式場の控室の扉を数センチ開けた瞬間、私は凍りついた。タキシード姿の婚約者の背中。机の上に横たわる妹。頭の中が真っ白になったが、手は勝手に動いていた。震える指でスマホを構え、中継のスイッチを入れる。私の幸せを奪った代償、この手で払わせてやる。だが、この後まさか私の人生がこんな方向へ進むとは、その時の私は想像もしていなかった。あの日、式場の巨大スクリーンに映し出された光景をきっかけに、私の人生は…

式場の控室の扉を数センチ開けた瞬間、私は凍りついた。タキシード姿の婚約者の背中。机の上に横たわる妹。頭の中が真っ白になったが、手は勝手に動いていた。震える指でスマホを構え、中継のスイッチを入れる。私の幸せを奪った代償、この手で払わせてやる。だが、この後まさか私の人生がこんな方向へ進むとは、その時の私は想像もしていなかった。あの日、式場の巨大スクリーンに映し出された光景をきっかけに、私の人生は...

ウエディングドレス姿の私は、新郎控室の前で固まっていた。何かがおかしい。部屋の中からは、机が小刻みに揺れる音と、息を殺したような声が漏れてくる。ドクンドクンと嫌な予感が心臓を打つ。気づかれないように、こっそりと扉を数センチだけ開けた。すると、机に向かって立つタキシード姿の婚約者、大輔の背中が見えた。私が自慢の彼の晴れ姿を一目見ようと、ウキウキしながら覗きに来たのに、そこで目にしたのはまさに絶望の光景だった。私は震える手でスマートフォンを構えると、迷わず中継ビデオのスイッチを入れた。私の幸せを奪った罪、この手でしっかりと償わせてあげる。

話は少し前に遡る。私は大学を卒業後、空間デザイナーとして働き始め、今年で社会人四年目になる。デザイナーと言えば聞こえはいいが、実際には手取りが低いうえに土日出勤も多く、四年間死に物狂いで働いてきた。最近ようやく有名ブランドの店舗デザインを任されるようになり、一人前だと胸を張れるようになったところだ。ちょうど仕事が軌道に乗り始めたタイミングで、昨年、彼氏の大輔からプロポーズされた。大輔とは大学時代、共通の友人に紹介されて知り合い、二年生の時に付き合い始めた。顔がよくて性格も明るい大輔はよくモテた。大学の卒業式では優秀な成績で表彰されていたし、スポーツも万能で、フットサルサークルではエースとして活躍していた。私と付き合い始めてからも、美人と評判の女子たちに告白されていたが、遊び人っぽいと言われながらも、大輔が浮気をするとは一度も疑ったことがなかった。卒業後は大手部品メーカーの営業として働き、将来も有望とされていた。最近は仕事が忙しいらしく、帰宅が遅い日が続いていた。「会社のパソコンでしかできない仕事だから」と言うので、自宅で作業ができないのも仕方ないと思っていた。家事の負担はほとんど私にかかっていたが、それも結婚すれば自然と解決していくものだと考え、私は割り切っていた。プロポーズから約半年後、結婚の挨拶で実家に帰省した。すると、二歳年下の妹、ゆみ子が珍しく帰ってきていた。ゆみ子は実家から車で三十分ほどの距離で一人暮らしをしており、数年ぶりに顔を合わせることになった。

「あれ? 帰ってきてたんだ。珍しいね」

「まあね。お姉ちゃんの結婚相手、見てみたかったんだよね。あ、この人か。初めまして、ゆみ子って言います」

慣れ慣れしいのはさておき、その高い甘えたような声に、私は少し不快感を覚えた。大輔は「初めまして、大輔です」とさらりと挨拶を返す。その時のゆみ子の含み笑いが、妙に胸に引っかかった。だが、大輔に変わった様子はなく、私はその時は特に気に留めなかった。妹のゆみ子は私と正反対の性格だった。甘え上手でみんなから好かれるゆみ子は、子供の頃から欲しいものは何でも手に入れてきた。決して絶世の美女というわけではないのに、愛嬌のある笑顔で人を惹きつける。高校時代は厳しい学校に通っていたが、茶髪に染めてもスカートを短くしても、先生に注意されることはなかった。両親からもらうお小遣いも、年上の私より多かったのを覚えている。どう言えば相手が喜ぶのか、自分が好かれるためにはどう振る舞えばいいのか、生まれながらにして知っているような子だった。一方、真面目すぎる私は「ゆみ子みたいに素直さがもう少しあったらね」と両親に言われることもしばしばだった。現在ゆみ子は携帯電話会社の営業として働き、毎月の成績は全国トップテンに入っているらしい。性格の正反対な私たちは、成人してから喧嘩することはなかったが、特に親しい関係でもなかった。ゆみ子のように愛想よく振る舞えたらいいのに、と羨ましく思うこともあった。それでも今の私には大輔がいる。これから幸せな生活が待っている。そう思えば、前向きな気持ちでいられた。

