病院の廊下に消毒液の匂いが漂っていた。私は午前中から待っていた。もう八時間は経っていただろう。あの日、息子の勇人から「孫が生まれた」と連絡が来たのは、夜明け前のことだった。私はその瞬間、何もかも放り出して病院へ駆けつけた。初めての孫。生まれたばかりの命。私はその小さな体をこの腕に抱くことを、想像するだけで胸が張り裂けそうだった。
ところが、だ。
ガラス越しに見えたのは、生まれたばかりの孫が保育器の中で眠っている姿だった。私はその姿を見て、思わず笑みがこぼれた。小さな手。小さな顔。私は早く抱きたくて、看護師さんが来るのを待っていた。そんな私に、嫁の綾乃が声をかけてきた。
「お母さん、赤ちゃんには触れないでください」
その言葉に、私は一瞬、何を言われたのか分からなかった。触れないで? 「神聖実質のガラス越しに」なんて言われたのは、初めてだった。
「綾乃さん、私、手を洗ってきたんだけど……」
「いえ、そうじゃなくて。お母さん、赤ちゃんの免疫のことを考えて、しばらくは私たち夫婦以外は触れないようにしているんです。ごめんなさい」
綾乃は申し訳なさそうな顔をしていた。確かに、最近は感染症への配慮が必要だということも分かる。私だって、古い考え方の人間ではないつもりだ。私は深く頷いて、ガラス越しに孫を見つめることにした。
その三十分後のことだった。
廊下の向こうから、賑やかな声が聞こえてきた。振り返ると、そこには綾乃の両親が立っていた。花束を抱えて。にこにこと笑いながら。そして、私が目を疑うようなことが起こった。
「おじいちゃん、おばあちゃん、こっちですよ。赤ちゃん、見てください」
綾乃は満面の笑みで、自分の両親を神聖実質へと案内した。そして、その次の瞬間には、綾乃の母親が孫を優しく抱き上げているのが見えた。
私は自分の目を疑った。いや、疑うまでもなかった。何もかもが現実だった。
「どうして……」
私の声は、かすれてうまく出なかった。なぜ私だけが? なぜ私だけが孫に触れることを許されないのに、綾乃の両親は自由に抱いているのか? その日から、私と勇人たちの間に、見えない壁ができ始めた。最初は感染症対策という理由だった。でも、それは次第に形を変えていった。
「お母さん、今日は赤ちゃんの機嫌が悪いので、また今度にしていただけますか?

」
綾乃からの電話は、いつも同じような内容だった。私は孫に会いたい一心で、事前に連絡を入れてから息子の家を訪ねるようにしていた。でも、実際に会えることは稀だった。そして、会えたとしても、抱かせてもらえることはなかった。
ある日、勇気を振り絞って、息子の家を訪問した時のことだ。
玄関のインターフォンを押すと、綾乃の両親の姿があった。そして、綾乃の母親の腕の中には、私の孫がすやすやと眠っていた。
「あら、お母さん。今日はどうされたんですか? 」
綾乃は、慌てたような表情を浮かべた。
「綾乃さん、今日は孫の顔を見せてもらえないかと思って。あの、赤ちゃん、見せてくれませんか? 」
私は、勤めて冷静にそう言った。すると綾乃は、困ったような顔をして、こう言ったのだ。
「お母さん、申し訳ないんですけど、手を洗ってきていただけますか? それと、できれば除菌スプレーも使ってください」
私は言われた通りにした。丁寧に手を洗い、除菌スプレーも使った。そして、いよいよ孫を抱こうとすると、綾乃は慌てて私を止めた。
「ごめんなさい、お母さん。やっぱり、もう少し待ってください。赤ちゃんがびっくりしちゃうといけないので」
その時、綾乃の母親が口を開いた。
「あら、神経質ね。私なんて、毎日抱っこしてるけど、何も問題ないわよ」
その言葉に、私は凍りついた。綾乃の母親は毎日抱いているのに、なぜ私だけが制限されるのか。孫の顔を見ただけで、こんなにも遠ざけられなければならないのか。
「お母さん、私、何か気に触ることをしてしまったでしょうか?
