顔の右半分が動かなくなった朝、夫は私を車に乗せて「病院に連れて行く」と言った。それが、山奥の誰もいない廃屋に私を置き去りにするためだと、その時はまだ気づかなかった。「お前みたいな妻、恥ずかしいんだよ。悪い病気になりやがって」——走り去る車を追いかけながら、私は怒りと絶望でその場にへたり込んだ。46歳、夫と二人で築いてきた会社の副社長だった私。20年かけて信頼を積み上げてきたのに、彼は若い社員…

顔の右半分が動かなくなった朝、夫は私を車に乗せて「病院に連れて行く」と言った。それが、山奥の誰もいない廃屋に私を置き去りにするためだと、その時はまだ気づかなかった。「お前みたいな妻、恥ずかしいんだよ。悪い病気になりやがって」——走り去る車を追いかけながら、私は怒りと絶望でその場にへたり込んだ。46歳、夫と二人で築いてきた会社の副社長だった私。20年かけて信頼を積み上げてきたのに、彼は若い社員...

「お前みたいな妻、恥ずかしいんだよ。悪い病気になりやがって。」

顔の右半分が動かなくなった私を、夫は山奥にある田舎の廃屋に連れてきた。彼は私の腕を掴み、無理やり車から下ろした。

「お前なんていなくても困らない。」

「待って。置いていかないで。」

大声で叫ぶも、車は走り去っていく。なぜ私が置き去りにされなくてはならないのか。怒りと悲しみ、絶望が込み上げる中、私はその場にへたり込んだ。

その翌月、再び夫が廃屋に現れる。勢いよく玄関の扉が開いたかと思えば、彼は手にスコップを持っていた。何をしようと考えているのか容易に想像がついたものの、深くは追求しない。その代わり満面の笑みで夫を見つめる。

「あら、一ヶ月ぶりね。元気にしてた?」

「な、んで笑ってるんだよ?どういうことだ?嘘だろ?」

ガクガクと体を震わせ、体から滝のように汗を流す夫。ようやくこの日が来たことを、私は心から喜んだ。

私は荒内マリ。46歳。三歳上の夫と起業したリノベーション会社の副社長を務めている。会社を設立したのは今から20年前。夫と結婚してすぐのことだ。

彼との出会いはその4年前に遡る。私は大学で建築学を学び、卒業後、とある工務店に入社した。彼はそこに勤務していた営業担当の先輩だった。

「これからよろしくね。分からないことがあったら何でも聞いて。」

彼は頼りがいのある人で、同僚からも信頼されていたのを覚えている。そんな彼と距離が縮まったのは、ある大型案件がきっかけだ。彼は大きな仕事を任され、数日残業続きで作業していた。ただ、徐々に顔色が悪くなり、何かに悩んでいる様子だった。

「あの、大丈夫ですか?」

ある日、思い切って声をかけると、彼は不安げにこちらを向く。

「もしかして、俺、大丈夫そうに見えない?」

「はい。ここ最近残業してますよね。無理してるんじゃないかと思って。」

「やっぱり分かるよね。」

ため息をつくや、彼が現状を打ち明ける。どうやら大型案件以外の仕事も立て込んでおり、業務が間に合っていないという。

「大きい仕事を任せてもらったから頑張ってるんだけど、俺、あんまり容量が良くないみたいで。て、ごめん。先輩が後輩に相談するなんて情けないよな。」

自嘲気味に笑う彼を見て、私はふと口を開いた。

「私も力になれることありますか?協力したいです。」

入社した当時、彼に助けてもらった恩返しがしたい。そう告げると、彼は嬉しそうに目を細める。

「ありがとう。マリさんは優しいね。それじゃあ、お手伝いを頼もうかな。」

そして私は彼と共に案件を担当するようになった。未熟ゆえにサポートできる範囲は限られていたものの、彼の指示は的確で、分からないこともすぐに解決する。二人で作業することで仕事もはかどり、結果、無事に案件は成功した。

それから数日後、私は彼に誘われてとある居酒屋を訪れた。お互いに努力を称え合う中、彼は私を高く評価した。

「マリさんがいなければ、俺は追い詰められていたかもしれない。今回は本当にありがとう。マリさんって優秀だね。」

「そんなことありません。」

「いや、俺、マリさんの図面を見てびっくりしたよ。あまりにも正確でさ。仕事に対する熱意もすごいし、マリさんの才能はうちで埋もれていいものじゃないと思う。」

「過大評価ですよ。でも、ありがとうございます。」

照れ臭くなって、思わず目をそらす。すると彼は意外な提案をした。

「俺、マリさんの才能をもっと素晴らしい形で生かしたい。いつか、俺と一緒に起業しないか。」

彼は今回の案件を通して、今後も私と共に仕事をしたいと思ってくれたようだ。その気持ちは嬉しいものの、不安もあった。

「私なんかと一緒でいいんですか?成功するか分かりませんよ。そもそも、あなたほどの人なら、もっと優秀な人と起業できると思います。」

彼は他の同僚からも認められているし、私以外に適任がいるはずだ。そう伝えたけれど、彼は首を横に振る。

「俺はマリさんと会社を起こしたいんだ。営業スキルしか取り柄のない俺だけど、その分、マリさんの技術を売るからさ。」

まっすぐ私を見つめる彼の顔は真剣で、冗談ではないのだろう。彼がここまで言ってくれるなら、私も本音で答えるべきだ。

「私も、あなたと会社を立ち上げたいです。」

「ありがとう。じゃあ、これからは会社の設立に向けて二人で頑張ろうか。」

私たちは固く手をつなぎ、互いに起業を目標に頑張ることを誓い合った。

彼との交際が始まったのは、それから一年後のこと。起業を目指して話し合ううちに距離が縮まり、彼から告白されたのだ。私自身、彼の優しさや決断力の高さに惹かれていたため、すぐに快諾。そして交際から二年後、結婚した。

結婚したらすぐにでも起業しようと話し合っていた私たち。結婚と同時に工務店を退職して、会社を立ち上げた。互いに相談した結果、起業したのがリノベーション会社だ。

「顧客の希望を叶えつつ、古い民家を有効活用できる。すごく素敵な仕事だと思うの。だから、私はリノベーションがしたい。」

「いいと思うよ。需要も増加してるし、今の時代に合ってるんじゃないかな。」

ただ、会社を設立した直後からうまくいったわけではない。顧客が増えず、業績も伸び悩み、頭を抱えたこともある。しかし20年が経った今、会社は大きくなり、社員数もかなり増加した。夫婦二人三脚で頑張ってきた成果だろう。

ちなみに、互いの役職は起業の際に話し合って決めた。

「対外的な交渉は社長である俺がやるから。マリは設計に集中して欲しいんだ。会社に関する難しいことは任せてくれて構わない。」

「ありがとう。でも、何かあったらいつでも相談してね。私も副社長として会社を支えていくから。」

彼なりに私のことを考えて提案してくれたに違いない。彼の気持ちに感謝して、私は今の体制を自ら選んだ。現在も、リノベーション会社を設立して良かったと心の底から思っている。顧客の要望を実現できる、やりがいのある仕事だ。

仕事に集中する。この20年、夫婦二人で歩んできた人生。子供がいないことに寂しさを感じる時もあるが、彼が隣にいれば幸せだと、私はそう考えていた。

ただ、三年ほど前から彼の言動に引っかかることが増えた。彼はどうも、自分が社長だから会社が成功したと思っているようなのだ。

「俺は一人でこの会社をここまで大きくしたんだ。たった20年でだぞ。お前ら、今起業してここまで会社を成長させられるか?」

休憩中、周囲の社員に武勇を語り、得意げに笑って見せる。実際、彼が社長として頑張ってきたのは事実だ。彼の努力だけではここまで社員数は増えなかっただろう。そう思うものの、会社のために尽力してきたのは何も彼だけではない。何より、社員はみんな彼の自慢話に辟易していた。社長だからと逆らえず、うんざりした顔で黙って聞いている。

この状況が続くのは良くないと思い、ある日の夕食、私は軽く注意をした。

「ねえ、会社で自慢話するのはやめた方がいいわよ。社員のみんなだって困ってるんだし。」

「自慢話?何のことだ。俺はそんなことしてない。」

「自覚がないのね。みんなの顔見てないの?気まずそうに目をそらしてるでしょ。社長として、社員のことをちゃんと考えて行動してほしい。」

そう伝えた上で、私自身の不満も言葉にした。

「会社はあなた一人の力で大きくなったわけじゃない。ベテランの社員や、副社長として私も頑張ってきたからこそ今がある。だから、私たちのことをないがしろにしないで欲しいの。」

彼なら分かってくれると思っていた。だが、彼は徐々に顔をしかめて、不機嫌になる。

「俺は社長としての威厳を示したかっただけだ。それなのに、ぐちぐち言われて気がめいるんだけど。」

「威厳を通して示せばいいでしょ。わざわざ成功体験を語る必要はないと思うの。」

「俺は社員にやる気を出させるために、話をしてるだけだ。マリは、俺だけがちやほやされるのが気に食わないんだろ。」

彼は口元を歪めて嘲笑う。彼は私の考えを全く理解してくれなかった。呆気にとられるのをこらえ、再度説得を試みるも結果は同じ。

「マリが副社長として支えてくれたって、社員に言えばいいんだろ。俺だけの手柄じゃないって説明すれば、気が済むんだろ。」

「そういうことじゃないってば。」

その頃から、夫婦仲が少しずつ険悪になっていった。会社でも家でも、顔を合わせるたびに口喧嘩が増えていく。基本は彼から一方的に責められるだけ。私が反論しても、彼は聞く耳を持たない。

