「邪魔だから出て行ってくれ。」
息子の大輔がそう言い放った瞬間、私の手にしていた茶碗が小さく震えた。六十六歳になる私にとって、まさか実の息子からこんな言葉を聞くことになるとは夢にも思わなかった。夕食後の静かなリビングで、息子夫婦は私を挟むように座っていた。テレビの音だけが虚しく響く中、大輔は冷たい目で私を見つめている。
「お母さん、年金七万円じゃここにいる資格ないでしょう」
隣に座る嫁のマリエさんが、まるで当然のことのように言い添えた。三十九歳の彼女の顔には申し訳なさのかけらもない。私は震える声で尋ねた。
「大輔、本気で言っているの?」
「本気だよ。もう限界なんだ」
四十三歳になる息子の声には、母親への情も何も感じられなかった。
「いつまでに出ていけばいいの?」
私が静かに聞くと、マリエさんが即座に答えた。
「今夜十時までにお願いします。もう顔も見たくないんです」
私は深く息を吸い込み、立ち上がった。三年間の同居生活がこんな形で終わるとは思ってもみなかった。
自分の部屋に戻ると、震える手で古いアルバムを開いた。そこには大輔を必死に育てた日々の写真が並んでいる。夫を病気で亡くしたのは、大輔がまだ高校生の時だった。銀行員として働きながら、息子のために全てを捧げてきた。大学受験の時は毎晩遅くまで勉強を見守り、合格発表の日は一緒に涙を流した。就職が決まった時、結婚が決まった時、どんな時も息子の幸せが私の幸せだった。結婚資金として三百万円、マイホームの頭金として八百万円、三十五年間勤めた銀行の退職金から惜しみなく援助した。
「お母さん、本当にありがとうございます」
あの頃のマリエさんは涙を流して感謝してくれたものだ。三年前、大輔から同居の話があった時、私は心から嬉しく思った。
「母さん、一緒に暮らそう。マリエも賛成してくれている」
その言葉を信じて、私は実家を売却し、息子夫婦の家に移り住んだ。毎朝五時に起きて朝食を作り、掃除、洗濯、夕食の準備。孫の水希の世話も喜んで引き受けた。
しかし、いつからだろうか。感謝の言葉は消え、私の存在そのものが邪魔物扱いされるようになったのは。年金七万円。確かに少ない金額かもしれない。でも私はこれまで息子家族のために、計算すれば二千万円近くを使ってきたのだ。
思い返せば、マリエさんの態度が変わり始めたのは一年ほど前からだった。些細なことから始まった。
「お母さん、この味噌汁また薄いですね。何度言ったら分かるんですか?」
朝食の席でマリエさんは眉をひそめながら言った。私は申し訳なく思い、すぐに作り直した。
「ごめんなさいね。次は気をつけます」
しかし翌日、濃い目に作ると今度は塩分取りすぎだと文句を言われた。どんなに工夫しても、彼女が満足することはなかった。
ある日の午後、私が水希に絵本を読んであげていると、マリエさんが入ってきた。
「お母さん、その読み方じゃダメです。もっと感情を込めて読まないと、子供の情操教育に良くないんです」
五歳の水希は私と一緒にいることを楽しんでいたはずなのに、マリエさんはそれすら許さなかった。
「ママと遊ぼう。おばあちゃんは疲れてるから」
「でもおばあちゃんと遊びたい」
「ダメよ。おばあちゃんは年金七万円しかもらってないの。貧乏が映っちゃうわよ」
マリエさんの言葉に私は息を飲んだ。孫の前でそんなことを言うなんて。掃除についても毎日のように小言を言われた。
「お母さん、ここに埃が残ってます。ちゃんと見えてますか。老眼が進んでるんじゃないですか」
私が朝一番に掃除をかけた部屋でも、マリエさんは必ず何か欠点を見つけてきた。窓拭きの跡が残っているだの、年を取ると細かいところが見えなくなるだの。そんな時、大輔はいつも新聞を読んでいるふりをして見て見ぬふりをしていた。
買い物に行く時も、マリエさんは私の服装にケチをつけた。
「お母さん、その服着てるんですか? 近所の人に『西村さんの義母さん、いつも同じ服着てる』って言われちゃいますよ」
