「私、いよいよマイホームを建てるのよ。あなたなんかが一生かかっても住めないような、豪華な一軒家をね。」
元夫の弘樹は、私を見下しながら笑った。
「貧乏人は一生、ぼろアパートがお似合いだろう」
五年前、私を金食い虫と罵り、全てを奪っていった二人。偶然再会した高級タワーマンションのモデルルームで、彼らは私を徹底的に侮辱してきた。その顔には、私を見下す下品な笑みが浮かんでいる。
しかし、彼らはまだ知らない。私がこの五年間、どれだけの思いで再起したのかを。そして、彼らのその侮辱が、最高のスパイスになるのだ。
「え、今会社経営してるし、都内の二百億タワマン買ったけど」
私の言葉に、二人の顔が凍りつく。
「だから、ここの最上階、二百億円のペントハウスなんだけど、先日契約してきたところなのよ」
そこへ、モデルルームの担当者が深々と頭を下げていった。
「こちら、当マンション最上階のオーナー様でございますが、何か」
その一言が、私の長い復讐劇の始まりを告げる号砲となったのだ。
私の名前は真子。ファッションデザイナーとして小さなアトリエを構えるのが、長年の夢だった。最近ようやく軌道に乗り始め、雑誌に掲載されることも増えてきた。プライベートでは、大学時代から交際していた弘樹と結婚し、穏やかで幸せな毎日を送っている。
「真子のデザインは最高だよ。俺が一番のファンだからな」
「ありがとう。弘樹が応援してくれるから頑張れるよ」
お互いを支え合う理想の夫婦。あの頃は本気でそう思っていた。
しかし、弘樹が会社で課長に昇進した頃から、私たちの関係は少しずつ歪み始める。きっかけは、私の姉の累だった。昔から私にどこか対抗心を燃やしているような姉。仕事もせず実家にいる累が、なぜか頻繁に弘樹と会うようになったのだ。
「最近、累さんとよく会うんだ。真子のことを心配してるみたいでさ」
「え、そうなの? 別に相談することなんてないけど」
最初はただの義姉弟として仲がいいだけだと思っていた。まさかこの二人が手を組み、私の人生を乗っ取ろうと計画していたなんて。この時の私は何も知らなかったのだ。
あの悪夢のような会話から数ヶ月。私の生活は、姉の策略によって静かに、しかし確実に蝕ばまれていく。私の姉は昔から私とは正反対の人間だ。私は自分の手で夢を掴むことにやりがいを感じていたが、姉の夢は玉の輿に乗って専業主婦になること。「女の幸せは男に尽くして養ってもらうことよ」と常々口にしている。だから、私が自分のブランドのために寝る間も惜しんで働く姿を、ずっと見下していたのだ。
「あら、また新しいデザイン。安っぽいわね。こんなの誰が着るのかしら」
アトリエに時々顔を出しては、私の作品にケチをつけるのが姉の日課だった。最初はただの嫉妬だと思って無視する日々。しかし、その毒牙が夫の弘樹に向けられていることには、全く気がついていなかった。
姉は弘樹と二人きりで会うたびに、私の悪口を吹き込んでいた。
「弘樹君、かわいそう。真子は仕事ばっかりで、家のこと何にもしないんでしょ。デザイナーなんて聞こえはいいけど、いつ首になってもおかしくない不安定な仕事よ。センスのかけらもないし」
最初は私の味方をしてくれていた弘樹も、姉からの執拗な刷り込みに、次第に心を侵されていった。
「なあ、真子。累さんの言う通り、お前の服ってなんか安っぽいよな」
「え? 前は最高だって言ってくれたじゃない」
「それは昔の話だろ。俺も出世したんだ。お前も俺の立場にふさわしい妻になれよ」
彼の態度は日に日に冷たくなり、家には言いようのない緊張感が漂うようになっていた。
そして、結婚三年目の記念日を目前に控えたある夜、事件は突然起こった。仕事を終えてヘトヘトで帰宅した私を待っていたのは、腕を組んで仁王立ちする弘樹の姿だった。
「お帰り。話がある」
その冷え切った声に、私の心臓がドクンと嫌な音を立てる。
「どうしたの? 改まって」
「離婚してくれ」
「え?」
