかけた。ええ、そうね。今日も精一杯、生きてくるわよ。母の葬儀で棺をひっくり返されたあの日、私の人生は一度終わったかのように思えた。けれど、そこから始まった物語は、私に本当の強さと、愛することの尊さを教えてくれた。過去を悔むのでもなく、未来を恐れるのでもなく、私は今、自分の足でしっかりとこの大地を踏みしめて立っている。亡き母の愛に見守られながら、私はこれからも、私らしく輝く人生を歩み続けていく。これが、どん底の淵から這い上がった、一人の女の最高に痛快な人生の再出発。物語はここからまた、新しく鮮やかに彩られていくのだから。
