深夜2時、息子の航から電話が鳴った。「母さん、今すぐ家を出て。詳しい話は後でする。とにかく、今は俺を信じて」。たまたま眠れずにいた私は、財布とスマホ、そして亡き夫の腕時計だけを掴んで、音を立てずに裏口から外へ出た。冷たい夜風が頬を撫でる中、私は無我夢中で走り出していた。まさか、同居している実の娘とその夫が、私の銀行口座から380万円を不正に引き出し、私を認知症扱いして成年後見人になろうと企て…

深夜2時、息子の航から電話が鳴った。「母さん、今すぐ家を出て。詳しい話は後でする。とにかく、今は俺を信じて」。たまたま眠れずにいた私は、財布とスマホ、そして亡き夫の腕時計だけを掴んで、音を立てずに裏口から外へ出た。冷たい夜風が頬を撫でる中、私は無我夢中で走り出していた。まさか、同居している実の娘とその夫が、私の銀行口座から380万円を不正に引き出し、私を認知症扱いして成年後見人になろうと企て...

母、今すぐ家を出て。息子の航の声が、いつもと違う。切羽詰まった響きだった。詳しい話は後でする。とにかく、今は俺を信じて。聞きたいことは山ほどあったけど、そんな時間はなさそうだ。わかった。そう言って、スマホの通話終了ボタンを押した。外に出ると、冷たい夜風が頬を撫でる。住宅街の灯りが点々と光る中を、私は無我夢中で走り出していた。

気がつくと、見慣れた小さな公園に来ていた。母さん、落ち着いて聞いてくれ。実はな——え、そんな。冗談でしょ。でも、もう大丈夫だ。俺が母さんを危険な目に遭わせたりしない。この時代を一緒に乗り越えよう。私は強く頷いた。幸せな結末を手にするために乗り越えなければならない試練。頼もしい味方と共に、現実と向き合う。

私の名前は、小倉沙子。58歳の会社員だ。田舎出身で、両親はごく普通の夫婦だった。私自身も特筆すべきことのない、平凡な人生を歩んできた。地元には大学がなかったので、隣町の短大に進学した。卒業後は都会に残った。就職難の時代で、地元に帰ってもいい仕事がなかったからだ。本当は帰ってきてほしいけど、沙子が無職になるのも良くないからね。沙子はしっかりしているし、大丈夫だと思う。両親の理解もあり、必死に生活を築いた。

おかげで、中堅の金属加工会社に事務員として就職できた。不況の中、拾ってくれた会社に恩返しをしたいと思い、必死に働いた。仕事にも慣れてきた25歳の頃、同僚に男性を紹介したいと言われた。建設会社で働いていて、父が社長らしい。つまり、社長の息子。もしやお坊ちゃまだったらどうしよう、という不安を抱えながら待ち合わせの駅へ向かった。あなたが、小倉沙子さん?同僚に見せてもらった写真で顔は知っていた。緊張しながら声をかけると、彼は笑顔で答えた。はい。小倉沙子さんですか?待っていましたよ。その瞬間、胸が高鳴った。ハンサムとは言えないけど、私を見る嬉しそうな顔に、一目惚れしてしまった。

話してみると、雅夫の印象はさらに良くなった。あの映画、知ってるよ。主人公が本当に魅力的だよね。彼は自ら話題を振ってくれる。相撲も、お父さんの影響で好きになったらしい。知識がないことは、私に質問してくれて、興味深そうに聞いてくれる。とても話しやすい人だった。将来は父の会社を継ぎたい。今は立派な社長になるために修行中だ。父のような立派な社長になりたくて、毎日必死に勉強しているらしい。働き者が好きな私にとって、雅夫は理想の人だった。お互いに連絡先を交換したのは、自然な流れだった。

2年間の交際を経て、27歳で結婚した。結婚後は雅夫の会社で経理を担当した。29歳で長女の直を、31歳で長男の航を出産した。その直後に雅夫が二代目社長になった。子育てをしながら多忙な夫を支えるのは大変だったけど、充実していた。雅夫と結婚して良かった。私にとって世界で一番信頼できるパートナーだ。仕事も、愛する人のためなら、もっと頑張れる。一緒に会社を大きくしてきた。

直と航は、会社を継がずに別の道を選んだ。会社の仕事は忙しいでしょう。子供の頃、あまり遊びに連れて行ってくれなかったじゃない。私みたいに寂しい思いをさせるのは嫌なの。高校1年生の直にそう言われた。休日にリビングで将来の話をしたときのことだ。確かに、仕事の合間を縫って連れていくくらいでは、足りなかったのかもしれない。僕は?父さん、いろんなところに連れて行ってくれたよ。隣で中学2年生の航が冷静に言った。彼は将来ロボット開発の道に進みたいと言っていた。航は満足していたかもしれないけど、普通の家族はもっと一緒に出かけているよ。ふーん、そうなの?足元で犬のきなこが落ち着きなく動いている。航にべったりな、世話好きな女の子だ。きなこを家族に迎えたのも、航がきっかけだった。彼が登校中に捨てられた子犬を見つけてきたのだ。名前も航がつけた。自分で拾ったからと、面倒をしっかり見ていた。犬が特に好きではなかった私だけど、きなこと暮らし始めてからは、もう夢中だった。

誰かに会社を譲らないとね。リビングのソファに座った雅夫が言った。私たち二人とも、子供たちに会社を継がせたいとは思っていなかった。それでも、少し寂しい気持ちもあった。その日から、次期社長の育成も仕事に加わった。雅夫の60歳の誕生日を過ぎたら、会社を任せる社員を決めよう。そうしたら、私もそろそろ引退かな。そうしたら、京都に旅行に行こう。新婚旅行に行けなかったからね。きなこも泊まれるホテルを探そう。歳のせいか、最近きなこのことが目に入ると、そんなことをよく考えていた。実は結婚式の後、私が体調を崩してしまい、新婚旅行は中止になったのだ。その後、タイミングを逃したまま今に至っていた。いいね。きなこも喜ぶかな。早く引継ぎしないとね。そう言い合っていたが、父が創立した大切な会社だ。雅夫は61歳の誕生日を過ぎても働き続けていた。しかし、その誕生日の2ヶ月後、雅夫の体に病が見つかった。京都旅行は、少し先延ばしになりそうだ。きなこにも謝っておいてくれ。病院のベッドで、雅夫は申し訳なさそうな顔で言った。心配しなくていいよ。今は治療に専念しなきゃ。どこか不安そうな雅夫を安心させようと、私は無理に笑顔を作った。彼も口元を緩めるが、病気のせいか表情は暗いままだった。

雅夫が倒れてから、後継者に決めていた社員を社長にした。長年一緒に働いてきた優秀な人だ。信頼できる。私は雅夫の看病を続けながら、会社でも働き続けた。雅夫は2年間闘病したが、その甲斐なく亡くなってしまった。京都旅行の約束も果たせぬまま。葬儀で、私を支えてくれたのは航だった。彼は産業機械メーカーの大手企業に就職していた。雅夫が亡くなってからも、ずっとそばにいてくれた。母さん、しっかり。この後も、相続やら何やらで手続きがたくさんあるんだから。直が面倒くさそうに言った。彼女は1年前に多田野という男性と結婚していた。小さな会社のサラリーマンで、給料もあまり良くなかったらしい。先立った雅夫の遺産目当てなのか、二人はよくお金を無心してきた。ちょっと、直。母さんだって大変なんだから、そんな言い方ないでしょ。多田野さんはフォローする。航は鋭い目つきで直を睨んだ。自分が悪いと判断したのか、直は不機嫌そうな顔で口を閉じた。二人とも、ありがとう。でも、直の言う通り、やることはきちんとやらないとね。私は涙を堪えて、直の肩を軽く叩いた。この時は、まさかこの後に人生最大の事件が待ち受けているとは、思いもよらなかった。

