あなたみたいな貧乏人がこの神聖な場所に足を踏み入れること自体、虫酸が走るわ。
冷たく放たれたその一言で、重厚な応接室の空気がまるで冬の池のように張り詰めた。だがこの時、誰も知らなかった。数分後、この場にいる全員が己の愚かさを呪い、絶望の縁に突き落とされることになるということを。
今日は日本経済界にその名を轟かせる藤堂家の遺産相続が発表される日。窓の外では、まるでこの家の未来を暗示するかのように激しい雨が屋敷の窓を叩きつけていた。分厚いビロードのカーテンが引かれた応接室には、藤堂一族の重鎮たちが重苦しい顔で集まっている。正面には数ヶ月前に亡くなった先代当主、藤堂竜之助の厳かな肖像画が掲げられ、まるで生きているかのように私たち一人ひとりを厳しく見据えていた。
中央の席に座るのは、竜之助の妻でありこの家の女主人である義母のしず子。その両脇を固めるのが長男の剣一とその妻の彩子。私と夫の正は、その末席で借りてきた猫のように小さくなって座っていた。藤堂家の次男の妻。本来であれば、兄である剣一と同等の席に座るべきなのだろうが、この家ではそうはならない。なぜなら、私が藤堂家にふさわしくないからだ。
「それにしてもすごい雨ねえ。まるで嵐だわ」
かん高い声でそう言ったのは長男の嫁である義姉の彩子だった。彼女は国内でも有数の老舗呉服屋の一人娘として生まれ、不自由なく育った絵に描いたようなお嬢様だ。その整った顔立ちには、育ちの良さから来る自信と、他人を見下す傲慢さが滲み出ている。彼女の視線が舐めるように私の全身をなめ回した。
「あなた、その洋服、どこのブランド? 見たこともないわ。まさかデパートの安物じゃないでしょうね」
意地の悪い笑い声が彩子の口から漏れる。私は今日のために泣けなしのお金をはたいて、少しでも身なりを整えようと一番良い服を着てきた。もちろん、彩子が身につけているような高級ブランドのものではない。しかし、それを公衆の面前で指摘され、私は顔から火が出るような思いだった。
「申し訳ありません」
私がろうじてそれだけを口にすると、彩子はさらに畳みかけるように言った。
「本当に正木さんも、どうしてあんな女を嫁にしたのかしら? 私たちの家の品が下がるわ」
その言葉は私だけでなく、隣に座る夫のプライドも傷つけるものだった。正木が何かを言い返そうと腰を浮かせたが、私はその手をそっと握って制した。ここで騒ぎを起こせば、ますます私たちの立場が悪くなるだけだ。私はただ唇を固く結び、彩子の侮辱的な視線に耐えるしかなかった。
私の沈黙を敗北と受け取ったのだろう、彩子の攻撃はさらにエスカレートしていく。
「まあ、黙っているしかないわよね。だって事実なんだもの。あなたはこの藤堂家にとって招かれざる客。いいえ、害虫と言ってもいいくらいだわ」
害虫。あまりの言葉に私は息を飲んだ。他の親族たちも見て見ぬふりをしている。いや、むしろ面白がっているものさえいるようだ。彼らにとって、一般家庭から嫁いできた私は格好のいじめの標的なのだ。そんな中、ただ一人義母のしず子だけが微動だにせず、じっと目の前のテーブルを見つめていた。いつもなら彩子の品のない振る舞いを厳しく止めるはずの義母が、今日に限っては何も言わない。その無表情な横顔からは、何を考えているのか全く読み取ることができなかった。ただ、その静けさが嵐の前の静けさのように感じられて、私は言いようのない不安に襲われた。
彩子の私への攻撃はまだ終わらなかった。彼女は勝ち誇ったように私に最後通告を突きつけた。
「いいことを教えてあげる。この遺産相続が終わったら、さっさと正木さんと離婚してこの家から出て行きなさい。あなたのような貧乏神がいたら、藤堂家が汚れるわ」
その瞬間、応接室の重厚な扉が音を立てて開いた。入ってきたのは藤堂家の顧問弁護士である白石と名乗る初老の男だった。彼の登場で彩子の毒舌は中断されたが、私の心臓はまだ激しく高鳴っていた。弁護士は一族が揃っているのを確認すると、静かに口を開いた。
「これより、故藤堂竜之助様の遺言状を公開いたします」
その言葉を合図に、部屋の空気は再び欲望と緊張が入り混じった混沌へと変わっていく。彩子は勝利を確信した笑みを浮かべ、私を一瞥した。その目は言っていた。お前の居場所はもうない、と。私はただ祈ることしかできなかった。この悪夢のような時間が一刻も早く過ぎ去ってくれること。しかし、この先に待ち受けているのが、今日という一日をはるかに超える地獄の始まりだということ。この時の私はまだ知る由もなかった。
白石弁護士が革鞄の中から重々しく取り出したのは、厚手の紙でできた一通の封筒だった。藤堂竜之助様と達筆に記され、赤い封蝋で封印されている。それが東堂家の未来を、そして私の運命を左右する物。応接室にいる全員の視線が、まるで磁石に吸い寄せられるかのようにその一点に集中した。誰かが唾を飲み込む音がやけに大きく響く。
藤堂は戦後の日本経済を牽引してきた名門財閥の大名跡だ。金融、不動産、インフラとその事業は多岐に渡り、一族の総資産は我々一般人の想像をはるかに超えると言われている。世間からは華麗なる一族として羨望の眼差しを向けられているが、その内実は欲望と嫉妬が渦巻く見苦しい権力争いの巣窟だった。
私こと立花あずさは、そんな世界とは全く無縁のごく平凡な家庭で育った。父は町工場を営み、母はパートで家計を助ける、どこにでもある家族。そんな私が藤堂家の次男である正木と出会ったのは、大学のテニスサークルだった。彼は財閥の御曹司であることを一切表に出さず、誰にでも気さくで、太陽のように明るい人だった。私たちは自然と惹かれ合い、卒業と同時に結婚を意識するようになった。しかし、私たちの前に立ちはだかったのが家柄という分厚い壁だった。
「身の程知りなさい。あなたのような女がこの家の門をくぐるなど、恥知らずにも程があるわ」
初めて家に挨拶に伺った日、私にそう言い放ったのは義姉の彩子だった。彼女は私の経歴書をゴミでも見るかのような目で見ると、鼻で笑ってビリビリに破り捨てた。
「お父様は町工場の社長、お母様はパート。そんな家柄が、私たち藤堂家と混ざることなど絶対に許されません」
その言葉は私の両親までを侮辱する、あまりにも非情なものだった。結婚は先代の父である竜之助からも猛反対された。しかし、正木は決して諦めなかった。
「家柄なんて関係ない。俺はあずさを愛しているんだ。認めてくれるまで何度でも頭を下げる」
彼は家を継ぐ権利を放棄することさえ辞さず、必死に説得を続けてくれた。最終的に竜之助は「勝手にしろ」と吐き捨てるように、私たちの結婚は祝福とはほど遠い形でようやく認められたのだった。
結婚後の生活は想像以上に過酷なものだった。彩子からの嫌がらせは日ごとにエスカレートしていった。一族の集まりがあれば、私の服装やマナーに難癖をつけ、「だから育ちの悪い女は」と皆の前で罵る。私が手料理を振る舞えば、「こんな貧乏臭い料理、犬も食べないわ」と一口もつけずに席を立つ。夫の正はいつも私の味方でいてくれたが、藤堂家の中では長男である剣一の発言力が圧倒的に強く、次男である彼の声はいつもかき消されてしまった。そんな中で唯一、私にとって不可解な存在だったのが義母のしず子だった。彼女は藤堂家の女主人として常に威厳を保ち、感情を表に出すことはほとんどない。家柄や伝統を何よりも重んじる人だから、当然私のことも快くは思っていないだろう。しかし、彩子の私に対するいじめが度を越すと、時より「彩子さん、お控えなさい」と冷たく一言だけ釘を刺すことがあった。それは私をかばっているようにも、ただ家の体面を保とうとしているようにも聞こえ、彼女の真意はいつも謎に包まれていた。だが今日の彼女は、いつもと明らかに様子が違う。彩子の暴言にもただ沈黙を貫いている。その静けさが、私には嵐の前の不気味な静けさにしか感じられなかった。
やがて白石弁護士が咳払いを一つして、部屋の空気を引き締めた。
「それでは皆様、お静かにお願いいたします。これより遺言状を開封いたします」
彼はペーパーナイフを手に取ると、静かな手付きで封蝋に刃を当てた。封が切れる乾いた音が、静まり返った応接室に響き渡る。一族の誰もが固唾を飲んでその様子を見守っている。長男の剣一は腕を組み、自信に満ちた表情を崩さない。その隣で彩子は、すでに自分がこの家の新しい女主人になったかのような傲慢な笑みを浮かべていた。そしてその視線は、明らかに私を捉えていた。さよなら、貧乏人。彼女の唇が声には出さずにそう動くのを、私は確かに見た。
全身から血の気が引いていくのがわかる。これから読み上げられる内容は、おそらく私と正にとって絶望的なものに違いない。それでも私は顔を上げ、まっすぐに前を向いた。どんな結果になろうとも、それを受け入れる覚悟はもうできていた。いや、そう自分に言い聞かせるしかなかったのだ。
白石弁護士がゆっくりと封筒から折りたたまれた遺言状を取り出す。その瞬間、私の運命の歯車が軋みと音を立てて大きく動き始めたことを、まだ誰も知らなかった。
白石弁護士の嗄れた、しかし感情を排した声が応接室に響き渡った。
「遺言状。私が保有する藤堂ホールディングスの株式及び関連会社の全ての役員としての地位は、長男藤堂剣一に相続させる」
その一句が読み上げられた瞬間、彩子の口元が勝利を確信してにやりと歪んだ。彼女はわざとらしく大きなため息をつくと、これ見よがしに私の顔を覗き込んできた。
「剣一さん、あなた。これが家を継ぐ者とそうでない者の差よ。剣一さんはこの藤堂家の全てを受け継ぐ正当な後継者。それに比べて、あなたの旦那様はまあ、おかわいそうに」
その声は哀れみを装ってはいるが、その実、刃のように鋭い侮辱の言葉だった。続けて弁護士は淡々と読み上げる。
「現在我々一族が暮らすこの本邸、並びに軽井沢の別荘も、長男の剣一に相続させるものとする」
「ああ!」
彩子が歓喜の声をあげる。
「これで明日から私がこの家の女主人ね。ねえ、あなた、聞こえているんでしょう。これからは私の言うことは絶対よ。まずはあなたみたいな貧乏神を追い出すことから始めないと、家が汚れてしまうわ」