「マリは心が小さいんだな。こんなしょうもないことに目くじらを立てるなんて。」

「どうしてそうなるの?私はただ、車内で喧嘩をしたくないだけ。不満をぶつけるにしても、せめて家にいる時だけにして欲しいの。」

社員の前で社長と副社長が言い争いをするなんてもってのほかだろう。私は会社では今まで通り接して欲しいと何度も頼んだ。しかし彼は態度を改めず、それどころか一層冷たくなっていく。

ひどい時には、私に雑用を押し付けることもあった。

「おい、もうすぐ顧客が来るから、茶を入れろ。」

急に呼び出されたかと思えば、応接室に向かうよう指示される。夫婦とはいえ、社長が副社長にお茶汲みを頼むなんてありえない。手が開いている社員は他にもいる。

「今、中に終わらせないといけない仕事があるの。悪いけど、別の人にお願いしてくれない?」

私はちょうど急ぎの仕事を任されていたため、さすがに断った。途端に彼が激昂する。

「生意気なことを言うな。俺は社長だぞ。社長の嫁なんだから、指示通りに動け。」

「そんなことを言われても、私は今、あなたに頼まれた業務をやってるのよ。急ぎの仕事があるのに、あなたが追加で書類を渡してきたじゃない。」

「それはお前の仕事が遅いのが問題だろう。俺に逆らうのはやめてくれ。社員の上に立つ人間なんだから、見本になるべきだ。」

彼は大声で怒鳴り、今すぐお茶汲みに取りかかるよう命令した。これ以上反論しても時間の無駄だ。私はしぶしぶ応接室に向かい、顧客にお茶を出した。社員はみな、あからさまに私たちの会話に耳を済ませている。

その後も彼の振る舞いは悪化していき、気づけば経理や社員のメンタルケア、果ては誰にでもできる雑用まで押し付けられるようになった。

「他に人がいない。お前がやっておけ。」

「私にも仕事があるの。何でもかんでも頼みに来るのはやめて。」

彼から雑用を任される度、自分の業務に当てる時間が減る。残業も増えて効率も悪くなるし、やめて欲しいと毎回伝えた。ただ、その言葉に彼は面倒そうな顔をする。

「そんな難しい仕事じゃないんだから、ちゃっちゃとやればいいだろう。副社長なんだし、会社のために動いてくれよ。」

「副社長だからこそ、本来の仕事も大事なの。そこまで言うなら、会社のためにあなたが動けばいいじゃない。」

「お前、自分の立場分かってるのか?」

彼は苛立ちを露わにして声を張り上げる。そして私の手元にあった書類を手に取り、床に捨てた。

「ちょっと、何をするの?」

「俺は社長として会社を引っ張っていってるんだぞ。副社長のお前には、俺の責任の重さなんて理解できない。それなのに、俺に雑用をしろとか、よく言えるな。」

「だとしても、私に押し付けていい理由にはならないと思う。」

「じゃあ、他の社員に全部押し付けりゃいいんだな。お前以外ならいいんだろ。」

彼は近くにいた社員に声をかけると、書類のコピーを命じた。その社員も業務に追われているのだろう。冷や汗をかき、慌てている。だが、とても社長には逆らえないからか、しぶしぶ指示に従っていた。

彼はこれ見よがしに悪い笑みを浮かべ、私に視線を送る。

「ごめんなさい。その仕事は私が代わるわ。」

私はためらいながらも社員に声をかけた。彼の言いなりになるのは不服だが、社員に迷惑をかけたくない。

「最初から素直に従えよ。」

それだけ言うと、彼は足早にその場を立ち去った。社員は少々戸惑っていたけれど、一礼して書類を手渡してくる。私はコピー機の前で小さくため息をついた。

彼はどうしてここまで私を見下すようになったのか。かつては社員それぞれに仕事を割り振り、雑用もいろんな人に均等に回していた。私が副社長としての業務に専念できるよう、気を使ってくれていたはず。

「マリが忙しいなら、それは俺がやるよ。こっちが社長なんだし、気にしないで。」

当時と比べると、まるで別人のようだった。彼の変貌ぶりが受け入れられない中、彼は味を占めたのか、社員を使って私に言うことを聞かせるようになる。

「他の社員に任せてもいいけど、みんな忙しそうだな。マリならやってくれるだろ。」

周囲に目をやりながら、彼がニヤニヤと笑う。最初から私に押し付けるつもりだったのだろう。断ればまた口喧嘩に発展する。

「分かったわよ。」

私は半ば諦め気味で彼の頼みを聞き入れた。その瞬間、彼は目を細める。

「急ぎでよろしくな。」

彼は私に感謝することはなく、むしろやって当たり前だと思っているようだ。思わず肩を落とすも、私が我慢すれば彼は声を荒らげたりしない。会社の空気を壊さないようにするためには仕方がないことだ。そう考えて我慢していたのだが、彼はその後、恐ろしいことを提案する。

「今年度、マリの給料を下げるから。」

「なんで?」

なんと彼は、節税のために私の役員報酬を減らすというのだ。

「夫婦の所得を分散した方が、合計の税負担が下がるんだよ。それに、会社側の負担する保険料も減るしさ。いいこと尽くめだろ。」

へらへらと笑う彼に、思わず口を開く。

「それじゃあ、生活費の折半はやめるってこと?」

私たちは今、夫婦二人で管理している共同口座に給与の一部を入金している。そこから家賃や水道光熱費が引き落とされているのだが、今後私だけ給料が減るなら、折半は納得できない。彼が多めに出してくれるとすれば、まだ考える余地があった。しかし、私の問いかけに彼は眉をひそめる。

「金額は変われど、今後もマリに給料を渡し続けるんだ。だから当然、折半に決まってるだろう。」

「じゃあ、私だけ自由に使えるお金が減るってこと。さすがにおかしいわよ。節税対策だとしても。」

「わがまま言うのはやめてくれ。お前はただ事務作業をやってるだけだろ。お飾りの副社長のくせに、金になるとうるさいんだな。」

適当にあしらわれ、まともに取り合ってくれない。彼は大げさにため息をついて、冷めた目でこちらを見る。

「なら、役員じゃなくて社員にしてもいいんだぞ。それとも、パートやアルバイト扱いしようかな。」

彼は私が副社長であることに不満を抱いているらしい。あまりにもひどい態度に怒りが湧き、自然と拳に力が入る。

「私は今まで会社のために頑張ってきたのよ。それを、あなただって見てたはずよね。なのに、こんな言い方。自分がいたから会社が大きくなったと思ってんの?」

「ほんと、気持ち悪いやつだな。マリがいなくても会社は成功したよ。」

そう。彼の考えは分かった。今の彼には私の気持ちなど想像できないだろう。一緒になって起業を目指していたことなんて、もう忘れてしまったようだ。深い絶望に襲われ、言い返す気力もない。パートやアルバイト扱いにされなかっただけ、まだましだと思うことにした。

こうして私は他の社員とさほど変わらない給料を渡されるようになる。だが、副社長として責任重大な仕事を任されることも多々あった。給料に見合ってない業務だと思いつつ、それでも彼に反論はしない。話し合っても無駄だからと、節約を心がけ、どうにか今まで通り生活費も折半し続けた。

「今月、俺は半分入金したから、お前もちゃんと入れておけよ。」

「分かったわ。」

ただ、このままずっと彼に対して従順でいるつもりはない。私なりに反撃すべきタイミングを狙って動こうと考え始めていた。そう思ったのには訳がある。実は彼が私を軽んじる理由に、うっすら気づいていたのだ。

「あの松井さんって人、いい子だよね。気配り上手だし、優秀だし。」

私への当たりが強くなった頃から、彼はとある女性社員のことを褒め始めた。その社員とは松井美緒と言い、現在26歳の若手社員だ。彼はことあるごとに彼女を高く評価し、相当気に入っているようだった。実際、美緒は任された仕事を完璧にこなしている。

「同僚にも優しいって噂だよ。彼女みたいな社員がいてくれて、社長としても安心するよ。」

「そうね。」

私はそれ以上、何も言えなかった。美緒は確かに外から見れば仕事ができる社員のように思えるが、本当は何もしていない。彼女は男性社員にすり寄って、自分の仕事を押し付けているのだ。同僚らはみんなその事実を把握している。ただ、彼は美緒の本質に気づいていない様子だった。私が事実を言ったところで、彼は信じないだろう。それだけ彼は美緒のことを気に入っていた。

「松井さん、お疲れ様。仕事はどう?順調?」

「はい。私、社長のためにもっと頑張りますね。」

話しかけられる度に彼に媚を売る美緒も、彼に好かれていることを察していた。次第に二人は車内でもよく話すようになり、距離を縮めていく。

「美緒さんは頑張り屋だな。でも、無理はしないでよ。」

「社長って、すごく優しいんですね。ありがとうございます。」

彼は美緒を下の名前で呼んでは、顔をほころばせる。他の社員とは異なる対応で、正直妻としていい気はしない。何より彼女のことを特別扱いしているように見える。私は度々、距離感には気をつけた方がいいと彼に忠告した。