それから三ヶ月後、私たちは入籍を済ませ、結婚式の準備は着々と進んでいた。準備は主に私が進めていた。徐々に責任ある業務を任されるようになった大輔は仕事が長引き、帰宅しない日もあった。結婚式には乗り気だった大輔だったが、次第に「我関せず」のスタンスになっていた。

「ねえ、結婚式の話なんだけど、この招待客のリスト、ちょっと見てくれない?」

「ああ、今帰ってきたばかりで疲れてるから、またにしてくれない? ていうか、適当でいいよ。任せる。あと、明日は帰らないから」

「適当って……」

私は内心むっとしたが、それを表に出さないように、静かに深呼吸をして心を落ち着けた。仕事ができるようになったのだから、きっと夫婦にとってもいいことだ。そう自分に言い聞かせながら、私はまた一人で準備を進めた。

結婚式を一ヶ月後に控えたある平日の夜、珍しく大輔が早く帰ってきた。

「今日は早かったんだね。ご飯、できてるよ」

「ありがとう。それよりさ、ちょっと相談があるんだけど」

「どうしたの?」

「携帯電話、新しくしない? 二台一緒に買うとお得なんだって。取引先の人が紹介特典でおまけしてくれるって」

確かに、私は以前から機種が古いことをぼやいていた。でも、結婚式で費用がかさむことを考えると、ここは節約すべきだ。そう思って話を聞いていると、大輔は「もう買っちゃったんだよね」と続けた。

「はあ? 二台で四十万だって」

「四十万?! ていうか、もう買ったの?」

「うん。特典があってさ。お前の分の機種代は、分割で返してくれればいいから」

働いているとはいえ、私たち夫婦は口座や通帳の管理は当分別々にしようと話していた。勝手に買ってきた携帯電話の代金を、しっかり払えというのか。とはいえ、買ってしまったものはしょうがないし、返品もできない。結婚式の演出でスマートフォンを使う予定もあるし、最新機種なら綺麗な映像も撮れる。そう考えて、私は半ば強引に自分を納得させた。

そして一ヶ月後、ついに結婚式当日を迎えた。純白のドレスは母と義母と三人で選んだ。準備をほとんど手伝わなかった大輔だが、今日の私を見たらきっと驚いてくれるだろう。式場入りして支度を済ませ、控室で待っていると、大学時代からの親友であるけい子が挨拶に来てくれた。

「なおこ! 綺麗だよ! おめでとう!」

「ありがとう」

「ねえ、そういえば、あれ、うまくいきそう?」

あれとは、私がスタッフにお願いして計画していたサプライズ演出のことだ。私のスマートフォンと会場のスクリーンを繋ぎ、来賓の方々にインタビューを映し出すという演出だった。細部にまでこだわりたいのは、空間デザイナーの職業病だ。

「来賓の方々ももう着席してるし、試しに控室の様子を映してみない? 新郎とかさ」

「確かに、それ面白そうだね」

この演出は大輔にはまだ伝えていなかった。本番でいきなり見せるより、先に知らせるついでにちょっと映してみるのもいいかもしれない。ウキウキ気分で新郎控室へ向かう私は、扉の前でゆっくりと深呼吸をした。大輔、タキシード似合ってるだろうな。そう思いながら、私はそっと扉を数センチだけ開けた。

