息子のり太が海外出張で家を出てから、まだ三十分も経っていない。私は玄関まで見送って、「行ってらっしゃい」と手を振ったばかりだった。あの時、嫁の裕子は確かに微笑んでいた。だが、タクシーが角を曲がって見えなくなった瞬間、裕子の表情が一変した。冷たく尖った目で私を見ると、「リビングに来てください」と低い声で言ったのだ。何が始まるのかも分からず、おそるおそるソファに腰を下ろす私を、裕子は立ったまま見下ろしてきた。
「お母さん、いつまでり太に寄りかかっているつもですか。施設を探しました。来週には入ってください」
その言葉が耳に入った瞬間、私は自分の耳を疑った。三十年近く真面目に書店で働いてきた私が、なぜこんな言葉を浴びせられなければならないのか。裕子の口からは、次々と信じられない言葉が紡ぎ出された。
「お母さん、いくら何でも息子の家に居候して恥ずかしくないんですか? いい歳して」
私は自分の置かれた状況を必死に説明しようとした。だが裕子は、私の言葉を一切受け付けない。
「私はまだ、夫の竜二と二人でちゃんと暮らしていたのよ。り太が結婚して、一緒に住むようになってからも、生活費は入れてきたじゃない」
「そんなの、たかが知れてますよ。書店員のパートなんて、安い月給でしょ」
その言葉に、私は言葉を失った。二十八年間、誇りを持って続けてきた仕事だった。毎朝、立ち寄ってくれるお客様が「知恵さん、今日もいい本を選んでくれたわね」と言ってくれるたびに、この仕事に誇りを感じてきた。それなのに、裕子の目には、私はただの価値のない老いぼれにしか映っていないのだろうか。
「現実を見てくださいよ。もう七十歳近いんでしょ? 働き続けられると思ってるんですか?」
「私はまだ六十八歳よ。現役で働いてるわ」
「働ける働けるって言うけど、いつまでその若造みたいな考え方してるんですか。同世代の人は、きちんと年金で優雅に暮らしてるんですよ。なんでお母さんだけ働いてるんですか」
年金で優雅に。確かに夫の竜二は、定年後も再雇用で仕事を続けている。私も事務のパートから書店員に転職して、ずっと働いてきた。それは裕子が言う通りだ。だが、それがなぜ「恥ずかしい」ことになるのか。なぜ、その働き方を否定されなければならないのか。
「私、ちゃんと自分で稼いでるわ。生活費だって毎月五万円入れてるし、食材も買ってる」
「五万円? それで足りると思ってるんですか? 家に入れてる五万円と食材代。それだけで、食費光熱費がカバーできるとでも? お母さん一人増えるだけで、水道代も光熱費も跳ね上がるんですよ。その分、こっちは負担してるんです」
「じゃあ、もっと多く入れるわ。十万円でも十五万円でも」
「お金の問題じゃないんです! お母さんの存在そのものが重荷なんです!」
存在そのものが重荷。その言葉が、私の心に深く突き刺さった。私は確かに、自分という人間が丸ごと否定されたような気持ちになった。ここまで言われるような覚えはないのに、自分の存在全てを否定されたような気がしたのだ。
「お母さん、自覚してください。もう若くないんですよ。これからどんどん体も弱って、介護が必要になる。うちにはその面倒を見る余裕なんてありません」
「そんなこと言ったって、私はまだ健康だし」
「いつまで健康でいられると思ってるんですか? 来年か再来年か、そのうち介護が必要になる。そうなったら、完全にうちの負担になるんです。今のうちに、施設に入ってください」
「でも、まだ私は働けるし……」
「もう言い訳はいいです!」
裕子は私の言葉を遮ると、テーブルに分厚いパンフレットを広げた。施設のパンフレットだった。どうやら下見は済ませているらしい。写真には、明るい二世帯風の建物と、笑顔のお年寄りたちが写っている。
「ここ、どうですか? 月十五万円で入れますよ。ちゃんと介護の資格を持ったスタッフがいますし、ここにいるよりずっといいですよ」
「裕子さん、落ち着いて。お願いだから、ちゃんと話を聞いて」
「聞くことなんて何もありません。もう決めたことですから」
「ちょっと待って。り太は何て言ってるの? り太に相談したの?」
私は最後の藁にもすがる思いで、息子の名前を出した。り太は、私を追い出したいなんて思っていないはずだ。幼い頃から優しい子だった。結婚してからも、何かあるたびに気遣ってくれた。そんな息子が、自分の母親を施設に追い出そうとするはずがない。
「もちろん、り太にも相談しましたよ」
裕子は、あっさりと言った。私の心臓が跳ねる。
「え?」
「だから、言ったでしょ。り太もずっと悩んでたんです。どうやってお母さんを説得しようかって。今回の海外出張、わざわざタイミングを見計らって、私に頼んでいったんです。俺がいない間に、ちゃんと母さんに施設の話をしてくれって」
嘘。嘘だ。そんなはずはない。あのり太が、私を追い出そうとしているなんて。昨日だって、出張先から「母さん、体を大事にしろよ」って言ってくれたばかりなのに。私が作ったおにぎりを、嬉しそうに頬張ってくれたばかりなのに。