「二人の関係性を怪しんでいる社員もいる。松井さんのことを気に入ってるとしても、一人の社員と仲良くなるのはやめてちょうだい。あなたは社長なんだから。」

「社長だからって何だ?社員を可愛がっちゃいけないのか?美緒さんとの関係は、あくまでも社長と社員でしかない。疑いの目で見てるお前らに問題があるだろう。」

「そう見られる言動を取ってるのは、そっちでしょ。」

「黙れ。美緒さんがかわいそうだとは思わないのかよ。何の根拠もなく、彼女に変な疑いをかけるなんて。」

もちろん、私の言葉など一切聞かず。その後も彼は美緒を特別扱いし続けた。そして彼は取引先の接待にも、必ず彼女を連れていくようになる。

「美緒さん、来週の金曜日、空いてる?取引先との飲み会なんだけど。」

「もちろん大丈夫です。社長に誘ってもらえるなら、行きますよ。」

楽しそうに会話する二人を見て、思わず虫の居所が悪くなった。周囲の社員はひそひそと小声で何かをささやき、彼らに視線を送る。みんな二人の関係性を怪しんでいるのだろう。彼はこれまでの20年間、特定の社員だけ優遇することはなかった。だからこそ違和感を拭えず、私は改めて彼に注意した。

「前にも言ったけど、さすがに松井さんとの距離が近すぎる気がする。」

夕食時、そう告げた瞬間、彼は目をぱちくりと動かした。

「またその話か。俺と美緒さんの間には、何もないから。」

「だとしても、気をつけた方がいいの。毎回彼女を飲み会に連れて行ってるでしょ。他の社員には、誘ったり誘わなかったり、なのに。」

「うちの社員には若い女性が少ない。しかも、飲み会に参加してくれる人なんてごく少数だ。美緒さんの頻度が多くても仕方ないだろう。」

「若い女性じゃなくてもいいでしょ。男性の若手社員だって。」

反論しようとすると、彼がテーブルを勢いよく叩く。

「若い女性が来た方が、取引先も喜ぶんだって。こっちは会社のために色々考えてるんだから、口出しするな。」

あまりの激昂ぶりに、私は絶句した。彼が社長として接待を重要視する気持ちは分かる。ただ、ここまで怒ることではない気がした。

「美緒さんだって、本当は飲み会を面倒に思ってるかもしれない。でも、会社のためにしぶしぶ付き合ってくれてるんだ。」

「それなのに、お前も社員も、変な誤解をしやがって。」

「少し落ち着いてよ。松井さんが面倒に思ってるなら、なおのこと誘うのはやめたらどう?彼女ばかりに負担をかけるのは、あなただって嫌でしょ。」

私としては至極全うな意見を述べたつもりだが、彼は頭を抱える。

「じゃあ、マリが来るのか?お前なんか連れて行っても、取引先は全く喜ばないのに。それは言っておくけど、冗談だからな。40過ぎのおばさんを接待に連れて行くわけがない。」

彼は私が嫉妬していると思ったらしい。ニヤニヤしながらこちらを見て笑う。

「若い女性が気に食わないなんて。マリって、本当に心が小さいな。可愛い美緒さんがみんなにちやほやされてて、悔しいんだろ。」

「そうじゃない。私は社長として正しい振る舞いをしてほしいだけ。誰に対しても特別扱いはやめて欲しくて。」

「お前みたいな、おばさんが美緒さんに嫉妬するとか、見苦しいからほどほどにしとけ。」

そう言って、彼は自室に入ってしまった。私の相手をするのも面倒になったに違いない。そして、彼はこの話をなかったことにしたようだ。

「副社長って、今も社長のことが好きなんですね。」

後日、昼休憩に突然、美緒から声をかけられた。

「急に、どうしたの?」

「いえ、副社長が焼きもちを焼いてるっていう噂が流れてきたので。私が社長と仲が良くて、不安なんですよね。」

戸惑う私をよそに、美緒は柔和に笑う。

「安心してください。私は社長を尊敬しているだけで、何かやましいことはしてませんから。」

「私は何も、あなたたちを疑ってるわけじゃないのよ。ただ、外からどう見えてるか考えて欲しくて。」

「それが嫉妬なんですよ。気をつけてくださいね。私は社長のことを何とも思ってませんが、向こうはどうか知りませんから。」

それだけ言って、彼女は立ち去った。私が余計な心配をしないよう、二人の関係を説明しに来てくれたのだろうか。ただ、美緒の言葉に心がざわつく。先ほどの発言が、まるで彼は彼女に好意を抱いているように聞こえたのだ。

嫌な予感がするものの、私にできることはない。彼に忠告しても無駄だし、何より彼をこれ以上刺激したくないのだ。私は一旦美緒を信用しつつ、異変があればすぐにでも動こうと決めた。

そんな中、美緒が大切な顧客を怒らせてしまう事案が発生する。それは今から半年ほど前のある日のこと。

「私はちゃんと状況を説明しました。向こうが聞いてなかったから。」

「今はそんなことよりも、問題を解決することが大事よ。犯人探しをするつもりはないし。原因の究明は後でもできるから。」

事態が発覚した後、美緒は延々と言い訳を繰り返した。私は彼女を連れて顧客に謝罪に行き、その上で他の社員と共にフォローした。

「この度は誠に申し訳ございませんでした。今後はこのようなミスがないよう、業務を見直してまいりますので。」

「すみませんでした。」

身を縮めながら頭を下げる。顧客は以前から付き合いのある人で、私たちが謝罪に向かうや「ふざけるな」と怒鳴っていたものの、最終的には水に流すと言ってくれた。許してもらえて安心したが、信頼を取り戻すために今後は一層気を引き締める必要がある。

「これからは、不安なことがあればいつでも相談してちょうだい。先輩の手が空いてないなら、私に聞いてくれて構わないから。」

今回、美緒は珍しく誰にも仕事を押し付けなかったそうだ。ただ、周囲に確認してもらわなかった結果、ミスが起きたという。彼女なりに成長しようともがいているのかもしれない。私は美緒を咎める気にはなれず、あくまでも今後注意して欲しいと伝えるだけにとどめた。

だが、その優しさがあだとなる。

「お前がしっかりしてないから、顧客を怒らせることになったんだぞ。」

翌日、なぜか彼は私を叱責したのだ。今回の事案について、私は直接的な関わりはない。事態を把握した際、彼が会社にいなかったため、代わりに謝罪に向かっただけだ。そう説明しても、彼は怒鳴り続ける。

「美緒さんから話は聞いてる。お前にチェックを頼んだのに、無視されたとな。」

「え、いや、」

私は思わず美緒に視線を移す。すると彼女は目を細め、手で口を覆っていた。笑いをこらえているようにしか見えず、愕然とする。美緒は自分のミスを私になすりつけたのだ。

「副社長なのに、社員に嫌がらせをするなんて最低だ。そんなに若い女性が気に入らないのか。」

社員たちの前で、彼は私を罵倒し続ける。美緒のミスが原因だと知っている社員はみんな気まずそうに目をそらす。彼らは彼に逆らいたくないからと、知らないふりをした。

「私も、ちゃんと社員たちの仕事を管理すべきだったかもしれない。だけど、私一人に罪を被せるのは違うでしょ。」

「いや、副社長のお前が全部悪い。俺がいない時は、お前に会社がかかってるんだから。」

「だとしても、社員に高圧的な態度を取るのはやめろ。このまま嫌がらせを続けるなら、社長として処分を下すからな。」

私の声が、彼の耳に届くことはない。そして彼が去った後、社員は雲の子を散らすように離れていった。彼の態度を見て、私とは関わらぬが得策だと考えたようだ。夫婦二人で立ち上げた会社なのに、いつしか私は居場所がなくなっていた。

だが、これでやめたら思う壺だ。彼は副社長の私が邪魔だから、追い出そうとしているに違いない。私は悔しさを抱きながらも夫婦生活を続け、仕事も今まで同様に取り組んだ。自分としては何も問題ないつもりだった。ただ、知らず知らずのうちにストレスを抱えていたらしい。

「そんな暗い顔で会社に行く気か。」

ある朝、食事を終えて出勤準備をしていると、彼が嫌そうな表情を浮かべる。

「自分で分かんないの?顔、白いけど。」

慌てて鏡を見た瞬間、目を疑った。確かに彼の言う通り、私の顔は青白かったのだ。笑っているつもりなのに、表情も上手く作れていない。

「そんな顔で来られたら、社員の士気が下がるだろう。気をつけろよ。」

心配するどころか、彼は平然と私を置いて会社に向かう。私はなんとか会社では平常に振る舞い、社員らには迷惑をかけないよう心がけた。しかし、その頃から眠れない日が続き、右耳が痛み出す。仕事中に激痛に襲われて、倒れかけたこともあった。

彼から雑用を押し付けられ、自分の担当業務がままならず残業が続く日々。仕事の過労とストレスで体調が悪くなったのかもしれない。そう思っていると、次は目が乾くことが増える。仕事にまで支障をきたし始めたので、私は一度病院に行きたいと彼に相談した。

