「部長、今どちらにいらっしゃるのですか?」その電話が、すべての始まりだった。俺は佐々木浩司、製薬会社の中堅社員。くじ引きで五十人規模の社内宴会の幹事を引き受け、婚約者のミキと二人で、駅前のバルを予約した。部長に報告すると、彼はパンフレットをくしゃくしゃに丸めてゴミ箱へ放り込み、こう吐き捨てた。「お前が予約した店なんか誰が行くかよ。俺がいい店をとっておく」。十日後、何も決まっていない状況に業を…

「部長、今どちらにいらっしゃるのですか?」その電話が、すべての始まりだった。俺は佐々木浩司、製薬会社の中堅社員。くじ引きで五十人規模の社内宴会の幹事を引き受け、婚約者のミキと二人で、駅前のバルを予約した。部長に報告すると、彼はパンフレットをくしゃくしゃに丸めてゴミ箱へ放り込み、こう吐き捨てた。「お前が予約した店なんか誰が行くかよ。俺がいい店をとっておく」。十日後、何も決まっていない状況に業を...

「部長、今どちらにいらっしゃるのですか?」

「それはこっちのセリフだよ。お前、幹事のくせになんで会場に来ないんだ?」

俺の名前は佐々木浩司。製薬会社に勤める中堅社員だ。今回、社内の飲み会の幹事をくじ引きで引き受けることになった。社員は五十人。大規模な宴会になるから、会場探しにはかなり気を遣う。

俺の彼女の山木ミキにも手伝ってもらうことにした。ミキは同じ会社に勤めていて、俺とは婚約している。車内ではベストカップルなんて言われたりもするが、同時に俺が車内で一番の再園のハートを射止めたのも事実だ。たまに車内で妬まれることもあるが、悪意はないので有難く受け止めている。

ミキはいろいろな飲食店に詳しくて、たくさんの情報をくれた。大学時代に結構飲み歩いたらしい。研究職の彼女は薬学部出身で、大学在学中の六年間をかなり楽しんだようだ。彼女の協力で、駅からのアクセスも良く、若い世代も年配者も楽しめる店を見つけ、五十名の予約を入れることができた」

俺は予約を入れ終えると、部長に報告をした。俺が所属する総務部は、社内の広報や支援を担当する部署だ。人事や経理のほか、今回のような飲み会の企画運営も行っている」

「飲み会のお店をこちらに決めました。ご確認ください」

部長の木深夜は、かなりの切れ者だが癖が強くて嫌われているタイプだ」

「ふん。見せてみろ。何だ?隣の駅前にあるパーティースペースだと?」

「ええ、こちらの依頼に応じて予算内で食事を用意してくれるそうです。何でも応じてくれるとのことでした」

俺はパンフレットと予約の控えを提示した」

「この店、階段がないだろう」

「それが何か?」

「この店には地下や二階より上の部屋はない。エレベーターも完備されているので、足が痛いという人事課長も大丈夫だとミキと二人で確認しました」

「階段がない店だと、途中で逃げ出すやつもいるからな。それに、お前が予約した店なんか誰が行くかよ」

部長は笑いながら、店のパンフレットをくしゃくしゃに丸めてゴミ箱に放り込んだ」

「お前、恨みを買うようなことになりそうだな」

人を馬鹿にしたような口調で笑い出す部長に、俺は嫌な気持ちになったが、次の言葉を聞いて少しほっとした」

「俺がとってもいい店を予約しておく。お前は幹事なんか引き受けるんじゃないぞ」

俺にとっては都合の良い申し出だった。店の予約をした後の人数確定や、埋金の支払いといった面倒な仕事から解放されるからだ。一緒に幹事を買って出てくれたミキには申し訳ないが、これで俺はお役御免というわけだ」

俺は肩の荷が下りて、気持ちが軽くなった。ただし、それを事務所内で悟られないように、ちょっとだけ残念そうな顔をしておくのが正解だと思った」

ミキにはメールで「幹事、首になった」と連絡しておいたら、腹を抱えて笑い転げているスタンプが返ってきた」

それから十日ほどが経過した。来週に飲み会を控えているのに、まるで何も決まっていない。「五十名規模だから早めに店を決めて段取りをつけよう」と言い出したのは部長なのに、部長は何もしていないらしい」