私は年金生活の中でできるだけ節約していた。新しい服を買う余裕などない。それでも身だしなみには気をつけていたつもりだった。しかしマリエさんの言葉は日に日に辛辣になっていった。友人との約束も次第に制限されるようになった。
「お母さん、また出かけるんですか? 家事はどうするんです?」
「午後には帰ってきますから」
「でも三時間もないですよ。その格好で友達に会うなんて、西村家の恥になります」
結局、私は友人との約束を断ることが多くなった。長年の友人たちとの交流も少しずつ途絶えていった。食事の時間も苦痛でしかなかった。
「お母さんの作る料理、いつも同じ味ですね。レパートリーが少ないんですか? 昔の人ってこういう地味な料理しか作れないのよね」
マリエさんは大輔に向かって、まるで私がいないかのように話した。
「そうだな。もう少しバリエーションがあってもいいかもな」
大輔も同調し、私の料理を否定した。四十年以上、家族のために作り続けてきた料理がこんなに否定されるとは。
最も辛かったのは、二人が私の悪口を言っているのを聞いてしまった時だった。ある夜、寝室から二人の会話が聞こえてきた。
「もう限界よ。お母さんと一緒にいると息が詰まる」
「分かるよ。でも母さんだから」
「母さん、年金七万円しかない人を養う義理なんてないでしょう。私たちだって生活が大変なのに」
「確かに食費も馬鹿にならないしな」
「それにあの人がいると友達も呼べないのよ。恥ずかしくて」
私は廊下で立ち尽くした。息子夫婦にとって、私はただの厄介者でしかなかったのだ。さらに衝撃的だったのは、次の言葉だった。
「早く死んでくれたら保険金が入るのにね」
「マリエ、それは言いすぎだ」
「でも本音でしょ。あなたもそう思ってるんでしょ」
大輔は黙っていた。その沈黙が何よりも雄弁に、息子の本心を物語っていた。
翌朝、私はいつものように朝食を作ったが、二人の顔を見ることができなかった。
「おはようございます」
私が挨拶をしても、二人は目も合わせない。
「母さん、味噌汁失敗してるよ」
「あら、また失敗ね。年金七万円の人にまともな料理は期待できないわね」
マリエさんの言葉に大輔も笑った。私の心はもう限界に近づいていた。
その運命の日は、蒸し暑い夕方から始まった。私がいつものように夕食の準備をしていると、大輔が早めに帰宅した。
「母さん、ちょっと座って」
リビングのソファーに案内された私は、嫌な予感がした。マリエさんも隣に座り、二人は顔を見合わせてから話し始めた。
「単刀直入に言うよ。母さん、出て行ってくれ」
大輔の言葉は、予想していたとはいえ、胸に鋭い刃物を突き立てられたような痛みを伴った。
「理由を聞いてもいい?」
「理由? たくさんありすぎて、どこから話せばいいか分からないよ」
マリエさんが口を開いた。
「お母さん、はっきり言いますね。あなたがいるとこの家の空気が重いんです。年金七万円しかない人が、なぜ私たちの生活に干渉してるんですか?」
「干渉?」
その言葉に私は言葉を失った。
「私は家事を全部やってるし、水希の面倒も見てる」
「頼んでません。むしろ迷惑です」
マリエさんの冷たい視線が私を射抜いた。
「お母さんの古臭いやり方、正直うんざりなんです。掃除も料理も全部やり直さないといけない」
「そんな……私は精一杯やってる」
「精一杯? 年金七万円の人の精一杯なんて、高が知れてますよ」
大輔も妻の言葉に頷いた。
「母さん、正直に言うよ。もう限界なんだ。マリエも俺も、これ以上は無理だ」
私は震える声で尋ねた。
「いつまでに出ていけばいいの?」
「今夜中に」
マリエさんの即答に、私は耳を疑った。
「今夜? でも……行く場所もない」
「それはお母さんの問題でしょう。私たちには関係ありません」
「大輔、本当にそれでいいの? 私はあなたの母親よ」
息子は目をそらした。
「母親だからって、いつまでも甘えられると思うなよ。俺たちだって生活があるんだ」
