私の名前は三谷あずみ。二十九歳。家族はなく、天涯孤独の身だ。そう言うと大抵の人は気まずそうな顔をするけれど、私はもう一人でいることには慣れきっていた。
両親を亡くしたのは三歳の時だったと聞いている。詳しいことは誰も教えてくれなかったし、私も特に知りたいとは思わなかった。事故の後、親戚の家を点々とした。邪魔だと面と向かって言われたことはないけれど、歓迎されていないことは十分に分かっていた。
高校を卒業して大学へ進学し、奨学金を借りて足りない分はアルバイトで補った。生活は楽ではなかったが、あの頃の私には確かに自分の足で前に進んでいるという実感があった。
人生が一変したのは二十歳の頃。大学からバイト先へ向かう途中の交通事故だった。目が覚めた後、自分の足が永遠に動かないことを知った。車椅子生活を余儀なくされた私は大学を中退し、事故の後遺症で受給が認められた年金で細々と暮らすしかなかった。
二人年下の夫となる真生に出会ったのは、そんな生活が三年ほど続いた時期だ。街中で段差に引っかかり動けなくなっていた私に、彼は何も大げさなことを言わずに自然に手を貸してくれた。お手伝いしましょうか。その表情に同情の色はなかった。困っている人に手を差し伸べるのは当たり前。そんな彼の態度が、腫れ物扱いされてきた私にはひどく新鮮だった。
以来少しずつ仲を深めた私たちは三年の交際を経て結婚した。ようやく自分にも落ち着ける場所ができた。あの時の私は本気でそう信じていた。
今から三年前、真生に連れられて初めて実家を訪問した日のことを今でもはっきりと覚えている。立派な門をくぐると、よく手入れされた庭が目に入った。建物も古い作りでありながら洗練されていて、隙がない。三谷家は先祖代々旅館を営んできた家だ。真生の両親はすでに亡くなっていて、今は七つ年上の姉・英子と彼女の夫が旅館を切り盛りしているらしい。私たちは敷地内にある離れに向かった。そこが真生の生家であり、現在は英子と彼女の夫と子供たちが暮らしているという。
「ただいま。」
「お邪魔します。」
「この人があずみさん。」
「そうだよ。前に話してた人。」
玄関先に現れた英子は着物がよく似合う美人だった。背筋がすっと伸び、立ち居振る舞いに無駄な動きが一切ない。女性経営者らしい毅然と落ち着きがあったけれど、彼女の表情は私の姿を見た途端に曇り、鋭い視線が車椅子へ落ちた。その一瞬で、歓迎されていないことを悟った。
「座敷は無理でしょうから。大間へどうぞ。」
案内されたのは、豪華なシャンデリアが眩しい大間だった。真生に抱き抱えられて革張りのソファーに腰を下ろす。隣に真生、向かいに英子が座る。
「あの、改めてご挨拶を。真生さんとお付き合いさせていただいているあずみと申します。」
「真生の姉の英子です。」
「電話でも軽く話したけど、今日はきちんと報告したくて来た。俺、あずみと結婚したいと思ってる。」
一瞬静まり返った部屋の中、英子はまず真生を見た。それからちらりと私に視線を移した後、再び彼に向き直った。
「真生、あなた正気なの?」
驚きと軽蔑が入り混じった怖い色。真生は面食らったようだったが、怯まずに返した。
「もちろん正気だよ。」
「それは困ったわね。」
「何が困るんだよ。」
「分からないの?三谷の嫁として迎えるには、あずみさんは不都合が多すぎるのよ。」
私は膝の上で体を支えていた腕に力を込めた。結婚を祝福されない可能性については覚悟していたが、ここまでストレートに反対されるとは思っていなかった。しかし、黙って引き下がるわけにはいかない。
「急なお話で驚かせてしまったならすみません。」
「いいえ。問題はそこじゃないのよ。」
英子は私をまっすぐ見据えた。自分が周りからどう見られるか分かってる?
「おい、やめろよ。」
「やめないわ。あなたたちが問題の本質を理解するまで何度でも言う。車椅子の嫁なんて、一族の恥よ。」
英子が言い放った言葉に、ひどい耳鳴りがして周囲の音が一気に遠のいた気がした。今までの人生で幾度となく経験してきた腫れ物扱いとは全く違う、直接的な悪意だ。
「英子。」
「私、何か間違ったことを言った?旅館は家の看板で成り立ってるの。客商売なのよ。お客や親戚がどう思うか考えないわけ?」
「あみを侮辱するな。」
「侮辱してるのはどっち?あずみさん、あなた弟の人生を台無しにするつもり?」
頭の中で彼女が言った言葉が何度も繰り返される。何か言わなければと思ったが、喉が引きつってうまく声が出なかった。
「おっしゃる通り、この体のせいで真生さんに負担をかけてしまうのは事実です。これでも私…」
「ああ、よかった。自覚はあるのね。それなら大人しく身を引いてくれないかしら?あなたと結婚したら弟は大きな重荷を背負うことになるでしょうから。」
「重荷?」
「そうよ。あなただって好きな相手を不幸にしたくはないわよね。よく真生のことを諦めてくれるなら、お礼にいくらか包んであげる。どう?あなたにとっても悪い話じゃないでしょ。」
優雅に微笑む英子。彼女が懐から小切手のようなものを取り出したところで、真生が勢いよく立ち上がった。
「もういい。帰る。英子が認めなくても俺たちは結婚するから。だが、その前にあずみに謝れ。」
「謝る理由がないわ。私は三谷家の娘として真剣に家のことを考えてるんだもの。」
「理由は関係ない。英子、お前は人として最低だ。」
「現実を教えてあげてるの。優しさだけでは人生は回らないのよ。」
実家からの帰り道。真生は何度も謝ってくれたけれど、私は優しい彼に頭を下げさせていること自体が辛かった。三谷家に入る前、私は少し期待していたのだ。きちんと話せば英子にもきっと分かってもらえる。家族として受け入れてもらえるかもしれないと。しかしそんな淡い期待は跡形もなく消えてしまった。
結婚挨拶から一ヶ月ほど経った頃、とあるホテルのレストランで両家顔合わせの席が設けられた。だが集まったのは三谷家側の親族のみ。最初から分かっていたことだ。私には結婚を祝いに来てくれるような親族はいない。
「気にしなくていいよ。顔合わせなんて形式的なものだし。あずみのご両親のことはうちの親戚にも伝えてあるからね。」
「うん。ありがとう。」
食事が始まってしばらくは表向き穏やかな時間が流れた。最近の天気、ホテルの料理、旅館の歴史。真生の親族と当たり障りのない会話を交わすうち、私は徐々に緊張がほぐれていった。けれど英子は最初から機嫌が悪そうだった。
「それにしても、随分寂しい顔合わせになったものね。」
ワイングラスを持ち上げながら彼女はわざとらしく言う。私はナプキンの端を指で抑え、やはり来たかと思った。どうやら英子は顔合わせを穏便に済ませる気はないらしい。
「それはあずみのせいじゃない。」
「だとしても事実でしょ。結婚するのに相手方の親族が誰も来ないなんて聞いたことがないわ。」
「私の両親は三歳の時に亡くなっています。他の親戚とも深い付き合いはありません。」
「それは知ってるわ。でも最低限の関係性すら築けていないのは、あなた自身の問題でもあると思うのよ。まさか自分の身内にここまで嫌われてるとはね。」
幼い頃から親戚中を点々としてきた私には、育ての親と言える存在はいない。大学進学後はほぼ没交渉となり、事故にあった時に関わってくれた人は皆無だった。しかし、そんな事情を説明したところで英子は納得しないだろう。
「やめろって。あずみは十分頑張ってきた。」
「頑張ったかどうかなんて外からは分からないわ。結果として今日ここには誰もいない。それが全てでしょ。」
しばらくしてメインディッシュが運ばれてきた。湯気の立つ皿を前に、どこか重苦しい空気が流れる。そんな中、英子はさらに話を続ける。
「そういえば、私前からちょっと気になってたんだけど。」
「何がだよ。」
「あずみさんの経歴よ。大学は中退。就職歴もなし。今は年金の収入しかないんでしょ。」
親族の視線が一斉にこちらへ向いた。精一杯背筋を伸ばし、私は息を整えた。
「大学を中退したのは事故の後遺症で体調も生活も変わってしまったからです。就職については、車椅子になってからは余裕がなくて…」