あまりにも人を人とも思わない物言いに、それまで黙って耐えていた夫の正の堪忍袋の緒がついにぶつりと切れた。
「いい加減にしろ、彩子さん!」
彼は椅子を蹴立てるように立ち上がると、彩子を鋭く睨みつけた。その剣幕に、さすがの彩子も一瞬怯んだ表情を見せる。
「兄さんも兄さんだ。なぜ自分の妻の暴言を黙って聞いているんだ? あずさはお前たちの奴隷じゃない。俺の大切な妻なんだぞ」
正の怒声が部屋中に響き渡る。しかし、兄である剣一は、そんな弟の姿をまるで出来の悪い子供でも見るかのように、静かに見下ろすだけだった。
「落ち着け、正。みっともないぞ」
剣一は組んでいた腕を解くと、ゆっくりと口を開いた。
「彩子の言い方は少々度が過ぎたかもしれん。だが、言っていることは事実だ。お前があのような女を嫁にしたせいで、藤堂家の品位は地に落ちた。父上がお前に何も残さなかったのも、当然の判断だろう」
兄の言葉に、正は拳を震わせる。
「父さんはそんな人じゃない。家柄や肩書きでしか人を判断しない、お前たちとは違うんだ」
「ほお、違うと証明できるのか。この遺言状が何よりの証拠ではないか」
剣一はテーブルの上の遺言状を顎でしゃくって見せた。その目は完全に弟を見下し切っている。兄弟の対立が頂点に達しようとしていた。他の親族たちは固唾を飲んでこの修羅場を傍観している。私はこれ以上正が孤立するのを恐れて、彼の腕を必死に掴んだ。
「正木さん、やめて。もういいの」
私の声は震えていた。悔しくないわけがない。怒りが煮えくり返る思いだ。しかし、ここで感情的になれば相手の思う壺だ。私たちはただ耐え、この嵐が過ぎ去るのを待つしかなかった。
私の沈黙は、彼らの目には敗北宣言と映ったことだろう。
「まあ、奥様がそうおっしゃっていることだし、その辺りにしておきなさいな、剣一さん」
彩子は勝ち誇ったように扇子で口元を隠しながら言った。
「身の程をわきまえるというのは賢い選択よ。あなたたち夫婦には、この本邸の離れでも貸してあげなくもないわ。もちろん、家政婦として私に尽くすという条件つきだけど。くすくす」
卑しい笑い声が再び部屋に響く。私がぐっと唇を噛み締めた、その時だった。
「皆様、お静かに。遺言はまだ続きがございます」
それまで兄弟の争いを静観していた白石弁護士が、重々しく口を挟んだ。その一言で部屋の喧騒が嘘のように静まり返る。剣一も彩子も、いぶかしげな顔で弁護士に視線を向けた。
「続きだと? 主要な財産は全て兄が相続するのではないのか」
正の言葉を遮るように、白石弁護士はゆっくりと、しかしはっきりと次の言葉を紡ぎ出した。
「藤堂竜之助様は、こう続けられております」
不意の言葉に、全員が息を飲んだ。白石弁護士は改めて遺言状に目を落とすと、一言一言を区切るように読み上げた。
「ただし、私が個人名義で所有する全ての美術品コレクション、国内外の全有価証券、及び個人の全預金口座の資産については……」
弁護士はそこで一度言葉を切った。そして顔をあげると、まっすぐに私の目を見て告げたのだ。
「次男の妻、立花あずさに、その全てを相続させる」
その瞬間、応接室の時間が完全に止まった。次男の妻、立花あずさに、その全てを相続させる。白石弁護士が放ったその言葉は、まるで強力な閃光弾のように、応接室にいる全員の思考を一瞬にして麻痺させた。
水を打ったような静寂。窓の外で荒れ狂う嵐の音だけが、やけに大きく聞こえる。誰もが、自分の耳が聞いたことを信じられずに、ただ呆然と弁護士と名指しされた私、あずさの顔を交互に見比べていた。
最初にその沈黙を破ったのは、やはり長男の嫁である彩子だった。
「な、なんですって?」
その声はか細く震えていた。
「いいえ、今なんておっしゃいましたの? 私の聞き間違いですわよね」
彼女はまるで壊れた人形のように首をぎこちなく左右に振りながら、弁護士に問いかける。しかし、白石弁護士は表情を変えずに、冷酷な事実を告げた。
「いいえ、聞き間違いではございません。彩子様。遺言にはそのようにはっきりと記されております。故藤堂竜之助様の個人資産の全ては、あずさ様に相続させると」
「そんな、バカなことがあるわけない!」
彩子の顔から血の気がさっと引いていくのが見えた。それまで浮かべていた勝利者の余裕に満ちた笑みは完全に消え去り、そこには信じられないという驚愕と、裏切られたという怒り、そして底知れない焦りが入り混じった鬼のような形相が浮かんでいた。
「ふざけないで! 何かの間違いよ! お父様がこんな小娘に財産を残すはずがないじゃない!」
金切り声が部屋の空気をビリビリと震わせる。長男の剣一も、さすがに冷静ではいられなかった。
「白石先生、これは一体どういうことですか? 父の個人資産といえば、我々が相続する会社の資産にも匹敵するほどの額のはずだ。それをよりにもよって、この女に? 遺言が偽造されたという可能性は?」
剣一の問いに対し、白石弁護士は静かに首を横に振った。
「この遺言状は公正役場にて正式な手続きを経て作成された、法的に完全な効力を持つものです。偽造の可能性は万に一つもございません」
その言葉は、藤堂家の後継者を自負する剣一と彩子にとって、逃げ場のない最終宣告だった。事実だと理解した瞬間、彩子の怒りの矛先はまっすぐに私へと向けられた。
「あんたね!」
獣のような叫び声と共に、彼女は椅子から立ち上がり、テーブルを乗り出すようにして私の胸ぐらを掴まんばかりの勢いで詰め寄ってきた。
「よくも、よくもお父様を誑かしたわね。この泥棒猫が!」
その目は憎悪の炎で燃え上がり、もはや正気のそれではない。
「いつから騙していたの? あの優しいお父様に、どんな汚い手を使って取り入ったのよ。貧乏人のハイエナが、藤堂家の財産を根こそぎ盗み取るつもりだったんでしょう!」
罵詈雑言が機関銃のように私に向かって浴びせられる。
「そもそも、あなたみたいな身元の知れない女が藤堂家の敷居をまたぐこと自体、間違っているのよ。あなたの汚れた家柄がこの家の歴史を汚しているの。今すぐ、その汚い手で触れた財産を全て置いて、この家から出て行きなさい」
私はあまりの剣幕に声も出せず、ただ立ち尽くすことしかできなかった。頭の中が真っ白になり、彩子の言葉がまるで遠い国の言葉のように、意味をなさない音の列として聞こえる。なぜ義父が私に遺産を? 私には全く心当たりがなかった。
「やめろ、彩子さん。言いすぎだ」
正が私をかばうように前に立ち、彩子との間に割って入った。
「あずさがそんなことをするはずがないだろう」
しかし、今の彩子に正の言葉など届くはずもなかった。
「黙りなさい、正さん! あなたもこの女に騙されているのよ。いいえ、もしかしたらあなたもグルなんじゃないの? 夫婦揃って家を乗っ取る計画だったんでしょう!」
もはや妄想と現実の区別がついていない。剣一もそんな妻を止めるどころか、むしろ火に油を注いだ。
「まあ待て、正。彩子の言うことにも一理ある。常識的に考えて、父がこの女に財産を残す理由が見当たらない。何らかの我々の知らない裏取引があったと考えるのが自然だろう」
その言葉は、明らかに私を犯人だと断定するものだった。親族たちの視線が突き刺さるように痛い。疑惑、軽蔑、嫉妬。あらゆる負の感情が渦を巻いて、私一人に集中している。私はただ唇を噛み締め、俯くことしかできなかった。
私の沈黙が、彼らには罪を認めたように見えたのだろう。彩子の声はさらにヒステリックに高くなっていく。
「答えなさいよ、この女狐! 黙っていれば済むと思っているの?」
彼女はついにテーブルの向こう側から回り込むと、私の目の前に立ちはだかった。そして、振り上げたその手が私の頬を打とうとした。その瞬間だった。
「みっともない真似はおやめなさい」
凛とした、しかし氷のように冷たい声が応接室に響き渡った。声の主は、それまでまるで置き物のように微動だにしなかった義母のしず子だった。彼女はゆっくりと立ち上がると、燃え滾る彩子と、凍りつく私を静かに見据えていた。その目は深い湖の底のように、何を考えているのか全く読み取れない。だが、そのただならぬ威圧感に、さすがの彩子も振り上げた手を思わず下ろしていた。
しず子の突然の介入に、部屋中の誰もが息を飲んだ。彼女は私を助けようとしているのか、それともこの場で私を断罪しようとしているのか。次の瞬間、彼女の口から発せられる言葉が、この泥沼の相続劇をさらに予測不可能な方向へと導いていくことを、まだ誰も知る由もなかった。
「みっともない真似はおやめなさい、彩子さん」
しず子の研ぎ澄まされた刃のような声が、彩子の狂乱をぴたりと止めた。部屋にいる全員の視線が、ゆっくりと立ち上がったしず子に注がれる。その背筋は、もうすぐ七十になるとは思えぬほどまっすぐに伸びている。黒い留め袖に身を包んだその姿は、まるで動くことのない、威厳に満ちた肖像画のようだった。私は一瞬、義母が助け舟を出してくれたのではないかと淡い期待を抱いた。しかし、その期待は次の瞬間にはもろくも打ち砕かれることになる。
「お義母様、ですが、この女が!」
彩子がヒステリックに反論しようとするのを、しず子は冷たい視線一つで黙らせた。
「理由は後ほどゆっくりと伺います。ですが、彩子さん、あなたの今の振る舞いは、家の長男の嫁としてあまりにも品がかける。お客様の前ですよ」
お客様。その一言は、私を家族ではなく、あくまで他人として扱っているという事実を残酷なまでに浮き彫りにした。白石弁護士は藤堂家の内情を知り尽くした人物だ。その彼の前でさえ体面を保とうとする義母の態度は、私を守るためではなく、ただ藤堂家の威信を守るためだけのものだった。やはり、この家に私の味方など一人もいなかったのだ。
その事実に、彩子はすぐに気づいた。彼女の唇に再び残酷な笑みが浮かぶ。
「申し訳ございません、お義母様。私、少々取り乱してしまいましたわ。ですが、お父様の残した大切な財産が、得体の知れない女に渡ろうとしているのを見過ごすことはできません」
彼女は戦法を変えた。直接的な暴力ではなく、より陰湿で、私の心を抉るような言葉の刃を向けてきたのだ。