「でも私は貯金もないし」
「年金があるでしょう。七万円あれば、どこか安いアパートくらい借りられるはずです」
マリエさんの言葉は、現実を知らない人の言葉だった。東京で七万円では、まともな部屋など借りられない。
「荷物はどうすればいいの?」
「最低限のものだけ持っていって。あとは明日全部捨てますから」
「捨てる? 私の思い出の品も?」
「はい。邪魔ですから。もう顔も見たくないんです」
マリエさんの言葉に、大輔も同意するように頷いた。
私は立ち上がり、二人を見つめた。不思議なことに、もう悲しみは感じなかった。代わりに、心の奥底から静かな何かが湧き上がってきた。
「分かりました」
私の落ち着いた声に、二人は少し驚いたようだった。
「すぐに出ていきます。もう二度と、お二人の前に現れることはありません」
そして私は微笑んだ。心からの、穏やかな笑顔だった。
「お母さん……なぜ笑って?」
マリエさんが戸惑ったような声を出した。
「いいえ、何でもありません。三年間、お世話になりました」
私は深々と頭を下げた。まるでこれから素晴らしいことが起こるかのような、不思議な高揚感があった。
「母さん、本当にいいんだな」
大輔の声にはかすかな不安が混じっていた。
「ええ、これでいいんです。むしろすっきりしました」
私の言葉に二人は顔を見合わせた。予想していた泣きわめきも恨み言もない私の反応に、戸惑っているようだった。
「では、準備をしてきます」
私は静かに部屋を出た。廊下を歩きながら、なぜか足取りは軽やかだった。まるで長い間背負っていた重荷を下ろしたような、そんな解放感があった。
自分の部屋に戻った私は、まずクローゼットの奥から古い革のバッグを取り出した。そしてタンスの引き出しの一番奥に大切にしまってあった茶封筒を手に取った。中には三冊の通帳と数枚の重要な書類が入っている。私は一つ一つ確認しながら、静かに微笑んだ。
「やっとこの時が来たのね」
独り言をつぶやきながら、私は携帯電話を取り出した。電話帳からある番号を探す。
「もしもし、高梨先生でしょうか? 西村佐和子です」
「ああ、西村さん。お久しぶりです」
電話の相手は、夫の生前からお世話になっている弁護士の高梨先生だった。
「実は、例の件で今夜お伺いしたいのですが」
「例の件? ああ、三年前にご相談いただいたあの件ですね」
「はい。ついに実行する時が来ました」
「分かりました。今夜なら八時頃はいかがですか?」
「ありがとうございます。必要な書類は全て持参します」
電話を切ると、私は手早く荷物をまとめ始めた。最小限の着替えと思い出の写真を数枚、そして最も大切な書類の束。準備を終えた私は、もう一度通帳を確認した。一冊目は私名義の普通預金通帳。残高は五万円ほど。これは息子夫婦も知っている口座だ。二冊目と三冊目は、誰も知らない私だけの秘密だった。夫が亡くなった時、生命保険金と退職金、そして夫が密かに残していた資産。合計すると五億円を超える金額が記載されている。
「あなた、本当に先見の明がありましたね」
私は亡き夫の写真に語りかけた。夫は生前こう言っていた。
「佐和子、このお金は誰にも言うな。息子にもだ。本当に困った時、本当に大切な時に使いなさい」
そしてもう一つの重要な書類。それは三年前に大輔が事業資金として借りた三千万円の借用書だった。連帯保証人の欄には、私の名前がはっきりと記されている。
「母さん、お願い。連帯保証人になって。絶対に迷惑はかけないから」
あの時の大輔の必死な顔を思い出す。私は息子を信じて判を押した。実はその借金の返済が滞っていることを、私は債権者から直接聞いて知っていた。しかし息子からは一言も相談がなかった。
私は時計を見た。午後六時半。そろそろ出る時間だ。部屋を出る前に、私は机の上に一枚の置き手紙を残した。
「お世話になりました。鍵は玄関に置いておきます。西村佐和子」