「事情があるのは分かるわ。でも学歴も職歴もない女の子が三谷の跡取りと結婚するなんて、世間がどう見るかしら。」
思わず私は唇を閉じた。大学を辞めた時の悔しさは今でも心の奥に残っている。塞ぎ込んで就職できなかったことも、年金暮らしをしていることも、人に指摘されるまでもなく私が誰よりよく分かっている。
やがて真生のおばらしい女性が気を遣うように笑った。
「まあまあ。経歴がどうであれ、真生君と一緒なら安心。それに今は在宅でできるお仕事もありますしね。」
「あずみさんには安定した仕事は無理でしょうね。多少内職をしたくらいで生活の土台になるとは思えないわ。」
「もう黙ってろ。それ以上喋るな。」
「何がいけないの?普通と違う人を警戒するのは家族として必要なことよ。弟に取り入って三谷の家に寄りかかろうとしてるんじゃないかって疑うのは当然でしょ。」
ガツンと頭を殴られたような衝撃が走った。寄りかかる。私はそういう目で見られていたのだ。
「私は三谷家に頼りたくて真生さんと結婚するわけじゃありません。」
「そうやって強がる人ほど、いざとなれば泣きついてくるのよ。だって自分一人で歩んできた実績がないもの。」
その一言は私の胸にまっすぐ突き刺さった。彼女はまるで人の痛いところを熟知しているようだ。すると真生が椅子を引く音がした。
「帰るぞ、あずみ。もうここにいる意味はない。」
「でも真生、また逃げるの?」
「なんとでも言え。これ以上お前にあずみを傷つけさせるつもりはない。」
いつも穏やかな真生がはっきりと怒っている。彼の思いやりがありがたくて、同時に苦しくもあった。また私のことで真生にこんな顔をさせてしまったと思ったからだ。親族たちは何も言えず、視線を落ち着きなく彷徨わせていた。
ホテルを出た後、しばらく私たちは何も話さなかった。結婚前の両家顔合わせという場ですら、英子は私を家族として扱うつもりがない。そのことをはっきりと思い知らされた日だった。
三ヶ月後、身内だけの式と入籍を済ませた翌日、昼過ぎにインターホンが鳴った。モニターを覗いた真生がわずかに顔を顰める。
「英子だ。」
車椅子上で私は思わず背筋を伸ばした。まさか昨日の今日で彼女が新居へ押しかけてくるとは思っていなかった。真生は小さく息をついて玄関へ向かう。彼の後ろからついていくと、ドアの向こうに立つ英子は大きめの紙袋を掲げ、にっこりと笑っていた。
「こんにちは。突然ごめんなさいね。」
「いえ、こんにちは。」
「引っ越し祝いを持ってきたの。入れてくれるでしょ。」
弟夫婦を祝いに来た優しい姉。英子を知らない人からすれば彼女はそう見えただろう。けれど、簡単に人が変わるとは思えない。
「入れ。」
「ありがとう。いらっしゃいませ。」
英子は私には返事をせず、玄関の中を見渡した。靴を脱いで上がってからも、彼女の視線は壁際の手すりや段差のない床、広めに取った通路へと移っていく。新居の部屋はバリアフリー仕様のものを選んでいた。車椅子で動きやすいことを優先し、何度も吟味した結果だ。
「へえ、随分整ってるのね。」
「最初からそういう部屋を探してたんだよ。あずみのために。」
「そう。手間もお金もかかったでしょうね。」
その嫌味な言い方はもう祝いに来た客のものではなかった。真生が英子をリビングへ案内した後も、彼女はソファーに座ろうとせずキッチンや洗面所、寝室の引き出しまで見て回った。まるで内見に来た人のようだ。
「お風呂も広いのね。」
「介助が必要になることもあるから。」
「ふうん。」
短くそっけない返事。嫌味られているのが分かる。ようやくソファーに腰を下ろした英子は、持ってきた紙袋をテーブルの上に置いた。中身は有名店の焼き菓子詰め合わせだった。
「それで、あずみさんは毎日ここで何をしてるの?一日中真生に寄生してるってわけ?」
「家のことをしながら刺繍をしています。」
「刺繍?」
私はリビングの隅に置いた作品箱に目をやった。視線を察した真生が、その中からポーチを一つ取り出す。
「あずみは刺繍が上手いんだよ。最近は小物や布雑貨を作って売ってる。自分にできる仕事をしてるんだ。」
「仕事って言っても、趣味の延長みたいなものでしょ。」
「そうですね。今は委託先と個人の注文のみであまり数は多くありませんけど。」
「こんな低レベルな小遣い稼ぎで真生を支えてるつもり?」
英子は真生が差し出したポーチを一瞥して鼻で笑った。手に取ることもしない。刺繍を始めたのは大学を辞めてしばらく経った頃。家の中でできることを探した結果だ。布に針を落とし、決まった順番で糸を通していくと頭の中が静かになった。真生と出会ってからは彼に勧められて作品を販売している。たとえ売れる数は多くなくても、自分の手で作ったものに値段がつくことは私の自信を繋ぎ止めてくれた。
「そういう言い方するなよ。金額の高低は問題じゃない。」
「相変わらず綺麗事ばっかりね。この部屋だって、あなただって条件をつけて探したんでしょ。」
「それは必要なことだからだ。」
「働けない人と結婚するなんて、真生も苦労するわね。」
頭から氷水をかけられたのかと思うほど、一気に背筋が冷たくなった。事実、私は会社勤めはしていないけれど、何も考えずにのんびり暮らしてきたわけでもない。事故の後、自分にできることを探し続けて今の生活にたどり着いた。それでも英子には価値のないものにしか見えていないのだ。
「おい、訂正しろ。あずみは立派に働いてるよ。」
「社会に出た経験もないのに、立派に働いてるなんて言える?」
「もうやめろって。」
「怒らないで。私は心配してるの。あなた一人の負担でいつまで持つのかしら。」
目の前にいるのに、私を抜きに話が進んでいく。透明人間になったようで辛かった。それでも私は当事者だ。いつまでも門の外にいるわけにはいかない。
「私は真生さんに生活の全てを頼るつもりはありません。確かに経済面では負担をかけていますが、二人で支え合って…」
「でも結局、最後は真生に頼るんでしょ。そんなのは対等な夫婦とは言えないんじゃない?」
「それは…」
「哀れみみたいね。やっぱりあなた真生に一方的に依存してるのよ。弟は気が優しいから、かわいそうな人を放っておけないの。あなたはその慈悲に甘えているだけの…」
英子を遮って真生が立ち上がった。体の横で固く握った拳が小刻みに震えている。
「帰ってくれ。」
「ちょっと、お祝いに駆けつけた姉に向かってそんな言い方するの?」
「本当に祝いに来たのなら、少しはそれらしい態度を取ったらどうだ?あずみを見下したり、嫌がらせしたりせずにな。」
真生が怒りを露わにしても、英子は最後まで謝らなかった。それどころか私の存在を完全に無視している。帰り際、玄関で振り返った彼女は捨て台詞を残した。
「今は新婚で楽しいでしょうけど、すぐに現実の厳しさに気づくわよ。真生、あなたが早く目を覚ますことを祈ってるわ。」
ドアが閉まった後、部屋は水を打ったように静かになった。英子は自分の考えが正しいと信じて疑わない。そのことがひどく悔しくて仕方なかった。
結婚して一年が過ぎた頃、英子からの電話はすっかり日常の一部になっていた。最初は月に一回あるかないかだったのに、いつの間にか週に何度もかかってくるようになっている。昼でも夕方でも関係ない。私が一人で家にいる時間を狙っているのだと、途中からはっきり気づいた。
その日も刺繍の作業をしている最中にスマホが鳴った。画面に表示された名前を見た途端、肩の辺りが重くなる。
「もしもし。」
「真生は?」
「まだ会社です。」
「そう。ちょうどいいわ。」
嫌な予感がした。英子は最初から気に入らない私に悪意をぶつけるために電話をかけてきている。
「真生の給料、ちゃんと管理してるの?無駄遣いしてないでしょうね。」
「生活費は二人で相談して決めています。」
「相談ね。家計簿はつけてるの?」
「家賃、光熱費、食費、それから医療費。英子の質問は親族としての範囲を逸脱しており、点検に近かった。可能な限り問いに答えてきたけれど、納得されたことはない。私は壁を眺めながら膝の上で手を組み直した。
