彼女がエレベーターのボタンを押すまで、吉田は動けなかった。
その朝、東京六本木のガラス張りの高層ビル群の一画で、外資系コンサルティングファーム、アクセルパートナーズの本社はいつも通りの緊張感に包まれていた。29階の応接フロアには、最終選考に残った志願者たちが集められていた。全員が一流大学の名前が入ったリクルートスーツに身を包み、分厚いファイルを膝の上に置いていた。
吉田は受付の横でファイルを整理しながら、こっそりと志願者たちを観察していた。彼は人事部の社員としてこの半年間、書類選考の手伝いをしながら、何度も履歴書をはねつけてきた。いや、はねつけたというより、はねつけざるを得なかった。アクセルパートナーズには「学歴フィルター」という不文律があり、高卒の履歴書は見る前からごみ箱行きだった。それは吉田自身も同じだった。彼は短大卒で、この会社で一番低い学歴だった。だからこそ、上層部の目を盗んで、こっそりと高卒の志願者の履歴書を数枚、書類選考に通したことがあった。結果は、人事部長の黒川に一蹴された。
「吉田くん。これはな、コストの問題なんだよ。」
黒川は書類を手渡しながら、まるで形の悪い野菜を見るような顔をした。
「育てる時間も金もない。手のひらの上で転がせる人材が欲しいんだ。高卒で成功した人間がいることは分かってる。それは大企業の予算とブランドが保証してるからだよ。うちみたいな外資の小さな会社が、時間をかけて育てられるほど余裕がないんだ。」
吉田は何も言い返せなかった。言い返すべき言葉が見つからなかったからだ。だから今日、最終選考の応接フロアに、ひときわ小さな人影を見つけた時、彼の心臓は大きく跳ねた。黒のスラックスに清潔な白いブラウス。一人だけ、大学名の入ったスーツを着ていない。丸い目に、きれいに整えられた前髪。小柄な体をまっすぐにして座っている。履歴書の顔写真とは少し違う、緊張とは無縁の凜とした空気感だった。
「早川さん……」
吉田はローテーション表を確認した。早川静か、19歳。高卒。彼女の名前を見つけた時、彼は少し前から胸の中にあった違和感が膨らむのを感じた。むしろ、初めて面接の機会を与えられた高卒の志願者に会って、自分の目で確かめたいという気持ちの方が強かった。
「吉田さん、そろそろ面接始めましょうか。」
黒川が廊下の奥から姿を現した。禿げ上がった頭を脂で固め、外壁用の塗料でも塗ったのかというほど真っ黒なスーツを着ている。彼は吉田の前を通り過ぎざまに、受付の吉田を一瞥した。何の感情もない視線だった。まるで、空気の読めない虫けらを見るかのように。
「今日の面接は俺が一人でやる。外の様子でも見ててくれ。」
吉田は反論したかった。今日の最終選考には、ドイツの投資銀行、ハウザーキャピタルとの大型契約をまとめるための、特別なプロジェクトの話が含まれているからだ。だが、黒川は既に歩き出していた。応接フロアの中央を歩き、志願者たちの横を通り過ぎる。一人、また一人。その視線は、まるでオークションにかけられた家畜を値踏みするように、ゆっくりと流れていく。そして、静かの前を通りかかった時、黒川は足を止めた。数秒の間があった。その間、吉田は自分の息が止まるのを感じた。静かはその視線に気づいたが、目をそらさなかった。ただ、静かに見つめ返していた。黒川は何も言わず、しばらくそうしていたが、やがて無言で応接室の中へ消えていった。
静かは応接室に呼ばれた。吉田は廊下の角から、ドアが閉まる直前の静かの背中を見た。彼女は自分の席に向かって歩きながら、パッと吉田の方を向いた。そして、口元だけで笑った。心を許したというより、ただの気休めのような微笑みだった。
面接が始まった。音を遮断する分厚いドアの向こうでは、何が話されているのか分からない。だが、5分も経たないうちにそのドアが開いた。
「時間の無駄です。」
声のトーンは、意味をなさない説明を聞かされた時のように、穏やかだった。吉田が顔を上げると、もう一人のまだ若い志願者が逆上しながら出て行くところだった。ドアが閉まり、再び静かになった。
「高卒とか、マジありえなくないか?」
