「無能が作った資料はゴミね。」
新しく来た女部長に頼まれて作った相談資料を持っていくと、彼女はそれをパラパラとめくり、鼻で笑った。そしてその資料をゴミ箱に投げ込み、上からコーヒーをかけたのだ。
茶色く染まっていく、一生懸命作った資料を見て思わず息を飲む俺。
「やっぱ高卒なんて雇うからダメなのよ。無能。あんたなんて社員として認められない。会議は社員だけで十分ね」
俺は腹の底から怒りが湧き上がってくるのを感じた。見下され、仕事を押し付けられ、もう我慢の限界だった。
しかし、ここで言い争っても何もならないだろう。俺は必死に冷静さを取り戻し、告げた。
「分かりました。じゃあ、俺は社員じゃないということで。帰りますね」
こうして起こった、この出来事。この後まさか、あんな展開が待っているとは、この時はまだ知る由もなかったのだ。
俺の名前は幸村サト。年齢は38歳で会社員をやっている。
俺の務める会社、Tシステムズは企業向けのソフトを自社開発して売る会社だ。俺はそこでエンジニアとして採用された。
1年前からは課長というポジションも任され、張りのある毎日を送っていた。開発部の仕事は忙しかったが、部下もついてきてくれて、周りにも支えられていたのだ。
大学の工学部などを出て入社する人がほとんどであるTシステムズで、俺は高卒で採用されている。
俺が高卒なのには家庭の事情があった。幼い頃に両親が離婚し、母子家庭で育てられたのだ。俺を一生懸命育ててくれた母は体が弱く、あまり働けなかった。だから家計はずっと苦しかった。
高校では理系の特進コースに進み、成績は良い方だった。しかし、大学進学を望む余裕は家計にはなかった。家庭の事情を考え、俺は大学への進学を諦めたのだ。
そして俺は思い切って、フリーのエンジニアとして働き始めた。
高卒で雇ってくれる会社もあっただろう。だが、プログラミングが元々好きだったこともあり、特技を生かして自営業をやってみようと思ったのだ。
最初は小さな案件ばかりだった。だが、少しずつこなしていくうちに、俺はエンジニアとして成長していった。
そしてフリーランスとして働き始めて3年ほど経った21歳の頃、エンジニア仲間からTシステムズの話を聞いた。
「新鋭の経営ソフトの会社であるTシステムズがエンジニアを募集しているぞ」
社長は学歴よりも実力を重視するタイプらしい。採用試験は難しいが、入社できたら恵まれた環境で開発に打ち込めるのだという。
フリーランスの仕事にはメリットもデメリットもあった。好きな時間に働け、自分の裁量で仕事をこなせるが、仕事として安定しないことは間違いがない。
元々人と関わるのも好きだったこともあり、フリーランスの働き方を一旦やめ、会社でも働いてみたいと思うようになった。
こうして俺はTシステムズの採用試験を受けた。
結果はトップクラスの成績。晴れて入社が決まったのだ。
採用を決めてくれたTシステムズの社長、田村氏との面談の場もあった。
「君は随分優秀なエンジニアのようだね」
「社長、ありがとうございます。僕は大学も出ていないのに、採用していただけて本当にありがたいと思っています」
「学歴などは仕事には何の関係もないんだよ。君のこれからに期待している」
こんな社長の元で働けるのも、俺は嬉しいと思っていた。
入社してからは、エンジニアとしてひたすら開発に励んだ。開発部の課長は、そんな俺に目をかけて評価してくれた。
入社10年目には、課長の推薦で主任に昇進。開発以外にもマネジメントなども任されるようになる。
チームのリーダーとしての仕事は、ただ開発していた時と比べて気苦労も多かった。だが、その分マネジメントの面白さも学ぶことができた。
そして37歳になった頃、俺は課長に任命されたのだ。
課長ともなると、開発に関わるだけでなく、相談に出かけたり、お客様と会ったりもする。
その仕事は大変かつ責任重大だったが、信頼できる部長の元で、俺は前向きに働いていた。
しかし今年に入って、ずっと慕っていた部長が家業を継ぐために退職することとなった。
俺は部長との別れを惜しみつつ、感謝の気持ちを伝えて送り出した。
そして数ヶ月後、新しい部長がやってくることになった。
新しい部長による最初の挨拶。
「初めまして。私、胃辛しえ、いや、猪飼と申します。今日からあなたたちの上司になるのよ」
新しくやってきた部長は、50歳くらいの女性だった。
「私はずっと外資系IT企業にいて、管理職をやってたんだけど。上層部からのスカウトを受けて、この会社にやってきたの」
猪飼部長の話を聞き、俺は素直に感心していた。
女性でありながら、誰でも知っている大手外資系IT企業で管理職にまで登り詰めるのはすごいことだ。きっと仕事のできる人なんだろう。
「ちなみに、私は海外の有名大学を出ているのよ。日本は私には狭すぎたのよね」