「明日、遅くとも来週のどこかで休みを取って、お医者さんに見てもらおうと思うの。どうかしら。」

しかし、彼は首を横に振った。

「副社長のお前が休みを取ったら、その仕事は誰がするんだ?社員みんなに押し付ける気か?」

「そうじゃない。たった一日、お休みするだけだから。休んだ日の仕事は、翌日にでも。」

「お前ももう46歳だろ。更年期障害か何かか。どうせ大した病気じゃないんだし、病院に行く必要はないだろう。」

彼は私が病院に行くことを拒み続ける。さすがに不安に駆られた私は、何度も頭を下げた。

「お願い。念のため、病院に行かせて。」

「せめて午前中だけ病院に行って、午後から仕事をすればいいだろ。お前、もしかして病気を理由に休職しようとしてるんじゃないだろうな。副社長という役職を手放したくなくて、辞めるに辞められないんだろう。」

「そうじゃない。今後も働き続けるために、体調を万全に整えたくて。」

「分かった。病院に行くなら、お前をパート雇用にするから。」

彼は声を上げて笑う。私を会社から追い出すチャンスだと考えたのだろう。

「パートになってもいいなら、病院に行けばいい。さあ、どうする?」

パート雇用になれば、今よりもっと扱いがひどくなるに違いない。今でさえ給料が減っても、生活費の折半を求められているのだから。

「分かったわよ。病院は、また忙しくない時にでも行くわ。」

私は迷いながらも、副社長の座を守ることにした。

「最初からそうすればいいのに。とにかく、仕事はちゃんとしてくれよ。体調不良を理由にしてサボったりしたら、それこそ副社長は解雇だからな。」

彼に相談したこと自体、間違いだった。私は体の不調に目をそらし、仕事をこなし続けた。

しかし、二日後。無理にでも病院に行くべきだったと後悔することとなる。朝起きた瞬間、私は自分の顔に違和感を覚えた。なぜか、顔の右半分が動かなかったのだ。右目は開きっぱなしで、口も右の口角だけ下がったまま。鏡を見た途端、パニックに陥った。

「なんで?」

もちろん、食事を取ることもできず、急いで病院に行く支度をする。その時、彼が起きてきた。

「何してるんだ?あ、お前、顔どうしたんだよ。」

私の顔を見るや、絶句する彼。

「顔の右側が動かないの。悪いけど、さすがに今日は仕事を休むから。」

「気持ち悪い。そんな顔を見せるなよ。」

「そんな言い方しなくてもいいじゃない。」

彼が心配してくれないことなど予想していた。ただ、ここまではっきりと拒絶されると、傷つく。とにかく、私はもう家を出るから、会社のことはよろしくね。私は鞄を手に玄関へと向かおうとした。だが、彼に腕を掴まれる。

「ちょっと待て。病院、俺が連れて行ってやるよ。」

「なんで?タクシーを拾うから、気にしなくていいのに。」

「俺は夫だぞ。妻の一大事なんだから、付き添うに決まってるじゃないか。」

彼は先ほどまで私を蔑んだ目で見ていたのに、いきなり笑みを浮かべた。

「さっきはごめん。びっくりして、ひどいことを言ってしまった。でも、本当はマリのことを心配してるんだよ。」

「でも、会社はどうするの?社長も副社長も休みにはできないでしょ。」

「平気だよ。緊急事態だから、社員も許してくれるさ。とりあえず連絡は入れておくから、安心してくれ。」

そう言って彼は役員に連絡を入れる。彼の言動に驚きが隠せなかったが、病院に連れて行ってくれるのはありがたい。何より、今の顔を人に見られたくなかったため、タクシーに乗ることも正直不安だったのだ。

「迷惑かけて、ごめんなさい。」

「気にするなって。ほら、行くぞ。」

そして私は彼の運転で病院へと向かった。

「しばらく休んでたら、病院に着いたら起こせよ。」

車に乗り込んだ瞬間、彼は妙な優しさを見せる。彼は私の今の症状について軽くスマホで調べたようで、病院もどこに行くか決めてくれたらしい。

「多分だけど、耳鼻咽喉科に行ったらいいんだって。信頼できそうな病院見つけたから、そこに連れて行くよ。」

「そう。ありがとう。」

普段とは違う彼の態度をいぶかしく思いながらも、今は信じることにした。道中、彼はコンビニでアイマスクを買い、渡してくれる。

「目が閉じなくなったんだろ。保護が大事だってネットに書いてあった。念のため、つけておきなよ。」

「うん。」

「でも、何もここまで。俺だって、心配する時はある。いつもマリの優しさに甘えてて、ごめん。今くらいは、俺に頼って欲しいんだ。」

彼の表情は真剣そのもので、本心から私を気遣っているように見えた。彼を疑っていたことが、申し訳なくなってくる。

「ありがとう。じゃあ、せっかくだからつけておくね。背もたれ倒していいよ。安静にしておくことが大事だから。」

ここまで言ってくれるなら、今日くらいは彼に甘えてもいいかもしれない。私はアイマスクをつけ、左目を閉じた。すると、彼の優しさにほっとしたのか、知らぬ間に眠っていたらしい。

「あれ…。」

目を覚ました瞬間、私は視界が真っ暗で驚いた。アイマスクをつけていたことをすっかり忘れていたのだ。まだ車は走り続けている。体感からして、およそ10分くらい寝ていただろうか。

「ねえ、もうすぐ病院に着きそう?」

運転席の彼に声をかけたものの、彼の返答はない。

「ねえ、どうしたの?」

なぜ無視をされているのか分からず、私は状況を確認するため、アイマスクをゆっくりと外した。途端に、頭が混乱する。

「ここは、どこ?」

どういうわけか、私たちの車は山道を走っていたのだ。車窓に映る景色からして、病院に向かっているとは思えない。彼は困惑する私を気にも留めず、ただまっすぐ前を向いていた。

「ねえ、病院を調べてくれたんだよね。一体、どこにあるの?」

話しかけても、彼は一切口を開かない。だんだんと不安が募っていく。急いでスマホを確認すると、出発からすでに一時間は経っていた。

「どういうこと?」

彼は私をどこに連れて行こうとしているのか。何度問いかけても、彼は無視を続ける。それから30分後、たどり着いたのは私も見覚えのある場所だった。

「なんで、おじいちゃんとおばあちゃんちに…?」

車が止まったのは、かつて私の祖父母が住んでいた田舎にある一軒家。二人はとっくに亡くなり、今は誰も住んでいない。しかも、長年放置していたため、現在はボロボロの廃屋となっている。

「病院に連れて行ってくれるって話だったわよね。なんでここに来たの?一体、何を考えてるの?」

「理由は簡単だ。お前みたいな副社長がいたら、会社のイメージが下がるからだよ。」

そう言うと、彼は車を降りて助手席のドアを開けた。

「おら、降りろ。」

「ふざけないで。降りるわけがないじゃない。私は病院に行きたいの。早く戻りましょう。」

「戻らないよ。」

「…っ。」

「お前は今日から、ここで暮らすんだから。」

彼は私の腕を掴み、無理やり車から下ろした。抵抗しても力では叶わず、助けを呼ぼうにも近隣に家はない。

「悪い病気になりやがって。お前みたいな妻、恥ずかしいんだよ。」

「やめて…っ。」

彼はポケットから鍵を取り出し、廃屋の玄関を開ける。

「おら、入れ。」

私は引きずられ、家の中へと押し込まれた。その際、足がもつれて転倒してしまい、鈍い痛みが頭に走る。

「一体、なんでこんなことをするの?私たちは夫婦でしょ。会社だって、一緒にやってきたのに。」

悔しさのあまり、涙が溢れる。そんな私を見ても、彼は表情を変えなかった。

「お前なんていなくても困らない。むしろ、今まで俺の妻でいさせてやったんだから、感謝しろ。あと、これ。」

彼が手を伸ばした先にあったのは、転倒した時に落ちた私のスマホだった。彼はそれを拾い上げて、ポケットに入れる。

「それは私のスマホでしょ。返して。」

「誰かに助けを求められたら迷惑だから、預かっておく。この家から脱出したいなら、歩いて人を探しに行けばいい。まあ、今の化け物みたいなお前の話を聞いてくれる人がいるかは、分からないけどな。」

そう言うと、彼は踵を返して車へと向かった。私はすぐ追いかけようとしたが、頭を打った衝撃で立ち上がることすらできない。

「待って。置いて行かないで…!」

この祖父母の家は、街外れの山奥にある。歩いて街まで行くとなれば、二日ほどかかるだろう。私は必死に体を起こして、車まで走ろうとした。しかし、現実は非情だ。私が家を出た瞬間、車が出発したのだ。

「嘘でしょ?待って、待ってよ…!」

私は大声を張り上げて叫び続けた。だが、そのまま走り去っていく。

なぜ私がこんな田舎の廃屋に置き去りにされなくてはならないのか。怒りと悲しみ、絶望が込み上げる中、私はその場にへたり込んだ。先ほどぶつけた際に傷ができたのだろう。手でそっと確認すると、額には血が滲んでいた。

一度廃屋に戻って、体を休めた方がいいのかもしれない。ゆっくり立ち上がり、私は玄関のドアを開けた。家の中は家具がほとんどなく、かなり荒れている。ここに来たのは、両親が亡くなった時以来だ。

私の両親は10年ほど前に相次いで亡くなった。祖父母の家が取り壊されずに残っていると知ったのも、その頃。私は古びた一軒家を見て、すぐにでも解体しようと考えた。だが、彼がそれを止めた。