隣の席の男が小声で呟いた。吉田は無視した。いや、無視せざるを得なかった。言い返す勇気がなかったからだ。彼は応接室のドアの前まで歩いていって、少しだけドアスコープを覗き込んだ。黒川が椅子に座り、足を組んで何か書類を眺めている。手にしているのは、吉田がこっそりと通したあの履歴書だろう。彼はドアの直前で足を止めた。ノックをしようとした手が、空中で止まる。黒川の背中が見える。吉田は手を下ろし、廊下の壁に背をつけた。何も言わなかった。
「高卒ですね。うちには学歴フィルターがあります。」
黒川の声は、その言葉とは裏腹に、何の気負いもなかった。朗々と響く、スピーチの練習でもしているかのような落ち着き払った声。
「時間の無駄です。お帰りください。」
静かは数瞬間、何か言おうとしたのかもしれない。しかし、彼女はただゆっくりと立ち上がった。吉田がドア越しに身を乗り出すと、静かが深々と一礼をするのが見えた。丁寧に、それでいてビジネスマナーとしての決まりきったものではなく、感謝の気持ちが滲み出るような、心のこもったお辞儀だった。それから振り返ってドアを開けた。その顔は、悲しんでいるようにも見えたし、何かを悟ったようにも見えた。吉田は慌てて壁から離れ、何食わぬ顔で立ち尽くした。静かは廊下に出て、一度だけ吉田を見て、小さく会釈をした。何か言いかけたように唇が動いたが、その声は聞こえなかった。
「あ、あの……」
吉田は声をかけた。何て言っていいのか分からないままに。
「大丈夫……ですか?」
「はい。ご親切にありがとうございました。」
静かは微笑み、エレベーターへ向かって歩き出した。小さな背中が大きく見えた。やがてエレベーターの前で立ち止まり、ボタンを押す。ドアが開き、彼女が中に入ろうとした、その時だった。
「待ってください!」
吉田は思わず声を出していた。静かが振り返る。エレベーターのドアが閉まり始める。吉田は走った。荷物をぶつかるのもの構わず、エレベーターの間に身体をねじ込んだ。
「ひッ……ひとつ……いいですか?」
息を切らしながら言うと、静かは軽く首を傾げた。
「……今日は、何を研究されていたんですか?」
静かは一瞬、きょとんとした顔をしたが、すぐにリュックの中から薄いノートを取り出した。
「あ、これですか? これ、いつも持ってるんです。降りる駅の改札で、このビルの何階からエレベーターに乗るか、窓から見えるビルの数とかを、ずっと数えてるんです。」
吉田は意味が分からず、ただ目を瞬かせた。
「コンサルティングの仕事で、絶対に必要なのは、データと数字だと思ったんです。面接官の目を盗んで、壁に設置されてる温度計の数字とかを、こっそりメモしてました。今日は、今にも雨が降り出しそうな気圧配置だったので、傘を持ってくるべきだったってあとで後悔しましたけどね。」
そう言って、彼女はいたずらっぽく笑った。全くの底抜けに明るい笑顔ではなく、少し照れくさそうで、自嘲気味な笑みだった。吉田は言葉を失った。4分間の面接で追い出された高卒の19歳の女の子が、面接官の一瞬の表情の変化や、外の気候から、その会社の経営状態や街のデータを分析している。そんなことがあるだろうか。
「面接官の右手がずっと机の上で指で叩かれていました。あれは、時間に追われている時の癖です。黒川部長は、面接に来ている人の話を全然聞いていませんでした。多分、次の約束事を考えていたんでしょう。あと、会議室の空気清浄機のフィルターが定期的に交換されていないタイプでした。長持ちさせるには、あれはダメなやつです。経費を削減しすぎてる証拠です」
吉田は呆気に取られた。彼女の言ったことは、一つ一つが合点のいくことだった。彼は思わず、エレベーターの壁に貼ってあるビルの広告を見た。それは、ポスターが綺麗に貼り直されている新しい広告ではなく、古い広告の貼りっぱなしになった、錆び付いた案内板だった。
「もう帰らなきゃ」
静かは笑いながら言った。
「今日のことは、なかったことにしてくださいね」
エレベーターが1階に着いて、ドアが開いた。静かはもう一度だけ会釈をして、エレビの外へ出て行った。吉田は、開いたままのドアを抑えて、そのまま彼女の背中を見送った。
「ねえ、君」