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
「だから離婚だ。もうお前にはうんざりなんだよ」
彼は吐き捨てるように続けた。
「仕事にかまけて家事はおろそか。夫を支えようともしない。お前みたいな金食い虫はもういらない」
金食い虫? 私が必死に働いて家計を支えてきたことも、全部知っているはずなのに。あまりの言葉に、私は声も出なかった。
「俺は累さんと結婚することにした。彼女こそ、俺を支え家庭を守ってくれる理想の女性なんだ」
頭が真っ白になった。夫とたった一人の姉が、ずっと裏で繋がっていたなんて。
「待ってよ。どうして? そんなのあんまりだよ」
涙ながらに訴える私を、弘樹はゴミを見るような目で見下した。
「うるさいな。決定事項だ。慰謝料? お前に払う金なんて一円もないね。財産分与? お前が稼いだ微々たる金なんて、くれてやるよ」
あまりに不当な条件、あまりに一方的な通告。私は抵抗しようとしたが、二人から精神的に追い詰められ、心身ともに疲れ果ててしまった。結局、何も受け取れないまま、私は長年住んだ家を追い出されることになったのだ。
離婚後、私が持っていたのは小さなアトリエとわずかな貯金だけ。家具もほとんど置いてきてしまったガランとした部屋で、私は何日も泣き続けた。信じていた二人に裏切られた悲しみと絶望。もう何もかもどうでもいい。そう思った時に、あの言葉が蘇ってきた。
「お前みたいな金食い虫はもういらない」
その瞬間、悲しみが燃え上がるような怒りに変わる。金食い虫? 冗談じゃない。見てなさい、弘樹。私が自分の力でどれだけのことができるか、絶対に、絶対に見返してやる。
私はその日から、仕事に全ての情熱を傾けた。屈辱をバネに、持ち前のデザインセンスとビジネススキルを磨き抜き、まずは個人事業主として独立。自分のブランド「M’s Style」を立ち上げたのだ。寝る間も惜しんでデザインに没頭し、自分の足で工場や取引先を駆けずり回った。
地道な努力が実を結び始めたのは、それから半年後のこと。私のデザインした服がある人気インフルエンサーの目に止まったのがきっかけで、SNSで爆発的に話題になったのだ。注文は殺到し、ブランドはまたたく間に人気となり、会社は急成長。私は若き女性経営者として、テレビや雑誌からも注目される存在になっていった。
そして、そんな目まぐるしい日々の中で、私は新しい出会いを果たした。仕事の取引先で出会った経営コンサルタントの理太さん。彼は私の過去など気にせず、一人のデザイナー、一人の経営者として私を心から尊敬してくれた。
「真子さんの才能と、何よりその努力を僕は心から尊敬しています。これからは僕が、公私共に全力であなたをサポートします」
彼の誠実で温かい人柄に惹かれ、私たちは自然と恋に落ち、再婚することになった。理太さんは会社の経営もサポートしてくれ、私の人生は再び幸せと充実感に満ち溢れている。
そんなある日のこと、私と理太さんは都内でも最高級と言われるタワーマンションのモデルルーム見学会を訪れていた。
「最新の設備、都心を見下ろす絶景。すごい眺めだね」
「ええ、素敵ね」
そんな会話をしながら豪華なエントランスを歩いていた、その時だった。
「え、ま、真子?」
聞き覚えのある、聞きたくもない声。振り返ると、そこに立っていたのは数年ぶりに見る元夫の弘樹と、姉の累だった。二人とも以前と変わらない。いや、どこか品性のないギラギラとした雰囲気をまとっている。
累は私の姿を頭のてっぺんから爪先まで舐め回すように見ると、鼻でふっと笑った。
「あら、真子じゃない。こんな場所に貧乏人が一体何の用? まさか冷やかし? 迷惑だからさっさと帰りなさいよ」
隣で弘樹もこれ見よがしにため息をつく。
「はっ、まだそんな安っぽい服作ってんのか。全然成長しないなあ。お前には一生、ぼろアパートに住むのがお似合いだろう」