簡潔な文章だけを記し、私は静かに部屋を後にした。リビングを通ると、大輔とマリエさんがテレビを見ていた。二人は私の姿を見ても、声をかけることはなかった。
「では、行ってきます」
私が挨拶をすると、マリエさんが顔も上げずに言った。
「二度と戻ってこないでくださいね」
「ええ、もちろんです」
私は笑顔で答えた。その笑顔に、大輔が少し違和感を覚えたようだった。
「母さん、本当に大丈夫なのか?」
「大丈夫よ。心配しないで。これからはお互い自由になれるわね」
玄関で靴を履きながら、私は最後に振り返った。
「ああ、そうそう。一つだけ言い忘れていました」
「何?」
マリエさんが面倒臭そうに聞いた。
「明日の朝、ちょっとした連絡が行くかもしれません。驚かないでくださいね」
「連絡? 何の話?」
「いえ、大したことではありません。では、お元気で」
私は深々とお辞儀をして家を出た。夜の空気は梅雨の湿気を含んでいたが、私には心地よく感じられた。タクシーを拾い、高梨弁護士の事務所へ向かう。車中で私は携帯電話でもう一つの重要な連絡を入れた。
「はい、回収の長谷です」
「西村佐和子と申します。西村大輔の連帯保証人の件でお電話しました」
「ああ、西村様。実はご子息の返済が半年以上滞っておりまして」
「存じております。それで提案があるのですが」
「提案ですか?」
「はい。今夜八時半に三千万円全額を一括でお支払いします。その代わり、債権を私に譲渡していただけませんか?」
電話の向こうで、相手が息を飲む音が聞こえた。
高梨弁護士の事務所に到着した私は、早速本題に入った。
「先生、全て準備が整いました」
「西村さん、本当によろしいんですね。ご子息との関係は修復不可能になりますよ」
「もう修復する関係もありません。今夜、息子夫婦から追い出されました」
高梨先生は驚いた表情を見せた。
「追い出された? 三千万円の連帯保証人になっている母親を?」
「ええ。年金七万円しかない貧乏人は邪魔だそうです」
私は苦笑しながらことの経緯を説明した。高梨先生は深くため息をついた。
「なるほど。それで決心がついたわけですね」
「はい。では、手続きをお願いします」
私は通帳と印鑑を差し出した。高梨先生は手際よく書類を作成し、債権回収への振り込み手続きを行った。午後八時半、予定通り長谷さんが事務所に到着した。
「西村様、本当に全額一括でお支払いいただけるんですか?」
「はい、こちらが振り込み証明書です」
長谷さんは書類を確認し、驚きの表情を隠せなかった。
「確かに三千万円の入金を確認しました。では、債権の手続きを」
こうして私は息子の債権者となった。
「西村様、失礼ですが年金生活者と伺っていましたが」
「年金は七万円です。でもそれが全財産というわけではありません」
私の言葉に長谷さんは複雑な表情を見せた。
「債権回収は明日の朝一番から始めてよろしいですか?」
「お任せします。法的に適正な手続きでお願いします」
全ての手続きを終えた私は、次の目的地へ向かった。都心の高級ホテルだ。
「いらっしゃいませ。西村様、お待ちしておりました」
フロントでは事前に予約していたスイートルームの鍵が用意されていた。部屋に入った私は、窓から見える夜景を眺めながらこれまでの人生を振り返った。夫が残してくれた五億円。私はこの存在を誰にも明かさなかった。慎ましい生活を続け、年金だけで暮らしているように見せかけていた。なぜそうしたのか。それはお金で人間関係が変わることを恐れたからだ。しかし結局は、年金七万円という金額で息子夫婦に見下されることになった。
「皮肉なものね」
私は静かにつぶやいた。
翌朝六時。私は目覚まし時計が鳴る前に目を覚ました。カーテンを開けると、梅雨の晴れ間が広がっている。
「さあ、始まるわよ」
私は優雅に朝食を取りながら時計を確認した。同じ頃、息子の大輔は激しくドアを叩く音で目を覚ました。
「なんだ? 朝っぱらから」