「おじいちゃんの実家なんでしょ?取り壊しちゃ、もったいないよ。せっかくならリノベして、別荘にしよう。」

「でも、古いのよ。そもそも周辺に何もないから、別荘にするほどの場所じゃないし。」

「いや、残しておいた方がいい。更地にすると、固定資産税が跳ね上がるから。」

確かに彼の言う通り、宅地の特例である軽減措置が適用されるため、古い家が立っているだけで税金が安く済む。私としては土地も売りに出そうと考えていたのだが、彼はそれにも反対した。

「本当に使う予定がないなら売却してもいいけど、いつか定年退職したら、山奥で暮らすのもありじゃないか?」

「老後こそ、あんな場所に住んだら不便じゃないかしら。」

「それは、その時になってみないと分からないって。とにかく、もう少しの間、置いておこうよ。」

彼がそこまで言うなら、と私は折れた。何かと理由をつけて彼が廃屋を残そうとした理由は不明だったものの、自分が管理するとまで言い出したので、結局今日まで解体せずにいた。

そのため、彼は年に二、三回この廃屋に来ている。しかし、それにしては庭の草は伸びており、家の中も汚い。彼が廃屋に来ていたかどうかすら、怪しかった。

こんなことになるなら、放置しなければよかった。解体していたら、置き去りにされることもなかっただろう。疲れて横になるも、顔の右半分は未だに動かない。早く医者に見てもらいたいが、ここから一番近い病院は山を下った先だ。歩いていける距離ではない。

それでも、近くの民家に誰か住んでいる可能性がある。道中、ちらほらと古い一軒家が立っているのを確認した。ここからだと、歩いて30分くらいか。麻痺した顔を見て驚かれるだろうが、何もせずにこのままではいられない。

私はどうにか体を起こし、自分を奮い立たせた。その時だ。

「おい、誰かいるのか?」

突然、外から男性の声がした。私は玄関まで向かい、拳を握りしめる。

「助けてください。」

本当はすぐにでも外に出たかったが、頭が重く、とっさに動くことができない。足元がおぼつかない中、玄関のドアに手をかけようとした。その瞬間、ドアが開いて男性が現れる。

「大丈夫か?どうしたんだ?頭、怪我してるじゃないか。」

七十代くらいだろうか。彼は私を見るなり、手を貸した。そして心配そうに顔を覗き込む。

「君、もしかして…。」

はっとしたような表情を浮かべた後、男性は目を細めた。

「まりちゃん、だよね。」

「どうして、私の名前を…?」

「まずは病院に行こうか。俺の軽トラがあるから、助手席に乗りなさい。今すぐ連れて行くから。」

その後、私は彼に支えられて軽トラに乗車した。男性の顔は見覚えがあるものの、誰かは思い出せない。私を知っているのだから、怪しい人物ではないだろう。すると、彼は車を走らせながらぽつりと口を開く。

「顔、どうしたんだ?」

男性は私の顔の右半分が動いていないことに気づいているようだ。私は一旦、彼のことには触れずに、病気のことだけ打ち明けた。男性は険しい表情で話を聞く。

「それなら、まずは顔を見てもらった方が良さそうだな。ちょうどいい。俺の息子は、耳鼻咽喉科の先生なんだ。」

「息子さんが?」

「ああ、父親の俺が言うのはなんだが、いい腕だよ。安心しなさい、まりちゃん。」

「あの、なぜ私の名前を知ってるんですか?どこかでお会いしましたっけ?」

そう問いかけると、男性は柔らかな笑みを見せた。

「もう何十年も会ってないから、分からないよな。俺は、春王。まりちゃんのお父さんの友人だよ。」

「もしかして、春王ちゃん?」

彼の言葉を受けて、懐かしい記憶が次々と蘇る。目の前にいる男性は、春王は父の幼馴染みだったのだ。祖父母の家に遊びに行った際、時折、彼は父の顔を見に来ていたのを思い出す。最後に会ったのは、私が中学生の頃だろうか。

「久しぶりだね。思い出してくれて、嬉しいよ。」

彼の笑顔は、30年以上経っても変わっていなかった。

「ごめんね。すぐに思い出せなくて。」

「無理もない。お父さんの葬儀にも参列できなかったから。」

父が亡くなった際、彼にも葬儀の案内状を出している。しかし、ちょうどその頃、彼の母親が危篤となり、葬儀には欠席していたのだ。

「母さんを看取ったものの、あいつを見送れなくて、残念だったよ。お父さんだけでなく、お母さんも同じ時期に亡くなったんだよね。まりちゃんも、大変だっただろう。」

春王は遠く離れた地で、私のことを心配していたという。昔から彼は友人の子である私を可愛がってくれた。その優しさが胸に染みる。

「春王ちゃん、ありがとう。」

「気にするな。俺は、まりちゃんが大きくなってて、感動してるよ。」

ただ、彼の正体は分かったものの、疑問は残っていた。

「なんで、さっきあの家に誰かいるって気づいたの?」

春王の家は廃屋から距離にして三キロほど離れている。しかも、彼の家よりも廃屋の方が山奥にあるのだ。理由がなければ訪れるような場所ではない。不思議に思って問いかけると、春王は難しい顔をした。

「いやあ、一時間ほど前だったか。うちの家の前を見慣れない車が走っていったんだ。山奥にわざわざ行く人なんて、そういない。だから、妙に気になってな。」

「これはきっと、私が乗ってた車だよ。さっき帰って行くのも見たんじゃない?」

「ああ、あっという間に下っていくから、道を間違えたのかと思った。にしても、やけにスピードを出していて、見るからに怪しかったんだよ。」

そこで彼は、私が残された廃屋を確認することにしたらしい。

「まさか、あの家にまりちゃんがいるとは思わなかった。一体、何があったんだ?その怪我と関係があるんじゃないのか?」

春王の顔が見るみるうちに険しくなる。彼になら、全てを話してもいいかもしれない。そう思ったところで、軽トラは山道を抜け、車窓から見える建物が徐々に増えていく。あっという間に、町に降りてきたようだ。

「診察の後、時間あるか。その時に、改めて事情を伝えたい。」

「分かった。俺は暇だから、いくらでも付き合うぞ。」

その後、私は町の病院を訪れ、春王の息子に診察してもらった。頭の傷は軽傷ですぐさま治療が終わったが、顔はかなり深刻な状況だったらしい。私は「顔面神経麻痺」だと診断された。

この病気は早期発見が重要で、発症から三日から一週間以内の受診が必要なのだそう。ウイルス感染による炎症が原因のようで、ストレスや疲労が引き金になると説明された。ここ最近、仕事や夫婦関係でストレスを抱えていたのは事実だ。ただ、服薬と薬剤投与とリハビリをすれば治るとのこと。私はその話を聞いて、ほっと胸を撫で下ろした。発症後もこうして早く病院に来れたことが大きいだろう。春王がいなければ、重症化していたかもしれない。

「春王ちゃん、本当にありがとう。私、病気治りそうだって、息子さんが。」

「そうか、よかった。安心したよ。」

私がスマホを持っていないため、診察中、春王は病院の駐車場で待ってくれていた。戻るや、明るい表情の私を見て、彼は頬を緩める。

「俺の息子、腕は確かだっただろう。悪いやつじゃないんだが、仕事熱心で、嫁さんがいなくてな。まりちゃんみたいな女性が近くにいたら、なあ。」

「もう、冗談やめてください。」

彼と会話をしていると、置き去りにされた出来事がはるか昔のように感じられた。だが、このまま彼の悪行を黙って見過ごすわけにはいかない。

「私、実は…。」

軽トラに乗った後、私はどうして廃屋にいたのかを春王に説明した。次第に、彼は顔を歪めていく。

「なんて野郎だ。病気になったまりちゃんを、あの家に置き去りにしたのか。それに、普段から扱いがひどすぎる。そんな夫、許せるわけがない。」

「怒ってくれて、ありがとう。」

春王は真剣な表情で私の話を聞いてくれた。それだけでも嬉しいのに、彼はこちらをまっすぐ見つめて口を開く。

「俺、何でもする。まりちゃんのためなら、力になるよ。だから、その男には、思い知らせようじゃないか。」

「え、でも、春王ちゃんに迷惑かけるわけにはいかないよ。私を発見してくれて、病院にまで連れてきてくれた。それで、十分だから。」

「だめだ。このままじゃ、俺の気が済まない。大事な友人の娘を苦しめたんだ。絶対に、復讐してやる。」

「だけど…。」

春王は真っ赤な目をして、唇を噛みしめていた。彼が私を可愛がってくれていることは理解しているけれど、どうしてそこまで力を貸そうとしてくれるのか。思わず俯くと、春王は優しい声で語った。

「俺、まりちゃんの父親に、恩返しできなかったんだ。それが、今でも悔しくてさ。」

「恩返しって?」

「俺の親父は、どうしようもないやつでな。昔、借金を作って逃げたんだよ。お袋と一緒になって返済してたが、全然追いつかなくてな。そんな時、まりちゃんの父親が、金を貸してくれたんだ。」