俺は部長に進捗を伺いに行った」

「ああ、駅前のバルを予約したよ」

上の空といった雰囲気で答える部長にしては、なかなかのチョイスだと思う」

「では、お店側と打ち合わせをしてまいりますね」

「おお、任せた」

こういうところは他人任せなのかと、俺はため息をついた。しかし、ここからの段取りは神経を使うので、俺がやった方が無難だろう。俺は駅前のバルへ足を運び、調整を進めるうちに、重大な事実に気づいてしまった」俺はミキにそれを相談する」

「それはないわよ。ありえない」

「でも、段取りを浩司さんに任せたのなら、どこかで絶対にそれが起こるわ」

「どうする?知らなかったふりをする?」

「うん。本当はいけないことなんだけど、この流れなら知らなかったふりをするのが得策かもしれない。あちらは多分、浩司さんを嵌めようとしているんでしょうから、あなたもそれに乗っかりなさいよ」

ミキはいたずらっぽく笑った”

「いやいやいやいや」

ミキはそう言うが、これが失敗したら、いや成功してもやばいことになるのは目に見えていた。俺は一瞬、退職届を準備しようかと思ったが、ミキに部長の動きを探ってもらい、対策を練ることにした」

そして飲み会当日」

「はい。あ木ですが」

俺は厚木部長へ電話をかけた」

「部長、今どこにいらっしゃるのですか?」

「それはこっちのセリフだよ。お前、幹事のくせになんで会場に来ないんだ?」

「私は部長が予約なさっていた、駅前のバルにおりますよ」

「おい、そこは昨日、店を変えたんだよ」

「では、今どちらにいらっしゃるのでしょうか?」

「一番街の入り口にある『山』っていう居酒屋だよ」

「そのお店は確か、十人ほどしかキャパがありませんよね」

「飲み会の話をしたら断るやつも出てきたから、店を変えたんだ。五十人も五人も、予算は一律だからな。豪華な食事ができるぜ」

「そちらの店には、予算からのお支払いはできませんよ」

「え?今回の飲み会の趣旨はご存知でしたか?」

「何だ?」

「社長の還暦祝いと、取引先だった製薬会社との合併を発表する会ですよ。社員は全員、初めに部長が予約されていた駅前のバルに集合しております。ちろん、社長と合併先の製薬会社の社長もです」

「何?」

「そちらの居酒屋に集まっているのは、反社長派グループの四名と、何も知らない部長だけですよね。あって、人事部よりお話があるそうなので、月曜日には必ず出社するようお声がけください」

俺はそれだけを伝えて、電話を切った」

実は、昨日、部長が予約した駅前のバルに確認の電話を入れたら、予約のキャンセルがあったと伝えられたのだ。ドタキャンで損害が出ますよと、店の担当者から叱られた。

俺は迷わず「キャンセルはなしで、このまま五十人の宴会を引き受けてください」とお願いし、大事には至らなかった。

予約が入っていないのはおかしいと、ミキに探りを入れてもらっていたのだ」

部長は案の上、本来の飲み会の目的など全く眼中になく、単純に会社の金で飲めるとしか思っていなかったようだ。厚木部長は社員に「飲みに行こうぜ」と誘って回ったが、その日は社長の還暦パーティーがあることをみんな知っていたので、誰も乗ってこなかった。逆に、社長がこの会社の支配権を取ることをよく思っていない連中が、厚木部長の誘いに乗ったと見られる」

俺とミキは水面下で社員へ個別にメールを送り、急遽場所を変えて、駅前のバルで社長の還暦パーティーを行うと伝えた」

「社長へのサプライズがあるため、車内外でこの話題は口にしないでほしい」

この一文を付け加えたため、厚木部長や反社長派グループに話が漏れることはなかったのだ」

こうして今、俺はここにいる」

駅前のバルでは、社長の還暦パーティーが滞りなく進んでいた。サプライズとして、会社の受付に飾る新しいモニュメントのお披露目も無事に済んだ。合併先の製薬会社の社長と社長夫人も来場し、終始和やかな雰囲気で会を進めることができた」

一方、厚木部長たちが飲んでいる店は、実は居酒屋ではない。高級料亭『山木』という店だ。ミキの両親が営む料亭だそうだ」

「あそこの『山』って店、居酒屋って言うけど、高級料亭『山木』って店よ」

ミキが教えてくれた」

「父に連絡して予約状況を確認してもらったんだけど、会社の予算が使えるから、時間無制限のお任せコースを頼んでるわ。それにお取り寄せの幻の大銀杏なんかもオーダーしてる。本当に会社の予算が使えたら、これって業務上横領よね」

