約束の十三時を一時間以上過ぎても、人内は現れなかった。時計の針が十六時半を回った頃、ようやくスマホが鳴った。相手は人内だ。俺は慌てて電話に出る。
「もしもし、関さん。お疲れ」
極めて軽い口調だった。三時間半以上も待たせておいて、謝罪の一言もない。俺は少しむっとして、やや苛立った調子で尋ねた。
「それで、いつ本社に到着されますか?」
すると人内は、とんでもないことを平然と言い放った。
「オタクみたいな貧乏企業はあと四時間待ってろ。嫌なら契約切るから、そのつもりで」
一瞬、何を言われているのか理解できなかった。
俺の名前は関本俊助。三十五歳になる、どこにでもいる普通の男だ。父が興した関元電子という小さな会社で、営業部長を務めている。主にゲームソフトの製造を行っている会社だ。
子供の頃からゲームが大好きだった。話しかけられても気づかないほど熱中して、母に何度怒られたか分からない。そんな俺を父は温かく見守ってくれた。高校を卒業して入社した時も、特別扱いはされなかった。他の希望者と同じように面接とテストを受けて、晴れて採用されたのだ。
三十代で部長と言うと少し早い気もするが、小さな会社なので、誰もそんなことは気にしない。
うちの会社が長年取引しているのは、ゲーマーファーストというゲーム会社だ。説明するまでもなく、世界的なヒット作を数多く生み出してきた大企業である。ゲーム業界のトップに君臨していると言っていい。俺も大好きな作品がたくさんある会社だ。
ただ、最近はあまりヒット作が出ていない。「ゲーマーファーストの作品はつまらなくなった」と言われることも増えているらしい。それでも、業界ナンバーワンの企業と取引できていることは、ゲーム好きの俺にとって本当に嬉しいことだ。
小さな会社がなぜ大企業と取引できているのか。理由は二つある。
一つは、うちの品質が世界的に見てもトップレベルだということ。長時間プレイしても平気な耐久性に優れたソフト用ディスクは、ゲーマーたちからも高い評価を受けている。技術者たちの努力の賜物だ。
もう一つは、ゲーマーファーストの社長と父が中学時代の同級生だということだ。当時は同じ野球部に所属していたらしい。父が工場を作ったと知るや、真っ先に連絡してきたのがゲーマーファーストの社長だったのだ。以来、仕事上の付き合いが続いている。
今日も午後からゲーマーファーストとの商談がある。担当は俺だ。これまで担当していた斎藤さんという営業部長は人事異動で変わったらしく、今日から新しい営業部長が相手になる。
新しい営業部長は人内と言うらしい。メールの印象は正直あまり良くない。顔合わせでもと思って誘ったのだが、あっけなく断られてしまったからだ。まあ、大企業の営業部長なら多忙だろうから仕方ない。つまり、今日が初対面だった。
俺は昔から人見知りする質で、朝から緊張で腹が痛かった。それでも逃げ出すわけにはいかない。十三時まで、資料の最終チェックを何度も繰り返した。何事も準備は裏切らない。それは長年働いてきて身にしみていることだ。
そして、商談室で待つことになった。約束の十三時を過ぎても、人内は現れない。十四時を回っても、まだだ。もしや事故にでもあったのだろうか。まだ会ったこともない男を、俺は心配していた。
その心配は完全に無駄だった。十六時半まで待たされた挙句、電話で「貧乏企業はあと四時間待ってろ」と言われたのだ。
「事故? そんなのありえないよ。バカだなあ」
電話の向こうで笑い飛ばされた。こっちは本気で心配していたというのに、いくら何でも失礼すぎる。
「この男は、一体何を考えているんだ」
頭の中で舌打ちした。取引相手を「貧乏企業」呼ばわりするのもいただけない。社会人としてのマナーを完全に欠いた人間だ。というより、人間としてどうかと思う。
「ほらほら、どうするの? 早く答えてくれなくちゃ困るんだよ。こっちはオタクみたいな弱小企業の相手をしてる時間なんてないくらい忙しいんだからさ」
散々人を待たせておいて、自分が待たされるのはひどく嫌いなタイプらしい。何とも厄介な男だ。
「ちょっと無視するとか、どういうつもりだよ。俺は天下のゲーマーファーストの営業部長だぞ。お前、自分の立場をもっと分きまえた方がいいんじゃないか?」
俺は何も答えられなかった。これまでの商談相手は、皆穏やかで礼儀正しい人ばかりだった。特に斎藤さんは優しい雰囲気の人だった。人内との差があまりにも大きくて、呆気に取られてしまったのだ。