「いいえ、あずささん。あなた、正直におっしゃいなさいな。お父様に色目でも使ったんでしょう? 病気で弱っているのをいいことに、言いくるめて遺言状を書き換えさせたと。そうに違いないわ」
「そ、そんな! あまりにも下劣な言いがかりです!」
私は絶句した。義父の竜之助は厳格な人だったが、病床に臥せってからは時折、穏やかな表情を見せることもあった。私はただ妻として、家族の一員として、できる限りの看病をしただけだ。そこに卑しい気持ちなど微塵もなかった。しかし、私の否定の言葉は誰の耳にも届かない。
「動揺しているんでしょう? 図星だからそんなにうろたえるのよ」
彩子は確信に満ちた声で続ける。
「剣一さん、こんな女をこれ以上この家に置いておくわけにはいきませんわ。今すぐ警察を呼びましょう。遺産目当ての詐欺。いいえ、もしかしたらお父様の死に、この女が関わっている可能性だってありますわよ」
警察という言葉に、親族たちがざわめき立つ。
「おいおい、穏やかじゃないぞ」
「しかし、彩子さんの言うことにも一理あるかもしれん」
「そうだ。あんな大金が、この家に嫁いだばかりの女に渡るなんて、どう考えてもおかしい」
さっきまで高みの見物を決め込んでいた親族たちが、次々と彩子の意見に同調し始める。彼らの目に宿るのは、私への敵意と、遺産を横取りされたことへの見苦しい嫉妬の色だった。完全な袋叩き。私はまるで公開裁判にかけられた罪人のように、無数の非難の視線に晒されていた。
「みんな、やめてくれ! あずさはそんなことをする人間じゃない!」
夫の正が必死の形相で叫ぶ。
「父さんの看病を、誰よりも熱心にしてくれたのはあずさなんだ。それを、どうしてそんな風に言えるんだ!」
しかし、彼の必死の叫びは、多勢に無勢。兄の剣一が冷たく言い放った。
「正、お前は黙っていろ。お前もこの女に騙されているんだ。それとも、やはりグルなのか。藤堂家の恥晒しめ」
実の兄からの侮辱に、正は悔しさに唇を噛み締めた。自分のせいで、愛する夫までが家族から罵倒されている。その事実が、私の胸を鋭いナイフのように突き刺した。ごめんなさい、正木さん。ごめんなさい。心の中で何度も繰り返す私は、この家に来たばかりに。
弁解しようとしても、言葉が出ない。私自身、なぜ義父が私に遺産を残したのか、その理由が全くわからないのだ。理由が分からなければ、潔白を証明することなど出来はしない。私の沈黙は、彼らの疑惑をさらに深い確信へと変えていった。
この地獄のような状況を、しず子はただ静かに、能面のような無表情で見つめていた。そして、全ての議論が出尽くしたかのように思われた、その時。彼女はゆっくりと私の方に顔を向けると、初めて私個人に向かって言葉を発した。
「あずささん」
その声は冬の湖のように静かで冷たかった。
「あなたにお伺いします。あなたに、その莫大な遺産を受け取る資格が本当にあると思いますか?」
その問いは、まるで私の心の最後の拠り所を巨大な鉄槌で打ち砕くかのようだった。義母からの決定的な拒絶。全身の力が抜けていく。目の前がぐにゃりと歪む。彩子の勝ち誇った高笑いが、耳の奥で不気味に反響した。もうだめだ。意識がゆっくりと暗い闇の中へと沈んでいくのが分かった。しず子の冷たい問いかけが、最後のとどめだった。
全身から力が抜け、視界が急速に回転していく。ああ、もうだめだ。このまま意識を手放してしまいたい。そう思った瞬間、私の脳裏にふと、ある光景がまるで走馬灯のように鮮やかに蘇った。それは義父の竜之助が亡くなる数週間前のことだった。その日も私は一人で彼の病室の世話を焼いていた。看護師が交代して部屋を出ていった後の静かな午後の一時。窓から差し込む日差しが、部屋を暖かな色に染めていた。普段はほとんど口を開くこともなくなっていた義父が、その日は珍しく、か細い声で私を呼んだのだ。
「あずさ」
「はい。お父様、何かご入用ですか?」
私がベッドのそばに駆け寄ると、義父は骨ばった手で私の手を弱々しく握った。その手は驚くほど冷たかった。
「よくやってくれている。感謝している」
途切れ途切れの、しかし心のこもった言葉だった。結婚を許されてから、義父に褒められたことなど一度もなかった私は、その一言だけで胸が熱くなるのを感じた。
「そんな、私は家族として当たり前のことをしているだけです」
私がそう答えると、義父は静かに首を横に振った。
「いや、お前はこの腐った藤堂家の中で、たった一つの光だ」
その言葉の意味が、私には理解できなかった。戸惑う私に、義父は枕元に置いてあった手のひらに収まるほどの小さな古い桐の箱を指さした。
「これをお前に託す」
私がその桐の箱を手に取ると、義父は最後の力を振り絞るようにこう言ったのだ。
「いいか、よく聞け。これは藤堂家の未来だ。私が死んだ後、もしお前の身に理不尽な災いが振りかかった時、その時だけこれを開けることを許す。それまでは、決して誰にもこの箱の存在を知られてはならん」
その真剣な眼差しは、病の重さを感じさせないほど強かった。私はただならぬその雰囲気に飲まれ、わけもわからないまま深く頷くことしかできなかった。
「約束だぞ」
それが、私が義父とした最後のまともな会話だった。
「あずささん! しっかりしろ!」
正の必死な声で、私は現実に引き戻された。目の前には、心配そうに私の顔を覗き込む彼の顔があった。どうやら私は、気を失いかけていたらしい。
「大丈夫か? 顔が真っ青だぞ」
「ええ、大丈夫。ごめんなさい」
私はふらつく体をなんとか支えながら立ち上がった。そして、ふと思い出したのだ。義父から託された、あの桐の箱の存在を。あれは一体何なのだろうか。藤堂家の未来。理不尽な災いが振りかかった時だけ開けることを許す。今がまさに、その時なのではないか。あの箱の中身を明かせば、この絶望的な状況を打開できるかもしれない。私の潔白を証明できるかもしれない。しかし、義父の「誰にも知られてはならん」という言葉が、重く私の心にのしかかる。もし、あの箱の存在を明かしたことで義父の最後の願いを裏切ることになったら。もし、あの箱の中身が私の想像を絶するようなとてつもないものだったとしたら。私にはまだ、その覚悟ができていなかった。それに、私を信じて託してくれた義父の信頼。こんな金に目がくらんだ親族たちの前で、白日のもとに晒してしまっていいものだろうか。
いや、だめだ。まだその時ではない。私はぐっと唇を噛み締め、再び沈黙を選んだ。私の中に一筋の光が灯ったことに、まだ誰も気づいていない。彼らには、私がただ絶望しているようにしか見えていないだろう。その証拠に、私が意識を取り戻したのを見ると、彩子は待っていましたとばかりに、さらに追い詰めてきた。
「あら、貧血かしら? それとも罪悪感で倒れそうになったのかしら?」
嫌味ったらしい声で彼女は言う。
「お義母様、ご覧ください。この女、何も言い返せませんわ。これはもう罪を認めたも同然です。これ以上、この場に置いておくのは我慢がなりません」
そして彼女は、部屋の隅に控えていた屈強な体つきの男性二人に顎で命令した。
「あなたたち、何をしているの? さっさとこの泥棒猫を捕まえて、離れの物置きにでも放り込んでおきなさい。警察が来るまで、一歩も外に出してはだめよ」
「な、何をするんだ!」
正が私を守ろうと両手を広げるが、大柄な男二人には到底敵わない。男たちが無慈悲な手付きで、私の両腕を掴んだ。
「やめて! 離して!」
私が抵抗しても、ビクともしない。まるで罪人のように両腕を後ろにねじ上げられ、引きずられていく。親族たちは誰一人として、私を助けようとはしない。それどころか、好奇心と軽蔑の視線を私に投げかけてくる。私は絶望的な状況の中、ただ一人、義母のしず子を最後の望みを託すように見つめた。彼女だけが、まだ何も言っていない。しかし、しず子は私と視線を合わせようともせず、ただ静かに目を伏せるだけだった。その姿は、まるでこれから起こる全てのことを是認しているかのようだった。
ああ、やはりこの人も、私の敵だったのか。私の最後の希望は、無惨にも打ち砕かれた。
「さあ、行きなさい」
彩子の甲高い声が背中に突き刺さる。私は為す術もなく、応接室から引きずり出されていく。雨音が激しく響く、暗く冷たい廊下へと。このまま私は、本当に犯罪者にされてしまうのか。義父が残してくれた、たった一つの希望の光も使えないまま、私の運命はもうここまでなのだろうか。
冷たい雨が容赦なく打ちつける中、私は本邸から少し離れた古い土蔵のような物置きへと引きずられていった。
「さっさと入れ」
男たちの乱暴な手付きによって、私は暗く冷たいコンクリートの床へと力任せに投げ出された。肩から床に落ち、全身に走る鈍い痛みに顔をしかめる。埃とカビの入り混じった、蒸せ返るような匂いが鼻をついた。開け放たれた外の扉の向こうでは、稲妻が空を引き裂き、不気味な雷鳴が轟いている。夫の正は、きっと本邸で剣一たちに力づくで抑えつけられているのだろう。彼の声は、もうここまでは届かなかった。
私が身を丸めたまま息を吐いていると、嵐の音に混じって、コツコツというヒールの足音が近づいてきた。顔をあげると、そこには黒い傘を差した義姉の彩子が立っていた。彼女は泥水にまみれた私の姿を、まるで埃の中で蠢く虫けらでも見るかのような、この上なく冷酷な目で見下ろしていた。
「ふふふははは」
突然、彩子の狂気を帯びた高笑いが、薄暗い物置きの中に反響した。
「本当に、あなたみたいな薄汚いネズミにはお似合いの場所だこと。パートの安物の服も、すっかり泥だらけね。ようやく自分の身の程が分かったかしら」
その顔は、普段の上品なお嬢様の仮面が完全に剥がれ落ち、見苦しい優越感と憎悪でどす黒く歪んでいた。彼女は傘を畳むと、男たちに「外で見張っていなさい」と指示を出し、重い扉を半分ほど閉めた。
「さあ、洗いざらい吐きなさい。お父様にどんな卑劣な手を使ったの? それとも、あのボケた頭をいいことに、あなたが勝手に遺言状を偽造したんでしょう」