「言い方は悪いですけど。」
「でも、あなたはお金の感覚が甘そうなのよね。だって、あなた外に働きに出た経験がないでしょ。お金の重みが分からない人って結構いるのよ。」
最初から人の本質を決めつけてかかるその言い方に、私は奥歯を噛んだ。確かに私には学生時代のバイト経験しかないけれど、入ってくるお金の重みならむしろ嫌というほど知っている。年金でどう暮らすかを計算し、材料費を引いた上で刺繍の利益を出す。ギリギリのやりくりを私はずっと自分でやってきた。それでも英子の中では、私は最初から真生を苦しめる存在なのだ。
「どうしてお姉さんはそんなことを言うんですか?」
「だって真生は可愛い弟だもの。家族の財産は守らないと。」
「でも、それは私たち夫婦の問題です。」
「だから心配してるのよ。真生は断れない。だからあなたに言われるままになってるんでしょ。」
事実、真生は優しい。でも、人に言われるがまま流されるような人ではない。生活費のことも将来設計も、私たちは二人で話し合って決めている。何度もそれを説明しようとしたが、英子はいつも一方的に自分の意見を言って電話を切ってしまう。
数日後、また英子から電話がかかってきた。その日はちょうど委託先から追加注文の連絡が来た後だった。気持ちが明るくなっていたせいか、私はつい余計なことを口にしてしまった。彼女に認めてもらいたいという心理が働いたのかもしれない。
「最近、刺繍の注文が少しずつ増えてきたんですよ。小物の追加も入ってますし、前より売り上げも伸びてきて。」
「だから何なの?そんなの暇人のお遊びの延長でしょ?自慢できることじゃない。」
私は言葉を止めた。嬉しかった気持ちが彼女の一言でしぼんでいく。
「お遊びではありません。小規模ですけど、仕事としてやっていることです。」
「じゃあ聞くけど、仕事って言うほどの額になるの?」
「お姉さんからしたら大きな収入ではないと思います。でも、このまま順調に展開していけば…」
「弟の稼ぎがあるからできる同然じゃない。」
その言葉が頭の中で何度も繰り返される。夜中まで図案を考え、指が痛くなるまで針を動かして、ようやく受けた注文だ。材料を選び、縫い進め、梱包し、発送する。全部自分で行っている。それを意図も簡単に否定されたことがたまらなく悔しかった。
「私は本気でやっています。」
「本気かどうかじゃない。ビジネスで大事なのは生活を支えられるかどうかでしょ。今すぐは無理でも、徐々に規模を広げて、ゆくゆくは自分の会社を…」
「そういう夢みたいな話は、真生に負担をかけない範囲でやってちょうだい。それじゃ、そろそろ切るわね。私、あなたと違って忙しいから。」
電話の向こうの英子は最後まで落ち着き払っていた。どなるどころか声を荒げることもしない。だからこそ、こちらを見下していることがはっきり伝わってきた。
その夜、帰宅した真生に電話の内容を話すと、彼は深く息を吐いた。
「そうか。また英子がそんなことを。」
「うん。」
「気にするなって言っても難しいよな。」
「なるべく受け流すようにしてるんだけど、何を言っても聞いてもらえなくて。」
真生は私の作業机の上に置かれた刺繍を見て、静かに言った。
「あずみが積み上げてるもの。俺はちゃんと分かってるから。」
心が救われるのと同時に、私は十分すぎるほど分かっていた。自分がどれだけ努力しても英子は認めるつもりはないということを。彼女にとって私は、真生を脅かす存在のままだった。
結婚して二年が過ぎた頃、久しぶりに私は真生と一緒に実家を訪れた。顔を出して欲しいと英子から連絡があったのだ。大間に通されると、彼女は珍しく妙に上機嫌だった。挨拶もそこそこに、写真を取り出して真生の前に置く。
「何これ?」
「見合い写真よ。うちと昔から付き合いのある家の娘さん。ちゃんとした家柄で気立てもいいわ。年も釣り合ってるし、周りに出しても恥ずかしくない方よ。真生にぴったりだわ。」
思わず私は耳を疑い、英子の顔を凝視した。冗談を言っているようには見えない。真生は一瞬呆けたかと思うと、次の瞬間には怒りで顔を赤くした。
「ふざけるな。俺はもう結婚してるんだぞ。」
「ええ、知ってるわ。だからって間違いをそのままにしておいていい理由にはならないでしょ。」
「英子、いい加減にしろ。」
「いい加減にするのはそっちよ。いつまで現実から目をそらしてるつもり?」
英子は私を一瞥し、ためらいもなく続けた。
「現実を見なさい。三谷家の後取り筋なんだから、子供を産める嫁をもらうべきよ。」
「あずみの前で言うことか。」
「本人がいるからこそよ。見えないところで話す方がよほど失礼でしょ。曖昧にして後で泣きを見るよりは親切だと思うけど。」
事故の後遺症で私は出産はできないだろうと、早い段階で告げられている。そのことは結婚前に真生にもきちんと話してある。私たちは現実を分かった上で結婚したのだ。真生が写真を乱暴に掴み、テーブルの上へ突き返した。針のような視線を英子に向けている。
「こんな話を持ってくるな。俺の前にも、あずみの前にもだ。」
「感情で怒っても仕方ないでしょう。先のことを考えれば当然の話よ。」
「俺の人生を勝手に決めるな。」
「じゃあ聞くけど、この先どうするの?子供も産めない。介助もいる。その現実を抱えたままで、あなた一人の覚悟で済む話じゃないのよ。」
何も言えない私を車椅子に乗せ、真生はそのまま実家を出た。帰り道、彼は何度も謝ったが、私は返事をする余裕さえなかった。その日を境に、兄弟の仲はさらに険悪になった。真生は英子からの電話に一切出なくなり、必要な連絡も旅館の従業員を通じて行うことが大半。直接やり取りをすることはほとんどなくなった。だが英子は、真生がいない時間を狙って家へ来るようになったのだ。
ある平日の昼、突然インターホンが鳴った。ドアを開けると案の上、英子が立っていた。
「少し話しましょう。長居するつもりはないわ。」
「真生は仕事です。」
「知ってるわ。だから来たの。あなたと二人で話したかったのよ。」
緊張で背中が強張る。警戒している私をよそに、英子は当然のようにリビングに上がり込み、ソファーに座るなりこう言った。
「真生と離婚してちょうだい。」
「急に何を言ってるんですか?」
「急な話じゃないわ。むしろずっと言うべきだと思っていたくらいよ。真生のためにも、そろそろ決断してもらわないと困るの。」
英子は表情を変えないまま言葉を重ねた。
「あなたがいる限り、あの子は人生をやり直せないの。」
「そんなこと、真生さんは望んでいません。」
「本人は優しいから本音を言えないのよ。あなたを傷つけたくなくて無理をしてるの。これ以上、負担をかけないで。あなたがそばにいる限り、あの子は自分の人生を犠牲にし続けるしかないのよ。」
その後も英子は何度か家に来た。会話は毎回ほとんど同じだった。真生を解放して、身を引いて、これ以上迷惑をかけないで。穏やかな口調のまま、彼女は繰り返し離婚を迫った。真生に相談しようとして、私はその度に言葉を飲み込んだ。また兄弟の関係が悪くなると思うと、口にできなかったのだ。
そして、結婚して三年が過ぎた頃。真生は事故で帰らぬ人になった。
その知らせを受けた瞬間のことは今でもうまく思い出せない。どうやって病院までたどり着いたのかも、記憶は所々途切れている。ただ、彼がこの世にいないという事実のみが冷たくはっきり残った。
間もなく駆けつけた英子は、私の顔を見るなり表情を険しくした。
「あなたのせいよ。」
意味が分からなかった。聞こえているはずなのに、脳が理解するのを拒んでいるようだ。
「何を言ってるんですか?」
「あなたと関わらなければ、真生はこんなことにはならなかった。」
「そんな…」
「家族が揃って事故で亡くなるなんて、おかしいでしょ。呪われてるのよ、あなた。」
低く、憎しみのこもった声。とっさに反論できなかったのは、自分でも英子が言ったことが真実かもしれないと思っていたからだ。両親、私の足、そして真生。大切なものは全て事故によって失われた。
翌日、葬儀の段取りが決まった。英子が諸々の手続きを買って出たのだ。それ自体はありがたかったが、彼女は電話口で衝撃的なことを告げた。
