妹が私の会社に入社するらしい。その知らせを聞いたのは、本当に偶然だった。
あの日、母からかかってきた一本の電話。何年も連絡を取り合っていなかった私のスマホに、見知らぬ番号が表示された。正直、出ようか迷った。私に連絡をしてくる人なんて限られている。それでも何かの用事かもしれないと思い、恐る恐る出てみると、相手は母だった。
私が実家を出て一人暮らしを始めたあの日から、母とも姉とも連絡を絶っていた。だからスマホに登録すらしていなかった母の番号。懐かしいというより、ただ気まずいという感情が先に立った。
「美春、し子が結婚したのよ」
開口一番、母が放った言葉がそれだった。久しぶりの電話の第一声が、姉の結婚報告。おめでとう、と言葉が出そうになって、でも出なかった。姉とまともに話した最後の日を思い出していたからだ。
あの日、私は勇気を振り絞って姉に電話をかけた。母から姉の結婚の知らせを聞かされたとき、心のどこかで“これで変われるかもしれない”と思ったのだ。大人になれば、昔みたいに喧嘩ばかりしていた関係も、少しはマシになるかもしれない。本ばかり読んでいた暗い子ども時代を経て、私は自分の会社を立ち上げるまでになった。それなのに、いつまでも子ども扱いされるのは嫌だった。
でも、現実は違った。
「はい、どちら様?」
数コールで出た姉の声は、私の声を聞いても警戒したままだった。私が電話番号を知らなかったように、姉も私の番号を知るはずがない。名前を名乗ると、姉は少し間を置いて、それでも嬉しそうでもなんでもなく、ぶっきらぼうに言った。
「ああ、美春か。なんだ、お母さんがわざわざあんたにまで教えたんだ」
「おめでとう、聞いたよ。お祝いを言いたくて……」
「お祝い? 結婚式に出るって言うの?」
「いや、そういうわけじゃなくて、何か欲しいものとかあったら……」
「あんたみたいな暗い人間が結婚式に来たら、せっかくの式が台無しになるでしょ。こっちから招待するつもりもないし、絶対来ないで」
「わかった、行かないよ」
「もしお祝いしてくれるって言うなら、ご祝儀だけ送ってくれればいいから。お金なら受け取ってあげるわよ」
鼻で笑いながらそう言う姉。その言葉を聞いた瞬間、私は何も言えなくなった。せっかく勇気を出して電話をしたのに、この仕打ち。昔からそうだ。私は姉にとって、ただの“見下す対象”でしかない。姉から結婚式の招待状が来なかったのは言うまでもなく、私が行くつもりもなかったのは言うまでもない。それからまた、自然と姉との縁は切れた。
今はそれでいいと思っていた。私は私の人生を生きている。家と職場を往復する毎日だけど、大好きな本を読みながら、自分の好きなことを仕事にしている。それだけで十分だった。
私の会社は、AI技術を専門に扱う小さな会社だ。もともと人と話すのが苦手で、自分からコミュニケーションを取ることもできないまま大人になってしまった。中学生の頃には不登校になり、高校に行くことも諦めた。家に引きこもって、ただ好きな本だけを読む日々。家族からも“暗い子”と思われていて、特に姉からはひどいことを言われたものだ。
「おい、暗いオタク、ご飯だよ」
「うん、今行く」
「わぁ、声小さすぎて聞こえなかった。あんた、本当に存在感ないね」
こんな言葉が日常茶飯事だった。明るくて社交性的な姉とは正反対の私は、そのたびに心の中で傷ついていた。悔しくて、でも何も言い返せない自分が情けなかった。そんな中で私が救いを求めていたのは、本の世界だった。物語の中では、私みたいな人間だって活躍できる。誰かと話すのが苦手でも、自分らしく生きられる。その思いだけが、私の心の支えだった。
好きなことを仕事にしたい。その思いだけは決して折れなかった。本を読みながら、誰にも頼らず独学で勉強した。プログラミングを覚え、AI技術の研究を独学で続けた。理系の知識なんてほとんどなかったけれど、好きなことへの興味は誰にも負けなかった。どんなに難しい本でも、読むことは苦ではなかった。むしろ夢中になれた。
そんな努力が実って、私は独立して会社を立ち上げた。技術はあっても、人との付き合いは相変わらず苦手だったから、社長なんて私に務まるのか不安で仕方なかった。でも、不思議なものだ。私の会社には、私と同じように人と話すのが苦手な人ばかりが集まってきた。みんなパソコンやテクノロジーが大好きな“オタク”ばかりで、私は彼らとすぐに打ち解けることができた。
「ねえ、これのコードなんだけど」
「あ、それ、僕も気になってました」
「この本、面白いよね」
「読んだ読んだ! 最高だよね!」
他の人と働くのは初めての経験だったけど、彼らと話すのは不思議と苦じゃなかった。専門用語だらけのマニアックな話に花が咲き、他の人には理解できないようなことで盛り上がる。世界には、こんなに面白い仲間たちがいたのか。そう思えたことが、私を少しだけ変えた。
引っ込み思案で、暗くて、いつもひとりぼっちだった私が、今では会社の社長として皆を引っ張っていく立場になった。活動的になったとは思う。陽の光を浴びることも増えたし、知らない人と話すことも増えた。充実した毎日だ。あの頃の私が想像もできないくらいに、今の私はちゃんと“生きている”。
そんなある日、母から電話がかかってきた。今度は姉の結婚の知らせではなく、何か別の用事だろうか。スマホに表示された名前を見て、嫌な予感がした。
「美春、し子もね、落ち着いたんだってよ」
「……はあ」
「あんたもいい年でしょ。そろそろ結婚とか考えなさいよ」
「うん、まあ……」
会話が続かない。母は昔から私の話なんて聞いちゃいない。姉ばかりをかわいがって、私のことは暗い子だと思っていた。そして今日もまた私の近況なんて聞きもせずに、次の用件だけを伝えてきた。
「そうだ、し子がね、あんたの会社にその……転職、するかもしれないんだって」
「は?」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。姉が私の会社に入社する? それはないだろう。私は家に引きこもって本ばかり読んでいた暗い人間だ。自他ともに認めるコミュ障だ。そんな私が社長をやっている会社に、社交的で冴えないところなんて一つもない姉が来る?
