視界の端で、血の気が引いていく顔があった。北野部長の顔だった。青ざめているというより、もはや真っ白だった。あの傲慢な笑みは消え失せ、唇がわななき、肩が震えている。これまで俺を押さえつけてきた男が、今まさに崩れ落ちようとしている。
「俺に謝罪しろっていうのか……?」
震える声で北野が絞り出す。俺はゆっくりと首を振った。
「違う。自分のしたことを謝り、反省する。それだけのことだ」
かつて北野が俺に吐いた言葉を、そのまま返した。彼はしばらく拳を握りしめて震えていたが、やがて絞り出すように「すまなかった……」と呟いた。掠れた声だった。
「全責任を取って本社から消えろ。お前みたいな生意気な奴にはお似合いだ」
あの日、北野は言った。田舎の整備工場への左遷を告げられ、理不尽な怒りに打ちのめされて、俺は誰の助けも得られないまま、知らない土地へ飛ばされた。三十四歳にしてすべてを失ったと思った。だが、この時はまだ思いもしなかった。左遷先でまさか、思わぬ真実と出会うことになるなんて。
俺の名前は山内。大手カーディーラー系列のサービス会社、本社の品質管理部で技術者をしていた。新車販売だけでなく車検や点検、修理まで一括で手がける会社で、取引先には大手自動車メーカーや部品業者も名を連ねていた。毎日忙しかったが、やりがいを感じていた。そんな日常に亀裂が入ったのはおよそ半年ほど前。本当に些細な出来事がきっかけだった。ただ、後輩をかばっただけ。それだけのことだった。
上司の北野部長は、非常に横柄な人物だった。いわゆるパワハラ上司とでも言うべきか。あの日も北野は、後輩の小さなミスを必要以上に咎め立てし、仕事に関係のない暴言まで吐く始末だった。
「そんな言い方はないんじゃないですか?」
俺は見かねて間に入った。北野は顔を真っ赤にして俺を睨みつけ、マシンガンのように暴言を浴びせてきた。あまりに酷い仕打ちに、俺は堪忍袋の緒が切れた。
「暴言が過ぎます。こんなのパワハラですよ」
はっきりとそう言い放った。さすがに我に返ったのか、北野はそれ以上何も言わなかったが、その日以来、何かにつけて俺への当たりが強くなっていった。わざと俺を無視する。連絡事項を俺だけ共有しない。一つ一つは子供じみた行為だったが、仕事に差し障りのあることだけは勘弁してほしかった。
決定的だったのは、ある取引先とのトラブルが知らない間に俺の責任にされていたことだ。取引先が急ぎの修理を依頼したが、俺がすっぽかしたことになっていた。担当は北野部長のはずだった。俺はそう訴えたが、肝心の記録データには俺の名前が書かれていた。絶対におかしい。俺は北野を睨んだが、彼は薄笑いを浮かべるのみだった。
「見苦しいぞ、山内君。潔く自分の過ちを認めることだ」
俺は思わず同僚たちを見渡した。俺が原因ではないと、みんなだって分かっているはず。そう思ったが、その瞬間、背筋に冷たいものが走った。誰もが俺と目を合わせようとしなかったのだ。以前かばった後輩でさえも。北野が怖いから逆らえない。そう分かっているから、見て見ぬふりをしているのだろう。
「ともかく事実とはまるで違います。これ以上は私の方から直接上層部に報告させていただきます」
俺はそう宣言した。この一言が事態をさらに悪化させたのは、すぐに分かった。トラブルから数日後、俺はある辞令を宣告された。事実上の左遷である。
「本社から離れた田舎に、残業が常態化している自動車整備工場がある。立て直しにはお前のような人材が適任だと判断して、推薦しておいたぞ」
北野はまるで俺のためにとでも言うような顔をしていた。その言葉と表情の裏にある悪意が、嫌というほど伝わってくる。彼は俺の肩を叩き、そっと耳打ちした。
「全責任を取って本社から消えろ。お前みたいな生意気な奴にはお似合いだ。田舎の工場でせいぜい頑張れよ。もう本社に戻って来るとは思えんがな」