「葬儀は三谷家の身内だけでやるから、あなたは気にしなくていいわ。」
「え、ちょっと待ってください。だって妻の…」
「喪主は私が務める。あなたにできるわけないでしょ。」
真生を送り出す場に私を入れないつもりらしい。にわかには信じられなかった。
「せめて最後に真生さんと合わせてください。」
「病院であったでしょ?それで十分よ。」
「そんなはずないです。」
「こっちも忙しいの。旅館の立場もあるし、あなたにまで構っていられないのよ。」
電話はそれで切れた。私はスマホを握りしめて、しばらく呆然としていた。泣きたいのに涙も出ない。真生が亡くなったことより、妻として扱われていないという現実が重くのしかかっていた。
葬儀の後、英子は喪服姿のまま部屋へ押しかけてきた。能面のような無表情だ。
「必要な手続きは全部こっちでやるわ。」
「私にも確認させてください。」
「あなたがやったら、余計に遅れるでしょう。」
そう言うと英子は書棚や引き出しを次々に開け始めた。保険証券、通帳、住所関係の封筒。真生の名前が入ったものを、ほとんど無造作に紙袋へ入れていく。
「待ってください。それは大事な書類です。」
「だから持っていくの。相続のこともあるし、私が管理するわ。」
「せめて、何を持っていくのか教えてください。」
「あなたが知る必要ないわ。」
彼女を止めなければ。でも頭の中はまだ混乱のさなかにあって、どの書類が何に必要なのかすぐには整理できなかった。真生を失ったばかりの私は、立ち向かう気力まで奪われていたらしい。
「それじゃ、用がある時はこっちから連絡するわね。」
ドアが閉まった後、部屋は時間が止まったかのように静かだった。脱ぎ散らかした服、旅先で買ったマグカップ、一緒に選んだカーテン。真生がいた痕跡は今もそのまま残っている。いつもと変わらない風景から、彼の存在のみが切り離されたかのようだ。そして私は彼の妻であるにも関わらず、葬儀の列席を断られ、重要書類まで持ち去られてしまった。考えるべき問題が山積みで、私は純粋に悲しむことさえできずにいる。
二ヶ月後、相続の手続きは一向に進んでいなかった。英子が手続きしているとは聞いていたけれど、こちらから進捗を尋ねても帰ってくるのは冷たい言葉ばかり。
「あの、何かサインが必要な書類はありませんか?」
「あったらこっちから言うわ。」
「今どういう状況なのかだけでも知りたいです。」
「あなたが知ったところで、何か変わるの?」
電話はいつもそこで終わる。何度かけても同じだった。結局、私の手元に渡されたのは、ほとんど使われていなかった真生の古い通帳が一つ。見覚えのない支店名に、何年も前の取引記録。それを受け取った時、無意識のうちに英子に頭を下げて謝っていた自分が情けなかった。
「それじゃ、確かに私だから。」
「他の口座はどうなってるんですか?」
「だから、進捗があれば知らせるって言ってるでしょ。何度も言わせないで。」
「すみません。」
葬儀から三ヶ月が過ぎた頃、私は通帳と印鑑をバッグに入れて銀行へ向かった。真生の口座は手続きの後、私の名義に変わっていた。窓口で確認しながら、下ろせる金額を何度も頭の中で計算した。生活費を少しでも残しながら今月の家賃を払えるギリギリの額。迷った末に、私は十万円を下ろした。
「こちらでお間違いありませんか?」
「はい。ありがとうございます。」
車椅子生活を送る私は元々年金で暮らしていた。結婚してからはそこに真生の給料が加わり、なんとか回っていた。でも真生が亡くなった今はまた年金に頼って暮らすしかない。それでも諸々の引き落とし日は容赦なく近づいてくる。
「ご利用ありがとうございました。出口までお送りしましょうか?」
「いえ、一人で大丈夫です。」
十万円の現金が入っているはずの封筒は、ひどく頼りなく感じられた。私はその足で普段使っている別の銀行へ向かい、家賃を支払った。窓口で控えを受け取った瞬間、ようやくほんの少し力が抜けた。今月はまだ追い出されずに住む。たったそれだけのことでほっとしている自分が惨めだった。
二日後、作業机で刺繍の図案を見ているとスマホが鳴った。表示されたのは知らない番号。営業の電話かと思って見送ろうとしたけれど、なぜか胸がざわついてそのまま通話ボタンを押す。
「もしもし。」
「三谷あずみ様でいらっしゃいますか?」
「そうですけど…」
相手は先日金を下ろした銀行の担当者だった。
「ご相続に伴う名義変更の手続きの件で、確認したいことがございまして。」
「確認ですか?」
「お電話ではお伝えしにくい内容です。ご都合がよろしければ、今一度ご来店いただけますでしょうか?」
「何か問題があるんですか?」
「現時点では、正式な確認をお願いしたいということしか。ご本人様にお会いした上で進めたいと考えております。」
電話ではそれ以上話せないらしい。私はその日のうちに支度をして銀行へ向かった。窓口で名前を伝えると、奥の応接室へ案内された。待っている間、自分の心臓の音がやけに大きく聞こえた。何の要件なのか見当もつかない。
「急なお呼び立てとなり申し訳ありません。」
「いえ、あの、相続の件というのは…」
やがて中年の男性が書類の入ったファイルを持って入ってきた。隙のない身なりで、感情を押し殺した態度を崩さない。
「まず念のための確認ですが、亡くなられた真生様の配偶者であるあずみ様でお間違いありませんね。」
「そうです。」
「現在、相続関連のお手続きは、他の相続人であるご親族の方が主導されていると伺っております。」
「ええ、義姉の英子がやると言って、私には詳しく教えてくれていません。」
担当者は静かに頷き、ファイルを開いた。中から数枚のコピーを取り出し、私の前に向きを揃えて並べる。
「こちら、すでに提出されている書類の写しです。ご確認ください。」
言われた通り、私は一枚ずつ目を通した。難しい文言は多かったけれど、問題の箇所はすぐに分かった。三谷あずみの署名欄があるけれど、その文字にはまるで見覚えがない。
「これは私の字ではありません。」
「やはり、そうですか。」
「そもそも、私、こんな書類に署名した覚えはありません。」
「その確認を、ご本人様に直接取らせていただきたかったのです。」
全身がじわりと冷えていく。私は書類を見つめ、指先に力を込めた。英子が相続を進めていることは知っているけれど、私の知らないところで偽の署名まで出されていたとは予想外だった。
「これを書いて提出したのは、義理の姉さんですよね。」
「断定はできませんが、その可能性は高いと思われます。」
慎重に言葉を選ぶ担当者。それでも何が起きているのかは十分すぎるほど分かった。
「銀行はこの書類を処理したんですか?」
「いえ。不自然な点がありましたので、正式な確認が取れるまで保留しております。」
「不自然な点?」
「署名の筆跡以外にもいくつか違和感がありましたので。ご本人様へ確認が取れていない状態で進めるにはリスクがあると判断しました。」
説明を聞いて、私はようやく小さく息をついた。万が一書類が受理されていたらと想像するだけでゾッとする。全てが終わった後で泣き寝入りするしかなかった可能性もある。
「私、何をすればいいですか?」
「まずはあずみ様ご本人の意思確認を正式に取らせてください。その上で、現在のお手続きは一旦止めます。」
「止められるんですか?」
「正式な確認が取れない以上、このまま先へ進めることはできません。」
頷きながら、私は目の前の署名欄を見た。じわじわと背中を冷たいものが這い上がる。葬儀にも出られず、書類も持っていかれ、情報も教えてもらえない。その上、無断で名前まで使われた。ここまでされて、もう黙っているわけにはいかなかった。
「三谷様、少々お待ちいただけますか?」
「あ、はい。分かりました。」
担当者は一旦席を外し、数分後に扉がノックされた。入ってきたのは先ほどの中年行員と、見覚えのない初老の男性。五十代後半ぐらいだろうか。上等そうなスーツに、高価な腕時計を身につけている。一目見て裕福なのが分かる佇まいだが、上品で嫌みのない着こなしだ。担当者が静かに男性を紹介する。