しかし、いつまでも好き勝手言わせておくわけにはいかない。人間の価値に優劣がないのと同じように、大企業が中小企業より偉いなんて決まりはない。ここで引いては負けだ。そんな馬鹿げた男の言いなりになるのはごめんだ。
俺はようやく口を開いた。
「あなたの言葉は失礼すぎます。社会人たるもの、まず遅刻したことをお詫びするのが筋ではありませんか」
「おいおい、何? 俺に指図しようっていうのか? ほお、いい度胸してるじゃん。でもさ、そんなことしたら、どうなるか分かってるんだろうな?」
脅し文句だ。弱い人間ほどこういう脅しをかけてくるものだ。相手を脅すことで、自分を有利な位置に置きたいのだろう。あまりの幼稚さに呆れ返ってしまう。
「さっきも言ったけど、そんなに待たされるのが嫌なら、別に契約を切っちゃってもいいんだよ。こっちは弱小企業との契約を切ったところで、なんの痛みもないんだから。ほら、どうすんの?」
俺は昔から我慢強い方だ。社会人になってから、様々な理不尽を乗り越えてきた。それが大人としての強さだと思っていたからだ。
しかし、さすがに人内の言葉はひどすぎた。堪忍袋の緒がついに切れた。
俺は対等な立場で対抗するために、あえてものすごく明るい口調で言った。
「人内さん、ありがとうございます。じゃあ、契約終了でお願いします」
電話の向こうが静かになった。きっと、俺の予想外の言葉に面食らったのだろう。いい気味だ。
これ以上話していても仕方がない。俺は「それでは失礼します」と短く別れを告げて、電話を切った。人内は何も言わなかった。いや、何も言えなかったのだろう。
そして俺は、その後、ある人物に電話をかけたのだった。
翌日の午前中、うちの会社に来客があった。ゲーマーファーストの社長、高山さんと人内だ。
俺は正直、人内とはこのまま顔を合わせずにいたかったので少し戸惑ったが、断る理由もないので会うことにした。応接室に入ると、ソファに腰かけた二人の姿があった。高山さんは俺を見るや立ち上がって、突然頭を下げた。
「俊助君、この度はうちの社員がとんでもない無礼を働いて、申し訳なかった」
それを見た人内が口を挟む。
「ちょっと社長、弱小企業の人間にそこまで頭を下げることありませんよ。しっかりしてください」
「何を言っているんだ君。しっかりすべきなのは人内君の方だろうが!」
高山さんが激昂すると、人内は仕方なく口をつぐんだ。
「昨日、君が私に電話で報告してくれたことに関しては、弁解のしようがない。本当に言語道断とはこのことだな」
高山さんは顔をしかめながら続けた。人内は罰が悪そうな顔で、居心地悪そうに座ったままだ。
自分の会社の社長がここまで頭を下げているのに、平然としていられる。見たところ人内は四十代半ばを過ぎているようだが、態度は子供同然だった。いや、子供の方が自分の立場を分きまえているかもしれない。
「うちと関本電子さんとは長年取引を行ってきた。その間に衝突がなかったわけではないが、ここまでの揉め事は初めてだ。今回の件に関しては、完全にこちらに落ち度がある」
高山さんは申し訳なさそうにそう言った。
高山さんは俺にとって、第2の父のような存在でもある。父の友人であることがきっかけで、俺が子供の頃からよく遊びに来てくれていたのだ。いっぱい遊んでもらった記憶が蘇る。そんな高山さんの頭を下げさせている人内のことを、俺は信じられなかった。
「昨日の電話であなたに言われたことは、許すわけにはいきません。ここで謝っていただきたい」
俺がそう要求すると、人内は反論した。
「なんだって、お前みたいな底辺の人間にこの俺が頭を下げなくちゃならないんだよ。意味不明だわ。お前、自分の言ってること理解できてんの?」
その口調の憎たらしいこと。今まで遊んできたどんなゲームの悪役よりも、人内の方が性悪そうに思えた。でも、人内のような小物をラスボスと呼ぶのは何か違う。こんなろくでなしと一緒にされては、天晴なラスボスたちに失礼だ。せいぜい、倒すのが面倒な雑魚キャラといったところだろうか。
「謝罪しないというのであれば、あなたが昨日おっしゃったように、ゲーマーファーストとうちの契約を終了させていただきます」
慌てて口を挟んだのは高山さんだった。
「待ってくれ、俊助君。どうかそれだけは勘弁してほしい」
懇願するような声だった。そんな高山さんの様子を、人内はかなり不思議そうな顔で眺めている。
「社長、見苦しいですよ。別にこんな弱小企業との契約なんて終わったところで、うちの会社にとっては痛くも痒くもないじゃないですか」