ミキは付け加えた」

俺は指折り数える。ミキの実家の店のお任せコースは、最低一人三万からだそうだ。それにサービス料と税は別料金。反社長派のおじさんたちはケチで有名だからな」会社の予算が下りない、請求書払いができないとなると、どうなるんだろうな」

顔面蒼白の厚木部長は、反社長派メンバーにどうこの事実を伝えるんだろうな」

俺はそう思いながら、会の進行を続けた」

そして月曜日、真っ青な顔で厚木部長が出社してくる」

三十五万円もの領収書を俺の机の上に置き、経理伝票を作成し始めた」

実は、俺が部長へ電話を入れた時には、すでに『山木』での飲み会は始まっており、一本三万以上もする大吟醸が、一升瓶から二升瓶に切り替わった直後だったそうだ」

市場は知らぬまま、会社のお上客のご予約だからと、大将であるミキの父親は仕入れに大奮発したという」

そして酒によったおじさんたちは、コンパニオンのお姉さんたちまで呼んでしまったらしい」

食事代三十五万円、コンパニオン召喚五万円プラスお車代で六万円」

経理の担当者が「それは経費では落とせません」とガチ切れしていた」

会社合併による人員整理も始まり、該当者に早期退職を勧告し始めたらしい」反社長派の四人は早期退職対象者としてピックアップされており、それを断った四人は当然、配置転換へ回される。給料も待遇もこれまでの半分近くまで減らされてしまうため、結果的に厚木部長が俺たちを罠に落とし入れたことになり、反社長派の四人に疎まれることになったのは言うまでもない」

五十万円近くの飲食代などを一括現金払いを迫られたらしい」会社の金で飲み食いしていると思い込んでいるおじさんたちに、助けを求めることができなかったようだ」

厚木部長は近くの無人契約機でカードローンを契約して、なんとか支払いにこぎつけたが、ローンの契約書が自宅に届き、その金額に奥さんがびっくりしたようだ」無人契約機で六十万円も借りていたのだから、飲食代を支払った後、パチンコ店で残金を投入し、全て溶かして帰ってきたそうだ」

一応、総務部長の席はそのまま残してもらえたが、部長自身も立場が危うくなった」元々は俺に恥をかかせるために仕組んだことだったのに、自分が恥をかいてしまったのだ」厚木部長の俺に対する風当たりは、また一段と強くなってしまった。

USBメモリを隠す、書類をシュレッダーにかけるなど、今時の会社員がやらないような陰湿なことをするようになった」俺はバックアップデータを残していたし、元々シュレッダー行きの書類だったので、泣きを見ることはなかったのだが、やることがあさますぎて、何度か人事に相談をしていた」

すると、とうとう事件は起こってしまったのだ」

「副社長の宿泊先を予約したのは佐々木君だったよね?」

「はい、ご指示通りに山手の温泉旅館へ、一名特別室を一部屋」

「ところが、予約は受けてないって、追い返されそうなんだよ」

「え、本当ですか?」

俺は慌てて山手の温泉旅館へ電話を入れた。支配人に変わってもらい、予約の履歴を確認したら、先週の木曜日に俺は確かに予約を入れていた」

「そして、つい昨日、男性の声で予約の取り消しがあったという」

「予約受付係が名前を確認しようとしたら、副社長の名を名乗って電話が切れたそうだ」

俺は顔から血の気が引くという状況を初めて経験した。耳元で音がするかのように、血流が逆流したような気がした」

副社長は、合併前の製薬会社の社長で、今日は取引のために出張していて、宿泊先としてこの旅館を指定していたのだ」一体誰が…。このままでは副社長が宿無しになってしまう」