「こちら、当行の役員の井上連蔵様です。」
その名前を聞いた瞬間、私ははっとした。結婚した時にご祝儀を送ってくれた人物だ。真生が昔から世話になっている人だと話していた。
「もしかして、結婚の時にお祝いを送ってくださった方ですか?」
「覚えていてくれましたか?」
「はい。直接お会いしたことはありませんでしたけど、お名前は真生さんから聞いていました。」
「それは良かった。急にお時間をいただく形になってしまって、申し訳ありません。」
物柔らかな連蔵は、どことなく真生を思い出させる。彼が高潔な人物であることは疑いがなかったが、私の頭には新たな疑問が浮かんだ。真生の知人であり、銀行の幹部である連蔵が、どうしてここに来たのか。
「今回の件で、私があずみさんと直接お話したいと申し出まして。その前に、まずは真生君のこと、心からお悔み申し上げます。」
「ありがとうございます。本当に突然のことで…」
「ええ。私も知らせを受けた時は、すぐには信じられませんでした。」
連蔵は私の反応を確かめるように見てから、静かに続けた。
「私は若い頃から真生君を知っています。」
「え?真生さんを?」
「ええ。彼は実家と折り合いが悪かった時期があってね。中学生の頃、しばらく私のところで預かっていたんです。」
「そんなことがあったんですか?」
初めて聞く話だ。真生は自分の家のことを多く語る人ではなかった。旅館の跡取りとの件で彼が家族とぶつかったことは承知している。でも、実際に家を離れていた時期があったとは知らなかった。
「真生君のご両親は、息子に旅館を継がせたかった。一方で英子さんは自分が継ぎたい気持ちが強かったんだ。家の中が穏やかではなかったのは確かです。」
「はい。」
「私は真生君の母方の親戚筋に当たります。表だって何かを決める立場ではありませんでしたが、家の中がこじれた時には度々声がかかっていました。」
そこで空気を読んだ担当者が会釈し、席を外した。応接室には私と連蔵の二人だけが残る。銀行の中にいるはずなのに、急に別の場所へ連れてこられたような気分だった。
「あずみさん。ここからは銀行としてではなく、私個人の話として聞いてください。」
「はい。」
「真生君から、もしもの時は君を守って欲しいと頼まれています。」
「え…」
意味を理解するまで数秒かかった。思わず間の抜けたように聞き返す。
「そんな…」
「あなたたちが結婚した後です。君の立場が弱くならないように、ずっと気にしていました。」
「そんな話、私は何も聞いていませんでした。」
「君に直接言わなかったのは、余計な不安を与えたくなかったからでしょう。あの子らしい気遣いです。」
心が強く揺さぶられた。自分は真生に置いていかれたのだと思っていたけれど、私は見えないところでちゃんと彼に守られていたのだ。
「ですから、遠慮はいりません。ここからは私も動きます。」
「ありがとうございます。」
「まずは、君の本来の権利と、知らされていなかった情報を一つずつ整理していきましょう。慌てなくていい。私が全力でサポートしますから。」
「はい、お願いします。」
話が一通り終わると、連蔵は私に向かって静かに言った。
「ここから先は、場所を変えましょう。銀行の中で話すより、その方がいい。」
「はい。」
連蔵に促されるまま、私は銀行を出た。すぐ近くの喫茶店に入り、奥の席へ案内される。注文したコーヒーが提供された頃、入り口のベルが鳴った。背の高い若い男性が店に入り、こちらへまっすぐ歩いてくる。肩からカメラバッグを下げ、日に焼けた顔をしている。
「こっちだよ。」
「お待たせしました。」
男性は私の前で軽く頭を下げ、歯を見せてにっこりと笑った。人懐っこそうな好青年だ。
「こんにちは。久保大雅です。カメラマンをしています。」
「初めまして。」
「そうですね。直接お会いするのは初めてです。」
彼の名前には覚えがある。真生がよく口にしていた。学生時代からの親友だ。それに結婚してから、何度か旅先の写真を使った絵葉書が届いたことがある。海辺の朝や、雪の山道、知らない町の商店街。差出人の名前は確かに久保大雅だった。
「あの写真の葉書を送ってくださっていた方ですよね。」
「覚えてくれてたんですね。」
「はい。どれも綺麗な写真ばかりで、印象に残っていました。」
「ありがとう。気に入ってもらえてよかった。お祝いしたかったけど、なかなか会う機会がなくて。せめてもの気持ちとして、撮影した写真を送ってたんです。」
大雅の飲み物が揃うのを待ってから、連蔵が本題に入った。
「あずみさん、ここからが大事な話です。」
「はい。」
「真生君は生前、財産の一部を信託の形に移していました。」
聞き慣れない言葉に、私は思わず眉を寄せて聞き返した。連蔵は難しい説明を避けるように、ゆっくり言い直してくれる。
「使い道を決めた上で、資産の一部を別枠で管理する仕組みだと思ってください。その受託者が、大雅君です。」
「大雅さんが?」
「真生に頼まれてたんです。」
しばし私は言葉を失った。連蔵の存在や銀行で聞いた話だけでも十分衝撃的だったのに、まだ知らないことがあった。真生は私が思っていたよりずっと前から動いていたのだ。
「契約の内容は明確で、簡単に言うとあずみさんの生活を守るためのものです。」
「私の…」
「英子さんが相続をどう動かしても、主要な資産には手が出せない形になっています。」
目の前のカップに手を伸ばしかけて、私は止まった。指先がわずかに震えている。
「でも、葬儀の時もその後も、私は何も知りませんでした。」
「それは俺が謝りたかったことなんです。」
何やら改まった様子で、大雅はまっすぐ私を見た。先ほどまで柔和だった表情が険しくなる。
「俺、葬儀には出てました。でも英子さんから、あずみさんはショックで体調を崩してる。今はそっとしておいてやって欲しいって言われたんです。」
「そんな風に言ってたんですか?」
「はい。俺が連絡したら負担になるって思って、しばらく控えていました。でも、結果としてあずみさんが困っていることにも気づけなかった。本当にすみません。」
大雅が悪いわけではない。それでも、真生の葬儀の場から私一人が排除されていたという事実が胸に刺さる。
「仕方ないですよ。大雅さんは知らなかったんですから。」
「それでも、もっと早く確かめるべきでした。真生に任された立場だったのに。」
「大雅君も、英子さんに利用されて動きを止められていたんです。そこは分けて考えましょう。」
私は小さく頷いた。責める気持ちはなかった。むしろ、今こうして事情を話してくれる人がいることの方が大きい。
「真生は、英子さんのことをずっと警戒していたんです。もしもの時、あずみさんが弱い立場になるって分かってた。だからこそ、先に備えたんでしょう。俺も頼まれた以上は中途半端にしません。ここからはちゃんと動きます。」
そこでようやく私は、連蔵が銀行の外に私を連れ出した理由を理解した。真生が信頼する親友、大雅と引き合わせるためだ。ひどく打ちのめされていた私は、何もかもを失った気でいたけれど、真生が残した人脈が私を救ってくれる。その事実に、私は初めて声を出さずに泣いた。
一週間ほどが過ぎた頃、私の暮らしにはちょっとした変化が生まれていた。相続の件に連蔵が間に入ってくれてから、銀行とのやり取りはようやく筋道立って進み始めている。それだけではない。連蔵は家事代行の手配までしてくれた上、買い物や通院の付き添いも、自分で時間をやりくりして引き受けてくれていた。何もかもを一人で抱え込み、息を詰めて暮らしていた頃とは違う。まだ安心できる状況ではなかったけれど、それでも私は少しずつ、まともに呼吸をする感覚を取り戻し始めていた。
「あずみさんの署名欄に、本人の覚えのない筆跡があった。」
「本人が忘れてるんじゃない?それか担当者の見間違いとか。銀行がその程度で手続きを止めると思ってるのか。」
「だとしたら、随分甘い認識だな。」
「とにかく私は知らない。どうせバカな銀行員が勝手に騒いでるだけでしょ。」