「お母さん、現実を受け入れてください。もう誰も、お母さんのことなんて必要としてないんですよ」
誰も私を必要としていない。その言葉は、これまでの人生で受けたどんな傷よりも深く、私の心に突き刺さった。二十八年前、竜二が亡くなった時も、私は立ち直れないほど悲しかった。だが、目の前の裕子の言葉は、それ以上に私を打ちのめした。自分が存在していること自体が迷惑だと言われる。これほどつらいことはなかった。
「お母さん、申し訳ないけど、来月末までには出て行ってください。書類はもう用意してますから」
裕子はそう言ってパンフレットの端に施設の電話番号を書いて、私の前に差し出した。私は、その用紙を見つめながら、必死に言葉を探した。だが、喉の奥で何かが詰まって、何も言い出すことができない。
その夜、私は一睡もすることができなかった。リビングのソファに横たわりながら、二十八年間の思い出が走馬灯のように頭の中を巡る。確かに、これまで私は家族のために働いてきた。だが、それは誰のためでもなかった。私は、自分の人生をちゃんと生きてきたつもりだった。そのつもりで、胸を張ってやってきた。
しかし、考えてみれば、確かに確かな節はあったかもしれない。この家に来てから、私は何となく裕子に遠慮しながら暮らしていた。台所の使い方にも口を出さないようにして、洗物を取り込む場所や、食事の時間の決まり事も、すべて裕子の指示に従ってきた。それが「馴染もう」という努力だったつもりだ。
するとふと、あることを思い出した。三年前に夫の竜二が他界した時、彼は残りの人生を穏やかに過ごそうと切り替えて、会社を辞める準備をしていた。だが、その矢先の急な病気で、何もかも中途半端なまま散ってしまった。私はその時、竜二の分まで、しっかり生きなければと思ったのだ。
そして翌朝、私はソファから体を起こすと、押し入れの奥から、夫の形見の木箱を取り出した。そこには、ラミネート加工された書類と、住宅ローンの完済証明書、そして預金通帳が入っていた。
私はそれらの書類を机の上に広げ、改めて目を通した。確かに、私はここ数年、月々の生活費として五万円を家に入れてきた。だが、それは裕子が言うような「重荷」を背負わせるためではない。私なりに、ちゃんとやりくりして、自分で生活を支えるための算段をしていたからだ。
私は、通帳をめくって、ある数字を確認する。そこには、私が定年前から少しずつ積み立ててきた、小さな額ではない数字が並んでいた。私の預貯金は、現在で一千八百万円を超えている。ただし、これは私が一人で作ったわけではない。夫の生命保険金と、私が長年働いてきた年金保険、そして何より、両親から受け継いだ土地が関係している。
私は、去年、その土地を売却した。両親が田舎に残していた土地だった。誰も住まなくなって何年も経っていたので、手放すのは心苦しかったが、将来のことを考えたのだ。その時に手にしたお金と、私の長年の貯金を合わせて、一千八百万円になった。
私には、年金も月十八万円近くある。竜二の遺族年金と合わせれば、裕子が考えるほど困っていない。しかし、私はそれを表に出さなかった。いや、出せなかったのである。息子夫婦と一緒に暮らし始めてからも、私は書店のパートを続けることで、自分の足で立っていたかった。息子に迷惑をかけたくなかったのだ。
それが、かえって大きな誤解を生んでしまった。裕子から見れば、私は年金も当てもなく、今にも倒れそうな老いぼれに見えたのかもしれない。しかし、私は、自分一人で十分に生きてこられる。それを知ってほしかった。
私は、机の引き出しからクリアファイルを取り出すと、中の書類を一つひとつ確認していく。これまで裕子が私を責めるたびに、私は言葉を飲み込んできた。だが、今日でそれは終わりだ。隣の部屋から、ひそひそと話し声が聞こえる。り太が帰ってきたらしい。
私は、クリアファイルを手に立ち上がる。リビングの扉を開けると、ちょうどスーツケースを廊下に置いたところのり太と目が合った。
「母さん、ただいま。出発が早くて、邪魔にならない時間に帰ってこれたよ」
「おかえり。もう帰ってきたのね」
「ああ、少し早めに切り上げて。……母さん、顔色が悪いけど、大丈夫か?」
その瞬間、隣から裕子が割り込んでくる。
「お母さん、ちょうどいいところに。り太にもちゃんと話があるんですけどね」
「ああ、そのことか。俺も、裕子から聞いたよ」
私は、り太の顔を見つめる。息子は、目をそらしながら後ろ頭に手をやった。
「母さん、すまない。俺も、裕子と色々と話し合ってたんだ。母さんのためにも、施設でゆっくりした方がいいんじゃないかって」
「……り太、お前、本気で言ってるのか?」
「母さん、年齢を考えたら、無理もできないだろ。俺たちも、母さんが無理して働かなくてもいいように、ちゃんと面倒をみるからさ」