彩子が私の顔を覗き込むようにして怒鳴りつける。しかし、私は固く唇を噛み締め、彼女をまっすぐに睨み返したまま、一言も発しなかった。ここで私が何を言おうと、彼女が信じるはずがない。それに、義父から託されたあの桐の箱の秘密だけは、何があっても守り抜かなければならない。義父が私に見せてくれた、あの最後の信頼の眼差しを裏切ることだけは、絶対にできないのだ。
私の沈黙が、彼女の神経に触ったのだろう。
「何よ、その反抗的な目は! まだ自分が藤堂家の人間だとでも思っているの?」
ヒステリックな叫び声と共に、彩子の尖ったヒールの先が、私の脇腹に容赦なく蹴り込まれた。息が詰まるほどの激痛に、私はうずくまり、冷たい床に額を擦りつけた。
「答えなさい! 中卒の貧乏人の両親から生まれた分際で、私たち高貴なる一族の財産をかすめ取ろうなんて、図々しいにも程があるのよ!」
さらに、背中へ、腕へ、そして足へと、雨あられのように蹴りが飛んでくる。
「泥棒猫! 寄生虫! さっさと遺産を放棄すると言いなさい!」
「うああっ」
私は両手で頭をかばいながら、ただひたすらに痛みに耐え続けた。口の中が切れ、鉄の味が広がる。どんなに打ち据えられても、決して口を割るものか。私のその意地が、彩子の狂気をさらにエスカレートさせていく。
「まだ黙っているつもり? 本当に目障りな女ね」
彩子は物置きの隅に立てかけられていた、古くて太い木の棒を手に取った。かつて農作業で使われていたようなものを、彼女はおもむろに手に取った。
「これでも、まだその不遜な態度を崩さないつもり?」
ふん、と風を切る音がしたかと思うと、私の背中に鈍い衝撃が走った。
「ああっ!」
悲鳴を上げる間もなく、二発、三発と木の棒が私の体を打ち据える。ついに一撃が私の額をかすめ、生温かい液が頬を伝っていくのが分かった。
「はあはあ、さあ、言いなさい。遺産は全て放棄します、私のようなゴミクズにはもったいないお金でした、と。今すぐここで土下座して叫びなさいよ!」
肩で息をしながら、狂ったように笑う彩子。私は全身の骨が砕けたかのような激痛に、意識が遠のきながらも、血の混じった唾を床に吐き捨て、震える声で絞り出した。
「絶対に……言わない。お義父様の遺志は、私が守る」
その言葉が、彩子の逆鱗に完全に触れた。
「この期に及んで、まだそんな口を叩くのね! いいわ。今日こそ、あなたに身の程というものを、骨の髄まで叩き込んであげる!」
彩子が今までで一番大きく木の棒を振り上げた。その目は血走り、完全に殺意を帯びていた。ああ、正木さん、ごめんなさい。逃げる力も残っていない私は、覚悟を決めてぎゅっと目を閉じた。しかし、その最後の一撃が私に振り下ろされることはなかった。
「そこまでになさい」
突如として、背後の半分開いた扉の隙間から、血を吐くような恐ろしく冷ややかな声が響いた。嵐の雷鳴すらもかき消すほどの、静かで圧倒的な威圧感を持った声。振り上げられた木の棒を持ったまま、彩子が凍りついたように振り返る。薄れゆく私の視界の先に、黒い影がゆっくりと物置きの中へと足を踏み入れてくるのが見えた。
「お、お義母様?」
彩子の震える声が、物置きの中に響いた。そこに立っていたのは、先ほどまで応接室で私を見捨てたはずの義母、しず子だったのだ。なぜ義母がここに? 私を完全に追い出すための最後通告でもしに来たのだろうか。絶望の淵に立たされた私の前で、義母は信じられない行動に出たのだった。
「そこまでになさい」
薄暗い闇の中に、しず子の凛とした声が響き渡った。稲妻がひらめき、一瞬だけ物置きの中が青白く照らされる。そこに立っていたのは、漆黒の和傘を差し、雨に濡れることも顧みずこちらを見据える義母の姿だった。
「お、お義母様」
木の棒を持ったまま、彩子は驚きに目を丸くした。しかし、すぐに彼女の顔に阿諛の笑みが浮かぶ。応接室での義母の態度を見て、完全に自分の味方だと思い込んでいるのだ。
「ちょうど良かったですわ、お義母様。ご覧ください。この泥棒猫の無様な姿を」
彩子は血と泥にまみれて倒れ伏す私を指差し、勝ち誇ったように言い放った。
「応接室でお義母様が何もおっしゃらなかったので、私、お義母様のお心を察しましたの。この図々しい女に、藤堂家の恐ろしさを教えてやろうと。さあ、今すぐ遺産放棄の念書を書かせますわ」
興奮で鼻息を荒くする彩子。彼女の口から飛び出すのは、私を人間とも思わない侮辱の言葉ばかりだった。私は痛みに耐えながら、ただ黙って義母を見つめた。これで本当に終わりだ。義母もまた、彩子と一緒になって私を辱め、冷たく断罪するのだろう。私は覚悟を決め、ぎゅっと目を閉じた。その時だった。
パァン! 雷鳴よりも鋭い、乾いた破裂音が物置きの中に響き渡った。私が恐る恐る目を開けると、そこには信じられない光景が広がっていた。木の棒を取り落とし、自分の頬を両手で抑えて床にひれ伏している彩子。そして、その目の前で静かに右手を下ろす、義母の姿があった。義母が、長男の嫁である彩子を、全力で平手打ちしたのだ。
「お、お義母様! なぜ!」
頬を真っ赤に腫らした彩子が、信じられないという顔で義母を見上げる。そんな彼女を、義母はまるで汚物でも見るかのような、冷たい瞳で見下ろしていた。
「黙りなさい。この下品な女」
その一言は、いつもの静かで上品な義母からは想像もつかないほど、激しい怒りに満ちていた。
「自分の欲望のためなら、人を傷つけることも厭わない。お前のような浅ましい女が、藤堂の家名を名乗ること自体、虫酸が走ります」
「な、何を!? 私は家のために、この寄生虫を!」
「寄生虫はお前の方ですよ、彩子さん」
義母の鋭い言葉に、彩子は絶句し、口をぱくぱくと金魚のように動かすことしかできなかった。義母はそれ以上彩子を一瞥することもなく、ゆっくりと私の方へと歩み寄ってきた。そして、泥だらけのコンクリートの床に、高級な黒留袖が汚れるのも構わず、静かに膝をついたのだ。
「お、お義母様?」
私が驚きで声を震わせると、義母は懐から真っ白なハンカチを取り出し、私の額から流れる血を、ひどく優しい手つきで拭い始めた。
「痛かったでしょう、あずささん。ごめんなさいね。私がもっと早く、気付くべきでした」
その声は、これまで私に向けられていた冷たい声とはまるで違う。まるで傷ついた我が子を慰め慈しむような、温かく、そして微かに震える声だった。
「どうして、私なんかに……」
私が呆然と呟くと、義母は私の泥だらけの手を両手でしっかりと包み込んだ。
「あなたは、私なんかではありません。あの日、竜之助さんが倒れた夜。誰もが自分の遺産の取り分ばかりを気にして、近づこうともしなかった時。ただ一人、夫の手を握り、涙を流してくれたのは、あなただけでした」
義母の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
「竜之助さんは、全てを見ておられたのです。誰が本当にこの家を思い、誰が財産だけを狙っているのかを。あずささん、あなたは私の、大切な娘です」
その言葉に、私の目からも止めどなく涙が溢れ出した。ずっと孤独だと思っていた。ずっと嫌われていると思っていた。しかし、義母はちゃんと私を見ていてくれたのだ。
「何よ、それ! 正気ですか、お義母様!?」
背後で我に返った彩子が、狂ったように金切り声をあげた。
「こんな貧乏人の小娘に誑かされて! いいえ、絶対に許しませんわ! 外にいる男たち、早く入ってきなさい! この女を叩き出しなさい!」
彩子の怒号に答え、外で見張っていた屈強な男たちが入ってきた。しかし、彼らは私ではなく、なんと彩子の両脇をがっちりと取り押さえたのだ。
「な、何をするのよ! 離しなさい! 私を誰だと思っているの!?」
暴れる彩子をよそに、義母はゆっくりと立ち上がり、振り返った。
「その男たちは、私の私兵です。剣一やあなたが雇ったような、金で動くチンピラとは違うのですよ」
義母はそう冷たく言い放つと、再び私に向き直り、信じられない言葉を口にした。
「あずささん。あなたが、夫との約束を身を挺して守り抜いてくれて、本当にありがとう。ええ、夫があなたに託したあの桐の箱。あれを開ける時が、ついに来ました」
私は雷に打たれたような衝撃を受けた。桐の箱。それは病室で義父が私にこっそりと渡し、「誰にも知られてはならん」と約束したはずの秘密だ。なぜ義母がその存在を知っているのか。そして、あの箱の中には一体何が隠されているというのか。
「桐の箱ですって!? 何よそれ!? 聞いてないわよ!」
両脇を屈強な男たちに抑えつけられた彩子が、見苦しく身をよじりながら金切り声をあげた。先ほどまでの、私を虫けらのように見下していた傲慢な態度はどこへやら。今の彼女の顔には、理解不能な事態に対する明らかな焦りが浮かんでいた。
「お義母様! ボケた父様が残した遺言が何だって言うんです! 剣一さんは藤堂ホールディングスの全株式を相続したのよ! つまり、藤堂家の実権は完全に私たち夫婦にあるの! そんなどこの馬の骨とも分からない女と繋がったって、何の役にも立たないわ!」
彩子の口から次々と飛び出す侮辱の言葉。しかし、私は何も言い返さなかった。いや、言葉が出なかったのだ。全身の痛みもさることながら、義母がずっと私を見ていてくれたという事実。そして、誰にも言っていないはずの桐の箱の存在を知っていたという衝撃で、私の頭はキャパシティを超えていた。私はただ沈黙したまま、静かに義母の横顔を見つめることしかできなかった。
義母は喚き散らす彩子を一瞥すると、哀れむように目を伏せた。
「本当に救いのない女ですね。目先の金と権力に目がくらみ、本質が全く見えていない」
「ほ、吠え面かきなさいよ! 負け惜しみを言わないでちょうだい!」
彩子が必死に強がるが、その声は微かに震えていた。絶対的な味方だと思っていた義母の離反。そして、見知らぬ屈強な私兵たちの存在。彼女の足元が、音を立てて崩れ始めている証拠だった。
「あなたたち、彩子を応接室へ連れて行きなさい。決して逃さないように」
義母が短く命じると、男たちは「はっ」と短く答え、暴れる彩子を引きずりながら、雨が降りしきる外へと出ていった。
「離しなさい! 話せって言ってるでしょう、剣一さん!!」