電話の向こうの英子は白を切るつもりなのだとすぐに分かった。その日も連蔵が家に来ていて、テーブルの上には書類が何枚も広げられていた。
「銀行側は、正式な確認が終わるまでは英子さんの書類を一切受け付けません。ですから、向こうが何を言ってきても慌てて応じる必要はありませんからね。何かあれば、まず私に話してください。」
「分かりました。」
「大丈夫です。順番に整理していけばいい。」
インターホンが立て続けに何度も鳴ったのは、その時だ。不穏な空気を感じて心臓が大きく跳ねた。あの鳴らし方に覚えがある。けれど連蔵は眉すら動かさなかった。
「私が出ましょう。」
「お姉さんだと思います。」
「でしょうね。だからこそ、私が出た方がいい。」
連蔵は静かに立ち上がり、迷いのない足取りで玄関へ向かった。その背中を見ていると、不思議と心が落ち着く。ドアが開く音がした瞬間、鋭い声が部屋中に響き渡った。
「あずみさん、あなた何をしたの?私にまで恥をかかせて、ただで済むと思ってるのかしら?」
「自分の立場を弁えなさい。あなたはいったい何様のつもりですか?」
「何様?知らないわよ。あんたに関係ないでしょ。」
「連蔵です。初めまして。」
「は?銀行の役員が、どうしてここにいるの?さっさと自分の仕事に戻りなさいよ。」
リビングにいても、一瞬で空気が変わったのが分かった。私は車椅子を操作して、恐る恐る玄関の方へ向かった。そこにいたのは、怒りで顔を強張らせた英子と、その前に佇む連蔵だ。英子は連蔵を凝視したまま、鋭く問い詰める。
「どうしてあなたみたいな銀行の上役がここにいるの?さっさと自分の仕事に戻りなさいよ。」
「私がどこにいようと、あなたに指図される筋合いはありません。」
「これは三谷家の家族の問題なのよ。あなたには関係ない。」
「だからと言って、何をしてもいいわけではないでしょう。」
英子は悔しそうに唇を引き、次に鋭く私を睨みつけた。彼女の表情にはわずかに焦りも浮かんでいる。
「銀行で何を吹き込んだの?正直に答えなさい。」
「私は事実確認を受けただけです。」
「嘘を言いなさい。相続の手続きが止まったのよ。あなたが余計なことをしたからでしょう。」
「余計なことではありません。相続人の私に何の確認もなく話が進んでいたから、銀行が止めたんです。」
以前の私なら、ここで反撃の意欲を失っていたかもしれない。強い口調で攻め立てられれば押し切られていたと思う。でも今は違う。私にはもう、信頼できる味方がいる。
「手続きが止まったのは当然です。不審な点の多い書類が出されていたのだから。」
「何のことか分かりません。とぼけるのはやめなさい。私は真生の相続人の一人として、必要な手続きを進めていたのよ。あなたに疑われるようなことは何もしてない。」
その時、ゆっくりと連蔵が口を開いた。威圧しているわけでもないのに、重く、説得力のある声だった。
「どうしてあなたがそこまで口を出すの?」
「あずみさんが真生君の大切な人だからです。私は真生君に、彼女のことを頼まれています。」
「真生が?」
「ええ。この件は、もうあなたの思うようには進みません。」
その一言で、英子の目の色がはっきり変わった。銀行の一担当者を押し切るのとは訳が違う。役員の連蔵が関与していると知った瞬間、無理に進めれば自分の立場が危うくなると悟ったのだろう。
「今日は帰ります。」
「帰る必要はありません。まだ、隠していることがあるでしょう。ちょうどいい機会です。今ここで、はっきりさせましょう。」
この場から逃げ出そうとした英子は足を止めた。玄関先の空気がピンと張り詰める。
「そんな義務はありません。」
「ありますよ。今までのあなたの言動を考えれば、説明を求められるのは当然のことだ。」
私は息を飲み、睨み合う二人を見た。ただ追い返して終わりにするのではない。次のステップへ進むために、連蔵は英子を引き止めたのだ。彼は穏やかな調子で続けた。
「真生君が何を相続していたか。あなたは全部知っていますね。」
「何の話よ。」
「旅館のことではありません。ご両親が残した、別の会社の話です。」
唐突に飛び出した会社という言葉に、私は戸惑った。真生は会社員だ。亡くなった両親から会社を相続していたなんて、聞いたことがない。
「あの会社って…」
「旅館とは別の法人です。実際の経営は専門家に任せていたようですが、株式の大半は真生君名義でした。」
「だから何です?今はそんな話、どうでもいいでしょう。」
軽く鼻で笑う英子。でも彼女の瞳には、わずかな恐怖心が混じっている。
「あなたは、その会社まで手に入れようとしていた。」
「何を馬鹿な。事実無根です。」
「相続書類を急いだのも、そのためでしょう。」
「勝手な想像で決めつけないで。」
今にも掴みかからんばかりの英子だったが、連蔵は微動だにしなかった。自分のペースを乱すこともなく、事実を一つずつ積み上げていく。
「では聞きます。あなたが相続した旅館の経営が、今どうなっているのか。ここで説明できますか?」
「うちの経営に、あなたは関係ないでしょ。」
「関係はあります。真生君の財産に手をつけようとした理由に、直結する話ですから。」
にわかに英子の目が鋭くなった。私も限界を感じ、思わず口を挟んだ。
「旅館の経営、そんなに悪いんですか?」
「あずみさんは黙っていて。」
「黙る必要はありません。あずみさんは、事実を知らされるべき立場の人間です。」
連蔵の言葉に励まされ、私は膝の上で手を握った。そして車椅子上で精一杯背筋を伸ばす。
「詳しく聞きたいです。教えてください。」
「ご両親が亡くなった時点で、旅館の経営はすでに赤字でした。周囲は処分することを進めたんです。傷が浅いうちに整理した方がいいと。」
「昔の話よ。」
「あなたはそれを聞き入れなかった。自分なら旅館を立て直せると言い張って、経営を続けた。それは三谷家の伝統を守るための判断だったのでしょう。結果はどうでした?」
「…」
「赤字は広がり、資金繰りは悪化した。だから、真生君の遺産を急いだんでしょう。」
「違います。」
「では、なぜあずみさん本人への確認を避けたんです?真生君の遺産をかすめ取ろうとしていたからではないのですか?」
返事はない。英子は横へ不自然に目をそらした。連蔵の推測を補強するには、その仕草だけで十分だった。
「あなたの力では、旅館はもう支えきれなかった。それで真生君が受け継いだ別会社の株まで抑えようとしたんだね。」
「全部、あなたの勝手な妄想よ。」
「いいえ。少し考えれば、誰にでも分かることです。」
その時、私は散らばっていた点が一本の線になるのを感じた。真生の葬儀に列席できなかったこと。書類の持ち去り。相続の進捗を隠され、渡されたのは古い通帳一冊。全部、私を遠ざけるためだったのだ。
「最初から、そのつもりだったんですね。」
「違うわ。」
「私を排除すれば、好きにできると思ったんですか?」
英子はすぐには答えなかった。気まずそうに唇を引き、バッグの持ち手を握り直す。
「もう好きにはできません。銀行も、別会社の件も、あなたの思い通りにはならない。」
「くだらない。」
「逃げても、事実は消えません。」
「…もういいわ。」
捨て台詞を最後に、英子は私たちに背を向けた。ドアが強く閉まる音がして、玄関が静寂に包まれる。私は英子の残像を見つめたまま、しばらくその場から動けなかった。悲しみの中に沈んで見えなくなっていた真実が、少しずつ輪郭を持ち始めている。英子が本当に守ろうとしていたのは家ではない。自分の失敗を帳消しにするための資金だったのだ。
一ヶ月後の昼下がり、私は作業机で刺繍枠を膝に乗せていた。糸の色を合わせながら、花びらの輪郭を一針ずつ埋めていく。無心になりかけたところでスマホが鳴った。画面には大雅の名前が表示されている。
「もしもし。」
「今、大丈夫ですか?」
「うん。どうしたの?」
「ちょっと落ち着いて聞いて欲しいんですけど、かなり反響が来てます。」
なぜか興奮気味の大雅に、何のことだか分からず私は無意識に首をかしげる。
「反響って、何のこと?」