彼らは私が今どうしているのか、何も知らないようだった。私が離婚のショックで落ちぶれていると信じ込んでいる。笑う二人に向かって、累はこれ以上ないほど嫌な顔で胸を張ってこう言った。
「いいこと教えてあげる。私たち、いよいよマイホームを建てるのよ。あなたなんかが一生かかっても住めないような豪華な一軒家をね」
その言葉が、私の長い復讐劇の始まりを告げる号砲となるのだった。姉の累は、人生の勝者であるとでも言いたげな表情を浮かべて私を見下した。隣に立つ元夫の弘樹も、満足そうに腕を組んでいる。彼らにとって、豪華な家を持つことが何よりのステータスなのだろう。そして、私が今も貧乏で不幸のどん底にいると信じて疑っていない。だからこそ、私を嘲笑うことで自分たちの優越感に浸っているのだ。
哀れな人たち。私は心の中で静かに呟いた。彼らがモデルルームの担当者に見せてもらっているキラキラとしたパンフレット。そこに書かれた間取りと、窓から見えるであろう景色には見覚えがあった。いや、見覚えがあるどころではない。だって、それは私がつい先日契約を終えたばかりの、私の最高級タワーマンションなのだから。
私は湧き上がる笑いをぐっとこらえ、まずは二人の茶番に乗ってあげることにした。
「へえ、すごいじゃない。一軒家か。羨ましいな」
私が素直な態度でそう言うと、二人はますます得意満面になる。
「でしょ。やっぱり女はしっかり稼いでくれる旦那様を捕まえないとね。あなたみたいにいつまでも仕事に夢中になってるようじゃダメなのよ」
「まあ、お前には縁のない話だろうがな。せいぜい俺たちの成功を指を咥えて見てることだ」
ふざけるような自慢話だが、そのくだらない優越感が彼らの大事な、大事な価値観。そろそろ、それをへし折ってあげてもいい頃だろうか。私はゆっくりと口を開いた。
「そうなんだ。でも、私はやっぱりマンション派かな」
「はあ? 何言ってんの? あんたにマンションが買えるわけないでしょ。真子に嫉妬してる負け犬の遠吠え?」
「ふん。そういうわけじゃなくて、特にここの最上階は景色が最高だって聞いて、すごく気に入っちゃったの」
私の言葉に、弘樹と累は狐につままれたような顔で顔を見合わせた。この貧乏人が何を言っているんだとでも言いたげな表情。その顔が見たくて、私はとどめの一言を告げる。
「ああ、自己紹介が遅れちゃったかな。私、離婚してから自分で会社を立ち上げて、今はその会社の経営をしてるの。それでね、色々頑張った甲斐もあって、ここのマンション買っちゃったんだ」
なるべく穏やかに、そしてはっきりと話す私の顔を見て、二人の顔が固まった。
「は?」
「だから、ここの最上階、二百億円のペントハウスなんだけど、先日契約してきたところなのよ」
私の言葉が理解できるまで、二人は数秒間、壊れたロボットのように口をパクパクしている。やがて最初に我に返ったのは弘樹だった。彼の顔はみるみる真っ赤に染まっていく。
「う、嘘をつくな! モデルルーム中に響き渡るような大声だ。お前なんかに会社経営ができるもんか。二百億? ありえない。寝言は寝て言え」
累もヒステリックに叫び出す。
「そうよ! あんたが稼げるわけないじゃない。だって、だって弘樹から聞いたわ。あんたはただの金食い虫だって」
「ああ、そうだ。私は金食い虫だった。あなたたちが私に与えた屈辱的なレッテル。でも、その言葉が今の私を作ったのだ」
私が冷静な笑みを浮かべていると、弘樹はさらに怒鳴り散らした。
「そもそも累から全部聞いてるんだ。お前のブランドなんて全く売れてなくて、火の車のはずだろうが」
なるほど。姉は私の会社の経営状況まで探っていたらしい。もちろん、その情報はガセネタだろうが。私が何か言い返そうとした、その時だった。
「お客様、いかがなさいましたか?」
声の方を向くと、先ほどまで別の客を案内していたこのモデルルームの担当者らしき男性が、慌てた様子で駆け寄ってきた。そして私の顔を見るなり、彼の表情は驚きに変わり、次の瞬間には深々と頭を下げて、極めて丁寧な口調で言った。