「お母さん、それ、本当?」
「ええ? だから、し子がね、あんたの会社に自分のコネで入れるって言ってるんだよ。すごいでしょ。あなたも知り合いが社長の会社だったら、安心でしょ?」
「いや、それは……」
「じゃあ、あとは自分で連絡しなさいよ。お姉ちゃんなんだから、ちゃんとお祝いもしてあげなさいね」
そう言って、母は一方的に電話を切った。私はそのままの体勢で、しばらくスマホを眺めていた。
姉が私の会社に入社? ありえない。というか、私と姉はもはや他人も同然だ。私はあの日、姉に「ご祝儀だけ送ってくれればいい」と言われて絶望し、それ以来連絡を取っていない。姉も私に対して何も思っていないはずだ。
それなのに、どうして? 私の会社は確かに成長している。でも、それはAI技術が専門の小さな会社だ。給料が飛び抜けて高いわけでもないし、誰でも入れるわけでもない。むしろ、処遇に不満がある人ならともかく、姉みたいなエリートの東大卒には、もっといい会社がいくらでもあるはず。
私は何か聞き間違えたのかと思って、同じ電話番号にかけ直すのも面倒だった。おそらく母は適当なことを言ったに違いない。そう思って、その話は流すことにした。
しかし、数日後。私は信じられない光景を目の当たりにする。
「お会いできて光栄です。〇〇と申します」
会議室に現れたのは、見覚えのある姿だった。髪をきれいにセットし、高級そうなスーツを着こなした女性。まるで雑誌から抜け出してきたかのような洗練されたその姿は、間違いなく私の姉だった。
「……どうして、あんたが」
私の声は、情けないくらい小さく震えていた。それを見て、姉は嫌な笑みを浮かべる。
「あら、美春。久しぶりね。お母さんから聞いてなかった? 私、この会社で働くことになったのよ」
「ちょっと待って、どういうこと?」
「どういうことも何も。人事部に履歴書を送ったのよ。そしたら、見事に採用が決まってね」
姉はそう言うと、私の顔をじっと見つめた。その目は、私を全力で見下している。子どもの頃、いつも私に浴びせていたあの視線だ。
「あんたが社長で、私が平社員になるわけ? 冗談でしょ。こっちはね、少しでもあんたの顔を立ててあげようと思って、わざわざ入社してあげたんだからね」
「顔を立てる? 私、そんなお願いした覚えはないけど」
「ふん、やっぱりあんたは何も分かってないわね。私はこれからどうやってあんたを契約で辞めてやろうか、それとも貶めてやろうか楽しみにしているところよ」
血の気が引く思いがした。姉が私の会社に来たのは、単に私を貶めるためだ。これまで一度も私と対等に話したことのない姉が、私が社長になるなんて許せないのだろう。
「私ね、美春。ずっと思ってたのよ。あんたは家で本ばかり読んでる暗い人間だって。それが急に外に出て会社を興したって? ふん、滑稽じゃない? ねえ、本当に何かの間違いでしょ。東大卒の私が、中卒のあんたに使われるなんて」
「……出て行って」
「え?」
「出て行けって言ってるの! これ以上あんたに負けるくらいなら、私は会社を辞めるわよ!」
私の言葉には、ただの脅しでもなんでもなく、本心が込められていた。実際、私は社長に立候補した時点で、この会社で働く覚悟を決めていた。たとえ自分が崩れても、技術だけは誰にも渡したくなかった。でも、姉には到底敵わない。何をしても、姉には敵いっこない。
その場の雰囲気に気圧されたのか、姉は小さく鼻で笑うと、ゆっくりと立ち上がった。
「……ふん。勝手にすれば。どうせあんたの会社なんて、すぐに潰れちまうんだから」
そう言い残して部屋を出ていくだけだと思った。だが、姉は扉のところでピタリと立ち止まり、振り返って続けた。
「あ、そうだ。せっかくだから言っておくけど、私はあんたの会社に残るわよ。あんたが辞めろって言ったってな。辞めるならあんたの方。私はここで成果を挙げて、あんたの会社を乗っ取るつもりだから」
「……なに?」
「親のすねをかじって引きこもってた人間に会社が経営できると思うなよ。見てなさいよ、すぐに追い出してやるから。お祝いはちゃんとご祝儀で貰ったからね」
