視察当日は来なくていいから。社員を集め、本社からの視察団が来ると告げた部長が、突然俺にそんなことを言い出した。本社の役員の方々に、あなたのような無能で底辺な人間を合わせられるわけがないでしょ。そう吐き捨てて、部長は俺をきつく睨みつけた。
まさかそこまで言われるとは思っていなかった。だが、反論しても無駄だと分かっていた。部長とはまだ一緒に仕事をして間もないけれど、周囲への気遣いがまるでなく、何より一人よがりな考え方で他人の意見を聞かない人間だということは分かっている。これは俺だけでなく、みんなが感じていることだろう。ここで嫌だと反論したところで、結局は同じことになる。そう思い、俺は部長の言葉を素直に聞き入れることにした。
分かりました。おっしゃる通り、当日は欠席いたします。
俺が頭を下げると、部長はにやりと笑ってこちらを見ていた。自分の指示に何の抵抗もなく従ったので、満足そうだった。その小さくて見苦しい満足感のせいで、とんでもない過ちを犯しているとも知らずに。
俺の名前は橋本嘉男。高卒で社会に出て、いくつかの職場を転々とした後、今の会社の子会社に落ち着いて勤務している。特に趣味もなく、日々職場と家を往復するだけの生活だ。もう五十を過ぎているし、刺激的な日常よりも平穏無事に過ごせればそれでいいと思っている。
職場では主任を務めている。この年齢で主任というのは世間から見れば物足りないかもしれないが、俺自身はこの肩書きに不満はなく、十分に満足していた。みんなと意見を交わし、相談しながら、互いに思いやりを持って仕事をしている職場で、働きやすい環境だった。
しかし、そんな平穏な日々に変化が訪れた。ある日、中途採用で椎名裕子という女性が入社してきたのだ。椎名さんは前の職場で上司のミスを指摘して首になったという噂だったが、本当のところはよく分からない。実際に一緒に仕事をしてみると、かなり仕事ができて優秀であることが分かった。ただ、一つだけ気になることがあった。
ねえ君。
え、俺ですか?
そうよ。この資料、まだできてないの?
すみません。まだですが。
全く遅いわね。いいわ、私がやるから。
え?でも、もう少しで終わりますが。
あなたはこっちの資料をまとめておいて。これなら簡単でしょ。
あ、はい。了解しました。
椎名さんは部下など目下の人間にはかなり当たりが強く、配慮や思いやりを感じさせない対応をする人だった。名前さえ覚えようとしなかった。そのせいでみんなの反感を買うようになり、職場にはギスギスした空気が漂い始めた。以前はあんなにも明るく平穏だったのに、と寂しく感じるほどだった。
そこで俺は主任として、椎名さんに周囲との接し方について考えてもらえないか話をしてみた。
椎名さん、もう少し相手を思いやったやり取りを心がけてもらえませんか?そうしないと、周りもついてきませんよ。
はあ?何よ、それ。そんなこと考えるくらいなら、どうやったら仕事の成果を上げられるか考えた方が百倍ましだわ。
そうでしょうか。
私はね、友達を作りにここに来てるわけじゃないの。仕事をしに来ているのよ。私に意見しないで。
椎名さんには改善しようという気持ちが全くなく、こちらの意見に耳を傾けようとする意思も感じられなかった。こんな様子では何を言っても無駄だろう。もう少し様子を見ることにしたのだが、それが良くなかったのかもしれない。
椎名さんは周囲への当たりは強いが、やはり優秀だった。上からの期待も大きく、大きなプロジェクトを任されて見事に結果を出した。それにより椎名さんはあっという間に部長にまで昇り詰めたのだ。そして部長になってからは、より一層周囲に厳しく、激しく接するようになった。
仕事が遅いなど、気に入らない人間には容赦なく厳しかった。
ねえ、もっとテキパキと容量よくできないの?こんなことも満足にできないなんて、何をしに来ているのよ。
はい。すみません。
全く、給料泥棒ね。恥を知りなさいよ。
そんな暴言を吐き散らすようになり、ますます周囲との距離が広がっていった。それでも椎名部長は自分中心の身勝手な行動をやめなかった。
ねえ、前から言ってるけど、いかに効率よくできるかが今後の仕事にも影響してくるのよ。何か改善案はないの?いいものはすぐに実行よ。
確かに効率よく仕事をするのは大事ですが、でもそればかり重視していると、周りのフォローがおろそかになることもありますし。
馬鹿ね。何そんな甘いこと言ってるのよ。そんなんだから仕事ができないんじゃないのよ。
そこまで言わなくてもいいじゃないですか。
ああ、本当に嫌になるわ。