雅夫が亡くなって2ヶ月後、いつも雅夫の後をついて歩いていたきなこも、天国へ旅立った。心に大きな穴が空いたような気分だった。そんな中、直と多田野が突然、家にやってきた。多田野と相談したんだけど。母さん、この家で一緒に暮らすことに決めたから。え?なんで?一緒に暮らすという申し出に、私は嬉しさよりも戸惑いを感じていた。急すぎるよ。母さんのことが心配なんだよ。父さんが亡くなってから、ずっと元気がないじゃない。そうかな。まだ完全には立ち直れていないけど、少しずつ現実を受け入れているつもりだった。きなこが死んだのもショックだったけど、年齢を考えれば仕方ないと割り切っていた。以前、海外出張中の航に国際電話で話したときも、母さん、だいぶ元気になったね、って言われたばかりだ。きなこを失ったショックは航も同じだろう。それでも私を気遣ってくれることが、ありたかった。大切な人を失う辛さは、私が一番わかっているつもりだ。もし自分の身に何かあったらって考えると……隣にいた多田野が、そう言いながら直の手を握った。大丈夫。俺がずっと直のそばにいるから。その光景は、まるで芝居を見ているようで、白々しかった。でも、私は何も言わずに感謝を伝えた。ありがとう。そうだね。そこまで言ってくれるなら、一緒に暮らそうかな。正直、広い家で一人で暮らすのは寂しかった。直たちが心配してくれていることも嬉しかった。それでいいんだ。なぜか直の顔がほころんだ。じゃあ、すぐに引っ越しの準備を始めるね。アパートの更新が来月だから、それまでには終わらせる。更新日、という言葉を聞いて、ようやく理解した。家賃が高くて支払いが難しくなったのだろう。多田野の給料は安く、直はパートで働いている。私と同居するのが、一番家賃を節約できる方法だ。まったく、困った娘だ。玄関を出て、機嫌よく帰っていく二人を見送りながら、私は静かに頷いた。どんな理由であれ、同居はありがたい申し出だった。明日から掃除を始めないとね。鼻歌を歌いながら家に戻った。

同居が始まったのは、それから10日後だった。引っ越し当日、多田野は汗をかきながら荷物を運んでいた。手伝おうとすると、彼は首を振った。母さんに重いものを持たせられないよ。お茶でも飲んで休んでいてください。爽やかな笑顔の多田野は、結婚してからあまり家に来ていなかったので、私は彼とあまり接点がなかった。しかし、なかなか大人の対応ができる印象だった。今日の晩御飯は私が作るね。もちろん、いいけど。これから同居するんだから、これくらいはやらなきゃ。直は張り切ってキッチンへ向かい、夕食を作り始めた。わあ、美味しい。でしょ?お母さんの教育の賜物だよ。家の中に、久しぶりに賑やかな声が響いた。雅夫がいない寂しさを、少しだけ忘れられるひとときだった。

問題が起こったのは、同居生活が始まって1ヶ月ほど経った頃だった。夕食後、多田野がリビングのテーブルに座り、真剣な顔で話し始めた。母さん、少し大事な話をしてもいいですか?ええ、何でしょう。どうやら最近、この辺りで還付金詐欺が増えているらしいんです。私の同僚の両親も被害に遭ったそうで。まあ、それは怖いですね。それで、提案があるんです。母さんの通帳とキャッシュカードは、私と直で預かろうと思うんです。もし母さんに何かあったら、私たちも困りますし。多田野の提案に、私は少し戸惑いを覚えた。気持ちは嬉しいけど、そこまでしなくてもいいんじゃないかしら。そう言っても、多田野は引き下がらなかった。僕たちは母さんが詐欺に遭わないか、本当に心配しているんです。それに、もしものことがあったら、後の手続きも大変ですから。お願いします、任せてください。そう言われては、断るのも申し訳なくなる。私は通帳と印鑑、キャッシュカードを差し出した。そして、心の奥底で、これで本当に良かったのかという、漠然とした不安を感じていた。いやいや、一緒に暮らしている家族を疑うなんて、失礼だ。そう自分に言い聞かせて、頭を切り替えた。

同居が始まってすぐに、生活費のシステムが変わった。光熱費も食費も雑費も、すべて多田野が管理する口座から支払われることになった。当面は母さんの口座から出させてもらうよ。生活費は後で必ず精算するからさ。同居する前は、毎月決まった額を家に入れてくれると言っていたのに。私は月に10万円の生活費をもらうことになった。自分の名前の銀行口座からお金を引き出して、自分の家に住むためにお金をもらう。おかしな状況だと気づいてはいたけど、口出しできなかった。通帳は直たちが持っているから、残高がいくらあるのかもわからない。仕事の休憩中にコーヒーを飲みながら、これまでのことを思い返して、ふと呟いた。しかし、家族を疑う罪悪感が、すぐにその疑問を押しつぶした。あの二人は、全部私のことを考えてやってくれている。そう思い込むしかなかった。

また1ヶ月後、今度は多田野が資産運用をしたいと言い出した。父さんが残してくれた定期預金をそのままにしておくのは勿体ない。投資に回した方が賢いと思うんですよ。老後は3000万円必要だって言う時代ですからね。確かに、今の貯蓄は十分とは言えない。でも、それは雅夫が必死に稼いでくれたお金だ。そんな簡単に動かせない。ただ、多田野は引き下がらなかった。父さんも、遺してくれたお金を有効活用してほしいと思っているはずですよ。そう言えば、あの子もね。ええ。直が笑顔で相槌を打つ。あの子は昔からしっかり者だから、自分で投資を始めて、老後に備えて増やしているって言ってた。航がやっているなら、という言葉で、私の疑念は一瞬で消え去った。多田野は、私が安心して老後を過ごせるように、あれこれ考えてくれているんだ。感謝しなくちゃ。直の言う通りだわ。舅のことをここまで考えてくれる人は珍しい。頷きかけた瞬間、雅夫の顔がよぎった。ああ、少し考えさせて。気がつくと、曖昧な返事をしていた。直たちは不満そうな顔をしていた。申し訳ない気持ちと同時に、安堵もあった。二人が私のことを考えてくれているのは嬉しいけど、一緒に暮らすうちに、少しずつ心がすり減っていくのを感じていた。

同居が始まって半年ほど経つと、多田野の態度は最初の頃とはかなり変わっていた。仕事から帰ってきてキッチンに立つと、多田野に言われた。今日の夕飯はデリバリーにしようかと思って。え?わざわざ頼まなくても、私が作るけど。そう言うと、多田野の顔が歪んだ。笑ってはいるが、目はどこか馬鹿にしたような色をしていた。いや、母さんの料理はちょっと和風すぎるかなって。それに、これはテイクアウトじゃなくて、デリバリーです。見下すような多田野の態度に、私は言葉を失った。最初の頃の丁寧な態度は消え、いつの間にか多田野が家の中で主導権を握っていた。デリバリーの代金も、私の生活費から引かれているのだろう。ため息をついて、エプロンを外した。無理に作っても、彼らは食べないだろう。一度なんて、私が作った肉じゃがを、味付けが好みじゃないと言って半分以上も残したことがあった。多田野に文句を言う代わりに、直も同調して私を貶めるようになっていた。まあ、確かに母さんの料理は古臭いわよね。今日は韓国料理が食べたい気分。いいね。じゃあ、いろいろ頼もうよ。二人は私を無視して、デリバリーの注文を始めた。韓国料理は辛いものが苦手なので、あまり好きではないが、文句は言えなかった。

1週間後、多田野がこんなことを言い出した。父さんの書斎をリフォームして、テレワークスペースにしようと思ってるんです。は?あなたの会社は、出社が前提じゃないの。今はそうでも、将来必要になるかもしれないでしょ。雅夫の書斎は、彼が大切にしていた場所であり、私にとっても宝物の場所だった。使い込まれた机に、壁一面の本棚。机の上には、一つの腕時計が置かれている。雅夫の気配がひしひしと感じられる場所だ。それを、必要のないテレワークスペースにするなんて、絶対に受け入れられなかった。やめてください。あの部屋は、主人にとって大事な場所なんです。でも、今は誰も使っていないし、有効活用した方がいいと思いますよ。母さん、いつまで父さんのことを引きずってるの?前に進まなきゃ。多田野を擁護する直の顔は、呆れ果てたという表情をしていた。何かが胸の奥で燃え上がるのを感じた。これは悲しみではなく、怒りだった。父さんの部屋には、絶対に触れないでください。話はこれで終わりです。珍しく強い口調で言うと、直と多田野は顔を見合わせた。驚きと不満が入り混じった表情だった。何を思われようと、雅夫の書斎と、あの腕時計は守らなければならなかった。