「ま、真子オーナー様、本日はお越しいただきまして誠にありがとうございます。お連れ様もご一緒でしたか?」
オーナー様。その言葉を聞いた瞬間、弘樹と累の動きがぴたりと止まった。開いた口が塞がらず、信じられないものを見る目で私と担当者を交互に見ている。私は担当者ににっこりと微笑みかけた。
「ええ、こんにちは。今日は夫と下見に来たんです。それで、こちらは昔の知り合いで、偶然お会いしたんですよ」
昔の知り合い。その言葉が、彼らのプライドをさらに傷つけたのが分かった。担当者は私の言葉に納得したように頷くと、呆然としている弘樹たちに向かって説明を始めた。
「そうでございましたか。皆様にご紹介させていただきます。こちらにいらっしゃる真子様は、当タワーマンション最上階の特別室『ロイヤルペントハウス』を先日ご契約くださいました、心からのオーナー様でございます」
ゲームセットのホイッスルが、静まり返ったモデルルームに響いた。弘樹と累の顔から血の気が引いていくのが、手に取るようにわかる。さっきまでの威勢はどこへやら、二人はただパクパクと口を動かすだけで、声も出せないようだった。
形勢が完全に逆転したことを誰よりも早く察知したのは、やはり姉の累だった。彼女は憎しみのこもった目で弘樹を睨みつけると、金切り声をあげた。
「ちょっと弘樹、どういうことなのよ。話が全然違うじゃない」
「な、なんだよ、急に。俺は出世して金ならいくらでもあるですって。豪華な一軒家も最高級タワーマンションも買ってやるですって。全部嘘っぱちじゃないか」
彼女は憎しみを込めてさらに続けた。
「あの人は私と付き合いながら、会社の部下にも手を出してた。この浮気者!」
堰を切ったように、累は弘樹の秘密を暴露し始めた。それは、私が知らなかった事実も含まれていた。そして弘樹を罵倒し尽くすと、今度はくるりと私の方に向き直り、信じられない言葉を口にした。
「ねえ、真子」
その声は、先ほどまでとは打って変わって、媚びるような甘ったるい声だった。
「あんたも大変だったわよね。こんなクズみたいな男に騙されて。私もね、ずっと弘樹に言い寄られてて困ってたのよ。私だって被害者なの。私たち、やっぱり世界でたった二人の姉妹じゃない。これからは助け合っていきましょうね」
そう言って、彼女は私の腕に馴れ馴れしく絡みついてくる。鳥肌が立った。この人は、自分が生き残るためならプライドも何もかも捨てられる人間なのだ。
「お願い。このマンションに一緒に住ませて。私、今度こそ心を入れ替えるから。家事は何でもするし、あんたの仕事も手伝うからね。お願い」
その見苦しい姿に、今度は弘樹が激昂した。
「累! てめえ、どの口が言うんだ? 被害者だと? 俺をその女と離婚させたのはお前だろうが。お前こそ、俺の財産目当てで近づいてきた金食い虫じゃないか」
ああ、懐かしい言葉。かつて私が浴びせられたあの言葉。今、その言葉はあなたたちが見苦しく罵り合うための道具になっている。二人の醜悪な言い争いを、私は冷たい目で見下ろしていた。
ひとしきり累を罵倒し終えた弘樹は、最後の望みを託すように私の前に崩れ落ちた。どさっという音を立てて、土下座する。
「ま、真子、すまなかった。俺が、俺が全て間違っていた。累みたいな小賢しい女に騙されて、俺はどうかしてたんだ。俺にはやっぱりお前が必要だ。お願いだ。もう一度やり直してくれ。今度こそ、世界一幸せにしてみせるから」
必死に復縁を迫るかつての夫。その隣で、まだ私に何かを期待するように上目遣いでこちらを見ている姉。なんて滑稽な光景だろう。私はすがりついてくる弘樹の手を振り払うでもなく、ただ静かに自分の左手を彼の目の前に差し出した。私の左手の薬指には、理太が送ってくれたダイヤモンドの指輪が上品に輝いていた。
「ごめんなさい。もう私には、あなたなんかよりずっと素敵な生涯を誓ったパートナーがいるの」
私の言葉に、弘樹の顔が絶望に染まる。その時だった。