すると、何か音が聞こえる。ガタガタと小刻みに机が揺れる音。そして、息を殺したような声。誰かと一緒にいるのかな。私は気づかれないように、さらに十センチほど扉を開けた。すると、机に向かって立つタキシード姿の大輔の背中が見えた。少し斜めから覗くと、机の上に誰かが横たわっている。もう少し身を乗り出して見ると、それはなんとゆみ子だった。二人は神父が覗いているとは知らず、目の前のお互いに夢中だ。私は五秒ほど凍りついたように動けなかったが、何が起こっているのか瞬時に理解すると、意外なほど冷静だった。手に持っていたスマートフォンを即座に構え、中継ビデオのスイッチを入れた。社会的に抹殺してやる。目の前の二人が私に気づく気配はなく、私はそのまま十分間、スマートフォンで撮影し続けた。式場スタッフは優秀で、サプライズの準備はしっかりと整っていたらしい。来賓客のいる会場では、この一部始終がリアルタイムで前方の巨大スクリーンに映し出された。皮肉にも、私が新しくしたばかりのスマートフォン。鮮明な映像は、遠目からでも誰が映っているのか明らかだった。来賓客はどよめき、両親や義両親も騒ぎに気づいた。義父は激怒し、「バカ息子を今すぐとっちめてやる」と叫ぶのを、母が必死に静止した。母はスクリーンの映像を証拠として録画しておいてくれた。

一部始終を生中継した後、私はそのまま隠れて様子を伺った。耳を澄ますと、二人の会話が聞こえてくる。

「俺たちが実家に挨拶に行く時は、帰らないって言ってたじゃないか」

半年前に私の実家へ挨拶に行った時のことだ。あの時から、すでに二人は関係を持っていたのか。

「ごめんね。なんか面白そうだなと思って、顔出しちゃった。お姉ちゃん、ちょっと不機嫌だったよね。最高だった、あの顔」

「初対面のふりをするのは大変だったんだからな。でも、バレてなかったよな」

「基本浮気とか疑ってないしな。大学時代から、一度もバレたことないし」

怒りがふつふつと込み上げる。まさか、こいつは浮気常習犯だったのか。大学二年生の時から七年間も付き合ってきて、一度も浮気を疑わなかった自分への情けなさと虚しさで、私は一瞬、放心状態になった。二人は衣服を整えると、何事もなかったかのようにこちらに向かってくる。私は慌てて扉から離れ、そのまま親族室へ向かった。中に入ると、両親と義両親が揃っていた。皆、言葉を失っているようだった。母は妹の裏切りを受け入れることができず、泣きじゃくっていた。泣きたいのはこっちのはずなのに、不思議と私の目からは涙が出なかった。私は黙って立っていることしかできなかった。すると、そこへ何も知らない大輔とゆみ子が入室してきた。

「どう? 俺のタキシード姿。知らぬが仏とはこのことだな」

「お前、ふざけるな!」

今にも飛びかかろうとする義父を、義母と父が必死に止める。必死に自分を落ち着けて、義母が二人に今起こったことを全て説明した。すると、二人の顔はみるみる真っ青になった。

「これは、その……今この場で全部説明しろ」

どうやら偶然にも、二人は仕事の関係で出会ったらしい。大輔のプロポーズから約三ヶ月後のことだった。部品メーカーで働く大輔の取引先が、ゆみ子の携帯電話会社だったのだ。二社の親睦会で知り合い、なおこの妹だと知った時は驚いたらしいが、それでも関係はやめなかった。聞けば、大輔には大学時代から定期的に浮気相手がいた。それに気づかず、結婚までしてしまうなんて。

「結婚したいのはなおこなんだよ。今までは若気の至りって言うか……浮気がどうしてもやめられなくて、本当にごめん。でも、これからは新規一転、一生お前に尽くすって誓うから」

「謝ってももう遅いのよ。私は離婚するから」

私はそう言い放つと、一言だけ付け加えた。

「謝る時は『申し訳ございません』って言いなさいよ。社会人やり直したら?」

「え、あ、申し訳ございません……」

妹のゆみ子は黙って下を向いたままだった。こんな時まで人に甘えている。怒りよりも、哀れむ気持ちが勝っていた。私は控室を出ると、そのまま会場へ向かい、式場スタッフと来賓客の方々に謝罪して回った。皆、同情の目を向けてくれた。大輔の関係者である友人や同僚は「必ず責任を取らせます」と言ってくれた。二人が社会的地位と信用、そして今まで築いてきた人間関係の全てを失ったことは明白だった。