しかし、次の日の昼過ぎ。廊下を歩いていると、リビングから多田野の声が聞こえてきた。どうやら誰かと電話をしているらしい。足を止めると、驚くべき言葉が耳に飛び込んできた。ええ、そうですね。この家、売れば結構な値段になると思いますよ。おふくろは介護施設に入れようと思ってますから、売却の時期はこっちで調整しますよ。彼の言葉の意味が理解できた瞬間、心が凍りついた。多田野は、私に無断でこの家を売り、私を施設に入れようとしているのか。そんな話が、私の知らないところで進められていたなんて。その夜、アルバイトから帰ってきた直に、私は直接尋ねた。昼間、多田野さんの電話を聞いてしまったんだけど。この家を売って、私を施設に入れるつもりなの?直は一瞬、気まずそうな顔をした。それは私を気の毒に思っての表情ではない。秘密がバレて面倒になることを恐れているような顔だった。父さんの遺産があるから、施設に入れるくらいのお金はあるでしょ。直の声は、耐え難いほど冷たかった。実の母親に向ける声ではなかった。ちょっと、直。感情的になっているのは分かるけど、施設の話を聞いてショックだったかもしれないけど、現実的に考えた方が良くない?私たちだって、いつまでも母さんの面倒を見られるわけじゃないんだから。言いたいことはたくさんあったが、言葉が出てこなかった。自分一人でやっていける。頼んでもいないのに、邪魔者扱いして施設に入れようなんて、あんまりだ。航に電話しよう。頼れるのは、あの子しかいない。踵を返して携帯を取りに行こうとすると、直に呼び止められた。ちょっと、航には電話しないで。遠くの海外で、無駄に心配させるのはよくないでしょ。航には航の人生があるんだから。私は、誘導しないで。直の言葉に、航に相談する気持ちは一瞬で萎えてしまった。彼女の言う通りだ。異国の地で一人で奮闘している航の足を引っ張りたくない。

その夜、二人が寝静まった後、私は雅夫の書斎に入り、机の上にあった腕時計を手に取った。シンプルなデザインで、長年雅夫が愛用していた品だ。冷たい銀のバンドは、私の手のひらの温もりで徐々に温まっていく。ねえ、雅夫。私、どうすればいいの?誰もいない部屋に問いかける。もちろん、答えが返ってくるはずもない。それでも私は、時計を胸に押し当てて、しばらく動けずにいた。

ある日の午後、郵便受けを確認しに外に出ると、見覚えのない封筒が入っていた。差出人は、心当たりのない金融機関の名前だった。私の名義の口座なんて、そんな銀行にあっただろうか。不審に思いながら開けてみると、書類が折りたたまれて入っていた。契約変更手続きが完了しました。どういうこと?私はその書類を持ってリビングに行き、ソファでスマホを見ていた多田野に差し出した。ねえ、多田野さん。ちょっといいかしら。これ、届いたんだけど。何か知ってる?多田野は書類を受け取り、事もなげに言った。ああ、それですか。資産運用の契約を変更しただけですよ。関係ないでしょ、母さんには。ちょっと、資産運用のことは少し考えさせてって言ったはずよ。だから、さっきから言ってるでしょ。小学校しか出てないから、難しいことはよくわからないんですよ。それに、母さんが細かいことを気にする必要はないですよ。母さんの銀行口座を管理しているのは僕なんだから。問題は、そういうことじゃないわ。反論しようとしたが、多田野は話を打ち切るように私から視線を外し、ソファに座った。彼はスマホに視線を落とし、話しかけるなという雰囲気を醸し出していた。私はため息をついて、自分の部屋に戻った。ベッドに座り、先ほど見た書類のことを思い出そうとした。何が書かれているのか、正直よくわからなかった。しかし、私の知らないところで、何かが私の名義で変更されたことは確かだ。一体、何が変わったというのか。胸の奥に、不安がじわりと広がっていく。

その夜、直と多田野が寝静まったのを確認してから、私は布団をかぶるようにしてスマホを取り出した。メッセージアプリを開き、航とのチャット画面に文字を打ち込む。航、母さんだよ。元気にしてる?最近、気になることがあってね。送信ボタンを押すと、すぐに既読がついた。どうしたの、母さん?何でも話してよ。すぐに返信が来た。航の変わらない態度に、少し安心する。まるで、すぐそばに航がいるみたいだ。私は音を立てないようにリビングへ行き、今日届いた書類を探した。良かった、すぐに見つかった。多田野は書類をリビングの机の上に置きっぱなしにしていた。私はカメラアプリのシャッター音を消し、書類を撮影した。直たちに気づかれたら大変だ、という本能が働いた。暗い部屋の中で、手が少し震えた。それでも、写真ははっきりと撮れていた。私は音を立てずに自室へ戻り、航にメッセージと写真を送った。多田野さんが、私の口座から無断でお金を引き出して、資産運用をしているみたいなの。今日、契約変更手続きが完了したっていう書類が届いたんだけど、私、詳しいことはよくわからなくて。ありがとう、母さん。その証拠書類、見せてくれる?あいつが資産運用?そんなことする奴には見えなかったけど。この書類、俺の知り合いに見せてみる。姉さんと多田野さんには、絶対に言わないで。嫌な予感がする。航からのメッセージに、心臓がドキドキと鳴った。嫌な予感って、一体何なんだろう。いくら考えても、答えは出ない。もう寝よう。明日も仕事だ。スマホの画面を消して、ベッドに入り、目を閉じた。胸の不安は消えなかったが、航に現状を伝えたことで、少しだけ気が楽になった。