」
私は勇気を出して、綾乃に直接尋ねた。
「いえ、そんなことはないんですけど……」
「じゃあ、なぜ? なぜ、私たちだけが触れないの? 」
綾乃は、少し困ったような顔をして、こう答えた。
「お母さんって、ちょっと古い考え方じゃないですか? 子育ての常識も、昔とは違いますから。でも、私も勉強していますし、最新の育児書も読んでいるんです」
「私だって、育児について口出しをしたことは一度もないと思います」
「ええ、そうかもしれません。でも、お母さんの言うことって、なんか押し付けがましいと言うか。うちの母は、もっとさりげなくアドバイスしてくれるんです」
押し付けがましい。その言葉が、私の胸に突き刺さった。私は、これまで何も口出しをしていない。ただ、孫を抱きたい、一緒に過ごしたいと思っているだけなのに。
それでも、綾乃の言うことも一理あるのかもしれない。私は古い考え方の人間なのかもしれない。でも、私の中の何が古いというのだろうか。
さらに、追い打ちをかけるような出来事があった。
ある日、SNSで投稿されている写真を見つけた。そこには、綾乃の両親と一緒に、楽しそうに過ごす息子の家族の姿があった。「ジジババと楽しい休日」というコメントとともに。
私はそこに写っている息子の笑顔を見て、胸が締め付けられた。そこに、私の存在はなかった。まるで、最初からいなかったかのように、彼らは家族としての時間を楽しんでいた。
コメント欄には、「素敵な家族写真ですね」「おじいちゃん、おばあちゃんも幸せそう」といった言葉が並んでいた。私は、その写真を指でなぞりながら、涙が止まらなかった。
私も、おばあちゃんなのに。
そして、決定的な出来事が起こった。
孫の一歳の誕生日パーティーのことだ。私は一ヶ月前からプレゼントを用意し、ケーキの予約もしてあった。勇人たちに何かサプライズをしようと、心を躍らせていた。
ところが、前日になって綾乃から連絡があった。
「お母さん、明日なんですけど、ちょっと都合が悪くなってしまって。また改めて日程を調整させてください」
私は残念に思いながらも、了承した。確かに、急な予定の変更もあるだろう。私は「分かったわ。また連絡を待ってるからね」と言って、電話を切った。
しかし、翌日。
綾乃のSNSを見て、私は言葉を失った。盛大な誕生日パーティーの写真がアップされていたのだ。綾乃の家族、友人たちに囲まれて、楽しそうに過ごす孫の姿。誕生日ケーキを前に、にこにこと笑う家族。そこに、私の居場所はなかった。
私は、その場に立ち尽くした。涙が止まらなかった。
孫の誕生日パーティーから除外された。その事実が、あまりにも悲しかった。私は、何のために生きてきたのだろう。勇人を育てるために、必死で働いてきた。朝から晩まで働き、塾にも通わせ、大学にも行かせた。それは、勇人の将来のためだと思っていたからだ。
勇人が生まれた時、私は初めて自分の子どもを持った喜びを知った。病院のベッドで、小さな勇人を抱きしめながら、私は誓った。この子は絶対に幸せにする。絶対に私が守る、と。
夫を早くに亡くし、私は女手一つで勇人を育ててきた。周りの人たちの助けを借りながら、何とかここまでやってきた。勇人が風邪を引いた時は、仕事を休んで付き添った。学校の行事も、何度も仕事を休んで参加した。勇人にとって、何が幸せかを常に考えてきた。
「母さん、僕、将来は必ず恩返しするから」
そう言ってくれた勇人の言葉を信じて、私は生きてきた。どれほど大変な時期でも、その言葉があれば乗り越えることができた。
それなのに。
初孫の誕生という、人生の最大の喜びの瞬間に、私は仲間外れにされている。その悲しみに、私は心が張り裂けそうだった。
ショックから立ち直れないまま、私は勇人に電話をかけた。もう限界だった。真実を聞かなければ、前に進めないと思った。
「勇人、ちょっと話があるの」
「母さん、どうしたの?
急に」
電話の向こうの勇人の声は、いつもと変わらない調子だった。それが、かえって悲しかった。
「今まで話せなかったこともあるんだけど、聞いてほしいの」
「母さん、何かあったの? 」
「勇人、私はあなたに育てられた。あなたのことを誰よりも大切に思ってきた。昔から、あなたが幸せになることが、私の幸せだった。でも、なぜ? なぜ、私たちが孫に会うことができないの? 」
沈黙が流れた。
「母さん、そんなことないよ」
「じゃあ、なぜ?