「真子、どうかしたのかい?」
優しい声と共に、理太が私の肩をそっと抱き寄せてくれた。どうやら言い争いの声を聞きつけて、心配してきてくれたらしい。理太は私をかばうように一歩前に出ると、土下座する弘樹と茫然とする累を、冷静な目で見下ろした。
「私の妻に、何かご用でしょうか?」
妻。その一言が、二人に最後のとどめをさした。弘樹と累は何も言い返せないまま、ただ茫然と私と理太を見上げるだけ。私はもう、彼らに何の感情も抱かなかった。怒りも憎しみも、哀れみさえも。ただ、最後にこれだけは伝えておかなければならない。
「あなたたちに言われた金食い虫という言葉のおかげで、私はここまで来ることができたわ。私をどん底に突き落としてくれて、ありがとう。ある意味、心から感謝してる」
そう言って、私は理太を見つめる。私をかばうように立つ、その広い背中がとても頼もしい。
絶望の縁にいた弘樹は、理太の登場で一瞬ひるんだものの、すぐに歪んだ希望を見出したようだった。
「そうだ。こいつも俺と同じ男だ。女の欠点を吹き込んでやれば、俺の気持ちが分かるはずだ」
弘樹は惨めに土下座したままの姿勢で、理太に向かって必死に語りかけ始めた。
「あ、あんた、そいつに騙されてるんだ。今すぐ別れた方が、絶対にあんたのためだ」
「ほう。詳しく聞かせてもらえますか?」
理太は興味深そうにそう返したが、その目は全く笑っていなかった。それに気づかない弘樹は、待ってましたとばかりに、かつて累が自分にしたのと同じように、私の悪口を並べ立て始めた。
「いいか、よく聞けよ。こいつはな、仕事のことしか頭にない冷たい女なんだ。家庭を顧みず、夫より自分のキャリアを優先する。男を立てるってことを、全く知らないんだよ。料理も掃除も中途半端。それなのにプライドだけは一流で、全く可愛げがない。こんな女といたら、あんたも不幸になるだけだぞ」
それは、彼が信じてやまない古びた価値観の結晶だった。女は男の三歩後ろを歩き、家庭を守るべきだという、彼の凝り固まった考え。私が捨てられた最大の理由。
しかし、理太の反応は弘樹の予想を百八十度裏切るものだった。理太は静かに弘樹の話を聞き終えると、ふっと息を吐き、そして穏やかに、しかしはっきりとこう言った。
「なるほど。よくわかりました。あなたが彼女の隣に立つに値しない人間だったという理由が、はっきりと」
「だ、だから」
「あなたが欠点だといった仕事に情熱を注ぐ姿。それこそが、私が彼女を世界で一番愛しいと思う理由です。誰かの言いなりにならず、道を切り開く強さ。それこそが、私が経営者として、男として彼女を尊敬する理由です。そして、誰にも媚びないその凜とした生き様が、何よりも美しく、私の誇りなんです」
弘樹が欠点としてあげた全てを、理太は最高の魅力だと断言した。それは、弘樹という人間の価値観そのものを根底から否定する言葉。理太は冷たい視線で弘樹を見下ろすと、最後の言葉を突きつけた。
「あなたのような器の小さい男には、彼女の本当の価値は永遠に理解できないでしょう。これほど尊敬し合える最高のパートナーを、この僕が手放すはずがない」
弘樹は完全に言葉を失っていた。自分の信じてきた世界が、ガラガラと音を立てて崩れ落ちるのを感じているのだろう。その時、これまで状況を静観していた累が動いた。弘樹という船が沈むと見るや、彼女はためらいもなく次の船に乗り換えようとしたのだ。
累はわざとらしく髪をかき上げると、潤んだ瞳で理太を見つめ、甘い声を出す。
「理太様ですわよね。なんて素敵な方。私も、こんな甲斐性なしの男にずっと騙されていて。理太様のような本当の紳士とお知り合いになれて、本当に光栄ですわ」
しかし、理太の目は氷のように冷たかった。
「ああ、あなたが累さんですか。妻から話は聞いていますよ。妹を言葉巧みに落とし入れ、その夫を奪い取ったそうですね。あなたは、人として恥というものを知らないのですか?」