対立が強まるほど、周囲は椎名部長のやり方や態度に拒否反応を示すようになった。彼女を受け入れられず、みんな反発するばかりで、仕事はなかなか思い通りに進まなくなった。そして、そんな周囲との連携が上手く取れないイライラを、椎名部長は俺にぶつけ始めた。
ねえ、主任。あなたがきちんとまとめられないから、こんなことになるのよ。全部あなたの責任だからね。いいわね。
はい。申し訳ありません。以後、気をつけて対応いたします。
椎名部長は俺が素直に頭を下げて謝ると、ちっ、と舌打ちをして、ヒールの音をカツカツと鳴らしながら立ち去った。仕事が進まないのを全部俺の責任にされても困るのだが、そんな思いが通じるはずもなく、椎名部長は日々ストレスを募らせ、より一層俺への当たりが強くなっていった。
これ、早くって言ったでしょ。何してるのよ。
あ、はい。すみません。すぐにやります。
言ったらしっかりしてよね。申し訳ありません。
そんなんだから五十過ぎても主任なのよ。無能よね。全く。
俺に暴言を浴びせ、自分のストレスの吐け口にするのがお決まりになっていった。業務上急ぎでもないものをあえて急ぎで出させたり、逆に急ぎのものを期限ギリギリで渡してきたりと、無茶な要求を押し付けてくる。このままではダメだと、俺はかなり心配になっていった。
椎名部長のように人を怒鳴り散らして言うことを聞かせようとしても、余計に反感を買うだけだ。一緒になって怒鳴り合えば、お互いの嫌悪感が深まるだけだろう。何も変わらないし、いつまでも分かり合えないままになる。これから本当に一緒に仕事をやっていけるのか、不安は募るばかりだった。
そんなある日の朝礼で、椎名部長が大事な話があると言い出した。
今度、本社の方から視察団の役員の方々がお見えになるので、しっかりと対応するように。ヘマなんてしないでちょうだいよ。いいわね。
そう声を張り上げた後、椎名部長はみんなの前で俺にとんでもないことを言ってきた。
主任、そういうことだから、あなたはその日は来なくていいから。
え?それは、他に何か別の仕事でもあるんですか?
違うわよ。欠席ってことよ。
欠席?なぜ欠席なのでしょうか?
そんなの決まってるじゃない。あなたが無能で底辺な人間だからよ。本社の役員の方々に、あなたのような人を合わせられるわけがないでしょ。少しは考えなさいよ。
暴言を吐き捨て、俺をきつく睨みつける。まさかこんなことまで言われるとは思ってもいなかった。だが反論しても無駄だろうということは分かっていた。椎名部長とはまだ短い間しか一緒に仕事をしていないが、周囲への気遣いが皆無で、何より一人よがりな考え方で人の意見を聞かない人間だと分かっている。それは俺だけじゃなく、みんなが感じていることだろう。ここで嫌だと反論しても、結局は同じことになる。そう思い、俺は椎名部長の言葉を素直に聞き入れることにした。
分かりました。おっしゃる通り、当日は欠席いたします。
俺が頭を下げると、椎名部長はにやっと笑ってこちらを見ていた。俺はその顔を見て、視察の日が何事もなく終わればいいなと祈る思いだった。
そして迎えた視察当日。俺は椎名部長に言われた通り会社を欠席し、家でゆっくりとしていた。すると、一本の電話がかかってきた。椎名部長からだ。俺がすぐに電話に出ると、すごい怒鳴り声が聞こえてきた。
ねえ、何なのよ!
椎名部長、そんなに慌ててどうなさいましたか?
慌ても何もないわよ!今日、会社に誰も来ていないのよ!あなたが何かみんなに吹き込んだんでしょう?なんとかしなさいよ!
いえ、私は何も。
そこで一度言葉を切り、わずかに間を置いてから、俺は椎名部長の知らないところで起きていたことを教えてやった。
みんなが言うには、自分たちは私よりも無能だから欠席すると言っていました。自主的ですよ。
はあ?何それ?そんなバカなことがあるわけないでしょ。もういいわ。とにかく視察の方々が来てしまう。あなただけでも出社してきなさい。
分かりました。すぐに出社します。
急いで!
そう言うと、椎名部長は勢いよく電話を切った。俺はすぐに身支度を整えて会社へと向かった。
会社に到着すると、椎名部長が何やらイライラした様子で、どこかに電話をかけていた。
もう、一体何なの?みんな、どういうつもりでこんなことを?なぜ出社してこないのよ!
どうやら椎名部長は社員に出社するよう電話をかけまくっているが、断られているようだった。
部長、おはようございます。
俺が挨拶すると、椎名部長はようやく俺の姿に気づき、怒鳴り声で言ってきた。
あなたもみんなに出社するように電話をかけなさい!いいわね!全く、私の指示を聞けないなんて。今日がどんな日か知ってるのに、なぜよ!