ずっと抑え込んでいた感情が一気に沸騰した。怒りとも悲しみとも言えない感覚に全身が震えた。自分で言うのも何だが、俺は仕事面でも同僚たちともうまくやっていたと思う。誠意を持って接してきた。そう心の中で呟いた時、今度は急激に感情が冷えていくのを感じた。こうまでされるようなことを、本当にしたのだろうか? いや、していない。俺はすぐに抗議したが無駄だった。味方もいない。最終的に俺は、唸るような思いで見知らぬ土地の整備工場へ向かうことになった。
左遷当日。新しい職場になる自動車整備工場に初めて足を踏み入れた時、想像以上だと思った。整備スペースは手狭で、機材の一部は明らかに古い。もちろんメンテナンスはされているだろうが、見ただけで心配になる。壁に貼られたシフト表には、隙間なくびっしりと名前が並んでいた。
「やあ、君が山内君? 待ってたよ」
そう言って出迎えてくれたのは、五十代くらいの男性だった。どうやらこの人が工場長のようだ。人当たりは良さそうだが、浮かべている笑みはどこか軽薄で締まりがない。軽く挨拶を交わし、自己紹介をすると、工場長は言った。
「北野部長から君のことは聞いてるよ。自分のミスを棚に上げて、なかなか生意気なことを言ったらしいじゃないか」
工場長の発言に、一瞬胸がざわついた。ミスを押し付けられた時の部長の言葉、表情、そして同僚たちの気まずそうな顔がフラッシュバックする。
「私はミスなんて……」
弁解しようとしたが、
「まあまあ、そういうのいいから。左遷させられた以上、もうどうでもいいことでしょう」
工場長は鼻で笑いながら話を切り上げた。それにしても、俺のことを聞いていたとはどういうことだろう。北野部長とやり取りがあったのだろうか。まあ、工場長として事前にどんな人物が来るのかを確認していてもおかしくない。俺はそう納得することにした。
「うちは予算も人も足りなくってね。まあ、残業でみんな何とかしてるけどね」
聞けば、月の残業時間が百時間を超える者も珍しくないという。
「そんな大問題じゃないですか。どうしてそのまま放置しているんです?」
素直な疑問だった。だが工場長は心底面倒くさそうな顔をした。
「俺たちは末端だし、声を上げたっていいことなんかないさ。そういうのはあんたが一番分かってるんじゃないの?」
再び、北野の顔がよぎる。上に直接報告すると声を上げた結果が、この左遷だ。皮肉すぎて言葉が出てこない。
「それにあんたがこの工場を立て直してくれるんだろう。期待してるよ」
まるで俺一人が勝手に何とかするとでも言わんばかりの口調だった。確かに北野の言い方では、俺には立て直しのために推薦ということになっているが、一人でどうにかなるわけがない。
「まあ、細かいことは佐々木君に聞いてよ」
「佐々木さんですか?」
工場長は頷く。
「そう、佐々木君。俺なんかよりよっぽど工場のこと分かってるから」
そう言って工場長はひらひらと手を振って去っていく。入れ違いに、眼鏡をかけた男性がやってくる。
「佐々木と申します。新しく来られた方ですね。ご案内します」
「山内です。よろしくお願いします」
佐々木は工場長の去っていった方を見て、小さくため息をついた。
「工場長の言ったことは、あまり気にしない方がいいですよ。あの人は適当なので」
気を使ってくれたのだろう。軽くお礼を言って、佐々木の後に続いて歩き始めた。
工場を案内してもらいながら、少しずつ現場の実情を聞いていく。佐々木は経理データを閲覧できる立場らしく、日々の発注書や納品書にも目を通しているという。よっぽど工場長よりも工場長らしい男だ。それにしても、どうしてそんな話を俺に? と思った時だった。佐々木は辺りを見渡して、小声になる。
「山内さんは、この工場を立て直すために来たんですよね」
そう言われて戸惑ったが、便宜上そうなっているのは事実だ。俺が肯定すると、佐々木は少し口ごもる。本当に俺に話していいものか考えているように見えた。
「実は、気になっていることがあるんです」
そう言って、佐々木は「部品倉庫」と書かれたプレートが貼られた扉を開けた。
「気になることというのは?」
俺は周りを見渡しながら尋ねた。佐々木は奥にあるパソコンのモニターを付けながら説明してくれた。