悪夢の結婚式から一週間。式には大輔の会社の重役も参列しており、大輔は職場での立場を失い、退職せざるを得なくなった。大学時代の共通の友人も複数招いていたが、皆「縁を切った」と言っていた。妹のゆみ子も、仕事の関係者から勤め先に連絡が行き、解雇された。可愛がってくれていた両親からも、勘当された。私は二人に慰謝料を請求し、離婚届を提出した。結婚式から二ヶ月が経ち、あの事件は本当に夢だったんじゃないかと思い始めた頃、式場から連絡が入った。なんと、ウェディングデザイナーとして働かないかというお誘いだった。私の企画力や演出力を買ってくれたらしい。結婚がなくなり、自分のキャリアアップを真剣に考えていた私には、願ってもないチャンスだった。私は二つ返事でそのオファーを受けた。現在の私は、ウェディングデザイナーとして業界ではちょっと名の知れた存在となっている。あんな大失態を経験した私が、他の人の結婚式を幸せなものにするために日々奮闘している。皮肉なものだ。ちなみに、あのスマートフォンは離婚直後に某フリマアプリへ出品した。新品同様の価格で売却できた。たっぷり入った慰謝料とそのお金で、贅沢に一人旅でもしようかと思っている。

それから時は流れ、私は夫の正隆と結婚して早いもので三十年になる。私たちの間には一人娘の優香と、一人息子の洋太がいる。二人とももう社会人で実家を離れており、一通りの子育ては終えている。これまでも様々な悩みや問題があったが、家族四人で乗り越えてきた。特に息子は中学の時にやんちゃな連中とつるんで問題ばかり起こしていた。夫と二人で何度も頭を下げて回った。そんな問題児が奇跡的に高校に進学し、どういうわけか野球にのめり込み、それから徐々に真っ当な道を歩み出したのだ。息子は一年前から彼女と同棲しているが、わざわざ実家の近くに家を借りてくれたようだ。「たまたま近くにいい物件があっただけ」と本人はぶっきらぼうに言うが、彼女から内緒で「洋太さんには内緒ですよ」と報告を受けている。迷惑をかけた分、親を大切にしたいらしい。夫婦で嬉しくなって、聞いていないことにしている。彼女は見た目は可愛いけどサバサバしていて裏表がなく、やんちゃな息子を早くも尻に敷いている。いつも率先して私の手伝いをしてくれる、とてもいいお嬢さんだ。二人は結婚前提の付き合いで、最近ではちらほらと結婚の話題も出ているようだった。

そんなある日の夜遅く、このところ実家にもあまり顔を見せない娘の優香から電話が入った。

「もしもし? 久しぶりね。元気なの?」

「あ、お母さん。うん、元気だよ」

「そう。最近うちにも来ないから、お父さんと心配してたのよ。どうしたの? こんな遅い時間に」

「うん、ごめんね。ちょっと報告したいことがあって。私ね、妊娠したから、結婚することにしたの。授かりってやつ」

私は思考が停止し、しばし絶句した。

「え、授かり……っていうか、彼氏がいたの? ちょっと突然でびっくりだわ。どんな人なの? 仕事は何されてる人?」

「母さん、質問しすぎ。お父さんもいるし」

「当たり前でしょ。聞きたいことだらけよ。ちょっと待って、お父さんも今いるから、スマホをスピーカーにするわね」

隣で「授かり」という言葉に驚いて固まっていた夫が、我に返って話しかけた。

「なんだって? 授かりだと? とにかく一度帰ってきて、顔を見せなさい。詳しいことは会って話そう。体は大丈夫なんだな?」

「うん、体はいたって健康よ。明日、婚姻届を出そうってことになってるの。今度彼と行くから」

そう言って電話は切れた。夫と私は朝方まで話し込み、結局は初孫ができることが嬉しくて、自分たちにできることをしてやろうと決めた。その電話から数日後、突然何の連絡もなしに、娘とその夫となった人がやってきた。あまりに突然で一瞬不審に思ったが、挨拶に来てくれたので温かく迎えた。その日はたまたま息子と彼女も遊びに来ており、一緒にお祝いをした。「こんな男性がタイプだったのか」と心の中で思いながら、しみじみと娘の夫を見ていた。そして気になっていた仕事のことを、やんわりと聞いてみた。会社勤めをしているようだが、近年流行りの感染症の影響で仕事が減っているらしい。そのため、出産にかかる費用やその後の生活費に不安があるとのことだった。私たちは娘と孫のためなら、と思い金銭的な援助を申し出て、その月から送金を始めた。娘夫婦からはとても感謝され、近況報告の電話がよくかかってきていた。だが、それも二、三ヶ月のことだった。なぜか次第に電話がかかってくることが少なくなり、さらに数ヶ月後には連絡がつかなくなってしまった。