私はそんな話、初耳だった。どうも父は、金に窮していた春王に、まともなお金を渡したらしい。

「返済が終わった後、金を返したいって連絡したんだ。だがあいつは、そんな金のことなんて忘れたとか言って。」

「じゃあ、お父さんは最初から、春王ちゃんにお金をあげるつもりだったんだね。」

「俺が子供の頃から苦労してたこと、あいつは知ってたからな。だから、力になってくれたんだろう。」

彼は目に涙を浮かべながら、父との思い出を語った。二人は、本当に大親友だったようだ。だからこそ、春王は私のために協力したいという。

「まりちゃんだって、このまま離婚して終わりなんて、納得できないんじゃないのか。」

「それはそうだけど、会社では社長の彼の方が立場は上なの。彼と別れる以上、会社のことは諦めなくちゃいけないのかなって。」

「そんなことはない。離婚して、会社も取り返す方法が、必ずあるはずだ。少なくとも、諦めるにはまだ早い。俺がいるから、安心しろ。」

彼には何やらいい考えがあるようで、力強く語る。私は春王を信じ、反撃しようと心に決めた。

その翌月、再び彼が廃屋に現れる。外から車の音が聞こえたため、私は玄関で彼を待つことにした。次の瞬間、勢いよく扉が開き、彼が顔を出す。

「え?マリ?」

彼はなぜか手にスコップを持っていた。一体、それで何をしようと考えているのか容易に想像がついたものの、深くは追求しない。その代わり満面の笑みで、彼を見つめる。

「あら、一ヶ月ぶりね。元気にしてた?」

「な、んで笑ってるんだ?どういうことだ?嘘だろう?」

ガクガクと体を震わせ、体から滝のように汗を流す彼。まるで死人でも見たかのような驚きっぷりだ。

「どういうことか尋ねたいのは、こっちの方よ。もしかして、草むしりでもしに来てくれたのかしら?」

「ありえない。あの日、お前はフラフラになってたじゃないか。顔だって、化け物みたいに歪んでたくせに。」

「ひどい言い方ね。妻である私が元気になったこと、喜んでくれないの?」

「うるさい。こんなはずじゃなかったのに。」

計画が破綻したことに気づき、彼が顔を真っ赤にする。

「私を埋めに来たんでしょ?残念だけど、それは不可能だから。」

私はようやくこの日が来たことを、心から喜んだ。実は、この一ヶ月の間、私は入念に準備をしていた。治療やリハビリを受けながら、彼の状況を探っていたのだ。もちろん、春王の協力がなければ、今日という日を迎えられなかっただろう。

幸い、顔面神経麻痺については、ストレスの原因である彼と離れ、仕事も休職状態になったことで、病状が劇的に改善した。本当なら、麻痺がある程度落ち着いた時点で会社に戻って仕事に復帰するのが理想だった。ただ、それを春王に止められる。

「まりちゃんが元気になったこと、今は夫に知られない方がいい。話を聞く限り、彼はまりちゃんを再度貶めようとするに決まってる。」

「でも、彼に会社を任せたら大変なことになると思う。重要な業務を担当していたのは、ほぼ私だし。」

「それなら好都合だ。」

彼は私の話を聞くと、ほほえみ顔を見せた。

「社員は元々、社長である夫をよく思ってないやつが多いんだろ。その上、優秀なまりちゃんまでいなくなってしまった。きっと、会社は回らない。社員はみんな、まりちゃんの帰りを待ち望むはずだ。」

「どうだろう。社員は彼を恐れて、私のことを無視してたから。」

そもそも、春王の予想が事実になったとしても、その状況を確認する術が私にはない。スマホは彼に奪われた。それに、社員と連絡を取ったところで、彼らが味方をしてくれるかどうかも怪しい。

「一度、会社の現状を把握できたら嬉しいんだけどね。」

「まりちゃんの会社のこと、改めて教えてくれないか?」

その頃、春王にはまだ会社名も業種も伝えていなかった。私はリノベーション会社だと説明した。すると、彼は目を輝かせる。

「あそこか。俺も名前だけは聞いたことがあるよ。副社長がまりちゃんだとは思ってなかったな。すごいじゃないか。」

「ありがとう。春王ちゃんも知ってくれてるんだ。」

「なんせ、俺は工務店に勤務していたからな。同業者から、話を聞いたことがあるんだよ。」

春王は定年を迎えるまで、とある工務店で働いていたという。しかも、彼が勤務している頃は関わりがなかったものの、今、その工務店はうちの会社もお世話になっている。

「あの工務店にいたんだ。びっくりしたよ。」

「俺もだ。よし、ちょっと後輩に連絡してみようか。まりちゃんの会社のこと、少しは分かるだろう。」

そう言うと、春王は今も勤務している後輩に電話をかけた。

「もしもし、久しぶりだな。ちょっと聞きたいことがあるんだが。」

後輩から事情を聞くうちに、春王の顔がだんだんと渋くなっていく。

「なるほどな。想像以上に、大変そうじゃないか。今、噂の副社長がここにいてな。一度、話をしてみるか?噂が本当かどうか、自分の耳で確認してみろ。」

春王にスマホを手渡され、私は恐る恐る口を開いた。

「お世話になっております。実は、弊社の状況をお伺いできたらと思いまして。」

私の声を聞いた瞬間、工務店の社員は言葉をつまらせる。かなり驚いているようで、本当に副社長なのか何度も尋ねられた。

「もしかして、社長から何かお聞きになっているんですか?」

私に関する噂とは一体何なのか。思わず問いかけると、社員は耳にした話を教えてくれた。どうやら彼らは、今、私のいなくなった会社に不審感を募らせているのだそう。経理や事務など様々な業務を担当していた私が不在となり、会社全体でミスが増えたらしい。

「他の社員が代わりにやってるんですよね。いくら副社長とはいえ、社員一人いなくなっただけで問題が発生するなんて、おかしい。」

私は社員総出でどうにかトラブルを解決していると思っていた。しかし、工務店の社員は声を曇らせる。うちの社員はみんな、私の担当していた業務について把握しておらず、誰も手がつけられなくなっているのだそう。

「私がなぜ不在なのか、聞いていますか?」

彼は私が戻って来られないよう、わざわざ山奥の廃屋に置き去りにした。今は休職扱いにでもしているのだろう。それを確認したかったのだが、帰ってきた答えに耳を疑う。彼はなんと、取引先や社員に「マリは精神疾患で入院している」と嘘をついていたのだ。

社員の中には、せめて引き継ぎのために仕事の確認がしたいと発言するものもいたらしい。しかし、彼はそれを許可しなかった。

「マリは入院していて、連絡手段がない。医師からも、誰とも合わせない方がいいと言われてるんだ。だから、彼女を頼るのはやめろ。」

私と社員が繋がると、彼の悪行がバレる。彼はそれを回避するために、私のスマホを奪ったに違いない。

「私は精神疾患ではありませんし、入院もしておりません。」

工務店の社員も、噂は嘘だと理解してくれたようだ。すぐにでも彼に直接事情を尋ねると話す。だが、春王は私たちの会話を聞いて、首を振った。

「どんな形であれ、今は社長に事実を伝えない方がいい。」

「そうだよね。」

「まりちゃん、もう一度、彼と話をさせてくれ。」

スマホを受け取ると、彼は声を低くする。

「くれぐれも、向こうの社長には今聞いた話はするなよ。ただ、工務店内では情報共有をした方がいい。その上で、今後向こうの会社とどう関わっていくか、考えるべきじゃないか。」

それだけ伝えて、春王は電話を切った。

「後輩さん、なんて言ってた?」

「すでに、今の会社との関係に悩んでるようだ。ミスの連発で、現場は混乱続きらしい。だから、社員を守るためにも、一旦取引はやめようかと。」

「それがいいと思う。副社長として申し訳ない気持ちだけど、私が戻れない今、状況はしばらく改善されないだろうし。」

「実際、クレームを入れても何も変わってないそうだ。全く、社長は一体何をしてるんだか。」

春王は呆れたような表情を浮かべ、大きなため息をつく。私も釣られて、肩を落とした。きっと、先ほどの工務店だけでなく、他の取引先にも迷惑をかけているのだろう。このまま黙って見ているわけにはいかない。

「他の取引先にも、事情を簡単に説明しようかな。彼のことだから、誰に対しても嘘をついてると思うし。」

「まりちゃんの言う通りだな。事実を伝えて、今後の取引を考え直してもらうべきだ。」

私はその後、付き合いの長い会社から順に連絡を取っていった。お世話になっている担当者に代わってもらい、現状を打ち明ける。最初は半信半疑だったものの、みんな私がしょうもない嘘をつく人間ではないと分かってくれていた。

「だから、ミスが多かったのか。」

最終的には納得する人ばかり。だが、それはあくまでも長年付き合いがある相手だったからだ。ここ数年取引を始めた会社には、どう信じてもらうか頭を抱えた。夫から会社を追い出されたなどといきなり説明しても、まともに取り合ってくれるとは思えない。

その時、春王がとある提案をした。

「俺が間に挟まれば、少しは信じてもらえるんじゃないか。」

「春王ちゃんが?」

「だけど、今から連絡するのは、おじちゃんが働いてた工務店じゃないし。」

「そこには、俺が昔よくメシに連れて行ってた後輩がいるんだ。俺が話せば、ある程度信じてくれると思う。」

彼は急いで後輩に連絡を取ってくれた。繋がるや、楽しそうな声が電話越しに聞こえてくる。後で分かったのだが、春王は顔が広く、同業者に知人が多い。会社の垣根を超えて、周囲から慕われる良き兄貴分だったようだ。

