あの日、林の中で迷子になった瞬間、俺の人生は大きく変わった。小学四年生の夏、家族で温泉旅行に来ていた俺は、カブトムシを探して夢中で森の奥へ入り込み、気づいた時には帰り道が分からなくなっていた。「お父さん、お父さん」と何度叫んでも返事はなく、心細さで涙が止まらなかった。そこへ現れたのは、見知らぬ土地には似合わない派手なギャルの女子高生だった。「どうしたの?こんなところで」その声に安心して、俺は…

あの日、林の中で迷子になった瞬間、俺の人生は大きく変わった。小学四年生の夏、家族で温泉旅行に来ていた俺は、カブトムシを探して夢中で森の奥へ入り込み、気づいた時には帰り道が分からなくなっていた。「お父さん、お父さん」と何度叫んでも返事はなく、心細さで涙が止まらなかった。そこへ現れたのは、見知らぬ土地には似合わない派手なギャルの女子高生だった。「どうしたの?こんなところで」その声に安心して、俺は...

子供の頃、年に一度だけ家族で行く温泉旅行があった。その旅行先で俺は迷子になった。必死に走り回って、たどり着いた場所で一人の女子高生に出会った。そのおかげで無事に家族の元へ戻ることができた。不安な時に彼女の優しさが嬉しくて、そのまま忘れられない人になった。

「あいつはもうここにいねえよ。生意気な不良だから追い出してやったんだ」

俺は片山集平、二十四歳。妻のひな子は六歳年上の三十歳。俺たちはついこの間結婚したばかりの新婚だ。彼女と結婚するまでの道のりは簡単ではなかった。

ひな子との出会いは、俺が幼い頃に遡る。俺は両親と妹の四人家族。特に裕福でもない、ごく普通の家庭に育った。年に一回は家族で温泉旅行に行っていたが、俺が小学四年生の時に訪れた先で事件は起きる。

そこは自然が豊かな温泉地で、虫が大好きな俺のために父が計画してくれた場所だった。俺たち家族は割と都会に住んでいたから、虫はあまりいない。それに虫取り網なんか振り回していたら人に引っかかるくらいの人混みだらけ。虫なんて見かけないし、カブトムシやクワガタは買うものだと思っていた。

でもテレビではカブトムシやクワガタを林で取っている映像を見て憧れたんだ。それ以来、カブトムシが取りたいと父に訴えていた。そうして小学四年の時に行った温泉旅行。旅館の隣には大きな林があって、時々猿も出てくるという。そんな環境、ワクワクしないわけがない。

旅館に着くなり、俺は虫取り網を持って外に飛び出した。父は慌てて俺を追いかけて来て、一緒に散策しようとしたが、ついてきた妹がトイレに行きたいと騒ぎ出し、再び旅館に戻っていった。もちろん父は俺に待っているよう言ったが、テンションが上がっていた小学四年の子供がそれを守れるはずがない。俺は早くカブトムシを取って父に見せたかったのだ。

家でカブトムシが好む木というのをネットで調べてあったから、一人でできる気になっていた。そんなもんだから俺は夢中になってカブトムシがいそうな木を探した。子供だった俺は、知らない土地だということも忘れ、林を奥へ奥へと進む。だけどそう簡単には見つからなかった。必死で木を眺めながら、足元を見て進む。

俺の必死な思いが通じたのか、カブトムシを三匹ゲット。満足した俺は旅館に戻ろうと振り返るが、分からない。あれ、どっちから来たんだっけ? 急に不安になり、怖くなった。見渡す限りの林で、旅館は見えない。勘を頼りに歩いてみたけど、林の出口にたどり着けなかった。

「お父さん、お父さん」

何度も呼んだが、返事は帰ってこない。そしてまた勘を頼りに歩く。カブトムシなんてどうでも良くなるくらい怖かった。しばらく歩くと、少しだけ明るいところが見えて、そこに進んでいくと道路に出たんだ。俺は少しほっとした。でもここは自然豊かな田舎。都会のように誰かしらが道を歩いているわけではない。俺は怖くなって泣けてきた。このまま家族に会えなかったらどうしよう。