遠ざかっていく彩子の悲鳴じみた叫声が、雷鳴にかき消されていく。静寂が戻った薄暗い物置きの中で、義母は再び私に向き直り、泥だらけの私の肩を優しく支え起こしてくれた。
「立てますか? あずささん。痛むでしょうが、もう少しだけ頑張ってちょうだい。あの中にいる欲にまみれた愚か者たちに、最後の引導を渡さなければなりません」
「はい、お義母様」
私は義母の腕を借りて、ふらつく足でなんとか立ち上がった。不思議と、先ほどまでの絶望感は消え去っていた。義母の温かい手が、私に前を向く勇気を与えてくれていたのだ。
「お義母様。一つだけ教えてください」
雨の中を本邸へ向かって歩きながら、私はずっと気になっていたことを尋ねた。
「なぜ、あの桐の箱のことを……」
私の問いに、義母は前を向いたまま、静かに微笑んだ。
「竜之助さんから、全て聞かされていましたから。自分が死んだ後、剣一や親族たちがどう動くか。そして、あなたにどれほどの理不尽な思いをさせることになるか。あの人は、自分の命が長くないと悟った日から、ずっとこの日のための準備をしていたのですよ」
「準備……」
「ええ。藤堂家という、根腐れした巨木を根本から切り倒し、新しい芽を育てるための準備です」
さあ、行きましょう。正木さんも待っていますよ。私たちが応接室の前にたどり着くと、中からは長男の剣一の怒声が響いてきた。
「おい、彩子に何をしている!? その手を離せ!」
義母が静かに頷くと、私兵の一人が応接室の大きな両開きの扉を、ばちんと勢いよく開け放った。部屋の中の光景は異様なものだった。夫の正は、複数の親族の男たちに床に押さえつけられ、顔には殴られたような跡ができている。そして中央では、剣一が私兵に拘束されて、髪を振り乱した妻の彩子を見て、目を血走らせて絶叫していた。
「母さん、一体何の真似ですか!? なぜ彩子がこんな目に!? それに、その女を物置きに閉じ込めておけと言ったはずだ!」
剣一が、血と泥にまみれた私を睨みつけながら叫んだ。
「あ、あずさ! 無事だったか!」
正が私に気づき、声をあげる。私は小さく頷いて見せた。義母はゆっくりと部屋の中央へ進み出ると、まるで虫けらを見るような目で長男を見据えた。
「剣一さん。あなたの妻は、藤堂家の御家門であるあずささんに暴行を加えました。これは立派な傷害罪。警察に突き出しても構わないのですよ」
「御家門だと!? ふざけるな! そんな貧乏人の女が、御家門なわけがないだろう! 大体、家の権を握ったのは俺だ! 俺の妻を罪人扱いするなど、絶対に許さんぞ!」
剣一は遺言状のコピーが置かれたテーブルを叩き、顔を真っ赤にして凄んだ。
「白石先生!」
剣一は顧問弁護士を振り返る。
「先生からも言ってやってください。俺が藤堂ホールディングスの実質的トップであり、この家の決定権を持っているのだと」
しかし、白石弁護士は剣一の言葉には応じず、ただ静かに眼鏡の位置を直すだけだった。その反応に、剣一の顔に初めて戸惑いの色が浮かぶ。
「先生? どうしたんですか?」
義母は小さく吐息をついた。
「本当に、あなたは父親の足元にも及ばない愚か者ですね。剣一さん。あなたは気づいていないのですか? なぜあの用心深い父親が、あなたに会社の全てなどという、見え透いた巨大な権力を簡単に与えたのかを」
「んだと?」
剣一が息を飲む。部屋にいた親族たちも、水を打ったように静まり返った。義母は振り返り、私に優しく声をかけた。
「あずささん。持っていますね」
私は深く頷き、自分の服の内側に大切に隠し持っていた、あの桐の箱をゆっくりと取り出した。それを見た瞬間、白石弁護士の顔つきが、はっと鋭く変わった。
「まさか、それは!」
義母の冷酷な宣告が、応接室に響き渡る。
「剣一さん。あなたが相続したその株式は、あなたを頂点に立たせるためのものではありません。あなたを地獄の底へ引きずり落とすための、自爆装置なのですよ。箱の中に眠る、藤堂家の最大の秘密とは」
剣一の顔から、一気に血の気が引いていった。
「自爆装置? はっ、何を馬鹿なことを言っているんですか、母さん!」
剣一の乾いた笑い声が、張り詰めた空気を切り裂いた。彼は私が手にしている小さな桐の箱を小馬鹿にするように指差した。
「藤堂ホールディングスは、日本経済を支える大企業だぞ。そのトップに立つ俺が地獄に落ちる? この薄汚い貧乏人の女が持っている、古臭い箱一つで、俺の地位が揺らぐとでも思っているのか?」
私兵に拘束されながらも、彩子が剣一に同調して金切り声をあげた。
「そうですわ! この泥棒猫の分際で偉そうに! どうせその中身も、底辺の貧乏人が考えたような、くだらない偽造書類に決まってますわ! 中卒レベルの知能しかないくせに、私たち華麗なる一族を騙せると思っているの?」
親族たちも、くすくすと嘲笑を漏らし始める。
「全くだ。あんな箱一つで大逆転なんて、ドラマの見過ぎじゃないのか」
「所詮、育ちの悪い人間は、考えることも浅はかだな」
浴びせられる侮辱の言葉の数々。しかし、私は一言も言い返さなかった。ただ固く口を結び、静かに彼らを見据える。私が反論しないことで、剣一たちはさらに図に乗り、自分たちの勝利を確信したような卑しい笑みを浮かべていた。だが、私は知っている。私の沈黙は敗北ではない。彼らが自ら掘った墓穴の中で、気持ちよく踊らせておくための時間なのだ。
「開けなさい、あずささん。その愚か者たちの目を、覚まさせてやりなさい」
義母の静かで力強い言葉に、私は深く頷いた。かちりと留め金を外し、ゆっくりと桐の箱の蓋を開ける。全員の視線が私の手元に集中した。箱の中に収められていたのは、使い込まれた黒い革表紙の手帳と、古びた真鍮の鍵だった。それを見た瞬間、それまで冷静を保っていた白石弁護士が、声を変えて一歩前に出た。
「そ、それは!? まさか、大旦那様がずっと肌身離さずお持ちだったという、裏帳簿と、あの貸金庫の鍵ですか!?」
「う、裏帳簿だと!?」
剣一の顔から、さっと余裕の笑みが消え去った。白石弁護士は震える手でメガネのブリッジを押し上げると、信じられないものを見るような目で剣一を睨みつけた。
「剣一様。まさかとは思っておりましたが、やはりそうだったのですね。あなたは過去五年間、海外のダミー会社を利用して、会社の資金を個人的な不動産投資へと密かに流用していた。そして、その投資は完全に失敗し、現在藤堂ホールディングスには、表の帳簿には乗っていない五百億円の隠し負債が存在している。五百億円です」
部屋中の親族たちから、悲鳴にも似た驚きの声が上がった。彩子も、目を見開いて夫を睨みつける。
「ちょっと、剣一さん! 何ですの、その五百億って!? 私、そんな話、一言も聞いてませんわよ!」
「違う! あれは一時的な損失で、すぐに回収できる見込みが……」
後ずさる剣一。しかし、白石弁護士の口調は容赦なかった。
「之助様は半年前に、あなたのその愚行に気づかれておられたのです。しかし、大げさにすれば会社は即座に倒産し、罪のない何千人もの社員が路頭に迷う。だからこそ、大旦那様はご自身の個人資産を切り売りして、会社の有望な事業だけを別の新会社へと、密かに移しておられたのです」
白石弁護士の言葉に、私は息を飲んだ。義父が私に残してくれた莫大な個人資産や有価証券。それは単なるお金ではなく、義父が血を吐くような思いでかき集め、守り抜いた藤堂家の真の命脈だったのだ。
「つまり、剣一さん」
義母が冷たく言い放つ。
「あなたが嬉々として相続した藤堂ホールディングスの全株式とは、中身が空っぽになった上に、五百億円の負債だけが押し付けられた、ただの泥舟ということです。代表取締役となったあなたの元には、明日から地獄のような取り立てが押し寄せるでしょうね」
「嘘だ、嘘だ、嘘だ! 俺が五百億の借金を背負うだと!? ふざけるな! そんなもの、俺は認めない! 株式の相続は、今すぐ放棄してやる!」
剣一は頭を抱え、発狂したように叫んだ。しかし、白石弁護士が冷ややかに首を振った。
「残念ですが、先ほどあなたは私の前で堂々と遺言書の内容を承認し、相続すると宣言されました。すでに法的な手続きは完了しております。今更、逃げることは不可能です」
絶望で膝から崩れ落ちる剣一。
「いや、待て。まだだ。まだ終わってない。俺にはこの本邸がある。軽井沢の別荘もある。この広大な土地と屋敷を売却すれば、数十億にはなるはずだ。それを元に……」
必死に算段を始めた剣一を見て、義母は氷のように冷たい微笑を浮かべた。
「本当に、どこまでも浅墓な男ですね。あずささん。その黒い手帳の最初のページを開いて、声に出して読んであげなさい」
私は言われた通りに手帳を開いた。そこには、義父の力強い筆跡で、信じられない事実が記されていたのだ。私はその一文を目にした瞬間、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「まさか、お義父様。これを……」
私が震える声で呟くと、剣一と彩子が形相を変えて私を睨みつけた。手帳に書かれていた、藤堂家に関する最大の事実とは。彼らの最後の希望すらも完全に打ち砕く、恐るべき真実がそこには隠されていた。
手帳の最初のページ。そこには、震える筆跡でありながらも、義父の竜之助のかくたる意志が込められた文字が並んでいた。私は部屋中に響き渡るよう、ゆっくりとはっきりとした声でそれを読み上げた。
「剣一が相続した本邸、並びに軽井沢の別荘について。これらの不動産は、剣一が作った裏帳簿の負債を一部補填するため、すでに私の個人資産管理会社が買い取り、所有権の移転登記を完了している」
剣一の喉から、蛙が潰されたような奇妙な声が漏れた。私は構わず、次の文章を読み上げる。
「剣一が相続したように遺言状に記したのは、彼にこの屋敷の莫大な固定資産税と、過去五年間に渡る数億円の未払いや、支払い義務のみを負わせるための罠である。これらの不動産の実質的な所有者及び債権者は、私の全個人資産を受け継ぐ、立花あずさとなる」