「副社長にも、一旦電話を変わる。悪いことは言わないから、彼女の話を信じた方がいい。」

そう助言した上で、春王は私にスマホを渡す。彼のおかげで、主要な取引先に事情を説明することができた。ちなみに、返答はどこも同じで、「それならば取引は一旦やめます」とのこと。取引先は、問題となっているミスや現場の混乱を知っており、今後を心配していたようだ。

その結果、彼の会社は大変なことになった。取引先に連絡を取った一週間後、春王が慌てて私のいる廃屋にやってくる。

「後輩から話を聞いて驚いたよ。あの後、工務店が離れたことで、現場にいた職人が一斉に引き上げたらしい。」

「そんなことが…。」

「どうやら取引先の多くは、状況が改善されないならこれ以上は付き合いきれないと、改めてミスを減らすよう求めたという。彼は大慌てで社員に改善を求めた。だが、言葉だけでミスが減るなら、最初から問題は発生していない。結局、数日経っても現場の混乱が収まらず、取引先は愛想を尽かして引き上げを選んだそうだ。」

もちろん、職人がいなくなったことで、会社はパニックに陥る。納期に間に合わないどころか、作業する人がいないのだ。他の工務店に当たったものの、噂は業界内に広まっているため、当然のように断られたらしい。

「だから今、社員が副社長の復帰を願ってるんだと。」

「私のことは、精神疾患で入院中って聞いてるはずじゃないんですか。」

「みんな、それが嘘だって分かってるんだよ。夫である社長に呆れて、家を出ていったんじゃないかって、ささやかれてるんだってさ。」

あながち間違いではない。私自身、今後彼と暮らしていた家に戻る気はないのだから。ただ、彼は反抗的な社員に毎日のように怒鳴り、声を荒らげている。

「そうだよ。社長があまりにも高圧的な態度を取るものだから、社員も徐々に離れていってるらしい。みんな、この会社に未来はないと気づいたんだろうな。」

「だけど、今の状況で社員まで減ったら、以前よりもトラブルが増えるんじゃないか。」

「しかしなあ、まりちゃんがいなくなっただけでここまで傾くなんて。言っちゃ悪いが、社長である夫は何をしてるんだ?」

「多分、彼は何もしてないと思う。自分の責任を、他の社員になすりつけてるんじゃないかな。」

彼は会社の成功を自分が社長だからだと思い込んでいたけれど、それが間違いだったと気づいているところだろう。私は会社の現状を聞き、徐々に考えを変え始めていた。

それから二週間後、春王が私のいる廃屋に顔を出す。

「夫が、ここに来るかもしれない。どうする?」

「彼が?もしかして、私の様子を確認するつもりなんじゃ?」

それを聞いて、思わず息をのんだ。あの日、私を置き去りにして以来、彼は一切この廃屋に近寄らなかった。今更ここに来るなんて、何か狙いがあるに違いない。

「だけど、なんでそれを春王ちゃんが知ってるの?」

「後輩が教えてくれたんだ。今、夫はどうやら取引先に謝罪回りをしてるらしい。彼は取引先に出向いて現状を説明した上で、今も嘘をつき続けているという。『妻思いの夫』を演じ、『妻の容態を週末にでも確認しに行きます。その際、復帰が見込めるようでしたら、改めてご報告させていただきますので』と話しているそうだ。」

「私が事実を伝えたこと、みんな隠してくれてるのね。社長がどう出るか、様子を伺ってるんだろう。ただ、まさか精神疾患で入院中だと言い張り続けるとはな。」

春王は呆れ返ったのか、頭を抱える。私も、彼の言動にはあきれ返って言葉も出なかった。

「でも、容態を確認するってのも、本当なのかしら。私にわざわざ会いに来るとは思えないけど。」

「もちろん、その可能性もあるが、念のため覚悟はしておくべきだろう。会社を立て直すために、まりちゃんを連れ帰ろうとするかもしれない。」

「そんなことしたら、彼の嘘がバレるじゃない。」

「『妻は精神的に追い詰められて、自分の状況が分かってないんだ』とか話して、医者を言いくるめようとでも思ってるんじゃないか。」

確かに、彼ならやりかねない。幸い、顔面神経麻痺はすっかり落ち着いたし、今なら会ってもいい。この一ヶ月、私はホテルで暮らしながら、廃屋の掃除もしていた。綺麗になったこの家で待ち構えたら、きっと彼は驚くはずだ。それに、彼には伝えたいことが山ほどある。

「それじゃあ、この週末は、いつ彼が来てもいいように準備しておかないとね。」

そして、今日という日を迎え、私は一ヶ月ぶりに彼と対峙したのだ。

「嘘だろ?何が起きてるんだ?ここは、ボロボロだったよな。どうしてマリが、笑えてるんだよ。」

彼は綺麗になった廃屋と、麻痺を克服した私を交互に見比べて、絶句する。彼はきっと、私が助けを求められないまま、弱りきっているとでも思っていたのだろう。そのスコップで、とどめでも刺すつもりだった。彼がスコップを向けた瞬間、彼は顔を真っ赤にする。

「お前のせいで、こっちは大変な目に合ってるっていうのに。あの時、すぐに片付けておけばよかった。」

すると彼はスコップを大きく振り上げた。やはり、ここで私を葬ろうと考えたらしい。命の危険を感じて即座に身をそらした瞬間。

「何をやってる?」

家の奥から、春王が現れた。彼はスマホを手にして、慌てて彼に駆け寄る。

「誰だよ、お前。なんでこの家にいるんだ?」

「一ヶ月前、この家で倒れていた私を、春王ちゃんが助けてくれたの。また助けてもらっちゃったね。」

思わず目を細めると、春王はにっこりと笑う。

「やけに余裕があるな。」

「まあ、こうなることは予想してたから。でも、こんなやつに勝てると思ってるのか?力の差が分かってないだろ。俺、若い時はケンカも強かったんだぜ。」

春王の言葉に、彼が動きを止める。実は、今日彼が来ると知った私たちは、入念に計画を立てていたのだ。

「廃屋に置き去りにして、頭を打ったまりちゃんを放置したんだ。夫は本気で、まりちゃんを殺す気なのかもしれない。」

「私もそう思う。だから、対策はするつもりよ。」

二人で話し合った結果、万が一に備え、春王に家の奥で隠れてもらい、私たち夫婦のやり取りを録画することにしたのだ。

「被害届と一緒に、この動画を警察に提出するからな。」

動画にはばっちり、彼の行動が撮影されている。それを確認してもなお、彼はスコップを下ろさない。

「なるほど。でも、俺が今そのスマホを壊したらどうする?証拠はすぐになくなるぞ。」

まだ勝ち目があると思っているのか、余裕の笑みを浮かべる彼。私はため息をこらえ、口を開いた。

「証拠はなくならないわ。今までの会話は、春王ちゃんの息子さんにも聞いてもらってる。私たちの遺体が見つかれば、彼の証言を警察も信じるでしょうね。」

「聞いてもらってるって…。なんで?」

私の手にあるスマホを見て、彼が目を丸くする。実は不便だからと先週、新しく購入したのだ。そのスマホは今、春王の息子と通話中になっている。

「これで分かったでしょ。あなたがスコップを振り下ろした瞬間、あなたの罪は確定するの。逮捕される覚悟があるなら、動けばいいけど。」

私は静かに彼を睨みつけた。すると次の瞬間、彼はスコップを下ろして、深々と頭を下げる。

「悪かった。ちょっと、カッとしただけなんだ。」

彼は観念したのか、言い訳を述べ始めた。その変貌ぶりに、言葉が出てこない。

「本当は今日、マリを連れ帰るつもりだったんだ。俺が勝手なことをしたって分かってる。だけど、会社にはお前が必要だ。この一ヶ月、それを身を持って思い知ったんだよ。」

彼は声を震わせて語り始めた。全て私が事前に耳にした情報と同じだが、彼の口調はあくまでも被害者目線だ。彼は自分がどれだけ努力しても、社員が話を聞いてくれないと嘆いた。

「社長である俺が会社を引っ張っていかないといけない。そう思って動いてるのに、誰一人協力してくれないんだ。マリのことばかり口にして。しかも、辞めるやつまで出てきて。」

「それって、全部自業自得よ。あなたが頼りないから、みんな見限ってるんでしょ。」

「そんなこと言わないでくれよ。やっぱり、社長と副社長が揃ってないとダメなんだ。取引先にもこれ以上迷惑かけたくないし。なあ、マリ、意地張らないで、俺とやり直してくれないか。」

私は彼の手を振り払い、声を上げた。彼は反省などしておらず、体裁を守るためだけに私を連れ戻そうとしている。もう、彼の都合に振り回されるのはごめんだ。何より、私は彼に殺されかけている。

「私はあなたに裏切られたの。それなのに、あなたと仕事を続けられると思う?」

「だけど、このまま無職じゃ困るだろう。俺はマリのために言ってるんだ。夫婦二人、仲直りすればいいじゃないか。」

「私は、喧嘩をした覚えはない。一方的に馬鹿にされて、放置されただけ。今後は一人で会社を引っ張っていってちょうだい。私はもう、新しい夢に向かってる途中だから。」

む、と彼が不思議そうに首をかしげ、聞き返してくる。私はこの一ヶ月間、準備していたことを打ち明けた。

「私、起業するの。一人で会社を設立して、頑張るつもりよ。」

「は?起業?」

「最初は会社を取り戻そうと考えてた。でも、現状を聞くうちに、新たに立ち上げた方が自分にとっていい気がしたの。あなたを追い出して、私が社長になる手もある。だけど、社員はあなたを恐れ、ミスをなすりつけた私から目をそらした。そんな信用できない人たちと、これからも仕事をするなんて、無理だろう。」