寝ぼけ目でドアを開けると、そこには黒いスーツを着た男たちが数名立っていた。
「西村大輔様ですね。債権回収の金子と申します」
「債権回収? 何の話だ?」
「三千万円の返済についてです。本日より差し押さえの手続きを開始させていただきます」
大輔の顔から血の気が引いた。
「ちょっと待て。まだ返済期限は……」
「連帯保証人の西村佐和子様が、昨夜全額を代弁済されました。従いまして、債権は佐和子様に移っております」
「母さんが? そんな馬鹿な」
金子は書類を差し出した。
「こちらが差し押さえ通知書です。本日中に全額弁済していただけない場合、不動産の差し押さえを実行します」
マリエさんも起きてきて事態を把握すると、悲鳴をあげた。
「どういうこと? お母さんが払ったの? 年金七万円しかないのに」
「詳細は存じあげません。ただ、法的手続きは全て適正に行われています」
大輔は震える手で携帯電話を取り出し、私の番号を押した。
「母さん、これはどういうことだ?」
「おはよう、大輔。どうしたの?」
私の落ち着いた声に、大輔は困惑した。
「差し押さえだって。母さんが債権者になったって」
「ああ、そのことね。昨夜言ったでしょう。連絡が行くかもしれないって」
「年金七万円しかないって言ってたじゃないか」
「年金は七万円よ。でも年金だけが財産じゃないの」
「どういうことだ?」
「お父さんが残してくれた資産があるの。五億円ほどね」
電話の向こうで、大輔が息を飲む音が聞こえた。
「五億……嘘だろ?」
「嘘じゃないわ。ただ、年金七万円の貧乏人は邪魔だと言われたから、黙っていただけ」
「母さん、それは勘違いだ。俺たちは……」
「はっきり言ったわよね。『出て行け』『二度と顔も見たくない』って」
大輔は言葉に詰まった。
「お金があると分かったら態度を変えるの。それこそが本当の姿ね」
「違う。母さん、話を聞いてくれ」
「話? もう話すことはないわ。法的な手続きは全て弁護士を通してちょうだい」
「待ってくれ、母さん」
私は電話を切った。すぐにまた着信があったが、もう出ることはなかった。
ホテルの部屋で、私は高梨弁護士からの報告を受けた。
「西村さん、差し押さえは順調に進んでいます。ご子息は返済能力がないようです」
「そうですか。では、予定通り全て処分してください」
「家も車も、全てですね」
「はい。ビジネスですから」
私の冷静な対応に、高梨先生も感心したようだった。その後、大輔とマリエさんは必死に私の居場所を探したが、見つけることはできなかった。年金七万円の人間が高級ホテルのスイートルームにいるとは、夢にも思わなかっただろう。
一週間後、差し押さえは完了し、息子夫婦は家を失った。車も貯金も全てを失った二人は、親戚の家に身を寄せることになった。私は新たに購入した都心の高級マンションに引っ越した。リビングからは美しい東京の街並みが一望できる。
「年金七万円では暮らせないと思ったでしょうね」
私は窓の外を眺めながら静かにつぶやいた。年金七万円。確かに少ない金額だ。でもその金額だけで人の価値を決めつけた息子夫婦の愚かさが、この結果を招いたのだ。
差し押さえから一ヶ月が経った頃、私の元に一通の手紙が届いた。差出人は大輔だった。震える文字で、必死に謝罪の言葉が綴られていた。
「母さんへ。本当にすみませんでした。僕たちが間違っていました。どうかもう一度会ってください」
私は手紙を静かに置いた。謝罪の言葉は、もう私の心には響かなかった。その頃、夫婦は親戚の家の一室を借りて暮らしていた。マリエさんは初めてパートに出ることになり、大輔は日雇いの仕事を探す日々だった。
「まさかお母さんがあんなお金持ちだったなんて」
マリエさんは毎日のように後悔の言葉を口にしていた。しかし後悔しても、もう遅いのだ。
私は新しいマンションで本当に自由な生活を始めた。朝はゆっくりと起き、好きな時間に好きなものを食べ、友人たちとの交流も再開した。
「佐和子さん、本当に生き生きしてるわね」