そう言って、姉は高笑いしながら出ていった。
私はその場に立ち尽くすことしかできなかった。気づけば机に手をつき、何度も大きく息を吸っていた。震えは止まらなかった。
あの日、私が会社を作ると決めた時から、何かが変わった。もう昔みたいに、誰かに見下されるだけの日々は終わりにしたかった。好きな本を読んで、好きなことを学び、それを仕事にする。たったそれだけで、私は十分幸せなのだ。
それなのに、なぜいつもこうなんだ。どうして私は、姉という名の呪いから逃れられないんだろう。
何もかもが嫌になって、その日は早退した。マンションの自室に戻って、本棚に並ぶお気に入りの小説を眺めた。これまで何度も救われてきた物語。でも、今日ばかりはその言葉が胸に響かなかった。
翌日から、姉は会社に来るたびに大声で文句を言った。社員みんなの前で「どうせ私がいなきゃ、この会社は回らないのよ」と豪語する。新人にもかかわらず、私の仕事を勝手に奪い、周りを振り回した。気の弱い部下たちは次々と私の元を離れていった。私が仲良くしていたあのオタク仲間たちも、少しずつ私の前に顔を見せなくなった。
「あの女のせいで、みんなやめちゃったよ」
「まあ、しょうがないって。あれだけ毎日のように攻撃されてたら……」
「でも、美春さんが可哀想だよ。自分から何かしてきたわけでもないのに」
廊下から聞こえてくる声に、私は胸を締めつけられた。確かに、姉が来てから会社は確実に傾き始めていた。優秀な社員はみんな辞めていき、残っているのは私だけ。結局、私は何もできずにいる。
そうしているうちに、会社に残った社員は私を含めて数人だけになっていた。もはや会社と言える規模ではない。契約も打ち切りになり、収入も激減した。それでも私は、会社を畳もうとは思わなかった。負けたくなかった。
ある夜く、私はオフィスで一人、今後の方針を考えていた。すると、机の上に置いてあったスマホが震えた。画面には、姉の名前ではなく、母の名前が表示されていた。
「もしもし」
「美春! ちょっと、あんた! 何てことをしてくれてるの!?」
怒り狂った母の声に、私は思わず受話器を耳から離した。
「し子から聞いたわよ。あんた、し子に社長の椅子を奪われるのが嫌で、色々と足を引っ張ってるんだって? 情けない! あんたが自分の力で作ったものは何もないんだから、し子に譲るのが筋でしょ!?」
「……お母さん、何を言ってるの? 私が会社を守ってるんだよ」
「嘘を言わないで! し子は泣いてたわよ。あんなに努力してるのに、あんたに嫌がらせばっかりされて可哀想だって!」
何が“泣いてた”だ。私だって昔、何度も泣きそうになった。あの姉に言われた言葉の数々を、私は一生忘れない。それなのに、母はいつも姉の肩ばかり持つ。
「……もう切るよ」
「ちょっと美春! まだ話は終わってない!」
「さようなら」
通話を切ると、私はまたパソコンに向かってタイピングを再開した。心の中は静かだった。これ以上傷つくことはない。もう姉にも母にも、何も期待していないから。
結局、あれから数週間が経った。会社を辞めると言った社員が出たのは、その翌日のことだった。
「美春さん、すみません。うち、限界かもしれないです」
「わかってる。今までありがとう」
「美春さんは、どうするんですか?」
「私は……私はまだ、諦めないよ。たとえ一回、全部失ったって、また一から始めるだけだから」
そう言って私は、彼に向かって笑ったつもりだった。その言葉は、私自身に向けたものだった。
それから私は、オフィスの机に置きっぱなしだった、あの分厚い本を手に取った。リュックに詰め込むと、新品の名刺入れと一緒に、会社のドアを後にする。外はもう夕暮れで、オレンジ色の光が街に広がっていた。
私の歩幅は、どこか軽かった。もう何も怖くない。
大好きな本を読んで、好きなことを仕事にする。あの頃と何も変わらない、私の生き方。それはたぶん、これからもずっと変わらない。
泣き言を言うのは、そろそろやめにしよう。
今日からまた、私は私のために本を読もう。
その積み重ねが、いつかきっと自分を強くしてくれるのだから。