その瞬間、応接室は水を打ったように、いや、まるで真空状態にでもなったかのような静寂に包まれた。剣一は口を半開きにしたまま、私が持つ黒い手帳と、白石弁護士の顔を交互に見つめている。
「そ、そう。所有権が移転されているだと?」
剣一の顔は、もはや青ざめるを通り越して、蝋色になっていた。
「俺が相続したのは、家ではなく数億円の未払い家賃と、税金の支払い義務だけだと!?」
「その通りです」
白石弁護士が、事務的な声で冷酷に告げた。
「この屋敷は、すでにあずさ様のものです。あずさ様が出ていけと一言おっしゃれば、剣一様と彩子様は、今この瞬間からホームレスとなります。それに加えて、五百億円の隠し負債と、数億円の家賃滞納。もはや、自己破産すらままならないでしょう」
「嘘だ、嘘だ、嘘だ! 俺は長男だぞ! 家を継ぐと選ばれた人間だ! それが、こんな、こんな貧乏人の小娘に、全てを奪われるなんて! 認めない! 絶対に認めないぞ!」
完全にパニックに陥り、錯乱する夫を見て、妻の彩子もまた狂ったように叫び始めた。
「ふざけないでよ! こんなの、何かの間違いに決まってるわ! あんたみたいな、町工場上がりの低学歴な貧乏人が、この藤堂家の本邸の主になるですって!? 相続だの財産だの、どうせ漢字もまともに読めないくせに! あんたはただ、ボケた父様に利用されただけの、哀れな操り人形よ! どうせその手帳も、あんたがこそこそと偽造したんでしょう! この薄汚い詐欺師! 何か言いなさいよ!」
怒りで顔を真っ赤に腫らし、唾を飛ばしながら喚き散らす彩子。先ほどまでのお嬢様としての気品など微塵もない。そこにあるのは、金と地位への執着だけで構成された、見苦しい獣の姿だった。しかし、私は彼女の罵倒に対し、ただの一言も言い返さなかった。言い返す必要など、全く感じなかったのだ。私が選んだのは、静かな沈黙だった。悲鳴を上げて威嚇するだけの犬を前にして、まともに相手をする人間はいない。私はただ、底なしの沼へと沈みゆく彼らを、静かに、そして哀れみを持って見下ろすだけだった。
私のその沈黙が、逆に彩子のプライドをズタズタに引き裂いたのだろう。
「何よ、その目は! 私を見下すんじゃないわよ! 答えなさい! この寄生虫!」
私兵に抑えつけられながらも、彩子は私に飛びかかろうと必死にもがいている。その時だった。
「もうやめろ、彩子さん。これ以上、自分の無様を晒すのは見苦しいぞ」
部屋の片隅から、静かな、しかし威圧感を放つ声が響いた。全員の視線が、声の主へと向かう。そこに立っていたのは、私の夫だった。彼は、先ほどまで親族の男たちに押さえつけられていたはずだった。しかし、男たちは正の突然の変化に気を取られ、いつの間にかその手を離してしまっていたのだ。正は乱れたネクタイをゆっくりと締め直し、服の埃を払いながら、ゆっくりと私たちの中心へと歩み出てきた。その顔つきは、いつも私に見せてくれる優しい夫の顔でも、兄たちに虐げられていた気弱な男の顔でもなかった。鋭く、冷徹で、毅然とした、まるで若き日の義父を彷彿とさせるような堂々たる姿だった。
「ま、まさお前、何を言って……」
床に這いつくばった剣一が、戸惑いの声をあげる。正は兄を冷たく見下ろして、ふっと笑った。
「父さんが、なぜ半年前にあなたの裏帳簿の存在に気づけたと思う? 巧妙に隠蔽された海外のダミー会社の資金ルート。病身の父さんが、一人で暴けるはずがないだろう」
剣一が息を飲む。私も驚いて、正の顔を見つめた。
「父さんの手足となり、兄さんの横領の証拠を全て集め、裏帳簿として完璧な証拠を固めたのは、他でもないこの俺だよ」
「な、なにが嘘だ! お前はただの平社員で、経営の知識なんて!」
「俺が公認会計士の資格を持ち、裏で父さんの匿名監査役として動いていたことを、兄さんは知らなかっただけだ。俺は兄さんたちを油断させるために、わざと出来の悪い弟を演じ続けていたんだから」
その言葉に、応接室は再び深い衝撃に包まれた。一番の無能だと思われていた次男が、実は誰よりも優秀で、義父と共にこの大逆転のシナリオを書き上げていたのだ。
「じゃ、じゃあ、あなたがあずささんを嫁に迎えたのも……」
彩子が震える声で訪ねると、正は私を振り返り、優しく微笑んだ。
「ああ。あずさがどれだけ純粋で、誰よりも信頼できる人間かを知っていたからこそ、父さんは彼女に藤堂家の全財産を託す決断をしたんだ。彩子さんのいじめを黙認しているように見せたのも、兄さんたちが完全に尻尾を出す、今日という日まで計画を悟られないようにするためだった。すまなかったな、あずさ。辛い思いをさせて」
「正木さん……」
私は、涙で視界がにじむのを止められなかった。彼は私を裏切っていなかった。ずっと、私と家の未来を守るために、孤独な戦いを続けてくれていたのだ。
「騙したな! 弟の分際で、俺を嵌めたのか!」
剣一が怒り狂い、正に向かって飛びかかろうとした。しかし、正は一歩も引かず、氷のような目で兄を睨み返した。
「俺たちを恨むのは、筋違いだぞ、兄さん」
「それに、まだ終わっていない」
正は、はっと息を飲む彩子の方へと、ゆっくり視線を移した。その瞳の奥には、これまで見たこともないような冷酷な光が宿っていた。
「彩子さん。あなたは先ほどから、自分の実家である老舗呉服屋の家柄を笠に着て、あずさを貧乏人と見下していましたね」
「そ、そうよ。それが何か?」
「事実? 本当にそう思っているなら、あなたはあまりにも無知だ」
正が懐から一枚の書類を取り出し、彩子の目の前に突きつけた。
「これからお話しするのは、あなたの実家に関する最大の事実です。これを聞けば、あなたがどれだけ無知蒙昧な存在だったか、嫌でも理解できるでしょう」
彩子の顔から、最後の一滴まで血の気が引いていった。正が突きつけた一枚の書類。それは、高級紙に捺印された、どこか見覚えのある社名の入った株式譲渡証明書だった。両脇を私兵に抑えつけられたまま、彩子は首を伸ばしてその文面に目を走らせる。数秒後、彼女の顔からすうっと血の気が引き、真っ赤に塗られた唇が、かたかたと震え始めた。
「な、何これ? 嘘でしょ?」
「嘘ではありません。紛れもない、あなたの実家である後藤家の真実の姿です」
正は冷たく言い放った。
「老舗呉服屋の一人娘として、あなたは願うごとにあずさを育ちが悪い貧乏人と見下してきましたね。ですが、後藤家は、あなたの父親の無謀な先物取引の失敗により、すでに五年前、実質的に倒産状態に陥っていたんです」
「倒産!?」
親族たちがざわめき立つ。名門と聞かされていたあの後藤家が、実は火の車だったという事実は、彼らにとっても寝耳に水だったようだ。
「ち、違うわ! 嘘よ! 私のお父様が、そんな失敗をするはずがない! あの工場は、後藤家の誇りよ! あなた、この泥棒猫をかばうために、でっち上げの書類を作ったのね! そうよ、この貧乏女を少しでも立派に見せるための、卑劣な罠だわ!」
どこまでも自分の非を認めず、私への侮辱を繰り返す彩子。しかし、彼女が喚けば喚くほど、その声の震えは、彼女自身の拭いきれない不安と恐怖を如実に物語っていた。私は錯乱する彩子を見つめながら、ただ静かに口を結んでいた。哀れだった。虚飾にまみれたプライドだけで自分を保ち、他者を見下すことでしか生きられないこの女性が、ひどくちっぽけな存在に見えた。私が沈黙を貫くことで、彩子の声は虚しく応接室に響き、やがて彼女自身も疲弊して口を閉ざしていった。
「見苦しいですよ、彩子さん。書類の印影を見れば、本物だとは分かるはずだ」
正が静かな声で告げる。
「五年前、剣一さんとの婚約が破談になることを恐れたあなたの父親は、藤堂家に泣きついてきました。そこで父さんは、藤堂家の名前に傷がつくのを避けるため、ポケットマネーで後藤家の負債を清算し、発行済み株式の百パーセントを買い取ったんです」
その言葉の意味を理解し、彩子の目が見開かれた。
「百パーセント……じゃあ、実家の店は、あの後藤の呉服店は……」
「名前こそ残っていますが、完全に父さんの個人所有の会社となっていました。そして今日、父さんの個人資産の全ては、誰に相続されたか。もう、分かりますね」
正の視線が私へと向けられる。彩子も、まるで錆びついた機械のように、ゆっくりと首を回し、私を見た。
「つまり、後藤呉服店の全株式、並びに現在のオーナー権限は、あずささんに移行したということです」
白石弁護士が、とどめを刺すように無慈悲な事実を突きつけた。
「あ、ああ、ああ……」
彩子の口から、絶望のうめき声が漏れた。彼女が最も見下し、虫けらのように扱ってきた、中卒の貧乏人の私が、彼女の誇りである実家の与奪の剣を握る、絶対的な主人となったのだ。私が「店を畳む」と一言命じれば、あの名門後藤家は、明日にも路頭に迷うことになる。
「嘘よ。こんなの嘘よ。私がこの女の下に……」
膝から崩れ落ちそうになる彩子を、私兵たちが無言で支えた。しかし、正の追撃はこれだけでは終わらなかった。
「彩子さん。あなたはあずささんのご両親を、町工場の社長、スーパーのパートのおばさんと嘲笑し、藤堂家の敷居をまたぐ資格はないと罵りましたね。あずささんは謙虚だから、決して自分からひけらかすことはしませんでしたが。彼女の実家の工場は、ただの町工場ではありません。世界中の医療機器メーカーが喉から手が出るほど欲しがる特許技術を持つ、超優良企業です。無借金経営で、年間の純利益は、あなたの実家の全盛期の何倍にも上りますよ」
ええっ、彩子だけでなく、剣一も、そして親族たちも一斉に私を見た。
「お母さんがスーパーでパートをしているのは、地元の人たちとの関わりを大切にし、体を動かすのが好きだからというだけのこと。あなたたちのように、ブランド品や家の名前でしか人間の価値を測れない薄っぺらな人間とは、魂の質が違うんです」
正の言葉に、私は胸が熱くなった。ずっと私を守り、私の家族のことまで深く理解し、誇りに思ってくれていたのだ。
「じゃあ……本当の貧乏人は……」
彩子は呆然と呟き、自分の着ている高級ブランドのドレスを見下ろした。中身が空っぽの、借金まみれの実家。そして、自分自身もまた、五百億円の負債を抱えた男の妻。真の底辺は、他でもない彩子自身だったのだ。