だが、彼女は振り返らなかった。吉田はもう一度声をかけた。
「今日、君が言ってたこと、もっと聞かせてくれないか? 夕方、またここに来ないか? いや、今日じゃなくてもいい。明日でも、明後日でも」
静かは足を止めて、振り返った。今度は、少し困ったような、それでいて興味をそそられたような、複雑な表情を浮かべていた。
「私、今日のアポイントのお詫びに、明日からここに来ようと思ってるんです。探さないでください」
「来るの? どこへ?」
「六本木の、喫茶店に。では」
吉田が驚いて見つめる間もなく、彼女は小さく手を振って、ロビーを横切り、自動ドアの外へ消えていった。吉田は、しばらくそのまま動けなかった。冷たい朝の空気がドアの向こうから入り込んでくる。彼女は言った。明日、ここに来る、と。喫茶店で、と。何のために? 吉田には、明日の何時に、その喫茶店に行けばいいのか分からなかった。いや、分かっていた。彼女は何も教えてくれなかったのだ。だが、彼女の眼は語っていた。明日、ここに来なさい、と。
その夜、吉田は帰宅したアパートの部屋の机の上で、使い古したビジネス書を読み返していた。だが、文字は頭に入ってこなかった。彼の頭の中を占めているのは、早川静かという名前と、エレベーターの鏡に映った彼女のまっすぐな目だった。
翌朝、吉田は早起きをし、期待と不安で落ち着かないまま、近くのコンビニでコーヒーを買った。そして、彼女が言った「六本木の喫茶店」という言葉を思い出そうとした。彼女は正確な店名を言わなかった。だが、マンションの近所の人間からすると、六本木で一番古くからあり、かつては出版社の編集者や作家が集ったことで有名な、あの老舗の純喫茶店のことだと、なぜか確信に近いものがあった。降りる駅の改札から数える、と彼女は言っていた。だから、エレベーターに乗る前に、あのビルの前から電話をしてくるだろうと思った。
結局、昼過ぎにまで何の連絡もなく、意を決して受付に行くと、古びた革張りの椅子に静かが座っていた。吉田は、昨日の面接で見たスーツではなく、落ち着いた紺色のワンピース姿だった。彼女は吉田を見ると、いたずらっぽく笑った。
「やっぱり来たんですね」
「……待ってたんですか?」
「だって、あなたがそうしそうだったから。仕事、辞めないといけなくなりましたよ?」
吉田は言葉を失った。彼女は真夜中、自分の昼間の面接の時よりもずっとリラックスした様子だった。
「コーヒー、おごりますよ。話には乗ります。でも、面接みたいなのは嫌ですよ。私は、あなたの言う“コンサルタント志望”の子を探してるわけじゃないんですから。私に学歴があるかどうか、見定めるために来たんじゃないんです。私は、あなたに本当に面白い顔をして欲しかっただけだから」
その言葉に、吉田は何も言い返せなかった。実際、彼女を雇いたいと思う気持ちと、自分が彼女に追いつけずにいることへの焦りが交錯していた。
「……えっと、じゃあ、どうしたら、あなたに来てもらえますか?」
「まず、私に一度、あなたが考えてる“仕事”を全部見せてください。それで、つまらなかったら、二度と来ません」
一日でも早く、彼女にこの会社の面白さを伝えたい。吉田はそう思った。役員たちに内緒で、彼は彼女を呼び寄せた。翌日から、彼女はここで小さな試験を与えられ、予想以上の冴えを見せた。彼女は、役員たちの関心を一身に集めることになる。
「すごいですよ、あの子。黒川部長のクセを見抜いて、オフィスビルの空き状況から、この辺の賃料相場の将来を予測しちゃったんです。うちの若手じゃ絶対に出てこない目です」
吉田がクライアント企業との打ち合わせの準備をしていると、彼女が自分のデスクから近づいてきた。彼女は吉田の耳元に顔を近づけ、内緒話をするように小声で言った。
「あの会社、ツボですよ。役員室の空気清浄機のフィルターが、全然交換されてない。」
「は?」
「だから、あそこは経費にうるさい会社じゃないんです。それとも、もうとっくに気づいてて、言わない私を試してるんですか?」
吉田は、脂の乗った黒川部長までもがこの新人に一目置き始めているのを感じていた。だが、それと同時に、嫉妬もあった。彼女のアイデアが出る度に、役員たちの目がまるで宝石でも見るように輝く。それが堪らなかった。俺は、何のためにここにいるんだ。数週間後、黒川から呼び出しがかかった。