「ほら、この前、あずみさんの作品を撮らせてもらったでしょ。あれ、SNSに投稿したのを覚えてますか?」
「ああ、そういえば。」
「で、俺が思ってた以上に話題になってるんですよ。」
私が刺繍を販売していると知った大雅は、自分が作品を撮影したいと申し出てくれた。自然光が綺麗に入る時間を選び、布の質感や糸の立ち上がりまで伝わるように、何枚も丁寧に撮ってくれた。写真の中の作品たちはどれも生き生きと輝いて見えたのを覚えている。
「細かい手仕事がすごいっていう感想が多いです。技法も配色も綺麗だって。」
「本当に?」
「本当ですよ。他のハンドメイド作家からも反応があります。あと、ギャラリーからも連絡が来ました。」
ギャラリー。声が上ずった。大雅は電話の向こうで少し笑って、それからすぐに真面目な口調に戻る。
「小さな展示会をやりたいそうです。作品をまとめて見てみたいって。」
「私の作品を?」
「そうです。趣味の紹介みたいな扱いじゃなくて、ちゃんと展示の依頼です。あずみさんの仕事が、たくさんの人の目に止まったってことですよ。自信を持ってください。」
それから先の話は早かった。大雅が相手との間に立ってくれて、私は展示する作品や搬入の時期について相談を重ねた。会場は大きくなかったけれど、白い壁と柔らかな照明がある静かな空間。私は夜まで針を動かし、新作もいくつか仕上げた。大雅も無理はしすぎないようにと言いながら、材料の買い足しや移動の段取りを手伝ってくれた。
展示初日。私は少し離れた場所から、自分の作品が並ぶ壁を見つめていた。布の色も糸の光り方も、家の中で見るよりずっと鮮やかだった。興味深そうに頷いたり、足を止めてじっと見てくれたりする人がいる。その度に、胸の奥が静かに熱くなった。会期の途中、大雅からまた連絡が入った。
「あずみさん、作品がめちゃくちゃ売れてます。というか、もう残りが少ないです。」
「え、そんなに?」
「追加で見たいって声も来てます。この調子だと多分完売します。だから、今のうちに次のことも考えておいた方がいいかもしれません。」
本当にその通りになった。小さな展示会ではあったけれど、並べた作品は全て買い手がついたのだ。注文は少しずつ増え、写真を見てファンになったと連絡をくれる人まで出てきた。作家として紹介されることに、最初はどうしても落ち着かなかった。そんな風に呼ばれる自分が、どこか他人のように思えたからだ。けれど、売上の数字が増え、次の依頼が入り、予定表に新しい約束が書き足されていくたびに、生活の不安が少しずつ薄れていくのが分かった。真生が残してくれた人脈が私にチャンスをくれた。その縁があったから、私は刺繍を手放さずに済んだと言える。
一週間後、連蔵と大雅に付き添われ、私は実家を訪れた。門をくぐった瞬間、結婚挨拶の記憶が蘇り、胃が重くなる。それでも今日は、以前のように押しつぶされる気はしなかった。私の隣には、連蔵と大雅が控えている。大間に通されると、英子は早速顔を顰めた。
「随分、大げさな顔ぶれね。」
「今日はお願いしたいことがあって来ました。」
「お願い?」
「あなたが持ち去った書類の返還です。」
英子の目が細くなったけれど、彼女の表情にはどこか疲労が見え隠れしている。
「真生さんの通帳、保険証券、それから相続関係の書類を返してください。」
「人聞きの悪いこと言わないで。必要な手続きのために預かってるだけよ。」
「預かる?強奪したの間違いじゃないんですか?」
「あなた、誰に向かって口を利いてるの?身の程を知りなさい。」
凍てつくような視線を向けられても、私はひるまなかった。ここで黙れば、また元に戻ってしまうと分かっていたからだ。
「私は真生の妻で相続人です。彼の財産を管理する権利と責任がある。」
「真生は三谷家の人間よ。家族の財産は私が守るの。旅館も家も、全部まとめてね。」
「残念ながら、その考え方自体が間違っています。」
連蔵は低く、それでいてはっきりと言った。一方の英子は不快そうに眉を寄せる。
「何が間違いだと言うんですか?」
「相続は法と契約で決まるものです。」
「うちには、うちの事情があります。」
「事情があるからと言って、独断で相続人を外すことはできません。」
重い一言に、胸が軽くなるのを感じた。ずっと曖昧に押し込められていた気持ちが、ようやく言語化できた気がしたからだ。
「それに、もう真生の資産を好きに動かせる段階じゃないです。」
「あなたまで口を出すの?」
「頼まれているからです。真生に。」
大雅はバッグから封筒を取り出し、テーブルの上に置いた。中には信託契約の写しと、その説明資料が揃っている。英子はそれを見た瞬間、わずかに目を見開いた。
「ご存知の通り、真生君は生前、主要資産の一部を信託に移しています。」
「そんなもの、聞いてないわ。」
「聞かされていなくても有効です。受託者は俺です。契約の目的は、あずみさんの生活保障。」
英子は封筒に手を伸ばさなかった。その代わりに私を睨みつけるように見る。
「随分、用意がいいのね。」
「真生さんが残してくれたものです。」
「だからって、家の金を勝手に囲い込むなんて。」
「囲い込んだのではありません。守ったんです。」
しばらく部屋に沈黙が落ちた。英子は何か言い返そうとしたが、うまく言葉が見つからないようだった。
「ですから、あなたがいくら書類を操作しても、主要な財産には手が届きません。残された選択肢は、正規の相続手続きに応じるか、法の裁きを受けるかです。」
「私はお姉さんと争いたいわけじゃありません。」
「だったら、引き下がればいいでしょ。」
「何を言われても引き下がりません。私は自分に与えられた権利をきちんと確認したい。真生の妻として恥ずかしくない自分でいたいんです。」
そう言った後で、自分でも少し驚いた。前の私なら、ここまで他人に立ち向かうことはできなかったと思う。けれど今は、生前の真生が私のために備えてくれていたことも、生活を支えてくれる人の存在も知っている。
「書類を返してください。通帳も保険証券もです。協力すれば手続きは正しく進みます。逆らえば、あなた自身の立場が悪くなる一方ですよ。」
「脅しですか?」
「いいえ。これは事実です。」
英子は唇を引き結び、ようやく立ち上がった。大間の棚の引き出しを開け、鍵付きの箱を取り出す。その中から封筒や通帳をまとめて引っ張り出し、乱暴にテーブルへ置いた。
「これでいいんでしょう?」
「確認します。それで結構です。以後は正規の流れで進めます。」
「好きにすれば。」
投げやりな態度。けれどその裏にあるのは、おそらく敗北感だ。信託契約がある以上、もう私を外して遺産の全てを握ることはできない。その現実を英子もようやく飲み込んだのだろう。
「もう一つ、お伝えしておきます。」
「まだ何かあるの?」
「私はあなたに慰謝料を請求します。」
「はあ。」
やや間抜けなその声には、先ほどまでの苛立ちとは違う種類の驚きが混じっている。英子は数秒固まった後、鼻で笑った。
「何を言い出すかと思えば。本気でそんなこと言ってるの?」
「本気です。」
「身内同士で大げさね。そんなもの、まともに取り合ってもらえるわけないでしょ。」
「取り合うべき内容だから、こうして話しているんです。」
口を挟んだ連蔵を、英子が鋭く睨む。私は目をそらさず、そのまま続けた。
「最初の結婚挨拶の時、あなたは私の前で、車椅子の嫁なんて一族の恥と言いました。顔合わせの席では親族の前で大学中退や職歴がないことを並べ、私が真生さんに取り入って寄生するつもりだろうとも言いました。結婚してからも、あなたは電話で何度も夫婦生活を問い詰めた。私の刺繍を道楽だと言って、仕事として続けていることまで否定した。夫婦ごっこはもう十分だと言って、子供を産める嫁をもらうべきだって見合い相手の写真を持ってきたり、真生さんがいない時間を狙って家に来て、何度も離婚を迫ったり。私、全部覚えてますから。」
言い終わった瞬間、大間の空気が凍りついたように静まり返った。連蔵も大雅も、信じられないという顔で固まっている。やがて英子は、絞り出すように言った。
「証拠でもあるの?」
