夫の哲也にかかってきた一本の電話が、すべての始まりだった。夫には三十五歳の姉がいる。実家暮らしで、定職にも就かず遊んでいると聞いていたので、私はなんとなく苦手に思っていた。そんな義姉が結婚するという。
「今からうちに来るみたい。結婚のことで相談があるんだって」
哲也がそう言ったとき、嫌な予感がした。電話から一時間後、玄関を開けると、義姉の隣に見知らぬ男が立っていた。これから結婚するという相手らしい。一昔前に流行ったミニスカートを身につけた義姉と、不機嫌そうな顔をした中年の男。どう見ても、まともな組み合わせには見えなかった。
リビングに通すと、二人はソファにどかっと座り、早速用件を切り出した。
「私たち、結婚するんだけど、子供ができたんだよね。早く結婚式をあげたいんだけど、お金がないの。だから、あなたたちに出してもらいたくって」
私は耳を疑った。なんで私たちが、と思わず聞き返すと、義姉は悪びれもなく言い放った。
「なんでって、家族なんだし。お金を出すのは普通じゃない? 」
夫の貯金の話になると、哲也は全部私が管理しているから分からないと答えた。すると義姉は、今度は私に直接、貯金額を詰め寄ってきた。聞こえないふりをしてその場を離れようとしたが、義姉は大声で呼び止める。旦那のほうは、こちらが金を出すと聞いて来たのに何なんだと露骨に苛立っている。この年で貯金が全くないということも驚きだが、私たちを当てにしてきた義姉にも呆れた。
「だったら、これから貯めればいいじゃないですか。子供がある程度大きくなってから、一緒に結婚式を挙げても遅くはないですよ」
そう提案すると、旦那は烈火のごとく怒り出し、結婚もなしだと言い出した。二人が勝手に揉め始めたせいで、せっかく眠っていた朝日が泣き声をあげて目を覚ました。急いで抱き上げてなだめる私の姿を見て、旦那はさらに嫌そうな顔をした。婚約者が妊娠中なのに、この人たちは大丈夫なのか。不安で仕方がなかった。
「朝日も起きましたので、もうお引き取りください。貯金はこの子のためにしているお金です。何と言われても、出すことはできません」
そう言うと、義姉も旦那も一層声を荒らげた。
「先に子供を産んだからって調子に乗ってるわね。家族が困ってるのに助けようともしないなんて、この白痴! 」
「話にならないな。もう帰らせてもらう」
二人はドアを強く閉めて出て行った。怯えた朝日は私にしがみついて泣いている。あの間、哲也は一言も話さなかった。私が非難されている間も、泣いている朝日をなだめることもなく、ただ黙って考え込むようにしていた。本当に頼りない夫だ。
翌朝、何かが割れる大きな音で目が覚めた。外に出ると、玄関先に細かいガラスの破片が飛び散っている。そして、私の車のフロントガラスが割られていた。呆然と立ち尽くしていると、スマホが鳴った。義姉からの電話だ。
「逆らった罰よ。これ以上嫌がらせを受けたくなかったら、今すぐ結婚式の金を出しなさい」
震える手で電話を切ると、異変に気づいた哲也が外に出てきた。事情を話すと、私は被害届を出すと宣言した。義姉夫婦がやったと自白しているのだから、慰謝料だって取れるはずだ。しかし、哲也は動揺した顔で言った。
「おい、ちょっと待て。家族なんだから、被害届は出すな。姉さんだって金がなくて困ってるんだよ。家族が助けてやらないでどうするんだ。やっぱり結婚式の金は俺たちで出そう」
私は目の前で困っている私よりも、義姉を優先した夫の言葉に、愛情が一気に消えていくのを感じた。哲也は、自分のほうが間違っていたと正義感に溢れた表情で言う。もう付き合っていられない。私は黙って家の中に入った。義姉からのしつこい電話はその後も続き、内容は脅迫に近いものだった。私は金を出すとも言わず、ただ聞き続けた。
そろそろ返事をする頃合いだと、諦めたような口調で義姉に言った。
「わかりました。結婚式のお金は、家族が出すとしましょう。ただ、準備があるので少し待ってもらえますか? 」
「あら、今日は随分素直じゃない。いいわよ、待ってあげるわ」
義姉は途端に上機嫌になった。そのことを哲也に報告すると、夫も満足そうに頷いた。家族を助けたと自分に酔いしれる夫を見ると、嫌気がさす。その日から哲也は毎日上機嫌で、普段は飲まない酒もよく飲むようになった。夫が寝たのを確認すると、私は気づかれない場所から荷物をまとめ始めた。一番近くにいる家族のことすら優先できない人。私にはもう、この人と一緒にいる気はなかった。
翌朝、上機嫌な哲也を仕事に見送ると、私は引っ越し業者に電話をした。朝日は幸い機嫌がよく、スムーズに行動できた。荷物を全て運び出し、夫と過ごした家に別れを告げて、私は実家へ帰った。事情を話してあった両親は、突然の帰宅にもかかわらず、嬉しそうに出迎えてくれた。私は母に、離婚しようと思うと言った。母は、いいと思うわよ、普通に考えて非常識だもの、と賛成してくれた。
夕食を取っていると、早速哲也から電話がかかってきた。部屋ががらんどうになっているのを見て、驚いたのだろう。
「おい、これはどういうことだ?