「ふざけるな!」
突如、沈黙を破って怒鳴り声をあげたのは、長男の剣一だった。彼は血走った目で立ち上がると、妻である彩子に向かって、ものすごい形相で歩み寄った。
「この裏切り者! 実家が倒産寸前だったのを、俺に隠して結婚したのか! この疫病神! お前のような貧乏神が来たせいで、俺の人生は狂ったんだ!」
「け、剣一さん、何を言うんですか!? あなたこそ、五百億の借金を……」
「黙れ! お前の実家の借金なんて知るか! 今すぐ慰謝料を請求してやるからな!」
つい数十分前まで、私をいじめることで結束していた夫婦が、今や見苦しい責任のなすりつけ合いを始め、互いを罵倒し合っている。応接室に響き渡る二人の怒声は、まるで地獄の亡者たちの争いのようだった。親族たちは、関わり合いになるのを恐れて、蜘蛛の子を散らすように部屋の隅へと後ずさっている。義母のしず子は、その地獄絵図を冷たい目で見下ろしながら、小さく吐息をついた。
「自業自得とはいえ、家の長男夫婦がここまで見苦しいとは。竜之助さんが、草葉の陰で泣いていますよ」
そして義母は、白石弁護士に向かって静かに頷いた。
「白石先生、そろそろよろしいですね」
「はい、奥様」
白石弁護士が咳払いをし、争い合う二人に冷ややかな声を投げかけた。
「剣一様、彩子様。見苦しい争いはおやめください。それに、まだ遺言状の最後の項目の読み上げが終わっておりません」
「最後の項目?」
剣一と彩子の動きがぴたりと止まり、恐る恐る弁護士を振り返る。彼らの顔には、これ以上の地獄があるのかという、底知れぬ恐怖が張り付いていた。
「藤堂竜之助様は、遺言状の最後に、一つの条件を付け加えておられます。これは、この場にいる親族の皆様全員に関わる、重大な決定事項です」
弁護士の言葉に、部屋の空気が再び氷のように凍りついた。義父が残した最後の宣告。それが、私を含めた家に関わる全員の運命を、劇的な結末へと導くものだとは、この時の私はまだ知る由もなかった。
「藤堂ホールディングス及び関連会社の役員に名を連ねている、親族全員に関するものです」
白石弁護士の重々しい声が響き渡ると、部屋の隅で嵐が過ぎ去るのを待っていた親族たちの顔が、びくっと跳ね上がった。彼らは皆、藤堂という巨大な権力にぶら下がり、大した仕事もせずに高額な役員報酬を搾取してきた者たちばかりだ。先ほどまで私を身の程知らずの貧乏人と嘲笑し、彩子の暴力を見て見ぬふり、いや、面白がって傍観していた彼らの顔に、明らかな動揺が浮かび始めた。
「な、なんだよ。俺たちに関する項目って」
親族の代表格である叔父の正蔵が、引きつった笑みを浮かべながら尋ねた。白石弁護士は冷徹な視線を親族たちにぐるりと向け、一切の感情を交えずに読み上げた。
「藤堂ホールディングスに寄生し、会社の利益を搾取するだけの無能な親族たちへ。お前たちがこれまで享受してきた役員報酬、並びに一族からの毎月の援助金は、私の死を持って全て打ち切るものとする」
「う、打ち切るだと!? ふざけるな! 俺たちの生活はどうなるんだ!」
親族たちから悲鳴と怒号が同時に発せられた。しかし、弁護士の宣告は終わらなかった。
「静粛に。続きがあります。さらに、剣一が主導した海外ダミー会社への不正融資について。お前たち役員は、その決議案に盲目的に賛成の承認をした。つまり、五百億円の隠し負債に対する連帯保証人としての責任は、役員であるお前たち全員にも負わせるものとする」
「連帯保証人!?」
叔父の正蔵の顔から、さっと血の気が引いた。他の親族たちも、まるで幽霊でも見たかのように、口をぱくぱくとさせている。
「ま、待ってくれ! 俺たちは何も知らなかったんだ! 剣一が絶対に儲かるというから、書類に判を押しただけで!」
「そうです! 悪いのは全部、横領を企てた剣一です! 私たちは騙された被害者なんです!」
先ほどまで剣一にへつらっていた親族たちが、今度は一斉に剣一を指差し、責任をなすりつけ始めた。
「お前ら! 俺を持ち上げて甘い汁を吸っていたくせに、今更裏切るのか!」
剣一が血走った目で親族たちを睨みつける。もはや応接室は、自分だけは助かろうと足を引っ張り合う、見苦しい亡者たちの共食い会場と化していた。
「おい、あずさ!」
窮地に立たされた叔父の正蔵が、突然、血走った目を私に向け、狂ったように怒鳴り声をあげた。
「お前、大旦那様の個人資産を全部相続したんだろう! 何百億もあるはずだ! その金で、俺たちの借金を片付けろ!」
彼は形振り構わず、私に向かって指を突きつけた。
「そもそもお前みたいな、中卒の底辺女が藤堂家の財産を一人占めするなんて、間違ってるんだ! お前はただの部外者だろう! 私たちの縁ある親族を助けるために、その金を全額差し出せ! この薄汚い泥棒猫め! さっさと金をよこせ!」
叔父の正蔵のあまりにも下劣な侮辱の言葉に、正が怒りで肩を震わせ、一歩前に出ようとした。しかし、私はそっと手を伸ばし、正の腕を制した。そして、顔を真っ赤にして喚き散らす正蔵を、ただまっすぐに見据えた。私は一言も発しなかった。怒りも悲しみも、もはや微塵も湧いてこなかった。ただ、どこまでも冷ややかな目で、彼らの醜態を観察していた。私のその沈黙は、彼らにとってどんな罵詈雑言よりも、恐ろしく不気味に映ったのだろう。
「な、なんだよ、その目は! 何か言えよ! この貧乏人が!」
正蔵の声が見る見るうちに自信を失い、小さく震え始める。私が反論しないことで、彼の言葉は虚空に虚しく響き、自分自身の見苦しさを際立たせるだけの結果となっていた。
「見苦しいですね」
静寂に、声が上がった。それは、これまで事務的な態度を崩さなかった白石弁護士の、吐き捨てるような声だった。
「白石先生!?」
親族たちが戸惑う中、白石弁護士は眼鏡を外し、鋭い眼光を放った。
「皆様、私をただの顧問弁護士だと思っていましたか。私は元、東京地検特捜部の検事です。之助様から藤堂家の浄化作戦を依頼され、顧問弁護士として潜伏しておりました」
その意外な人物の正体に、剣一も彩子も、親族たちも、全員が雷に打たれたように硬直した。
「先ほど正木様が収集された裏帳簿と横領の証拠データは、全て私の手から、すでに検察庁へと提出されております。さらに、皆様が過去に会社の経費を私的流用していた、脱税の証拠も、全て揃っております」
白石弁護士、いや、白石検事が、容赦なくとどめを刺す。
「剣一様、彩子様、そして親族の皆様。あなた方は、明日にも業務上横領及び特別背任罪、脱税の容疑で、一斉に捜査を受けることになります。あちらの扉の外をご覧ください」
白石が指差した先、応接室の重厚な扉の外、廊下の窓から見える本邸の正門には、いつの間にか数台の黒い車両が到着し、赤い灯が雨の中に不気味に煌めいていた。
「警、警察!? 検察がもう来ているだと!?」
剣一が腰を抜かして、その場にへたり込んだ。親族たちも、「終わった」とばかりに自己破産どころか刑務所だと、次々に床に崩れ落ちていく。
「いやあっ! いやよ! 私、関係ないわ! 刑務所なんて絶対嫌!」
彩子が髪を振り乱し、私兵の腕の中で発狂したように泣き叫ぶ。誇り高き華麗なる一族は、義父の完璧な計画と、正の執念によって、一瞬にして崩壊したのだ。それはあまりにも衝撃的で、あまりにも鮮やかな大逆劇だった。
サイレンの音が徐々に近づいてくる中、義母のしず子がゆっくりと私の隣に並び立った。そして、床で泣き喚く剣一と彩子を見下ろし、私に優しく問いかけた。
「あずささん。彼らは間もなく、法の裁きを受けることになります。ですが、その前に。この藤堂家の新たな当主として、あなた自身の口から、彼らに最後の判決を下してあげなさい」
私は深く深呼吸をした。嵐のような悲鳴が渦巻く応接室で、私はついに、固く結んでいた唇をゆっくりと開いた。これまで虐げられ、泥水に顔を押し付けられてきた私が、彼らに向けて放つ、最初で最後の宣告。それが、彼らにとって本当の地獄の始まりだった。
応接室に響き渡っていた金切り声と怒号が、なぜか遠くに感じられた。これまで何を言われても、暴力を振るわれても、じっと耐え忍んできた私の口が、ゆっくりと開く。
「剣一さん、彩子さん、そして親族の皆様」
私の声は、自分でも驚くほど静かだった。しかし、部屋の隅々にまではっきりと響き渡った。
「あなた方は今日、私を泥棒猫、寄生虫、害虫と呼びましたね。私の両親を侮辱し、私の存在そのものをこの家の恥だと嘲笑いました」
「あ、あずさ……」
彩子が、がちがちと歯の根を鳴らしながら首を振る。私は一歩前に出て、彼らを見下ろした。
「私はこれまで、あなたたちに何をされても、決して言い返すことはありませんでした。それは、私が弱いからでも、あなたたちの言葉を認めていたからでもありません。あなたたちのような、お金と家柄でしか人間の価値を図れない、中身が空っぽの人たちと同じ土俵に立つことが、誇り高く恥ずかしかったからです」
私の言葉に、剣一がびくっと肩を震わせた。
「お前たちに下す判決は、たった一つです」
私は一切の感情を込めずに、冷たく言い放った。
「私の家から、今すぐ出ていきなさい」
その宣告が下された瞬間、彩子が私兵の手を振りほどき、狂ったように私の足元へとすがりついてきた。
「あ、あずささん! ごめんなさい! 私が悪かったわ! 私が全部悪かったの!」
泥だらけの私を、高級ブランドのドレスを着た彩子が、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら必死に掴む。先ほどまで木の棒を振り回していた鬼のような形相は、もはや微塵もない。そこにあるのは、権力と金というメッキが剥がれ落ち、恐怖に怯える哀れな一人の女の姿だった。
「お願い、許して! 実家の呉服店だけは、どうか潰さないで! あそこがなくなったら、お父様とお母様が路頭に迷ってしまうわ! 刑務所なんて、絶対に嫌! お願い、あずささん! あなた、本当は優しくて思いやりのある人でしょう!」
自分から散々暴力を振るっておきながら、自分の保身のためなら平気ですり寄ってくる。そのあまりにも身勝手で浅ましい態度に、私は思わず冷たい嘲笑を漏らしてしまった。