そこから猪飼部長は、いかに自分が優れているかを語り出す。最初は「すごいな」と聞いていたが、あまりに長いので少々飽きてしまった。
「ということで、これからよろしくね。あ、そうだ。課長たちはこの後、順次面談をしましょう」
ようやく話が終わり、俺は席に戻った。
しばらくすると、別の日の課長から「面談だよ」と声がかかる。会議室に入ると、猪飼部長が俺に座るよう促した。
猪飼部長の前に座り、挨拶をする俺。
「企画開発部の課長をやっております、幸村です」
「はーい。幸村ね。企画開発か。うちの会社にとっても重要な部署じゃない」
猪飼部長は手元のファイルをじっと眺める。どうやら従業員のプロフィールのようだ。
「ちょっと待って。これ、何かの間違い? 学歴が高校卒業になってるんだけど」
「はい、間違いないです。私は高卒で、大学には行っていません」
俺が答えると、猪飼部長はこれみた言わんばかりの顔で吐き捨てた。
「はぁ? 高卒? うそでしょ。なんでそんな無能がうちの会社にいるの? 大体、うちの会社は大手大学を出たエリートしか雇ってないんだけど」
「学歴よりも実力を重視するということで、私はここで働かせてもらっています」
「実力? 笑わせないでよ。高卒の実力なんて知れてるわよ」
その時は、俺は何とか気持ちを抑えてその場を切り抜けた。これが新部長との出会い。最初から相性は最悪だった。
それから数日後、俺は猪飼部長に呼び出された。
「幸村、この資料。今度の相談会で使うから、作っておいて」
そう言って猪飼部長が渡してきたのは、新サービスの相談資料の作成依頼だった。
「分かりました。いつまでに用意すればいいですか?」
「3日後よ。それと、私の指示通り、ちゃんとしたものを作ってきて。無能な資料なんて作ったら承知しないから」
猪飼部長はそう言って、にやりと笑った。
正直、この時は「仕事を任せてもらえた」と思った。だが、それは俺の間違いだった。
3日後の朝、俺は徹夜で作り上げた相談資料を持って、猪飼部長の元を訪れた。
そして、冒頭の場面に戻る。
「無能が作った資料はゴミね」
パラパラと資料をめくった猪飼部長は、即座にそう言い放つと、資料をゴミ箱に投げ込み、上からコーヒーをかけたのだ。
「ちょっと待ってください! 何をするんですか!」
思わず声を荒げると、猪飼部長はこちらを向いてさらに言い放つ。
「何って、ゴミを捨てただけよ。やっぱ高卒なんて雇うからダメなのよ。無能オブ無能。こんなのに給料払ってるなんて、この会社はどうかしてるわ」
「資料には、どこにも不備はないはずです。それに、相談の本番はどうするんですか?」
「資料なら高学歴な新人に作らせたわよ。3日後の相談はそれで望むわ。会議は社員だけで十分ね。あなたは来なくていいから」
そう言って猪飼部長が指を指した先。自分の部署の新人が、肩を窄めながら立っていた。
俺は腹の底から怒りが湧き上がってくるのを感じた。
「なるほど。そういうことですか。忙しい俺に資料を作らせたのも、全てこれをするためだったんですね」
「あら、何か文句あるの? 文句があるなら、さっさと辞めたら?」
「いいえ、もう分かりました。では、俺は作業に戻ります」
俺は大人しくゴミ箱から資料を取り出した。
「そんなことしていいんですか?」
「ええ、もったいないので。一応、取っておきますから。無能には無能なりの役割がありますからね」
「ふん。せいぜい、あなたのためにもならない無能な資料を大事に抱えてなさい」
猪飼部長はそう言って、追い払うように手をひらひらと振った。
俺はその場を離れ、自分の席に戻った。
机に座り、ゴミ箱から取り出したコーヒーまみれの資料を見つめる。悔しさで、握りしめた拳が震えて仕方がなかった。
あの日が、俺のいるべき場所を取り戻す戦いの始まりだった。
それからも、猪飼部長の俺への扱いは変わらなかった。いや、むしろエスカレートしていった。
飲み会の席では、「高卒のくせに」と周りの目も気にせず笑い者にした。会議の場では、俺が話すと「高校卒業レベルの意見ね」と嘲笑した。
部下の前で「無能」と連呼されることも少なくなかった。
それでも、俺には譲れないものがあった。エンジニアとしての誇りだ。
猪飼部長の嫌がらせに耐えながら、俺は開発の仕事を続けた。
そして、そんなある日のこと。
「幸村さん。社長がお呼びです」
部下に呼ばれ、社長室へと向かう。すると、社長室には田村社長と猪飼部長がいた。
「呼びましたか、社長」
「ああ、幸村君。そこに座りたまえ」
言われるままにソファーに腰を下ろす。猪飼部長はこちらを一瞥すると、勝ち誇ったような笑みを浮かべていた。
「何か、私に仕事の話でも?」
「いや。猪飼部長から、お前の最近の仕事ぶりについて聞いたのでな」
社長がそう言うと、猪飼部長が口を開く。