「吉田くん、彼女を外すことにした。ちょっと、お前のデスクで話がある」
「早川さんを、外す、ですか?」
「才能は認める。だが、あれはつまみきれない。教えてもないことを、教えもないのにやりやがる。私のハンカチの染みから、昨夜の夕食がカレーだったことを見抜いた。ああいうのは、分かってる人間に任せておくのが一番だ。お前の花を持たせてやってもいいと思ったが、出世が遅れるぞ。安心しろ、適当に面倒を見てやってくれ。お前のクビを心配するな、ということだ」
言っている意味が分かった。吉田は、もはや彼女を守る必要はないと知った。そういう人間なんだ。彼は、心の中に広がる暗い感情を必死に押し殺した。
「今日から、俺の部下として来てくれ」
「黒川部長、私、まだ何も決めてません」
「心配するな。言うことを聞けば、悪いようにはしない」
その夜、吉田は自宅の近くの酒場で飲み潰れた。翌朝、出勤すると、静かがこちらを見て微笑んでいた。そして、誰もいなくなった廊下で、彼女は静かに言った。
「警察に届ける前に、一度、上に相談した方がいいかと思って。人事の書類は、私がこっそり取っておいたんです。高卒の子を、使い捨てにする会社があってたまるか」
吉田の顔色が変わる。彼女は続けた。
「体よくクビにして終わるつもりだったんですね。助かりました。あなたが、私に初めて仕事をくれるかと思ってたんですけど、やっぱり。あの、その書類、コピーしてあるんですけど、あなたと、あなたの派遣会社に、送ってもいいですか?」
吉田は凍りついた。彼女は本当に復讐するつもりなのだ。だが、その時、静かは意外な言葉を口にした。
「今日は助けていただいたから、勝負は、明日にしましょう」
そう言って、彼女は自分の書類一式を吉田に差し出した。それは昨夜、吉田が彼女を差し出すと申し出た、まさにその書類のセットだった。
「これは、田辺部長に届ける人事評価書です。私の評価、書いてあります。あなたの部下として働いた成果です。この通り、私はあなたに数字で貢献しました。これで、あなたの価値が分かるはずです。私は、あなたに見込みがあるかどうか、最終面接しているところです」
一瞬にして、吉田の中の何かが吹っ切れた。彼女に支配されていた。じゃなくて、ああ、これだ、と。
「……これは、吉田が、俺が、もらうわけにはいかない」
「吉田さん、あなたが思ってるより、世の中は捨てたもんじゃないですよ。あの人事部長の黒川さんは、あなたが今日から、私の直属の上司になるって言ったんです。私を雇いたいなら、この書類に判子を押してくださいって。あなたが拒むなら、この会社に私の居場所はありません。昨日のことは、もう一度だけチャンスをあげます」
吉田は、差し出された書類を震える手で受け取った。そして、シャツのポケットから印鑑を取り出すと、自分の名前が書かれた欄に押した。
「……よろしくお願いします」
静かはにっこり微笑んだ。
「こちらこそ。吉田部長、今日からあなたの部下です。仕事、教えてください」
それから数日後、警視庁の耐用年数を調査していると噂の黒川部長の元を辞職し、静かは正式に正社員として採用された。そして、その日から、世界的な金融機関が開示する情報を参考に、自らがリサーチした企業の財務状況や投資情報をまとめた小さな会報を、外資系投資家たちに密かに売りさばき始めた。元コンサルタント、協力者、そして新しい時代のロビイスト。彼女は、さまざまな企業や人物から次々と仕事を引き受けるようになった。野心家で知られたコンサルタント、やがては黒川に匹敵するパワーと数々のビジネススキルを身につけ、いつしか彼女の事務所は、名前を出すだけでは話を聞いてもらえない中小企業の、あるいは倒産寸前の企業の「正攻法」の窓口になっていた。彼女は、チャンスをくれた男(吉田)を裏切ったという自責の念と、才能を腐らせたくないという強い思いの狭間で揺れながら、今日もその小さなデスクで、彼女の元を訪れた相談者たちに、誰にも明日が見通せない時代を生き抜くための「視点」を授け続けている。