次の日、いつも通り会社へ向かった。直と多田野は、今日は休みらしい。行ってきます。二人からは、何の返事もない。最近は、こういう扱いにも慣れてしまっていた。突然、リビングに小さな機械があることに気がついた。ペットカメラだ。航が買って、設置してくれたものだった。海外出張に行く直前に。きなこのことが心配で、買ったらしい。老いて目が見えなくなったきなこを、そっと撫でていた航の姿を思い出した。きなこはもういない。ペットカメラも、片付けなくちゃ。会社に向かう足を進めながら、改めてきなこの死を受け止めるのが、最近は少し辛かった。夕方、いつものように仕事を終えて家に帰り、夜になった。その夜は、なぜか異様に眠りが浅かった。目が覚めて、スマホを見ると午前2時。うーん。どうしよう。起きるには早すぎるけど、眠気は消えてしまった。無理やり目を閉じようとしたその時、突然スマホが振動した。航からだ。慌てて音量を下げ、小声で電話に出た。母さん、今すぐ家を出て。え?どうして?航の声が、いつもと違う。切羽詰まっている。詳しい話は後でする。とにかく、今は俺を信じて。私は音を立てずに裏口から出ることにした。財布とスマホ、雅夫の腕時計だけ持って。聞きたいことは山ほどあったが、そんな暇はなさそうだった。わかった。そう答えて、通話終了ボタンを押した。先日、音を立てずに移動するのは経験済みだ。しかし、今日は直と多田野が起きているようだった。リビングに灯りがついている。仕方ない。私は静かに廊下を歩き、雅夫の書斎に入って腕時計をバッグに入れた。そのまま裏口へ回った。外に出ると、冷たい夜風が頬を撫でた。ああ、なんとか外に出られた。直と多田野が、何やらリビングで話しているのが聞こえる。廊下まで、小声の呟きが響いてくる。何を話しているのかはわからない。夜中に何の話をしているんだろう。でも、今はとにかく家から遠く離れなければ。住宅街の灯りが点々と光る中を、私は走り出していた。気がつくと、見慣れた小さな公園に来ていた。きなこの散歩コースだ。この公園で駆け回っていたきなこを思い出し、涙が溢れてきた。まるで、きなこがここへ導いてくれたかのようだった。ここは大通りに面した開けた場所だから、夜でも安全だ。ベンチに座り、スマホを取り出して、航に連絡した。もしもし、航。家を出たよ。そうか、良かった。今、どこにいる?きなこの散歩コースの公園にいるの。夜でも安全な場所でしょ。電話の向こうで、ホッとしたようなため息が聞こえた。そうか。きなこの場所か。それで、一体何があったんだ?夜中に家を飛び出して、うちの家を出たって。状況が飲み込めないまま、私は航の指示に従っていた。普通、人がいる家を突然飛び出すなんて、よほどの緊急事態だ。私の知らないところで、何か悪いことが起きていたのだろうか。不安を隠せずに尋ねると、航の口から信じられない言葉が飛び出してきた。母さん、落ち着いて聞いてくれ。実は、母さんの銀行口座から、合計380万円が不正に引き出されていたんだ。え……そんな。信じられなかった。お金の管理を任せていたのは、多田野と直だったから。二人に裏切られたショックもあったが、なにより自分のお金が380万円も消えたことが、もっとショックだった。しかし、どこかで直たちを信じきれていなかった自分がいたのも事実だ。やっぱり、という気持ちと、寒気がした。そして、多田野さんは、明朝、家庭裁判所に書類を提出しに行く予定だったんだ。家庭裁判所?なぜ?成年後見人申立て、って聞いたことある?聞き慣れない言葉だった。私が知らないと言うと、航はわかりやすく説明してくれた。認知症とかで判断力が衰えた人に代わって、財産管理や契約を任せる人を、家庭裁判所が正式に認める手続きだよ。ちょっと待って。まさか、あの二人は、私の判断力が衰えていると偽って、成年後見人になろうとしているの?もしそうなれば、この家も残りの財産も、姉さんたちの管理下に置かれることになる。手が震えた。スマホを落とさないよう、両手でしっかりと握りしめた。すべての点が、一本の線で繋がった気がした。同時に、新しい疑問も湧いてきた。どうして航がそれを知っているの?リビングにペットカメラがあっただろ?あれを作動させて、二人の会話を盗聴したんだ。昨日、母さんから書類が送られてきた後、ペットカメラのことを思い出したんだ。作動させてみたら、偶然、二人が計画を話し合っているのを聞いてしまった。母さんが昨日送ってくれた書類は、実は定期預金の契約内容の変更通知だったんだ。定期預金を解約して、3回に分けてお金を引き出していたらしい。それが、さっき言った380万円ってわけだ。たしかに、定期預金の金額と一致する。母さんが何も知らなさそうだったから、おかしいと思って、状況を把握するためにペットカメラを作動させたんだ。きなこのために買ったカメラだけど、片付けなくて本当に良かった。きなこに救われたと言っても過言じゃないよ。そういうことだったのか。最初から、私を騙してお金を奪うために、同居を始めたんだ。一人で家に残しておくのは危険だと思って、家を出てもらったんだ。驚かせて悪かったな。いいえ、助かったわ。逆に、ありがとう。雅夫の腕時計を持ってきてって言ったのは、あの二人が無断で売り飛ばそうとしていたからなんだ。これも、ペットカメラの会話で聞いたんだ。彼の腕時計は高級ブランドで、最近人気が高まっていて、売ればかなりの値段になるらしい。母さん、そのまま公園にいてくれ。俺の知り合いが迎えに行くから。知り合い?昨日、母さんから送られてきた書類を見せた人だよ。すぐに着くと思う。

すると、公園の前に車が止まった。航と同い年くらいの男性が降りてきた。小倉沙子さんですか?ああ、あなたは航の同級生の、織田啓介くんじゃないの。彼は丁寧に頭を下げ、名刺を差し出した。織田啓介。彼は弁護士だった。心配しないでください。信頼できる人です。この件については、すべて私から話してあります。まだ繋がったままの電話から、航の声が聞こえた。同時に、昔の記憶が蘇ってきた。航が高校の時、学園祭に手作りのおにぎりを持ってきてくれたことがあった。その隣で、真面目そうな眼鏡の男の子が、気まずそうに立っていた。何度か家に遊びに来たこともあった。もしかして、啓介くん?お久しぶりです。元気にしてた?航がいつもお世話になっているね。高校卒業後も、航は何度か啓介くんの話をしていた。啓介くんは、少し微笑みながら、落ち着いた声で話した。はい。お久しぶりです。学園祭のおにぎり、美味しかったです。あの時、多めに作ったから、啓介くんにもお裾分けしたのだった。随分前のことなのに、覚えていてくれたなんて。彼の礼儀正しく、控えめな様子は、高校生の頃と変わっていなかった。私の中で、いつの間にか警戒心が解けていくのがわかった。この人なら、信頼できる。母さん、スマホを啓介に変わって。スマホを啓介くんに渡すと、彼は短く話して、すぐに私に返してくれた。沙子さん、これから私が働いている法律事務所に向かいましょう。え?今からですか?はい。上司に許可をもらって、こんな夜中に事務所に来ていただくことになっています。事務所に個室があるので、今日はそこで休んでください。申し訳ないな、と思っていると、電話の向こうから航の心配そうな声が聞こえた。外をうろうろさせるわけにはいかないからね。ありがたくお願いしよう。ええ、そうね。良かった。じゃあ、俺はもう切るね。航に礼を言って、通話終了ボタンを押した。私は啓介くんの車に乗り込み、立派な法律事務所へ連れて行かれた。この部屋で休んでください。啓介くんは、これからどうするの?私は少し早いけど、仕事を始めます。航に頼まれたことがあるので。何のことだろう、と思いながら、私は個室に入った。緊張して眠れないかと思ったが、すぐに深い眠りに落ちてしまった。知らず知らずのうちに、疲れていたらしい。