「あります。お姉さんからのメッセージは残っています。電話も一部録音データがありますから、証拠としては十分かと。」
その瞬間、英子の表情がはっきりと崩れた。視線が揺れ、無理に保っていた余裕が一気に消えていく。
「あずみさんを舐めているから、こうなるんですよ。あなたは黙って。もう悪あがきはやめろ。これ以上、恥の上塗りをするんじゃない。」
「勝手なことばっかり…」
英子の声が急に大きくなった。肩が上下し、息も荒くなる。怒りと焦りが一気に吹き出しているのが分かった。
「私は自分の家を守ろうとしたのよ。何が悪いの?」
「だからと言って、他人の尊厳を踏みにじっていい理由にはなりません。」
「踏みにじった?被害者ぶるのもいい加減にして。」
「被害者ぶってるんじゃありませんよ。私はあなたにされたことを包み隠さず言っているに過ぎません。」
勢いよく机を叩く英子。封筒がわずかに跳ね、乾いた音が大間に響く。もうその顔には冷静さは残っていない。
「今すぐ出ていって。」
「話はまだ終わっていません。」
「うるさい。来ないで。」
追い出したところで、記録は消えませんよ。それが最後の会話になった。英子はほとんど叫ぶように仲居を呼びつけ、私たちを追い出せと命令した。
「それじゃ、今日のところは帰ります。」
連蔵と大雅に付き添われて大間を出た後も、背後では英子の怒鳴り声が続いている。追い詰められているのは私ではなく、彼女の方だった。
それから一週間後、玄関のチャイムが鳴った。家に来ていた大雅と、展示会の追加注文について話しながら作品の搬送方法を相談していたところだった。私は何気なくモニターに目をやり、息を止める。映っていたのは英子だったからだ。
「出ますか?」
「うん。自分で出る。逃げたくないから。」
そう言いながらも、心臓は早鐘を打っていた。玄関へ向かい扉を開けると、そこに立っていた英子は、前に見た時より明らかに痩せている。きちんと化粧はしているのに、目の下が不自然に落ちくぼんで見える。そんな姿になっていても、最初に出てきた言葉は謝罪ではなかった。
「ちょっと話を聞いてくれる?」
「ここで要件を言ってください。」
「あんた、安心して中には入らないわ。だから、お願い。」
妙に低い物腰に、私は警戒心を強めた。隣に控えていた大雅も黙って一歩前に進み出る。
「親戚たちの前で、自分たちは和解したって説明して欲しいの。」
「は?」
「誤解が広がってるのよ。あなたがそう言ってくれれば、それで済む話だから。」
あまりに勝手すぎて、すぐには意味が飲み込めなかった。私が黙っていると、英子は焦ったように言葉を重ねた。
「例の銀行役員が余計なことをしたせいで、親戚中に話が回ってるの。私があなたに嫌がらせしたとか、葬儀から外したとか、そんな話ばかり。」
「そうですか。」
「地元でも変な噂になってるわ。取引先まで態度が変わってきた。従業員の目もなんだか冷たいのよ。」
そこまで聞いて、ようやく分かった。親戚にも地元にも、英子がしてきたことが広まり始めている。そして今、この人は私を使って自分の信用を取り戻そうとしているのだ。
「それで私に嘘をつけと?」
「嘘じゃないわ。今ここで終わらせれば、和解したことにできるでしょ。」
「できませんよ。」
「あなたは黙って。これは家族の話なの。」
大雅の目つきが変わった。彼が反論する前に、私が口を開いた。
「本当の家族なら、最初からあんなことはしません。」
「だから、過去のことは水に流してって言ってるの。」
「流しません。」
「なんでそこまで意地になるの?」
私は玄関の手すりを握った。怖くないと言えば嘘になる。けれど、ここで曖昧に頷けば、また同じことが繰り返される。それだけははっきり分かっていた。
「私はあなたと和解しません。真生さんの財産を譲るつもりもありませんし、慰謝料請求を取り下げるつもりもありません。それが、私の意思です。」
聞いた瞬間、英子の顔が一気に赤くなった。先ほどまで取り繕っていた空気は消え、剥き出しの怒りのみが残る。
「何様のつもり?車椅子で一人じゃ何もできないくせに。」
次の瞬間、私は思わず身を引き、大雅が立ちふさがった。
「問題発言ですよ。今のも録音してますからね。」
「録音?」
「やめてください。」
「あずみ、こっちに来なさい。ちゃんと話しなさいよ。これ以上やるなら通報します。」
英子は目を見開き、感情に任せて車椅子に手をかけようとした。大雅が間に入って止める。
「勝手にしなさいよ。」
「あずみさん、来てください。玄関先で騒ぎになっています。」
その時、大雅は本当にスマホを取り出した。ためらいもない、流れるような動作だ。警官が駆けつけるまで、それほど時間はかからなかった。事情を聞かれても、英子はなおも言い逃れを続けた。しかし、乱れた呼吸や荒れた口調が、その場で起きたことを十分すぎるほど物語っている。やがて英子は、抵抗虚しく警官に連れて行かれることになった。
「話しなさいよ。私を誰だと思ってるの?あずみ、覚えてなさいよ。」
「それはこちらのセリフです。今までしてきたこと、きちんと償ってもらいますからね。さようなら。」
英子の声が遠ざかり、玄関先にようやく静けさが戻る。
「大丈夫ですか?」
「…」
大雅を見上げ、私は小さく頷いた。本当に大丈夫かどうかは、自分でもまだ分からない。それでも、私は自分の意思ではっきりと英子を拒絶することができた。そのことが誇らしかった。
三ヶ月後、警察沙汰になったことで、英子は親戚中から厳しく追及されたと聞いた。旅館の顔に泥を塗ったことだけではない。結婚前から続いた私に対する侮辱的な言動の数々が、全て明るみに出たのだ。結局、最後には英子は相続分も含めて相続を放棄することを選んだ。これ以上関われば、自分の立場がさらに悪くなると悟ったのだろう。私の署名を偽造した疑いについては、三谷家の力が働いたらしく、うやむやにされてしまった。ともあれ、英子が相続争いから抜けたおかげで、真生の財産を私が無事に受け取ることができたのは事実だ。
英子は私への慰謝料の支払いに加え、元々抱えていた借金の返済も重なり、代々続いた旅館を土地ごと売るしかなくなったと聞く。借金と慰謝料はそれで清算できたらしいが、彼女の手元にはほとんど何も残らなかった。さらに、英子の夫は離婚を突きつけ、子供を連れて家を出たという。全てを失った英子は、地元の古いアパートで一人暮らしを始めたらしい。以前のように着物を着て大きな顔をすることも、もうできない。後遺症が足を引っ張り、働き口もなかなか見つからないという。親戚ももう手を貸さず、周囲の人間も少しずつ離れていった。伝統、財産、家族。嘘をつき、人を騙し、傷つけてでも守ろうとしたものは、何も残らなかったのだ。
約一年後、私はようやく静かで落ち着いた生活を取り戻している。真生の遺産は全て私が相続した。両親から引き継いだ会社についても、彼が生前そうしていたのと同じように、実際の経営は外部の専門家に任せている。保険金の受け取りも口座の名義変更も全部終わり、毎月の支払いに怯えることもなくなった。通帳の残高を見つめてため息をついていた日々が、嘘のようだ。
刺繍の仕事も順調に続けている。大雅が写真や発信の面で力を貸してくれたおかげで、私の作品を知ってくれる人は着実に増えていった。最近では連蔵にも相談に乗ってもらいながら、事業を法人化する話まで進んでいる。自分の手でこつこつと積み続けてきたものが、ようやくきちんとした仕事として根を張り始めたことが誇らしい。
また、実家の騒動を経て、真生の遺骨も私の手元に戻ってきた。最初に箱を受け取った時は、その軽さに息が止まりそうになった。あの人の存在が、こんなにも小さな箱に収まってしまうのかと、現実を受け止めきれなかったのだ。けれど今は、毎朝真生に手を合わせる時間が私の暮らしの一部になっている。
その日も、私は仕事机を離れ、仏壇の前に静かに移動した。息を整え、手を合わせる。真生が残してくれたものに、ただ守られているだけでは終わりたくない。
「私、頑張るからね。」
そう告げてから、私は彼の遺影に向かって、にっこりと微笑んだ。