妊婦である娘のことが心配で、どうしたものかとやきもきしているところに、久しぶりに娘からの電話が入った。

「赤ちゃん、生まれたから」

私たちは無事に生まれたことを聞いて、泣いて喜んだ。

「よかった! おめでとう! 連絡がつかないから心配してたのよ、もう」

「うん、ごめん。でも私も赤ちゃんも元気よ」

「早く赤ちゃんに会いたいわ。男の子? 女の子?」

夫が隣で嬉しそうに電話を代われとジェスチャーを送ってくる。

「そうね。まあ、それはまた今度。それより……赤ちゃんに色々お金がかかっちゃって、送金、増やしてもらえないかな?」

なんとなく暗い声の娘。電話の向こうも異様に静かで、違和感を覚えた。

「それはいいけど……赤ちゃんは大丈夫なの? 何かあったんじゃないの?」

「とにかくお金がかかって大変なの。送金の増額をお願い」

それだけ言うと、返答も待たずに電話を切られてしまった。育児に追われているのかとも考えたが、それなら私に頼ってくるはずだ。それに、あの暗い声は何かがおかしい。夫に相談し、その日はとにかく送金を増やしてあげることにした。そして落ち着かない時間を過ごして三日後、夫が仕事で留守の間に、どうしても心配でならず、私は娘に電話をかけた。電話が繋がると同時に、私は話し出す。

「もしもし? 育児が大変なんじゃない? 手助けできることはない? 頼っていいのよ」

すると、娘の怒鳴り声が返ってきた。

「うるさい! 私は今後一切、親戚付き合いはしないから! 孫にも一生合わせる気はないから! お金だけ送ってくれればいいから!」

突然の剣幕に言葉が出ず、黙ったままの私に、さらに娘は怒鳴りつける。

「そもそも、ばばなんかに触らせたら、子供が腐っちゃうんだよ!」

一言も言葉が出ないまま、電話は切られた。

「おい、なおこ、どうしたんだ? おい」

夫の呼ぶ声で我に返った。電話の後、どれくらいの時間が経ったのか、部屋は薄暗くなっていた。夫が私の肩を揺さぶっている。

「なおこ、何があったんだ?」

私は涙が溢れて、しゃくり上げながら電話の一部始終を話した。夫は黙って私が落ち着くのを待って、悲しそうに言った。

「優香は変わってしまったんだな。もう資金援助は打ち切ろう」

その言葉に私も頷き、『資金援助は全て取り上げます』とだけ書いたメールを送信した。その後二度ほど娘からの着信があったが、私はもう電話に出ることができなかった。

それから一ヶ月後、息子たちの結婚式当日を迎えた。タキシード姿の息子は、招待した高校野球部時代のチームメイトたちにからかわれても、嬉しそうにしていた。そして息子の彼女のウェディングドレス姿は、想像していた通り本当に綺麗だった。娘の優香と重ねてしまいそうになり、「今日はめでたい日よ」と慌てて振り払った。少し迷ったが、私たちは娘夫婦を招待しなかった。あの時の電話のことを夫から聞かされていた息子が「姉さんはもう昔の姉さんじゃないよ。俺が招待したくないんだ」と反対したのだ。私もそれでいいと思った。来賓客も席につき、新郎新婦の入場を待つばかりとなった。開始直前、招待もしていないのに、ドカドカと足音を立てて娘が披露宴会場に乗り込んできた。息子の結婚を知っている親戚から聞きつけたのだろう。私たちに向かって、娘の夫が言い放つ。

「お金をよこせ! 援助の約束を破るな!」

娘はうつむいたまま、他人事のような顔をしている。私たち夫婦は信じられない気持ちで呆然とするばかりだった。直後、入場を控えていた息子が激怒して会場に現れた。

「俺たちの結婚式を台無しにする気か!」

昔に比べて丸くなったとはいえ、息子は今でも理不尽なことには容赦がない。今がまさにそれだ。理不尽極まりない。私たちは自分の結婚式で息子が暴力沙汰を起こしてはいけないと、必死に息子の腕を掴んだが、息子の怒りは収まらない。だが、息子が怒り狂っていることに気づいた、大きな体の野球部時代のチームメイトたちが「なんだなんだ」と大勢で娘夫婦を取り囲んだ。