翌朝目覚めると、案内された個室で、朝食を取った。おはようございます、沙子さん。ゆっくり休めましたか?おかげさまで。啓介くんが持ってきたノートパソコンに、航の姿が映し出されていた。航の笑顔を見て、全身の力が抜けた。昨日、航から頼まれたことと、私が調べたことをお話ししますね。啓介くんは、落ち着いた口調で、現状を整理して説明してくれた。定期預金の解約は、直さんと多田野さんが、沙子さんの委任状を偽造して、解約手続きを行った可能性が高いです。その後、お金を不正に引き出していたようです。次に、成年後見人申立ての問題です。これがもし正式に認められていれば、直さんと多田野さんが、この家と残りの遺産を管理することになっていたでしょう。私が今朝一番に裁判所に連絡して、不正な申立てがあったことを報告しました。手続きは一旦、停止されています。もう動いてくれたの?驚いて航の方を見ると、彼は頷いた。この人、本当に仕事ができるんだな。若いのに人気の弁護士で、今回も親友の特権を使って、忙しい中を調整してくれたらしい。緊迫した状況だったからね。それと、航からは、成功報酬をもらうつもりだよ。慌てている私を落ち着かせようと、啓介くんが冗談を言う。思わず笑ってしまうと、啓介くんの表情も少し和らいだ。画面の中の航も笑っているが、よく見ると目の下に隈がある。きっと、今までほとんど眠らずに対処してくれていたんだろう。母さん、ごめん。もっと早く気づくべきだった。謝らないで。私が悪いんだから。私は迷わず首を振った。私がもっとしっかりしていれば、こんなことにはならなかった。遠くにいる航を心配させてしまっただけでなく、啓介くんにも迷惑をかけてしまった。謝るべきなのは、私の方だ。ごめんなさい、二人とも。私が二人みたいにしっかりしていたら、こんなことにはならなかったのに。啓介くんが、私の言葉を遮った。彼は真剣な目で、私をまっすぐに見つめた。そもそも、親族を騙してお金を奪おうとする人が悪いんです。普通の人なら、そんなことは絶対にしません。沙子さんが油断していたとか、そういうことではないんですよ。啓介くんの言う通りだ。常に人を疑って生きていたら、心身ともに疲れ果ててしまう。母さんは悪くないよ。今回の騒動は、100パーセント、姉さんと多田野さんが悪い。涙が溢れてきた。二人の言葉が、自分を責める気持ちから救ってくれた。私は何度も、ありがとう、と言った。本当に、彼らがいてくれて良かった。啓介くんは私が落ち着くのを待って、ゆっくりと立ち上がった。では、沙子さん。一度、家に戻りましょう。一緒に行きますから。そうだね。着替えや、当面の荷物をまとめて、どこかのホテルに避難しよう。事態が解決するまで、このまま二人のそばに置いておくわけにはいかない。そう言われて、ハッとした。パジャマのまま家を飛び出してきたことを、今さらながら実感する。早く帰って、荷物をまとめなければ。私たちは、啓介くんの車で家に向かった。玄関の前に立つと、複雑な気持ちが込み上げてきた。つい昨日まで住んでいた家なのに、今は足を踏み入れるのに勇気がいる。雅夫と一緒に長い間守ってきた場所なのに、今は、よそよそしい場所に感じられる。大丈夫ですよ。私がいますから。隣から聞こえた啓介くんの声に、我に返った。そうだ。私一人じゃない。啓介くんと、航という頼もしい味方がいる。私は勇気を振り絞って、バッグから家の鍵を取り出した。ただいま。玄関を入ると、すぐに直が現れた。驚きの表情の後、疑惑の色が目に浮かんだ。母さん、どこに行ってたの?今朝起きたら、いなかったから心配したんだよ。後ろから多田野が現れ、直の隣に立った。彼の視線は落ち着かず、私と啓介くんを交互に見ていた。母さん、心配したんですよ。連絡も取れないし、何かあったのかと思って。昨日の私なら、その言葉を疑うことなく受け入れていただろう。しかし、今は違う。多田野の言葉に、嘘しか感じられない。私は二人の顔を順番に見つめ、間を置いた。弁護士さんに相談してきたの。こちらが、その先生よ。啓介くんは静かに頭を下げ、名刺を差し出した。二人の表情が、音もなく固まった。多田野は口を半開きにし、直は目を大きく見開いていた。べ、弁護士?何の冗談ですか。ふざけないでください。いいえ、冗談ではありませんよ。直さんが、施設の話を変な風に言ったからですか?あれは誤解です。私たちは母さんのためを思って言っただけで、話し合えばわかると思っています。多田野の言葉は、するすると流れるように出てくる。彼は自分がすべてを語っていることに、気づいているのだろうか。そうよ。施設の話は、ただの例え話だったの。無理やり入れようとしたわけじゃないのよ。あなたたちが言ったこと、忘れたの?父さんの遺産があるから、施設に入れるくらいのお金はあるでしょ。私のことは、いつまでも面倒見られないんだから。直は言葉を失った。隣に立つ多田野は、怒りの表情で直を見た。余計なことを言うな、という視線だった。私は深くため息をついて、自室へ向かおうとした。今後のことは、弁護士さん立ち会いの下で決めましょう。ちょっと待ってよ。どこに行くの?私の部屋よ。荷物をまとめるから。多田野が手を伸ばしてきたが、啓介くんが一瞥すると、すぐに手を引っ込めた。彼の存在が、こんなにも心強い。部屋に入り、クローゼットを開けた。必要なものをまとめながら、頭の中で今後の計画を整理していく。今日この家を出たら、しばらく帰ってこられないかもしれない。しかし、絶対に取り戻す。雅夫と過ごした大切な思い出が詰まった場所だ。直たちに、絶対に渡さない。荷造りをしていると、直の不安そうな声が聞こえてきた。どうして荷物をまとめてるの?しばらく、家を空けることにしたから。家事は、自分たちでやってちょうだい。最近、直たちは家事を全くせず、私に任せきりだった。そんなことはどうでもいいわ。それより、これは家族の問題でしょ。どうして弁護士を呼んだの?家族の問題だからこそ、弁護士に頼んだのよ。あなたたちが、最初に家族を壊したんでしょ。もう、あなたたちを家族だとは思えないわ。多田野もね。隣に立つ多田野に視線を向けると、二人は気まずそうに視線を逸らし、何も言わなかった。荷物をまとめ終え、家を出た。直たちは止めることができず、黙って見送った。

法律事務所の近くのビジネスホテルに、これから向かいます。ホテルは、もう予約してありますよ。ありがとう。助かるわ。昨夜から今朝にかけての、啓介くんの行動を思い返す。無駄が一切なかった。航の言う通り、彼は仕事ができる人物だ。そして、ただ優秀なだけでなく、人の痛みがわかる人なのだと思った。私の大切な息子に、こんな素晴らしい友人がいてくれて、本当に嬉しい。それでは、沙子さん。今日はこの辺で。また明日、事務所に来てください。何かあれば、いつでも連絡をくださいね。はい。ありがとう、啓介くん。お礼を言うと、彼は少し微笑んだ。車で見送り、ホテルの中へ入った。部屋に荷物を置き、息つく間もなく、職場に電話をした。今日まで週末で休みだが、明日は月曜日。こんな状態で、気軽に仕事には行けない。休日にすみません。少し相談があるのですが。現在の社長は、雅夫の元部下で、私と長年の付き合いがある。事情を話すと、彼はとても心配してくれた。それで、少しお休みをいただきたいのですが。1週間から10日ほど、いただけますか?幸い、会社は繁忙期を過ぎていた。有給休暇もたくさん残っていたので、問題なく休むことができた。山積みの仕事もないし、直の問題に集中できる。真面目にコツコツ働いてきて、本当に良かった。電話を切ると、航からメッセージが届いていた。え、帰ってくるの?自然と声が明るくなった。彼は予定より早く仕事が終わり、明日の朝、帰国の飛行機に乗るらしい。若くして海外の大きなプロジェクトを任されるほど、航は優秀だ。無事に仕事を終えて帰ってくるのは嬉しいが、こんなに早く帰ってこられるとは。迷惑をかけてしまったという罪悪感と、嬉しい気持ちが同居していた。航がそばにいてくれたら、心強い。航は、私が頼りきっても、嫌な顔ひとつしない優しい子だ。だからこそ、私は今まで何も言えずにいた。一度甘えてしまえば、自分がダメになってしまいそうで。でも、もっと早く素直に相談していたら、ここまで大事にならずに済んだのかもしれない。辛いな。ホテルの部屋で、一人ため息をついた。この騒動が終わったら、航に精一杯感謝しよう。