高山さんは即座に首を横に振った。
「関本電子の技術を甘く見るんじゃない。もしもうちとの契約を切られたら最後、ゲーマーファーストは路頭に迷ってしまうも同然だ。人内君、そんなことも分からないのか?」
それでも人内は状況をまったく飲み込めていないらしい。首をかしげたままである。何とも理解力の欠けた男だ。理不尽を相手にするのは本当に疲れる。
高山さんは大きなため息をついた。トップに立つ人間というものは大変である。俺は思わず、ろくでもない部下を持ってしまった高山さんに同情してしまった。
「仕方ない。俺が教えてやるよ」
俺は呆れ返っている高山さんに代わって、人内に説明することにした。
「実は、業界ナンバー2のプラスアルファという会社から、うちに声がかかっているんですよ。『ぜひ取引させてほしい』ってね。今の段階ではゲーマーファーストさんと契約している以上、もちろんお断りしているんですが」
「でも、契約終了となれば話は別です。うちはプラスアルファさんと組むことになるでしょう。そうなれば、業界の順位は逆転しかねない。ここまで言えば、もうお分かりですね」
しかし、人内はまだ理解できていないようだった。
「別に、ゲームソフトの製造会社が変わったくらいで、うちの売上が急に落ちるようなことあるわけねえだろ」
これでは話にならない。ゲーマーファーストのゲームが売れている理由の一つに、ソフトであるディスク自体の品質や耐久性に優れていることが挙げられる。この男はどうやら、自社の情報にすら疎いらしい。呆れてものも言えない。
俺はふと高山さんの方に目をやった。もう何も言う元気がない、といった様子である。なんとも気の毒だ。
これ以上説明しても無駄だ。俺は咳払いをして、再度謝罪を要求した。
「とにかく、私に謝罪しない限り、契約は本日付けで終了させてもらいます。いいですね」
高山さんが強い口調で人内を促す。
「早く謝りたまえ! 君、これほどうちの会社に迷惑をかけておきながら、謝罪の一言も満足に言うことができないのか!」
さすがの人内も、社長の言葉には折れたらしい。ようやく俺に対して、不承不承といった様子で言った。
「悪かったよ。申し訳ありませんでした」
ここまで来るのに、随分と時間がかかってしまった。それにしても、謝罪の時の態度すらなっていない。社会人以前に、一人の大人として失格だ。
しかし、人内はその直後、とんでもないことを言い出したのだ。
「よし、これで終わったし、もう全部チャラだよな。ああ、こんな底辺の企業の人間に頭下げるなんて、俺も終わったわ」
俺は「底辺の企業」という言葉を許すことはできなかった。こんな男、終わったどころではない。そもそも始まってもいないだろう。
俺が再び抗議すると、人内は面倒臭そうな顔をして「あー、はいはい」と相手にしてくれない。そんな様子を見て、高山さんはついに切れてしまった。
「君、もう出ていきなさい! これ以上、関本電子さんへの無礼を見過ごすことはできない!」
その迫力にビビった人内は、そそくさと応接室から出ていく。最後に「バカ野郎」と捨て台詞を吐いて。
まったく、どこまでも反省のない男だ。
その後、俺と高山さんは改めて話し合うことになった。そして、人内の言動によって、結局うちとゲーマーファーストの契約が終了に至った。
その後、人内はどうなったのか。高山さんの怒りに触れた人内は、何と解雇処分を言い渡されたらしい。人内の言動が原因で、長年の取引相手との契約が終了したことも、その理由としては大きかっただろう。
仕事を失った人内は、ギャンブルに明けくれる毎日を送っていたそうだ。しかし、お金というものは湯水のように使ってしまえば、必ず減っていく。貯金が底をついた人内は、次第に借金を重ねるようになった。金を返すために、また新たな業者から金を借りる。そんな悪循環に陥ったようだ。
そんな生活が続くはずもない。最終的に闇金に手を出した人内は、現在、借金取りに追われているらしい。
全ては人内の身から出た錆である。
一方、関元電子はといえば、ゲーマーファーストとの契約を切った後、即座にプラスアルファとの契約を締結した。それからしばらくして、プラスアルファはゲーム業界一位の売上を記録した。うちの技術力が、世間のゲーマーたちに認められていることを証明する結果となった。
プラスアルファはその後も斬新で画期的なヒット作を連発した。それに伴って、うちの人間はかなり忙しい毎日を送っている。
俺はこれからも、愛するゲームのために一生懸命働いていきたいと思う。