「あなたと立ち上げた会社なんかよりも、もっと素晴らしい会社を設立してみせる。そう思って、この一ヶ月、準備を進めていたの。まあ、起業するのは今の会社を退職してからだけどね。」

「何言ってるんだ。退職なんて許さない。俺たちを裏切るつもりか?」

彼は苛立ちのあまり、声を強める。ただ、先に裏切ったのは彼らの方だ。今更助けを求められたところで、もう遅い。

「どうせ私はパートなんだし、辞めても困らないでしょ。他に正社員がいっぱいいるんだから。」

「え、いや、マリは副社長じゃないか。パートって…。」

「私にバレてないと思ってたの?あなたが勝手に変更したんでしょ。実は、顔が麻痺する二日前、あなたに脅された際、違和感を覚えて自分の雇用形態を確認してたの。その結果、私はパートになっていたのよ。」

途端に、以前彼が役員報酬を下げると切り出した時の発言を思い出す。彼は私のことを、ここまで軽んじていたのだろう。

「私の同意もなく雇用形態を変えるなんて、違法よ。説明を受けてないし、署名もしてない。一体、どうやって変更したのかしら?」

「もしかしたら、手続きのミスかな?それとも、マリの勘違いかも。」

彼は目を泳がせて、弁解を繰り返す。言い訳を並べたところで、この場を切り抜けられるはずがない。

「このまま会社にいても、いいことなんてない。そう気づいた瞬間だったわ。ただ、置き去りにされるとは思ってなかったけどね。」

込み上げる怒りを抑え、冷静を装う。そして、もう一つ大事なことを彼に伝えた。

「あなたとは離婚するつもりだから、慰謝料を用意しておいてね。」

「離婚って…。ちょっと落ち着けよ。何でもかんでも自分で決めるな。慰謝料も、払うつもりはないし。」

彼はこの後に及んで、離婚を拒もうとする。なぜ、夫婦生活を続けられると思っているのか。やれやれ、とばかりに、私は準備していた写真を彼に見せた。

「この写真を見れば、慰謝料を支払わなくちゃいけない理由が分かるわよね。あなた、美緒さんと不倫してるでしょ。」

突きつけた瞬間、彼が目を大きく見開く。写真に映っているのは、仲良さげに腕を組む彼と美緒だった。

「俺を疑ってたのか。」

「当たり前でしょ。ずっとおかしいと思ってたんだから。二人の関係を怪しんだ私は、置き去りにされる三ヶ月ほど前に、探偵社に調査を依頼したの。その結果、やはり彼らは関係を持っていた。写真を見るに、二人は頻繁に食事に行き、時には旅行にも出かけていたようね。」

「とても、仲が良さそうね。そりゃ、美緒さんを可愛がる気持ちも分かるわ。あなたにとって、彼女は私よりも会社よりも大切なんでしょ。」

「違う。あれはただの遊びだ。本気じゃない。俺が愛してるのは、マリだけだ。」

「その愛してる妻に向かって、スコップを振りかざしたの?いい加減にして。あなたは、嘘しかつかないのね。」

彼が私に愛を囁くのは、あくまでも会社に戻ってきてもらうため。本気で妻の方が大事だと思っていないことくらい、誰でも分かる。

先ほどから私たち夫婦のやり取りを聞いていた春王は、顔を歪めていた。

「ひどい男だな。まりちゃん、離婚して正解だよ。」

「余計な口を出すな。」

そう、彼が声を張り上げた瞬間、彼の背後から美緒が現れる。

「ちょっと、何をモタモタしてるのよ。」

彼女は彼と共に、ここまで来たようだ。つまり、私が廃屋に置き去りにされたことも知っているのだろう。美緒は、私を見た瞬間、絶句する。

「なんで、副社長が元気なの?社長の話と違うじゃない。それに、そこにいるおじさんは誰?」

「美緒、危ないから、降りてくるなって言っただろう。」

「だって、いつまで待っても戻ってこないから。手こずってるようなら、協力しようと思って。」

「協力」という発言からして、美緒も私を殺そうと考えていたのかもしれない。彼女と彼にとって、私は邪魔者のようだ。

「今、彼にも伝えたけど、美緒さんにも慰謝料を請求するから、よろしくね。」

そう伝えると、美緒は彼に視線を送る。

「ちょっと、なんでバレてるのよ。絶対に隠し通すって言ったじゃない。」

「うるさいな。お前が車から降りたから、一層面倒なことになったんだよ。大人しく待っていればいいものを。」

「私のせいって言いたいの?あんたが、会社を立て直すためには、このおばさんが必要だって言うから、仕方なくついてきたのに。うまくいかなかったら、土に埋めるって話じゃない。」

「黙れ!余計なことを言うな。」

彼は慌てて、美緒の口を手で塞いだ。だが、時すでに遅し。今の会話も、録画で撮影されている。

「慰謝料はもちろんだけど、今回のこと、警察に通報するから。」

「警察?なんで、そんなことになってるのよ。私は逮捕されないよね。」

動揺する美緒の隣で、彼は顔を真っ赤にした。その間、春王が息子に通報をお願いする。

「今日のことだけでなく、一ヶ月前のことも、先日、被害届を提出したから。」

「えっ、置き去りにしたことか。」

「それとも、スマホを盗んで、おまけに私に怪我を負わせたでしょ。」

「あれは、わざとじゃない。事故みたいなものだ。」

彼は罪を認めず、不服を唱えた。だが、例え故意でなくとも、彼は自分のせいで負傷した私を放置したのだ。許せるわけがない。

「言い訳は、警察官にでも伝えてちょうだい。私に言われても、困るわ。今回の暴行未遂も、証拠があるため罪になるはずよ。」

「最悪。あんたなんかと一緒にいなければよかった。社長の恋人になれば、幸せになれると思ったのに。」

そうぼやく美緒の隣で、彼は目を潤ませた。

「マリ、俺が全部間違ってた。本当に申し訳ない。いくらでも謝る。だから、警察だけは…。」

「謝って済む話なら、警察は呼ばないわ。私は、あなたのこと、一生許さないから。」

「頼むよ。この通りだ。」

彼は玄関で土下座を始め、頭を下げ続ける。私は彼に付き合うのも面倒になり、無視を貫いた。

すると、警察官が到着し、座り込む彼と暴れる美緒を連行していった。

「離して!私は関係ない!全部、この男がやったの!」

腕を振り回して抵抗する美緒は、公務執行妨害罪にも問われることになりそうだ。

静かになった後、私は改めて春王に感謝を伝えた。

「春王ちゃんがいなければ、私は大変な目に遭ってた。今日まで協力してくれて、ありがとう。」

「少しは、あいつの分まで恩返しできたかな。」

彼は父を思い出しているのか、遠い目をする。

「私だけでなく、お父さんも天国で感謝してると思うよ。これからは、私が春王ちゃんに恩返ししないとね。」

彼の行動は許せないものの、彼がこの家に置き去りにしてくれたおかげで、春王と再開できた。彼に対して感謝することは、それだけだ。

その後、取り調べで自白したことにより、彼は殺人未遂と窃盗の罪で起訴された。美緒は最後まで無実を訴えていたが、彼女も共犯として逮捕されたそうだ。おまけに社長の逮捕がとどめとなり、会社は結局倒産。彼は賠償金まで請求されるはめになった。

私は二人に慰謝料を一括で支払ってもらい、弁護士を通して離婚した。ちなみに、定期的に届く彼からの手紙で知ったのだが、彼らは逮捕後に破局したらしい。

「俺は優秀なマリに嫉妬してた。自分が社長でいいのか、悩んでたんだ。そんな時に、美緒に誘惑されて、つい手を出してしまった。叶うなら、やり直したい。」

まさか未だに復縁を望んでいるとは思わず、乾いた笑いが出る。返事はしていないし、手紙は破って捨てた。二人にはただ、自分たちの罪を償ってほしい。今後、彼らがどれだけ苦労しようと、私にはもう関係のないことだ。

一方、私は新会社を設立して、順調に仕事をこなしている。今回立ち上げたのも、以前と同様にリノベーション会社だ。幸い、春王の紹介で知り合った工務店らといい関係を築けており、私の復帰を待ち望んでくれた取引先とも上手くやっている。このタイミングでの再出発に不安はあるものの、ひたすら頑張っていくしかない。

ちなみに、祖父母の家は今、リノベーションをして、私の住居となっている。

「まりちゃん、うちで取れたキュウリを持ってきたよ。」

「いつもありがとう。」

春王はご近所さんになり、定期的に顔を合わせる仲だ。彼は私とくっつけたいのか、毎回息子を連れてくる。最初はそんな気はなかったものの、徐々に彼を男性として意識するようになった。

未だに過去の傷は癒えておらず、恋愛に対する怖れがある。ただ、彼となら、幸せな生活を送れるかもしれない。そんな希望を抱きながら、私は今日もまた、仕事に打ち込む。

Thumbnail