落ち込んでいる私の元に、航から連絡があった。私が泊まっているホテルに、もう着いたらしい。航、おかえり。ただいま、母さん。大きなスーツケースを引いた航が、私に微笑んだ。空港から、家にも寄らずに直行してきたのだろう。スーツ姿で、疲れた顔をしていた。彼は私の肩をポンと叩き、じっと見つめた。目頭が熱くなる。怖かっただろう。ごめん。もっと早く動くべきだった。あなたが、私を助けてくれたのよ。実は、前から少しおかしいなって思ってたんだ。航が悔しそうな顔をした。どういうこと?目で尋ねると、彼は言った。母さんと国際電話で話した時、声がいつもと違う気がしたんだ。無理して明るく振る舞っているように感じた。そういえば、航はよく電話でこう言っていた。母さん、無理してない?大丈夫?何かあったら、遠慮なく言ってよ。あの時は、雅夫ときなこを亡くしたばかりで、航自身が不安になっているのかと思っていた。しかし、違った。彼は、私の変化を敏感に察知していたのだ。あなたは昔から、周りの変化にすごく敏感だよね。疑り深い性格って言うかさ。啓介には、学生時代、もっと人を信じろってよく怒られたよ。二人には、私の知らないところで、熱い友情があったらしい。この騒動が終わったら、航の高校時代の話を啓介くんに聞いてみたいものだ。今は、自分の性格に感謝してる。そうじゃなきゃ、ペットカメラを作動させて、二人の会話を盗聴しようとは思わなかったからね。母さんに家を出るように電話をしたあの夜、姉さんと多田野さんは、とんでもない話をしていたんだ。二人が夜中にリビングで話していたのは、航の盗聴を全く知らないままだった。もし母さんが抵抗したらどうする?あんな年寄り、どうとでもなるさ。抵抗したら、少し痛い目を見せてやればいい。そうすりゃ、怖がって言うことを聞くさ。その言葉を聞いた瞬間、血の気が引いた。航は、私の命が危険に晒されていると判断し、あの電話をかけてきたのだ。状況は、思っていたよりもはるかに危険だった。裏口から飛び出した時に感じた、あの冷たい空気を思い出す。当時は、ただ航を信じるしかなかった。今思えば、あの判断は正しかった。でも、もう大丈夫だよ。もう二度と、母さんを危険な目に遭わせない。一緒に、この事態を解決しよう。航の力強い言葉に、私は大きく頷いた。夜中に家を飛び出す前の私は、言われたまま何でも従ってしまう弱い人間だった。しかし、今は違う。航と啓介くんという、頼もしい味方を得たのだ。この二人がいるなら、もう何も怖くない。ええ、やるからには徹底的にやりましょう。航が私の背中を軽く叩いた。私は胸の前で拳を握りしめ、心の中で雅夫に語りかけた。雅夫。見守っていてね。すると、大きな優しい手が、そっと私の肩を包み込んだ気がした。

翌日、私は航と一緒に、啓介くんの法律事務所へ向かった。おはようございます。沙子さん、航。お久しぶりです。留守の間、母がお世話になりました。君の頼みだからね。それに、沙子さんには学生時代、いろいろお世話になったからね。これくらいでは、むしろ足りないくらいだよ。最初の日に案内された応接室に通された。当時は気づかなかったが、入口の看板には『第一応接室』と書いてあった。落ち着いた雰囲気の、立派な部屋だ。これまでお話しした通り、あの二人は偽造の委任状を使って、沙子さんの定期預金を無断で解約し、お金を引き出していました。もし時間を巻き戻せたら、あの時に通帳を預けなければ良かった。直たちは、私のことを考えてくれているのだと、自分に言い聞かせていた。それは間違いで、私は過去の自分を振り返らずにはいられなかった。あの二人を信じていた私は、愚かだった。母さん、と声をかけられて、我に返った。二人に対しては怒りよりも、悲しみの方が強かった。直を産んだ日のことを思い出す。真っ赤な顔で、私の腕の中で泣いていた小さな命。初めての子供で、本当に可愛かった。私の育て方が悪かったのか。暗い考えが頭をよぎった時、隣にいる人物を見て、私は考えを改めた。航は立派に育ってくれた。私が直と同じように育ててきた子だ。二人の間にこれほどの差が生まれたのは、おそらく二人が持って生まれた性質のせいだろう。悲観的になるのは、全てが終わってからにしよう。私の育て方が悪かったのではない。あの二人がしたことは、明らかに悪いことです。そして、日本という法治国家に住んでいる限り、彼らは法で裁かれなければなりません。啓介くんの強い口調に、私は顔を上げた。彼は、私をまっすぐ見つめている。まずは、二人に内容証明郵便を送りましょう。同居解消と退去を求める内容だ。それでも応じなければ、弁護士として動きます。一瞬、ためらった。我が子とその配偶者に、そんなことをしてしまっていいのか。しかし、私の覚悟はすぐに固まった。ええ、お願いします。あの二人を、ただ子供扱いして叱って済ませるわけにはいかない。隣で航も、静かに、しかし力強く頷いていた。

3日後、ホテルで休んでいると、直から電話がかかってきた。母さん、どういうこと?顔は見えないが、焦っているのがはっきりとわかった。どうやら、啓介くんが送った書類が届いたらしい。書いてある通りよ。同居を解消して、この家から出て行ってもらうわ。いきなりそんなこと言われても。それに、ここは私の家でしょ。私にだって住む権利はあるわ。弁護士を使って脅すなんて、やりすぎじゃない?困惑と怒りが混ざった声が、耳をつんざくように響いてくる。私は、言い返す代わりに、ため息をついた。これからは、私の代理人を通して話してください。書類にも書いてあったはずよ。はあ?どうして親子で、弁護士を挟まなきゃいけないのよ。直の言葉を最後まで聞かずに、私は通話を切った。すぐに着信拒否設定をし、スマホを机の上に置いた。手が少し震えていることに気がついた。着信拒否にするのは衝撃的な行動だったが、今は安心している。どうしてこんな大人になってしまったのだろう。答えてくれる人は、誰もいない。もう一度ため息をついて、ベッドから立ち上がった。気分転換に、外に出よう。スマホを置いたまま、ホテルを出た。何も考えたくない。頭を空っぽにして、目的もなく歩いた。ホテルに戻ると、航から着信があった。慌ててかけ直すと、航は言った。ごめん、航。気づかなくて。いや、いいんだ。給料のことじゃなくて、母さんに伝えておこうと思ってね。どうやら、私と電話した後、直は啓介くんに連絡を取ったらしい。航が言うには、啓介くんは、直が勝手なことを言うので驚いていたらしい。住む権利はないと明言してくれたそうだが、姉さんたちが素直に退去するとは思えない。この騒動は、もう少し続きそうだ。大丈夫だよ。弁護士がいるんだから。弁護士がいるというのは、本当に心強い。法律の専門家の助けがあれば、事態は好転するはずだ。

しかし、翌日。午前10時頃、啓介くんから驚くべき電話がかかってきた。直さんと多田野さんから連絡がありました。沙子さんと直接話したい、と。直接会って話がしたいとのことですが、どうしますか?私はしばらく考え込んだ。無視したり、逃げたりする選択肢もあった。嫌なことは全部、啓介くんに任せてしまえばいい。しかし、心の奥底で、それは違うと叫んでいる自分がいた。全部人任せにしていたら、安心できない気がした。直は私のたった一人の娘だ。多田野はその夫であり、私が家に迎え入れた人間でもある。今回の件には、私にも責任がある。二人に会いましょう。最後は、自分の手で終わらせたい。それは頼もしい。では、私が日時と場所をセッティングしますね。ついに、全てが終わる時が来た。心臓がドキドキしている。必ず、幸せな結末を迎えられる。この言葉は、希望から出たものではない。確信だ。航と啓介くんがそばにいてくれれば、大丈夫。そして、姿は見えなくても、雅夫がずっとそばにいてくれる。頑張れ、と彼の声が聞こえた気がした。