「特定の業者からの発注書だけ、実際の納品数より多い数量で処理されていることや、金額の割に納品物の質が良くないことも、ここ数年多々あったんです」
モニターに目的のものを表示できたのか、佐々木が「顔を上げてください」と俺に促した。俺はひとまず黙って佐々木の言う通りにすることにした。きっと見れば分かるということだろう。しばらくモニターをスクロールしていき、俺は呟いた。
「これって……」
顔を上げると、佐々木が重く頷く。佐々木はずっと工場長が怪しい行動を取っているとは思っていたそうだ。それでもずっと声を上げられなかったのは、自分一人では何もできないと勇気が出なかったこと。確信を持ったのがつい最近だったことが理由らしい。
「どうか私に協力していただけませんか? この事実が本当なら、私たちは工場長が私服を肥やしているせいで残業漬けになっている。そんなの許せません」
俺はモニターに視線を戻す。確かに本当なら許しがたい。それに、と佐々木は続ける。
「どうやら工場長には協力者がいるようなんです。その人物は……」
佐々木が発した名前に、俺は衝撃を受けた。
「分かりました。私も協力します」
次の瞬間、俺は佐々木の手を取っていた。
それから一ヶ月ほどしたある日のことだ。ちょうど昼休みの時間、佐々木と一緒に歩いていると、通路で工場員たちの会話が耳に入った。
「なあ、工場前に黒塗りの車が続々と入ってきてるんだけど」
「ええ、何? 何? 高級車?」
騒ぐ声に釣られ、俺たちも窓の外に視線をやる。従業員の言う通り、続々と敷地内に黒塗りの車が入ってきて駐車している。車から降りてくる人物に見覚えのあるものを見つけ、俺は思わず声を漏らした。俺が佐々木に目配せすると、佐々木は察したように頷く。俺たちは玄関に向かって歩き出していた。
外に出ると、ちょうど工場長が車から降りてきた人物たちを出迎えている。黒塗りの車が気になるのだろう。工場員の何名かが遠巻きに様子を伺っている。
「ええと、突然のご来社で。あの、お疲れ様です。本日はどのようなご要件で?」
工場長は俺たちに背を向けているため顔は見えない。いつものようなへらへらした笑顔を浮かべているに違いないが、その声はひどく緊張しているように聞こえる。俺が工場長たちに近づいていくと、人物たちの中の一人と目が合った。その人物が声を上げて近づいてくる。
「坊っちゃ……!」
まさかの呼び方に、俺は目を丸くする。工場長も、周りで様子を見ていた工場員たちも同様だ。
「ちょ、ちょっと矢沢さん、坊っちゃんはやめてくれよ」
俺を坊っちゃんと呼んだ人物。矢沢はそんなことはどうでもいいと言わんばかりに、俺の両肩に手を置いた。
「どうして山内君を、それに坊っちゃんって……」
工場長は困惑した表情で俺と矢沢を交互に見る。視線を追うと、真っ青な表情の北野がいることに気がついた。そしてさらにその隣には、俺の務める会社の本社社長が渋い表情で佇んでいる。
「今回のこと、本当に申し訳ない」
いきなり本社社長が俺と佐々木に対して頭を下げたのだ。工場長と北野が驚いたように目を見開く。周りからもざわめきが起こった。
「あの……事情を説明してもらえませんかね? 何が何やら」
工場長の問いに、矢沢が一歩前に出てはっきりと言い切った。
「山内さんのお父上は、弊社の大切な取引先である自動車メーカーの社長です。私はそこで専務を務めております。山内さんは跡取りとしての修行のため、身分を伏せてこちらに入社されていました」
工場長がかすれた声を漏らす。坊っちゃん呼びについて補足すると、矢沢さんは俺が小さい頃から可愛がってくれていた。いわば第二の父といった存在だ。言葉を失っている工場長の隣で、北野は無言で立っている。顔色はさっきよりもさらに悪い。心ここにあらずといった様子だ。
「どうやらここに来るまでに、北野部長は全て把握しているようですね」
俺はそう言って言葉を続けた。