」
「私もそっちには帰らないから、離婚しましょう。家のテーブルに離婚届を置いてきたわ」
「離婚って。じゃあ、姉さんに渡す金はどうするんだよ」
「私たち夫婦の貯金はきっちり半分渡すわ。そこから出したらいいんじゃない? 」
「そんなことをしたら、俺の金がなくなるだろうが! 」
「そんなの知らないわよ。姉さんには家族が出すって言ったんだから、他人の私が払うのはおかしいでしょう」
哲也は歯を食いしばって何も言い返せないようだった。私は畳みかけるように言った。
「離婚しないなら、私は義姉にお金は出さないわよ。大好きな家族を助けられなくなっちゃうわね。離婚届を書いたら、実家に送ってちょうだい」
そう言い放って、電話を切った。その後、哲也が記入した離婚届は無事に届いた。夫は私と朝日よりも、義姉のほうを優先したのだ。少しだけ期待していた自分がいたけれど、夫にとっては義姉にお金を渡すほうが大事だったのだろう。がっかりした気持ちと、すっきりした気持ちが混ざり合う。私はすぐに離婚届を提出し、夫婦の貯金を半分渡して、離婚を成立させた。
しかし、私の逆襲はここで終わりではなかった。実は、義姉夫婦にフロントガラスを割られたことや、脅しの電話の内容は、しっかり証拠として残しておいた。被害届も出し、弁護士にも相談し、慰謝料を請求した。悪質な嫌がらせの証拠がしっかり残っていたので、慰謝料もそれなりに取ることができた。その慰謝料の出所は、きっと元夫の貯金だろう。渡したはずの貯金は、結局ほとんど私の手元に残ったのだ。
元義姉は、結婚式をあげることもなく、婚約してから一年も経たないうちに離婚していた。妊娠の話自体が、結婚式のお金を出させるための大嘘だったと分かった。怒りよりも、安心した気持ちのほうが強かった。元夫は、義姉夫婦に貯金をほとんど渡してしまったため、生活がカツカツになり、古いアパートに引っ越して、養育費を払うためにアルバイトを掛け持ちしているらしい。
実家に戻った私と朝日は、両親に愛され、とても穏やかに暮らしている。朝日はゆっくりと話せるようになり、私のことを上手に「ママ」と呼んでくれる。あのまま離婚せずにいたら、こんなに明るい生活はできなかっただろう。朝日が二歳の誕生日を迎えた後、私は仕事を始めた。元の職場の社長が、知り合いの会社を紹介してくれたのだ。そこは子育て中の母親が多く働いている、理解のある職場だった。両親のサポートもあり、家事と育児と仕事を全てこなす毎日は大変だが、楽しく暮らしている。
私の名前は美咲。夫は若くして父の会社を継いだ若社長だった。私は夫が社長になるタイミングで秘書になり、一番近くでお互いを知る存在になった。辛い時はお互いを支え合い、私たちは惹かれ合って交際を始めた。二年後、結婚し、私は専業主婦として家庭で夫を支えることにした。結婚して今年で二十年になる。来週の結婚記念日には、二人で夜景の見える高級レストランに行き、その翌日からは旅館に二泊三日する予定だった。とても楽しみにしていた。
ただ一つだけ、問題があった。私の兄の存在だ。兄はギャンブルにはまっていて、競馬、パチンコ、宝くじ、手当たり次第にやっている。結婚後も私は兄にお金を渡していたし、たまに夫にもお金をせびっているらしい。そして、兄嫁はもっとひどかった。うちはタワーマンションを購入し、それなりの家具を使っているのだが、兄嫁は家に来ては部屋を散らかし放題で、私を召使いのように扱った。
「姉さん、お腹空いたから何か買ってきて」
「この後病院だから、もう出るわよ」
「じゃあ出前とって」
兄嫁は自分から何かをしようとも、お金を出そうともしない。兄に相談しても、俺の嫁のわがままだから聞いてやれよ、金はあり余ってるだろ、と取り合ってもらえない。妊娠しにくい体質で、二年間の妊活を経て、ようやく授かった命。お腹の子が生まれてくる前に、何とかしなければと毎日考えていた。
結婚記念日当日、夫は仕事が押していると連絡もなく帰ってこなかった。会社に連絡しようと私が携帯を手に取った瞬間、知らない番号から電話がかかってきた。病院からだった。
「順也さんの奥様ですか? すぐに病院にいらしてください」
手術室の前に呼ばれた私は、医師から説明を受けた。夫は仕事の帰り道、信号無視で突っ込んできた車と衝突し、重症を負った。意識がなく、助かるかも分からない。そう言われて、頭が真っ白になった。手術開始から四時間後、手術室の扉が開き、医師が最善を尽くしましたが、と言った。夫は、そのまま帰らぬ人となってしまった。
私は声をからして泣いた。すると、一人の男性の医師が花束を持って私の元へやってきた。夫が救急車に運ばれるとき、車の中に花があるから必ず妻に渡してほしいと頼んだらしい。事故の衝撃で少し折れてしまったけれど、それでも綺麗なバラの花束だった。その花束に埋もれるように、一枚の手紙があった。