椎名部長は思い通りにならない状況に苛立ちを隠せずにいた。確かに、こんな大事な日に社員が誰もいないなんてことを視察団の人たちが見たら、異常に思うに違いない。椎名部長は焦り、視察団がこの部署に来るまでに何とかしなければと必死だったが、その努力も虚しく、視察団の役員たちが俺たちのフロアにやってきた。
椎名部長は苛立ちを抑えながら、笑顔で視察団の役員たちに挨拶した。
お疲れ様です。皆様。本日は大変お忙しいところ、ありがとうございます。
深々と頭を下げる。すると、視察団の一人がその横をすっと通り過ぎて、俺に気づき、親しげに挨拶をしてきた。
おお、嘉男。久しぶりだな。元気だったか?
ああ、なんとか元気でやっているよ。
そうか。どうだ?こっちは大丈夫か?順調か?
うん。まあな。
嘉男がいるから大丈夫だろうと思って安心しているよ。けど、まあ本当は一緒に仕事がしたいんだがな。
ありがとう。すまないな。
全くだよ。
お互い笑顔で肩を叩き合う。久しぶりの嬉しい再会に、俺は視察であることを忘れてしまいそうになり、慌てて引き締めた表情に戻した。
一方、椎名部長は俺が視察団の役員と親しげにやり取りしているのを見て、目を丸くして驚いていた。
え、どうして?一体あなたは何なの?なぜ主任ごときが、そちらの方々とそんなに親しげに会話なんてできるのよ?
何なのと言われましても、私は元々本社に勤めていましたので。
は?本社に?あなたが?
はい。そこでとても評価していただいて、それでこの子会社の立て直しのために派遣されているんですよ。
俺がここにいる経緯を椎名部長に説明すると、椎名部長はさらに驚いていた。
じゃあ、役職につけるくらいの力があるんでしょう?なぜ主任なんてポジションにいるのよ。普通だったら、もっと上に行きたいと思うものでしょ?
ええ、まあそうなんですが、言ってしまえば単なる俺のわがままですね、これは。
俺が言うと、椎名部長は訳が分からないといった表情で俺を見ていた。
わがままって何なのよ、それは。
椎名部長のように上へ野心を向き出しにする人たちにとっては、俺の行動が理解できないのも無理はないだろう。もちろん、それはそれでいいことだと思っている。ただ、俺の価値観はそことは別にあった。
この子会社の立て直しに成功し、そのまま残留することが決まった時、俺には部長クラスの役職が用意されていた。だが、俺は社員とより近い距離で意見を聞いたり、悩みを相談したりできる間柄で仕事がしたいと思っていたので、俺のわがままで主任という立場を希望したのだ。
もちろん古くからいる社員たちは、本社からの立て直しで俺が来ていることを知っている。だが、椎名部長は最近来たばかりだったので、そこまで把握していなかった。椎名部長は自分に必要のないことは話も聞かないし関わろうともしなかったから、誰も伝えることができなかったのだろう。
視察団の役員たちは、部署内に社員がいないことを見ると、不思議そうに首をかしげ、椎名部長を見た。
椎名部長。
はい。何でしょうか?
どうして嘉男以外の社員は、誰も出社していないんですか?他の場所にでも行っているんですか?
はい。え、えっと、それはつまり。
椎名部長はどもりながら、この状況を説明することができずにいた。今にも泣き出しそうで、暴れ出しそうな様子だった。そんな椎名部長を見て、俺が代わりに視察団の役員たちに説明を始めた。
皆さん、すみません。他の社員は来ていないんです。
え、嘉男、それはどういうことなんだ?
主任である私の口から言うのも恐縮なんですが。
あ、ちょっと。
椎名部長が慌てて割って入ろうとするが、視察団の一人が手を挙げて黙らせた。
関係ないよ。話してくれ。
はい。みんな、椎名部長の仕事のやり方に思うことがあるようで、椎名部長が欠席しろと言ったのを聞いて、主任が欠席するなら自分たちも欠席すると言い出したんです。もちろん俺は止めたんですが、みんな色々な思いがあったみたいで、結局欠席することを選んだんです。
視察団の役員たちが椎名部長の方に視線を向けると、椎名部長は体をびくっとさせて下を向いてしまった。その様子を見て、俺は構わず話を続けることにした。
椎名部長はとても仕事ができて、誰よりも優秀です。本当に素晴らしいのですが、共に仕事をこなしていく上では欠かせないことが欠けています。
欠かせないことって何なのよ!
それは助け合うことです。
助け合いですって?