「何しに来たんだ? 招待されてないのに来るな! 帰れ!」

大きな男たちに囲まれて、小さくなっている娘の夫。

「い、いや、誤解ですよ! 俺は、こいつに騙されてきたんですよ! 悪いのはこいつですから!」

そう言うと、娘を置いて素早く逃げていった。娘は我に返ったように周囲を見渡し、慌てて式場から出ていった。会場の空気が心配されたが、野球部のチームメイトたちが面白おかしく場を盛り上げてくれたおかげで、結婚式を始めることができた。息子は自分の代わりに機転を利かせて場を納めてくれたチームメイトたちに、抱きついて感謝していた。そんな息子に、彼女は「殴っちゃっても良かったんじゃない?」と笑いかける。私はそんな光景を見て、「ああ、これから先、息子はもう心配ないな」と心から安心した。

少し遅れた披露宴を順調に終え、無事に自宅へ到着した。少し落ち着いたところで、私は気になっていたことを呟いてみた。

「ねえ、あなた。あの子たち、赤ちゃんはどうしてるんでしょうね」

「やっぱりお前も気になったか」

式場には娘夫婦の二人だけだったため、赤ちゃんがどうしているのか心配だったのだ。翌朝、私たち夫婦は意を決して娘のアパートを訪ねた。どんなにひどいことを言われてもいい。とにかく、娘たちが心配だったのだ。部屋の前まで来ると、入る前から異様な臭いが漂っている。インターホンを鳴らし、優香と呼びかけるが反応はない。私と夫は悪い予感がして、ドアを強く叩きながら何度も「優香、いるの?」と呼び続けた。ご近所のことなど考える余裕はなかった。すると、がちゃんという音と共にドアが開き、私たちはなだれ込むように部屋の中へ入った。直後、そのゴミ屋敷のような部屋の状況に、私は絶句し息を飲んだ。お金もないのにカップ麺などで済ませたらしい容器が積み上げられ、部屋中の至る所にゴミが散乱し、そのまま放置されているようだった。

「何なんだ、この部屋は! 一体何があったんだ? 赤ちゃんは? こんな部屋に赤ちゃんがいるとは思えないわ」

痩せ細った娘は答えず、うつむいている。

「優香、しっかりしなさい!」

娘は観念したように、その場に座り込んだ。

「……してないの? 妊娠は、元々してないの? 嘘だったの?」

私は夫と顔を見合わせて頷いた。子供はいなかったと聞いて、私たちは逆にほっとしたのだ。嘘でよかった、と。

「分かったわ。優香、辛かったわね。これまでのこと、話せる?」

娘は言葉をつまらせながらも、話し始めた。『授かり婚』ということにしたのは、娘の夫に言われたかららしい。「将来子供が生まれた時の養育費にするから、今妊娠したことにして両親から資金援助してもらっておくのがいい」と提案されたのだという。さらには「そうしないと、弟夫婦に差を付けられてしまうぞ」と、半分脅しのようなことも吹き込まれていた。娘は子供が欲しくて一生懸命妊活をしていたため、その提案に従ってしまったようだ。夫は、私たちが送金していたお金について、娘に「俺が預かって、将来の子供のために全部貯めている」と言っていたそうだ。だが、結婚してしばらくすると、スーツではなくいつしかラフな格好で出かけていき、夜遅くに帰宅するようになった夫の行動に不審感を抱いた娘が問い詰めた。すると、夫は悪びれもせずにこう言ったらしい。

「なんだよ、とっくに気づいてると思ってたぜ。あのな、金は全部パチンコに使ったよ」

ヘラヘラと笑いながら、そう言ったそうだ。娘は裏切られていたことにショックを受けた。子供の養育費のためだったのに。お父さんにもお母さんにも嘘をついたのに。ひどいわ、あんまりよ。すると夫は、ますます開き直った。

「うるせえ。妊活なんて見てられなかったぜ。お前、大体どんなに頑張ってもできるはずねえのによ。この際だから教えてやるよ。俺はな、元々不妊症なんだよ」

そう言い捨てると、荷物をまとめて「もう離婚だな」と皮肉に笑い、出ていったらしい。その直後に私が心配して電話をかけてきたため、今さら本当のことも言えず、娘は思わず当たり散らしてしまったのだ。娘は夫の裏切りに絶望し、一時期は外に出て働くこともできなくなっていた。私たちからの送金も途絶えていたため、借金をし、簡単なカップ麺などで済ませるようになっていた。そしてお金も簡単には借りられなくなってから、やっと割のいい水商売の仕事を始めた。だが、水商売の世界は娘に合わず、心身をすり減らしながら何とか生活していたところに、昨日あのクズが現れたのだ。元夫だ。