久しぶりに会った友人のひろ子が驚いたように言った。
「ええ、やっと自分の人生を取り戻したの」
「息子さんはどうしてるの?」
「知りません。もう関係ありませんから」
私の言葉にひろ子は少し心配そうな顔をした。
「でも、親子でしょう」
「親子? 年金七万円の邪魔物に、子供なんていませんよ」
私は静かに微笑んだ。
ある日、高級レストランで食事をしていると、偶然にも大輔とマリエを見かけた。二人は安い定食屋の前で財布の中身を確認していた。
「千円しかない」
「じゃあ一人分だけ食べて我慢しよう」
みすぼらしい姿の二人を見て、私は何も感じなかった。ただ、自分たちが蒔いた種を今刈り取っているだけだ。二人は私に気づかなかった。年金七万円の老女が高級レストランにいるとは、思いもしなかっただろう。
その後、高梨弁護士から報告があった。
「西村さん、ご子息から連絡がありました。せめて家だけでも返してもらえないかと」
「お断りします」
「分かりました」
「息子ですからね。感情を挟む余地はありません」
私は弁護士に、今後一切息子からの連絡を取り次がないよう伝えた。
新しい生活で、私は習い事も始めた。絵画教室、フラワーアレンジメント、社交ダンス。これまでやりたくてもできなかったことを、思う存分楽しんでいる。
「西村さん、本当にお若いですね。とても六十六歳には見えません」
ダンスの先生の言葉に、私は嬉しくなった。心が自由になると、体は輝くのかもしれない。
ある日、孫の水希から手紙が届いた。たどたどしい文字で「おばあちゃんに会いたい」と書かれていた。正直、心が揺れた。水希に罪はない。でも私は心を鬼にした。今さら都合のいい時だけ祖母扱いされても困る。私は返事を書かなかった。
マリエさんの実家からも連絡があった。
「佐和子さん、マリエが悪かったんです。どうか許してやってください」
「申し訳ありませんが、もう関係のない話です」
「でも、孫の水希君のことを考えて」
「水希の祖母は、年金七万円の邪魔物でしょう。そんな人間に孫などいません」
私は電話を切った。時より息子夫婦の現状を耳にすることがあった。借金を返済できず自己破産寸前だとか、マリエさんがストレスで体を壊したとか。でも私の心は全く動かなかった。むしろ清々しい気持ちだった。理不尽な扱いを受けた報いを、きちんと受けているのだから。
私は毎月七万円の年金を全額寄付することにした。本当に困っている高齢者のために使ってもらえれば、それでいいと思う。
ある夕方、マンションのロビーで見知らぬ老婦人に声をかけられた。
「あの、西村佐和子さんですよね」
「はい。そうですが」
「息子さんのことで、お話があるんです」
私は警戒したが、彼女の真剣な表情に話だけは聞くことにした。
「実は、私の娘が大輔さんの会社で働いていたんです。大輔さんはいつもお母様の自慢をしていたそうです」
「自慢?」
「はい。『立派な母親だ。父親が亡くなってから一人で自分を育ててくれた、素晴らしい人だ』って」
私は苦笑した。
「それなのに、年金七万円だと分かったら追い出したんですよ」
老婦人は悲しそうに首を振った。
「人間、お金に目がくらむと大切なものを見失うんですね」
「ええ、その通りです」
私たちはしばらく沈黙の中にいた。
「でも佐和子さん、あなたは立派です。理不尽な扱いに、きちんと対抗された」
「ありがとうございます」
老婦人と別れた後、私は自分の選択が間違っていなかったことを改めて確信した。
夜、高級マンションの広いリビングで、私は一人ワインを飲みながら夜景を眺めていた。年金七万円。その金額で私の価値が決められた日。でも今、私は誰よりも優雅で自由な生活を送っている。
「邪魔だから出て行け」
あの夜聞いた言葉が、逆に私を解放してくれた。息子夫婦との偽りの関係から、本当の自由を得るための代償は、本当に想像以上だった。
私は静かにつぶやき、グラスを掲げた。
「これからの人生に、乾杯」