泣きながら歩いていると、俺の背後から誰かに声をかけられた。

「どうしたの? こんなところで。あんた、この辺じゃ見ない子だね」

振り返ると、制服を着たギャルがいた。これが俺とひな子の出会いだ。綺麗な茶髪に派手なネイル。なんとなくこの風景には似合わないギャルだ。でも心細かった俺は安心して、さらに泣いてしまった。

「迷子になっちゃった。カブトムシを探して林の中を一人でどんどん歩いてたら、帰り道が分からなくなっちゃったの」

俺がそう言うと、彼女は言った。

「マジそれ大変じゃん。安心しな。私がなんとかしてあげるから、泣かないの」

そう言って、笑顔で俺の頭を撫でた。

「この林は結構猿が出るから危ないよ。猿に会わなかった? 」

「うん、猿はいなかった」

「そっか。良かったね。猿は追いかけてくるから、可愛く見えても食べ物とかあげちゃだめだよ。で、何て旅館に止まってたか分かる?

Thumbnail

ひな子はスマホを取り出して検索を始めた。

「名前は分からないけど、茶色い建物だった」

俺がそう言うと、

「そりゃそうだよね。名前なんて分からないよね。じゃあ写真見て思い出してよ。これはどう? 」

そう言って旅館の写真を出してくれる。俺が違うと言うと、次から次へと出してくれて、六枚目で俺が止まる旅館が出てきた。

「これ、こんな感じの窓があったと思う」

「マジ? すごいじゃん。よく覚えてたね」

そう言って俺の名前を聞くと、旅館に電話をかけた。どうやら館の方では俺がいなくなったとちょっとした騒ぎになっていて、すぐに話が通ったようだ。場所を確認すると近くだったから、ひな子さんが送ってくれることになった。

「それにしても、よく歩いたね。林が繋がってるにしても、かなり距離があるよ」

ひな子に旅館を見つけてもらえてほっとしたのか、すごく足が痛くなってきた。俺がゆっくり歩いていると、突然ひな子がしゃがみ込んだ。

「ほら、おいで。お姉ちゃんがおんぶしてあげるから」

この頃の俺は痩せがひどくて、ガリガリに痩せているもやしっ子だった。ひな子は優しさで言ってくれたのだろうけど、十歳の俺は照れ臭くて仕方がなかった。こんな姿を見たが、

「赤ちゃんみたいって言ったら嫌だな」

そんなことを考えて少し躊躇した。

「あそこにコンビニがあるでしょ。あそこまでおんぶしてあげる。私、力持ちだから大丈夫だよ」

そう言って微笑む。俺はひな子の背中に乗った。ひな子が指さしたコンビニは、登り坂を三百メートルほど進んだところにある。そこに着くまで、ひな子はずっと背中の俺に話しかけてくれた。

「何年生なの? 」

「四年生」

「四年生か。それで、カブトムシは取れた?

「うん、取れた。でも林に返してきた」

「え、せっかく取れたのに。なんで? 」

「本当は持って帰りたかったけど、そんなことしたらカブトムシの家族がバラバラになってかわいそうだから」

俺がそう言うと、

「優しいんだね。そうだよね。きっとカブトムシのお母さんも喜んでいるね」

コンビニまでそんな話をしていた。

「喉乾いたでしょ? ジュース買ってあげるよ。大冒険したから、お疲れ様会だね」

そう言って、ひな子はジュースを買ってきてくれた。ジュースを渡してくれたひな子の手にはキラキラのネイルと、手にハート型のアザがあった。

「あ、ハートだ」

俺の言葉に、ひな子はにっこりと微笑む。

「これね、可愛いでしょ。結構気に入ってるんだ」

そう言って、照れ臭そうにした。それから十分ほど歩くと旅館に到着した。

「もう一人で行けるよね。私はここで帰るね」

高校生のお姉さんが俺をおんぶして歩いた上り坂も、そこそこだった。あのお姉さん、どうしてるかな。年下はやっぱり無理ですか? そう聞かれたのは、ずっと後の話だ。

あれから時が経ち、俺は二十四歳になった。ひな子とはあの日以来、偶然にも何度か顔を合わせる機会があった。近所のコンビニで、駅のホームで、そして最後には、あの時と同じ温泉地で。彼女はあの日から俺にとって、特別な存在だった。だから再会した時、俺は迷わず気持ちを伝えた。六歳も年上の女性に、必死になって。