「おお、元気か? 今日はお前の弟の結婚式だろ?」

突然来て何なんだと思ったが、心身の疲弊はピークに達しており、反論する気にもなれなかったそうだ。ぼんやりしながら記憶を辿ると、少し前に親戚のおばさんと偶然スーパーで会って、そんな話を聞いたのを思い出したが、どうでもいいことだと思った。私に暴言を吐いたことで、家族に会う資格は自分にはないと思っていたようだ。それから先のことを、娘はよく覚えていないらしい。急かされて無理やり式場に連れて行かれ、そこには皆がいて、夫が揉めている様子をただ見ていた。娘はそれを見ながら「ああ、もうこれで一生、私は家族と会うことはできなくなってしまったんだ」と思ったそうだ。どうやって帰ったかも覚えておらず、部屋に帰ると玄関に、夫の署名が入った離婚届が一枚置いてあった。これはほんの数時間前の話だ。本当に呆れた男だ。もっと早く離婚してくれれば良かったものを。もっと早く話してくれれば、ここまでのことにならなかったのに。娘は自分自身を責め続けていた。

思い切って夫とここに来なければ、娘は確実に病気になっていただろう。私は娘を抱きしめて、その場で決意した。息子は多分この先もう大丈夫だろう。でも、娘は心も体も、これから私たちが必要なはずだ。

「優香、うちに帰ろう。もう心配ないからね。辛かったね。もっと早くに気づいてあげられなくて、ごめんね」

娘は私に強く抱きつき、小さな子供のように声をあげて泣いた。私も声をつまらせて泣いた。そんな二人を、夫が泣き笑いを浮かべながら、包み込むように抱きしめてくれていた。私も夫も、娘に釣られてか、ほっとしてか、とにかく嬉し涙であったことは間違いない。涙が落ち着いて、私たちが最初にしたことがある。あのクズが置いていった離婚届だ。娘が署名し、私たち二人が証人となり署名した。夫が急いで購入した印鑑を押し、古い印鑑はあまりに悔しかったため破棄した。そして娘を連れて帰る途中で役所に寄り、速攻で提出した。

実家に帰った娘に風呂を沸かし、用意した料理を食べさせた。娘は眠りに着くまで「嬉しい」と言っては泣き、それを見て私たちも泣くという平和なスパイラルに陥った。安心したのだろう。翌日はお昼過ぎまで娘は眠った。息子には夫がその日の朝、仕事に行く前に大方のことを話していた。お昼前に息子夫婦が訪ねてきた。姉が心配で、夫婦共に仕事を休んで来たらしい。息子夫婦の気持ちが嬉しくて、私は娘を起こしに行った。もし私が起こしに行かなければ、娘はまだまだ眠っていただろう。娘が対面するなり謝ると、息子夫婦は「悪いのはあいつだろ。姉さんは謝るな」と守ってくれた。娘の体調が回復の兆しを見せ始めた頃、あのクズが今度は実家にやってきた。無理やり家の中に入ろうとしてしつこかったので、私は一歩も許さず警察へ通報し、連行してもらった。後で警察の方から聞いたところ、娘の元夫はお金に目がくらみ、悪い連中とつるんで窃盗や詐欺、強盗を繰り返していたらしい。今回そのことが明らかになり、当分は警察のお世話になるようだ。娘はその後も徐々に回復していった。私たちも日常生活の手助けはしたが、娘は自分の働いた給料で借金を返し終えた。私たちは「好きなことをしなさい」と言っているが、娘は「まだまだ助けてもらった恩を返していないわ。もう少しここにいてもいいでしょ」と同居を続けてくれている。そしてこれは予想外だったが、娘と息子の妻は買い物をしたり、二人だけで旅行に行ったりと、姉妹のように仲良くなり、娘がよく笑うようになった。息子は平然を装っているが、二人が一緒に出かけている日は決まって実家に遊びに来る。きっと寂しいのだろう。私と夫は息子には言わないが、そう確信している。新しく加わった息子の妻を含め、私たちは今回も家族で辛い出来事を乗り越えることができた。そして、これからも私たちはきっと大丈夫だ。

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