2日後、指定された啓介くんの事務所へ行くために、私はホテルの部屋で身支度を整えていた。カジュアルな服装でも良かったが、あえて仕事で着るお気に入りのジャケットを選んだ。重要な相談がある時に、いつも着ていく服だ。それを着ると、決意が引き締まる。しかし、怒りをぶつけに行くわけではない。二人との関係に、きちんと線を引くために会いに行くのだ。バッグのポケットに、雅夫の腕時計を忍ばせた。冷たい金属の感触が、思考をクリアにしてくれる。よし、行こう。ホテルを出ると、先に到着して待っていてくれた航がいた。行こう、母さん。ええ。私は航の車に乗り込み、啓介くんの事務所へ向かった。覚悟はいい?もちろん。航は大丈夫?ああ、問題ないよ。挨拶を交わし、事務所の玄関をくぐった。応接室へ通され、並んで座ると、しばらくして直と多田野が入ってきた。直の目は赤く腫れていた。ずっと泣いていたのだろう。化粧では隠しきれていなかった。多田野は口をへの字に曲げ、落ち着かない様子で視線を泳がせていた。いつもは強気なのに、今日は明らかに気後れしているようだった。二人がソファに座ると、啓介くんが部屋に入ってきた。始めましょう。その言葉で、部屋の空気が張り詰めた。啓介くんが口を開きかけた瞬間、多田野が突然、声を張り上げた。俺は、母さんの財産を守ろうとしただけだ。詐欺対策とか、老後資金の投資とか、悪意はなかったんだ。偽造の委任状を使って380万円を引き出した事実は、銀行の記録で確認されています。証拠書類も、全て揃っています。客観的に見て、財産を守るためだったとは言えないでしょう。啓介くんは、動じることなく反論した。しかし、多田野は口を止めた。よく見ると、彼の唇は震えていた。啓介くんの声は静かだったが、一言一言に重みがあった。彼は感情を交えず、淡々と事実を積み上げていった。責めるよりも、事実を淡々と並べた方が、相手を追い詰めやすい。それでも、多田野たちは簡単には引き下がらなかった。母さん、聞いて。これは、多田野が勝手にやったことなんだよ。私は、本当に何も知らなかったんだ。多田野がこんなことをするなんて思わなかったし、私は悪くない。直の声には、必死さが滲んでいた。彼女はただ、自分だけは助かりたいと思っていた。多田野に全ての罪を被せ、自分は被害者のように振る舞っている。私は、静かな怒りを胸に抱いていた。こんな娘に育てた覚えはない、と口走りそうになった。直。確認したいことがあるんだけど、スマホを見せてくれる?え?な、なんで?断ってもいいですよ。ただ、裁判になれば、開示請求という手続きを踏むことになります。時間はかかりますが、結果は同じです。直の大きな目が揺れた。彼女の視線は、多田野に向き、また啓介くんに戻る。膝の上で、指が落ち着かなく動いていた。私はそれを、黙って見守っていた。長い沈黙の後、直はスマホを机の上に置いた。ロックを解除するよう求められ、彼女は黙って従った。やはり、多田野さんと直さんが計画を話し合っていたメッセージが残っています。この記録から、直さんが最初から内容を知っていたことは明らかです。ち、違う。知らなかったんだ。多田野が、なぜか直を睨んだ。余計なことを言うな、という目だった。それなら、何で知らなかったって言い張るんだよ。あなたが知らなかったはずがないだろ。弁解すればするほど、墓穴を掘ってるよ。航の鋭い声は、初めて聞くものだった。直は、驚いたように肩を震わせた。あなたも共犯者みたいなものだよ。直は答えず、うつむいた。顔は青ざめ、全身が震えている。その様子が、なにより雄弁に物語っていた。以前から、直は多田野を止めるのではなく、むしろ後押しするような言動ばかりしていた。私は、彼女が仕方なく彼の指示に従っているのかと、少し思っていた。しかし、直は自らの意志で、私を侮辱しようとしていた。なぜ、そんなことを。あなたは昔から、お金に執着するところがあるもんね、姉さん。父さんの遺産が目当てだったんじゃない?航の言葉に、直の目がわずかに揺れた。図星だったのだろう。私は呆れ果てていた。何のために?怒りや悲しみを通り越して、我が子に対して驚きの感情を抱いていた。直は唇を強く噛みしめていた。私たちは、二人の証拠を全て持っています。沙子さんに対する詐欺罪や文書偽造罪での刑事告訴も、視野に入れています。その点、ご了承ください。重い沈黙が、部屋を包んだ。沈黙を破ったのは、意外な質問だった。お金に目がくらんだ以外に、姉さんが父さんの遺産を欲しがった理由はないのか?直は、ゆっくりと航を見上げた。その目には、衝撃と絶望の色があった。ああ、航。お前、知ってるのか?ああ、知ってるよ。父さんが死ぬ前に、街で姉さんを見かけたんだ。消費者金融のATMから出てくるのを。直の顔が、青白いを通り越して真っ白になった。隣で多田野が、目を見開いて直を凝視していた。ちょっと待て。借金があるのか?多分な。違うのか、姉さん?航が問い詰める。直の呼吸は、次第に荒くなっていった。彼女は、私に縋るような目を向けた。直。話して。追い詰められた直は、観念したように、うな垂れた。私……借金があるの。次の瞬間、多田野の表情が一変した。それまでの控えめな態度は消え、別の感情が現れた。今まで、なぜ黙ってたんだ?言ったら、多田野が怒ると思ったから。当たり前だろ。それに、どうして借金なんか作ったんだ?直が、小さく息を飲む音が聞こえた。多田野にバレたら終わりだ、と顔に書いてある。もしかして、男か?姉さんは昔から、男関係でトラブルを起こす癖があるからな。もう隠しても無駄だぞ、直。正直に話した方が、印象は良いと思うぞ。直の顔に、冷や汗が浮かんでいた。私たちの視線に耐えきれず、彼女は両手で顔を覆い、泣きながら衝撃の事実を告白した。多田野の会社の同僚と、不倫していたの。え?今度は、航も私も驚いた。啓介くんさえ、予想外だったのか、目を丸くしていた。付き合っていた男に、うまくいかなくなったら金を貸してくれって言われて。うまくいかなくなったって、それは同じ会社の男のことか?多田野との飲み会に行った時、何度か見かけたことがある。俺の好みのタイプだったから。正直に話せとは言ったけど、体の関係を持てとは言ってないぞ。多田野は激怒し、直に平手打ちを喰らわせた。直は泣きながら、言い訳を繰り返した。私は、まるで他人事のように、その光景を眺めていた。どうでもよかった。私の大切なお金が、どこまでも浅はかな理由で奪われていた。妹は、その金を不倫相手に渡していたのだ。多田野の人柄はよく知らないが、おそらく彼も、目の前の金と女に目がくらんだのだろう。直は昔から男を手玉に取るのが上手く、多田野をうまく言いくるめて協力させたのかもしれない。最初から、二人の間に本当の繋がりなんてなかったのかもしれない。お互いの利益のために、ただ組んでいただけだ。二人の間にあるものは、愛ではない。いずれ、壊れていた関係だったのだろう。二人の言い争いは、次第にヒートアップしていった。啓介くんが咳払いをし、二人を止めた。感情的になるのは、今日はやめましょう。では、今後のことについて、お話しします。直と多田野は、不機嫌そうな顔で口を閉じた。直は声を殺して泣き、多田野は疲れ果てたように椅子に深く沈み込んだ。不正に引き出された380万円の全額返還を求める訴訟を起こします。そして、沙子さんが被った精神的苦痛に対する慰謝料も請求します。ただし、示談に応じていただけるなら、一部の返還で済ませることも可能です。ちょっと待って、お金を返せば、訴えないってこと?はい、そうです。裁判になれば、お互いに弁護士を雇う必要が出てきます。航が、啓介くんに続いて口を開いた。しかし、こちらは絶対に負けない。母さんは何も悪くないんだから。例え裁判になっても、無駄金を使うだけだぞ。それに、職場にバレる可能性もあるしな。航が多田野を睨みつけた。多田野は、驚いて肩を震わせた。わ、わかった。金は返す。直は、力なく項垂れたまま、何も言わなかった。お前たち、まだ謝ることも忘れてるんじゃないか?謝るのは、自分たちが悪いって分かってからにしろよ。航の目は、激しい怒りの炎を宿していた。直は、涙を流しながら、私に頭を下げた。母さん、ごめんなさい。本当は、もっと早くこの言葉を聞きたかった。もし、自分で気づいて反省していたなら、こんなに厳しく対応することはなかったのに。あなたを、子供として、見捨てることはなかった。直の顔に、後悔の色が浮かんだ。それも、今となっては、結果論だ。直は両手で顔を覆い、くぐもった声をあげた。多田野も、弱々しく私に頭を下げた。すみませんでした。あなたの謝罪は、受け入れられません。これから先、あなたを待っている現実が、あなたへの罰です。はっきりと言った多田野は、真剣な表情で頭を下げてきた。それに対して私は、怒りと嫌悪感しか感じなかった。自分の利益のためなら、他人を騙して平然としていられる。そういう人間が、私は一番嫌いだ。私は、許さない。二度と、私の前に現れないで。部屋に沈黙が訪れた。私はゆっくりと椅子から立ち上がり、二人を交互に見つめた。この話は、ここで終わりにしましょう。もう、この二人の顔は見たくない。俺も。姉さん。俺もお前と縁を切るからな。金に困っても、一切助けないから。直は泣いてばかりで、航の言葉に反応しなかった。では、解散しましょう。私から、直さんと多田野さんに、支払い通知を送ります。啓介くんは、最後まで冷静に仕事をこなした。彼に任せて、本当に良かった。では、私はこの二人と、もう会うこともないでしょう。私は航と一緒に、さっと事務所を出た。ホテルに戻ろうとすると、航が私を引き止めた。母さん、俺の家に来ない?彼は社宅に住んでいた。私が一人で住むには家が広すぎたので、ホテルに泊まるしかなかった。しかし、家族は立ち寄ってもいいらしい。久しぶりに航の部屋を訪れると、彼は封筒を差し出した。これ、父さんが遺してくれた手紙だよ。父さんが死ぬ直前に、俺が預かってたんだ。私は驚いて、航の顔を見た。彼は少し照れくさそうに、頭を下げた。ごめん。すぐに渡すべきだったんだけど、葬式の準備やら、海外出張の準備やらで、すっかり忘れてた。いいのよ、気にしないで。きなこもすぐに死んじゃったし、彼女も落ち込んでたしね。私は手紙を受け取り、微笑んだ。ゆっくりと中身を取り出すと、懐かしい筆跡があった。病のせいで徐々に力が弱くなっていったのか、その字は以前ほど綺麗ではなかったが、雅夫の想いが詰まっていた。あの日、雅夫は私がいなくても大丈夫か、心配していたのだろう。何度も、母さんを頼む、と書いてあった。彼の心配は、見事に的中してしまった。もし航がいなければ、どうなっていただろう。私は、再び手紙に目を落とした。私への心配と同時に、感謝の言葉も綴られていた。私と結婚したことは、この人生における決断だった、と。そんな、やめてよ。涙が溢れてきた。私も、雅夫が好きだった。なのに、もういない。生きているうちに、しっかり想いを伝えればよかった。大丈夫だよ、母さん。母さんの気持ちは、父さんにちゃんと届いてるよ。どうして、そう言い切れるの?私が不安そうな顔をしていると、航は自信満々に頷いた。断言できるよ。そうじゃなきゃ、あんなに愛情のこもった手紙を遺してくれるはずがないからね。子供の頃から、二人の愛し合い方には驚かされてばかりだったよ。あんなに仲の良い夫婦は、他にいないよ。航は呆れたように言ったが、その後で、ふっと笑った。雅夫が亡くなってから、曇り空だった世界が、少し明るくなった気がした。あら、そうかしら。私たち、結構仲良し夫婦だったのね。過去形ではなく、現在形で彼のことを話している。雅夫は、私と航の中で、これからも生き続ける。もう寂しくない。ずっと一緒だ。