完璧なまでの拒絶。累の作り上げた笑顔が、仮面のように剥がれ落ちる。彼女のプライドは完膚なきまでに粉砕された。累はもはや一言も発することができず、顔を真っ赤にして、逃げるようにその場から走り去っていった。
一人取り残された弘樹は、まだ往生際悪く何かを言おうとしていたが、理太は静かに内線を手に取り、一言だけ告げた。
「警備をお願いします。オーナーフロアで不審者が騒いでいますので」
すぐに屈強な警備員たちが駆けつけ、弘樹の両脇をがっちりと固めた。
「あ、話せ、俺は客だぞ!」
「いいえ、あなたはオーナー様への著しい迷惑行為を行いました。今すぐご退場いただきます」
「待ってくれ、真子! 話を聞いてくれ、真子!」
必死に叫びながら、為す術なく引きずられていく元夫の姿を、私は静かに見送った。もう二度と会うこともないだろう。そう思っていた。
数日後、私と理太は引っ越しを終えたばかりのペントハウスで、穏やかな時間を過ごしていた。眼下に広がる東京の夜景を見ながら、理太が入れてくれたハーブティーを飲む。あの日々の悪夢が、まるで嘘のようだ。その時、静寂を破るようにエントランスのインターホンが鳴る。モニターに映っていたのは、派手なスーツに身を包んだ、見るからに胡散臭い男だった。
「私、風水師の坂本と申します。こちらのマンションに不吉な気を感じましたので、是非一度鑑定させていただけませんかな」
風水師か。何とも怪しい。もちろん丁重にお断りしようとした、その時だった。
「少し面白そうだから、上げてみないかい?」
私の肩を叩き、理太がいたずらっぽく笑ったのだ。彼の言うことならと、私は坂本と名乗る男をリビングへ通す。坂本は部屋に入るなり、大げさな身振り手振りで叫び始めた。
「おお! これは何という邪気が淀んでおりましょうぞ、奥様! タワーマンションは最悪の住居なのです。まっすぐこの家を手放しなさい!」
なるほど。分かりやすいわね。私はあきれながらも、彼の次の言葉を待つ。坂本は私の顔をじっと見つめると、もったいぶったようにこう言った。
「そして奥様、あなた様の運命の相手は、過去に一度強い縁で結ばれた方に違いありませんな。今の縁を断ち切り、過去の縁を結び直せば、万の幸運が舞い込むことでしょう」
もう、誰がこんな茶番を仕組んだのか考えるまでもなかった。最後の悪あがきにしては、あまりにも稚拙すぎる。私がため息をついていると、それまで黙って話を聞いていた理太が静かに口を開いた。
「坂本さんでしたか。素晴らしい鑑定、ありがとうございます。ところで、一つお伺いしても?」
「何でしょうか」
理太は自分のスマートフォンを坂本に見せながら、にっこりと笑った。
「あなた、複数の詐欺事件で指名手配されている、海運詐欺師の坂田ではありませんか? この警察の公開捜査資料にある写真、あなたにそっくりなのですが」
坂本の顔が一瞬で青ざめへと変わった。
「な、な、何のことでございますかな? 人違いでは?」
「ほう、そうですか。では、今から来ていただく警察の方に、直接ご説明しますか?」
そう言って、理太はためらいなく一一〇番に電話をかけた。
「もしもし、警察ですか? 現在重要指名手配中の詐欺師が私の自宅におります。至急来てください」
坂本は観念したように、その場にへたり込んだ。やがてサイレンの音が近づいてきて、あっという間に警察官が部屋になだれ込んでくる。抵抗する間もなく、坂本は取り押さえられた。そして連行されていく間、彼は最後の叫び声をあげた。
「わ、私は頼まれただけなんです! 弘樹さんという方にお金を渡されて、言われた通りにやっただけなんです!」
その言葉を、私は静かに聞いていた。哀れな元夫の、最後の末路。こうして、私を巡る長くくだらない復讐劇は、本当の終わりを告げたのだ。
私の隣には、誰よりも私を理解し愛してくれる最高のパートナーがいる。もう何も怖くない。私は理太の手をぎゅっと握りしめ、眼下に広がる美しい夜景を、晴れやかな気持ちで見つめるのだった。