「ひな子さん、俺と結婚してください」

ひな子は驚いた顔をした後、ゆっくりと笑った。

「こっちこそ、よろしくお願いします」

俺たちは結婚し、今は新婚生活を送っている。ひな子は今でもあの時と変わらず、優しい笑顔で俺に接してくれる。たまに俺が風邪をひくと、あの時のように背中におんぶしてくれることもある。三十歳になったひな子の背中は、あの日よりもずっと温かくて、そして頼もしかった。

夜、二人でテレビを見ながら、ふとあの日の話になることがある。

「ねえ、あの時さ、本当は林の中まで入って行かないで、ちゃんと待ってれば良かったんだよな」

俺がそう言うと、ひな子は首を振る。

「あの日があったから、今の私たちがいるんでしょ。あの迷子にならなかったら、きっと出会ってなかったかもね」

そう言って笑うひな子を見て、俺は思う。あの日、林で迷子になったことは、決して不幸なことじゃなかったんだって。あの時カブトムシを取って、林に返して、そして出会ったのがひな子だった。あの日、ひな子におんぶしてもらった道のりが、今の俺の人生の始まりだったんだ。

「お前、あの時カブトムシを取った後、よく林に返したよな。本当は持って帰りたかったんだろ?

ひな子が茶化すように言う。

「うん。でも、カブトムシにも家族がいるからな。俺と同じで、いなくなったら困るだろ? 」

「ふふっ、そうだね。あの時はそう言って、本当に優しい子だと思ったんだよ」

俺たちは同じソファに座って、コーヒーを飲みながら話す。結婚してからも、二人の時間はいつも穏やかで、あの日林で出会ったことを忘れることはない。ひな子の手にあるハート型のアザを見ると、いつもあの日のことを思い出す。

まだ俺が十歳の頃、カブトムシを探して林の中で迷子になった。泣きそうになりながら、誰かを探して歩いた。そして出会ったのが、あのギャルのお姉さんだった。茶色い髪に派手なネイル。でも、その手はとても優しくて、温かかった。

「ねえ、また夏になったら温泉行こうか」

ひな子が言う。俺はうなずいた。

「あの旅館にするか? 俺の迷子の思い出の」

「もう、まだ言ってるの。今度こそ迷子にならないでよ? 」

「大丈夫だよ。今はひな子が一緒にいるから」

そう言って笑い合う。あの日、林で迷子になっていなかったら、きっと出会わなかった人。それがひな子だ。あの日、ひな子に出会えたことが、俺の人生にとって一番の偶然で、そして一番の幸せだった。

窓の外では、もうすぐ夏が始まる。今年もまた、あの林でカブトムシが鳴いているんだろうな。あの時は怖かった林の中も、今では大切な思い出の景色になっている。ひな子の隣で、あの日の話をする。それが俺の、何よりもの幸せな時間だ。

「なあ、ひな子」

「何?

「ありがとう。あの日、林で拾ってくれて」

ひな子は少し驚いた顔をして、それから柔らかく微笑んだ。

「どういたしまして。また迷子になったら、ちゃんとおんぶしてあげるからね」

「もう、俺も大人だって。でも、もし迷子になったら、その時はおんぶしてよ」

「ふふっ、絶対だからね」

俺たちはまた、寄り添ってテレビを見る。あの日から何年も経って、俺は大人になった。ひな子と結婚して、あの日よりもずっと幸せになった。それでも、あの時感じた優しさは、今もずっと忘れていない。ひな子の背中は、あの日も今も、変わらず温かい。

今夜も、ひな子の手にあるハート型のアザを見ながら、俺はそっと目を閉じる。あの日、林の中で迷子になった小さな俺と、笑顔でおんぶしてくれた高校生のひな子。その二つの姿が、今の俺たちを作っているんだと思う。

そして、俺は心の中で誓う。ずっと、ひな子を大切にしよう。あの日の恩を、これから一生かけて返していこうって。そう思える相手に出会えたこと。それが、俺の人生で一番の幸せなんだ。