翌日、啓介くんから連絡があった。退去期限を1ヶ月に設定した。分割での返済を受け入れるという内容の書類にも、サインをもらったよ。あとは、彼らが出て行くのを待つだけだ。そうか。直たちが家を出るまで、私は静かに過ごすことにしよう。啓介くんから連絡をもらった次の日、私は仕事に復帰し、普段通りの生活を始めた。特別なことは何もない。心配ごとがなく、普通の生活ができることに感謝していた。退屈だと思っていた日常が、実はこんなにも大切なものだったとは知らなかった。嫌なことはたくさんあった。しかし、得たものも大きかった。私は直と多田野の連絡先をブロックした。念のため、新しいスマホを購入し、連絡先を移行した。もう、彼らから連絡が来ることはない。1ヶ月後、彼らは無事に家を出て行った。いつでも帰ってきてください。ありがとう、啓介くん。私はホテルを引き払い、家に戻った。久しぶりの我が家だ。玄関を入り、家の空気を深く吸い込んだ。ああ、やっと。奪われていた家が、戻ってきた。嬉しくて、泣きそうになった。家も無事だ。留守の間にテレワーク部屋にされていないか心配していたが、何も変わっていなかった。そうだ。ちゃんと元に戻さなきゃ。私は、あの夜に雅夫の腕時計を見つけた場所に、腕時計を戻した。そう。完璧。窓から差し込む光に、時計は輝いていた。雅夫も、喜んでいる気がする。返事はなかったが、寂しさは感じなかった。私は鼻歌を歌いながら、自室に向かった。

家に帰ってから半月後、私は航に直たちの様子を尋ねた。彼は念のため、連絡先をブロックしていなかったらしい。どうやら直と多田野から、それぞれ長文のメッセージが届いていたらしい。二人は、かなり苦労しているそうだ。多田野は職場で騒動を起こしたらしい。同僚との不倫問題を直に直接問い詰め、口論になった末に、ついに殴り合いの喧嘩になったという。多田野は、上司から厳重注意を受けた。彼は元々、仕事でもミスが多かったらしい。そこに今回の件が重なり、周囲からの視線は冷たくなる一方で、職場に居場所がなくなってしまった。結局、彼は会社を辞めた。今は、分割返済と生活費を稼ぐために、複数のアルバイトを掛け持ちしているらしい。直に給料の減額を頼んだが、拒否されたそうだ。一方、直は多田野に離縁され、離婚した。多田野からは、お前のせいでこうなったと言われたらしい。彼女は安いアパートで一人暮らしを始め、複数のアルバイトを掛け持ちしている。分割返済もままならず、ギリギリの生活を送っているらしい。もっと母さんを大事にしていれば、こんなことにならなかったのに、という言葉も書いてあった。私は、『当然だよ』とだけ返信した。そうだな。二人は、当然の報いを受けたのだ。彼らの苦しい日々は、これからも続いていく。しかし、私は彼らを助けるつもりは、微塵もなかった。

ある休日、航と啓介くんが、私の家に来ていた。雅夫の仏壇の前には、みなが並んでいた。航が先頭に立ち、その後ろに啓介くんが続く。私は手を合わせ、目を閉じた。出張の報告はしたのか?ああ。留守中、母さんのことを頼むって伝えておいたよ。航は、会社から海外出張を命じられていた。一人で留守番させるのは心配で、断ろうとしたが、大丈夫だと説得された。警備会社と契約し、防犯カメラもきちんと設置してあるから、念のため作動させておけばいい、と。最近、物騒なニュースも多いから、早めに対策をしておきたかったらしい。私も、定期的に沙子さんを訪ねるようにしますよ。あら、頼りにしてるわ。二人の親友同士の会話を聞きながら、私は心の中で雅夫に語りかけた。最後まで、私たちを守ってくれてありがとう。あなたのおかげで、私たちは幸せな結末を迎えられた。私は何度も、感謝の気持ちを繰り返した。返事はなかったが、線香の煙がまっすぐ立ち上っていく様子を見て、私の気持ちは天国の雅夫に届いている気がした。母さん、これから何かしたいことはある?航のストレートな質問に、私は腕を組んで考えた。そうね。雅夫ときなこと、京都に旅行に行く約束だったの。今度は、一人で行こうかしら。航は、誇らしげな顔をした。いいね。今の時期、京都は混んでるけど、桜は綺麗だよ。そうですね。父さんも、きなこも、桜が好きでしたから。本当?じゃあ、おすすめの場所を教えてあげるよ。会話は弾んだ。外は寒かったが、我が家は温かい空気に包まれていた。

1週間後、航の出発の日がやってきた。空港のロビーで、航は振り返った。母さん、元気でね。航も、気をつけてね。手を振る航を、私は笑顔で見送った。雅夫と私が一緒に育ててきた大切な息子は、今日もこうして前を向いて歩いている。さあ、私もそろそろ家に帰ろう。私も顔を上げ、一歩を踏み出した。これから先、何が起こっても、私は立ち止まらない。いつか雅夫と再会する時、胸を張って報告できるような人生を生きなければ。よし、頑張ろう。空港を出て空を見上げると、今の私の心のように、澄み切った青空が広がっていた。

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