私は、そっと目を閉じた。そして、持っていたクリアファイルを、テーブルの上に置いた。
「り太。お前は、今イギリスの取引先に出世払いで買収の話を進めてるだろう? 前の会議で取りやめになったんじゃないのか?」
り太の顔色が、見事に変わる。
「は? 何で、それを……母さん、どうして知ってるんだ?」
「知ってるも何も、あんたの会社の同期の母さんと、買い物仲間なんだよ。そろそろ潮時だと思ってるって話は、この前聞いたばかりだ」
「ち、違うんだ、母さん。それは……」
「違わなくていい。私は、本当のことを言ってるんだよ、り太」
私はテーブルに置いた通帳を開くと、裕子の方へと滑らせた。
「裕子さん。貴女は、私が生活費も入れられない、貯金もない老いぼれだと思ってたかもしれないけど、私はこの歳でも、自分の年金と、自分の働きで、ちゃんと暮らしていける算段はしてるんだよ」
通帳を見た裕子の顔色が、さっと変わる。私は、続けて言う。
「裕子さんが言う通り、私は歳を取って、いずれ施設のお世話になるのかもしれない。でもそれは、勝手に決めることじゃない。私が決めることだ。そして、私はまだここで暮らしたいとは思ってないよ。昨日の話、一週間待ってくれ」
「何を……」
「り太の仕事が一段落つくまで、猶予が欲しいって言ってるんだ。ちょうど一週間後の、金曜日。その日に、私は家を出て行くよ」
「……本当ですか?」
「ええ。ただ、その代わり、取り敢えず卑屈になるのはやめてほしい。私は、誰の重荷にもなっちゃいない」
私は、クリアファイルの下から、一枚の書類を引き出した。そこには、私の名前と、私の全財産が記載されていた。
「裕子さん。私と話したいことがあったら、来週の金曜日までに言ってきなさい。私は、この通り、自分のことは自分でやってる強い婆さんだから」
私は、はっきりとそう言い放つと、通帳をしまい、ゆっくりと立ち上がった。
「今は、こんな老いぼれに構わないで、り太の帰りをゆっくりと祝ってやりなさい。いい一日だったんだろ? な?」
り太は、何か言おうとして、口を開けたり閉じたりしていたが、何も言えずにいた。私はそんなり太を見て、軽く苦笑した。
一歩進むたびに、私の足音は力強く、リビングに響いた。今まで、ここで深呼吸する度に嘘をついていた気持ちで、やりきれなかった。でも、今日は違う。次の金曜日、この家に別れを告げるとき、私はまっすぐに目を見て言える。私は、何も間違っていなかったのだと。
そして、金曜日を迎えた。
私はトランクを一つ、玄関に置き、最後に荷物をまとめる。すると、後ろからバタバタと足音がして、はぁはぁと息を切らせた裕子が飛び出してきた。
「あ、あの……お義母さん!」
「どうしたんだい、そんなに慌てて」
「その、や、やっぱりおかしいです。そんな、急に出て行くなんて……」
「約束しただろう。もう、お前たちに迷惑はかけないって」
「そんな、書類だって、全部見ましたし、その、ちゃんと自分で生活できるんですか?」
「ゆう子さん。私は、この通り、貯金もあるし、年金もある。心配しなくても、あの世の竜二のところで、ちゃんと隣でやっていくからさ」
そう言うと、裕子の目に涙がにじむ。私は微笑み返して、そのまま玄関を出ようとした。すると、後ろからり太の声が響いた。
「母さん!」
「なんだい」
「……ちゃんと、謝れなくて悪かった」
「謝ることないさ。お前は、お前で一生懸命やってきたんだから。母ちゃんは、それだけのことをちゃんと見てたよ」
私は、シンプルに一つの笑顔を返した。
「り太、お前は優しい男に育ったな。裕子さん、ちゃんとこの息子を支えてやってくれ」
それだけ言い残して、私はドアを開けた。春の風が、頬を柔らかく撫でていく。
「あの、本当に後悔は……ないんですか?」
振り返ると、玄関口に立つ裕子が、不安そうな顔でこちらを見つめていた。
「後悔? できることなら、もう二十年早く、こうして自分の人生を歩き出せばよかったよ。孫の顔も見たいけど、たまには、息子夫婦の顔も見にくるからさ」
それが、私の最後の冗談になった。
私はそのまま家を出て、ある方角へと歩き出す。振り返らずに。真っ直ぐ、未来へと続く道を。今度こそ、誰の重荷にもならない生き方を、自分で選ぶために。
行き先の一つは、私が長年働いてきた書店の前だった。あの日、店長にかけた言葉を思い出す。定年なんて関係なく、まだあの本棚を整理したい。それが、私の新たな一歩目の足音になった。
それは裏テーマで、重い見送りだ。
こうして私は、誰の助けも借りずに、自分の人生を歩き始めた。少しずつ新しい街にも慣れ、朝はカーテンを開けてコーヒーを淹れ、縁側の日だまりで読書をする。息子と嫁は、何度か顔を見せに来た。そのたびに、私はにっこりと笑って、出した古いアルバムを眺めながら、長い間一緒に紡いだ風景の中に、初めて見つめた「知恵」という名の人生を、静かにかみしめていた。