「ええ。社長。ぜひ、お聞きください。この幸村という社員。仕事を全くしないんです。部下に全部任せて、自分は遊んでばかりいるんですよ」
「ちょっと待ってください! 事実無根です!」
「黙りなさい。私は社長と話してるんです」
猪飼部長に一喝され、俺は言葉を失った。
「それで、社長。私の考えとしては」
「いや、待ちたまえ、猪飼君」
田村社長は猪飼部長の言葉を制すと、机の上に一枚の紙を広げた。
「ちょっと見てほしいんだが」
それは、俺が作った相談資料だった。
「これは、確か先週の相談会で使う予定だった資料じゃないですか?」
「その通り。パートナー企業に提出された書類だ。社長、それをどこで」
「猪飼部長経由で、今日の朝に回ってきた。そして、我々の開発部のメンバーが、なぜか日本人経由の取引先へ提出した、と」
田村社長の口調は、静かながら有無を言わせないものだった。
「人違いかと思った。しかし、これは明らかに、うちの会社が開発した新システムの設計図だ。猪飼部長、どういうことか説明したまえ」
「な、何をおっしゃいますか。こんな書類、私は見たこともありません。幸村が、勝手に外に漏らしたのではありませんか?」
猪飼部長は、まるで俺がやったかのように指を差す。
「黙れ!」
田村社長の怒声が響き渡った。
「猪飼部長。お前のことは前々から聞いていた。部下に無能だの、高卒だのと言って、ことあるごとに恫喝していると。パワーハラスメントもいい加減にしろ」
「社長、なぜそうなるんですか! 私は」
「この設計図、既に弁護士を通して、取引先のハッキング依頼をした人間が誰か、調べてある。猪飼部長、お前だろう。この会社の開発部の機密事項を、金で売り渡していたのは」
猪飼部長の顔色が、一瞬で青ざめた。
「そ、そんな、私は! 証拠がなければ訴えますわよ!」
「いいだろう。こちらにも証拠はある。こちらを共有してやろう。まあ、裁判になってもいいなら、ごねてみるといい」
田村社長が手元のパソコンを操作すると、モニターに会話のやり取りが映し出された。そこには、取引先の人間と思しき男と、猪飼部長が金をやり取りする様子が写っていた。
「そ、そんな……!」
猪飼部長は、その場に崩れ落ちそうになった。
「言い訳は十分だ。猪飼。君は、本日付けで解雇だ。荷物をまとめて、すぐにこの会社から出て行ってくれ」
こうして猪飼部長は、あっけなく退場していった。
「……で、どうする?」
田村社長は、そう言って俺を見つめた。
「どうするとは、どういうことで?」
「新しく、部長を雇わなければならないんだがな。私としては、お前に部長をやってほしいと考えている」
「俺が……自分が、部長を? 俺は高卒で、この前まで」
「学歴なんて、関係ないだろう。私はいつもそう言っているだろうが。それに、お前の作った資料は、いつも社長を唸らせていたじゃないか。この度の相談資料もそうだ。私はお前を、無能なんて思ったことは一度もないぞ」
田村社長の言葉に、温かいものが込み上げてきた。
「ただし、だ。よく考えてほしい。部長になれば、猪飼の二の舞のはずはないが、責任も重くなる。今までのように、部下と一緒に難しいなことから逃げるわけにはいかないぞ」
「逃げるつもりは、ありません。社長、俺を、私を、部長にしてください!」
「うむ。では、正式に決定だ。よろしく頼むぞ、部長」
田村社長は、嬉しそうに笑った。
「あの、社長。一つ、よろしいですか?」
「なんだ?」
「一つ、提案があります。無能が作ったと馬鹿にされた、この資料。一緒に役立ててみたい光景があるのですが」
俺は、ゴミ箱から救い出した、コーヒーの染みが残る相談資料を取り出した。
「なんだ、その資料は。捨てればいいだろう」
「いや、これも何かの縁なんで。この資料を、新部署の初仕事に使わせてもらえないでしょうか。ここに書いたデータは、今でも自信があります。取引先に提案してみたいのです」
「ふむ……。面白い。確かに、それは使えるかもな」
田村社長は、ふっと笑うと、顎に手を当てて考え込んだ。
「よかろう。お前の力を見せてもらおう。ただし、コーヒーの染みは消しておけよ」
「はっ!」
俺は、何年かぶりに心から笑えた気がした。
こうして、俺の新人部長としての日々が始まった。
初めての部長としての仕事は、何もかもが手探りだった。部下に指示を出すことも、相談に行くことも、すべてが初めてのことだ。
リーダーとしての責任は重く、失敗もした。しかし、どんなに壁にぶつかっても、あのゴミ箱に捨てられる日々が、馬鹿にされた日々が、今の俺を作っている。
もう二度と、無能と蔑まれることはない。いや、されないように、これからも努力を続けていくのだ。
高卒の俺が、ここまでの地位に上り詰めたのだ。この誇りを胸に、俺は自分の道を歩いていく。
今日も俺は、開発部のエンジニアとして、新たな相談資料を作るためにパソコンに向かうのだった。