「副社長がしょぼくれた温泉宿に宿泊するなんて、会社の恥ですよ」

「え、今何て言いましたか?山手の温泉旅館なんて、Fランクよりも怪しい、あるだけマシなホテルでしょ」

「やばいから、私の方で宿泊先を変えておきましたよ」

「何だって?」

俺は厚木部長の胸ぐらを思わず掴んでしまった。慌てて社長が間に入り、俺を止める」

社長が俺の背中をトントンと優しく叩き、落ち着かせてくれた」

「あそこの駅前にできた超高級ホテルのスイートを予約していますよ」

「マジュクアリーなホテルですから、お疲れを癒していただけることでしょう」

「厚木君、お前はバカか。バカなのか?」

今度は社長が逆上するターンを作ってしまった」

ドヤ顔の厚木部長は、俺と社長がなぜ怒っているのか分かっていない」

我が社の社員なら、なぜ副社長が山手の温泉旅館を指定したのか、事情を知っている」合併前の社員はもちろん、親となる我が社の社員も全員だ」

「だって、わざわざ山奥まで移動するよりも、駅前に宿泊した方がいいでしょう。ああ、温泉はホテルにはありませんけどね」

「ふかふかのベッドで眠れるじゃないですか」

「あそこはな、今回の取引先の社長のご家族が経営しているんだ”

これにFよりも怪しい、あるだけマシな旅館なんかじゃない。お歴々御用達の、由緒ある温泉旅館なんだよ」

「それを、よかれと思って違うでしょ。俺を困らせるために、勝手に書類を見て予約を取り消したんでしょ」

俺が睨みつけると、他の社員たちも厚木部長を冷やかな眼差しで見据えた」

「だからか、今回の取引は失敗したと連絡が来たんだよ」

これでジェネリック薬の供給が三年も遅れてしまうことになったんだ」会社としては大損害ですよ、副社長がご尽力くださって、ここまで信頼関係を築いてきた取引先だったのに」

厚木部長はようやく事態を把握したようだ」

「駅前のラグジュアリーな超高級ホテルのスイートルームの予約って、全額を支払っているんでしょうか?」

「もちろん、何せ一泊三十万円だからな。二十%の金を支払っている」

俺は経理社員にその時の経理伝票を確認してもらう」

「こちらは無効です」会社からの支出は認められませんよ」

「金なんて出せねえは」

「今何て言った?」

「この間の飲み会で負担した六十万円の返済ができなくて、裁判所から…」

「それとこれとは関係ないでしょう」

「今回、しょぼくれた温泉宿から豪華なホテルに変更して、判をもらえたらいいなと思い…」

「そんなんで判をくれる会社じゃねえぞ」

ここまで行って、俺は慌てて両手で自分の口を抑えてしまった」

「妻は呆気れて家を出て行ってしまって、今回の裁判所からの令状で、妻に離婚を言い渡されてしまって…。っていうか、先月作った六十万円の借金で裁判所から通知って、おかしいですよね」

厚木部長は俺の一言で、膝を折って崩れてしまった」

実は、数年前から借金を続けていて、三百五十万円に膨れ上がってしまったのだという」

「そんなことだろうとは思っていた」

それは会社で助けることができないし、それよりも、横領などの可能性が否定できなくなってしまった」

俺は取引先の会社へお詫びの電話を入れ、営業部の社員を取引先へ派遣し、取引交渉をしてもらえるよう手配をした」。副社長には近くのビジネスホテルを取り、そちらへ宿泊してもらうことにする」厚木部長の件は即座に調査委員会を立ち上げ、不審な経理伝票がないか調べるよう指示した」社長は厚木部長に自宅待機を命じた」

「この家は妻への慰謝料として売却しまして、家を借りようと思っているのですが、審査が厳しくて、漫画喫茶やネットカフェを点々とするホームレス状態だというのだ」

「悪いが、そんな社員を救済できる余地はないよ」

社長が吐き捨てるように言ったため、厚木部長はもう首が確定してしまったようだ」

「それでも、勤続二十六年というので、退職金が欲しければ、自己都合退職だな」

しかし、自己都合退職も良しとされなかった。合計五回、百五十万円の不正処理と思われる経理伝票が出てきてしまい、厚木部長の自己都合退職は叶わないようだった」

それで俺はと言うと、時期総務部長として指名を受け、三十六歳にして管理職となった」

婚約していたミキと入籍を果たし、共に戦友と祝された」

お互いに忙しさを目の前にした結婚だが、ミキはさらに研究職に没頭できると意気込んでいる」

仕事中心の結婚生活になったが、それもまた楽しめる要素ではないだろうか」

こうして、俺は厚木部長に嵌められたはずが、逆に俺が厚木部長を罠に嵌める形になった」

皮肉なものだ。思えばあの日、くじ引きで幹事を引き受けなければ、今頃はどうなっていたのだろう」ミキと結婚もしていなかったかもしれないし、総務部長の座もなかっただろう」

人生とは、どこでどう転ぶか分からないものだ」

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