はい。お互いを認め合ってこそ、より良い仕事ができると思っています。他の社員も同じ思いです。私から見て、椎名部長にはそれが感じられず、すごく残念です。
平社員だろうと役職を持った人だろうと、人に対しては気遣いや思いやりある対応をすることが絶対だと、俺は思ってここまで来た。一緒に働く者同士だからといって、投げやりな態度でいるのではなく、同じ部署にいるからこそ誠実な思いを込めて接することが大事だと思う。これは他の社員たちも俺と同じ気持ちでいてくれた。だからこそ、椎名部長が俺に欠席しろと言うのを聞いて、みんな黙っていられなかったのだろう。
俺の言葉に、椎名部長はただ黙ったまま俺をきっと睨みつけた。視察団の人たちは、社員がストライキを起こすほどの状況になっていることに、かなり驚いていた。それもそのはずだろう。椎名部長は部署以外の人たちや上役の人たちの前では冷静に対応し、仕事に関しては抜け目なく完璧にこなしていたからだ。だからこそ大きなプロジェクトを任され、部長にまでなった。だが、どれほど優秀でも、周りからの信頼がなければ始まらない。共に仕事をする人たちとの関係は、なおさらのことだ。
俺の話を聞いて、視察団の役員たちも何かを決断してくれたのだろう。
椎名部長、このことは追って連絡をします。それまでは自宅待機でお願いします。いいですね。
こう言われると、椎名部長はただ黙って頷いていた。俺がそっと椎名部長の顔をちらりと見ると、悔しそうな顔で俺を睨んでいた。
その後、俺の話を聞いた視察団の役員たちは、椎名部長の指導体制に疑問を持ち、話し合いが行われたようだ。調査した結果、行き過ぎた指導があったことが判明した。このことで椎名部長は降格処分になり、配属先も変更が決定した。
椎名部長はまさか、中年の冴えない主任にこんなに悔しい思いをさせられるとは思わなかっただろうし、ましてや主任と社員たちの間に信頼関係があるとは夢にも思わなかったようで、非常に悔しがり、そして妬ましくも思っているようだった。だからなのか、この状況になっても椎名元部長は反省も改善も全くしなかった。それどころか、激しく反論したそうだ。
私には全く非はないし、落ち度なんてないわ。私はあいつにはめられたの。騙されたのよ。もう信じられない。悔しい。
などと、俺にとっては全く身に覚えのないことを移動先で騒ぎまくっているようで、その言動がまた問題があると指摘されてしまった。それからも椎名元部長のヒステリーは収まることがなかった。移動先の同僚が心配して、心身共に疲れているのだろうから、病院でゆっくりと診てもらったらいいと提案したそうだが、その優しさにも椎名元部長は素直に耳を貸すことはなかった。表現や態度がますますひどくなり、誰も手の出しようがない状況になってしまい、結局何の反省も改善も試みない椎名元部長は、最終的には解雇という形で解決されることになった。
仕事ができただけにとても残念でならない。もっと分かち合う気持ちと優しさがあれば、きっと良き上司になっていたのだろうと思う。椎名元部長が今後どんな道をたどり、どんな人たちと関わっていくかは、俺には分からないし、知ることもないだろう。ただ、孤独になることなく共に協力していけるような、気遣いのある対応ができる人に成長してもらえたらいいなと、俺はひっそりと祈っている。
上の立場だとか優秀だということに胡座をかいて、命令や暴言ばかりで言うことを聞かせても、その場しのぎにすぎない。会社はここで頑張ることももちろんあるけれど、チームワークで成り立っていて、それがとても大事なことだと俺は思っている。助け合って支え合うことができれば、相手も自分もストレスを抱えることも少なくなり、お互いを高め合うことができて、次の仕事も上手く結果を出していけるだろう。
その後、椎名元部長が去ってしまったので、部長の席は空席になった。俺にはぜひ部長の席にと、たくさんの人たちから推薦され要望があったのだが、丁重に断りを入れた。嫌だからとか、責任が重くなるからとかではない。どんな立場だろうと、仕事をする上では責任はある。周りには優秀な人材がたくさんいるのだ。ただ俺は、今まで通り主任という立場でみんなと仕事をしていきたいと思ったからにすぎない。
これからも俺は、みんなが困っていたり助けを求めたりしたら、すぐに対応してあげられる上司でいたいと思っている。もちろん、物事を成し遂げていく上で、うまくいくことばかりとは限らない。失敗することも戸惑うこともあるし、新人ならなおさら不安や心配がたくさんあると思う。そんな時に責めたり怒鳴ったりしないようにしようと決めている。頼りないかもしれないが、共に解決策を考え、共に学び、励まし合って乗り越えていければと思う。
俺は何の取り柄もない冴えない男だけれど、仕事に対しては誇りを持っている。ひたむきに一つ一つまっすぐに、みんなと共に頑張ることを何よりも大事に。仕事への誇りと責任を忘れずに、穏やかでありつつ、情熱を心に秘めて取り組んでいこうと、俺は改めて決心したのだった。