「優しい? 思いやり? 勘違いしないでください」
私はすがりつく彩子の手を、冷酷に振り払った。
「私は、自分の大切な家族を守るためなら、鬼にでもなります。あなた、言いましたよね。中卒の貧乏人から生まれた分際で、と。そんな底辺の私が、どうしてあなたのような華麗なる一族のお嬢様を助けなければならないのですか?」
「あ、ああ……」
彩子は顔を覆い、絶望の声を上げて、その場に泣き崩れた。
「それに、剣一さん。あなたが横領した五百億円もの借金を、私が肩代わりするとでも? 冗談ではありません。あなたと、あなたに同調して甘い汁を吸い続けてきた親族の皆様は、刑務所の中で、一生かけて償ってください」
「おのれ、この女ぁ!」
全てを失った剣一が、最後の悪あがきとばかりに、目を血走らせて私に飛びかかろうとした。しかし、彼の手が私に届くことはなかった。
「そこまでだ!」
応接室の重厚な扉が勢いよく開け放たれ、雨合羽を着た大勢の捜査員たちが雪崩れ込んできたのだ。
「東京地検特捜部だ! 藤堂剣一、並びに親族の役員の皆さん。業務上横領及び特別背任、脱税の容疑で、同行を願います!」
先頭に立った鋭い眼光の捜査員が、逮捕状を高く掲げた。
「や、やめろ! 離せ! 俺は藤堂家の長男なんだぞ! 触るな!」
「いやああ! 私は何も知らない! 剣一さんが勝手にやったのよ! 助けてくれ! 破産する! 人生が終わってしまう!」
怒号と悲鳴が入り混じる中、剣一と彩子、そして親族たちは、次々と手錠をかけられ、容赦なく応接室から引きずり出されていく。かつてこの屋敷で権勢を振るい、私を虫けらのように見下していた者たちの、あまりにも無様で惨めな末路だった。
「さようなら。もう二度と、私の人生に関わらないでください」
私が冷たく言い放つと、剣一は絶望に顔を歪め、彩子は啼泣しながら、激しい雨の降る外へと連行されていった。パトカーの赤色灯が彼らの顔を照らし出し、やがてサイレンの音と共に、屋敷から遠ざかっていく。彼らが去った後の応接室には、嵐が嘘のように、深い静寂が戻っていた。残されたのは、私と夫の正、義母のしず子、そして白石弁護士だけだった。
「よく頑張ったな。もう大丈夫だ」
正がそっと私の肩を抱き寄せ、涙声で囁いてくれた。そのぬくもりに触れた瞬間、これまで張り詰めていた糸がぷつんと切れ、私の目から大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。終わったのだ。私たちの長く苦しい戦いが、ようやく。
しかし、その時だった。
「あずささん。まだ、全てが終わったわけではありませんよ」
しず子が、窓の外を見ていた視線をゆっくりとこちらに戻し、静かに口を開いた。その手には、先ほど私が開けた桐の箱に入っていた、もう一つの品。古びた真鍮の鍵が握られていた。
「ええ?」
私が涙を拭いながら顔をあげると、義母はこれまで見せたこともないような、ひどく穏やかで、しかしどこか悲しげな微笑みを浮かべていた。
「害なす者たちは去りました。ですが、あなたがなぜ竜之助さんからこれほどまでに信頼され、全てを託されたのか。その本当の理由を、あなたはまだ知らないでしょう」
義母の言葉に、私は息を飲んだ。本当の理由。正と共に裏帳簿を暴くためだけではなかったというのか。
「さあ、いらっしゃい。この鍵が導く場所へ。藤堂家が抱えてきた、もう一つの真実をお見せします」
義母に導かれ、私たちが向かった先。そこは本邸の奥深くにある、生前の義父が誰にも入ることを許さなかった書斎だった。部屋の中は、古い書物の匂いと、微かに香る葉巻の残り香が漂っている。窓の外では、先ほどまでの激しい嵐が嘘のように静まり返り、雲の切れ間から夕暮れの柔らかい光が差し込み始めていた。義母は壁にかけられた大きな風景画を外した。そこには、重厚な鋼鉄製の隠し金庫が埋め込まれていた。彼女は、私が持っていたあの古びた真鍮の鍵を鍵穴に差し込み、ゆっくりと回す。かちりと小さな音がして、金庫の扉が開かれた。
「お義母様、これは一体……」
私が中を覗き込むと、そこには金塊や札束などではなく、色褪せた一通の手紙と、油の染みがついた小さな金属の部品が、まるで宝物のように大切にベルベットの布の上に置かれていた。
「この部品は……」
正が驚いたように声をあげた。
「あずさの実家の工場で作っている、特殊なバルブの試作品じゃないか?」
「ええ、その通りです」
義母はその油まみれの部品を、愛おしそうに撫でながら静かに語り始めた。
「今から四十年前。藤堂ホールディングスがまだ小さな会社だった頃、竜之助さんは一度、莫大な負債を抱え、倒産の危機に瀕したことがありました。誰もが彼を見捨て、親戚すらも蜘蛛の子を散らすように逃げていった。そんな絶望の中で、ただ一人彼を信じ、無償でこの特殊部品の開発を引き受けてくれた人物がいたのです」
私ははっと息をのみ、義母の顔を見た。
「それが、私の父ですか?」
「ええ。あなたのお父様、立花社長です」
義母は金庫から色褪せた手紙を取り出し、私の手にそっと握らせた。
「お父様は三日三晩、寝ずにこの部品を完成させ、藤堂の窮地を救ってくれました。竜之助さんが莫大な謝礼を渡そうとすると、お父様はこう言って、笑って受け取らなかったそうです。金は要らねえよ。その代わり、この部品で世の中をちょっとだけよくしてくれ。それが俺たち町工場の誇りだからな、と」
私の目から、再び涙が溢れ出した。父は、そんな途方もない昔話を、私に一度も自慢したことはなかった。ただ毎日、油にまみれながら、愚直に鉄を削り続けていただけだった。
「読んでご覧なさい、あずささん。それが、竜之助さんがあなたに当てた、本当の遺書です」
私は震える手で封を開け、義父の力強い筆跡で書かれた文章を読み始めた。
「あずさへ。お前が正と連れられて初めてこの家に挨拶に来た日、お前の口から立花あずさという名前を聞いた時、私はあまりの衝撃に心の中で泣き崩れた。天は、私が一生かけても返しきれない恩人の娘を、我が家の伴侶として遣わしてくれたのだと。だが、当時の藤堂家は、金と権力に群がる亡者たちの巣窟と化していた。剣一や彩子、そして強欲な親族たち。彼らがお前に牙を向くことは、目に見えていた。私はお前を守るため、そして、腐り切った藤堂家を一度完全に解体するため、あえてお前へのいじめを黙認する、冷酷な父を演じ続けた。本当にすまなかった。どれほど辛く恐ろしい思いをさせたことか。しかし、お前は決して人間の尊厳を失わなかった。私が病に倒れ、誰もが遺産の計算しかしていなかった時、お前だけが私の手を握り、本物の涙を流してくれた。その手のぬくもりは、四十年前、油まみれの手で私の肩を叩いてくれた、お前の父親のぬくもりと同じだった。あずさ。藤堂の真の財産は、金ではない。人を思いやり、義理を重んじ、汗を流して働く心だ。お前と正なら、この会社を、あの日の立花社長が望んだような、世の中をよくするための会社に生まれ変わらせてくれると信じている。私の全財産と、この藤堂の未来を、お前たち二人に託す。どうか、正をよろしく頼む。そして、私を許してほしい。本当の娘のように、お前を愛していた。藤堂竜之助」
手紙を読み終えた私は、その場に崩れ落ち、声を上げて泣きじゃくった。義父は、私を嫌っていなかった。誰よりも私の家族を尊敬し、私の心の底にあるものを見てくれていたのだ。冷たい態度の裏で、どれほど心を痛め、私を守るための歯を食いしばってくれていたのだろうか。
「あずささん。本当にごめんなさいね」
義母のしず子が、私の前に膝をつき、深く、深く頭を下げた。
「私も、竜之助さんの計画を知りながら、あなたを一人で戦わせてしまった。憎んでくれて構いません。ですが、これだけは信じてください。あの日からずっと、私たちはあなたを、本当の家族だと思っていました」
「お義母様、頭を上げてください」
私は涙を拭いながら、義母の肩を優しく抱きしめた。
「憎むわけがありません。お義父様とお義母様の、不器用ではあるけれど温かい愛情は、しっかりと伝わりました。むしろ、この家に迎えていただいて、本当に、本当にありがとうございました」
私の言葉に、義母もまた顔を覆って、静かに泣き崩れた。いつの間にか、正が私の隣に座り、私の肩をしっかりと、力強く抱いてくれていた。
「あずさ。これからは、俺が一生かけてお前を守る。父さんが残してくれたこの想いと共に、二人で新しい家を作っていこう」
「ええ、正木さん」
窓の外を見ると、先ほどまで屋敷を包み込んでいた暗い雨雲は完全に去り、西の空には息を飲むほど美しい、黄金色の夕日が輝いていた。雨に濡れた庭の木々が光を浴びて、きらきらと宝石のように輝いている。それはまるで、義父が天国から、私たち三人の門出を優しく祝福してくれているかのようだった。
それから数年後。剣一さんや彩子さん、親族たちは、それぞれの罪を償うため、冷たい刑務所の中で暮らしている。後藤の呉服店は負債を整理し規模を縮小して、真面目に働く従業員たちのためだけに、細々と営業を続けているという。そして私は今、藤堂ホールディングスの新社長となり、正が隣で副社長として支えてくれる、忙しくも充実した毎日を送っている。会社の利益は、医療技術の発展や、真面目に技術を磨く全国の小さな町工場への支援として使われるようになった。私の両親も、相変わらず小さな工場で元気に働いており、週末にはしず子義母も交えて一緒に食卓を囲むのが、私たち家族の何よりの楽しみだ。
「さあ、あずさ。次の会議の準備はいいか?」
社長室で、正が私に向かって優しく微笑みかける。
「ええ、いつでも大丈夫よ。正木さん」
私は胸元に手を触れた。そこには、あの日の油まみれの小さな歯車を加工して作った、ペンダントが輝いている。人を貶め、見下すことでしか生きられなかった者たちは、全てを失った。しかし、思いやりと感謝を忘れず、真面目に生きる者の未来には、必ず光が差し込む。私は愛する夫と共に、胸を張って、新しい扉を開いた。私たちの、本当の人生がここから始まるのだ。