なぜ、綾乃さんの両親は孫を抱けるの? 私は毎日、楽しみにしているのに。一度くらい、抱かせてくれてもいいじゃない? 」
「お母さん、ちょっと、落ち着いてください」
「落ち着いてなんて言われても、私は……」
「お母さん、息子に会いたい気持ちも分かります。でも、綾乃にも考えがあるんです。赤ちゃんのことを思ってのことです」
「私が、古い人間だと言いたいの? 」
「そういうことじゃなくて……」
「勇人、あなたは私が言っていることが分からないかもしれない。でも、昔から私は思っていることがあるの。一番大切なことは、家族が笑顔でいられることだと。お互いに支え合って生きていくことだと。なのに、私は……私は何のために頑張ってきたのか分からなくなってしまった」
電話の向こうで、勇人が何か言いかけた。でも、その続きを聞くことはできなかった。
「それなら、もういいです」
私は電話を切った。
涙が止まらなかった。スマートフォンの画面には、終了した通話時間が表示されていた。私はその場にうずくまって、しばらく動くことができなかった。
数日後、私は勇人から連絡をもらった。
「母さん、ごめん。話を聞いてくれてありがとう。母さんの気持ちも、少し分かった気がする」
その声は、どこか疲れているように聞こえた。
「綾乃とちゃんと話したよ。母さんにも孫に会ってもらうよ。でも、最初は短い時間から始めよう。お願い」
私は、その言葉を聞いて、涙が溢れた。
「ありがとう、勇人」
「母さん、僕こそごめん。これまで母さんを悲しませてしまって。本当に、ごめん」
私は首を横に振った。
「いいのよ。私こそ、あなたに育てられて思ったの。親は子どもの幸せを願っている。でも、子どももまた、自分の幸せを願っている。それが、一番大切なことなんだなって」
数日後、勇人の家に招かれた。玄関を開けると、綾乃が立っていた。少し気まずそうな顔をしながらも、私に言った。
「お母さん、中に入ってください。今日は赤ちゃんがご機嫌なんです」
私は微笑んで、中に入った。ソファに座り、手を洗い、ゆっくりを部屋の中に入った。
すると、そこには、昨日までの私の悲しみが嘘のように、ぽかぽかとした陽だまりの中に、私の孫がいた。
抱っこしてもいい?
と私が尋ねると、綾乃は微笑んでうなずいた。私は、おそるおそる、その小さな体を抱き上げた。
息をのむほどに柔らかく、温かい。赤ちゃんの心地よい重みが、私の腕にしっくりと馴染んだ。私は、その小さな体を胸に抱きしめ、じっと顔を見つめた。
「おばあちゃんですよ。初めまして」
その時、赤ちゃんが目を開けて、私を見て、にこっと笑った。私とよく遊んでくれる時の笑顔だった。
私は、その笑顔に、先ほどの悲しみがすべて報われたような気がした。
「この子は、私の孫です」
私は、自分に言い聞かせるように、そうつぶやいた。
後日、勇人が私を食事に連れて行ってくれた。綾乃も子どもを連れてきて、家族一緒に食事をした。私は、目の前の温かい料理と、家族の笑顔を見て、つい「こんなことを言うのも、おかしいけれど、幸せな時間を過ごせて、嬉しい」と、ぽつりと言うことができた。
すると、勇人が言った。
「母さん、本当にごめん。自分のことで精いっぱいだった。でも、母さんの気持ちも、分かっているつもりだ」
「もういいのよ、勇人。私の方こそ、孫に会いたくて焦っていたの。子育てのことは、綾乃さんに任せるわ。でも、たまには、このバアバにも、孫と遊ばせてね」
綾乃が、笑いながらうなずいた。
「お母さん、お願いします」
その言葉は、今日一番温かい響きだった。私は孫の頭を、そっとなでた。小さな、柔らかい髪が、指に絡まる。
孫の成長は早い。あっという間に大きくなる。私は、この温かい感触を忘れないために、今日という日を大切に生きていこうと思った。
夕暮れが近づく頃、私は勇人の家を後にした。玄関で、孫が見送ってくれた。その姿を見て、私はふと、昔、幼い勇人が「行ってきます」と手を振ってくれたことを思い出した。
私は手を振り返しながら、笑っていた。胸のつかえが、ふっと下りていた。
たとえ、すれ違うことがあっても、私は勇人たちの家族を愛し続けるだろう。そして、その家族の一員として、孫を見守り続けていく。それが、母として、そして、おばあちゃんとしての、私の幸せなのだから。
その夜、私は、勇人から送られてきた一枚の写真を見た。今日の夕方、私が孫を抱っこした時に、勇人が撮ってくれた写真だ。そこには、私と孫が写っていた。
私はその写真を、携帯電話の待ち受け画面に設定した。
「この子が、私の宝物」
私は、そうつぶやいて、そっとタブレットを閉じたのです。