警察に連行された自称風水師の坂本は、あっさりと全てを自白したようだ。元夫である弘樹さんに雇われ、高額な報酬と引き換えに復縁を促すよう指示されたと。この一件が引き金となり、弘樹と累の人生は、まるで砂の城のようにあっけなく崩れ落ちていく。
警察は業務上横領の疑いで、弘樹が務める会社へも連絡を入れた。それがきっかけとなり、会社は弘樹の素行に関する内部調査を開始。すると、出るは出るわ、彼の悪事の数々。累に貢ぐために会社の経費を不正に流用していたこと。複数の女性社員と不適切な関係を持っていたこと。そして、ブランド品や高級レストランでの飲食費で膨れ上がった、多額の消費者金融からの借金。彼の築き上げてきたエリート社員という虚像は、あっという間に剥がれ落ちた。会社は当然、弘樹を解雇。
「俺は会社に貢献してきたんだ!」
そう最後まで喚いていたそうだが、誰も彼に同情するものはいなかったという。まさに自業自得だ。風の噂で聞いた話では、弘樹はその後、再就職も見つからず、都内の安アパートで日雇いのアルバイトをしながら、なんとか食いつないでいるらしい。かつて私を金食い虫と罵った彼自身が、その日暮らしの生活を送っているなんて、皮肉なものだ。
一方、姉の累もまた、逃れることのできない罰を受けることになる。弘樹との一連の騒動で、彼女の悪業、実の妹を落とし入れ、その夫を奪い、さらには複数の男性と金銭目当ての関係を持っていたことが、共通の知人たちの間に一気に広まったのだ。彼女の唯一の武器であった、男をたぶらかす美貌も、悪評の前では何の効果もない。
「あんな小悪女とは関わりたくない」
そう言って、あれだけちやほやしていた男たちは、雲の子を散らすように彼女の元から去っていく。仕事もなくなり、経済的に困窮した累は、実家に泣きついたそうだが、両親も今回の件で愛想を尽かした。
「お前の居場所はもうない」
そう言って追い出されてしまったとか。結局、彼女もまた全てを失い、孤独になったのだ。
それから数年、私と理太はあのペントハウスで、穏やかで幸せな日々を過ごしている。眼下に広がる町の光を見ながら、二人でゆっくりと食事をするのが、私たちのお気に入りの時間。
「それにしても、見事な逆転劇だったね。君は本当に強い人だ」
「うん。理太さんがいてくれたからよ。一人だったら、きっと心が折れていたわ」
「そんなことはないさ。君は自分の力で立ち上がったんだ。僕はそんな君の強さに惹かれたんだから」
彼はいつでも、私が一番言って欲しい言葉をくれる。彼の前では、無理に強くならなくていい。私のブランド「M’s Style」は、理太の的確な経営サポートもあり、今では海外からも注目されるブランドへと成長した。新しいデザインに悩んでいる時には、彼が全く違う視点からアドバイスをくれる。彼が大きなプロジェクトで疲れている時には、私が彼の好きな料理をたくさん作ってねぎらう。私たちは互いを深く尊敬し、対等なパートナーとして支え合っているのだ。
あんなにも私を縛りつけたがった、あの古臭い価値観。男を立てろ、家庭を守れ、仕事ばかりするな。あの言葉は、結局自分に自信のない男の、ただの嫉妬と束縛でしかなかった。本当のパートナーシップとは、どちらかが一方的に我慢するのではなく、お互いの夢を応援し、共に成長していくこと。理太と出会って、私はそのことを心から実感することができた。
あの時の屈辱と絶望がなければ、今の私はなかったかもしれない。そう考えると、あの二人との出会いも、私の人生にとっては必要な出来事だったのだろう。もちろん、感謝なんて一切していないが。
本当の幸せとは、誰かに与えられるものでも、見せつけるものでもない。自分の足で立ち、自分の手で掴み取るものなのだと、今ならはっきりと分かる。これからもデザイナーとして、経営者として、そして理太の妻として、私は私らしく前を向いて生きていく。隣で優しく微笑むこの人と共に、これからも歩んでいきたいと心から思うのだ。