「美咲、二十年そばにいてくれてありがとう。いつも感謝しているよ。これからもよろしく」
夫を亡くして初めて過ごす夜は、耐えられなくて一睡もできなかった。しかし、義母に妊婦でしょと注意され、さすがに少しだけ眠ることにした。目を覚ました時、お腹を蹴られたような気がした。この子は、夫と私の子供だ。お母さん、しっかりして、と言わんばかりに蹴ったのだろう。私はこの子を守り抜いて、強く生きていこうと夫に誓った。
数日後、夫の葬儀が開かれた。会社の関係者や取引先の方々、多くの人が参列し、みんなが夫の死を惜しんだ。しかし、その中に一人だけ、異質な人物がいた。兄嫁だ。みんなが黒い衣装を着ているのに、彼女だけはパーティーかと思うような派手なドレスを着ている。そして、旦那がいるのにも関わらず、取引先の社長たちに媚び始めた。お金目当てなのは、誰の目にも明らかだった。
葬儀が落ち着いた頃、義母に呼び出され、親族だけで夫の保険金の話をすることになった。義母は私が全て受け取るべきだと主張してくれるが、他の親族たちは周りに配るべきだと言う。そこに、兄と兄嫁も参加してきた。
「兄さんの保険金は、長男であるこっちに渡すべきじゃない」
兄嫁は、自分たちに渡すべきだと主張した。私はため息をこぼし、彼女に言った。
「どういう理由であれ、あなたたちに保険金が渡ることは一切ないわ。それに、葬儀に来たとは思われない格好ね」
周りの親族たちが冷ややかな視線を送ると、兄はその場にいづらくなってさっさとどこかへ行ってしまった。兄嫁は顔を真っ赤にして、何よ、と立ち去っていった。いつもコキ使われてばかりだから、今日は一本取れた気がして、少しだけ気分がすっきりした。
それから一週間、兄嫁に出会うこともなく、私は一人でのんびり過ごした。義母の家に用事があり、帰宅すると、家の明かりがついていることに気づいた。鍵を差し込むが、なぜか入らない。何度試しても、鍵が合わない。インターホンを鳴らすと、兄嫁の声がした。
「何してるの?
開けなさい」
部屋着の彼女が、鋭い目つきで私を睨んだ。私が義母の家に行っている間に、鍵を変えたらしい。そして、彼女は信じられない言葉を吐いた。
「この家、もらうから。全部置いて出ていけ」
私は抵抗した。ここは私と夫の家よ、と。しかし彼女は、もう旦那さんもいないんだから、あんた一人で住むには広そうだし、私がもらってあげるって言ってるの、と強気だ。勝ち目はない。私はこの会話を録音していたことを思い出し、今は引いて、法的手段に出ることにした。
「そう。分かったわ」
私はそのまま出ていき、義母のもとへ向かった。一部始終を話し、録音も聞いてもらうと、義母はこれは窃盗と一緒じゃないの、とアドバイスをくれた。警察と弁護士に連絡したほうがいいと言われ、私は翌日、朝一で動くことに決めた。義母は辛いねと抱きしめてくれて、その優しさに少しだけ泣きそうになってしまう。
その時、義母が一通の封筒を渡してきた。夫の字で書かれた手紙が入っていた。そこには、もし自分がいなくなってしまった時のことが書いてあった。保険金や貯金は美咲と生まれてくる子供に渡すこと。会社については、もし自分がいなくなれば私が社長を継いでほしいということ。子供のことがあるだろうから、その時はきちんと休暇を取り、信頼できる社員に任せておけばいいとも書いてあった。夫の仕事をずっと一番近くで見ていた私には、できないことではないと思えた。
翌日、私は弁護士に連絡し、警察署にも向かった。窃盗としての扱いとなり、弁護士も慰謝料を取れると言ってくれた。すべての手続きを終え、数日後、警察が兄嫁の元へ向かうことになった。私も家の近くまで行き、パトカーの中で待機するよう言われた。警察がインターホンを鳴らすと、兄嫁は焦った様子で扉を開けた。
「窃盗で、あなたを逮捕します」
兄嫁は真っ青な顔で何も言えず、連れて行かれた。兄も共犯として一緒に連れて行かれる。あんなに顔を真っ赤に染めた兄の顔は、見たことがない。その後、無事に私は家に戻ることができた。兄夫婦は、私の家を奪う前日に借りていたアパートを家賃滞納で追い出されていたらしく、そのため強引に私の家を奪ったらしい。理由がどうあれ、やってはいけないことをしたのだ。
私は家に帰り、夫の写真の前に立って、ただいまと微笑んだ。そして、義母に電話をかけた。
「お母さん。私、夫の会社を継ごうと思います。夫が今まで守ってきた大切な会社なので」
「そうなのね。順也もきっと天国で微笑んでいるわ」
私は心に誓った。夫が守り抜いてきた会社を、私が継ぐ。それが今、夫のためにできることだと思った。