「俺は左遷されてからこの一ヶ月、佐々木と共に発注を洗い直し、不自然な取引の裏を探っていた。その際、やけに北野部長とやり取りをしていることにも気づいたんだ。北野部長と工場長は結託し、特定業者への水増し発注で裏金を受け取っていた。そしてそのしわ寄せが工場の人手不足と長時間の残業という形で現場に押し付けられていた。違いますか?」
佐々木が言うと、工場長の顔がぎくりと強張った。周りで見ていた工場員たちの表情も険しくなる。非難と疑念と怒りに満ちた視線が工場長の方へ向く。
「え、な、何を馬鹿な。失礼だな。ねえ、北野部長」
工場長はうろたえ取り繕おうように言ったが、北野は工場長と目を合わせようとしない。
「証拠は?」
工場長の反論に、俺と佐々木は顔を見合わせた。
「なぜ矢沢さんと社長がじきじきにここへ来たと思いますか?」
「え……」
工場長が言葉をつまらせると、矢沢が前に出た。北野を睨みつける。
「本社には、身分を伏せて勉強のために入社した。だというのに」
蛇に睨まれたカエルのように、北野は「ひっ」と情けない声を漏らして縮こまる。本社社長がここで俺に向き直った。
「山内君、それともう一つ。半年前の取引先のトラブルの件も、記録を精査させてもらった。当初は北野部長が担当だった。記録データは後から彼の手で書き換えられていたことが判明している。君の名誉は、私の名で必ず回復させると約束する」
その一言に、胸のつかえがすっと降りていくのを感じた。補足するように佐々木が言う。
「つまり、全てはもうバレているということです」
工場長の顔から一気に血の気が引いた。
俺と佐々木が証拠をまとめた一方で、同時に俺の父にも自分が不当な形で左遷された経緯を伝え、本社社長に直接話を通してもらえないかと頼んでいた。それが一番手っ取り早い。俺と佐々木が本社社長に直訴するにも、上層部に止められたり、北野に嗅ぎ付けられて妨害される可能性もあっただろう。取引先の信頼に関わることだと判断した父は、快く引き受けてくれた。
「本当はお父様が直接とおっしゃってましたが、何分ご多忙なもので、私が代理で立ち合おう」
「矢沢さんも忙しいのに、ありがとう」
俺たちのやり取りを聞いていた工場員たちの中から、声が上がっていく。
「本社の部長と工場長がグルだったのか」
「俺たちがひたすら残業してたのも、こいつらのせいか」
その言葉は次第に強くなり、「許せない」「責任を取れ」という言葉に変わっていく。
「北野部長、工場長」
俺が声をかけると、北野と工場長はびくりと肩を震わせた。特に北野は立っていられるのが不思議なほど、顔は真っ白だった。
「すでに佐々木君と集めた証拠は、社長に提出済みです。特に北野部長は、ここに来るまでにかなり追及を受けたことでしょう」
北野が恨めしげな視線を向けてくる。どうやらまだ多弁に取り繕う心の余裕は残されているらしい。ここまで来れば不正に関しては言い逃れはできない。
「もう一つ、北野部長は私に言うことがあるはずです」
北野は目を見開き、わなわなと唇を震わせた。
「俺に謝罪しろっていうのか?」
俺はゆっくりと首を横に振る。
「自分が理不尽に向けていた悪意も、この工場を蝕んでいた不正も、ようやく白日の元にさらされた。そういうことです」
北野はしばらく肩を震わせていたが、やがて絞り出すように「すまなかった」と言った。一方、工場長は周囲の視線に晒されまいと北野の影に隠れようとしていたが、北野自身完全に立場を失っている状態だ。誰もかばう者などいるわけもない。この瞬間、全てが終わった。
それから数ヶ月後、本社の知り合いから聞いた話だ。北野と工場長は懲戒解雇となり、横領の件についてもかなり深刻な状況が続いているのだとか。おそらく刑事沙汰になるだろう。会社もこの一件をきっかけに信用を大きく落としたそうだ。俺の父の会社が取引から手を引いたことで業界内で噂が広がり、様々な取引先との関係にも影を落としているという。俺自身は、これをきっかけに父の会社へと戻ることになった。佐々木を始め、工場で働いていた仲間たちの多くが、面接や試験を経た上で父の会社へと移籍することに。また一からという不安もあるが、誠実に対応すれば道は切り開けるはずだ。俺はそう信じている。
